箱庭3







10 涙
「待ってよすみれさん、送っていくよ」
「別にいいわよ」
「意地張らないの。夜怖いんでしょー」
「あのねぇ!子供の夜泣きみたいに言わないでくれる、あたしはもう――」
「はいはい。どうせ同じ方向じゃない」


街中がサンタを迎えるクリスマスムード一色に染まる。
煌びやかなメインストリートにはお馴染みのクリスマスソングが流れ
街路樹に巻き付いた黄金色のイルミネーションが無数の煌めきを灯し、とっぷりと暮れた師走の夜空を茄子紺に染め上げていた。
この季節、都会の夜は、眠らない。


休日ではないのに、黒だかりの人の群れがごった返す中を、二人並んで歩く。
今からこの混雑具合だとすると、イブ当日はどれほどの賑わいになるのか。
考えるだけで空恐ろしいものがある。

街路樹や電灯に装飾されているモミの木のオブジェや赤と緑のリボンが、来たる聖夜のお祭りを待ち侘びていた。
それが過ぎれば、今年も終わりである。


「このシーズンに、職場の男女で歩くことの虚しさが分かる?」
「その職場の同僚にディナー集ったの誰」
「正当な対価よ」
「雪乃さんも高く付いたな」
「青島くんがここに居る意味が疑問よ」
「いーじゃない。みんなで楽しくごはん。美味しかったね~」
「ちゃっかりしてるわね。女子会に男一人混ざって。溶け込めるスキルにびっくりよ」
「独り身の方が虚しさ倍増」
「・・・相手にも因るわ」
「俺じゃ駄目なのね」


ワザと眉尻を下げ、がっくりと肩を落として見せる青島に、すみれは苦笑を漏らした。

この場合、どっちもどっちである。
カレカノでなくとも、イブを楽しみに出来る雪乃だけが、果報者だった。

青島は基本、無条件に人に優しい。
悪戯に気持ちを逆撫でる事は言わないし、日頃から謙譲な性質で話をする。
その柔らかい雰囲気が、周囲の警戒心を解かせ、何か放っておけなくさせる無邪気さがあるのだと思う。


すみれの柔らかな笑みを見た青島が、トトンとステップを踏んで、すみれの前に立ち塞がった。
いつものモッズコートがひらりと風に舞う。


「どうせなら楽しんじゃおうよ」
「え?」


呑みすぎた酒が、思考を弱らせ、二人の距離をいつもよりちょっぴり近付ける。
ここは、職場じゃない。
青島の瞳が、少年のようにキラリと意味深に光った。
すみれの腕を軽く支えるようにして誘導し、駅に向かう道から逸れる。

青島には元々、警戒心とか空間距離が人より狭く、甘えるようなスキンシップを見せることがあるから
こうも簡単に何かに熱中した瞳を向けられると、それこそ距離感が掴めない。
正に少年のように無垢で、ドキリとさせられる。
全てを見透かされるような、全てを与えてくれるような。
極自然な男の仕草で腕に触れられ、すみれの心臓が高鳴った。


「ちょっと何処行くの!」
「ほらさっき、雪乃さんが言ってたじゃない。この通りの向こう側から公園にかけてライトアップが続くって!ツリーまであるって!」
「ああ・・・言ってたわね」
「行ってみよ!」
「えぇっ」


すみれを振り返りながら足早に跳ねる様子は、まるで子供だ。
ふわふわとコートが翻る。

目尻を細めてすみれが青島を仰ぎ見る。


「ちょっと青島くん!きっと人混みよ!」
「なら、手でも繋ぐ?」
「・・・っ、馬鹿言ってんじゃないわ」

一歩先で青島がポケットに手を突っ込んで、総身を金色に縁取らせ、振り返る。
その挑発的な蒼い瞳に捕らわれる。

「・・・っ、・・何よ、人混みくらい、どうってことないわ。刑事舐めんなよ~」





*:*:*:*:



「ほんとにカップルばっかりね」
「・・・すみれさん、人じゃなくて上を観なよ・・・」


顎を逸らせば、先ほどよりも豪華なイエローやパープルのイルミネーションが星々の煌めきのように頭上で瞬き、辺りの空気まで黄色の星砂のように散りばめて いた。
アスファルトまで紫水晶の如く光が反射し、まるで別世界だ。
歩行天となっているらしく、雪乃の話では情報誌などでイルミネーションスポットとして記載される程、有名で
そのせいなのだろう、親子連れから外国観光客まで、年齢層も幅広い人波が、有象無象していた。


「こういうのを誰かと一緒に見たって言うのも、また記憶になっていくのよね・・・」
「おぉ?元カレと来たことあんの?」
「来てない」

すみれは青島との今のこの時間のことを言ったつもりだったが、青島の方はそうは取らなかったようだった。
人垣が更に増えた歩道を、寄り添うように、二人、並んで奥へと歩いていく。
不思議なもので、見せられる幻想の世界に、気分まで優しくなってくる。
この夢幻が一時だけということを知っている儚さは、ほんの少しの切なさを伴った。


「またまたぁ。俺との今日もその思い出の中に加算してね」
「・・・するわよっ」

ちょっと目を見開いた青島が、すみれを見降ろしながら嬉しそうに笑う。



メインストリートを何ブロックか他愛ない会話をしてゆっくりと歩いていくと、やがて大きなレモンイエローに輝くクリスマスツリーが表れた。
ビルのエントランスに設置されたそれは、クリスタルガラスが散りばめられ、純潔と神聖さを思わせる壮大な形象で
厳かに聳え立つ。


「すっげぇ・・」
「こういうのって電気代幾ら行くんだろうね・・・」
「ちょっとっ、もう少しロマンティックなこと言ってよ」
「じゃあ、もうちょっとムード作ってよ」
「俺のせい?」
「こういうのは男の役目!」
「あ、すみれさん、スタバがある」

足を止めてぼんやりとツリーの巨大さに呑まれていると、青島がすみれの袖をくいっと引っ張った。
どう?という仕草で親指を指し示し、小首を傾げている。


「奢り?」
「可愛くないこと言わないの。・・・・クリスマスですから?男に華持たせてよ」
「随分ささやかな男気ですこと」
「安月給の成せる宿命」
「あたしキャラメルマキアート」
「了解。ちょっと待ってて」
浚われんなよ、と戯言を吐いて、青島が店へと向かう。


すみれはそれを、不思議な気分で見送った。

いつものモスグリーンのコートを着て、いつもの声で話しかける青島は、職場で見る彼と同一人物なのに
クリスマス・マジックだろうか。今日は一人の男に見える。
二人きりで、仕事でもない時間を過ごせていることが、単純に嬉しかった。青島の時間を独占出来ていることが。
二人きりで外を歩くなんて、数え切れないほどあったのに。


幻惑の世界に二人きりという空間が、妙にすみれの中の女を意識させ、青島に異性を想う。
多分それは、この場の雰囲気と、それから、すみれの気持ちの問題ではなく、青島の心境に起因すると、すみれは考える。

いつもは巧妙に隠されている隙が、今夜は少し透けている。
何か縋る者を欲しているような、湧き立つものを堪えているような、少年の荒削りのような幼い脆さが、人恋しさを滲ませ
他者に付け入る隙を与えている。
それを、すみれには気付いてほしくはないのだろうということも。

すみれは両手を口元に当てて、はぁぁと白い息を吐いた。





珈琲の湯気が、白く立ち昇る。
冷え切った指先が、カップの熱を心地良く感じさせた。


「その後、室井さんとは仲直りできた?」
「仲直りって・・・。別に喧嘩した訳じゃないから。フツー」

そこに敢えて明答を避けられたことで、すみれは状況の暗転を察する。


この間、会議の最中に室井がわざわざ迎えに来ていたが、その後の青島には思ったほどの変化は見られなかった。
急ぎの用事か仕事の話だったのだろうか。
それ以後も、相変わらず俯いていることが多く、少し、元気がない。・・・多分、ちょっと痩せた。
その分、今夜の女子会で、久しぶりに楽しそうな笑顔を見れたことが、すみれを少しだけ安心させた。
今なら、聞けそうだった。


「もう・・・・変わらないの?」
「変わらないよ。今も昔も。この場所から遥か雲の上を見上げているよ。いままでどおりに」

こくんと、カップを口に運ぶ。
闇夜に浮かぶ灯をを映す青島の瞳は、蒼く深く、遠くを映す。

余りに表通りの人の波が酷いので、道を外れ、ワンブロック隣の、街路樹を囲う煉瓦に並んで腰を下ろしていた。
樹木に撒かれたイルミネーションライトが、キラキラと珈琲に星屑を灯す。


「青島くんはさ、室井さんのためにそうすることを決めたのよね」
「・・・・うん」
「それについて、室井さんは何て言ってた?」


さり気なく、視線を外し、クリームを舐めながら問い掛ける。
冷え切った夜風が、ほろ酔いだった頭を明瞭に組み替えていく。
お互い刑事だ。
取り調べは、意識した方が、負けである。


「別に・・・・。君には君の人生があるとかナントカ」
「なにそれ。何でそんな突き放した言い方すんの?室井さんは、青島くんがいなくなっても良いものなの?」
「俺に聞かれても。・・・まあ、表立って何か出来る訳じゃないしね」
「表じゃなくたって裏だって、重要人物でしょ。男同士のどんなヤラシー約束があったのかは聞かないけどさぁ。・・・そんなもん?男の友情って」
「ヤラシーって・・・」

脱力した青島が情けない視線を向ければ、すみれが不満げな表情でぷくりと赤い頬を膨らませる。


「室井さんは青島くんのおかげでここまで来れたのよ」
「そんなことはないよ」
「青島くん合っての室井さんでしょ。お礼も感謝もなしでバイバイ?」
「別にそんなの要らないよ」
「引き留めるくらいしてほしいわ。っていうか、青島くんのキモチ、全然伝わってないんじゃないの」
「そんなことはないと思うけど・・・・。うん、でも、そうでも、いいんだ」
「どうしてよ。一緒に頑張っていくんじゃなかったの?」
「そこは変わらないよ。でも、そこに友情や愛情は要らないでしょ本来。信頼だけあればいい」
「信頼が、何の情もなく成立するとでも思ってんだったら、失笑するわよ」
「・・・・・」

青島が困った顔ですみれを見れば、すみれもまだ脹れっ面のままで青島を見た。
その眼は、どうしようもなく、哀しみに濡れている。


「酷いよ、室井さん・・・・」
「うん・・・でも・・・・。すみれさんは・・・・、室井さんがその言葉をどんな顔で言ったのか、知らないから・・・」
「――・・・・」


目の前に果てなく続くイルミネーションの渦が、迷宮のような夜の闇へ、奥へ奥へと真っ直ぐに続いていく。
人々の雑踏が、底なし沼に引き込まれそうな話題を、辛うじて世間話の様相に変えてくれた。


「あのムッツリは、口じゃなくて眉間で語るのよねぇ・・・」

そっぽを向きながらすみれが肩で大きな溜息を吐いた。





長い沈黙が続いた。
手元の珈琲はすっかりと冷め、苦みを遺したそれを、ごくんと飲み干す。


「でも、本音は厭なんでしょう?」
「別に・・・。仕事に個人の本音も我儘もないでしょ」
「あたしは青島くんの気持ちを聞いているの」

「――・・・・、すみれさんだって、本音、話してくれないくせに」


ふと視線を合わせてきた青島の夜の空を映す瞳に、すみれは息を呑む。
少し、声色も変わったことも、雰囲気の違いを悟らせた。

さっき思ったことを、ここで再認識する。
彼は、男なのだ。
今、すみれの目の前にいるのは、職場の同僚じゃなくて、一人の男性で
そして、すみれは一人の女だった。

踏み込んではいけないラインが黄色く点滅している。ずっと潜在的に知っていた、一線。
今それが、急速に膨らみを増して目の前を覆う。
思わず、息を殺した。


「知りたい、の?」
「聞いたら応えてくれんの?」


暫しの針のような沈黙の後、こくんと喉を鳴らし、濡れたような口唇を揺らして、すみれの方が先に視線を外した。
土壇場で怯えてしまったのは、多分、青島の眼の色のせいだ。
いつもと違う、深い闇の色をしている。
男の、瞳だ。

黄色い一線を、青島だって気付いていただろうに、今は戸惑いが隠されている。
それがすみれを余計にざわめかせた。
踏み込む気、なのだろうか。
踏み込まれたら、あたしは・・・



遠くに微かに聞こえるクリスマスソングのBGMが別のメロディに変わる。
チロリと横目で盗み見れば、青島はそのまま正面のイルミネーションを漫然とした表情で、見つめていた。


「あたしは――」
「・・・逃げたくせに」
「・・・っ、ちょ・・・っ、何よそれッ」


すみれが大きく息を吐くように言葉を零したタイミングで、青島も口を開いた。
恐らく、狙われた、タイミング。

飲み終えたカップを手で弄びながら、青島が膝に肘を乗せて、地面を見据えたまま静かに言葉を紡いでいく。


「婚約、してたんでしょ?昔。ソイツに、一生付き合うって決めたんでしょ。・・・和久さんに、前、聞いた・・・」
「・・・ッ」
「俺なんかが踏み込んで良い話題じゃないから、今まで黙ってたんだけど・・・」


青島に気付かれていたことは知っていたが、今ここでこの話を蒸し返されたことに、すみれは少し警戒を強め、横を向く。


「一度、聞いてみたかった。結婚を決めるって、残りの人生全部をあげちゃうってことだよ」
「――そうね」
「物凄い決断の筈なのに。・・・・・何でそんなことくらいで逃げたりしたの」
「そんなことなんて言わないで!あたしは逃げた訳じゃないわ・・・!」
「男にしてみれば同じことだよ」
「やめてよっ、・・・どんな思いであたしがあの時諦めたか・・・っ、何もッ、知らないくせに・・・っ」
「――好きだった?」
「あのねぇ!結婚って、そんなに簡単なものじゃないの!色んな関わりが出てくるの!」
「・・・・」

何の細波も見せず、黙って深閑な瞳を向けた青島が、一拍置いて、殺していた息を解く。


「――うん、だから、俺も、それと、同じ」
「――!」


ごめんね、と青島が片手を上げ、遣る瀬無い顔に力無く歪な微笑を作るので、すみれは、何も言えなくなった。
全部がポーズだったことを悟る。
すみれの言葉を引き出すために、ワザと、挑発させ、言葉を誘導させた。


二の句を失い黙り込むすみれに、青島は優しく、今度は言葉を選ぶようにして、ゆっくりと口を開く。

「でも、俺だったらそんなの、放さないけどね」

すみれが気怠げに振り仰ぐ。

「奪いに行くよ」
「・・・・ッ」
「ごめん。立ち止まったままのように、見えてたんだ。もがいて苦しんでいるの分かってて、傍にいるしか出来ないの、辛くて・・・」
「・・・・」
「先に――未来に、進んでいいんだよって、一度だけでいいから言ってやりたかった。・・・・今なら言えると思って」


俯いたすみれの細い顎に、黒髪がさらさらと流れてキラキラと粒子を纏う。
両手で持っているカップをギュッと握っている細い指先が凍えそうに白く霞んだ。
珈琲に映しだされた月の影を二重に揺らす。


「惚れた男のために身を引くすみれさんの気持ち、俺、男だけど、分かるよ。似たようなこと、俺も思った。けど、すみれさんの気持ちの方を、俺は大切にした い」
「・・・・状況が違うわ」
「すみれさんが気にしたことは、男にとっては遠慮でしかないよ。もっと甘えてくれて良かったんだ・・・」
「出来る訳、ないじゃない。背負わせるのよ」
「それが結婚なんじゃないの」
「分かったようなこと言わないで」
「他の女に、カレシ取られるってことと引き換えにする程のこと?」
「でも」
「好きって手を延ばせば、届いたんだよ。掛け替えのないたった一人の人に、届いたんだからさ」
――俺とは違って、という言葉を、青島は呑み込んだ。



「その時は、護りたかったのよ」

何かを堪えるすみれの小さな赤い口唇は理知的に引き結ばれ、その瞳は瞬くように空の星々を映していた。
ようやく発せられた言葉は必死に押し殺され、冬の夜風に震える。

すみれの想いが、青島の想いに誘われ、痛いほどの鈴音を奏でてこの聖なる夜に溶けていく。


「・・・その精一杯の想い、届いているといいね」

分かってくれた、人がいる。
あの時の、精一杯の幼かった愛情を。
閉じることでしか貫けなかった無力な誇りを。

もう何年も前のことなのに、鎮魂歌のように注ぐ青島の想いが、何故か古傷に沁みていた。
もう過去のことだと割り切っていたし、忘れかけていたのに、深部に触れてきた手が、温かい。
傷つかなかった訳ではない、あの日のすみれを抱き締める。

この人は、人の痛みを知っている人だ。


すみれは目の前で無機質に点滅を繰り返す樹木を見上げた。
クリスマスイルミネーションがチカチカと視界を照らしていた。
茄子紺に染まる都会の空は、高く、星も見えないけれど。


天まで綺麗に舞い上がる。
この聖なる夜の祈りに、切ない想いが、静かな鎮魂を享受する。
みんな届けばいいのに。
みんな、みんな、叶うと良いのに。

とうに終わっていた時代が、今、閉ざされていく気がした。
青島の手で扉を閉められるのなら、それで構わないと思えた。



込み上げてくる熱いものを、知られたくなくて、すみれは懸命に息を殺して、瞬きをする。

「届くわよ、あたしの選んだ人だったもん」
「・・・・惚気?」
「別れた男を惚気けてどうすんの、馬鹿じゃないの青島くん」
「ばかって言う方がばかなんですぅ」
「ほんっと子供ねっ」
「馬鹿、でしょ。大事なもの、掴めなかったんだから。俺たち」


俺たち、と青島は言った。
すみれが息を止めて、ハッと顔を向ける。その横顔は夜空に透けるようだった。
今は何も語らぬその瞬く瞳が、すみれの視線に気付き、静かにすみれを映す。


「すみれさん、今――、好きな人、いるの?」
「――」

終わってしまった時代は、同じ、なのだろうか。
すみれと青島はただ、黙ったままお互いを見つめ合った。
やがて、震える声で、小さく呟く。


「イブに勝負も掛けられないで仕事する予定の相手に聞くもんじゃないわ」
「でしたね」
「ですよ?」
「仕事が恋人」
「お互い様よ」

優しい、優しい、終焉の夜。

「雪乃さん、幸せになれるといいね」
「・・・・そうね」


自分達以外の人の、聖なる倖を。




「ねぇ・・・青島くん・・・・」
「ん?」
「・・・室井さんのこと、好きなの?」
「――そりゃ、まあ」
「そういう意味じゃないの、もう、分かってるんでしょ」
「――すみれさんは?」
「え?」
「すみれさんは室井さんのこと、好き?」
「あたし――は・・・・」


フェアじゃない気がして、すみれは少しだけ室井の顔を脳裏に浮かべさせながら、丁寧にその影を瞼で追う。
冷たい師走の風が、さわさわと吹いて、すみれの綺麗に切り揃えられた真っ直ぐな黒髪の毛先を揺らした。
キラキラとライトを反射する。


「青島くんと会う前の室井さんは・・・・・キライだった」
「・・・そうなんだ」
「だって、〝やれ、さがれ、必要ない〟の三段活用しかないのよ」
「へぇ」
「でもね。青島くんと本気でぶつかって、向きっている姿を見て・・・チョット変わった。ムカつく時もあるけど、不器用なだけなんだなぁって」
「意地っ張りのすみれさんに言われちゃうようじゃ、あのひとも相当だね」
「融通が効かせられないから、無駄に傷ついているのよきっと」
「無駄・・・・」

青島が面白そうに、笑いを堪えて口元を押さえる。


「昔、青島くんが刺された時、室井さん、すごく必死に青島くんのこと呼んでた。その時に、なんか、あぁ、そうなのかなぁって」
「・・・・」
「何もかも越えた所で、必要としていたものを見つけたんだなぁって」


足りない物を補うように、行くべき矛先を示して貰えたのだと、そう思えた。
必死に室井の面影を追うすみれは、青島の顔が悲痛に歪んだことに、気付かない。


「不器用で、素直に言葉に出せなくて、それでいてチョット頑固。生き難い典型ね」
「・・・そうだね」
「でしょ。でも、それは冷酷なんじゃなくってさ、仏頂面も、必死すぎてああゆう顔になっちゃうだけなのかなって分かってくると、可愛いもんよ」
「はは、可愛いって・・・っ」
「観ているとこっちが辛くなってくる時があるのよ。あれは何処かで爆発するタイプよ、どこでガス抜きしてんのかしら」


そこまで言うと、すみれはその理知的で黒目がちの邪気のない瞳を、艶やかに瞬かせて、青島を振り仰いだ。


「ねぇ・・・、あの人、泣いたりするの?」
「・・・、泣かないよ」
「青島くんの前でも?」

青島の細い栗色の細髪が、光を閉じ込めて、ふわふわと風に舞っている。
思ったより、軽そうで、柔らかそうだった。
風向きで、少し独特の煙草の匂いが鼻を吐く。


「大丈夫だよ。すみれさんの前じゃ泣かないよ。そんな弱味見せる男じゃない。肩に背負っていける器だよ」

明答は避け、青島は頼りなく微笑んだ。
呑み終えたカップを下に置き、立ち上がる。


「青島くんの前でもあのキャラ崩れないんだっけ」
「ん~、まぁ」
「本店の同僚とかなら、別の顔知っているのかしらね・・・。青島くんで見れないなら、無理かな」
「・・・・どうかな」


背中を向ける青島の輪郭が、カナリア色に縁取られる。
モッズコートが揺れて、光の中へと溶けてしまいそうに揺れる。


「ねぇ、涙、見たことある?」
「すみれさん、趣味悪いよ」
「・・・ないか。でもそれは、青島くんもね、きっと。涙見せたことも、ないでしょ」
「男が早々泣く訳ないでしょ」
「今、泣かされているじゃない」
「・・・泣いてない」
「強がっちゃって」
「男は背中で語るの」


すみれも、呑み終えたカップを隣に置き、両手で顎を支えて目の前で電飾を物珍しそうに手に取っている青島を見上げる。


先日の室井の強張った形相と、今の青島の哀しげに彩られた顔を、オーバーラップした。

一体、何をやっているんだろう、あの男は。
青島に、結婚を焚きつけられたはいいとして、それで何故、二人の仲をここまで拗らせるのか。
ましてや先日、青島のその発言には、何らかの圧力が働いている可能性も出てきた。
それを室井が知らないのだとしたら尚更、あれほど青島に心を占められているような男が、そう簡単に割り切れるものなのだろうか。

これではまるで、室井の方から断絶を申し入れたかのようである。

だが、すみれの目には、これまでの室井には青島には本音をぶつけているように思えた。
本店の方ではどうだか知らないが、あの頑固者が、早々人に心を揺するとは思えない。
多分、室井にとって青島は、心を打ち解けられる、数少ない存在なのだ。

だったら、何故、捕まえようとしないのだろう。
室井が抱えているもの。
青島が抱えているもの。
それらは、二人を本心から別つ程度のものなのだろうか。

それとも、もしかして、この断絶すら、何かの別の意思が働いている・・・?


二人同時の溜め息は、街に流れる音楽に掻き消された。



「ねぇ、好きなの?」
「蒸し返すの?」

じっと、すみれは肩越しに振り返る青島の顔を見上げた。
風船のように頼りなく、今は聖夜の幻想に消えてしまいそうな青島は、すみれの中の不安を増長させ、変な胸騒ぎが居たたまれなくさせる。
逃がしたくない。


「もう、過去のこと。終わったことだよ、俺たちは」
「まるで付き合っていたみたいな口ぶりね」
「そう、聞こえる?」
「・・・ええ、未練タラタラの」


青島がすみれの空のカップを取り、自分のも持って、近くのダストボックスへと向かった。
背中を向けているから、表情は見えない。


「忘れようとはしてるんだけどね」
「・・・・」

ドキリとした。

それはまるで、秘め事の告白のように軽い言葉だった。
でも、それが全ての答えのような気もした。
どういう意味なのか、問い詰めるのが、急に怖くなる。
聞いたらいけないような気さえする。


そもそも、結婚で破綻した室井と青島の関係は、そこだけを切り取ると、まるで、叶わぬ恋に生きる悲恋のドラマのようだった。
二人の人並み外れた執着と共鳴を間近に見てきたが、それとは違った視線の熱が、今の青島にはある。
上層部の圧力が、もし、そのことを知っていて掛けられたものだとしたら?
今さっき、何故、青島はすみれにかつての破談となった結婚を口にした?

ランダムに散在していたパズルのピースが合わさるように、何かが形を造り出す。


急速にすみれの心臓が早鐘を打っていた。
背筋がゾクリと寒くなる。
一段と冷え込んで来た気がした。


青島が抱いていた想いは、本当に恋心だったのではないか。
もしかして、室井もまた、それに応えていたのではないか。
だとしたら?

何となく、そうであった方が、全てが合致するような気がした。

青島が結婚を口にしたことで途絶えた関係。
その件で、室井が承諾せざるを得ない理由。
その全てが、上層部に仕組まれたゲームだったとしたら。




戸惑い、思考が迷走している内に、青島が振り返って、両手を頭の後ろで組んだ。
おどけた仕草に、コートがひらりと舞う。


「すみれさん、恋をしなよ」
「なんで突然そんなこと言うの」
「クリスマスだから?」
「何で疑問形なの」
「恋をして、歩きだしなよ。幸せに、なるべきだ。いつまでもこんなとこに居るべきじゃない」

なんて顔をして言うんだろう。

「・・・・・青島くんは?」
「わかんない」
「無責任ね」


自分を置いて、先へ行けと言う。
さっきまでは、あんなに近くで触れ合いそうな程に寄り添えたのに。
突き放される。

その想いが、切なくて、すみれは下唇をきゅっと噛んだ。


救われようとしていない姿は、かつての自分と重なる。
もしかしたら、さっき、青島がすみれの過去に触れるような発言をしたのも、こんな気持ちだったのだろうか。
自分だけ、自虐的に悲恋に浸って、すみれをそこから追い出す身勝手さは
脆弱な心の逃げ道だ。


「まずは自分がお手本見せなさいよ」
「じゃあ、すみれさん、恋の仕方、教えてよ」
「少なくとも、未練タラタラの男は嫌よ」
「ひでぇ」


目の前で、今、青島を精一杯受けとめているのは、すみれなのに
その情を手向けているのも、すみれなのに
青島の中には、やっぱり室井だけなのだ。
こんな顔をさせるのも、室井だけで
こんなになっても想うのは、室井だけで
室井だけが存在していて、室井を中心に青島の世界が象られている。

これが、恋とか愛とか、そんなのは関係ない。

今の青島の中にあるのが、室井だけなのだという事実が、すみれを切なく息を詰まらせた。
悔しく、哀しかった。



「ねぇ、青島くんをそうさせているのは、室井さんなのね?」

長い沈黙の後、青島が石を蹴飛ばしてようやく返事をした。

「・・・・・違うよ」
「嘘」
「室井さんのことは、正しい決断だったと思っているよ」
「それも嘘ね」
「何を根拠に」
「・・・好きなんでしょう?」

もう、何も臆さず断定して告げると、青島は口端を歪めて、ぎこちない笑みを見せた。

「だから普通の――」
「付き合ってたの?」
「俺たち男同士だよ?」
「そんなことを言っているんじゃないの。何があったか、聞かない。でも、善しかれ悪かれ、別れたの、青島くんの意思じゃないんじゃない?」
「・・・・」
「恋ごと、諦めさせられたんじゃない?」


黙っている青島に、思わず立ち上がって、その元へと一歩出る。
きゅっと、二の腕を掴んだ。


「ねぇ!らしくないよ!青島くん、それで遠慮しちゃうのも分かるけどさ、それでも何とかしなさいよ!男でしょ!」
「無茶言うなよ」
「だって、そんなに我慢して、それは何のためなの?」
「それは――」
「アイツは一体何をやってるの?青島くんの幸せはどこにあるの?」
「別に俺たちそんな・・・」
「まだ隠すの!」
「――!」


苦しかった。哀しかった。
ただ、悔しかった。

すみれが青島を想っていた時間の分だけ、青島は室井を見ていたのだ。
すみれだって、青島と共にここまで歩いてきたつもりだったのに。


青島にかつて貰った御守りの時計が、青島のコートのチャックと擦れてカチリと音を立てる。

「・・・ッ」

胸が引き千切れそうだった。
この焦燥感は何なのだろう。

特別だと思っていた人に、裏切られたようにも見える薄情な仕打ちが、すみれに不透明だった気持ちの輪郭を形成させる。


青島が室井を好きだとしても、それはいい。
その恋が終わった後に、こんなになっても、あたしは選んで貰えない。
それが、苦しい程に胸を抉っていく。

どうして室井なのだろう。
それは、傍で見てきたからこそ、嫌だと言うほど分かっているつもりだったのに。


一人だけ、置いてきぼりになんて、あたしに出来るわけ、ないじゃない。
こんな青島くんを置いていけって言うの。
あたしには、いっぱい温かいものをくれて。
あたしだけ未来へ送り届けて、自分は傷ついたままだなんて、そんなこと――!




「偏見もプライドもあるわ。でも今はそんなのは後回し!・・・青島くんのそんな顔、もう見てらんないよ・・・・!」
「すみれさん・・・・」

勢いに押されて青島が一歩後ずさる。
突然の事に驚いているのだろう、珍しく驚いたような表情で、まじまじとすみれを見つめている。


「いいの?逢えなくなっちゃうかもしれないんだよ?」
「逢えるよ、いつでも。・・・・俺たちは――俺たちの現場で」
「・・・・っ」

青島の哀しい決断が、すみれにかつての痛みを思い出させる。

「青島くんをそんな顔にさせているのが、室井さんなら、あたし――」
「ごめん、言い方が悪かった。あのひとは何も悪くないんだ。俺が勝手に落ち込んでいるだけなの。別にこれからも会うし、理想は変わらないし」
「だからよ!だから私はあの人が許せないの!」
「何言って・・・」
「自分だけは変わらないのに、貰ってばっかりで青島くんを潰して伸し上がろうとして!」

喰いかかるようなすみれの勢いに、青島が徐々に仰け反って両手で肩を抑え込む。

「そんな言い方するなよ。そんなひとじゃないの、すみれさん、知ってるくせに」
「今になって青島くんを突き放すなんて、許せないのよっ」
「室井さんには立場ってものが・・・」
「立場を支えたのは青島くんなのに、立場で青島くんを捨てちゃうの!?」
「すみれさ・・・」
「青島くんもよ!そんな顔してるくせに、あたしにだけ、突き放したように幸せになれなんて言わないで!出来るわけないじゃないッ」


震える手足と唇を叱咤して、何とか胸の言葉を言い切った。
おどおどとした表情で、青島が押し黙る。
湿り気を帯びた白い吐息が、綿毛のように舞った。

何も答えないまま、ただじっと見つめられて、すみれは急に恥ずかしくなり、視線を外す。
何だか良く分からない感情が、すみれの胸の中で渦巻いていた。

室井が手放した掛け替えのないものが、すみれの宝物であったなら、その輝きを手にする権利があるのは、果たしてどちらなのだろう。


「生きてても逢えないってこと、あるんだから。逢えない辛さ、青島くん、分からないじゃない・・・っ」


なんでこんな夜に気付いてしまったのだろう。
なんで、こんな夜に哀しい顔を見なければならなかったのだろう。
誰が悪いの。どうしてこうなったの。

点滅を繰り返すイルミネーションライトが、目に沁みる。

どうしてあたしじゃないの。
あたしじゃだめなの。
あたしだって欲しかった。
あたしだって、すっごく欲しかった。


何もかも、タイミングが悪すぎた。
この恋を、始めるタイミングが、せめて今でなかったら。
青島の中にある想いが恋でなかったら。
すみれの中にある想いが恋でなかったら。

どうしていつも上手くいかないんだろう。

それとも、これも一夜の幻でしかなくて、聖夜と共に、消えてしまうのだろうか。
一年に一度の、この一夜に。
恋心だけが幻となる。
儚い朝靄の中へ溶けてしまう。

神様は、いつもいじわるだ。




青島が、何度も躊躇った指先を、そっとすみれの頬へと当てた。


「――ごめん、泣かすつもりは・・・・なかったのに」
「・・・へーき」

ぐすっと、脹れっ面のすみれが、鼻を啜る。

「青島くんがそんな顔してると、あたしが辛い・・・」
「うん、ごめん」
「ずっと・・・傍で笑ってる青島くんに救われてきたの」
「うん」
「黙ってても、隣にいてくれて、嬉しかった」
「・・・うん」
「も、やだ・・・青島くん、助けてよ・・・苦しいよ・・・」
「うん、ごめん・・・」


目覚めたばかりの若葉のような感情は、まだ初々しく青草さが角を立てていて、制御が巧く効かない。

すみれが青島のコートを掴み、そのまま、頭を青島の胸へ押し当て、下を向いた。
青島がそんなすみれの両腕を掴んで、身体を支える。


「俺も、すみれさんの泣き顔見るの、辛い。だから、こんなことで・・・俺のことなんかで遠慮しないで、すみれさんは幸せになって?」
「・・・ッ」
「すみれさんはもう、遠慮することないんだよ。飛び立っていいんだ。もう飛べる筈だ。こんな恋に傷ついた場所に留まる必要ない」
「・・・置いていけって言うの」


濡れた眼差しで顔を上げるすみれを、青島は真っ直ぐに視線を合わす。


「一人で、行ける。大丈夫」
「・・・やだ・・・」
「傷つかない恋なんて、ないよ。すみれさんはちゃんと恋をしたんだよ、恋を、出来る人なんだよ」
「青島くん、は・・・?」
「恋をするのに、他の人のこと考えてちゃ駄目だ」
「人のことには理想論を言うのね。やっぱり無責任だわ」

だって、青島の未来図の中に、すみれは入っていない。




青島が腰をかがめ、少し戸惑ってから、すみれの流れ落ちる涙を恐る恐る人差し指で拭う。
頬に触れて、次から次へと溢れる雫を、親指でも拭った。
キラリと街灯を反射する雫が、青島の指先も湿らせる。

儚く、頼りない。
桜色の爪先が、凍えるように握り締められ、青島のコートを掴んでいた。


――自分みたいな想いはさせたくなかった。
あんな想いはたくさんだ。
俺たちはこんな結末しか選べなかったけど。
すべての恋に、身を引いてほしくない。こんな想いを知ってほしくない。
もっと、傲慢に生きてほしい。
俺とは違った未来へ、どうか。どうか。



すみれが青島の指先に促されるように視線を上げ、青島の瞳を見つめる。
どちらも哀しい色でしか、お互いを映せない瞳に、お互いを映す。


「俺が、いるから」


次の瞬間、すみれが目の前の青島のジャケットを両手で思い切り引き下ろした。
そのまま強く、花びらのような口唇を押し当てる。

「ッ!」


冷たい空気の中、しっかりと重ねられている桜色の温もりに、青島は微動だに出来ずに固まった。

凍えるような空気の中にあって、唯一つ押し付けられている柔らかい感触と熱だけが、確かなものとなる。
目を瞑り、首を傾けたすみれのショートヘアが、キラキラと目の前で舞っているのを、唖然と瞳に映していた。
世界が無音になって、この幻の聖夜に、全てが曖昧になる。

すみれの吐息が甘ったるく口唇を濡らす。
重なる二つの影が、聖夜の光を纏って、金色にぼやけていた。



数十秒して、押し付けていた口唇を、すみれがゆっくりと離す。
吐息が絡まる距離のまま、お互いの視線を交差する。

「・・・っ」
「じゃあ、あたしのとこへ来てよ、あたしのものになってよ、あたしを浚っていって」
「す、みれ――」
「出来もしないくせに、あたしの気持ちに気付きもしないくせに!いい加減なこと言わないで!!」


どん、と、すみれが青島の胸を両手で強く押す。
強気な眼差しを光らせ、口唇を噛んだ。

一歩下がる。
白いAラインのコートが翻る。

「良い気味よ、ばかっ、意気地なし・・っ!」



そのまますみれは背を向けた。
居たたまれなくて、走りだす。
一秒でも、この惨めな空間に、居たくなかった。

冷たい無色のライトが導く歩道を、ヒールを鳴らしてひたすら走った。




口唇を手の甲で拭い、青島はただその場に立ち尽くした。

追いかけることは、出来なかった。
掛ける言葉も、見つからなかった。

また、手の平から、大切なものが、零れ落ちる。


俯いた額に前髪がさわさわと擽っていた。

「しょっぱ・・・・」


冬の冷たい北風は、何の温もりも灯さない。
クリスマスソングのシンフォニックが、ただ遠くで無色に響いていた。











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