箱庭2.5







9 幕引
後ろの扉を出て、パタンという音を合図に、室井はまるで興味を失ったかのようにその手を放した。
取り残されたように青島が室井を見ると、少しだけ強張った顔で、室井が低く告げる。


「署内で出来るような話じゃないんだ。正門先でいい、付き合ってくれ」
「・・・・」

どこか、判定を待っているような瞳に、青島は視線を直視できず、横を向く。

視界から追い出した室井はあの日と違わず、同じ形貌で、簡単に青島の前に表れた。
まるで非現実的な不思議な感覚を、青島に齎す。
何も、変わっていないような。全てが元通りのような。
しかし、それは錯覚だ。
苦渋に満ちた頬骨辺りの強張りが、切り裂いた青島を責めているようにも、憐れんでいるようにも、思わせた。


「なんか・・・・俺、会議から追い出されちゃったみたいなんですよね。ちょっと、休憩ってことで」


黙って視線だけ寄越した室井は、そのまま背を向けて正面玄関へと足を進めた。






*:*:*:*:



落ち葉が薫る季節になった。
うろこ雲が秋の空を茜色に描き、四方に広がっている。
東空の藍のヴェールと、少し明度の落ちてきた空気が、日没を連れ、冷たさを含み二人の肌を煉瓦色に染めた。
テレポート駅へ向かう人の流れが、長い影法師を踊らせる。

空が高くなり、烈しく焼け付くような太陽は失われた。
それはまるで、恋の喪失を露わにしているようでもあって、あまりに符号するシチュエーションに、青島は室井の延びた背中を追いかけながら歪んだ顔を浮かべ る。

この間の今日で、まだ心の整理が付かず、心臓が歓喜と萎縮で潰れそうに脈打つ。
卑小なプライドが、それを辛うじて理性に保たせる。




歩道から外れた遊歩道まで来て、室井が立ち止まった。
カナリア色の銀杏並木の下に立ち、単刀直入に本題を始める。


「どうしても確認をしたくて・・・」
「確認・・・」
「この間の夜の事だ。本当にもう、駄目なのか」
「・・・・」


仕事中だろうに、本当にプライベートの話を切り出され、青島は驚いた。
窺うように、室井を上目遣いで盗み見る。

最も、ケータイか何かで直接コンタクトを取られても、きっともう青島は受け付けなかっただろうから、先読みされたのかもしれなかった。
諦めの悪い男だということまで、知っていたつもりだったが、いざ、この場に立つと
籠に捕らわれた鳥のように、青島に与えられた自由は然程ないように感じられる。
逃げ場を断たれた犯罪者の行く末は、こんな気持ちなのかもしれない。

室井の見せるその重たく真摯な情愛は、瞳のように漆黒で
ただ純粋な深さを湛えて青島を見据えた。



「衝撃から立ち直ってから、少し、考えた・・・」

今は語る元気も無く、寡言に答えに詰まっている青島とは対照的に、珍しく室井が淡々と想いを口に乗せていく。

「あの夜は・・・色々な事が過ぎって、大切なものを色々取り零したように思う。刑事として・・・・情けないが」
「――」
「それほどまでに、俺にとって、君の占める位置は大きい」


ここまで言うと、室井は一旦言葉を止め、真っ直ぐに身体を向き合わせてから、直立のまま、厳かに告げた。


「・・・何故、〝結婚〟を?」
「・・・ぇ・・・」
「惚れた女が出来た。それは致し方ないことだとしても、君が私にまで縁談を勧める理由はなんだ」
「だから――・・・・それは・・・」
「出世を目論む発言ならば、別に婚姻関係でなくても良かった。他にも手段なら数多に出てくる」
「・・・!」
「懇親会やワークスタディ・・・・警察内外の人脈確保。政界・財界パイプ。媚を売るような発言・・・従順な派閥・・・。君の上司もやっていることだ」
「・・・・」


違うか?という視線で、室井が青島に澱みない視線を向ける。
遠くの工場の稼働音が、誉れ高く鼓舞をするのが聞こえる。


「少し、違和感を感じた。君もまだ、好きな相手がいると言っただけで交際している訳でも、ましてや結婚を決めたとも言わなかったのに」
「それは・・・・、だから、キャリアの立場じゃ手っ取り早いアイテムだっていつも思っていたから・・・」


言葉を詰まらせる青島の足元を、乾いた砂埃が回転する。


「手っ取り早い、か・・・。本当に意味が分かっているのか。家庭を持つということは属する親族も撒き込むということだ」

一歩も近付かない対面形式なのに、室井の威圧感で、青島の息が苦しくなる。

「関わる人間が増えれば増えるだけ、事は大事となり予期せぬ事態も発生していく。事はおまえが言う程、単純じゃないぞ」
「――!」
「若者がカレカノになるのとは訳が違うんだ」



冷静になってきた室井を言い包めるのは、やはり至難の業だ。
本当に考え抜いた果ての提案なのか――官僚として生きてきた時間は伊達ではなく、簡単にロジックを崩してくる。
だからこそ、ハンデを背負う経歴でも、この若さでここまで渡り合ってこれるのだ。

少しでも気を抜いたら。全てを崩される――


別れを決意させられたあの日から、青島は、室井が一度では引き下がらないことは、予見していた。
室井の、濁流のように押し流してしまいそうな烈しい愛情と執着は、誰より青島自身が身を以って知っている。
その強さ故に、室井に於ける青島に関する事柄だけは、奴らだって想像以上だと思う。
だから、奴らには無理なのだ。
それを突き崩すのも、他の人間では、無理だろう。



青島は視線を落とし、自分の靴先を見つめた。

遂にこの日が来たかと思う。
これは、二人の恋の、最後の晴れ舞台だ。

だが、青島も営業成績は伊達じゃない。
刑事としては経験値が足りないかもしれないし、交渉人としては真下に劣るかもしれないが、トークスキルはそれなりに自負があるつもりだ。
勝負はここからだ。

――まさか、この思考回路を、室井に対して、こういう形で使うことになるとは思わなかったけれど。



「いつも考えていた・・・・か」

パキンと小枝が踏み折られた音がする。


「実力社会じゃないのは・・・まあ、確かだな」
「・・・失礼でしたね。不貞を働いたのは俺の方だったのに、その相手が縁談だなんて。でも俺、室井さんには幸せに生きて欲しくて・・・」
「・・・・」
「いや、違うか。薄汚れた庶民に付き纏われても邪魔なだけか・・・」
「そんな言い方はしなくていい・・・・」


室井が切ない視線を青島に向けてくる。

その痛ましさが語ることは、知っている。
俺だって、その幸せをこの手で与えたかったし、隣にいることだけが唯一つの幸せの形だった。

だけどもう、時は動き始めている。


「別れ話に意味なんか持たせない方が良いですよ」
「あまりに、青天の霹靂だった。俺は裏切られたのか、それとも飽きられたのか」
「どっちの答えを、お望みですか?」


ヒールになろうと決めたからには、徹底的にやらなければ、この人に喰われてしまう。この人に悟られる。
実力が拮抗しているからこそ、少しの怯みが勝負の分け目となる。
煽るだけ煽って、向こうから俺を断ち切らせないと。
室井の躊躇こそが、奴らが付け込む隙になる。

目覚めた中枢に、二人揃って呑み込まれる前に。



「君が考えも無しに、無闇な行動に出るとは思えない。どこかで何らかの変化があった筈だった」
「恋なんてある日突然空から降ってくるもんですよ」
「最後に逢ったのは・・・一月以上前だが――、君は億尾にも出さなかった。俺の気のせいでなければ」
「愛のメール一つ寄越さない不精者のあんたが?」
「ふざけないでくれ。俺は真剣だった・・・!君を本気で――」
「本気かどうか。それが手間暇で図れるんじゃないの」
「最大限に尽くしていたつもりだ!それは君だって――」
「だから?・・・・あんたも刑事なら浮気だの不倫だの略奪だの、愛憎劇を沢山見てきたんじゃないの。自分にだけは起こらないだなんてピュアなこと言います か」
「――!」

青島はニヤリと笑みを浮かべ、上目遣いで室井を見上げる。

「引き摺る態度は仕事にも次の恋にも支障を来たしますよ。断ち切ることも勇気だ」
「次の恋など・・・・」
「俺からの最後のアドバイス、です」

何が最後になるのか。
自分で言っていて、分からない。


「つまり俺の接し方が悪かったと?」
「そこまでは言いませんけど」
「俺たちにはもっと強い意思確認が支えてきた筈だろう」
「意思確認ときましたか。・・・ええ、勿論、そこは今だってこれぽっちも揺らいじゃいませんよ。俺にとってたった一人の上官は、今もあんただけだ」
「・・・・」
「だけど、その前に、俺も男ですから」


ザッと撒き上がる旋風は、青島の足元から舞い上がり、室井のコートを煽らせ、短髪も崩す。


「どうして・・・っ」
「それを相手に聞いちゃいますか。でも、聞いちゃうとこが室井さんですね」
「どうして、俺を・・・ッ」


ここまで、足を縫い付けられたかのように、銀杏の木の下から一歩も動かなかった室井が、不意に近付いた。

そのまま、無意識なのだろう、両手で青島を捕えるように襟首を掴む。
文武両道で、一点の曇りも隙も持たない室井の手は、無駄な動作が何もなく、音さえなく流れ来る。
憤怒とも悔恨とも取れる焔を宿した瞳を間近に向けられ、青島も身体を強張らせた。


「目を見れば、大体のことが通じると思っていたのは、俺だけか」
「通じることと、愛情を一緒くたにしても、苦しいだけですよ」
「裏切りも遊びも賭けごとも、みんな超越してここまで来たんじゃないのか・・・っ」

やべ、投げられるかも。ってか、俺、殺されるかも

「惚れた心を恨んで、認めてもくれないようじゃ、俺たちの仲も元々怪しいもんですね」
「一人の女の存在で元々の俺たちの温度が変わるなんて有り得ない。これは、俺に対する・・・・俺たちに対する、冒涜だ・・・ッ」
「いちいち、恋の報告まで上司にするわけないだろ」
「俺は君と、上司として付き合ってきた訳じゃない・・・っ」
「今更カレシ面?」


室井が掬いあげる手首を掴み、強く握る。
虚勢でも何でも、怯みを見せる訳にはいかない。


「いつも命令口調で他人行儀で、俺に縋りもしないあんたに!・・・俺が色恋に於けるパートナーとして成立していたとは思えませんね」
「そんな言い方をするな・・・ッ」
「それでも、あんたとの恋愛ごっこは、かなり面白かったけどね」


怒気を含んだ声無き怒声が耳元を掠める。

こんな公衆の面前で、室井が破廉恥な痴話喧嘩を繰り広げる程、馬鹿じゃないと高を括っていたが
青島に関して、室井が感情を昂ぶらせると何をしでかすか分からない激情を抱えていることもまた、知っていた筈だった。
だが今、目前で苦しそうに胸の内を晒す室井の奔出は想像以上で
思わず呼吸も忘れる。


「ごっこだなんて言うなッ、俺は人生さえ駆けていた・・・!」
「都合の良いとこだけ見繕った恋愛なんて、ヤりたい盛りの高校生より性質悪いですよ」
「知られたくないことだってある!」
「認めるんですね。・・・知られたくないものがあんなら・・・・こんなに近付くな・・・っ」


キッと眉尻を上げ、青島が両手で室井の胸をどんと押した。
だが、室井の両手が襟首と袖口を引き寄せ、滾る瞳を向ける。
投げ飛ばしそうな程の息吹を帯び、灼熱を伝えた。

本気で、室井が激情を抑え込もうとしている兆候だった。
ここまで室井が周囲の眼さえ飛ばし、我を忘れるほど激情を見せたのは、久しぶりだ。
ベッドの上とは違う、彼の内に滾る炎が、青島の仲の芯を根から焼き尽くす。
きっと、これを見るのは最後で。


「心のホントの裏側を隠したままで、何が本気?臆病なだけだろ・・・っ」
「おまえと一緒に俺まで溺れる訳にはいかないだろうッ」
「・・・違うね。あんたにとって俺は、都合のよい休憩所だっただけだろ。・・・公衆便所付きの!」


室井の眉間が寄せられ、襟首を掴む腕に力が籠もりすぎ、筋肉が震える。

青島の中の、青島を造っている何かが、壊れそうだった。
だけど、それを、喉奥を食いしばることで、呑み下す。


「傷を舐め合うだけなら、この先だって付き合いますよ」

室井がグッと襟首を力任せに引き寄せ、息も荒く、青島の瞳を覗きこむ。

至近距離で伝わる体温と嗅ぎ慣れた整髪料の香り。
何もかもが、馴染みと共鳴の軌跡をここに描き出す。
みんな、みんな、大事な、俺の追憶だ。


「俺を・・・・!本気で愛していた訳ではなかったのか・・・ッ」
「それに本気で応えなきゃならない付き合いだったって言うんなら、そっちの方が心底ガッカリですよ」


言っていることは、全てが嘘と言う訳ではない。
そんなことは些細な事で、この甚大に溢れる洪水のような愛情の前では、どれも空虚なことだったけれど
これまでの感謝と、これからの幸せを込めて、言葉を紡ぎ出す。


「今度はそんな余裕かましていたら、駄目ですよ。女の子はもっとデリケートなんですから」
「俺はいつだって誠実に接してきたつもりだった・・・っ」
「誠実であれば惚れて貰えるなんてルール、どこの国にあるんですか」
「・・・っ」
「自覚ないってとこが、男の価値下げます。あんたはもっと、歩み寄った方がいい。自分から」


室井が息を殺しているのが分かった。
悔しいし、もどかしいんだろう。

室井が青島に怒りでも憤りでも、野性的にぶつけようとしないのは、室井が常識的で理性的な成人だからではなく
多分、もう、青島への愛情なんだろうと思った。
体格差はあっても、力と技で青島が室井に敵う訳がない。
だけど、目の前の室井は、何かを必死に堪えている。


青島は歯をグッと食いしばって、服を握り締めている室井の拳に手を翳した。

「今度は、そういう相手、みつけられるといいですね。全部を受け容れられる対等な相手」
「君にだって、対等に接していた・・・」
「俺たちは、主従関係から抜けきれなかったよ・・・恋は、そうじゃない」
「俺は・・・君以外の相手など――」
「室井さんが幾ら本気で愛したって・・・、、それが相手に伝わっていないんなら、ないのと同じです」


最後の台詞は、むしろ自戒を込めて言った。
伝わらないのなら、俺の気持ちもまた、なかったのと同じだ。

届いて欲しいのは、恋情なのか愛情なのか。


〝やっぱり、あたしなんかで良かったのかな〟
先日雪乃が寂しそうに訴えていた言葉が、何故か今、頭の中で輪唱する。



虚しくなって、青島はゆっくりと室井から手を離した。
室井もゆっくりと力を解き、俯く青島に指先を延ばす。

きっとその指はいつものように冷え切っているんだろう。
だが、髪を梳き上げようと向かってきたその指先が、青島に触れることはなく、そのまま行き場を失って空を彷徨った後
静かに下された。

辺りはいつの間にか陰りが強まり、空気が蒼色に染まっていた。
西日の残渣が、室井の背後で、放射状に広がっている。
水分の少ない秋風が、コートを着ているのに、身体を強張らせた。



「まさか、君に・・・・そんな決断をさせたのは、俺なのか・・・?」


それは、激昂されるより、辛かった。

ここまであれほど生々しい愛憎の熱気と渦を見せていたのに、その狂熱が今、静謐していく。
露わな剥き出しの弱さを室井が見せたのは、初めてかもしれない。


それは、思えばずっと、青島が室井に対して求めていた静謐なる激情でもあった。

付き合っている間、室井は全てを晒しているようで、その心の深淵までは踏み入らせてはくれなかった。
男として、何やら護りたい矜持があったようだが
青島にしてみれば、男同士の付き合いである以上、それは、無駄な遠慮でしかない。
だからと言って、そこを無理に暴いても、室井が抱えている重たい世界は、青島に受けとめられるだけのものを逸脱しすぎてて
だからどうしても、青島もまた、踏み込むことは出来なかった。
支えられるのであれば、それは、別の部分で補強していけると、自己納得させていた。

だけど今、こんな形になって、室井が全ての柵を解き放ち、青島へ全力の想いが溢れ来る。
何で、今になって。


不覚にも、青島の瞼が少し熱くなる。


「もう少し、傍に居て、頻繁に逢っていたら、結末は変えられたか」
「・・・・さぁ・・・」


青島の言葉が想像以上に室井にショックを与えたことが見て取れた。
言い過ぎたことは分かっていても、もう謝ることも出来ない。
このまま自責の念を募らせてくれれば、室井の性格からして室井の方から青島へ関わろうとはしなくなるだろう。――青島のために。

それは、この作戦の完全なる成功を意味している。



「近付きすぎた部分もあったんじゃないですか・・・」
「君の存在で、どれだけ楽になれたか。君は知らないだろう」


皮肉なもので、拒絶をすればするほと、自分がどれだけ室井に直向きで真摯な愛情を注がれていたかを思い知らされる。
周りの酸素さえ奪うように。
自分もまた、如何にこのひとを大切にしたいのかを。
付き合っている時よりも、肌を重ね合わせ激しく抱かれていた熱い時間よりも、それは静かに浸み渡ってきた。
どうして今になって、こんな深い情熱を思い知らされるようなことになるのか。


平静を装って緩く組まれた目の前の指先が白く力む。
許されないと分かっているのに、その手を視線が追った。


「俺は室井さんの手と、両方を一緒に取るなんて・・・・出来ない」
「ということは、君の心はまだ少し俺にあるのか?」
「・・・・」
「青島。俺だっておまえの幸せを願わない訳じゃない。正直に言ってくれ」
「・・・いいえ。いいえ、室井さん。答えは出たって言いました。これで全てが丸く収まる」
「ちょっと待て。おまえはまた、すぐそうやって自分の気持ちを置き去りにする。おまえの気持ちはどうなんだ?」
「・・・・」


言葉尻から僅かな綻びを手繰り寄せ、室井が真実のパズルを解こうとする。
青島は、一度、キツく目を瞑った。


「本当にもうダメなのか」
「・・・ッ」


縋るというよりは、迷子の子供が唯一人の親を探すような絶望的な言葉に、青島の心に無数の針が突き刺さった。

室井が不器用に、真っ直ぐにしか生きられない性なのを、誰よりも知っているのは青島なのだ。
自惚れでも、室井にとって、唯一の理解者であり、同胞であった。
室井は、青島がいなければ、本当に独りに――孤独になってしまう。・・・あの、冷たい鋼鉄の階級社会で。

それだけは、絶対にさせないと、思ってた。
そのためだけに、自分が室井の傍に居るのだと、思ってた。
だから最後まで、どんなことがあっても、この手だけは掴んでいようと、その手を取った時に決めていたのに・・・!


言ってしまおうか。
こんなお互い辛いだけの、こんな結末、一体誰の得になっているのだろう。
この痛みを越えた先でなければ、手に入らない未来は、果たしてどれほどの価値があるのだろう。
一体誰のための――


「俺は・・・・君が、好きだ」
「・・・ッ」
「・・・今も、誰にも渡したくないくらい、好きだ。君はもう、俺じゃ駄目なのか」

そんなことない、俺だってあんただけだ

「好きでいて貰えるほど、目立った利点もない不甲斐ない男だが、だけど君が好きだと言ってくれたから、自信になってきた」
「・・・っ」
「情けないけど、君が居るから、立ち上がれるんだ」

そんな風に、支えにしてくれて、どんなに俺が嬉しいか
俺だって、そんな風に生き様を彩ってきた。
きっと、それは、色を失った跡の世界でも。



「もう一度、やり直して貰えないか?」

室井がそっと青島の二の腕を掴み、最後とばかりに、訴える。

見つめる室井の瞳は黒々と艶やかで、何の澱みもなかった。
宇宙に呑み込まれるような錯覚を帯びさせる。・・・いつも。
この瞳を見つめながら、熱い吐息に包まれて、好きだって思うままに告げられたら――

その、ささやかな願いが、どれほどの貴重な倖せだったかを、今、思い知る。




青島が室井の懇願に揺れ、思わず口を開き掛ける。
息を吸って、言葉を発しようとした、その時――
室井の背後に黒い影が二つ揺れ動くのが見えた。


「!!」

・・・二人の見張りがいる。
いつから居たんだ?

室井に夢中で、周辺への警戒を怠っていた。
不味いこと、話してないよな?


急激に緊張を強いられた身体が力み、嫌な汗を発し、細かく震える。

揺れて、暴発しそうな塊を、もう一度力を込めて呑み込んだ。

言えない。
そうだ、言ったら、室井の身が危険だ。


何も、言えない。このひとには。
このひとは、全てを知ったらきっと全てを捨ててでも俺を選んでしまうから。
幾ら切っても、あんたはまた同じことをする。
そんなことして欲しい訳ではない。
だから、どうしても、言えない。

言わせても、貰えない――


昇華出来ずに燻った想いの破片が、胸に突き刺さり、砕け散る。

真っ直ぐに伸びる腕。真っ直ぐな背中。真っ直ぐな声。
もう、好きで居ることすら迷惑なら。



「好き・・・。だけど、もう、一番じゃ、ないです・・・」


胸が張り裂けそうな思いで機械的に口唇を動かした。
一陣の烈風が通り過ぎる。

目の縁に入る室井の痛ましい瞳が、黒々と多くを語り、突き刺さった。

純朴な、恋だった。
なのに、こんな顔しか、させられないなんて。この恋の終わりに。


「もう、終わりでしょ」

そう告げた時の室井の瞳は、今まで見たどんな瞳よりも、痛ましく、見る者をも凍りつかせた。
掴んでいた手を、一度力を込めてから、名残惜しそうに、放していく。


「君にも、君の人生があるもんな・・・幸せを願う想いは、同じだ」
「・・・・・」



そのまま、さよならも告げずに、室井は青島の前から背を向けた。
ゆっくりと影が小さくなっていく。
その逞しい背中は、今はもう何も語らず、酷く疲れて見えたが、気丈にも折れることはなく、ピンと張られていた。

その姿を青島はただ、見送った。



「・・・・」

室井さんをこんなにするために俺、嘘吐いたの?
室井さんにこんな顔させるために、俺、堪えているの?


「・・・・っ・・・」

瞼の奥がツンとして、熱いものが溢れそうになる。
胸が、苦しい。ただ、苦しい。
明確な感情など何も湧かず、ただ、ギシギシと、軋む。


「はじ・・・めて・・・っ、好きって・・・・言われた・・・・」


片手で胸元をぎゅっと握り締めた。

責めて糾弾されるよりも、優しく包みこんでくる方が、効いた。

もっと責めてくれれば良かったんだ。
詰って、軽蔑して、罵倒して。
お互いを傷つけ合って、憎しみだけのこして、跡形も無く。
もうあの頃には戻れない。
あの頃の俺たちじゃなくなっていく。永遠に一緒に居続けることなんか、初めから無理だって分かっていた。
だけど――!


失われた時間が二人の間を冷たく通り抜ける。
もう何も出来ない。
ただ、悲しむことしか。

――室井さん。室井さん。室井さん・・・っっ。

俺はただ、一緒に夢を見ていられたら、それで良かった。
そんなちっぽけな願望だった。
のに。
絶対、警視総監になってよ。こんな痛みを越えた先で、ちゃんと掴んでみせろよ。
誰が見てなくても、誰も知らなくても、俺がちゃんと憶えているから。


過去形でも未来形でも進行形でもない唯一つ遺る欠片が胸に突き刺さる。
大好き。大好き。大好き。


「・・・は・・・・ッ・・・・」


口元に手の甲を当て、込み上げる嗚咽のようなものを幾度も飲み込む。
視界が少し滲んでいるのは、何故だろう。


俺たちにとって一番良いことって、何だったんだろう。
この痛みも、時を経て描いた地図の上に経てば、必要な手順だったと思えるんだろうか。
感謝すら抱いて。

一体これは、誰のための苦しみなのか。


俺にはこの人が居てくれる。それだけで大丈夫って思えた。その支えや優しさが、どれだけ励ましになったか。
失われた小さな楽園で、束の間の夢をずっと見ていた。
ただ近くに居てくれれば、それで良かったのに。

じゃあ、この先のあのひとには、誰が居てくれるんだろう。


真冬のイルミネーション。夕暮れの東京湾。撒き上がる桜吹雪。
移りゆく季節を共に過ごし、一緒に見た景色がどれも綺麗に焼き付けられて。

俺にはこんなにもあんたの記憶が残っているのに。
他に何も要らないのに。


「・・・ぅ・・・・く・・ッ・・」

自然に、惹き付けられるままに始まった恋だった。
どんなに熱いベッドを共にしても、熱い口唇で奪われても、室井は、好きだと告げてはくれなかった。
ただ、代わりに、〝一緒にいよう〟とか、〝おまえしかいらない〟とか、分かり易い言葉で想いを告げてくれた。
最初の告白は、〝気付いたらおまえといるな〟と言って、腕を引かれて、柔らかく口を塞がれて。
悪い、と告げる吐息は、どこまでも甘くて。
何度目かの夜に、その強い眼差しと熱い躯で、アイシテイルと、底の底まで崩れ落ちるように刻まれた。
なのに、今。
なんで、今。

何より、愛おしい、その時間が、閉ざされる。



行く所も戻る所もなくなった。
いままで通りにさえ戻れない。

返すべき時がきたのだ。
あんたの居る場所はここじゃない。
だから、どうか、どうか、幸せに。
幸せになれ。


「・・・ふ・・・っ・・ぅ・・・・」


神様。神様。もし生まれ変われたら、今度こそあのひとを俺にください。
絶対絶対大切にするから。
今度は手を離さないから。





息を吸っても息苦しく、襲いかかる石のようなものが肺の中に蓄積する。
汚泥の中にいるような気持ち悪さと胸の痛みに、どうすることもできなくて。
胸のシャツを何度も掻き毟る。

手折れることは許されない。
ただ、ガクンと膝の力が抜け、その場に跪いた。


ちゃんとお別れも、出来なかった。
いつか笑って振り返れるような、愛しい日々を慈しむような。
こんな結末にしか出来なかった。

こんなにも愛しいものを剥ぎ取られ、この先の膨大な生を一人堪えて生きていくのか。
そんな拷問のような毎日がこれから延々と続くんだ。・・・・この命、尽きるまで。

「・・ぅ、・・・ぁ・・・、は・・・・・っ・・・」



眩しい夕陽が強く紅く射しこむ日だった。
残響の黄昏に、街が沈む。
向こうへ消えていく室井を、追いかけることも出来ずに、青島はただそこに置き去りにされた。
足は地面に張り付いたままで
真っ直ぐに伸びた美しい影と背中が、青島が見た最後の恋人の姿だった。


角を曲がって、消えていく。
眩しい透明の光に包まれ、、雑踏の中に真っ直ぐな背中が消えて、見えなくなる。

絶対忘れない。
この光景を、忘れるもんか。



何 が正しいのか、何も分からない。
正しいって何かが、分からない。












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