箱庭2
6
疑問
――寒い夜だった。
秋の長雨が続き、部屋の暖房を付けてからもう大分経つ筈なのに、床から深々と冷気が伝わり、窓が白く染まる。
青島は持っていた茶封筒を放り投げ、ベッドにぱふんと横になった。
漫然と、天井を見上げる。
―良く出来ました。合格です
―見てたのかよ
―あそこまできっぱりと告げてくれるとは思いませんでしたね
―これで文句ないだろ
―ええ。ですが、分かっていると思いますが、あなたが裏切らないように、当面、監視は継続させて頂きます
―なんだよそれ・・っ!俺ちゃんとやっただろ・・・!
―上の指示ですので
口止めも、されなかった。
こんな脅迫をしておいて、それが青島の口から表沙汰にリークされることはないと思われているのだ。
事を荒立ててれば、室井と青島の関係が露呈するだけで、奴らの言い分の方を世間は諾了する。
強要された脅しなど、しらばっくれれば、それで終わりだ。
室井の立場を悪くするだけだと、暗に仄めかされているとも言える。
こちらが不利になるだけだった。
チラリとテーブルに投げた茶封筒に視線を映す。
本店にいる真下に無理を言って、向こう半年の安住副総監のスケジュールを調べてもらった。
会議などの他、計画している動き、勉強会、懇親会、そのメンバー、そして側近の動向・・・。
奴らが三ヶ月、と区切ったからには、その数字に必ず意味がある筈だった。
それを言わせるための誘導でもあり、その仕掛けに、向こうは容易く嵌ってくれた。・・・転んでもただじゃ起きたくない。
そうして、捨て身で得られたキーワード一つを頼りに、周辺を探ってもらった。
だがそこから分かったのは、どうやら池神警察庁次長と安住警視庁副総監の間で、次期
警察庁長官の座を巡る実権争いが有力視されており
恐らく次期交代を巡る役員会議も近いのでは、というのが、真下の見解だった。
そのことと、室井の縁談がどう繋がるかまでは、青島には分からなかった。
縁談ということは、室井を親族経営に取り込みたいのだろうが、室井にそこまでの価値を何処に見出した?
今更、実力を評価しただなんて、見え透いた狂言に血迷うとは考えられない。
真下の話では、室井は池神側の贔屓がかなり影響しているとの見方が強く
だとしたら尚更、安住の方が接触してきた意図が不透明で
朧ろげにも浮かびあがる醜悪な虚像は、影絵のように実態を伴わなかった。
本店内の清鑑なる動乱と激震が、青島の背後にヒタヒタと浸み込んでくる。
夜の秋雨が、じわじわと黒く腐食していくように、窓を流れていた。
胸騒ぎだけが渦巻いていく。
――ほら、結局俺は、本店の相関図すら知り得なくて、政治なんかはもっと役立たずなのだ
「くっそぉ・・・っ」
両手を瞼の上で交差して、小さく呟く。
その声に応える者はいない。
*:*:*:*:
「ねっ、お願いします!この通り!」
「どうしよっかなぁ~~~」
「すみれさぁぁん・・・・」
麗らかな午後の空気に包まれる湾岸署刑事課。
丁度エアスポットに陥ったみたいに、仕事の手が空き、ちょっとしたブランクが生まれていた。
閑散としていて、人影もなく、廊下も静かだ。
雪乃が鼻先で両手を合わせ、すみれの前でお辞儀をするくらい頭を下げ、懇願する。
それをすみれは横目で往なしながら、優雅に足を組み換えた。
小指を立てて白いコーヒーカップを掴むと、片目を閉じて雪乃をチラリと窺う。
「すみれさんしか頼める人いないんですよ~。お願いっ」
もう一度可愛らしく胸の前で手を合わせると、今度は心底困り果てた顔で、雪乃がすみれを見降ろした。
今日は束ねていないウェーブの掛かった髪がしゃらんと揺れる。
そんな雪乃を、すみれは楽しそうに揄いの瞳で見つめた。
別に意地悪でも何でもなく、困っている姿が微笑ましくて、ちょっと苛めてみたいだけである。
「でもなぁ~」
「だって真下さん、どーうしてもイブじゃなきゃ嫌だって」
「カレシとクリスマスコンサートに行く女の手助けを、どぉぉしてフリーのあたしがしなくちゃならないのかしら?」
〝どーして〟の口調を真似、すみれが合いの手の如く言い返せば、雪乃は眉尻を下げて肩を落とした。
時は既に師走の装いを始めていた。
ハロウィンが終われば、季節も足早に年の瀬に向けて加速する。
群衆の関心もまた、合わせて、次のイベントへとスライドし
街中、色とりどりのイルミネーションでライトアップが始まり、来たる聖夜のお祭りに向けて、浮足立っていた。
就業時刻には既にとっぷりと陽が暮れる都会の夜に、木々に撒きつくストレートライトの華やかさは、年の暮れと、少しの奇跡を思わせる。
総じて、人が集まれば諍いが起こるのが社会の常で、署内は一層、警戒態勢と忙しなさが増していることも
馴染みのシーズンの到来を告げていた。
「んー!そこをなんとか!」
「あたしにイブに働けってこと?」
「でもほら、イブを青島さんと過ごせますよ。ここで」
「馬鹿言わないで」
カップを口に運び、酸化した珈琲をこくんと喉を鳴らして嚥下する。
「にが・・・」
「もうチケット取っちゃったって言うんだもん・・・」
「確信犯的なやり口ね・・・・今度来たら締め上げてやるわ」
「クリスマスディナー奢る!」
「乗った!」
「やた!」
雪乃が飛び上がってすみれの手を取る。
二人ががっつり手を合わせ、女同士の企みを微笑みに乗せた。
イブ限定のデートで、これでホテルも予約済みとなったら、確実に真下は勝負を掛けてきていることが分かる。
そのプランにどうしても行きたいと言う雪乃は、きっと、そのプレミア度を深層では感じているのかもしれなかった。
淡い恋の待宵に浮き立つ雪乃を、すみれは頬杖を付いて柔らかい視線を送る。
「ありがとう!すみれさん!恩にきる!」
「ここまでベタな演出をする男はどうせ夜はフレンチね。だったらイタリアンにしてもらおっかな~」
「お店探しといて」
「チーズ・ワゴンからセレクトしてワイン飲みたい」
「了解」
「しっかり楽しんでくるのよ」
「うん、分かった!」
一度、婚約が破談になった経験のあるすみれにとって、その蕾が花咲くような倖せの儚さは、ちょっと身に浸みている。
いつ、何が起こるか分からない。
この仕事を続けていたら、手に入るものは、みんな我儘に手を伸ばした方がいい。
後になって、悔んでも、もうどうにもならなくなることなど、幾らだって起こり得る。
傲慢も貪欲も、それは、安泰と倖せの上にこそ成り立つものだと、心の暗黒が警笛を鳴らしている。
世の中の女の子には、みんな幸せになって欲しい。
・・・・あたしが逃がした欠片の分まで。
「欲しいものを欲しいと言える選択肢がある内が華よ。しっかり掴んでらっしゃい」
「やだ、すみれさん、そんなんじゃないですよ~」
「あんたね、イブに呼び出す男がお茶して終わりな訳ないでしょー!カマトトぶらない!」
「やめてってばぁ!」
「下着は黒よ、絶対黒の透けてるやつで決めとくのよ!」
「すーみーれーさんっっ」
「思い切りエグれているのがいいわ」
「持ってません・・・っ」
「・・・・買いに行く?」
「もぉぉ・・・っ」
じゃれ合う二人の視界に、外から帰ってきた魚住と青島が席に着くのが入る。
何となく、二人して視線を向けた。
バサッと肩から掛けていた鞄を重そうにデスクに乗せると、魚住から幾つか出される指示に頷き、そのまま青島は椅子に沈み込んだ。
大きな溜息のようなものが耳に届く。
なんとなくすみれと雪乃の視線が絡む。
「ねぇ、青島さん、どうしちゃったのかな」
「どうって?」
「なんか、変、ですよね?最近・・・」
「そうかな、普通に阿呆面していることには同意だけど」
「あ、あほ面・・・て・・・」
軽く諫める言葉を発する雪乃も、すみれの言葉が本性じゃないことは察している。
確かに、ここ最近の青島は変に元気で違和感があった。
明るく元気なのが、空元気に見える。
そうして今のように一人になった時、人知れず溜息を漏らしていたりするのを、すみれも雪乃も度々目にしていた。
・・・あと。
少しだけ煙草に席を立つ回数が多い。
「ま、本人に聞いてみるのが手っ取り早いんじゃない?」
「聞いたって答えてくれませんよ、あたし、もう何度も聞きましたもん」
「そなの?何だって?」
「何でもないよって・・・・」
青島は、人見知りが無く社交的で、誰にでも人懐こい一方で、妙にデリケートな所があり、人の心の機微に敏感だ。
何かに悩んでいても、苦しんでいても、それを外的要素に向けて発散したりするタイプではない。
聞き上手な分、相談相手には打って付けだが、青島自身の相談相手となると、その片棒はかなり限られていた。
というか、署内にはいないかもしれない。
これまでも、度々、沈んでいる時があったが、いつも、一人で解決してしまうようだった。
勿論、分かり易く暗い顔をしたり、口数が減ったりと、子供みたいに分かり易い部分もあるし、茶化して冗談っぽく文句を言う時もあるが
深刻になるほど、聞いたところで素直に吐くことはない。
そもそも青島は、本音を隠すことが天才的に人並み外れだ。
誰も、青島の真のプライベートを知らない。
青島の方から正面切って相談も愚痴も聞かされることはなかったし、気付いてほしいようにも見えなかった。・・・今も。
「でもなんとなく伝わっちゃうんだよね・・・」
職場なのだから、その位の建前は、マナーだろう。
だが、通常の職場と違い、命や人生を掛けることもある仕事では、人間関係に於ける密接度は比ではなく
その分、心の機微に第六感のようなもので、感じ取れる時があるのだと思う。私達は。
それは多分、お互い様なのだろうが。
・・・・一番酷かったのは、いつだったか。
何となく、青島の丸まった背中の哀感を見て、過去を回想する。――ああ、確か、すみれのことで数年前の室井と決別した秋だ。
あの時も、背中合わせの青島の背中から、隠そうとしても隠し切れない悔恨が、滲み出ていた。
すみれもショックだったが、その後の青島に掛ける言葉も見つからず、みんなに冷たい足跡を残す終幕だった。
室井の起こした引き金は、想像以上の毀損を私達に遺したのだ。
微妙な関係は、すみれと青島の空気にも通じ、それは暫く尾を引いた。
「ヨシ」
小さな眉間を寄せ、すみれが腕を組んだ。
この小さな戦士は身体に似合わず男勝りの、竹で割ったような性格に基づき、潔い程の覇気を淡い気性に滾らせ、時に美しさの中に火花を散らす。
もう、何もせずに、あの時のような悲しい時間を過ごしたくない。
あの後、青島は、加害者の母親にナイフで刺され、生きるか死ぬかの瀬戸際を彷徨った。
数年後、今度は自分が撃たれて死ぬかも知れない六道辻を彷徨った。
何もせずに見て見ぬ振りをする優しさは、もうすみれにとっては疎慢でしかない。
――最も、この勢いで、うやむやな気持ちにも決着を着けることが出来れば、苦情もないんだけど。
フクザツな乙女心は棚に上げ、すみれは悠然と席を立ちあがった。
「ちょっとすみれさん、どうする気ですかっ」
「あたしが聞く」
「えぇっ?無理ですよっ」
「オンナノコを不安がらせる男はみんな敵よっ、成敗してくれるっ」
「それ、逆効果じゃないですかっ?傷口に塩塗ってません?」
「聞くぐらいいいじゃない。男ならくよくよしないっ」
雪乃が立ち上がろうとするすみれの腕を後ろから両手で掴んで引き留める。
放せ、放さない、などという押し問答をヒソヒソ声で繰り返している内に、外から袴田が青島を呼び出し
また青島が刑事課を出ていってしまった。
俺、人気者だね~なんて軽口が聞こえる。
「行っちゃった・・・」
「秋の交通安全のティッシュ配り、青島さんに決まったんですね・・・」
「まあ、そんな気はしてた・・・」
「うん・・・」
7 会議
「やっぱり合同になっちゃいましたね」
隣のパイプ椅子に青島が腰を下ろすと、先に来ていた雪乃が青島に資料を手渡しながら零す。
「管理官も新城さんに交代だってさ、ほら」
「あ、けっこ、久しぶりです」
頬杖を付き、顎をしゃくる青島の視線に合わせ、丁度入ってきた本店管理官を、雪乃も苦笑して視線を見遣る。
上官らが席に着くとすぐに捜査会議が始まった。
先日の殺人事件が、どうやら管轄外で起きた事件と手口が似ていたということで、未だ糸口が掴めないまま、捜査は関連の勝どき署との合同捜査になった。
第一の事件の現場が湾岸署管内なので、湾岸署の大会議室が使われているが
間にある捜査員の数を数えるのも億劫な黒だかりの人山は、最早ここが何処だかも悟らせず
こちらを向いている筈の本部長ら責任者たちも、本店捜査員も、遥か遠い人垣の向こうだ。
マイクの音が反響でぼやけて届くのを、ぼんやりと聞く。
「あちらさんは皆さん元気だね~」
「でも、ほら、あの辺。右手前の一角、欠伸してます・・・」
「あ~」
青島と雪乃がぼんやりとしょうもないことを、顔だけ前を向いたままで、口に乗せる。
本庁捜査員の報告を耳にしながら、まともに仮眠も取れていない頭は、皆誰も、あまり明確な思考回路を保っていない。
どんよりとした顔で、流れ作業の如く、遥か遠くの音声に必死に耳を傾ける。
それさえも、心地良い子守歌になりそうな、人の温度で上昇した、酸素の薄い室内。
それは、多分、勝どき署よりも、事件が長期化している湾岸署の方が事は深刻だろう。
ぼわんぼわんと反響するマイク音声は、音が悪いのか、こちらの脳味噌が止まっているのか。
喋っていないと眠ってしまいそうなほど、理解不能だ。
「ん?どうかした・・・?」
雪乃がチラチラと不安げな表情で視線を向けてくることに気付いた青島が、大欠伸で涙目になった眼を擦りながら、口の動きだけで問い掛ける。
もっとも、こんな後ろの席じゃ、無駄口も妨げにもならない。
「どーもこーもないわよ。一旦帰って寝たら?」
背後から掛けたすみれの鋭い声に、青島がビクリと肩を竦ませる。
雪乃も苦笑いを浮かべた顔で振り返った。
あれ、俺そんなに分かり易くくたびれているのかな、なんて呑気に乾いた笑いを乗せ、青島が視線だけ後ろに向ける。
「ごめん、欠伸、うるさかった?」
「せめて、身形だけでも変えたら?」
「臭い?」
「そぉじゃなくって!」
「青島さん、少し顔色悪いです」
「ん、ごめ・・・」
「鬱陶しいの間違いじゃないの」
隣で気遣いの言葉を述べる雪乃とは対照的に、後ろからの糾弾は結構、容赦ない。
明け透けでざっくばらんなすみれの言葉に、青島は返す言葉も無く、じとーっとした目を後ろに向け、口を閉ざす。
閉ざされたと言った方が正しい。
そのすみれの推理に違わず、捜査資料に目をやりながら、確かに青島の思考もやはり飛んでいた。
よれよれに皺を作ったジャケットとシャツに、そろそろ何時締めたかも遠い記憶のネクタイが
最近の仕事ぶりを物語っている。
青島の何か言いたげなジト目を、すみれは涼しい顔をして受け流した。
「ねぇ、青島くんさ、なにか、あった?」
「・・・何で?」
「見てて鬱陶しいから」
「えぇ?俺そんなにうざい?」
「ええ、とっても」
何やら本店の方で動きがあったらしく、丁度タイミング良く会議は中断を言い渡され、待機が命じられる。
しめた、と思い、すみれは身を乗り出した。
これは願っても無いチャンスである。
それ幸いに、すみれは後ろから青島の座っているパイプ椅子を足で小突いた。
ガシガシと数回蹴ると、半眼で青島が振り返ってくる。
シャーペンをクルクル回しながら、今度は身体ごと振り返る仕草は、雑談に付き合ってくれるような素振りを感じさせる。
紅い口唇を横に引き上げ、すみれはまあるい黒目がちの瞳を煌めかせた。
暇、と言えば、時間を持て余しているのは事実だが、どちらかというと、眠気防止に近い。付き合わせるにはうってつけだ。
というのは、青島には内緒だが。
「青島くん、何日寝てないの」
「寝てないのは3日。でも家にはもう一週間くらい帰ってない。置きっぱなしにしてきたコンビニ弁当がそろそろコワイ。恐ろしいものに変身してそう」
「魔の3日目か」
「言うなって」
「雪乃さんも、心配してたのよ」
「あぁ、ごめんね」
「んん、いえ・・・、疲れもありますもんね」
気遣うように隣の雪乃は力無く微笑み、耳元に小声で話しかける。
「寝てないのは雪乃さんも一緒でしょ」
「それでも私は一度帰らせて貰いましたから。大分。・・・・青島さんは一度も寝てもいないですよね?仮眠は取りました?」
「んー、まぁ」
青島が曖昧に笑う。
――本当は、眠れてもいない。
眠りに入る直前の、レム睡眠状態に入ったぼんやりとした脳味噌は、何故か簡単に忘れたい記憶だけを呼び覚まし、頭の中で繰り返しリプレイし続ける。
眠りに落ちる直前の自制の効かない意識が、焦がれてやまないものだけを、掬いあげるのだ。
烙印のように知らしめる自分の記憶は、甘く鋭く、忘れたい程に鮮明に刻みつけ、夢の中で再三、青島を抉りたてた。
何度も。何度も。
思い出せば痛いだけの彼方は、取り戻せない苦しみを繰り返し焼き付ける。
今は、まだ、眠りたくない。
そんな状態は刑事として失格であることは充分承知している以上、それを青島が口に出すことはなかった。
すみれもまた、違和感を感じながらも、そこを問い詰めるようなことはしない。
何となく違和感を抱いているモヤモヤを振り払うように、勤めて明るい口調ですみれは話題を変える。
「――、あ~、だったらさ、久しぶりに室井さんとでもお酒でも呑んできたら?あの顰めッ面、忙しいの?」
「まだ事件チュウ」
「いいじゃない、次いつ休めるかも分かんないんだから」
「疲れた人間に酒呑ますのかよ」
「お酒を呑むことが目的じゃないわよ。青島くんは室井さんと会うとチャージ出来るでしょ」
「何の補給だよ・・・」
「まあ、どっちかというと、室井さんの方が青島くんで火薬に火を着けられるってイメージだけど」
「・・・」
「ぱぁあーっとさ!行ってきたら?」
男同士の方が話し易さや気軽さもあるだろうと踏んで発した言葉だったが、想像以上に青島が固まっていることで、すみれは凝視する。
「・・・・青島くん?」
「・・・あ・・・うん。そう、だね。機会があったら」
「何女々しい事言ってんの。電話でくらい呼び出しちゃいなさいよ」
「あのひと、あれでも一応高級官僚ですけど」
「忘れてたわ。・・・・でも時々呑んでるじゃない青島くんと」
「あれは――向こうからメールが来たりした時だけだよ」
「ふーん。・・・・来ないの?メール」
くるくるとペン回しをしていた青島の指先が止まる。
「――まあ、ね。忙しいんじゃない?」
視線を合わさず、淡々と吐き捨てる口調に、やっぱり何かの歪さを感じた。
それまで二人の夫婦漫才を黙って見ていた雪乃も、意味ありげな視線をすみれに向ける。
「何でよ?喧嘩でもしたの?まさか落ち込んでいるのって、それが原因とかいう?」
「・・・・・違うけど」
「じゃあ何」
「・・・・・」
だんまりで一点だけを見つめる青島は、まるで叱られている子供のようだ。
「ここまで話したら言っちゃいなさいよ。気になるでしょ」
「すみれさんが言わせたんでしょ」
「そうだったかしらね。・・・で?」
一歩も引かず、きょとんとすみれは片手で頬杖を付き、ストレートの髪を揺らして小首を傾げた。
敵わないなぁ、という顔をして、青島が苦笑する。
「室井さん・・・もう俺とは逢いたくないんじゃないかな・・・」
「天と地が引っくり返ってもそれはなさそうだけど」
「・・・・・・結婚でもすればって言っちゃった」
「大それた発言をしたわね」
ここまで口を開いてしまい、踏ん切りも付いたのだろうか。
青島が、切なそうに微笑を浮かべて、視線を落とした。
パイプ椅子に背中を預け、シャーペンを弄びながら、ぽつりぽつりと口を開く。
「あの人はさ・・・・律儀に全力で付き合ってくれちゃうからさ」
「酒の席まであのキャラ崩れないんだ・・・」
「・・・うん・・・・」
「なんか、ザ・室井さん、って感じですね・・・」
雪乃が呟いた台詞に、青島も吐息だけの笑いを零す。
「ものすごく、完璧であろうとするんだよ・・・俺にも。その分、自分に厳しいから」
「うっわ・・・息苦しそ~」
今度はすみれが舌を出して呟いた台詞に、くしゃりと苦笑を浮かべる。
「そうでもないよ、口数は少ないけど、真摯であろうとしてくれる分、意外と気さくで、伝わり易いし」
「男同士って分かんないわ」
「下手に媚売らなきゃならない相手より気を使わなくて済むし、ずっと付き合いやすいよ」
「それは・・・・なんか、分かります」
「そうね。下手な〝林檎磨き〟は見抜かれそう。・・・・見た目と性格はともかく、悪い人ではないのよね」
「見た目と性格ってすみれさん・・・っ」
すみれの解釈に、雪乃がたまらず吹き出す。
「だぁってさ、ちょっと取っ付き難いタイプじゃない?いっつもこーんな顔して。青島くんは信じているんでしょうけど、あたしはそこまでの誇大妄想は抱けないわ」
こーんな、と言って人差し指で眉間に皺を造って見せる。
「何でさ。室井さんのやろうとしていることは、みんな本気だよ?」
「頑張っているのは認める。でも、一人じゃ潰されるのがオチよ」
「・・・・厳しいですけど、本店の出世レースは私達には分かりませんもんね」
「それと人格は別じゃない」
雪乃がフォローを入れると、青島が口唇を尖らせて拗ねたような口調で重ねる。
それをすみれは肩を竦めて両手を広げて見せた。
凛として、荘厳な雰囲気を持ち、男としても貫禄のありそうな風情は、ちょっと格好良いな、なんて、うっかり思っちゃったりしていることは、絶対口に出さない。
「青島くんはどうしてそんなに室井さんの肩を持てるの?裏切られても捨てられても、揺るがない忠誠心には頭が下がるわ。何処かで捨てられたらどうするのよ?」
「俺は一度、あのひとの弱音を見ちゃってるからね。・・・このひとは嘘は吐かないってその時思った」
「インプリティングされちゃったのね」
「・・・・俺はヒヨコか」
「同じことじゃない」
笑いの止まっていなかった雪乃の笑顔が更に満面になる。
すみれにとって室井慎次とは、やはり鋼鉄なキャリア官僚だ。
青島と出会う前から室井の存在は目にしてきたが、その中で彼のやり方は嫌というほど理解させられてきた。
甘い綿菓子のような夢を託せる男だという可能性を潰したのは、所轄側ではなく、室井自身の自業自得だ。
だが、青島と出会ってからの室井の変化もちゃんと感じ取れていた。
そう変えたのが青島なのだと思っている。
ただ、まっさらな状態で室井と向き合った青島と違い
青島を介する以前の室井の冷酷非道で、血も涙も無い残忍なやり口は、忘れてはいない。消せるものではない。
長い過去と歴史、他キャリアの態度を長年見てきた経験が、すみれにそう簡単に夢想を抱かせるほど
現実を甘くは見せなかった。
青島よりも長い刑事人生が、本部中枢の根深さも理解させ、何処か一線で、現実と夢の狭間を警笛する。
「もう何年よ」
「・・ぇ・・・・、5年・・6年?」
「良く飽きないわね、お互い」
だからこそだろうか、無心に室井を慕える青島を、無邪気な子供のようだと思い、諫める一方で
その若く漲るエネルギーに賭けてみたくもさせられてきた。
この二人を、見守っていこうと思えた。
なのに、今、室井との仲で、ズレが生じているらしい様子が、苛立たしくも馬鹿らしくもある。
あれほどの共鳴を見せ付けられて、今更何を女々しく悩むことが起こるのか。
何より、青島がいつものエネルギーチャージを出来ず、室井に歯向かっていけないということは
つまり、事は、プライベートに関するものなのだ。
ということは。
「つまり結婚発言は、自分か遠ざけようとして言ったということね」
「何でそう思うのさ」
「これが仕事で、近付くなとでも室井さんに言われたのだとしたら、青島くんがプライベートまで口を挟む卑怯者とは思ってないからよ」
「・・・っ」
「流石ですね、すみれさん・・・」
ぐ、と言葉に詰まった青島とは対照的に、ほぅ、と、隣で息を詰めていた雪乃が拝む様に両手を合わせ、その気配を和らげる。
すみれは、黒水晶のような瞳を意思強く光らせ、嬉しそうに紅色の口唇の口角を上げると、黒髪を耳に掻き上げた。
「伊達に刑事やってないの。刑事の青島くんから室井さんを取ったら何が残るの?」
「言ってくれますね、すみれさん」
「何よ、愛と勇気だけしかオトモダチの居ない青島くん?」
「俺だってねぇ・・・!困っている人のために一生懸命なの!」
「節操無くいい顔してね!特に足の綺麗な女の子に!」
「いーじゃない、男の鏡でしょ!」
「結婚と室井さんの出世が同列だなんてカッコ付けて、結局構って貰えなくなって落ち込んでれば世話はないわ」
「ちょ・・・と!すみれさん、もしかして俺が室井さんと遊んで貰えないから寂しがっているとか思ってない?!」
「違うの?」
「違うよ!・・・・ん?・・・ぁ・・あれ?・・・違わない、のかな・・・?」
勢いよく噛みついたは良いが、発言に自信がなくなったのか、青島がしきりに首を傾げ始める。
それを、すみれは盛大な溜息を吐いてみせた。
何だか、必死な割にその矛先を見失っている青島が、妙に頼りなく、心細くも思える。
こういうところが、女心を擽ると言うか、ズルイところだと、すみれは思う。
「よくそんなんで、結婚しろなんて大口叩けたわね」
「・・ぅ・・・」
「大体自分こそどうなんだって話でしょ、こんな若輩者に言われちゃう室井さんの心中お察しするわ」
「お、お、怒ってはいなかったもん・・・」
「さっさと正直に言って仲直りしたら?ばっかみたいよ?・・・・出来ないならあたし、してあげようか?」
「う・・・ん・・・」
「なによ?今更カッコ悪いとか思ってるの?」
「すみれさん、俺を何だと思ってるの?」
「おっきなコドモ」
口唇を尖らせて、青島が向こうを向いてしまった。
「あ~あ~世話の焼ける子供だこと。・・・いいわ、じゃあ連絡入れてあげる」
「・・・・・・」
「青島くん?」
「あ~・・・、いいよ、そこは。そっとしておいてあげて」
「何でよ?仲直りしたくないの?」
「喧嘩した訳じゃないし・・・・それに、いいんだ。これで」
全然良いと思っていないだろうに、そう言い切る青島に、すみれは眉を潜めた。
何か少し違和感が残る。
そっとしておいて、という言い方ではまるで、傷ついているのは室井の方だと言っているようでもあった。
青島と会えなくなって、室井こそ辛い思いをしていることまで、青島も承知していて
その亀裂を修復しなくても良いのだと言う・・・・。
まるで、この事態は二人で話しあった上での結論であるかのようにさえ、感じられた。
だとしたら、何故青島がここまで辛そうなのかが、ちょっと説明がつかない。
青島と室井の仲は、こんな風に手切れで単純に消滅したり途絶えたりするものではないと、すみれは思う。
途絶えないものを、無理に断ち切ろうとするから歪曲するのだ。
お互い、そうしたくはないのに、時の流れが立場がそれを許さなくて、二人でこの決断を選んだ――
――なんだかそれって、赦されざる恋みたいね
となれば、〝失恋〟した青島に、これ以上、酒もなしに素面で問い詰めるのは過酷というものだ。
――無理するから、限界が来るんじゃないの・・・
何だか、青島が隠していることは、まだ沢山あるような気がした。
たかが結婚、されど、その裏にもっと根深い彼らならではの確執もあるのかもしれない。
何となく、それは根深そうで、こんな昼間の菜種色の会議室などで、軽々しく口に出して良いものではなさそうに感じた。
「馬鹿ね・・・・やっぱり男って」
「まあ・・・一応礼は言っとくね。ありがと、すみれさん」
「・・・昼食一回でいいわ。・・・・ねぇ、何で突然〝結婚〟だったの?」
「それは――、俺なんかに構っている暇があったらさ、っていう思いは前から多少あったし」
「そうねぇ・・・・」
「でも、室井さんは二度と俺を誘わないと思うから、お節介だったかもしれないね」
そんな訳はないだろう。
何より、あの頑固で無関心な室井が、プライベートまで興味のない相手とそれこそ仕事の延長のように付き合うとは思えない。
ましてや、青島からの心からの助言だと分かるなら、それを無駄にすることも、しないように思えた。
だとするなら、そうだ、室井の方こそ、この〝結婚〟という提案を、容易く承諾するとも思えない。
あれだけ青島に執着を見せている男だ。
「――・・・・」
二人の間で一体どんなやり取りがなされたのか。
尋常ではない事態な気がした。
そもそも何でそんな発言をすることになったのか、その原因を追及したい気もしたが、今は止める。
きっと、そこにある理由こそ、青島が落ち込んでいる最大の誘因だと勘付いた。
もしそうなら、青島はそこへ私達を踏みこませることはしないだろう。
想像以上に、きっともっと事はデリケートだ――
「まあ、イブにカレシとラブラブデートを企てている罪深きツワモノもここにおりますがね」
「ちょ・・・っ、すみれさん・・・っ」
慌てる雪乃の隣で、途端に青島が喜色ばんだ顔を向け、一変する。
青島のために、敢えて、話題を変えた。
追求すればするほど、真実は青島を追い詰めていくように見えた。
不用意に、ギリギリで繋ぎ止めている何かを破裂させてしまう気もした。
青島は、室井の方が傷ついているような言い方をしたが、青島だって辛そうなのは変わらない。
雪乃を嬉しそうな顔をして揄う青島を、少しホッとしたような面持ちで見つめる。
目を輝かせている青島の横顔には、少なくとも今は哀しみの色は見えなかった。
「え、何?真下とデート?」
「う~・・・、はい・・・クリスマスコンサートに・・・誘われました」
「イブ限定ですってよ」
「そりゃホテルも予約済みだね」
「やっぱそう思う?」
「思う思う。フルコースだよ」
「やーらしー」
「もぅっ、二人とも止めてくださいよぅ」
頬を染めた雪乃が真っ赤な顔をして泣きが入る。
「あはは、ごめんごめん、独り者のやっかみだと思って」
青島が笑いながら、良かったねと言い、雪乃の頭をぽんぽんとあやす。
揄いに頬が可哀想なほど染まっている雪乃が青島を見る目は、同僚のそれではないことを、すみれは感じている。
青島が救いだしてくれた世界へ、必要以上に肩張っているようにみえた。
今ある現実だけが、唯一で崇高な宝物であるかのような。
彼女の生い立ちを思えば無理もなく、強かに成長した雪乃には、その力もあるのだと思う。
青島も多分それを何処かで感じていて、雪乃の幸せは家族のように嬉しいんだろう。
心底包み込むような温もりを抱いているというのは、顔を見れば一目瞭然だ。
人の倖は、いつもちょっぴり塩っ辛い。
「八つ裂きにしたくなる幸せね」
「すみれさんは?イブ」
「だから、あたしが彼女の代わりにここで仕事なのよっ」
「あ~、そういうこと」
「だから奢るって言ってるじゃないですかぁ」
「え?奢らせるの」
「イタリアン」
目を丸くして青島が、くるんと振り返る。
すみれはウィンクして答えてやった。
「倖せ者に何タカってんだよ」
「バカね、倖せ者のおこぼれに預かりたいんじゃない」
「あ、そゆこと」
確かに、と言って、妙に納得したような青島が、天を仰ぐ。
「いいな~楽しそうだね~。・・・・・・・・・・・・・・・・・俺も行きたい」
「何で青島くんが来るのよ」
「だって俺もイブの日、仕事だもん」
8 発覚
風圧が変わったことで扉が開いたことを悟り、顔を上げると、上座がざわついていた。
急ぎ足で入ってきた影を目で追う。
室井だった。
途端に凍り付いた青島の表情に、すみれが微かに眉間を寄せる。
人々のざわめきで、すみれの隣で腕を組んだまま居眠りをしていた魚住も気が付き、首を延ばした。
「おや、室井さんですね、なんでしょう」
「代役?代理?」
「まさか。そうなったら先に新城さんの方に連絡入るよ」
「なんか持ってるなぁ」
ざわざわと、待機していた捜査員たちもさんざめき、空気がどよめく。
室井はそのまま、上座で新城と何やら話している。
資料でも持ってきたのだろうか。分厚いファイルを手渡していた。
皆が上席の動向に意識を向ける中、すみれの眼だけは違うものを映していた。
ぼうっとその様子を眺めている青島の横顔に釘付ける。
痛みという痛みが、全身から、見る者に与える、凄まじい哀傷。
・・・何だって言うの?
室井が突然くるりと振り返る。
視線が彷徨い、それが、青島の上で止まった。
青島の身体がビクリとしたのが、後ろのすみれにさえ痛みを伴って肌に突き刺さる。
・・・怯えている・・・何かを警戒している・・・?
室井が徐に近づいてくる。
コツコツという靴を鳴らす音は、時計の秒針のように、何かの刻を閉じるように迫った。
鎮まり返った大会議室に唯一の音を立て、息を顰める舞台の中で、唯一つ凛然とした息吹が、浮き立ちあがる。
その規則正しい音は、青島の所まで来て、静かに止まった。
視線を落としている青島の視界に、細長くスラリとした指先が延び、デスクの捜査資料を軽く押さえ付ける。
俯いている青島の背中が竦んでいるのが、後ろのすみれには手に取るように空気で伝わった。
会議室中の視線が、ここ一点に集中していた。
誰も言葉を発しない。
時が止まったかのように、皆が動向を委ねる。
息吹さえも、凍り付いたような、深閑の一瞬。
緊張に包まれた空気の均衡を破り、視線も合わせられない青島の上から、凛とした声を降り注がせたのは
やはり、室井だった。
「新城の許可を取った。時間をくれ。話がある」
そして、もういっそそのまま帰らせていいからという勢いで急き立てられ、室井が青島の腕を荷物を担ぐように引っ張り、会議室を出ていく。
去り際、上段の新城に目配せなんかして挨拶している所を見ると、本当に青島の意思なんか右にも左にもない。
青島が何やら文句を言っているその様子が、父親に迎えられた子供ような意識格差があり、すみれは先程の尋常ならざる畏怖を忘れ、内心苦笑した。
ひらひらと手まで振ってやると
いーって歯を見せ、縺れる足を何とか動かして、青島が室井に引き摺られていく。
「なにすんですか、室井さん!」
「俺、自分で歩けます、から・・っ!」
「あんまり引っ張るとねぇ・・・」
ガタンという扉の閉じる音と共に、青島の戯言は扉に遮られる。
会議室には再び静寂と安穏が戻った。
会議室内のボルテージが抜けるのが分かって、緊張してたのはみんな同じだったのねと、どこか人ごとのようにすみれは思った。
そのまま、青島は会議には戻ってはこなかった。
*:*:*:*:*:
捜査会議は程無く一旦中止となり、解散となった黒だかりの群れが、ゾロゾロと扉から流れていく。
その波に乗って、皆が下に降りて行くと
角から手招きしている影が目に入った。
「ちょっと真下くん?!何やってんの?」
「しいぃぃぃ・・・・!・・いいからこっち!来て!」
人差し指を立て、口止めを促しながら、真下が二人を手招きしている。
すみれは隣の雪乃と目を見合わせた後、周りに視線を走らせ、誰も自分達に注目していないことを確認してから、さり気ない振りをして脇に逸れた。
「こっち!来て下さい!」
「なんなのよッ」
「痛いですよ、真下さんっ」
雪乃とすみれは真下に腕を取られ、コンピューター室に、無理矢理押し込められる。
人気がないのを確認したあと、真下はバタンと扉を閉じて鍵を掛けた。
まるで、映画の逃亡者気取りだ。
途端に、すみれの勝気な口が開く。
「あんたね、美しい乙女を二人も誘拐して!逢わない間にそういう趣味に目覚めたの?」
「乙女って・・・。いや、外じゃ出来ない話なんで」
「やらしー話ならお断りよ」
「すみれさんっ」
むくれているすみれに、雪乃が袖を掴んで止めさせる。
勿論、長い付き合いだ。真下もすみれが本気で怒っている訳ではないことくらい、知っている。
いつまで経っても腰の低いキャリアは、そのまま目を光らせ、目的を口にした。
「ごめんごめん、ちょっと変な噂聞いちゃってね。それで先輩のことも気になって」
「真下くんも?」
「もって?」
真下の眼が、予想外の女性陣の反応に何かを聡り、動作が止まった。
それを見たすみれと雪乃も、なんらかの不穏を察し、顔を見合わせると、あれほど騒いでいた口を失ったように閉じる。
剣呑な空気の色が、奇妙な焦りと動揺を生み、心に細波が立つ。
少し、空気が重たい。
「先輩に聞きたいことがあったんだけど・・・・今日いないですよね。どうしたんですか?」
真下の促しに、二人の女は顔を見合わせ、口々に言葉を連ねていく。
「実は――・・・、なんかここんとこずっと変なんですよ。大人しいし、ぼぅっとしていること多いですし」
「ちょっと心、此処にあらずって感じなのよね。お昼も消えちゃって・・・」
「余り食べていないみたいですもんね」
「そうそう。あの三度の飯と惰眠が大好きな青島くんがよ!?」
「・・・ふーん・・・」
「普段なら放っておくんだけど、ちょっと根が深そう。・・・何があったか知っているの?」
「放っておくんですか・・・。で、それ、いつから?」
「何よ、本当に心当たりでもあるの?」
「あるかも」
真下が返答に、すみれが目を見開いた。
隣接する廊下の喧騒が、少し、遠く聞こえる。
「で?その本人は今どこ?」
「さっき・・・・・室井さんが来て、連れてっちゃった」
「室井さんが?・・・そうか。じゃあ、やっぱり」
「やっぱりって?」
暫く腕を組んで空を見つめたまま、真下は何かを考え込むように首を傾げる。
「なによーぅ、勿体ぶらないで教えなさいよ」
「すみれさんが開けっぴろげ過ぎるんですよ」
「失礼ねぇ」
ストレートの黒髪をさらりと揺らしながら、すみれが下から真下を睨み上げるのを、真下は笑いながら片手で諫め
隣で立ち尽くしたままの雪乃を覗き込んだ。
「ねぇ、雪乃さんさ、この間、先輩と一緒に通報に向かった時、一人で帰ってきたことあったでしょ。あの時、接触してきたのって誰だったか覚えてる?」
「何それ?・・・そうなの?」
「ええ、すみれさんが居ない時だったかな」
すみれの問いに人差し指を顎にあて、回想するように雪乃が頷くと
真下も大きく頷いてみせ、雪乃に視線で続きを促した。
「その時のこと、もう一度」
「え・・・?え、と・・・すいません、わたしちょっと、分からないです。黒っぽいスーツを着て、黒いサングラスを掛けた、知らない男性二人でした」
「何その妖しげな格好」
「そうなんですよ。でも、警察手帳見せられて・・・・。その後、黒光りする車に乗せられて、青島さん、何処かへ連れて行かれちゃいましたし」
「拉致?!」
「あ、そういうことになるのかな・・・」
今更のように、口元を覆い、雪乃が動揺を見せる。
「落ち付いて。ね、大丈夫。まだ何事にもなっていないから」
穏やかに告げ、真下は静かに後ろ手で、PCモニタの電源を入れた。
それから雪乃の肩へ両手を置き、ゆっくりとPCの方へと身体を導いていく。
少しだけ真下が両手に力を込めれば、雪乃の身体は促されたように椅子へと沈み込んだ。
「雪乃さん、ゆっくりと思い出して・・・。その時の二人の顔、覚えている?」
「あ、はい・・・」
混乱を麻痺させるような抑揚の少ない口調に誘導され、雪乃が椅子に座ると、真下が背後から覆い被さり、ネットパスを入力し始める。
本庁メインコンピュータへアクセスし、警察官名簿を呼び出した。
「その人たち、この中にいるかな?」
パッと出されたモニタに、雪乃の視線が向けられた。
着いているポスト順に並べ直されたそのリストが、スクロールで下から上へと流れていく。
顔写真を息を殺しながら、見逃すまいと、雪乃の視線がモニタの光を帯びた。
階級上位の者から洗っていく。
直ぐに、その人物が映しだされた。
「あ!この人!」
「この人か・・・」
「この人って・・・」
すみれもモニタを横から覗き込んできて、三人の身体が密着し、顔がブルーに反射する。
「安住副総監の直属の部下だね。ほぼ秘書的な立場にある・・・」
「ん、もう一人はこの人でした」
「ああ・・・・、ナンバー2ね」
「ということは、副総監が青島くんに接触してきたの?」
すみれの当然な疑問に、真下も低く唸る。
「どういうことだろう・・・」
「青島くんくらいの階級じゃ、幾ら有名人でも接触するメリットないわよ。何の用だったのよ」
「・・・・・」
暫く沈黙を引いた後、真下が再び口を開いた。
「雪乃さん、他に彼らについて何か気付いたことない?」
「え・・・えと、急にそう言われても・・・・」
「何でもいい、口にしてたこととか」
「あ!〝室井さん〟って言ってた!」
「室井さん?」
「室井さんのことについて相談したいって」
「え・・・、ちょっとそれってどういうこと?」
声色を更に高めたすみれを余所に、隣で真下が更に何かを考え込んでいるように、腕を組む。
応えてくれないことが、余計不安感を煽り
すみれは真下の二の腕を、幻に縋る面持ちできゅっと掴んだ。
「ねぇ、室井さんが何かに撒き込まれているんじゃない?」
「だとしたら、もっと本店で噂になってますよ」
「じゃあ、室井さん自身が派閥を望んだんじゃない?・・・・一匹狼キャラに疲れて」
「それなら、正攻法で安住の身辺を探ればいい。そもそも安住サイドが先輩に近付く理由がない」
すみれの疑問に、一々真っ当な反論を冷静に返す真下に、流石にすみれも、疑惑を更に強めることしかできなくなり
言葉を途切らせた。
沈黙は次第に、気持ちが乱れる嫌な追い風となっていく。
「妙だなぁ・・・・」
「もう聞きたくない気もしてきたけど・・・・何が?」
「室井さんをいたぶるのはいつも池神派の方で・・・・」
「Sっぽいもんね・・・」
「それはお気に入りの裏返しであるのは本庁では周知のことで・・・」
「Sの典型ね・・・・」
「今回接触してきたのが安住派となると・・・・」
「三角関係?」
すみれの台詞に、ほんの少しの揺らぎを見せ、微笑の反応を見せた後、真下が口元を強張らせた。
黙っていた雪乃も、二人を見上げ、呟く。
「庇ってくれるつもりでは・・・・ないですよね」
「そう。しかも、わざわざ室井さんの名前を出して先輩を拉致したことを合わせると、安住が仕掛けたのは、やっぱり、室井さんに、なのかもしれない」
「・・・・!」
「それって、どういうことになるの?」
「しかも、それが今尚公になっていないところを見ると・・・・・口止めされている可能性も出てきちゃった・・・」
「ちょっと・・・・コワイこと言わないでよ・・・」
しん、と、鎮まり返った室内に、CPUの稼働音と空調が温もりのない装飾を重ねていく。
室内がまた一層重苦しく閑寂した。
いつの間にか、コンピューター室の周りも人影がなくなり、建物の中は水を打ったように閑散となっている。
「・・・・ねぇ、何が起きているの?」
「分からない・・・・。青島先輩、何抱えているんだろう・・・」
真下が恭しく身形を整え治すと、神妙な顔をして語り出した。
「実は今、本店で怪しい動きが水面下で繰り広げられているんですよ」
「何で水面下なのに真下くんに分かるのよ」
「そこ茶々入れない!・・・ほら、僕は父さんに聞いちゃったというか」
「相変わらず、ぼっちゃんねぇ」
呆れたすみれとは対照的に、雪乃は頬を強張らせ、口を挟む。
「怪しいってどういうことですか、真下さん」
「詳しいことまでは分からないけど、突然の人事とか、絶対バレそうもない情報リークとか」
「内部告発があったってこと?」
「そこまでは。でも、明日発売の週刊誌に叩かれる内容は、絶対関係者じゃないと分からないものなんですよね」
「悪いことするのが悪いのよ」
ふん、とすみれが鼻を鳴らす。
「すみれさん、相変わらず容赦ないですね・・・。でも問題なのはそこじゃありません。何故このタイミングなのかってことです」
「どういうこと?」
「このタイミングでリークされたものは少なからず長官選抜に影響を与えます。そこに狙いがないとは言わせない」
「なんだ、政治か」
すみれが腕を組んで、テーブルに寄りかかった。
そのまま視線をクイっと真下へと上げる。
「いよいよ巨山が動くのか。で?それと青島くんが、どう繋がるのよ?」
「そう、そこ!」
真下が思い出したように、指を向ける。
「そんな週刊誌のリークが派手になってきた先頃、実は僕、先輩から安住について内密に知っていることがあったら教えてくれって頼まれちゃいまして・・・」
「ええぇぇぇ?青島くんが?」
「そう!このタイミングですよ!これ偶然かなって。絶対何かあると思いません?」
心中穏やかでいられなくなったのは、三人とも同じだった。
何か、物凄いことが起こり始めている気がする。
いや、もう多分、水面下で何かが始まっているのだ。
やがてそれは、私達も無関係ではなく、撒き込まれていく大きなうねりのように。
「その辺をもう一度確認したくて、今日ここまで来たんですけど・・・」
「室井さんの方に何か変化はないの?」
「それがですね、ちょっと忙しそうで、あんまり目立った感じはないんですよね」
「そっか・・・」
「僕、てっきり室井さんが自分のキャリアを上げるために、先輩の名を使って安住の弱点でも探っているのかと思ったんですよ。探り所がバレないから」
「まさか、そんなセコイことしないわよ、あの朴念仁は」
「そしたら接触してきたのが、逆となると・・・・これって・・・・・」
三人が顔を見合わせる。
「ね・・・ねぇ、キャリアアップを依頼してきた相手を、わざわざ素行調査させないわよね・・・」
「さっき、室井さんが怒ったみたいに青島さんを連れ出して行っちゃったんですけど・・・」
「そもそも青島くん、もう室井さんと会えないって言ってた・・・・」
「それって・・・・何かに脅された・・・・?」
その先は、もう、誰も言葉を発しなかった。
すみれの頭の中で、さっき強引に青島を連れ出した室井の精悍な顔つきが脳裏を過ぎる。
あれは、きっと何かを問い正しにきたに違いない。
子供騙しのような結婚相談も、それを、室井が納得して承諾するなんて、やっぱりどこか違和感がある。
室井が言いだしたならともかく、あれだけ青島に全てを捧げているような男が、そんな他愛ない口約束に付き合うだろうか。
だが、事は室井の身上に関わることだったなら。
青島は簡単に身を引きそうな気がした。
そうなった青島は、きっと早々決意を変えたりはしない。
青島の『結婚しなって言っちゃった』という台詞が、この件と、全くの無関係ではなかったことを、室井は知っているのだろうか。
後は室井の才腕次第だ。
巧くやってくれるといいんだけど――
雪乃の頭の中では、先日愚痴を零した時、言っていた青島の言葉が蘇っていた。
『好きって言って貰えるだけ、幸せだと思うよ』
感謝にしろ、尊敬にしろ、気持ちを伝えることすら許されない相手。
それは同時に、それほどまでの強い熱情を持たせた強さで相手を想い、慕っている表れ。
だけど、青島はさっき、もう、逢って貰えないと、零した。
もし、それが、本人の意思ではなく、この不可抗力の副作用なのだとしたら――
「やだ、真下さん、どうしよう・・・!」
「うん、大丈夫、大丈夫だから。ちょっと探り入れてみるよ」
