箱庭1.5










5 決断
室井は久々に早く仕事を上げた足で、とっぷりと陽の落ちた街を急いでいた。
湾岸署で聞いた、青島が向かったという河原の現場に向かっている。


最近青島の様子が少しおかしい。
電話もメールを途絶え、返信もない。
仕事が立て込めば、そんなことはこれまでにもあったが、署で聞いた限りではそれほど忙殺されている様子は無かった。
そもそも室井と違い、青島は用がなくとも何かにつけ、きめ細やかな態度を示してくれていて、普段は何かしらの応答があった。
だが、ここ暫くは何のリアクションもない。
それが室井に疑惑を抱かせる。

何かあったんだろう。
こんな時に頼りになれないことが、二人の関係のもどかしさを浸みさせる。


もっと近くで支えられたら。もっち近くで寄り添って生きていけるなら。
だが、それをすることは、二人に横たわるもう一つの重要な役割での絶妙な距離感を、消してしまう恐れがあり、迂闊な態度はどうしても取れなかった。
どちらも室井にとっては雁字搦めになる、大事な絆なのだ。
その両方の袂が、唯一の人間・・・青島へと続いている。
この偶然は、奇跡だと室井は思う。

好きなのに近寄れない。好きでも近付けない。
だけど一番掛け替えのない人物。
二律背反は、二人の関係に強い影響力を与え、独特の価値観を生み出していた。
何より、もうその躯に一ヶ月以上も触れていない。



通報があったという現場にはブルーシートが張られ、人だかりが出来ていて、直ぐに分かった。
ビルの影から暫し様子を窺う。
恐らく、所轄なら入れさせて貰えないから、その辺をうろついている筈だ。

暫く通りの様子を見ていると、一角が騒々しくなり、見慣れた面々が顔を見せた。
何やら輪になって話している。

ほんの少しして、青島だけ別行動になった。そっちは駅方向だ。
今日は解散になったのだと察し、後を追う。


河川に平行する畦道を進むと、やがて人気は無くなり、閑散としてくる。
川沿いの土手を、旋風が走る。



土手を離れ、路地の暗がりに入った時、、室井は角から手を伸ばし、青島を引き寄せた。

「う、わ・・・っ」

腕に倒れ込んだ身体を抱き留め、愛しい久方の体温が伝わる手首を掴み、掠めるように後頭部を胸に引き寄せる。
触れたかった温もり。恋しかった香り。

一瞬強張った青島も、相手が室井だと分かると緊張を解いたのが感じられる。

だが、羞恥なのか、外野だからなのか、反応は鈍い。
口唇が触れそうな距離のまま、頬を撫で、その瞳を覗き込んだ。
しっとりと室井を映す、その電灯に浮かぶキャラメル色の宝石。
室井は魅入りながら、風で頬を掠っている髪を梳き上げた。


「久しぶりだな」
「・・・・外でこれはないでしょう」
「悪かった・・・」


青島がゆっくりと身体を離す。
そのまま室井に背を向けて手の甲を当てる仕草は、照れていることを窺わせた。
青島の後ろ髪に寝癖が見える。

腕の中の体温の消失は、室井に一瞬だけ一抹の寂しさだけを与えた。


青島を抱き締めて目覚める一日の始まり。
その瞳に映り、青島に取り込まれている安穏。
唯一人が齎す実感と確信は、自己肯定感を強め、溶け合ってしまいたい程に狂おしい。
確かな、そして強かな土台がそこにはあって、彼が応援し味方し背中を押してくれるからだけではない、満ちる愛しさが、室井を育てていく。

室井が青島に触れる時、誰にでも優しくなれそうだったし、全てを許せそうでもあった。

それは、中立的且つ悲観論で当たることの多い職務では、その能力の欠如に繋がりそうだが
心の余裕は視野の余裕に繋がり、キリキリしている同僚を尻目に、傍観できる貫禄と品格を身に付けた。
多くの男が家庭を持つことで芽生える自覚と威容を、室井は青島によって得ることが出来ている。

独自の価値観で繋がり合った二人に、室井にとっては確かな意味がそこにあった。



「忙しかった訳ではなさそうだが」
「連絡しなかったの、怒ってます?」
「いや・・・・、心配はした」
「それは・・・・すみません・・・・」
「いいんだ。何かあったのか」


青島が少しだけ口元を綻ばせ、下を向きながら、足で地面の石を無闇に弄ぶ。

何か言い難いことを言おうとしている。・・・恐らく。
ここにきて初めて室井は、何かしらの不飽和を感じた。

青島は元々明るく社交的で、人に対してとてもオープンだ。
滅多にこのような曖昧な態度から相手に隙を与えるような真似はしない。


「・・・今日は?」
「仕事は上がった。たまにはこんな日もある」
「そか・・・・」
「久々に時間が取れたんで、逢いに来たんだ・・・が。迷惑だったか?」
「まさか・・・」


青島が小さく笑う。

なのに、何かは分からないままに、急速に、室井の胸がざわつきを細波立て始める。
呑気に逢えたことに歓喜する自分とは対象的な温度差を、青島の心に感じ取る。
二人の空気がぎこちないことを、肌や本能が掴み取っていた。

秋の夜風が、一段と冷たさを増した気がした。


そのまま口を挟めず、口籠っていると、青島が静かな口調で口を開き始める。

「あの、さ・・・」
「・・・・・」
「室井さんさ・・・・、やっぱりさ、結婚しなよ」
「急にどうした」
「・・・・」
「・・・青島?」


口の中で呟くように名を呼ぶと、青島が意を決したように身体を室井に向き合わせた。
だが視線は落とされたままで、柔らかい細髪が秋の風に揺れて瞼に落ちる。
いつものコートがふわりと舞う。
表情は良く見えない。


「ごめん・・・・」
「何に対してだ」
「ごめん、なさい・・・・俺・・・・」

必死に何かを噛み締めている青島に、無意識に足が一歩踏み出る。

「何があったんだ?」
「違う・・・・俺、」


風の音なのか、遠くの鉄橋を渡る列車の音なのか。
ゴォーッという地鳴りのような響きが耳と胸を底から叩く。

嫌なざわつきが胸に広がり、頂点に達した。


「実は、ですね・・・俺・・・、気になる娘、出来ちゃったんだよね・・・・」
「・・・!」
「・・・・」
「気になる、とは」
「室井さんのことは、今でも同じ気持ちだし、大切なんだけど、やっぱり恋じゃなかったのかなって・・・。それで、ちょっと時間欲しくて・・・」
「一人で考えたかったのか」
「うん・・・・」
「答えは出たのか」
「・・・・うん・・・・」


秋の風が二人のコートを巻き上げる。
そう言えば、秋にはあまり良い思い出が無い。


「結婚、したいと思ってる」
「惚れたと?」
「分かんないけど、俺が大事にしてやりたいっていうか」


室井は凍り付いたように動けなかった。

青島の言葉が耳から耳へと抜けていく。
呆然と突っ立ったまま、受け止めきれない、受けとめたくない現実が圧し掛かる。
突然すぎて、嘘のようにしか、聞こえない。だが、青島の強張った表情が、それを真だと告げている。
違和感と非現実感の落差に、思考がぐちゃぐちゃに乱される。

その渋い苦みを、頭の中で幾度も反芻した。



結婚――
付き合っている間にも、何度か二人で話したことがある。
添い遂げたいと思える相手は、室井にとっては青島だけだったが、それは室井の一方的な意思であり
付き合っている頃から、確かに青島は何処か迷っているようではあった。
しかしそれは、恋の成就とは無関係に、室井の立場を推し量る慎みから、躊躇っているのだと解釈していた。

だが本当は、真実、終始恋に疑問を感じていて
その想いが今、女性の存在で実を結んだということなのか。

いやそんなことよりも!

青島の心が今、室井にないなんて・・・!


ドクンという鼓動と共に、言われた言葉がようやく実態として室井の中に落ちてきて、キリキリと内臓を締め上げる。


熱く汗で滑る肌を重ね合わせた日々が、遠く色褪せる。
青島の情愛が自分以外の者に向かうなんて、おこがましくも、有り得ないと思っていた。
身を切られるより叫び出したい痛みが広がる。

久方に逢えた青島が、随分を遠い人のように思えた。


「分からないって・・・ことは・・・まだ、気持ちを伝えていないのか」
「流石にそこまでは出来ませんよ・・・急すぎでしょ」
「俺への気持ちも変わらないと言ったな。だったら・・・その、もう少し待っても・・・良いか」
「う・・・ん、でも・・・」
「別れたくない・・・・」


零れるように室井の口から懇願の言葉が出た。

こんなに大事なのに、こんなに好きなのに、まだ、愛の結晶は自分でも底知れないのに。
行き場を失くした零れるばかりの情熱が、腹の底で灼熱の刃と変わり、室井自身を突き刺していく。


「嬉しい、ですけど・・・。でも俺、他の人好きっぽいみたいだし。やっぱり・・・」


そう告げる青島の言葉は淡々としていて、未練など微塵も感じさせない。
伝わってくるのは、嫌いになった訳ではない室井への変わらぬ信愛と申し訳ないという気持ち。


「もうそろそろ潮時かなとも思うんですよ。あんたはやっぱり上へ行く人だし。結婚は強力なカードだ」
「そんなものに頼るつもりはないと言った筈だが」
「うん・・・・だけどいつまでもそんなこと言っていられないことも分かってるでしょ」


青島の中で、やはり室井の意思など、何一つ伝わっていなかったことを感じ取る。

どんなに説き伏せられても、室井には演技で家庭を造りあげる器用さは持てなかった。
外でなら、仕事と割り切り、幾らでも鬼にでも蛇にでもなれたが、プライベートまで拘束されては室井の芯が削がれる。
それは、冷徹な仮面を被る官僚としての男の、唯一の弱点でもあった。
青島以外の人間と、私生活を共にするなど、今の室井にはもう考えられない。

それを、何度か説明したし、そこは理解してくれると思っていたのに。
青島だけは、その気持ちを、分かっていてくれると思っていたのに――!



「もしかしてこれって、舞台が整ってきたんじゃないかって。俺たちの・・・先へ。未来へ進めって」
「・・先・・・」


青島にとって、二人の時間は、人生の中の小さな夏休みみたいなものだったのだろうか。
そんなつもりで愛してきた訳じゃないのに。

二人の間にあったシビアな現実がまるで大きな壁のように圧し掛かり、途方も無く聳え立つ。


「だったらあんたを送りだすのも俺の役目でしょ。こればっかりは譲れないし」
「・・・・・」


その瞳に、何処か違和感を抱くが、すぐに圧倒的な喪失感にすり替わる。

青島が、自分から旅立とうとしている。
それが、こんなにも受けとめられないのは、自分のエゴなのではないか。
果たしてそれは、愛と言えるのか。


「本気、で言っている・・・・のか」
「・・・ええ」


足元の叢から聞こえるカラカラとした虫の音は、何も心を慰めることはなかった。
握り締める拳が小刻みに震えている。


最後に逢ったのはいつだっただろう。
この腕に熱い躯を抱き留め、甘い肌に溺れたのはいつだった?
きちんと青島からのメールに返信したのはいつだったか。

想起される不義理と取り留めない追憶が混在し、思考を掻き混ぜ、室井の口から言い訳を奪う。


「・・・ッ」

溜まらずに、目の前の腕を引き、腕の中で確かめた。

柔らかい肉感。少しの煙草の匂い。頬を掠める猫っ毛の細い髪。
みんな、みんな知っている、変わらない感触。
確かに、確かに同じ青島はここに居る・・・!

なのに、心だけ、どこで採り零したのだろう。


後ろ髪を掴み、口唇を近付けた。
熟れたような口唇が濡れ、僅かに喉を逸らして、カクンと青島が力を抜く。
しっとりとした無機質なガラス玉が、水面に浮かぶ月のように室井を映していた。


「さっき・・・・抱きしめても嫌がらなかった」
「突然で、びっくりしちゃって・・・・」


お互いの、もう知り尽くしている熱を帯びた吐息が口唇に掛かる距離で囁く言葉はまるで、睦言のようで、でも心を冷やしていく。
室井は動けずに、ただ、青島の瞳をじっと見つめた。


「ヤりたきゃヤればいい。でも、俺はもう・・・・・あんたの元には戻らない、かな」

見慣れた、いつも室井を映すその瞳が、もう何の熱も帯びていないことを知る。
ああ、もう青島の中では終わっているのだ。


室井は一度眼を強く閉じると、再び力強く息を吐いた。
ゆっくりと青島を腕の中から解放する。


「・・・乱暴をした」
「・・・いえ、俺・・・の方こそ、あわよくば自然消滅なんて都合の良いこと考えてごめんなさい。ちゃんと言うべきだった」


『自然消滅』
その言葉が、今までのどんな別れ文句よりも室井を冷たく切り裂いた。

青島の中で、自分はもう大切にすることもない存在なのだ。
大事にする価値がなく、きちんとする気力も湧かない存在だと知らしめた。
男が男の友情を大事にする。
それは、今までのような密接した温度ではなく、こういうさっぱりしたものなのかもしれない。
傷つくところじゃない。
だけど、何より室井を打ちのめす。


「分かった・・・・」
「室井さん・・・」


室井の無言の返事に嗚咽を呑み込み、青島が下を向いて白い歯を覗かせる。
少しホッとしたような、柔らかい笑みが滲んでいた。
室井の返答に、吐息を乱しながら、青島が前髪をくしゃりと握り潰す。


「もう、終わりなんだな・・・・俺たちは・・・」
「・・・・はい・・・・」

苦しい。息が詰まり、胸が鉛のようなもので圧迫される。
震える身体を抑え込み、歯を食いしばる。

「不甲斐ないな・・・」
「いえ・・・・、別れても、俺は室井さんを信じてます」
「約束を果たすことを、誓う」


青島の声が心細そうに震えるのは、室井に同情しているのか。
彼の優しさが、今は痛いほどに、苦しい。

「警視総監にならなきゃ、ここも、無駄になっちゃうんですからね・・・っ」
「ああ・・・」


前髪が秋風にさわさわと羽ためき、乾いた風は、男の涙を消していく。


「俺を、恨むか」

青島が目を瞑り、緩く首を振る。

何となく、青島の方が辛そうだと思った。
そうさせたのが俺なのなら、これで、良かったんだ、きっと。


「そんな・・・こと。俺、こそ・・・・」
「・・・楽しかった。これまで」
「・・・はい」
「きっと、これからも、もっと楽しくなるな」
「はい・・・、・・・・ッ」


破裂しそうな想いを呑み込み、穏やかに口を開けば、青島の方が堪え切れずに嗚咽を漏らす。
目には微かに水滴が浮かんでいて、それが月の光を反射してキラリと瞬いた。


これが最後になるのなら。
室井は遠慮をせずに、その涙を堪える青島の瞳をただじっと見つめた。
泣きたいのは、こっちなのに。
でも、俺にまで泣かれたら、きっと青島はここから旅立って行けないだろうから。

窒息しそうな胸の裡は、泣けそうにもなかった。

青島は勘の良い男だ。
多分、自分だけが己の幸せに没頭することが出来ず、立ち止まったままに見える室井に遠慮して、先に踏み出せずにいるのだろう。
青島の心遣いが心に沁みた。

だが、今は、それさえも冷たく。


「・・・・ッ、あ~・・・と。この際、室井さんもご結婚を考えたらどうですか?俺たちの約束もいよいよ走りだす時が来たのかも」
「良い機会ということか」
「ええ」


成程。そこでこう繋がってくると言う訳か。

とてもそんな気にはならない。
何より大切で、生涯を賭けると密かに誓っていた相手は、青島だけだ。
他の誰にも室井をそこまで決意させた女はいない。
今だって、青島を誰か他の人間が指一本触れることさえ、腸が煮えくり返る程の苛立ちが身体を駆け巡る。
誰にも、渡したくないのに・・・!
誰より大事だった・・・!

だが、その相手が今、静かに消えていく。
消えていく相手から、別の恋を進められるなど、どれだけ惨めなことか。
この世にこんなに辛い想いがあるなんて。


「考えてみよう」

苦しさを悟られないように、ヒリついた喉を動かし、強張った頬で何とか顔を見ずに答える。
隣で青島が、少しだけ息を呑んだのが伝わった。



秋の夜風は夜半に入り、肌に冷たかった。
乾燥した空気の匂いと、混じる土の匂いが、冬の訪れを予感させる。
月灯りを浴び藤色に輪郭が縁取られる二つの影が、重なることなく闇に混じっていく。
直ぐ隣に立っている筈の青島は、広大な宙に溶け込んでしまいそうな程、蒼くキラキラと星を散りばめて見えた。

だけど、気付いているのだろうか。
青島は一度も室井と視線を合わそうとは、しなかった。


僅かな二人の距離が、身体の奥まで浸み込み、凍りつかせていく。
そう言えば、あの秋の日も、こんな夜だった。

秋はやはり、良い思い出が無い。



「・・・・じゃ、俺・・・これで」
「・・・気を付けて」
「室井さんも」


ゆっくりと、青島が背中を向け、去っていく。
大好きだった時代が、閉じていく。

愛している。愛していた。
一度も告げたことはなかったが、そのくらいの烈しい灯で、抱いていた。
行き場を失った熱が胸を焦がし、息を詰まらせる。



「青・・・島・・・・」

もう、声は届かなくなってから、小さく口唇に刻んでみる。


どうして良いか、分からない。この先をどう生きていけば良いのか。・・・青島がいない長い生命の時間を。
一つの拙い愛情など、生命の前ではあまりに脆く。


「あ、お・・・しま・・・ッ」

きっと、あの男が自分を変えた。あの男の存在が、心の光となって自分を照らしてきた。
なんて簡単に壊れるんだろう・・・・。あまりに脆い硝子の欠片が、突き破り、血を流す。
こんなことで、壊れてしまうのだ。
自身の置かれた立場や結婚などの、しょうもない役目で。

息苦しく、圧迫するものでしかない苦しみは、そこから止め処なく湧いてくる。
俺たちを繋ぐものは、こんなにも儚いものだったのか。

命の芽吹く未来全てが、重く圧し掛かる。
6年という、過ごした過去の密度も、重く圧し掛かる。
間は錆ついて動かない。方位を失った舟は標識を見失うんだ。・・・・おまえがいなければ。



途方もない喪失感が襲った。
言い知れぬ恐怖は足元の闇から身体を強張らせ、息さえ奪った。
グニャリと視界が歪み、世界が曲がる。

その膨大な虚無感の中から抵抗するように溢れて来たのは、言葉でも想いでも無く、涙だった。



鞄を握る拳が、悴んでいるのか、痺れているのか。力を抜けずにギリギリと握り締められていた。
足が、草むらの雑草に成り変わったように、植え付きピクリとも動かない。

いつの間にか、虫の音も途絶えていた。



「・・が、いなければ・・・・、いなきゃ、どこにも行けない・・・ッ」

絞り出した悲痛な声は、誰に届くこともなく、冷たい風に掻き消される。



青島が坂を降り、角を曲がり、その後ろ姿が見えなくなっても、室井はそこから一歩も動き出すことが出来なかった。














back     next            menu