箱庭1
1
策謀
-警視庁最上階。とある一室―
「ではそろそろ接触を?」
「そう、だな。先手を打ちたい。機は熟している。決起には良い頃合だろう」
「準備は整っております」
四十代半ばくらいの男が肯く。
「ああ・・・・時期的にも尻尾を掴んでおくに越したことはない。向こうも一気に決着を付けられるとは思っていまい」
「どう出るおつもりで」
「誰が良いか・・・・」
コツコツと机を弾く音。
「――室井を使うか」
「地盤固めならいざ知らず、東大派閥でもない彼では効果は今一つなのでは?」
「・・・・そう思うかね?」
「彼に何が出来ると?」
「利用価値は、使う方ではなく、あると思っている人間に使うから、効果が出るんだよ」
「・・・・・」
「室井くんは兼ねてからの彼のお気に入りのようだからね。それを私が奪ったと知ったら、掠り傷は越える。チェックメイトの日も近い」
「しかし室井自身、かなりの信仰主義です。扱い辛くなれば我々の方の統率に乱れが生じるのでは」
「あんな田舎の猿に、それこそ何が出来る。・・・理想、正義。全く、悪意のない悪行ほど始末の悪いものはないね」
低くねばついた引き笑いが響き、衣擦れの音が鳴る。
「・・・・彼が真正直に従ってくれるでしょうか」
「彼もまた官僚だ。餌を散らつかせれば抵抗は出来まい。――が、もっと効率的な使い道もある」
「というと」
「頭を使いたまえ。直談判など、素人のやることだ」
ふふと、気味の悪い下卑た声が続く。
斜光が埃を巻き上げる黄ばんだ暗がりの部屋。
「何も彼本人と直接交渉することはない。彼の方から歩み寄らせればいい」
「警戒されるのでは」
「何のためにキャリア連中を公安に張らせていたと思っているんだね?」
「・・・・」
「万一の場合でも、室井なら協調性がないということで誰もが納得する理由を用意出来る。庇う味方もいない。・・・・出身ハンデはこういう時――
身に 堪えるな」
「池神が手放さないのも、そこでしょうか」
「どうだかな・・・余計な感情は判断を鈍らせる」
体重で椅子を軋ませ回転させる金属音だけが、息衝く生命の熱を感じさせた。
「早速手配を」
「何をしても良いが・・・・くれぐれも池神本人に勘付かれるなよ」
2 結婚
秋晴れの一日が、また始まろうとしていた。
「青島さぁん、この間の3丁目のアパートの死体発見、アレ、自殺で処理着きそうなんですけど、どうします?」
「へぇ、一応裏取れたんだ」
椅子をくるくると回転させながら、青島が生返事をする。
向かいの席で、雪乃がクリップホルダーを確認しながら、初々しい戸惑いを見せていた。
「そうみたいです。報告書、上がってきました」
「あ~、あの夫婦喧嘩の」
丁度通りかかった魚住も横からその報告書を覗き込む。
夜勤だったのか、眠そうな顔で撚れたシャツにタオルを引っ掛け、髪もぼさぼさである。
持っていた淹れたての珈琲を熱そうに啜った。
湾岸署はいつもの騒がしさの中、平日の朝を迎えていた。
秋口に入り、朝晩は大分過ごしやすくなった今月から、ここ署内も衣替えとなり、行き交う制服女子(青島談)も長袖に変わる。
ブラインドから白い朝日に注がれた刑事課は、既に馴染みの顔が揃い踏み、人の声が引っ切り無しに飛び交っていた。
青島がコロコロと椅子を引き摺って、雪乃の隣まで机を迂回してくる。
雪乃がクリップホルダーごと手渡すと、青島がパラパラと捲り始めた。
「あれだけ大騒ぎしておきながら、結局夫婦喧嘩だったなんてオドロキです」
「唯の隣人が追い込まれちゃったんだっけ?」
「怖いですね。ご近所っていうのも」
事件性は全くないという機捜と鑑識の報告通り
毎晩毎晩死ねだの殺してやるだのバイオレンスな言葉の応酬を見せる夫婦の痴話喧嘩を聞かされていた、アパートの隣の浪人生が、衝動的に自殺した。
愚かと言ってしまうのは簡単だが
三浪して追い詰められていた彼に、来る日も来る日も暴力的な言葉を二次的に聞かされていた心理状態は、彼にしか分からない。
夫婦にとっては愛の営みと同じ、軽い気持ちの言葉の応酬であっても
同じくそれを聞いていた隣人らにとっては、日頃から噂になる程の暴言ぶりだったらしく、日々蓄積を重ね
その日、死体を発見した反対側の隣人が、昨夜の『殺す』という言葉から、殺人事件を連想してしまった。
「勘違い、にしては、後味悪いですね」
「逃げられなかったんだろうけど・・・色んな物から。でも衝動的に飛び降りたのに、どうして裏が取れたの?」
「あ、なんか、たまたま通りを挟んだマンションにある防犯カメラに辛うじて映っていたらしくて」
「何でも盗聴・盗撮の時代か」
青島がコツンと人指し指でボードを弾く。
「証言は・・・取れてないみたいですね。夫婦の苦情ばっかり」
「よっぽどエスカレートした激しさなんだ・・・・」
他愛ない応酬を繰り広げつつ、青島と雪乃が額を付き合わせながら報告書を確認していく。
そんな二人のやり取りを背後で、まだ立ったまま聞いていた魚住が、肩で大きく息を吐いた。
「でもこういうのが、本当の社会なんだよねぇ」
魚住が珍しく遠い目をする。
「本当のって?」
「本店がさ、重大事件を扱って派手に解決してみせて、それが報道されて・・・。テレビじゃ連日殺した殺されたのニュースが流れて」
「あ~はい」
「悪い奴をタイホするっていうのが刑事の仕事だとみんなが思っちゃうんだけ
ど」
「うんうん」
「でも地域社会と密着する境目にあるのは個人の日常であって、それはこんな些細
な諍いの集合体なんだよねぇ」
「ですねぇ」
そういう所にある意識格差が、手柄を立てたいキャリア連中の格好の餌場となり、自尊心をより煽っていく。
だが、所轄が向き合う社会というのは、こういう一般社会に密接した、ごく日常の狭間であって、必ずしもスポットライトを浴びる舞台じゃない。
自殺した浪人生のことだって、きっと新聞三面にすら取り上げられない些細なことで、膨大な情報が溢れる日常に埋もれていく。
人一人が亡くなっているのに、社会は何食わぬ顔をして今日も同じ毎日を繰り返すのだ。
雲の上の円卓も社会も、その意味では同じ薄情者かも知れない。
だからその橋渡しに、所轄というハブ――ジャンクションがあるのだろうか。
「ま、でっかい事件はあっちに任せましょ」
俺はこっちがいいよ、と、青島が雪乃の手から書き掛けの報告書を取り上げ、そっちにパラパラと目を通し始める。
それを雪乃は、誇らしそうに覗き込んだ。
そうは言っても、青島は遥か雲の上のしかめっ面の人と堅い約束をしていて、キャリアに無関心じゃないのは知っている。
自分の役目と持ち前にケジメを付けていることが雪乃には好ましく思えた。
「そうですね。本店さんは、忙しいのがお好きみたいですから」
ぷくっと頬を膨らませて言う雪乃に、青島が報告書からちょっとだけ目を上げ、柔らかい眼差しを送る。
温もりの中に冷やかしの色も混じっている視線に気付くと
雪乃は青島の肩を小突いた。
あははと笑う透明感の強いその飴色の瞳は、吸い込まれそうで、雪乃は内心たじろぐ。
「真下は相変わらず音信不通なんだ?」
「もぅ!青島さん、意地悪ですよ!」
「ごめんごめん、でもあいつ、メールはマメなんでしょ?」
「それは・・・毎日」
「さすがだねぇ。おぼっちゃん」
頬杖を付き、正面を向いて、今は去った仲間のおぼっちゃんの姿を思い出したのか、嬉しそうに青島の目尻が細まる。
そんな青島を、雪乃はじっと見つめた。
雪乃は今、曖昧な関係のまま、真下とお付き合いというものをしている。
好きだとか愛してるなんて、のべつ幕無しで聞かされているが、どうにも軽さの方が先に出て
雪乃にしてみれば挨拶みたいな行事の一つだ。
だが、明け透けな真下の態度は好意的なものでこそあれ、悪意的なものは全くなく、それは内外共に明白だった。
何度かデートらしきものに付き合っている内に、どうやらカレカノという間柄で治まってしまっているらしい。
「でも真下さん、普段はほとんど仕事で会っていないのに、その間の私のことなんか、まるで無視なんですよ」
「へぇ、あいつ、仕事人間してるんだ」
「いっつも仕事自慢の話ばっかり!とっても嬉しそうに報告するんですけど、終わって見れば結局私の話、全然聞いてくれてない」
「あっはっは・・・そういう女心はおぼっちゃんには難易度高かったか」
「なんか交渉課って、真下さん一人の肩に掛かっているみたいで・・・、タイヘンなのかも」
文句を言うだけ言って、その後ちょっとだけ真下を庇う発言をしてしまう自分が、ちょっともどかしくて、雪乃は口を噤んだ。
本当は自分を知って貰いたい想いから真下がお喋りであることも、雪乃へも実は色々注文付けてくることも
皆、恋の成せる業であることを雪乃は知っていたし、感じ取ってもいる。
不満があるとしたら、それは、素直になっていない自分自身へ、なのかもしれない。
そうさせてくれない真下さんが悪いんだけど!
ここにはいない呑気な男へ悪態を吐き、雪乃はふうぅと溜息を吐いた。
なんだかそれだと酷く不本意な気がし、恋人なんだか弟なんだか、良く分からない。
どうなっちゃうのかなぁ、私たち。
ちょっとだけ思考の渦に埋もれていると、青島がにまにまとした顔で下から顔を覗き込んでいた。
「幸せそうですね、奥さん」
「やだもぉ、奥さんじゃありません!」
「何、あいつ、まだプロポーズしてないの」
「・・・ないですっ」
「子供作ろうなんて言っちゃうくせにねぇ。・・・・ヘタレだな」
最後の呟きは雪乃の耳には届かず、う、と頬を染めた雪乃が、困った顔をして青島から目線を逸らす。
青島は雪乃にとって、一番辛い時期を傍で知っている人であり、支えてくれた人であるから、幸せになることこそが青島への恩返しのように思っている。
青島が全霊を掛けて引き上げてくれた幸せを、護り維持していくことで、青島の気遣いや恩に報いることになる。
心に灯った温もりを無駄にせず、心の中で確かなものとして存在させていくことが、助けられた者の使命であり
雪乃の中に青島が永遠に存在し続ける証になる。
だから、青島に「幸せそうだね」と言われることは、誇らしくもあった。
でもだからと言って、恋に夢見る乙女には、放っておかれて満足するほど枯れてはいないのである。
声を聞かせてくれない。どこへ行ったのかも知らない。メールは毎日くるけど、口を開けば勝手な事ばかり。気にさせるだけ意識させてトンヅラなんて。
これ真下さんの作戦!?
鬱憤は日々コツコツと蓄積していく。
そんな雪乃に柔らかい視線を落としていた青島も、ぱふんと椅子に背を預け、両手を頭の後ろで組んだ。
「あんまり放っておくと、浮気しちゃうぞーってね。驚かしてやれ」
「仕事に打ち込むのは良いんですけど」
「まあ、男なんてみんなそんなもんよ。シゴトとエロでいっぱい」
「えぇぇ?青島さんもですか?」
「おぅよ」
二人して視線を交わして懐っこく笑う。
いつの間にか人が増えていた刑事課は、活気溢れ、みな周りのことなど無関心だ。
後ろにいた筈の魚住もいつの間にか席へ戻っていて、撚れたシャツを新しいものに着替えている。
まるで喧騒の中に、二人だけの空間が出来ているみたいで、雪乃に酷く温かい落ち着きを造り出した。
青島と居ると、インプリティングだろうか、全てが上手く周りそうな、大丈夫だよって言って貰っているような、そんな安心感がある。
賭けてみたいと思わされるし、信じてみようと覚悟が決まる。
視線が逸れたことで顔を戻した雪乃が、きゅっとスカートの裾を掴んで躊躇いがちに声を掛けた。
「あ、の。青島さん」
「んー?」
前を向いたまま、青島が小さく返事をする。
「交渉課って、室井さんが新設したんですよね?」
「・・・らしいね」
「やっぱり肩の荷が重い、んですよね・・・」
「・・・・?」
青島なら、雪乃の中にあるこのもやもやしたものを聞いてくれると思ったし、分かってくれるとも思ったのに、言葉が巧く見つからない。
不安と重責が綯い交ぜになった胸の奥に仕舞われた石の塊みたいなものが、軽々しいことを口にするのを憚らせる禁忌となる。
雪乃は次第に俯いてしまった。
そんな雪乃を見た青島の瞳に、少しだけ色が深まる。
「ゆーきのさん」
小さな声で、でも明るく呼ばれ、雪乃が顔を上げると、青島がぽんぽんと頭をあやすように撫でた。
その眼が、話してみなよという促しであることに気付き、雪乃は胸がいっぱいになる。
どうして、こんなにも、一番救いが欲しい時に救いの手を差し出してくれるのだろう、この人は。
この人は、人の心の襞に、敏感だ。
茶褐色のつやつやした瞳に吸い込まれるように、心の蟠りを口唇に乗せ、雪乃は小さな紅い口唇を震わせた。
「好きなだけじゃ、駄目なのかな・・・」
「――、傍に、いたいんだね・・・」
逆説的な言い方だったのに、青島はちゃんと雪乃の本音を拾ってくれる。
それに勇気づけられ、遂に雪乃の胸は何かでいっぱいになった。
「なんか・・・キャリアが結婚するっていうのは、それこそ向こう側では凄く大変なことみたいで・・・」
「うん・・・」
「惚れた腫れたは、それこそ後回しで、人生さえ賭け値に売っちゃうのも当然らしくて・・・」
「うん・・・なんとなく、分かるよ」
「やっぱり、あたしなんかで、良かったのかな」
「・・・・・」
キャリアの世界は出世レースが仕事であり、そのための地盤や血筋は何よりの援護となる。
本人に出世欲がなかったとしても、安泰な社会生活を保障する保険に成り得
それは、まるでカードゲームの延長のように、愛もセックスもこなしてみせる男は多い。
結婚が、出世の手段の一つなのだ。
そこまでの退廃的な選択をし、獰猛さを露わにするライバル相手に、一体何の勝ち目があり、何処までの代償を払わねばならぬのか。
真下も、妻に迎える人物の血統が由緒ある銘柄だったら。
「歴史も無い個別の部署に移って隔離されちゃって。そんなに期待されているんだったら、もっと楽な方法も沢山あるのに。それに、室井さんにだって・・・」
「・・・・」
周りの喧騒が、異世界の出来事のように空虚に響く。
「あ、ごめんなさい、青島さんにこんなこと言っても――」
「んん、多分俺、雪乃さんの気持ち・・・分かってあげられる・・・と、思う」
「え?」
「ん、・・・俺もさ、たぶん、同じ・・・だから」
「・・・・・」
口には出せない、とんでもない上の階級の人の話を、青島の口から聞いたことはほとんどない。
湾岸署の古参の者なら既知の間柄も、一歩シールドを出れば過ぎる階級差に、信じる者もなく
青島は無闇に彼との接点を誇示しようとはしなかったし、むしろ沈黙を貫く方が多かった。
今まで雪乃になど、彼の近況すら、話してくれたことはなかった。
いいの?という想いで、見開いた目を青島へと向ける。
それに青島は柔らかい笑みで応えた。
言葉にすることの神聖さが肌に刺さり、雪乃は急速に空気の纏わりを感じで、はぁっと息を吸い込んだ。
きゅっと握っていたスカートの裾を皺になるほど握り締める。
「一緒に居ることは俺たちにとっては大事だし意味あることなんだけど、やっぱり俺の立場じゃ足を引っ張ることにもなる訳で、一緒に居ようとしてくれる
分、辛いんだ」
初めて室井を見た時の、冷徹で圧迫感のある凄まじさが、蘇る。
あの時の胸の反発は、実は今も消えた訳ではない。
でも、真下が、事あるごとに憧れと敬意の対象として、室井を語り、その度に、自分の中のギャップを抱えてきた。
また、室井が青島と対峙するときだけ見せる、あの熱泉が湧き上がるような咽返る空気を、何度も経験し、知っている。
二人が、共鳴し未来を賭けて生きることを誓い合ってきたその流れを、雪乃は傍で見てきた。
ひょっとしたら、室井を象るパーツは、見えている一面ではなく
ただ、不器用で厳格なだけなのではないか、そしてきっと、それを制することが出来るのは、青島だけなのかもしれない。
青島にだけ、室井はその素顔を晒さざるを得ないのだ。
青島と室井の間に、正も邪も、どんな感情が横たわろうとも、途切れない強さを見せ付けられる。
決別も、憤懣も、遺恨も越えて、それよりも強い感情で、お互いだけを見つめている。
「ずっと一緒にやっていくんですよね・・・?」
「そのつもり。・・・だけどそれは、俺の願望にすぎない、かな・・・」
「・・え・・・」
強さは、だが、全てに賛同される訳ではない。
むしろ階級社会に於いての脅威として敵視される類のもので、本人らの意思さえ超越する目も眩むばかりの強烈な共鳴は
見る者を圧倒し、底知れない繋がりに、畏敬と共に恫喝すら抱かせる。
大いなる力は、大いなる幸せと共に、悲劇も齎す。
何となく、青島が口を閉ざす理由が透けて見える気がした。
「手を取った分、護れんのかな、とか、色々考えるよ」
「・・・でも・・・、室井さんも、それに応えてくれたんですか・・・?」
「うん・・・・でも、そうさせた責任を取れるだけの力は、俺にはないよ」
「・・・・」
「だったら、手を取るべきじゃなかったかもしれない。そう思うとね、ちょっとね・・・・」
青島が言わんとしていることは、雪乃の気持ちに融合するようにシンクロした。
独り善がりで、悲愴的な思考なのではないかと自分を責めていた雪乃にとって、言えもしない同じ言葉は、密やかな安堵を齎す。
雪乃が真下を愛惜することと、青島が室井を愛惜するのは、ひょっとしたら同じものなのかもしれない。
雪乃が真下を慕うのとは無関係に、青島と雪乃を融合する糸は、確かにあった。
それは、大事に想うからこそ、儚く深く。海溝のように。
それにしても、だったら、青島で救われた室井は良いとして
青島を誰が救ってあげられるんだろう。
少し、青島の孤独な立ち位置を思い、雪乃は口を引き結ぶ。
私が傍で味方することが、少しでも青島さんの救いになれば良いのにな。
そんなことしたら、室井さんに顔向けできないのかしら?そこまで室井さんは青島さんに要求するのかな?
二人は本当は一体どんな関係なんだろう。なんだかまるで、本当の恋人同士みたいな口ぶりだった。
・・・・なんて。
ちょっと飛躍しすぎか。
雪乃は内心で一人、くすりと笑う。
・・・あ、私、笑えるだけの余裕も出てきている。
「だから俺、真下の決断は立派だったと思うし、雪乃さんのことも同じ意味で覚悟は出来ていると思うよ。雪乃さんは今はそれを信じるだけでいいんじゃない」
真下が雪乃さんのことをキャリア人生だからと諦める決断をしても、きっと青島なら、それも分かってやれるのだろう。
雪乃と青島の唯一の違いは、そこだと思った。
「好きだって言ってもらえるだけ、幸せなことだとも思うけどな。無責任だとしても」
「・・・うん・・・・」
真下はネゴシエーターとして経験を積み、帰国後はその手腕を発揮、今は室井が進言した刑事課初の交渉課準備室で、室長を任されるまでになった。
その一人の男のキャリア人生は、決して親の七光りだけではないことを、証明しようとしている戦いにも見えた。
次の扉の鍵は、とっくに手に入れていたのかもしれない。
「でもどうせ、数年後、ここの署長だけどね」
「・・・結局、レールに乗ったままだし」
「ちゃっかりしてるよね、あいつ」
二人して、額を突き合わせて笑いながら、続けるヒソヒソ話。
青島の気遣いが隙間に浸み渡るように伝わってきた。
同時に向けられる深い眼差しに、怖くないよと言って貰えているようで。
俺がいるよって言って貰えているようで。
ああ、また、青島にひとつあったかいものを貰ってしまった。
雪乃は精一杯の笑顔を造って見せた。
それを受け取った青島が首を傾けて微笑み返す。
「・・・・
室井さん・・・元気、ですか?」
「げーんき、なんじゃない?」
それこそ最近連絡ないけど、と、青島が言うので、雪乃は肩の荷が下りるように笑った。
***
「大変だよ、頼まれちゃったよ、ちょっと誰か手、空いてない?」
どたどたと足音を立てて袴田が入ってくる。
「秋の交通安全運動に、ティッシュ配り!誰か手伝いに寄越してくれって言われちゃったよ」
「今年はそんなことするんですか?」
「知らないよ、気紛れじゃないの。予算も足りないってのに・・・」
「どこにそんな人手があるんです?」
「ああぁあぁ・・・・」
頭を抱える袴田を呆気に取られながら左から右へと送る。
「これが現場の仕事ですね」
思わず吹き出して呟くと、青島と目があった。
「雪乃さん、すっかり刑事の顔だねぇ」
・・・そうだ。これが、所轄に於ける刑事の顔なのだ。
向き合うものは正義でも大義でもないけれど、そこには市民の平凡に貢献する貴重な役目が待っている。
真下とは違う方向性で、雪乃だってちゃんと刑事になっている。
卑下することも、後ろめたく思うことも、ないんだ。
「早く、青島さんに付いて行きたくて」
「俺?」
「おいおい、危ねぇこと言ってんなよ、こいつはなぁ、まだまだだよ」
「和久さん!」
「いつから居たの?っていうか、また来たの?」
背後から圧し掛かって戯言を叩く和久に、しょうがないよねって顔をして、青島が雪乃に目線を配る。
その共犯者めいた意味に気付いた雪乃も、目を細めた。
優しい笑みが、いつだって包み込むように広がり、今は亡き父と母からもらった懐かしいあたたかいものと質が融合する。
ここにあるのは、奪われた家庭の欠片だ。
この微笑みが、いつも自分にだけ向けられていたらいいのに。
ずっと、私の傍にあったらいいのに。
欲張りな人の業は、独占という究極の変態を持って、誰の心にも巣食っている。
雪乃にもそれは例外ではなく、真下を想う一方で、青島を慕ってもいることを、こうやって強く実感していく。
――恋、とは違うと思う。
寂しさを埋めるため、岩瀬に身体を与えていたあの頃抱いていた、焦げ付くような想いはもうない。
恋は、当分したくない。
そういう若く滾る想いを、同じ恋という形で雪乃に贖罪させようと尽力している真下に、雪乃は感謝してもしきれない。
でも、青島といると、望郷を思わす切ないものが胸に込み上げるのだ。
胸を切なく締め付ける、一番欲しくて二度と手には入らなくなった懐かしいもので包んでくれる。
憧れ、に近い気もするけど、これを恋だというなら恋でもいい。
きっと、淡い、初恋なのだ。
「和久さん。腰の調子はどうですか?」
「おお、雪乃さんは優しいね。最近朝晩めっきり冷え込んできやがってなぁ」
「俺だって優しいでしょ!」
警官としても尊敬する先輩だと思っているけど、人として、こんな風に誰かに接するようになりたいという想いが、雪乃を警察官へと導いた。
ずっと、傍に居たい。
ここには雪乃が大切にしたい欠片がたくさん詰まっている。
いつか、そんな青島を独占する誰かが表れるんだろうか。
それとも、もう、誰かに捕られているのだろうか。
その時、青島はどんな顔を見せ、どんなことを話すんだろう。
青島を揄うのに飽きた和久が、今度は袴田の方へと茶々を入れに行く。
重たかったよ!と青島が背中に捨て台詞をかけている。
「・・ったく。・・・さてと。報告書の続きでもしますか」
「そうですね。・・・あ、そうだ、聞きたいことがあったんですよ。裏付けってどこまでするんですか?この場合――」
「それはね~」
先程までの憂いを帯びた色も揶揄の色も消え失せ、今は青島の瞳にも光が宿る。
先のことは、分からない。
でも今、確かに一緒に仕事をしていて、同じ世界を見れている。
青島が身を乗り出して雪乃に説明しようとした時、派手なアナウンスが入る。
「あ、通電入りました!」
「よっしゃー!」
「行きますか」
魚住が背広を片手に走りだす。
遅れて、青島も席を立った。
青島の眼が刑事の眼に変わる。
「んじゃ、俺らも」
「はい!」
「和久さん、行かないの?」
「馬鹿言ってんじゃないよ、俺は引退したんだよ」
「じゃ何しに来たんだよ」
青島のぼやく声は、御老体には届かない。
青島は無言で肩越しに振り返った。
魚住が引き出しから出してきた羊羹を、和久が目を輝かせて見ている。
「腰痛の次に、糖尿病になっても知らないから」
遠くから青島を呼ぶ声が響く。
「はぁ~い!」
「青島ぁ、転ぶなよ~」
「もぉぉ、俺を幾つだと思ってんですか和久さぁん」
3 接触
通報のあった現場に到着してみると、そこには既に人だかりが出来ていたが、ブルーシートが張られ、本店が先に到着していたことが分かる。
となれば当然、所轄など中に入れて貰える筈も無く、山の外側から遠目に状況を窺った。
「何があったんですかねぇ」
「誰か聞けそうな人、います?」
「今はちょっと・・・怒られそう」
「だねぇ・・・」
「あれ、ここ管轄大丈夫?勝どき署じゃない?」
「ギリギリ、うちです」
「なんだよ、向こう側にしてくれりゃーいいのにさぁ」
「特捜立つかなぁ・・・」
「あ~そうですねぇ・・・・」
「準備、しとく?」
「しといた方が良いか・・・」
ポン、と緩慢な空気を退かすように袴田が膝を叩き、背筋を伸ばした。
「あ~、じゃ、とりあえず私は一旦戻って署長の耳に入れてくるから。状況が分かったら教えてよ!」
袴田が言い捨てて車の方へ戻っていく。
「あ、運転しますよ」
魚住が後を追う。
振り向いて、青島へ指を差した。
「青島くん!雪乃さんと一緒に状況聞いておいて!」
「はぁ~い・・・」
二人きりで放り出され、佇む野原に風が吹き抜ける。
「あっという間に行っちゃいましたね」
「ましたね」
「なんか・・・侘びしいですね」
「ですね」
***
広場の向こう側から、黒塗りの車が一台スッと音も無く滑りこんできて、二人の正面に停車した。
距離にして、約100m。
中から影が二つ、こちらへ近づいてくる。
怪訝な顔をして雪乃も立ち止まった。
「誰ですかね?」
「さぁ・・・・」
視線を逸らさない男二人は、何故か現場には向かわず、こちらへとどんどん向かってくる。
不気味な威圧感を肩に乗せ、やがて、その黒い影は、迷わずに真っ直ぐと青島の前へと立ち塞がった。
身長は青島より少し高めなくらいだが、がっしりとした肩幅と高圧的な不遜な態度が、相手を気負らせるだけの迫力がある。
黒いサングラスは、感情さえ読み取らせない。
「青島巡査ですね?」
「・・・・アンタ達は?」
スッと胸ポケットから警察手帳が取り出される。
「安住副総監の部下の者です。少々お時間を」
「――、ここじゃ駄目なの?」
「室井警視正のことで、少々ご相談をお願いしたい」
「・・・室井さん?」
思わぬ名前が出てきて、青島の気配が一瞬うろたえる。
「青島さん・・・」
隣で雪乃が不安そうな瞳を揺らして寄り添い、青島の袖を引っ張った。
そんな雪乃に目を細めて見せ、青島はもう一度彼らに目線を戻す。
サングラスを胸ポケットに仕舞うその男たちの眼光は、一縷の衒いもない。
「断ったら?」
「拒否権は御座いません」
「逆らったら?」
「手荒な事は避けたいのですが」
「ですよね~・・・・」
「御同行を」
青島の首を傾げた嫌味にも一寸の乱れも見せず、淡々と男たちは言葉を並べる。
血の温もりも感じさせない機械的な応答に、得体の知れない不気味さが地を這った。
何かが異質だ。
青島の中の直感が告げる。
全身を無地の黒スーツに包み、青島より高めの背丈から見下ろしてくるその視線。
ピッチリと撫で上げた頭髪にさえ一分の乱れもなく、ただならぬ威圧感を隠しもしない驕慢な態度。
本当に警察関係者かと見紛う禍々しさだ。
だが、手帳を見せられたからには、本物なのだろう。
「――・・・・」
青島は下で拳をぎゅっと握り付けた。
チラリと視線を走らせ、瞬時に青島の頭がフル回転を開始する。
状況を分析しつつ、彼らを観察する。
車はかなりの高級車両。恐らくトヨタのセンチュリー。社用車に多い車種だ。
服装。これもまた値が張るブランドスーツ。オーダーメイド。ブランドは・・・ああ、くっそ、室井さんなら分かるんだろうけど。
俺の営業時代のデータベースにはない。ってことは外国製か。
・・や!違うな、多分、クラスが違うんだ。公僕のくせに。
そして何より不自然なのが――。
突然の来訪が、正式な手続きを踏まず、こんな野っ原なのか。
何故署を介さず、こうも直接なのか。まるで隠密裏に動いているようだ。
また、室井の・・・本店の人間の素行について、何故、一所轄の人間に聞き込みに入る?
その相手が何故、青島なのか。
これが偶然とは思えなかった。
室井と言えば、湾岸署の青島。
いつの間にかそういうルールが暗黙の了解として知れ渡っていることは、青島の耳にも入っている。
周知のことだが、それでもそれはあくまで一部の好意的な人間に因る解釈と認識だ。
確かに、安住、池神と並び、警察庁上層部浮評の室井と青島と言えば、またかと思われる白眼視の下地はある。
しかし、こうやって直々に接触を図る程、事を荒立てた覚えはない。
何より、二人の癒着を好ましく思っていない人間が、その関係に付いてそれを認めるような態度と、それを理由にした接触を図るとは思えなかった。
となれば、考えられることは一つ――
ゾクリとした悪寒が青島の背筋を走った。
これは何か良くないことの前触れだ。何かが確実に裏で起き始めている。
再び雪乃がくいっと袖口を引っ張ってきた。
「ああ、大丈夫大丈夫。・・・ん、先行ってて。俺、この人達に送って貰うから」
「でも・・・!」
「もうね、こんなの慣れっこなの。なんかデジャブ?って感じ。だから心配しないで」
慌てて雪乃を安心させるように言い繕い、優しくその肩に手を乗せる。
ここで、雪乃まで巻き込む訳にはいかない。
不安がらせて、事を大きくするのも、男たちにではなく、室井に不利になる可能性もある。
華奢な肩に体温を分け与えるように、しっかりと手の平を当てた。
人の温もりは、何よりも語ることを青島は知っている。
その青島の瞳に、答えが描いてあるかのように、聡明な瞳はじっとただ見上げていた。
「時間がありませんので」
一人が後部座席を開け、乱暴ではない手付きだが、青島を雪乃から強引に引き離し、肩を押す。
好意的でもない仕草でバックシートに無造作に押し込められた。
バタンと扉が閉められる。
「青島さん!」
『帰ってて』
リアガラスに張り付くようにして縋る雪乃に、そう口パクで伝えながら、指で指示し、青島は最後にウィンクしてみせる。
雪乃の目の前で車が音も無く滑りだした。
二三歩、断ち切れぬ想いで雪乃は足を進ませる。
「青島さん・・っ!」
4 密約
「あれ?雪乃さん一人?」
雪乃がとぼとぼと湾岸署に戻ると、そこには和久と茶を飲み交わしている真下の姿があった。
「どうして真下さんがいるんですか?」
「居ちゃ駄目なの・・・」
ガックリと肩を落として見せる真下の背後から首を伸ばし、、和久が、おかえりさん、と手を上げる。
それに会釈をして、自席へと着いた。
雪乃の強張った表情と、一人であることに疑問を抱き、和久が声を掛ける。
「おぅ、青島はどうした」
「えと・・・・それが・・・・・」
~~~~~
車は国道に出て、滑るように北へ向かって走っていた。
「何処行くの?」
「何処にも」
「はい?」
黒っぽいスーツの男たちは面白味のない言葉しか返さず、あくまで事務的な態度を崩さない。
振動がほとんど皆無の、エンジン音さえ聞こえない車内は静かすぎ、空気がねっとり纏わりついた。
車の高級感は桁外れで、サスペンション要素が見事であり、黒一色で統一された本革シートの座り心地も並みじゃなく
背後にいる存在の階級の高さを仄めかす。
「い、息苦しくなってきちゃった・・・」
「・・・・・」
「・・・あ、無視ですね・・・すいませーん・・・・」
しょぼんと肩を竦め、バックシートに身を埋める。
窓の景色が紅葉の始まる銀杏並木を流していく。
鮮やかな色彩が、まるで異世界ように映る。
そこから10分程走った頃、車はようやく滑るように道路の端へと寄せられ、停車した。
――どこだ?ここは。
まだ国道の途中で折れただけあり、目立つ目的地らしいものも見当たらない。
青島がきょとんと窓を眺めていると、隣に座っていた男が、静かに口を開いた。
「此処は何処でもありません。我々にも貴方にも無縁の、一般監視カメラにも属さない場所を選びました」
「・・・っ」
「用件は全て車中で済ませます。・・・・まずはこれを」
「――!」
スッと手渡されたものに目を落とすと、それは、スナップ写真だった。
ある程度、予想は付いていたものだったが、それでも青島は目を見開く。
写真は二枚あり、二枚共視線が合っておらず、隠し撮りされたものであることは明白だ。
一枚は室井の極普通の私生活のスナップ、そしてもう一枚は、青島と室井が二人で映っているスナップ。
スーツではなく私服でいることや、スーパーでの買い物風景であることなどから
着けられて撮られたものではなく、張られて撮られたものだと思われた。
いつ撮られたのか。
記憶にないが、服装からごく最近のものであることは分かる。
その画像の鮮明さは、これだけ近くで撮られたのに気付かない訳はなく、これが盗撮ならば、その技術力の高さにも、空恐ろしくなる。
警察の技術力を侮っていた訳ではないけれど、その実力が自分らに向けられる時の威喝という恐ろしさを、忘れていた。
「心配要りません。それは何処にも出ていない写真です」
キッと、鋭さを乗せた強気の視線で、隣の男を睨み付ける。
「訂正しましょう。何処にも出す予定のない写真、と言えば宜しいか」
「・・・・んで?室井さんと俺の関係について下世話に嗅ぎ回りたいんだ?暇だね」
「誤解しないで頂きたい。それは脅しの材料ではあるが、目的ではない」
口調は穏やかだが、〝脅し〟であると、明け透けに名言してくる。
青島は眉を潜めた。
「俺に、何かさせたい訳?」
「我々が言付かっている要求は一つだけです。室井警視正に縁談を持ち掛けて下さい。・・・貴方の口から」
「はぁ?えぇっ?何で俺・・・!?」
「一番適役だと」
「・・・!」
どう適役なのか。
もっと、ドロドロとした要求を突き付けられるのかと警戒していた青島は、余りに色ボケしたような言葉に、少しだけ拍子抜けする。
だが、直ぐにその真の狙いに思い至り、きゅっと口元を引き結んだ。
二人のこの写真から、二人の仲の親密度など、こいつらは容易に邪推したのだろう。
どこまで想像したかはともかく、もしかしたらこれ以上の証拠もあるのかもしれない。
それを知った上でこの要求を持ち掛けてくるということは、同時に、関係を全て清算しろと二次的に言われているのと同じことだ。
関係を清算できないのであれば、その弱みを握る我々に従えと。
その究極は、邪魔者の俺たちが使えないと判断し次第、プライベートまで把握された密かな関係を公にされたくなければ、手を引けということか。
伝えられた始まりの要求は些細なことだが、喉元にナイフを突き付けられているのと同じことだった。
「どうしてキャリアでもない俺の助言が適役だと?」
写真を、興味はないというパフォーマンスを見せ、突き返しながらも、口でも一応威嚇のために虚勢を張ってみる。
「本店の中のことは本店内でケリ付けてこいよ」
「今更、無駄な押し問答はよしましょう。お互い忙しい身だ」
「・・・・」
「貴方がたが、職場で見せる関係とは別の、卑猥さを持って成立していることまで、我々の口から言わせたいのですか」
運転席の男が、汚い言葉を吐き捨て、せせら笑っているのが聞こえる。
青島は顔を歪めて、横を向いた。
「身に余る埃は、貴方自身のクビを飛ばすことも可能ですよ。・・・それを知ったら、室井警視正は悔むでしょうね」
「でも・・・っ、・・・俺が言ったところで・・・ッ」
「勿論、それ自体に彼が頷くとは我々も楽観していません。・・・が、布石になる。あなたはただ、推薦してくれるだけでいい」
「そうして、室井さんをどうするつもりだ」
「その後のことは、我々にお任せを。既に次の手は打ってあります」
「目的は何だ?」
「それも、答えなくて良いと。――ただ、この申し出は室井警視正にとって大きな飛躍に成り得ると言っておきましょう」
「・・・断ったら?」
「賢い選択ではありませんね。ここを断れば、室井の価値がなくなるのでこの先は保障しかねるとの仰せです」
動揺している青島とは対照的に、男の返答は端然としていて澱みがない。
全てシミュレート済みのレポートを読み上げているようだった。
俺が反発することまで、計算済みか。
やんわりした言葉は、彼のクビは既に手の平だと仄めかされているのと同義だった。
「・・・っ」
彼らは安住副総監の部下だと、最初に名乗った。
そこを隠す気はないのだ。
それは、その点を叩く意味はないということか、それとも、叩かせるつもりはないということか。
ただ確かなのは、そう宣告したからには、このトラップを持ち掛けているのは、安住なのだ。
彼と池神の権力争いは、何となく伝え聞いているし、彼らが実質的に警察機構の実権を握っていることもまた事実である。
価値が無くなるとはどういう意味だろう。
今は価値があるということになるが、それは何を指している?
こいつらは、唯の警視正の男に、何を見出したんだ?
地方に飛ばされるくらいなら、まだ良い。
しかし、この先どんなに頑張っても出世を阻まれたり、或いは誰かの汚職を被せられた挙句、直接辞職に追い込まれるということも、充分想像出来た。
そうなった時、青島が力になれることなど、何一つないということも。
敵か味方か――
甘い文句で誘うのは、何かの罠なのか。それとも、言葉通りのチャンスなのか。
事と次第に因っては、時を待たず、全面対決に入る非常事態であり
戦うにしても、これだけ階級差・権力差がある相手から真っ向勝負を仕掛けられ、背後に控えるバックボーンも計り知れないとなれば
実力差は明白で、状況は限りなく不利に近く、勝機はまるで見えない。
勿論、その辺まで、彼らは計算しての不意討ちだったのだろう。
どう転んでも、こちらも無傷では済まない。
そして、もうスターターは切られてしまっている。
「俺に裏切れって言うのか・・・っ」
息を殺し、眉を寄せて横を向く。
袂を分かつのは、キャリアなのか、それとも警察そのものになるのか。
いずれにしても、室井をそんなことにはさせたくない。
「裏切る、というのは、何に対してですか?貴方がたは、私も含め、この小さな社会に属していないと生きられない魚ですよ」
男の手が青島の頤に伸びる。
スッと人差し指で上向かせられ、青島は屈辱的に眉間を潜めた。顎を背ける。
しかし、それは許されず、ガッとより強く固定される。
「・・んだよ・・・ッ」
「取るに足らない、小さな存在・・・。所詮、所轄の雑魚じゃないか・・・」
男が青島に聞かせるというよりは、独り言のように呟く。
「何も知らず、何の力もないのに、何故、あの男は――室井は、お前と向き合うとあれほどまでの力が出せる・・・?」
「し・・・らない・・・っ」
「警察内部ではお前たちの名を知らぬ者はいない・・・。直接会ったことがないお前を一度こうして陽の光の元で見て見たかった・・・・が」
クッと顎骨を指の腹で閉められ、青島は痛みと息苦しさから目をきつく結び、男の手を必死に掻く。
「・・・ぅ・・・く・・・、っざけんな・・・っ」
「思った以上に子供じゃないか。お前に何の力があるというんだ・・・。手に入れれば分かることなのか」
「・・は・・っ、お前ら、の飼い主はッ、こんな姑息な手段を使わなきゃ身の安全も保障できない雑魚だもんな!・・・っ、上に立つ器じゃねぇや!」
「口の減らない・・・・、この強気な所が室井警視正のお気に入りというわけか?」
仰け反る程、グッと顎を持ち上げられる。
「いいだろう。暴力は趣味ではないが」
「俺だって趣味じゃないですよ・・・ッ」
「我々の傘下に入ってみる気はないか?」
「・・・!」
眼を見開く。
こいつらは何言ってんだ?こいつらの目的は何処にある?
「お前自身には何の価値もないが、我々に従えば室井も手に入れたも同然・・・抵抗は出来なくなり、我々の目的は達成される」
「は、なせ・・・・っ」
「今ならサービス付きで可愛がってやる」
「・・・冗談っ」
「フ・・・ッ、きゃんきゃんと良く吠える・・・。どうせすぐ跪き、俺に乞うようになる」
ここで従えば、室井は無傷で居られるのだろうか。
分からない・・・その保障もどこにもない・・・・情報が少なすぎる。
「攻め立てて泣かせてみたいタイプだ」
「・・・ッく、変態!」
どうなるんだろうか、これから。
油断し過ぎていた自分達に、舌打ちしたい気分だった。
まさか、自分達の異端ぶりを、危険視され疎まれることはあれど、逆に利用されるなんて思いもしなかった。
「俺の目掛けになる気は?」
「・・・・ないね!」
「何も知らされない、それは、本当に信頼と呼べるのか?みじめだな」
「あんたらだって全部は聞かされてないんだろッ」
男は満足そうに眼を細める。
ゆっくりと顎から手を放し、今度は青島の横のリアガラスに手の平を付き、バックシートと自身の間に閉じ込めて顔を近付けた。
「交渉は決裂ですね。ならば、我々の主の要求を飲んでくれますね?」
「・・・ッ、目的も分からないのに、協力なんか・・・っ」
顔を横に背け、口唇を噛む。
バックシートに預けたままの身体が、少し息が乱されたことで、撚れたシャツが上下する。
前髪が芳しく流れ、額をぱさりと覆った。
影になった睫毛が苦しそうに閉ざされるのを、男は嬲るように見下ろした。
「しかし、力のあるバックボーンは室井自身の確かな後ろ盾になる。彼自身、これから動きやすくもなるのでは?」
「つまり、もう相手も決まっているということかッ」
「お答え致しかねますが、ご想像のままに」
「そんなん、あのひとが頷くとも思えない・・・!」
「おや・・・貴方と室井警視正の間にあるのは、それだけですか?・・・躯でも何でも使って納得させてこいよ」
最後の言葉は、耳元に吹き込むように告げられ、ゾクリとした悪寒が背筋を走り抜ける。
気持ち悪さと、侮辱されたことへの怒りで、手の甲で男を払い除けると、逆にその手を捕られる。
「下品な言い方すんなっ、強引なやり方で聞く人じゃないッ、アンタ達だって舐めてっとこの先やられるぞ!」
「手は打ってあると申し上げた筈ですが」
「・・・・っ」
「繰り返しますが、これは室井自身にとってメリットのあるご相談です」
これまで散々室井を危機に立たせてきた青島としては、突き刺さる内容だった。
無理矢理、婚姻させてしまおうという処遇だとしても
選ばれる相手は、主旨からも安住の所縁の者である可能性が高い。
だとしたら、どう転んでもそれなりの血族を宛がわれる。
本当に良縁を組んでもらえれば、室井の立場はこんな風に利用されることも少なくなり
安住の息が掛かる血族だとして、仮に安住が失脚したとしても、その一族の家系が他キャリアへの牽制になる。
だが、それは、恋人としての室井を失うということでもあった。
室井が、他の見知らぬ女を抱くのだ。・・・・あの、熱い手と眼差しで。
「・・・ッ・・・」
口唇を噛み、青島は横を向く。
どうしよう、どうしたらいい。
しかし、熟考する余裕など与えてくれそうもなかった。
それも多分、計算の内なのだ。
再び顎を捕られ、骨も軋むまま強く上向かされると、片手で肩をバックシートとバックドアに強く押さえ込まれる。
「・・ィ・・・ッ」
「お悩みなら、私に従うという選択肢も残っていますが?」
「だれ・・ッ・・が・・・ッ」
言い返す言葉は先程よりも力は弱く。
「折れない眼差し・・・・幼く甘い輪郭・・・栗色の透明な瞳・・・、確かに男を誘う魔性の顔だな・・・」
男の視線があからさまに性的な雄の臭いを放ち出し、品定めするように捉えた顎を持ち上げた。
ネクタイの緩められた喉元から覗く、青島の若い肌を視姦する。
ねめつけられる気持ち悪さに、眉を潜めるが、それえさえも、男の雄の本能を煽ったようだった。
「幼い顔でいきり立っても、相手を加虐性欲や性的倒錯を呼び覚ますだけですよ・・・それとも苛めてほしいか」
「変態趣味には付き合わないッ」
「男の逸物を咥えさせてみるか」
「気色悪いことッ、言うな・・・ッ」
「どうせ男の味を知っているんだろう?今更初心な振りをするな。お前を辱めれば、室井への牽制になるとは思わないか?」
ギリギリと男の指が掴んでいる手首を締め上げ、その痛みに青島は顔を顰める。
男の脂っぽい丸く太い指が、意味深に青島の首筋をツツ、と辿った。
ゾゾッと走る悪寒に、身が竦む。
必死に抜け出そうと身動ぎする。
しかし、みっしりとした男の腕の筋肉が膨張し、余裕を見せた顔で力強く抑え込まれ、圧倒的な力の差を見せ付けられる。
何より、この狭い空間では、シートが邪魔で何も出来ない。
「・・・・ッ、ぅ・・・・ハッ・・・」
足で蹴り上げようと持ち上げた隙に、両脚の間に男が身体を割り込ませてきて、完全に自由を奪われた。
押さえ付けられた頤を固定され、男は顔を近付けると、親指で青島の下唇をゾロリとなぞる。
「活きの良い魚だ・・・。その顔で室井も誑かしたのか」
「室井さんはそんなんじゃない・・・ッ」
「・・・困るな、そんなに煽ると、誘われているのかと思う」
「・・ァ・・・、ん・・・っ」
この男の囲者になったとしても、室井の立場が保障される訳ではない。
捕られていない片手で相手を押し退け、何とか抜け出そうとするが効果はなく、身動ぎしたせいで服や髪が乱れ
それを男が上から舐めるような視線で愉しんでいるのを、恥辱な思いで睨み返した。
強気な意思は失わないその瞳は、その嬌態をより艶冶さを帯びたものにする。
切なげに眉を寄せ、苦悶に歪んだ表情、乱れた吐息、紅潮した頬。
男は生唾を飲みこみ、ほぼ衝動的に身を被せ、青島の耳を口に含む。
耳朶の奥からゆっくり舌を蠢かし、濡れた軟体はそのまま首筋を降りて行く。
その感触に、青島は、身体を硬直させて歯を食いしばった。
力を込めたことや、濡れる粘膜の感触への拒絶は、青島の肢体を小刻みに震わせ、途切れ途切れに漏れる息注ぎと合わせ
まるで男の淫らな舌鼓に反応し、身を灼く焦燥に堪えているかのように錯覚できた。
男の空いた手が、ネクタイを解きシャツを引きだして、素肌に触れ始めた。
「ァ・・・ッ、や・・・だ、・・・ッ、くそ・・ッ、・・・いやだっ・・・いや・・ッ、もッやめ・・・ッ」
必死に足掻き、開かされた脚を蹴る、苦悶に乱れる様を見せ付けられた男は、殊更劣情を煽情し
押し殺す口唇の中で、紅色した舌を覗かせた、ふっくらとした口唇に、視界を吸い寄せられる。
そのまま青島の濡れて半開きの口唇を強引に塞いだ。
「・・・ふぅ・・・ッ・・んんぅ・・・ッ」
目を見開き、抵抗するが、両手首をリアガラスに押し付けられ、体重を掛けられる。
そのまま、分厚く粘った舌が無理に差し込まれた。
「んぁ・・っ、ンゥ・・・・ッ、・・・ッ・・・」
顔を左右に振って、バタバタと広げさせられたままの脚を持ち上げ、圧し掛かる男を蹴り飛ばす。
体重で押さえ込まれた身体は何の自由も効かず、男の思うままに口腔を貪られていく。
悔しさと屈辱と不快さから、目をきつく閉じ、その猛攻に耐える。
苦しい。息が出来ない。
奥に逃げ込んだ舌を簡単に吸い上げられ、ねっとりと絡み合わされる。
男は伸縮する秘肉を押し開き、内部の柔肉に舌を這わせて、淫猥に青島の舌を味わった。
動きを緩めない厚い舌は淫乱な動きで青島を執拗に、容赦なく翻弄していく。
気持ち悪い。
逃れられない強淫に、青島はただ嫌嫌と首を振る。
誰か――、誰か助けて――!
――さん・・・っっ
・・・・・どうしてこんな男にこんな汚辱を受けなければならないのか。
こんな不意を付かれなければ、青島だってもう少し対応できた。
体格差があっても、至近距離でなければ、もう少し反撃も出来た。
こんなに相手に全権の主導権を渡すことは、少なくともなかった。
そして。
だけどそれは、この事態だけでなく、この駆け引きにも言えることだった。
こういう事態を想定し、どう対応するのか?
約束を確実に遂行するために、あらゆるリスクを想定し、室井としっかり話し合って、対策を立てておくべきだった。
二人揃えばどう出れば良いのか簡単に分かるのに、単独で叩かれたら施しようがない。
自分達の油断を付かれたのだ。
これは、彼らの戦略勝ちであるのと同時に、こちらの危機管理意識の低さが招いた、自業自得の悲劇だ。
男が、埋没させた舌を柔肉の奥でグルリと円を描いて回転させる。
「ふ・・・ぅ・・・っ・・・・んぅ・・・ぅ・・」
リアガラスに、青島の汗ばみ始めた手の平が、しがみ付く所を彷徨い、強く押し当てられる。
危機はもう訪れてしまった。
もう、全てを護ることなんか、出来ない。
自分達にとって、何が幸せなのか。
室井にとって、幸せとは何なのか。
二人で過ごした、他愛ない甘い時間が走馬灯のように過ぎる。
人生の日々の中で、一番大切だったもの。
薄汚れた手で、清浄なものを砕かれた気がし、瞼の裏が熱くなる。
顎を掴む男の手が少しだけ緩んだ隙に、青島は思い切り噛み付いてやった。
反撃を先に察知した男にスルリと抜け出されたが、舌先に歯を立てることには成功した。
僅かな鉄の味が口の中に残る。
ねっとりと男が口唇を解放し、二人の間を銀色の糸が引いた。
男の生臭い息が青島の口唇に触れそうなほどに近付く。
「お前は売られたんだよ、そして愛した人間に捨てられるんだ」
徐々に青島の胡桃色の瞳に深みと鋭さが増していく。
ただ強く睨み付けることしか出来ない。
男は青島の抵抗すら楽しそうに、活きの良い魚だと見降ろし、その瞳色の変化を愉しんだ。
「ご決断を」
室井の温もりに包まれ、滴る愛を注がれた幾重にも連ねた夜は、青島を育て強く象った。
なし崩し的に奪われ、溺れた甘い肌の温もりは、大切な物を青島に刻みつけた。
永久に続くとさえ夢見れた偽りの時間が、硝子の如く砕け散る。
どれが幸せかじゃない。
大切なのは、何を護りたいかだ。
「・・っくしょ・・ッ、分かりましたっ、分かりましたよ!やってやるよ・・・・!ただし!一つ条件がある・・・っ」
艶めく一筋の光を発し、青島が覆い被さる男を睨み上げる。
男が満足げな笑みを浮かべる。
「・・・・いいでしょう」
「やり方は俺に任せてくれ。あの人は俺がいきなりそんなこと言った所で疑うだけだ。突然すぎる」
「どうする気で?」
「タイムリミットは」
「およそ三ヶ月」
ニヤリと青島が口端を持ち上げる。
「充分だ。必ず決着させてやる」

青島くんにムラムラきた安住さんの側近さんは名前すら出しませんでしたが・・・誰?金子さんでいいの
だろうか・・・。