公文書Code3-2-8 9
31.
今朝のちゃぶ台にも朝陽が反射している。
腰が砕けて動けないと泣く青島の代わりに、朝食は室井が用意した。
この家に来てから、初めてのことだ。
「あんな風に愛されたら俺そのうち蕩けてなくなっちゃいます」
「それは困るな。抱けなくなる」
「/////」
眉尻を下げ、惚けた台詞を飄々と述べる男に、青島が諦めの溜息を落とした。
おひたしに出し巻き卵。
添えた味噌汁は青島のリクエストだ。
「今日は本部へ顔を出してくる」
「おうちでセックスしている間に捜査員が太鼓持ち」
ごはんを租借しながら、室井が片眉を上げる。
目覚めた時、腕枕をされていたことに盛大に照れた男の二面性は、詐欺だと未だ思う。
「4カ月近くもかかっている案件だ」
「同情します。現場の人間に」
今度は室井が諦めの溜息を落とした。
一々突っかかる反論さえ、可愛く見えてしまうのだから、困ったものだ。
二人の男の間に落ちる溜息の重さには甘さがあり、今日の空は抜けるような春空と来た。
「おまえ・・、夕べはあれだけ・・」
「言うなッ」
お手拭きが飛んできた。
この行儀の悪さはなんとかしなくては。
「事件が解決したら、一旦広島に戻ることになる」
「今月いっぱいくらい?」
「4月から正式に東京へ来る」
「・・・・まじ?」
青島の箸が止まった。
「まだ辞令は下りていない。内々定の口約束だが」
また嫌味の一つでも飛んでくるかと思った。
身構える。が、奇妙な間が作られる。
見れば青島は黙って固まってしまっていた。
室井の視線に気づき、はにかんで下を向く。
その誘い込むような綻びに、室井は頑強な目を向けた。
「喜んでくれるか?」
「遠距離だったから、嬉しいや」
「――・・」
そうか。記憶が抜け落ちているから気にも留めなかったが、室井が東京にいること自体、青島には久しぶりのことなのだ。
遠距離恋愛。
なんともこそばゆい響きである。
「俺は何と言って君をこっちに残したんだ?」
「なぁんにも。一言もなく、行っちゃいましたよ」
「そんな男を君は待っていたのか?」
「自分のことでしょー」
青島が行儀悪くべっと舌を出す顔をまじまじと見つめる。
茶碗に視線を落とし、それから顔を上げ、室井は悠揚迫らぬ顔で、しゃあしゃあと言った。
「俺なら、離さない」
「・・だからなんで張り合うの・・」
一々見せつけられる青島と10年分の男の影が、室井を腹ただしくさせ、焦らせてくる。
「俺のたった一度の間違いは、記憶を失くしたことじゃない」
「ん?」
掴み損ねたことこそが、最大の間違いだった。
言って、満足して、室井は最後の米を口に入れた。
「ごちそうさま」
昨夜は青島が哀願しても止めてやれず、全身を舐め回し、確かめた。
足の指の先までしゃぶりつき、青島は健気に身を震わせてすすり泣いて、その顔に烈しく劣情した。
青島の躰で室井が触れていないところは、もうどこにもない。
アイシテイルと伝えられないからこそ、脅える心を隠し、身体を繋げた。執拗な愛撫は度を超えていたらしい。
埋め込んだ体内は、熱く灼けるようだった。
“消えたくない”
洩らした叫びは室井の本音だが、誰にも理解されないその葛藤を青島に共有させたことで、室井は前を向けると思った。
過去は戻らなくても、今必要なのは青島の目の前にいる自分だ。
今も白いシャツの隙間から覗く幾つもの情痕に室井は満足気な目を湛えて、腰を上げた。
仕度を整え終えた頃合いに、中野が到着した連絡が入る。
「では行ってくる」
「いってらっしゃいっ」
玄関先まで青島が見送りしてくれる。
磨かれた革靴を履き、コートを正して振り返る室井に、青島は屈託のない笑みを見せてくれた。片手をひらひらと振っている。
まるで新婚さんのような雰囲気に、室井の眉間は最大限に皺を作った。
もう、どんな顔をしたらよいのか分からない。(でもいつもと大して変わってない)
「もし、辞令が破棄になったら――、おまえ、広島に来るか?」
思った以上に堅い声となった室井の声は、朽ちたアパートの歪みに澱んだ。
まるで、これじゃプロポーズだ。
「普通、出世して迎えに来るもんなんじゃないの?」
「狭いが、引越しも考えるし、職の当てもある」
「・・・」
「キャリアに恥をかかせるのか?」
だから。
そこで急に無邪気な顔をするのは止めてくれ。
「返事を考えておいてくれ」
選択肢を残しているようでとっくにその気の室井の瞳に苦笑した青島の腕をそっと引く。
傾いできた口唇に、下からやわらかく口唇を重ねた。
32.
池神が指先で机をトントンと鳴らし、欲の深い目元を細めた。
効きすぎている空調が空気を淀ませていた。
「記憶を失くしたと聞いたが」
「いえ」
室井は頭を下げることだけに留める。
事件解決の目処がたったことで、室井は警察庁に呼び出されていた。
池神のねめつける視線が室井を蔑み、窓辺から腰を上げた池神の背中が悠揚と注ぐ陽射しを途切れさせる。
「機嫌の取り方も忘れたかね?」
「東京に派遣されたご指示、肝に銘じております」
「ほう、愛しい男との約束は忘れても、私との約束は覚えていると」
ギィィと格式の高い椅子を鳴らしつつ、池神が薄っすらと嗤う。
室井は僅か、背筋を伸ばした。
ここまで室井と青島の情報が筒抜けなのが今の室井には理解しがたかった。
男同士のスキャンダルを警察庁トップクラスの人間が掌握し、訳知り顔で相互理解のある上司を演じている。
記憶のある室井はこれを知っていたのか?
この状況を、どう判断していた?
不審に思う室井は、だが顔には出さず淡如を貫いた。
直立不動に立つ室井に、池神が近づく。
「哀れに思ったものだから、心尽くしに、恋人と一緒に過ごせるよう整えてやったんだ」
「・・・」
「そういう仲なのだろう?彼とは」
その目の色に、室井は察した。
我々は品格に欠けるゲームに陥れられている。
「身も心も囚われた気分とはどんなものだ」
返答に迷う室井に、池神はぬるりとした手の平で室井の頬を軽くたたき、興味失せたように背を向けた。
池神にその情報を握られているということは、この先も室井に首輪が付いているも同然である。
「彼とは仕事上の相棒です」
「一緒に暮らした感想はどうだね?」
「生活スタイルが所轄とキャリアではあまり重ならず、顔を合わせる機会は多くありませんでした」
「ほう、夜もか?」
「!」
「腰を使って愉しまなかったのかと聞いている」
室井のスリーピースで描かれた引き締まったラインを池神が舐めるように見回した。
ラインに沿って仕立てられたスーツは、室井のキャリアらしい肉体をあからさまに薫らせ
池神の視線は室井の上向く臀部を酔眼する。
だからといって、こういう公の場で認める発言は慎まなければならない。
「面白味のない男だ。だが、だからこそ、私は君を信頼してもいいと思っている」
「・・・」
池神は中央の座椅子に戻り、どっしりと腰を下ろした。
反動でスプリングが軋んだ音を上げる。
池神が一枚の紙をデスクに放った。
「事件解決に時間をかけ過ぎだ。だがまあいいだろう。これを手土産に東京へ戻れ。君に警視監の椅子を用意してやる」
「謹んでお受けいたします」
室井は目線を伏せて一礼をした。
男同士の情事をネタに、新城は下品なジョークだと憤慨していた。
池神の嫌味は、室井を飼い犬に成り下がらせる事を前提としているし、同時に青島の官権は我が手にあると、仄めかしている。
だが、出世できるのなら今はそれでいい。
「失礼します」
室井は丁寧に頭を下げ、池神の執務室を後にする。
ひとつ、息を吐いた。
警察庁のエントランスを出た所まで来てから、室井は小さく拳を握り締めた。
ここなら誰に見られる心配もない。
何のために堪えているのかも分からなくなった時もあったが、これでようやく報われると思った。
これが欲しかったのだから、これでいい。
長かった広島での生活。
歯車の噛み合わなかったこの数か月の任務。
奇妙な共同生活に隠された企み。
だが青島と共に歩む道に繋げられた。10年の記憶を持つ自分も、この決断は支持するだろう。
桜が散っていた。
いつの間にか季節は早すぎる春を迎えていた。
草木が芽吹き、若葉が春を彩り、桜色の視界から花びらが一つ、室井の手の中に落ちてきた。
春の匂いは、澄み渡る空に溶け込み、室井は目を細める。
一刻も早く、朗報を青島に伝えたかった。誰より先に青島に伝えたい。
歩き出しながら、室井はスマホを取り出し、駆け出していく。
ガサッと花壇の低木が揺れ、室井の視線が怪訝に彷徨う。
「あんたさえ!あんたさえ居なければ夫は昇格できたの・・!あの時ちゃんと殺したのに!あんたさえ居なければ・・!!」
風に揺れる桜の木が幾重にも重なる花びらを散らし、その向こうに光るナイフが反射した。
室井が目を剝く。
間に合わないッ!
その刹那、緑の影が映り込み、室井は背後に思い切り突き飛ばされた。
女が振りかざしたナイフの肉を切り裂く嫌な音が耳に残るのと、室井が地べたに身体を横倒しにするのは同時だった。
「くぅ・・ッ」
何が起きたんだ!!
顔を上げた室井は目を見開く。
モスグリーンの、コートが波打って、桜が舞う視界に、エメラルドの喧騒が悲鳴に掻き消された。
「あ・・・あおしま・・?」
何故青島がここにいるのかということよりも、モスグリーンのコートから滴り落ちる鮮血が、足元に大きな血溜まりを作っていく。
身を挺してナイフを受け止めた青島が、ゆっくりと肩越しに室井の安否を確認した。
ニヤリと笑むその顔は、何度も見た悪戯な瞳だ。
尻餅を付いたまま、室井は口を開け、唖然と春空に透ける青島を見上げた。
揺れる髪。春風に溶け込むコート。庇うように両手を広げて仁王立ちする細く高い背丈と聡明な一本気質。
青島の目はこんな事態に於いて、一片の曇りもなかった。
自分の信念に恥じていないから、胸を張れるのだ。
ああ、今なら解かる。
頑張った結果だから、敗北でもその味は格別だった。
辞表を出した時の自分は、今の青島のような顔をしていたに違いない。
広島異動など、恥じていなかった。
降格も、左遷も、甘んじて受け止めただろう。だったらこの恋も自慢気にほくそ笑んでいたに違いない。
脳裏の中で、泥だらけで傷だらけの秋田の少年が、にんまりと哂う。
結果だけが見える世界は、こんなにも真実を覆い隠している。
ぶつかるように青島の胸に身体を預けた女に、青島は両手を広げたまま、胸で堰き止め
二人は寄り添ったまま、数秒睨み合った。
「来たね、あんた・・。室井を張っていれば必ずアンタが出てくると思っていたよ・・室井を差し違えなくてもお前を消せれば、充分だ・・!」
「でも・・こっちだって、このひと、護れれば・・ッ」
室井の目が改めて女の顔を認識する。
「やはりお前か・・!」
「そう、私を知っているの・・」
小さく呻いて、青島が片膝を付く。
「あ・・青島ッ」
なんてことを!なんでこんなことに!
室井は四つん這いでにじり寄り、青島の腹部に深々とナイフが刺さっているのを目の当たりにした。
汗が額に滲み、腹部を抑え、青島が顔を歪めて、女を見据える。
溢れるようにスーツが黒々と血で滲んでいく。
「目障りなの・・!」
女が低い声で告げる声に、青島がもう片方の膝も付き、そのまま床に崩れた。
血堪りに埋もれる青島の、その姿に室井は息を止める。心臓が壊れそうなくらい脈打っている。
赤黒く滲んでいく腹部を手で抑え、それでも止血できない量に、室井にも脂汗が滴る。
何かを叫んだ気はするが、掻き消される。
同時に脳裏に閃く既視感に、愕然とする。
止血のために押さえた室井の手が、見る見るうちに血で染まっていく。
「む・・ぃ、さん・・逃げて・・・」
「動くな、喋らなくていい・・!」
以前自分は似たようなことを彼に叫んだことがある。いつだった?どこでだった?
「は・・やく・・!」
狭い部屋。
恩田くんの悲鳴。
横たわる彼の、俺がいなくても約束を果たせという遺言。
「救急車はまだか!誰か!車を手配しろ・・!」
辺りが騒然とし、人溜まりが出来、悲鳴は桜と共にさんざめく。
「応援を!!早くするんだ・・!!」
叫びは誰にも届かない。
どうすればいい。こんな決断、出来るわけがない。彼を置いていけない。
泣いている彼を抱き締めた。もう二度と傷つけないと約束した。
「青島・・ッッ!!」
ああ、なんか、こんなギリギリの葛藤をかつてしたことがあった気がする。
それがいつなのか思い出せなかった。
その時は、結局自分はどういう判断を下したのだったか。
「・・にげ、て・・室井、さん・・ッ」
こうやって、たしか、その時も、青島に名を呼ばれていた。
互いに抱くものが、同じ色で染められていることには気付かずに。
女がバックからもう一つナイフを取り出し、振り上げた。
「ざまあみろ!人の幸せを奪った罰だよ!これで室井もお終いだ・・・!!」
「青島ァ!!」
女のターゲットが室井ではなく青島だと気付くや、室井が女の足を蹴り飛ばし、バランスを崩させる。
合わせて、手を離れたナイフを足で遠くへ蹴り出した。
クルクルと円を描いてナイフが転がっていく手前、怒り狂った女が鈍器のようなものを手に、何か叫んだ。
青島に覆い被さった室井の頭で、鈍い音がした。
その昔、正しいと思える事が出来るようにするために、自分は現場で身体張るから、室井には上に行けと云った人間がいた。
自分の歩む道を決定付けた人物だ。
その約束は、その男だからこそ交わした約束だった。階段の下で嬉しそうに笑っていた。きりたんぽをいつか食べさせてやろうと思った。
ヘリで迎えに来いだなんて無茶を言いやがった。
ああ、俺は役目を終えたのだ。受け取った襷はちゃんと東京へと繋いだぞ。後は元の自分に託す。続きは、頼んだぞ。
青島を、護れ。奪われた記憶を、取り返すぞ。
遠くでサイレンの音が聞こえていた。
