公文書Code3-2-8 10
33.
「・・・・・・・・・・・・・・」
なんたることだ。また病院のベッドだ。
室井が目を開けると、そこは真っ白な部屋で、電灯が窓に映り込み、その向こう側は墨色の世界で、とっぷりと陽が落ちていた。
頭が酷く、重たい。
「気が付きましたか?」
「また君か、新城」
「私のことは分かるみたいですね・・・今医師を呼びました」
頭部の耐え難い鈍痛に手をかざすと包帯を巻かれていた。
痛覚を感知した身体は、一気に全身の疲労感を訴える。
「丸一日眠ってらっしゃったのです、ご気分は」
「冗談だろう?」
「ジョークを貴方と交わせるほど、此処は友好的な場ではありません」
「・・・」
「どこら辺まで覚えていらっしゃるので?今度は」
今度は。
最後に付け加えられた言葉に、室井は眉間を顰める。
そしてハッとする。
「青島!青島はどうなった・・!」
咄嗟に起き上がろうとして、新城に片手で制された。
その言葉に、新城もまた一度目を見開き、口を閉ざす。
「どの時点の」
「――」
なんたることだ。
ゆっくりと室井は額に手を添えた。
「その様子じゃ、くたばってはいないんだな?」
「・・ええ。悪運は強いようで、先程一般病棟に」
「なら、いい」
室井がベッドから今度はゆっくりと身を起こす。
少し、ふらついた。
長い眠りに付いていたような感覚だった。
ゆっくりと息を吐く。
「どちらへ」
「青島の顔が見たい」
「貴方ご自身、少し強めに頭部を打っているので、検査入院となると思われます。もう少し休まれていては」
少し考え、歯痒い拳を下ろし、室井は新城の言葉に従った。
何にもしてやれなかった男が駆け付けたところで、やっぱり何にもできないのだ。
馬鹿野郎。なんであんな無茶なことをするんだ。
滔々と脳裏に刻まれた、夥しい血液と、飛び散った血飛沫。
桜の中に横たわる映像は、見慣れた光景の筈なのに、それは今まで見たどのシーンよりも鮮明だ。
「切創は約5cm。奇跡的に内臓には掠りませんでした。折り重なるように倒れた貴方がたの上には、桜が積もっていましたよ」
新城が腕を組み、窓に寄りかかっていた態勢を戻し、室井に近づいた。
ベッド脇に立つ。
「いつからあの女を疑っていたのですか?」
「――つい先日辺りからだ」
新城もまた、惨事の目撃者であることを知る。
真剣な眼差しに、室井も静かな目を向けた。
「ホームに突き落とされた時、一瞬だったが、その手が女性のもののような気がしていた。確証がなかったから言わなかった」
新城には、この事件の発端が最早室井の関係者であることは疑いようがなかった。
やはりといった顔で頷き、促す。
室井をホームから突き落とし、再び刺殺しようとした女は、室井が東京へ戻ることで出世するチャンスを失った、代理の刑事局長夫人だった。
中野に探らせてみた所、かなり黒に近いグレーだと情報を持ってきた。
大凡、新城らの推理は当たっていたと言える。
「監視カメラの死角も熟知し、貴方のスケジュールも入手できる情報通が、何故素人だと?」
「だと君も思ったろう」
「ですが!・・・まあ、いいでしょう」
暗に警察の先入観を指摘され、新城は反論しかけるが、弁舌は尻切れに終わる。
下手をすれば、この先輩共々、護ろうとしていた筈の人間まで失うところだった。
新城にとって、こんな後味の悪い綱渡りは二度と経験したくない。
「動機も大体想像が付いたな」
「有り触れた泣き落としでしたよ。夫である刑事部長は今回本部長も兼任される予定だったそうです。定年間近にして念願の出世が、池神の気紛れで、おじゃんになった」
「私か」
その質問には、新城はシニカルに笑むだけに留めた。
キャリアレースの醜さも冷遇も、今に始まったことじゃない。
誰もが誰かを足がかりにして上に行く。
室井もまた、その点について同情する気にはなれなかった。
「前途洋々の出世街道が無残に頓挫した男の怨念が、巡り巡って貴方がたを仇敵へと仕立て上げた」
「作り上げた名誉に救いはないだろうに」
「その救われる何かが、彼らが手に入れられなかったものなのでは?」
新城の言い回しは、一歩間違えればそれは室井のもう一つの姿、未来だったのだと案じているように聞こえた。
室井はゆっくりと新城に視線を向ける。
部屋の気配が変わる。
「何故あそこに青島がいた?」
それが一番聞きたかったことだった。
室井のスケジュールは中野が管理しているが、あの時は突発的に池神の恣意で呼び出された。
逆を返せば、突発的だからこそ不確実でもある筈だった。
「私が送り込んだとでも?」
「君は池神も疑っていただろう?」
「可能性の一つとしては。あの男はこんなチープな偶然に頼った苛めではなく、こちらが必死に護ろうとしているものを目の前でいたぶる事に興奮する変態だ」
「まだ根に持っていたんだな・・・」
「ええ、青島を利用した喧嘩は買うつもりですよ。い・づ・れ」
不本意だと新城の顔に書いてある。
あからさまに不機嫌な顔をした新城が、むんずと室井に顔を寄せて唸った。
「わかっているッ、君を疑ってなどいない・・ッ」
青島と室井を共同生活させることに、新城は最初から反対していた。
事実、そのことによって青島を泣かせてしまったことは、新城にとっても苦い結末である。
むしろ、策士としてのプライドを台無しにされたことが大きい。
新城は、東大派閥に属しエリートキャリアに流されているようで、強かに状況を選別するだけの肝の太さは持ち得ている。
そこが、室井が新城を敬意を持つ一手だ。
「何故このタイミングが狙われた」
その新城の、そして室井の、裏をかかれた。
新城はポケットに両手を突っ込み、少し砕けた装いで、窓辺に向かった。
その顔が、ガラス窓に映る。
「部外者だと分かれば後は簡単な推理が成り立ちます。事件以来、貴方には必ず誰かがガードに付いたため隙がなくなってしまった。
一倉さんの尾行には気付いていなかったため青島の行方も分からなくなってしまった」
“来たね、あんた・・!”
女はそう言った。
「青島の居所か」
「そもそも部外者にノンキャリの情報など一々入らない。誰かも分からず、どこにいるのかも知らない。
唯一繋がる貴方から、中野や細川の目が離れるタイミングは、つまり」
「辞令が降りる時・・!」
「警察庁など上の部署に貴方が呼び出される時だ」
そのタイミングなら、庁内の動きは職員の多くが簡単に知り得る情報である。
池神の独裁下で、たまたま思いついたような呼び出しでも、庁内の人間なら誰かの目に触れる。情報が入る。
滅多に捜査本部にも顔を出さない状況下に置かれた室井が出勤していれば、それだけで目立った動きだ。
夫からさり気なくそれらを聞き出すことは可能だっただろう。
ただそのため、室井の動きをガードしていた新城らとも、結果的に同じ概況に立たされることになった。
「貴方が本部から出ていった情報はすぐに私の元にも入りました。一倉さんと青島に集合をかけた。青島が一番先に到着したようでしたね」
顔だけ知っていた、室井の半身ともいうべき、指輪の持ち主。
本命である室井を殺したつもりが生きていて、しかも夫を差し置いてまた本部に復帰した姿は、彼女の怒りを腹の底から煮えくり返したことだろう。
キャリアである室井をもう一度殺すチャンスなら、逆にあると踏んだ。
殺せなくても、室井の一番大切なものを目の前で失っていくこの苦しみを与えられるなら、差し違えてもいい。
「素人だからこそ、策に溺れず無謀な賭けへ踏み出してしまうんでしょうかね」
新城の低い声は、夜の都会の灯りに無言で遺恨を残す。
血に塗れた桜が、室井の脳裏に誌的に、そして猟奇的に、惜しむような鎮魂を謳った。
池神とはまた違う目の色で、出世に狂わされた擦れ違いの悲劇は、こうして幕を閉じる。
「だったら池神はこの件に関しては全く関与していなかったのか?」
「それはどうでしょう?全ての人事は長官である池神の息が掛かっている。刑事局長が不憫な目に陥ることも、その夫人が出世に貪欲なことも
池神は全て知っていた可能性が高い」
「その上で私たちを同居させたのか――」
「お気に入りのペットをホルマリン漬けにして鑑賞しそうな男の下心など、理解できませんよ」
室井と新城の視線が無言のまま暫し絡み合う。
もしかしたら池神は、夫人の感情を逆撫ですることで、殺し合うところまで試算していたかもしれない。
全てを闇に葬り、完全に散った夜桜に、今は夜が静かに口を閉ざす。
「君がそんな根に持つタイプだった方が計算外だ」
「室井さんとこういう会話が出来る日が来るのは、確かに意外ですがね」
「やっぱり・・・変わったなぁ」
医師の説明と診察を受けた後、明日の退院許可が下りた。
青島の面会謝絶の札が取れたことも教えてくれた。
「しかし、アイツの腹は二つも切創を刻まれて、賑やかだな・・」
室井が、上着を羽織りながら、ぼんやりと呟いた。
新城が半眼で恨めしそうに言う。
「そのどちらも貴方と関わったせいですけどね」
「その責任は取らせてもらうが、その前にこちらの騒動の決着を付ける」
その口ぶりに新城がもう一度振り返るが、室井はもう部屋を出ていくところだった。
目を見開き、すれ違う男に口を開いた。
「室井さん・・?」
「美しい物語の結末は、始まりに戻るもんだろう?」
34.
抱き締めたくて仕方なかった。
徐々に駆け足となり、室井は看護師の吊り上がる視線も無視して目的の病室を目指す。
入り口に立つ警備員に敬礼を返され、部屋の中へと促された。
「失礼する・・ッ、青島!」
そこには白いベッドで、白いブランケットに包まれた青島がいた。
半身を起こし、ベッドに寄りかかって、室井に気付く。
一倉と中野、細川までがいて、一斉に室井を振り返るが、最初から青島の名しか口にしない室井に、ギャラリーの顔ぶれなどが目に入ることはない。
青島の紅い口が、むろいさん、と象られる。
縫い付けられたように室井の口唇は引き結ばれ、目をぎょろりと一周させた。
痛々しいほど点滴を繋がれ、真っ白なベッドに透けるように横たわる彼は、青白い顔ながらも、はっきりと室井を認識し
儚い華が零れ落ちるように微笑んだ。
生きている、その事実が室井の身体を逆立てた。
「おう、室井。目が覚めたんだってな、沢山寝てすっきりしたろう」
一倉を皮切りに、その後、気分はどうですかだの動いて大丈夫ですかだの、口々に投げかけられるが、室井の耳には届かない。
足が凍ってしまったように、床に留まっている。
「あれ、固まっちゃってますよ」
「目ェ開けて寝てんじゃねぇか?」
「先に青島さんとこ来ちゃったから気分を害されたんじゃないですか?」
「室井さん」
最後にかけられた、青島の清澄な細い声に、室井の両方の拳が固く握られた。
強張る顔に、青島が苦笑を覗かせる。
繊細で親しみのあるその顔に、室井の脳は、本物だと実感する。
言いたいこと、叱りたいこと、謝りたいこと、感謝の言葉が過ぎった。
様々なことが室井の脳裏を掠めるが、どれも言葉にはならなかった。
「ッ」
ぱくりと口を開けてなにかを言いかけ、そしてまたぱくんと口を閉じる。
不覚にも軋む胸の鼓動に湧き上がる感情が制御しきれない。
青島の顔がくしゃりと笑って、向こうを見て、上を見て。
それから一度だけ下を向いて、にぃっと堪えきれない口端を持ち上げた。
次に室井を見た瞳は悪戯気に輝き、何か悪だくみをした、あどけない顔だった。
これは、いつかこの日のことをネタにして、室井を揶揄うつもりだ。
室井の顔にも、抗戦する色が浮かぶ。
心の中で数を唱えた。
三、二、一――ゼロになった時、室井は息を吸い、足を踏み出し、力の限り青島を抱き締めた。
「ああああああのっっ、みなさん見てますけど・・・・っっ」
「見せ付けておけ」
「えぇえぇぇっ、ちょ、待っ・・・、どどどうしたんですか室井さん・・・っっ」
公衆の面前だが、知ったことか。
室井は更に胸の中に青島を掻き込む。
「あのな、青島。上がなんと言おうと、この手は離すなよ」
「・・・・」
「恐くなったか?」
「いまさら、こんな騒ぎにしておいて?」
流石に騒ぎが大きくなってきた。
中野や細川は目を丸くしているし、通りがかりの看護師らが部屋の中を二度見する。
ここまで派手にしておけば当分の間は大丈夫だろう。
室井の大きな手が青島の後頭部をくしゃくしゃと愛撫し、離れた。
青島も何らかの前兆を感じ取ったらしい。
答えを求めて室井を探った。
「どうしてお前は追い縋ってもくれないんだろうな、薄情者め」
「うん?」
「俺はずっと君を探した。寂しくて心細かった。それは君が一番よく知っているだろう」
室井も顔を上げる。
二人の視線が合う。
その漆黒は、威厳に満ち、臆せずに青島を射抜いた。
「何が別れた、だ。別れたつもりなんかない。別れてもやらないぞ」
「?」
「幸せになって欲しい?ばかやろう、おまえがいなくてどうやって幸せになれるんだ?」
「!」
「二度もナイフに刺されやがって」
青島がまあるい口を開けて指をさし、固まった。
追いついた新城もまた、室井と青島を見て、動きを止め、周りの全員が、二人のやり取り固唾を飲んで見つめる。
ごほんと咳払いしながらの室井の視線は、わかったか?、と言った。
「・・っざけんなよ、もぉぉぉ~・・・っっ」
泣き笑いとなって、青島が顔を崩し、自分の髪をくしゃりと握り潰し、顔を上げられずにもう一度室井の肩に額を押し付けた。
「一人にさせた」
しっかりと肩に手を回し、室井が格の高い口ぶりで白状する。
一倉が先に、マジかよと呟き、青島を抱き締めたままの室井の顔を覗き込んだ。
「お前、まさか、ほんとか?」
「泣くほど俺が恋しかったんだろう?」
「恋しくねェよ!」
一倉のツッコミは急転した空気の中で上滑りする。
労わるようでもあり半信半疑でもある表情にはどれも、室井への気遣いが溢れ
口々に心配しただの、どうなるかと思っただの、掛けられる声に、室井は一つ一つ高雅な目で頷いて見せた。
最後に青島に目を向ければ、青島がまだ不安そうに腕の中で室井を見つめている。
「あの、室井さんは・・?」
変な質問ではあったが、室井には意味は通じた。
消えたくないと怯えた室井のことを青島は覚えてくれているのだ。
室井は黙って頷き、青島の頬に手を添えた。
「このあと、俺は広島に戻る。そして、俺が東京に戻ってくるから」
空論のような約束を、俺だけは分かってやらなきゃ駄目だった理由が、今の室井には分かる。
それを、たった一人にさせた。
“広島へ来ないか”
あの台詞は絶対に言ってはいけない台詞だった。記憶のある室井なら言う筈のない台詞だった。
あの時の室井にはそれが分からず青島を見放した。
でもどの時点での室井も、精一杯青島に向き合おうとしていたのだ。
青島がくそぅと悪態を残し、室井の腕を引っ張った。
バランスを崩す室井の背中に両手を回し、しがみつくので、室井もそれをしっかりと抱き留める。
いつか上に行けると夢を見た。
誰かの助けになればと努力を積み上げた。
いつかどこかで役にたつと思って作り上げてきたあのデータベースさえも、自己満足なのだ。
何処まで行ったら、この世界は穏やかに眠りに付ける場所に巡り合えるのだろう。
だけどこうして、どこかで数奇な節目が警告する。
利口な顔で差し出される選択肢は、裏を返せばどれも儚く、泡沫だった。
それでも、いつまで経っても望む場所には辿り着けないのは、辿り着こうと踏みしめる残された時間があるから、まだマシなのだ。
「おい・・、いつまで俺たちはこのラブシーンを見せつけられるんだよ!?」
「一倉、お前の行動も、全部覚えているぞ。一カ月は青島に近づくな」
「ちょっと待てェ!」
室井の視線と一倉の視線が、喧嘩腰の会話を投げ合いながらも、背後の扉を意識する。
スッと、影が一つ消えた。
新城も切れ長の視線で見送った。
「やはり牽制しておくのは正解だったな」
「ああ」
「え?何?警備員さん・・?・・・まさかこのハグ、計算なわけ?」
未だ室井の腕の中に囲われていた青島が、首を持ち上げる。
室井は額を押し当て、青島の目の奥を覗き込んだ。
「さあな?」
「あんたってほんっとイロイロ最低だな。知ってたけど」
「俺がこういう男だってことも、よく知れただろ?」
「ええ、ええ、身に染みてますよ。いろいろとね」
至近距離で青島の声が心細そうにさざめく。室井がその耳に口唇を寄せた。
「だったら、俺から離れるな」
「・・・」
「半年間、よく耐えた」
受けて立つよと勝ち気な視線は、それでもまだ涙色だ。
「半年・・・、へへ、半年間、かぁ・・、俺、おれね・・、」
言いながら、ようやく色々なものが実感として心に落ちてきた青島の大きな目から大粒の涙が溢れ落ちていく。
室井は無理して笑う彼を、引き寄せ、頭を撫ぜて慰めた。
「見ていた。ずっと、遠くから君が頑張っているのを、ちゃんと見ていたから」
「どこかで、諦めて欲しかった?俺にも」
「頑張ったな、おまえも」
「う、うん・・」
そこには半年間、意気地がなく、思い切りもなく、だが必死で藻掻いた、孤独な男の面影はない。
青島にも辛いことは忘れて欲しいが、きっと一緒に抱えると答えるだろう。
諦めてもらえたら、きっと青島は苦しまずに済んだ。
半年間、よくやった。半年分の記憶を持つ俺。襷は確かに受け取ったぞ。
心の中で室井は語りかけた。
今の自分は10年分の記憶があるのだから、やはり彼は消えたということになるのだろう。
消えることを脅えていた彼は、もういない。
だから、せめて自分は、あの輝きと絶望感が合わさった時間を、胸の中に留めておこうと思う。
あの時間の自分と共に。
「皆も、半年間、よく持ちこたえてくれた」
「で、何で青島のことだけを忘れた?」
「愛しすぎるっていうのも、摩訶不思議だな」
「そんな言葉で誤魔化されねェぞ、俺は」
一倉の荒っぽい友情に、室井は瞼を伏せる。
新城の悲痛な覚悟も、瞼の裏に焼き付いている。
「事件の最中に息を吹き返すとか、貴方たちは結局事件体質なんですかね」
新城も呆れたように両手を広げた。
その顔を肩越しに見て、青島がようやく笑う。
「ああは言ってますけど、新城さん、泣いてたんですよ」
「泣いてないッ」
35.
―三週間後―
一旦広島に戻り、役目を滞りなく勤め上げ、引継ぎを行った室井は、4月初頭、再び東京に居た。
時を同じくして退院した青島と共に、このアパートに戻って来た。
二人で暮らした欠片が残るこの部屋にも、春風が入る。
「そんなに動かなくてもいいぞ。荷造りは俺がやる」
僅か一カ月半、同居した部屋にはそれなりに室井の生活の痕跡を残していた。
その荷物を整理して、東京生活の準備をするのだ。
「あ、それとな、指輪、見つけたぞ」
「すぐ見つかったでしょ?」
指輪はクローゼットの中にあった。
きっと考えて考えて、ここに置いたのだと思う。
青島の家に来るとき、室井は必要なスーツだけを運び出した。
あの時は要らないと判断したその他の多くのスーツ。
その中の一着のポケットに、それは入っていた。
室井が初めて青島に告白した時、着用していたスーツだ。
いつか室井が記憶を戻した時、いらないと判断されたものたちの中で、ひっそりと光るそれを、もう一度見つけてくれたら。
おまえは覚えていてくれたんだな。
室井は青島に近づき、座って袋詰めをしていた青島の顎を持ち上げる。
掬い上げるように口付けを与え、小さな音を立てた。
びっくりした顔を見せた青島も、両手を室井の首に回し、睫毛を震わせる。
――だから。
この芸術的な仕草が、壮大な勘違いの始まりである。
「~~~~・・・・」
「室井さん?」
いつもならしつこくキスを仕掛ける室井が、項垂れ、キスから離れ、沸々と湧くわきまえのない映像に、羞恥に堪えず、青島の肩に顔を埋めた。
両手を軽く青島の首に回したまま、勘弁してくれと顔を隠す。
―声、落とせ。男に突っ込まれて、善がり狂ってるって近所に知られたいのか
―あ、アァッ!だめ、やっ!ん、んっ!そんなに奥まで・・!し、しないでぇ・・っ
青島の手首を拘束して、欲望だけで輪姦した一夜が赤裸々に残っている。
あんなことするつもりなかったんだ。
だけどあれほど感じた夜もない。
―よゆー・・っ、なさすぎ・・ッ
―うるさい・・ッ
「ええ?なに?どしたんです?」
「あんな抱き方、・・・辛かったろ・・?」
室井が何に悶絶しているのか察した青島が、ポンポンと室井の後頭部を優しく叩く。
「ああ、アレねぇ。室井さんって、あんなセックスするひとだったんですね~。いやぁ、けっこーカゲキなんだなぁって」
「勘弁してくれ・・」
揶揄ってくれるだけ、救われた。
いつもいつもこうやって、青島に救われている。
「めっちゃ、感じてたでしょ」
まだ顔を上げられぬまま、今度は室井が青島の頭を一つ叩く。
青島の朗らかな苦笑が聞こえた。
「今晩リベンジさせろ」
「・・だからなんでアンタらは張り合うの・・」
「それと、俺は道具に頼るセックスなどしない」
「!!」
ばれた、と視線を横に反らす青島に、叱る意味で室井はカリッとうなじに歯を立てた。
バイブで昂奮したことなどない。
あの時は、青島にハメられたのだ。
「ん・・っ、ははっ、だって・・っ」
「それとも、バイブを使って欲しいのか・・?」
「ちが・・ッ、んぅ・・・」
煩い口唇を再び塞ぎ、室井は思う存分、自分のものだと確かめた。
舌を強めに吸い上げれば、背中に回る青島の指先がきゅっと握られ、室井の胸も締め付けられる。
やっと巡り合えた恋人を、取り戻したくて、知ってしまった寂しさを消したくて、何度も深く重ねていく。
「今度、買おう」
「やややめてよ・・っっ」
朱い顔をして青島が拳を振り上げる。
その手を難なく取り上げれば、まだ身体の不自由な青島は身体を捻ることで精いっぱいの抵抗を見せた。
「だだだいたいですねっ、あんた、俺んこと、名前で呼びたがってたとか、初耳なんですけど!?」
「それは――!」
ピキーンと室井の身体に緊張が走る。
「そんな素振り見せたこともなかったくせに!このむっつりがっ」
「い、一般論を述べただけだッ」
「へぇ?じゃあ呼ばせませんよ?!」
「ウ・・ッ」
「下着は黒じゃなきゃ嫌だとか、めんどくせぇなぁもぉ!」
「かっ、カレシと同棲出来たんだ、もう少し喜べッ!」
「汚くて狭いって、嫌がってましたけど!」
「それは、建前だッ」
意味の分からない理屈を室井が叫ぶと、青島も息巻いた呼吸を整え、ジト目を寄越す。
そして、同時に、吹き出した。
見つめ合い、もう一度口唇を合わせ、室井の指先は柔らかく青島の髪を巻き付けた。
キスの合間に囁く言葉は同じ時間の共有だ。
室井が満足気に荷造りへと戻っていく。
が、思い出したように室井の足が、途中で止まる。
「指輪。贈ったサイテー野郎で悪かったな」
肩越しに、硬派な目を投げた室井に、青島は肩をすくめて視線を逸らす。
その横顔に、室井は目尻を細め、それから、もう一つ、付け加えた。
「暗証番号くらい、解読する甲斐性、見せろ」
「!」
何か手掛かりがないかと思って、青島が室井のパソコンを漁ったことは、気付いていた。
捜査の基本としては、間違っていない。が。
「気付いてたんですか・・・意地悪いよ」
「大方、一倉辺りに唆されたんだろう?俺がキャリアの隙を突かせるわけないだろう」
「ちぇ~」
その件については、青島は明後日の方角を見て、誤魔化した。
*****
室井が隣の部屋の片付けに向かったのを見計らい、青島は無防備にちゃぶ台に置かれているパソコンをじっと見た。
このシチュは試されていると見ていいだろう。
事実、青島はこれを一度探った。
途中で挫折して諦めたことは、シンバシマイクロシステムのトップ営業マンとしては、消したい記憶だ。
あの後それどころじゃなくなって、大変だったのだが、そこんところを差し引いても、青島のプライドの問題がある。
隣の部屋に室井がいる。
もう一度室井の気配を窺って、それから、青島は電源を入れた。
やはりパスを求められる。
室井がああ言ったからには、恐らく青島こそが察しの付く文字列なのだ。
「付き合った日付?初めてデートした場所?ルームナンバー。俺の誕生日なんてベタなのになぁ」
でも、どれも違った。
その辺はもう、とっくに確かめていた。
暫し考えて、青島はある数字を入力する。
開いた。
運命の扉が開かれた日付。二人が出会った、28歳と32歳のあの冬。
「どんだけロマンチストだよ」
だから室井は“甲斐性”と言ったのか。
中身は一度背後から覗き見したことがある通り、事件データベースのようだった。
担当した調書と裁判記録。その文書フォルダが西暦ごとに並んでいる。
スクロールしてみると、どうやら室井が警察官となったその年代から保存してあるようだった。
どんだけマメなのか。
今回の事件のあらましは、一倉から概要を聞かされた。
刑事局長が室井と出会ったという年代のフォルダを開く。
管理官としての室井の署名、担当班長として、刑事局長の名前が記載されていた。
室井の主観では、真面目で分析能力に長けると注釈してある。
こんな出会いであったのに、時の流れが二人の距離を変えた。
それは時代かもしれないし、年齢かもしれないし、キャリアの業なのかもしれない。
半年間、ここで寂しがっていた室井がこの顛末を知ったら、何と言うだろう。
少し、聞いてみたい気がした。
大した成果はなく、開けたことに満足して、最後までスクロールした青島の手が、ふと、止まった。
一番下に、西暦じゃないフォルダがある。
≪公文書コード3-2-8≫
なんだこれ?
クリックするとまたパスを求められた。
どういうことだ?
なんのフォルダだ?
思いつく限りのパスを入力するが、開かない。
なんだろう。
3-2-8。
何処かで見た数字だ。
青島はしばらく考えて、そして、ハッとする。
パソコン・コードが二人が出会った日付だったなら、この数字は見たことがある。旧湾岸署の住所だ。
だったらパスは――WPS
震える手で、入力した。
開いた。
それは、文書だった。
----------
青島俊作へ
ここに、俺の記憶をすべて記録しておく。君と出会ってから俺が見て感じて知ってきた、一部始終だ。
もし、もう一度記憶を失うようなことがあったら、これを見せてやれ。
縛り付けてでも、突き付けろ。どうか、どうか、必ずもう一度思い出させてくれ。
愚かな俺がどれほど君を罵っても、そんなのは軽蔑してくれていい。ただ、思い出させてくれ。君のことを。必ずだ。
君との記憶と生きるということが、人生に於ける最大の幸福だと思っている。
だから、この文書を、君に捧げる。
室井慎次
-----------
「なにこんなとこに、こんなもの書いちゃってんの・・?」
遺言書かよ。
ラブレターかよ。
俺が見つけなかったらどうすんの?
そこには、青島と出会った経緯から始まり、二人で関わった事件、そこで何を憶え、何を感じ、室井がどう行動してきたか。
そして、あの約束に日に繋がる、詳細な記録が時系列を追ってまとめられていた。
「これ、パソコン壊れたら、オシマイじゃんか・・」
いや待てよ?あのシツコイ、もとい、堅実な室井さんがそんな適当な橋を渡る?
恐らくこれはコピーファイル、或いは抜粋であり、本体はもっと別な所にある。
となると、本体には一体他にどんなことまで記載されているというのか。
「あいっかわらず、謎の多いひとだわー」
そうぼやく青島の視界は少しだけ滲む。
春風が大きくカーテンを揺らした。
外から緑の匂いがする。
「ホント。きっと本当にまたやり直すハメになっても、変わんないんだろうな~」
室井がホームから突き落とされたという一報が入った時、青島は泣くことしか出来なかった。
崩れていくだけだった。
離れていくチャンスだった。
でもここに記されているデータが証明する。
室井がどんなふうに青島に惚れて、口説いて、同じ道を歩もうと決意したのか。二人がどんなふうに共鳴したのか。
“この恋に、君は怖くなかったのか?”
記憶のない室井の声が聞こえた。
緑したたる春愁に、青島は眩しそうに微笑んだ。
*****
室井が作り上げた事件データベースはその後改良を重ね、キャリアから見た俯瞰的視点を持つ資料として完成し
現在エリートキャリアの裏マニュアルとして存在している。
happy end

当サイト初の設定小説、記憶喪失物語でした。
室井さんは青島くんに寝た子を起こされた人なので、記憶が欠けていると自分のキャラ変にかなり戸惑うのではないかと考え、こんなお話になりました。
仕事をする上でも、約束のない室井さんの踏ん張りどころを失う恐怖みたいなものに言及したかったです。踊るって、室井さんにとってはそういう話ですよね?
あと、記憶ないえっちも外せない!
室井さんを、記憶を失ったことで腫れもの扱い&お姫様にするのは違うと思うので、拙宅バージョンはこんなテイストになりました。
力不足な所もありますが、書きたいところは書き切った気がしています。
今回の連載に先立ち、幾つかのリクエストを頂きました。大変参考にさせていただきました。
少しでもその萌えにお応えできていたらなと願います。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました!