公文書Code3-2-8 8










25.
「ただいまぁ・・」

青島の声と共にビニールの音ががさがさとし、土と油が混じる外の空気が一気に入り込んで来た。
日は長くなったが、夜になるとこの辺りは気温も下がり、鬱蒼とした暗さを持つ。
室井は即座にパソコンを閉じ、立ち上がった。

「おかえり。またすごい荷物だな」
「通報とか入っちゃうと中々時間取れなくなっちゃうから、こういう隙間時間って大事なんですよ、キャリアさまには分からないでしょうけど!」

可愛くない憎まれ口も、そのトーンから別に青島がそれを罵りたいわけではないことを、室井に伝える。
室井は腕組みをして、柱に寄りかかり、青島がきちんと帰ってきたことを労った。

「今日は逃げ出さなかったな」
「あんたが帰って来いって言ったんでしょ」
「それに従ったのか」
「ここ俺んちですもん」

ぷくっと膨らます丸い頬に、思わず触れたくなる衝動を、室井は辛うじて堪える。
よれよれのショルダーバッグを頭から抜くと、青島はそれでも少し汗ばんだ額を片手でくしゃっと掻き揚げた。
こめかみから顎のラインが室井に無防備に晒される。

「落とし前付けるまではね、逃げませんよ。途中で投げ出すのは性に合わない」

その口ぶりは室井の何かに引っかかる。

「何故、私を見限ろうと思わなかった?」
「ん?」
「言い方を変えよう。君の主観で言うのなら、これは私を解放させるチャンスだったんじゃないか?」

青島のようなタイプは、本気で惚れた男に恋という罪を被せ、それでいいなんて割り切れるとは思わない。
いつか、どこかで、そんな機会があるのだとしたら。
室井を元のホワイトカラーのエリートコースに戻そうとどこかで思っていたんじゃないだろうか。

「あんたの記憶がなくなればなんて思うわけないだろ」
「経歴にも派閥にも興味がない。君に私が必要か?君が願う、将来像とはなんだ?」
「俺はただ・・」

言い当てたのか、少し苛めすぎたのか、青島が黙ってしまった。
困ったような顔は室井が何度も見たことがある顔だ。
室井を傷つけまいとして、言葉を探っている、そんな顔だ。
どうしよう、可愛すぎる。もっと苛めたくなる。
ああもう、抱き締めてしまいたい。

それが、恋という厄介な感情なのだろうか。
今の室井では恋という仕組みが理解できない。
確かに室井の中には彼への明らかな、奇妙な執着がある。
そう、かなり強烈に魅かれているのだ。初めからだ。
それは、どっちのだ?

「今の貴方が必要としているのは、俺じゃない。貴方は味方が欲しいだけでしょ」
「以前の俺なら、違うと言うのか」
「ええ。俺たちは――」

――約束で繋がっていた――

脳裏に言葉が響いた。
それは新城の声だったかもしれないし、一倉の声だったかもしれない。或いは奪われた室井の記憶の声か。
ハッとした。
優美な中にも意志の強い輝きを秘め、青島が室井を見上げている。
室井もそれを強かに見下ろした。

「――成程。面白い」

室井は腕組みを解き、足元の袋を両手で持ち上げた。
それを台所に運んでいく。

「室井さん?お腹空きました?」
「夕食にするんだろう?」
「でも室井さん、お仕事、途中なんじゃ」

ふと、室井の足が止まる。

「ところで私たちは付き合ってどのくらいだったんだ?」
「・・・・・・・・なんで」
「付き合っているのに、その、・・・下の名前で呼んだりしなかったのか?おまえ、いっつも“室井さん”だ」
「そそそそれは・・・!え、呼んでほしいの?!」
「ああ」
「初耳だ」
「呼ばせなかったのか?」

ぱくぱくと口を動かすが、何も言葉にはならないらしい。

「記憶喪失って、ある意味、無敵っすね・・・、おっそろしい」

口元に手を充て、青島が視線を反らして真っ赤になる。

「是非、記憶取り戻したら問い質したいところです」

潤んだような瞳の目線を落とし、伏せた瞼に絶美な沈黙を孕む、その顔の方が反則だ。
耽美な顔は男を簡単に狂わせる。
しかし、この様子じゃ付き合って長いのに呼ばせていない感じである。
恋人なのだ。呼び名に親しみを込めるくらい、有りふれたシナリオだろう。何俺は勿体ぶってんだ?

「じゃ、私のこと、名前で呼んでみるか?」
「ばばばばばか言ってんじゃないよ」

どたどたと、足音を大きく立てて、青島が室井を追い越し、台所に荷物を持ち込んでいく。
コートも脱いでないし、冷蔵庫も通り過ぎる辺り、背は高く見目麗しくとも年下の男なんだなと室井は薄く哂う。

「言ってみろ」
「やだ・・」
「他人行儀でいいのか?」
「だったらあんたもいつまで一人称“私”のまんまなのかよ?」

言われ、なるほどと思う。

「青島」

びくんと跳ねた青島が、間を置き、真っ赤な顔で振り返った。
記憶を失ってから、初めて“青島”と彼を名指しした気がした。

「イジワルですね。まさかもう一度こんなこっぱずかしい思いすることになるとは思いませんでした」

室井は近寄り、その腕を取った。
柔らかく腕を腰に回せば、青島も大人しくその中に納まってくる。
逃げられない。それが室井の全身を震わせる。
しんとした部屋の向こうで、隣の部屋のテレビが聞こえていた。
愛おしすぎて、室井は戸惑った顔を天井に向けた。

「なんで君はいつもそのコートなんだ?」
「今それどーでも良いよね!?」
「・・・」
「それも、あんたが思い出して・・」

随所に散りばめられた記憶のある室井と青島の数多の過去が、冷徹に室井に降り注ぐ。
青島が軽く腰を屈め、室井の口唇に淡く残したキスは、いつまでもじんじんとした。











26.
「今、俺がデータベースを作っているのは知っているだろう?事件を遡っていてその中で気になる事件に辿り着いた」

青島が小首を傾げ、興味深そうにモニタを覗き込んできた。
いいの?と目で問うから、室井は人差し指をクイッと曲げる。
腕を引いて隣に座らせると、風呂上がりの石鹼の香りが漂った。
幾つか開いた資料ファイルの一つを、室井は指し示す。

「日付は1998年11月6日。該当地区は湾岸警察署と勝どき警察署管内の河川で水死体が発見されたことを発端。特捜は湾岸署だ」
「それで?」

青島が頬杖を付き、室井を楽しそうに目を細めて覗き込んでくる。
パソコンを見ろと室井は指すが、青島は反抗的だ。

「この事件で、私の――俺の名前が管理官として登録されている。三日で解決。負傷者が出ている。名前の記載はないが担当所轄所属」

青島の視線が室井を見ている。
室井も顔を上げる。

「もしかして、これが、君か?」
「・・・はい、俺です」
「ちょっと珍しい判断だな。その後、美幌に異動になっている。・・降格した」

不満げな室井の顔に、青島が弾けたように綻んだ。

「何で嬉しそうなんだ」
「そこんところは、ちょっと説明難しいんですけど」

青島が懐かしそうに思い出を語る様子は、室井の胸の奥の方を掻き毟った。
同時にこんな風に笑う男だったのかと、室井に気付かせる。
新城も言っていた。本来はやかましい程の男だったと。

「ならば――」

室井が言わんとしたことを先読みし、青島が緩く首を振り遮る。
だが甘えるわけにはいかない。
そっとその手を握った。
青島はぴくりとする。

「その腰の傷は、私が付けたものなんだな?」
「・・・」

謝らせてはくれない瞳だった。でも、室井の問いを肯定していた。
あの傷はかなりの深さであり、生命の危険が及んだと思われる。
なんという罪を背負わせたのだ。そしてどれだけ強い思いで青島を手に入れたのか。
10年分の記憶を持つ自分と青島の絆を、見せ付けられた気がした。

「怪我は、その、どうなんだ」
「今更?」
「ん?記憶のある俺も聞いていないのか?」
「俺の入院中に美幌行っちゃうし、蹴り飛ばしちゃいましたからね」
「・・・」

恋人を蹴り飛ばす?一体俺はどんな付き合いをしていたというんだ?SMとかそういうのか?
悪戯な目が、室井の前でくりくりと動く。

「謀ったな」
「半分はほんとですもん」
「コノヤロ」

軽く青島を小突くと、室井はモニタに視線を戻した。

「でも、左遷は情けない」
「それを、俺たちの間ではカッコイイと言います」

その口ぶりに、二人にしか分からない絆を室井は感じた。
この事件では、現場に本庁一課より先に所轄を向かわせていなければ、こういう事態には成り得ない。
結局不祥事の付く判断を急いだだけの事態を、由とするには無理があった。
実際自分がそこまで思いきれるかは、甚だ疑問だった。

「つまりまだ、君との間に、何か俺が知らないことがあるんだな」

青島の邪気のない顔が室井に微笑み返す。
怒っているわけでも悲しんでいるわけでもないその顔は、今の室井にはただ切なさを募らせた。

青島の想いを、断ち切った全てを憎みたいのに、青島がそれを許さない。
目の前の爛漫で純朴な笑みに、10年分の記憶を持つ自分は何を思ったのだろうか。
知ってみたいと思わされた。
どんなふうに自分が青島を見ていたのか、思い出したい。
傷つくと分かっていても、室井は彼のことを、もっと知ってみたい。
だが、記憶が戻った時、今の自分はどうなる?消えるのだろうか?
ちゃぶ台の下で、堅く握った室井の拳が力に震動する。

「また事件を遡れば辿り着けるか?」
「ん~、そこんところははしょられてると思います」
「それは困ったな」
「困りましたね」

室井が眉間を寄せて唸る。

「悔しい」
「自分で自分に妬いてどーすんの。ほら、機嫌治して」

室井の身体を向き合わせ、青島がちゅっと室井の額にキスをした。
それだけで慰められる自分は、酷く阿呆になったようだ。

「少し、休憩しましょっか」
「今日は夜勤なんだよな。何時に出るんだ?」
「一緒にお茶したら」

少し考えるように青島が窓を見て、その瞳に映る空の色に哀愁を見て、室井は青島の腕を引き寄せた。
顔を傾け、直前で止める。
室井が何をしようとしているのか察した青島が、口唇を薄く開き、顎を上げた。
室井はゆっくりと口唇を重ねる。

「・・ん・・っ・・・っ・・」

角度を変え、室井は優しい口付けを繰り返し与えた。
手酷く抱いた夜に重ねたキスが、二人に冷たい名残を積もらせる。
哀しい恋になった。
そんな恋情を抱いたままの青島に、今の室井の心が共鳴していく。
例え自分が消えていくのだとして、青島に遺すものは、ぬくもりがあるものにしたい。

「・・ろぃ、・・さん・・」

キスの合間に名を呼ばれ、室井は肩を引き寄せ口付けを深くする。
甘く喉を鳴らし、室井の首に長い腕が回される。
動きまで綺麗なその腕はさながら映画のワンシーンのようだ。

欲望を乗せない情に満ちた口接に、青島の眉が切なげに歪み、口付けをしたまま室井の指先をが青島の首筋を這いまわる。
止まれない。
つつ・・と下り、鎖骨を撫ぜ、シャツの隙間から覗く肌を直接嬲ると、青島は敏感にふるんと身悶え、薄っすら開く甘い瞳に魅入る。
頬を撫ぜ、薄っすらを口唇を離し、勝ち気に睨みつけてくる瞳に、傲慢な笑みが室井に浮かぶ。
室井の指先が、クイッと青島の頤を持ち上げた。

事件の狭間から、二人の繋がりが思いがけず、顔を出す。
まるで、罪と恋を横取りした不埒を糾弾するように、追いかけられる。
今の室井の知らない真実が、膿んで腐臭を放ち、負荷に堪え切れずにそこに朽ちているのだ。

「また教えてくれ」
「?」
「君の知る、俺たちのことだ」

青島がニヤリと笑い、室井の泣訴を感じ取る。
消えていくのだとしても、今青島は室井のものだ。
仲間でもない、単なる恋人でもない、同じ罪を背負う青島の、存在が室井のただ一つの手綱だった。

「そんなに焦らなくても、いいんじゃない?どうして急に?」
「急がないと、昔の俺よりも今の俺が君に惚れてしまうからな」

ニヤリと笑い返して見せると、青島がカッと赤くなって口許を手で覆った。
だから、そんな顔を見せるから反則だというのだ。
一度だけ室井の腕の中で室井の首筋に甘えるように額を擦り付けた青島は、室井の腕の中からするりと抜け出した。

「君こそ、嫌だろ?」
「ま、あんたがそこにいてくれるんなら、俺はそれでいいや」
「――」
「なに驚いてんですか」
「いや――・・その、な」

逆にシンプルにやり返され、室井は慣れない愛の応酬に狼狽えた。
急にこんな警戒心を解かれると、照れ臭くて仕方がない。
恋とは実に厄介だ。
青島がじっと室井を見ている。

「焦ると、脳にもよくないんじゃない?」
「早く君に愛していると告げたいんだ」
「/////」

室井はそう言って、もう一度引き寄せ、青島の口唇を塞いだ。











27.
室井が本部に顔を出すと、捜査員らは一斉に起立し、礼をした。
それを目視で治め、室井はテーブルの中央に着席する。

「代理、ご苦労だった」

隣に座する男に一度だけ視線を送ると、酷く驚いた顔をして、狼狽え、ガチガチにした顔を正面に向かせた。
額に浮かぶ汗を頻りにハンカチで拭いている。
室井も視線を正面に戻し、マイクのスイッチを入れた。

「会議を始める。この事件は少し時間がかかり過ぎている。初動の遅れは致命的だ。気を引き締めろ」

ぐるりと室井の漆黒が会場を左から右へ制する。

「報告を」

怒声のような返事が部屋を揺るがした。

「え~、ではまず、お前らからだ!管理官にご報告しろ!」

指を組んだ手の甲に顎を乗せ、順に立ち上がり一課捜査員たちの申し送りを室井は眉間を寄せて聞いていた。
その強面に、誰もが視線を合わさない。
捜査会議はいつになく緊張感が空気を張り詰めている。

隣の男に会議の全権を委ね、室井は俯瞰した目で会場を見ていた。
この中に犯人がいるとも思っていなかったが、この中に不審な人物はいなそうだった。
誰もが熱心に事件と向き合い、躍起になって推理を披露している。

「次!遺留品からその後何か得られたものを!」

会議はキャリア主導で進められていく。
馴染みの光景だった。
会場の後方で、ここの所轄捜査員が退屈そうな目で参列しているのが見えた。

以前、青島の前で虚勢を張った。
官僚という地位がいかに貴く、選ばれた精鋭なのか、証明したいと思った。
事件を速やかに解決できない人間は無能だと思った。

10年分の記憶を持つ室井は始末書、降格、左遷、男との情事。
何故自分はそんなに堕落した?
否、何故そんな堕落を受け入れた?

記憶の蓋を開ければ身に覚えのない真実が次々と明るみに出てくる。
―俺たちは約束で繋がっている―
約束とはなんだ?
それは、恋などという毒に狂わされた妄言ではないのか?

「被疑者逃走経路が判明しました!」
「今頃か?よく見つかったな」
「これがその監視カメラの映像です。現在もここに潜伏している様子が映り込んでいます」

胸の奥で強かに灯る焔が、確かな熱と疼きを持ち、室井に消させない原罪を刻印する。
確かに自分は恋をしている。
室井はまた一つ薄くなった指輪痕を、そっと辿った。

「この近辺に聞き込みをかけろ」
「は!」
「捜査令状と逮捕状を念頭に置け」
「は!」

何のために自分は頑張っていた?
恋のためか?
違う、上に行くことだ。だが、それは、室井の胸の奥に少しの違和感を残した。

「証拠は揃っているんだろうな?」
「指紋と目撃証言の一致がありますが」

室井の胸がざわりと胸騒ぎがする。

「もう少し煮詰めるんだ」
「引き続き、加害者宅周辺を張り込み!人員確保に急げ!所轄は待機させろ!」

室井は立ち上がる。
その背中に、見送るために皆が腰を上げた。

「見事な進行だった。引き続き、頼む」
「は、はははいっっ」
「得られた情報は一覧にして資料として配布しろ。ボードは常に最新の情報に」
「ハッ!・・・おい、早くやれっっ」
「いよいよ大詰めになる。抜かるな」
「お任せくださいッ」

その場にいた全員が敬礼した。

恋に懸想していたような冴えない中年男を、ホームから突き落とすだけの殺意とはなんだ?
そう思うのに、その矛先が青島に向かうかもしれないと思うと、室井の背筋が凍り付く。
失いたくないと心が叫んでいる。
それは、消えたくないと叫ぶ自分の気持ちと奇妙な二律背反を成立させ、室井を板挟みとした。

何かピースが一つ足りない。違和感だらけの会議室が、曇り澱み、灰色に沈んでいた。
事件は間もなく解決を向かえる。












28.
退庁時刻はとうに越えていた。

「室井さん!」

新城の声で振り返ると、冷えた廊下に足音が異様なほど反響した。
まだ多くの職員が残っている筈なのに、誰もいないような静けさだ。
緘黙した堅牢は、韜晦したように言葉さえ憚られた。

「・・なんだ」

中野と共に室井は帰宅の途に向かう足を階段の途中で止めた。

「この書類にサインを」
「何故君がこんな雑用をしている?」
「勿論話があるからに決まっているでしょう?」

ぬけぬけと顔を近づける新城に、後ろで中野がくすりと吹き出した。
庁内で新城とやたら接触を繰り返していては、そこの繋がりを勘繰られるのが、キャリアの世界の面倒な所である。
苦みを潰したような顔で室井は新城の手から書類をひったくり、銀のペンでサラサラとサインする。

「要は何だ」
「住み心地はどうですか?」

書類の乗ったボードを突っ返すのに合わせ、室井がジロリと目玉を動かした。
住み心地――つまり青島の様子を聞いているのは明白だ。

「どうせ酒飲みに明け暮れているんだろう?」

まだ捜査会議と称して三人で情報交換しているんだろう?

「だから貴方のご判断を仰ぎたいのですよ」

室井から見て、どうなんだ?

「悪くない」
「そうですか」

短いやり取りだったが、新城は何かを感じ取ったようだった。
ホッとしたような顔には、青島の安否を嗅ぎ取った衒いと親しみがある。
ふと、そのお節介もまた、奇妙なものだと室井は思う。

「お前も、変わったなぁ」
「はい?」

記憶を失ってから、世界が違って見えた。
人も、違う面が見えてきた。
酷く乖離したような人格破綻に、その間にある筈の途方もない時間の長さを思い知る。
その全ての対角線上に、青島がいる。

「君はそういう男だったんだな」
「何恥ずかしいこと言っているのです。お住まいをご心配差し上げただけですから」
「それも含めてだ」

今の室井の知る新城は、所轄の一員になど心を裂く男ではなかった。
それが見えなかったから、人間関係は縺れ、混迷し、継ぎはぎのひずみに、膿が溢れ出た。
もしかしたら、上に行くことを決断した自分にも、何か別の理由があるのかもしれない。

―約束で繋がっている―

まるで亡霊のように付き纏うその大雑把で粗い理屈が、どんよりと重く室井に圧し掛かっていた。
今の倖せの罪を暴き、奪うかのように、それはそこにひっそりと横たわる。
掻き毟りたくなるような痛みを内在しながら、軽々しく触れてはならねような浄罪がある。
そういう、神格的な類のものなのだ、恐らく。

そんなものが何故我が手に?そもそも青島とは、一体何者なんだ。
足元から忍び込む冷気は辺りの大気を凍てつかせた。

「馬鹿にしてますね?」
「珍獣を見ているようだ」

真剣に褒めたつもりの室井の言葉は、中野の吹き出した声に台無しとなった。











29.
「でな、その時やはり、それまでの俺にしたらおかしいと思ったんだ」
「後悔しました?過去、聞いちゃったこと」
「いや・・、すまない、こんな話、聞かされても君は困るだけなのにな」
「そんなことないです。聞かせてもらえて嬉しいよ」

青島が立ち上がり、台所に消えていく。

「でも、一人で解決できないような男にはなりたくないんだ」
「室井さんは昔も今も一人で抱え込むような人ですよ、大丈夫」
「それ、慰めになってないぞ」

台所から聞こえる無粋な相槌に、室井が悪態を零す。
憎まれ口すら、クッソ堪らない。
くすくすと笑う青島の声が酒瓶と共に戻ってくる。
青島がこうして少しずつ笑みを見せるようになってきたことは、気を許してもらえている証拠なのだろう。

「頼りがいがないと思っていたのか?」
「そうじゃなくて・・」

ぽてんと室井の横に腰を下ろすと、青島はもう片手で持っていたグラスを二つ並べた。

「仕事のこと、室井さんは俺には多くを相談なんてしません。でも、それは信じているからだって知ってたから」
「信じている?何をだ?」

青島が注ぐグラスに零れる透明の液体は、様々な過去も今も透かしてそれでも濁りなく芳香を立てる。

「恋って、盲目っていうじゃない」

はぐらかされた気がした。
きっと、青島の言う信頼とは、そういう話ではない。
くそ、ここでもまたあの「約束」という不確定な言葉が室井を嘲笑う。
一体俺は何を「約束」したというんだ。

「俺が今室井さんの役に立てているんなら、それはそれまでの二人が過ごした時間、無駄じゃなかったんだってことです」

時間、か。
きっと、そうなのだろう。二人で向き合い過ごした時間が積み重ねた記憶が、今の室井には不可解な決断を、恐れずにやってのけたのだ。

「その酒も、もしかして俺が持ち込んだのか?」
「気付きました?」
「飲むのか?」
「飲むでしょ?」

室井はグラスの液体を見つめた。

「なぁ・・、君は、この恋に恐れはなかったのか?」

そうだ、恐怖だ。
何も分からないということは、恐怖なのだ。
信じているという単語はあまりに厚みがなく、安っぽい。

壁に寄りかかり、室井の隣で青島は酒に口唇を濡らす。
長い手足が無造作に投げ出されている。
痣は消えていて、指先に光るリングが所有権を主張してくれていた。
それにホッとするのは、むしろ室井の方だ。
また一口含み、青島がこくんと喉を鳴らしながら、首を傾げた。
一生懸命、当時のことを思いだしてくれているんだと思う。

「一人ならね・・・。あんたが、俺を選んでくれたから」

また随分と輪郭の消えた答えだった。
室井は清楚な指先で持つ手元の酒を、上品に舐めた。

どうしたって、幸せにしてやるの一言が、出てこない。

室井は青島の横顔をじっと見つめ、その瞳はやがて室井に向けられた。
その動きに満足し、僅か身体を傾け、室井は青島の首筋を強く吸い上げる。
ん・・という甘い吐息が室井の耳にかかる。

「抱きたい」
「・・どうぞ」

室井の手が青島の頬に添えられ、少しだけ持ち上げた。
うっとりとした瞳に傲慢な欲を煽られながら、室井はその口唇を近づける。

「・・っ、ぁ・・、酒はもういいの・・?」
「それで逃げたつもりか?」
「逃げませんよ」
「もう充分酔っている。・・・君に」

青島の気配、高めの体温、いつも薫る石鹸と海の香りと、傍にすり寄る甘い仕草。
どれもこれもが室井を酔わせ、兇悪的な罪の味を極上の蜜に変えてしまう。

「ん・・、そんなこと・・・いうんだ・・・」

口唇を重ねたまま青島の手がグラスを離れ、室井に伸ばされてくる。
その指に室井は五指を絡め、しっかりと握った。
恋人繋ぎのまま、下唇を甘噛みし、何度も吸い上げる。

「俺はどうやって君を口説いたんだ?」
「・・なんで・・?」
「口説き落とす自信がない」

俺が恋をした。惹かれているのは、10年の記憶を持つ俺だけじゃない。
この気持ちまで、渡さない。
恋には良い思い出がない。二度とするもんかと意固地になっていた時期もある。
でも、青島に触れて、ただ、欲しいと思った。
シンプルな欲望は、いっそ清々しく、余計なことを忘れさせてくれる。

「もぉ、落とされました」
「それは、俺に言っているのか?それとも、記憶を失くす前の俺に言っているのか?結局、君が好きなのは俺じゃない」

囁き合うキスが濡れた音を立て、絡め合う舌が灼けるように熱く、甘い唾液に止まらなくなる。
室井が片手を壁に押し当て、追いかぶさるようにして口唇を押し当てる。
壁に堰き止められた青島の顔が影となる。

「妬いてるの・・?」
「君たちの10年には、足元にも及ばないからな」
「ええ?」
「始末書に、降格、左遷、キスまでした。次は何だ?」
「もうサイアクじゃん」
「そんな男に落とされたんだろう?」
「じゃあ・・あんたは・・?」
「こんなことまでして、綺麗事で済ますつもりはない」

室井がネクタイの結び目に人差し指を掛け、少し緩めた。
青島がそのネクタイを引き下ろし、キスの続きを強請ってくるその顔に眩暈がする。

「そゆとこ、室井さんっぽい・・」

両脇に肘をつき、室井が離さないという想いが溢れたキスで返した。

「今夜は俺のベッドへ・・」
「ベッドじゃないじゃん・・。あれ敷布団」
「寝所だ」
「それ、ちょっと、ヤラシイ・・」











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