公文書Code3-2-8 6
18.
ありふれた幸せの意味なんて、わからないままだ。
「どうぞ」
目の前に出された若葉色の湯気に、室井はモスグリーンのコートを思い浮かべた。
イタリア製の硬い椅子に座らされ、室井が礼も言えずに茶を啜る。
中野は最悪の事態を想定し、一旦本庁へと戻らせた。
一倉からは、見つけ次第一報が入ることになっている。
でもきっと、室井には連絡してこないだろう。
「・・少しはご自分でも、おかしい事に気が付きましたか?」
その言葉に室井が顔を上げる。
「ご自分の中に、青島がいないという事が、変だと思えましたか?」
「・・ああ」
背筋を伸ばし、姿勢を崩さない室井の、疲れ果てた嗄れ声が、室井を一気に老けさせてみせた。
揉み合った末に崩れた前髪が、整髪料の効力を失い、額に貼りつく。
浅黒い肌はかさついたまま血色悪く、冬の木枯らしに吹き曝した手も泥のようなもので汚れている。
いつもなら神経質そうに気にする室井が、今は目にすら入っていないようで、虚ろな目で緑茶を見つめた。
「こんな形で伝えることになってしまったことには、弁解の言葉もありません」
「ずっと、自分を支えている何かが、あった気がした。でもそれが何なのか知らない。人なのか物なのかすら、分からなかった」
「・・・」
「ここで負けたらガッカリされるだとか、ここで折れたら失望させてしまうだとか、そんな感覚だ」
「貴方を現場に戻した医師の判断と、池神の狙いは、時間軸が重なっていません」
「チャンスだと思ったんだろう、私を完全に厄介払いできる」
「或いは」
新城が正面の椅子に座り、足を大きく組んで胸元から警察手帳を出した。
片手で捲るそれを、室井がぼんやりと目に映す。
「青島ごと潰せる良い材料だと当たりを付けたか」
池神と青島にも繋がりがあるのか?
良く解からないながらも、自分の周りに張り巡らされていた現実を乗せる相関図に、室井が不快に眉を顰めた。
「池神はご相伴に預かっただけだ。貴方一人を潰すのに、ホームに突き落とすなど不確実性の高いリスクは負わないでしょう」
「・・だろうな」
「相手が浅はかな行動も成し得るとなれば、ここからですよ、室井さん」
「・・・」
「こんな短絡的な浅知恵レベルで・・!それを――」
呆れ、投げやりな仕草で、両手を広げた新城が、手帳をテーブルに放った。
それを室井は目で追う。
「あんなに表情豊かなやかましい男だったのに」
「・・・誰がだ?」
新城がニコリともしていない瞳で室井を見据える。
「え?彼は・・・そんなに笑わない人間では?こう・・大人しくて内省的な。そういうイメージだ」
「それが、今の貴方の見えている世界ですか?」
室井が見ていた彼は、いつも海の匂いがしていた。
指輪ひとつ、長い恋ひとつ、捨てられずにいた。
勝ち気で反抗的、反面、自分のことは話さない聞き上手だった。
煙草を吸う伏目がちの仕草、二つ外れたボタン、観察眼が鋭くて室井の好みを良く言い当てた。
生意気なくせに、臆病で、いつも窓の空を見て、室井の後ろに座っていた。
でもきっと、全然違うのだ。新城の顔がそれを語っている。
見せられていた世界は虚像のように揺らぎ、崩れる。
「新城、約束とはなんだ?」
「・・・」
「さっき、一倉が言っていた。約束を忘れた私には価値がないと」
「それを貴方が私に聞くとは、何とも運命は皮肉ですね」
記憶を奪われて逃げた室井は違い、記憶を抱いて戦うことにした青島。
なんとなく、もう無理だと言って泣いた彼は、この先もその心を秘め、思い続けていきそうだと、新城は思った。
もう二度と、表には出すことはなく、室井を見限ることで、室井を解放して、たった一人で過去を受け止めるつもりだ。
「それは、本人に聞くべきでしょう」
教えてくれるのならば。
新城の悲痛な顔を暫く見て、決して口を開かないのだろうということを、室井は感じ取った。
腕時計に目を落とす。
「少し、遅くないか?」
新城とて青島にはかなりの深い憧憬と親愛が、室井には見えている。
なのに、やけに落ち着きを見せる新城に、室井は片眉を上げ顎を反らした。
これは、足止めされているというよりは。
「もしかして、君にも彼の居場所の心当たりがあるのか?」
「ええ、まあ」
「どこなんだ?」
「貴方が記憶を失った日も、彼はそこにいました。貴方と出会ったあの街が、青島にとっても原点なんでしょうね。貴方が憶えちゃいなくとも」
それは、酷く悲しい光景に思えた。
来ない人を待って、たった一人、佇む。想いの行き先を失い、一人、暮れる。
引き出しに放られていたあの指輪が重なる。
「貴方は、我々のことは疑ってもいい。でも、一番疑ってはいけない人物を貴方は疑った。それは取り返しのつかないことだ」
一番損得なく、利得なく、肩書も経歴も躊躇なく、純粋に室井を慕い信じてくれた人間を、室井は失った。
それが例え、仕組まれことだったり、自業自得だったり、不可抗力だったとしても
その事実は、室井を懲らしめるにはあまりに辛酸で、打ちのめした。
ここ数か月の苛立ちも鬱屈も、全部寂しかったのだと知った。虚しかった悲鳴だった。
失った代償はあまりに大きい気がした。記憶を失うことくらい、大したことではない気がした。
室井はわなわなと、両手で頭を抱えた。
「なあ、新城。知っているなら教えてくれ・・・。本当に彼は私の恋人だったのか・・?」
彼がいた場所は陽だまりだった。
苛立ち、脅えて威嚇していた自分を諫め、見守っていてくれた。
彼のいた気配、彼の動き。全てがこの一カ月の室井の拠り所だった。
“こんなん、俺が避けられるわけ、ないじゃん・・・”
口付けをする直前、そう呟いた彼の声が、室井の脳裏に響く。
室井の頭を抱えていた指先に力が入る。
なんということを。
知らないまま夢の中を彷徨うよりも、知った現実はあんまりだ。
「でもまだ起死回生のチャンスがなくなったわけではない」
「え?」
緑茶が冷めていく。
「今の貴方に言っても理解不能でしょうが、貴方の相棒は、そんな不可能からチャンスを掴む腹立たしい男でしたよ」
「随分と私には身に余る相手のようだ」
「そうですね」
だからこそ貴方たちは名コンビだったんですよという言葉は、新城は飲み込んでおく。
その心を見計らったように、新城のスマホが震動する。
「青島が見つかったそうです。迎えに行きますか?」
「行きたい・・!」
「それはどんな覚悟で?」
その覚悟がないから、愛想を尽かされてしまったのだ。
室井は躊躇う。
あんな眩しいものを、欲しがっていいんだろうか。
彼の見ている世界が、あまりに綺麗で、透明で、羨ましかった。
でももうそれを欲しがる事態にない。巻き込むことを前提とした勝負が続いている。
迷いが見透かされたのだろうか。新城の呆れた眼差しが半眼になる。
「だからダメなんですよ室井さん」
「!」
「以前の貴方は、形振り構わず青島を口説き落としましたよ。出だしの遅れは致命傷となる」
形振り構わなければもう一度口説き落とせる相手なのか?あの聡明で雅やかな彼が?
10年分の記憶を持つ過去の自分には、到底敵いそうにない。
室井は少し考える。
この一カ月の散々な生活だって、捨てたもんじゃなかった。
たった一カ月の自分には自信がない。でも、この一カ月を共にしてくれた青島の中に残っている10年分になら、賭ける価値はあるかもしれない。
彼らの言っていることが真実なら、彼は室井と一緒に地獄へ落ちる手を取ってくれた人なのだ。
無意識に、室井の右手は薬指の痕を指でなぞっていた。
ゆっくりと、青島が消えていく。残された時間は、あと二カ月。
室井は息を吸い、立ちあがった。
コートを取る。
さっき、一倉に先を越させたような羽目になるのは、二度と御免だった。
「その挑戦、受けて立とう。トドメを刺されるのならば、私は青島がいい」
当たって砕けてくる。
室井にしては性質の悪い笑みを浮かべると、新城もまた似たような顔で、口端を持ち上げた。
19.
「一倉!」
「こっちだ」
呼び出された場所は、海岸線に沿った砂浜で、既にとっぷりと日は暮れていた。
目の前の東京湾は黒々とうねり、遮るもののない吹き曝しの強い海風が凍える強さで室井の短髪を逆立て、コートを叩く。
いつもの官僚然とした室井の気品は既になく、着崩れたジャケットのボタンは外れ、頬に泥を付け
煤けた黒のコートすら室井の動揺を示すように身仕舞を放棄する。
沿岸ビルの隙間からは欠けた月が見えた。
「ひでえツラしてやがんな」
「彼は」
「口を開けばそればかり。お前は記憶を失っても青島バカだったな」
黙したまま室井の眉間が寄る。
記憶にはない以前の自分はどんな顔をしていたというのだろう。
固まる室井に、一倉はポケットに両手を突っ込み、顎を反らせた。
横柄な態度は、恐らく室井を査定するためだ。
室井は表情を強張らせ、その一切を断ち切り、歩を進める。
向き合わず、真横に立ち、片手をその肩に乗せた。
「迷惑をかけた」
「覚悟は出来てんだろうな?」
新城と同じことを尋ねる一倉に、室井は泥臭い目を向ける。
漆黒の眼は、とっぷりと更けた夜に合わせるように溶け込んだ。
「フン、やっぱり一発殴っとくべきだった」
一倉もまた、室井のことも気にかけていて、脳への打撃を心配して拳を下ろしたのだと、知っている。
そんな不器用な男に、室井は視線だけギロリと強めた。
だからこそ、本気で殴り倒すほどの気合いがなくては、失礼だ。
「これで借りはなしだ」
「ふざけんな。だったらツバ付けときゃ良かったぜ」
「手を出さなかったのか」
「勘違いすんなよ、理性を優先させたのは今のお前のためじゃない」
お前と一緒にすんな。
鼻先が触れるほどの距離で凄まれ、だが室井はそれを受けて立った。
許さないと、一倉の目は言っていた。
その緊張感が、室井を奮い立たせる。
「お手並み拝見といくぜ、室井」
一倉が顎をしゃくった岩陰に、モスグリーンの影が揺れた。
「足止めはしておいた。今は落ち着いている。いいか、これ以上は泣かすなよ」
20.
「ここは潮風が強い」
テトラポッドの上に腰を落とし、長い足を粗放に投げ出して青島は海を眺めていた。
この凍える中にあって、海風は少し春の匂いがした。
季節がゆっくりと変わっていたことを知る。
室井の気配に気付いているだろうに、青島は背中を向け、海を見つめたままだった。
ここからはレインボーブリッジが良く見える。
「よく来るのか」
「気が向いたら」
「君からはいつも海の匂いがしていた」
「・・そうなの?」
時折強めに吹き付ける潮風が巻き上げる水面が、海霧のように視界を遮った。
幾重にもエメラルドの光を帯びる。
満潮は青島の黒いワークブーツの底にも海水溜りを作り始めていた。
「青島くん」
「・・・」
「青島くん、話がある」
何度か呼び掛けていると、決まり悪い横顔を腕に乗せ、青島が顔を埋める。
「もう、いいよ。あんた、苦しそうだもん。俺のことは、もういいですから」
「・・・」
「あのアパートも、使っていいです。俺が、出ていきますから・・・後は新城さんと、一倉さんと、相談、して、」
「大体の事情を、聞いた」
徒然に言葉を並べていた青島が顔を上げ、初めて室井を見た。
室井はその顔に目を見開く。
泣き腫らした目元が、どれだけ彼があの後ここで泣きじゃくっていたかを示していた。
そして、その隣にいたのは恐らく一倉で、こんな顔を見て、その後どうしたかは、簡単に想像が付いた。
「記憶・・」
「ああ」
次の言葉を探せない青島は、室井を見上げた体勢で、口唇を震わせる。
「だい・・・じょうぶ、でした・・・?」
こんな時まで室井の心配を口にする。
そうだ、彼はずっとこうやって、常に室井を気にかけていてくれた。
「――御免な」
終わらせてしまったことは、申し訳なく思っていいんだろうか。
どんな風に青島が室井を愛してくれていたのかを、今の室井は知らない。
二人の間で勝手に終わっていった恋が、哀しかった。
途切れた恋の結末を憐れんだ。
また、ぶわっと溢れるように青島の栗色の瞳から涙が溢れ、キラキラと海に溶けた。
沖から吹き付ける海風が、青島の細髪を柔らかく揺らし、室井の黒いコートを翻す。
「忘れてしまって、御免」
塩辛さの混じる口の中までが、しょっぱい。
こんな恋をしたことが、しょっぱい。
官僚の鎧が晦渋となり、短髪を逆立てた室井の東北訛りは、全てを失った男の姿だった。
青島が首を大きく横に振り、ぽろぽろと泣きながら、言葉を乗せようとした口唇を、言葉にならずに小さく噛む。
その姿に室井も痛みを顔に乗せる。
今、自分たちは、同じ恋を失った、ただ一人の片割れだった。
仕事とかキャリアとか、そういうことではなくて、この恋の消滅を、誰よりも室井が一番共有できるものだったのに。
「君を一人にさせたんだな」
「もう・・・いいんです・・、こうして、終わりにしにきて、くれたんだから・・」
二人で、どんな恋をしてきたのだろう。
どんな時間を過ごし、どんな言葉を交わして、生きてきたのだろう。
室井がまるで知らない恋の物語が、青島の中にはある。
知りたかった。
取り戻したかった。
こんな恋にしかしてやれない。そんな恋をするために愛したわけじゃないだろうに。
「――・・・」
疑ってしまったことも、乱暴に抱いてしまったことも、許してくれ。
そう口に出そうとして、今の青島には、室井も何も言えなかった。
10年という歳月は、途方もない。
強い風の中、ただ黙って見つめ合った。
緑の霧が隠す表情が、遠い。
取り返しがつかないことも、どうにも取り戻せないことも、重なる視線が静かに交錯させて、潮風と同じく、通り過ぎていく。
「忘れて、いいから・・・。もう、自分を、責めないで・・ください」
「君のせいでもない」
少しは幸せだったのだろうか。
少しくらいは、一緒に居て、良かったと思って貰えていたのだろうか。
そういう恋をさせてやれていたのかどうかすら、今の室井は分からない。
室井の言葉に、青島の瞳が小さく揺れ、微かな柔らかさを乗せた。
その瞳に、室井は胸が締め付けられる。
「室井さん・・・、さよなら・・」
バタバタと酷い音を立ててコートの襟が打ち付けていた。
風の音に遮られる中で、青島のふくよかな口唇が終わりの言葉を乗せ、小さく震え、閉ざされる。
幽かに笑みを作ろうとした口元が、それが、初めて見た彼の笑顔だったことに、気付く。
エメラルドに色付くスローモーションのようなその光景を、室井は瞬き一つせずに、見つめていた。
記憶を失うということは、ありがとうという言葉さえ、奪われる。
ただ見つめ合った。
距離は縮まらず、心はすれ違ったまま、室井の顔が苦渋に歪んだ。
「帰ってきてくれないか」
準備もなく零れ落ちた室井の言葉に、ようやく青島も呪縛が解かれたように、表情を崩した。
虫の良いことを口にする室井に小さく首を振り、その視線が離れていく。
テトラボットの上に立ちあがり、一度だけ、沖の方に視線を投げた。
モスグリーンのコートが大きく風を包み、まるでそのまま夜空に溶けて消えてしまいそうな美麗さを放つ。
形の良い顎の輪郭が、藍紺の空に縁どられ、息を呑む。
「玉砕覚悟で来た」
見上げ、激しい胸騒ぎに急き立てられるまま、室井が早口で引き留める言葉を張り上げる。
ロクな言葉一つ、浮かびやしない。
「もう一度やりなおせないか」
「どうして?聞いたんなら分かるでしょ、・・・もう一緒にいる意味、ない、から」
「それは、私の中に恋がなくなったからか?」
記憶がないから駄目なのか、恋がないから駄目なのか。
肩越しに振り返る、泣き笑いのような青島の顔が痛々しく、室井の拳が堅く握られる。
強く力を入れすぎたため、爪が皮膚を裂いて血を滲ませた。
「私の中に君がいなくては駄目か?一から始めることも出来ないか?」
「・・・」
「思い出したいんだ。失くしたものを全部取り戻したい」
「室井さんの奪われた記憶、落とし前は付けますよ。捜査には協力します。でも、もう、俺たちは、終わっちゃったんだ」
記憶と共に。
片足で蹴って、青島が防波堤に飛び降りる。
鮮麗な動作に見惚れる室井の前まで近づき、そっと身を屈めた。
エメラルドに包まれるその光景を、室井は目を見開いて見つめていた。
優美な顔が傾けられ、甘い気配と体温が室井の視界を覆い、口唇に柔らかい感触が重ねられた。
伏せられた睫毛が微かな月光を纏い、憂いに染まる。
終幕を告げる6秒間の口付けは、室井の止まった時を動かし、その先を告げさせることを拒んだ。
「約束も、捨てちゃっていいですから」
自由になって――
エメラルドの風に乗って、青島の口唇の動きは、幽かにそう室井に伝えた。
行ってしまう。
消えてしまう。
待ってくれ。
待ってくれ。
「例えばこれが、仕組まれたことだとして、こんな形で恋を終わらせられて、悔しくないのか・・?!」
「例えばそこに、神がいたとして、これは報いなんだよ俺たちの」
そんなに酷い行いをしてきたのか、俺たちは?
この恋は、そんなに責められるものなのか?
そうだろう、キャリアとノンキャリの立場での恋など、今の室井には信じ難い。
男同士という禁忌も、この封建社会では迫害される。
そうだとしても、その言葉が出るということは、間違いなく、彼は室井の唯一の味方であり、同胞であり、共犯だった。
この世知辛く冷たい世界の、ただ一人の、掛け替えのない運命共同体だったのだ。
「それを承知で手を取ったんじゃないのか?」
「――」
「同じ罪を二人で抱えようと、していたんじゃないのか?」
頼む、青島の中の10年分の記憶に届いてくれ。
どうか、青島に眠る自分の記憶、俺に気付いてくれ。
「その答えは――記憶のある貴方に」
儚く瞼を伏せた青島の、優しさを壊すように、野暮ったい潮風は容赦なく二人の頬を叩きつけた。
やはり、こんな平たい言葉などでは勝てないのだ。
10年分の記憶を持つ過去には、勝てない。
「君は・・・君はそれでいいのか・・!」
「・・・初めから選択肢なんて、なかったよ、俺には」
「過去の私がこんな結末望んだと思うか・・!」
「でも、俺の事だけ忘れちゃった理由って、考えましたか?」
そうだ。そもそも何故俺は青島のことだけ、失った?
何故青島の記憶だけを奪われたんだ?
冷や水を浴びせられたように、室井の背筋が凍り付いた。
その隙を突かれ、青島がくるりと背を向けた。
瞬時、室井の心臓が掴まれる。
また置いていかれる!
なのに、呪縛が掛けられたように室井の足はそこから動かない。
行かせてしまったら、きっと彼はもう二度と、戻ってこない。
「ぃ、行くな・・!行かないでくれ!」
室井は叫んだ。
「なんなんだ君は!勝手に現れて勝手に去っていく!こっちはそんなに簡単にころころと居場所を変えられない!」
ただ猛烈に悔しかった。流されて抗うことも出来ない。
「こんなに振り回されて!ずかずか入り込まれて!お陰で毎日毎日君のことで頭がいっぱいだ!どうしてくれる!」
驚いた顔で青島が振り返る。
「これが恋じゃなかったらなんなんだ!」
頼む、届いてくれ・・!
必死だった。藁にも縋るというが、藁が与えられてる奴の方がまだマシだ。
室井は怒号のような高声をまくしたてた。
「恐らくその頃と同じ気持ちではないんだろう。好きだとも愛しているとも言えない・・!でも!」
目覚めてくれ。青島の中の俺まで消えていかないでくれ・・!
「君を、放したくない、傍に居てくれ・・!」
気持ちが今、言葉に変わっていく。
「君の!隣で生きたい・・ッ!!」
青島のまあるい瞳から、星屑が光るように滴が落ちた。
それを認めた瞬間、呪縛の掛けられていた室井の足は、今度はすんなりと動いた。
室井は弾けるように駆け出した。
走り寄り、青島の二の腕を掴む。
掴んだ指先すら、震える。
「室井、さん・・・」
名を呼ばれただけで、心臓が痛い。
聞こえるか?青島の中の10年分の俺の記憶。頼むから応えてくれ。頼むから今の俺を援護しろ。
室井は胸ポケットに手を忍ばせ、そこから取り出したものを、手の平に乗せて青島に広げる。
青島が目を見開いた。
それは銀白色の指輪だった。
「これは、私の、だな?」
「どうして・・」
「当たり、か・・。病院に事情を話して取り戻してもらっていた」
室井はその指輪ごと、ぎゅっと拳を握る。
事実が一つ、カタンと音を立てる。
「だったら、君も、私の、だろう?」
「・・っ、だとして、離れていても、支えることはできます・・っ」
「行くな、傍には居れないか・・ッ?」
「で、でも・・っ、もう遅いんだって、何もかも・・っ」
青島が後退り、腕を振り払おうとする。
形振り構わず我武者羅であれ。
意地を見せるときは、今だ。
「勝手に一人で決着を付けるな・・!この先のことを、私にも考えさせてくれ。別れを選ぶのだとしてもだ」
ピラミッドの頂点に立つためにはいつか此処を去っていく。送り出す役目を担う傍ら、残された方はいつか忘れ去られていく。
そこにあるのは退廃的なロマンティシズムだ。
きっと、10年分の記憶を共有する室井と青島が想いを重ねた覚悟は、今の室井の比でない。
「・・も、わっかんないよ・・っ、あんたは俺の大事なものを天秤にかけようとしてるんだ、また」
「玉砕覚悟で来たと言ったろう?」
たくさんの記憶が青島に決断させた。
たくさんの記憶が室井に決断させた。
ここまで歩んで来たから、今の室井の目の前に、青島が託された。
「君の本音が、聞きたい」
手首を硬く掴んだまま、室井は掠れた声で訴えた。
まだ痣の残る青島の手首が、エメラルドの夜に透ける。室井は意志を込めて引き寄せた。
軽く抗いを見せ、青島は足元をふらつかせた。
頼む。青島の中の俺に、届け。一緒に青島を取り戻すぞ。
「一緒に暮らした時間は、本当に全部無駄だったか?」
青島が言えない言葉を呑み込んで、ふるふると顔を横に振る。
「文句ばかりでも、私は君で良かった」
「あんたと暮らせて、楽しかったよ」
「・・・」
至近距離で覗き込む瞳は、触れ合う直前で止められ、また一つ、波が巻き上がった。
「でも、さみしい、時間だった・・やっとまた、あんたが俺を見てくれたのに、あんたが記憶戻したら、今のあんたは?俺、また忘れられちゃうのかなとか」
青島の本音が零れてくる。
青島が躊躇うもの、脅えるもの、きっと、記憶のある自分なら不安になどさせやしなかっただろう。
だけどそこに、10年分の記憶が室井の前で阻んでいる。そして、呼んでいる。
「今のあんたを好きになっちゃったら、昔のあんたも好きだけど、やっぱ違うの?」
「ッ」
「もし戻って、でもじゃあ今のあんた、どうなるの?また消えちゃうの?」
青島の不安と疑問に、今の室井は応える術はない。
それが哀しく、もどかしい。その分、切なくて、愛おしい。
10年分の記憶が今の室井を援護する。
「俺、また忘れられるの・・・あんたに」
顔を歪ませ、室井は指先を延ばし、青島の頬に、そっと触れた。
包み込むような仕草に、青島の顔がくしゃりとなり、首を傾げる。
「好きでいて、いんですか・・」
息が、止まるかと思った。
心臓も、止まったと思った。
ドクンと高鳴る鼓動の痛みに、室井は強張った両手を広げた。
世界は深いエメラルドに染まっていた。
滲むのは自分の目頭が濡れているからだと気付いた。
触れたら消えてしまいそうで、室井の指先はブルブルと震える。
恐々と時間をかけ青島の頬を包み、確かめ、それから耳を撫ぜ、両手を背中に回す。
「一緒に地獄へ落ちてくれ」
やはり、10年分の記憶を持つ自分には到底敵わない。
でも、この痛みを分かち合えるのは、絶対今の自分の方が相応しい。
力の限りに青島を抱き締める。
やがて、青島の腕が重く持ち上がり、室井の背中に回る。
きゅっとしがみ付かれて、室井は瞼を堅く閉じた。
