公文書Code3-2-8 2










5.
一週間後、室井は新城と連れ立ち、築年数を重ねた朽ちたアパートの前に立っていた。

「これは一体どういうことだ、新城」

目を吊り上げ、室井が憤慨する。

「だから、先程申し上げましたように、今日からここに避難して頂きます」
「もっと他に場所はあるだろう」
「最大限、貴方の身の安全、警備員の確保、上の了承を考慮した、生産的な結論です。そもそも貴方、一度襲われているんですよ」

新城はジト目で、うんざりとした顔の前で手を振って室井を軽くあしらった。
ぞんざいな扱いに室井は眉間を寄せる。
室井が一カ月前、霞が関のホームで襲われ、重症を負ったことを指しているのだろう。
簡単に背後を取られた不備を世間に叩かれたこともあり、警視庁は多くを公表していない。

「そして中野の一件。もう貴方が襲われたことが無関係ではなくなったと気付いておられるんでしょう?」

これ以上、部下に迷惑をかけるなと、新城の目は言っていた。
厄介者扱いされているのは、こちらなのか。
室井は押し黙り、もう一度古びた扉を凝視する。

「手口に毒物が使われていた。明らかに殺意がある。そのまま雲隠れしていた方がいい」
「被害にあったと見せかけるためか」
「はい。官舎にも戻らないで頂きたい」

室井は唸った。
現状は理にかなっているように聞こえる。

「だが、本部の方はどうなる」
「捜査の混乱は初動を遅らせる。なので引き続きご担当を」
「内部犯を狙っているのか?」
「今は両方の線で。ただ、命を狙われていることは確かなようですよ、貴方」
「・・・」

中野が開封した封書のカッターには薬物が使われていた。
毒はトリカブト。
トリカブトの毒成分・アコニチン系アルカロイドのアコニチンやメサコニチンは、現在知られている限り植物界で最強の猛毒といわれている。
ナトリウムチャネルに結合し、細胞活動を停止させる麻痺作用を持つ。
アコニチンは傷のない皮膚や粘膜からも吸収され、ヒトの致死量は3~4mg。
トリカブトの葉約1gで人を死に至らしめるだけの効用を有し、摂取後10分~20分と短時間で発現する。
致死量を摂取すると心室細動や心停止を引き起こし、心臓麻痺により、6時間以内に死に至るといわれる、強力なものだ。

推理小説などで度々登場する、日本ではメジャーな薬物だ。
封書からは致死量のアコニチンが検出された。
中野は室井の代わりに被害にあったと思われる。

「では、行きますよ」
「え?」

新城がインターホンを押した。
応答はすぐにはなく、新城は何度もピンポン連打する。

「おい、ちょっと待て、ここは誰かの家なのか?」
「そうですが」
「聞いてないぞ」
「逆に無防備に一人で過ごせるとでも思ったんですか?」

ぬけぬけと新城が言い張る理屈を、室井は目を剥いて聞いていた。

広島からようやく東京に戻ることが出来るのだ。
昇進を果たし、返り咲くという舞台を整えてくれたのも束の間、上から腕試しだと、いきなり一課捜査本部の本部長を命じられた。
もう政治をするつもりでいた室井は、正直、かなり面食らった。
だがもしかしたら、従順な犬として試されているのかもしれないと思い、引き受けた。
無論、辞令に拒否権など初めからない。

だが、その矢先の、この騒動である。

「ただでさえ、こんな汚い場所で辟易しているのに、狭いところで誰かに見張られるなんて冗談じゃない」
「第二の中野を出しますか」
「中野くんはまだ死んでいない!妙な言い方をするな」
「まだって言う貴方の方が失礼ですが」

応急処置が早く、中野は一命は取り留めた。現在完全隔離で入院中である。
その間の、室井直属の部下代理もまだ決まっていない。

「ご安心ください。これで少しお時間が出来ます。部下のお見舞いくらい、お申し出くださればこっそり行けるよう善処させますよ」
「何故、私がわざわざ行く必要がある」
「電話一つくらい、罰当たりませんよ?」
「君も暇になったな」

室井の知る新城はそんなことを口に出す男ではなかった。
広島の四年に何があったんだか、訝し気な色を隠さず、室井がジロリと目玉を動かす。

「東京に早く帰りたいのでしょう?」
「まさか何かしたんじゃないだろうな、新城」
「貴方の辞表を処分して差し上げましたが」
「お前、性格変わってないか?」

睨み合う二人の男が額も触れ合いそうな距離で、退屈な舌戦を繰り広げる。

「私は最初からこういう男です。貴方が勘違いしていたのでは」
「人のせいにするところは変わっていないらしいな」

今にも掴み合いそうにヒートアップしたその時、鍵を回す音がして、扉がガチャリと開かれた。
現れた男に、室井は何度目かの瞠目をする。

「はぁい、どちらさま?って、新城さん?」

続けて茶色の瞳が室井を認め、絶句した。
室井も言葉を失う。
あの青年だった。

「しばらく室井さんを匿ってくれ」
「はいぃ?突然来て突然何言ってんの?」

新城とも知り合いなのか?
室井は状況が理解できない。

「貴様のことだ、大方の事情は察せるだろ。そういうわけだ」
「適当に説明端折ってんじゃねぇよ。ってか、来るなら来るでまず連絡してくださいよ」
「したら、お前が逃げると思ってな」
「逃げたいですね、正直」

そもそも所轄の身分でエリートキャリアと呼ばれる集団と、タメ口を聞けるくらい、幾らフレンドリーな人間だからと言って
そう簡単に叶う話ではない。
特に新城は生粋のキャリアで一線を引かせることで有名だ。
これは一体どういうことだ。

「ボディガードとしちゃ、俺、頼りないでしょ!」
「現場の力を信じてほしいんじゃなかったのか」
「あんたらキャリアの腕っぷしにノンキャリが敵うわけないでしょーがっっ」
「ほう、負けを認めるのか」
「じゃなくってっ!!」

あの新城までもが何故か必要以上に所轄の人間と親し気に話している様子に、室井は口を挟む隙を完全に失った。
青年が新城の腕を取り、何やら耳打ちを始める。

「だからッ!本庁の人間に何かあったらどうするんですか。俺じゃ」
「ここはそう簡単に嗅ぎ付けられない」
「何故言い切れるんです」
「相手がもし本気で室井さんを狙っていたのだとしたら、真っ先にお前が狙われていた筈だ」

室井個人を効果的に狙うとしたら、その弱点、つまり急所となる所轄の青島を特定し狙うのセオリーだ。
室井は巧妙に二人の関係を隠してはいたが、室井の影の立役者としての青島でも、ターゲットとしての価値は充分ある。
所轄は本庁に比べガードも緩く、個人能力も低い。
ホームもトリカブトも、新城は脅しだと睨んでいた。

「つまり、そこまで調べ上げていないか、或いはターゲットは単に本部長という肩書なのか、だ」

ヒソヒソと、新城が小声で耳打ちする様子に、室井は地団太を踏む。
室井に聞かせたくないのか。忌々しい。

「新城、嫌がっているものを無理に頼むことはない」
「他に隠れる場所を指定できるのであれば」
「ホテルでいい。私だってこんな狭い部屋は嫌だ」

新城が呆れた目をする前に、青年が初めて言い返した。

「狭くて悪かったですね」
「君たち所轄のような下々と一緒にするな。官僚には官僚に相応しい居場所というものがある」

初めて会話したのが、喧嘩腰となった流れに、室井は肩から盛大に溜息を落としたかった。
別に交友を深めようだなどと下心を持っていたわけではないが、それにしたってやたらと敵を作らなくても良い筈だ。
ただでさえ今本部で一課と連携が取れずにあぐねているのに、これでは室井個人の社会不適合者を証明したも同然である。

「こんな薄汚いところで寝泊まりなぞ出来るか」
「しょせん東北の田舎出身でしょ」
「だったらなんだ、君は」
「先に身分違い持ち出したの、あんた」

思った以上に、はねっ返りの男に、室井もついムキになる。

「所轄の身分でその口の利き方はどうなんだ」
「寝食の話でしょ」
「大体そもそも君は何だ。見知らぬ人間に世話になる屈辱が分かるか」

少し痛みを乗せた目に、やはり所轄はキャリアに媚を売るハイエナばかりだと室井は憤慨する。

「他人様に世話になる態度じゃないから、誰も付いてこないんでしょ」
「なんだと?」

彼は一体どこまで知っているんだ?
何故室井の現状を正確に言い当てる。内通者は新城か?
だが、室井の思考を、その新城が一刀両断した。

「他人だからこそ、ここが安全だと思いませんか室井さん」

カツンと革靴を鳴らし、普段の冷ややかな声は、官僚然としたものだった。
理屈で封じた新城に、室井も押し黙る。

その通りだった。
誰が犯人かも分からない状況で、向こうは室井の情報を握っている。
裏をかくには向こうの情報にない行動を取るのは常套手段である。

扉に手を掛け、新城が片手で優雅に、中へ入れと誘導する。
その新城を見て、青年も諦めたように身を引いた。
選択肢は、なさそうだった。











6.
「それでは後はごゆっくり」

まるで見合いの仲介人のような捨て台詞を残し、錆びて軋む扉は、無情にも閉ざされた。
取り残された気まずさは、室井の人生で一番最悪な日と匹敵している。
上に呼び出され、左遷に逮捕に、異動。人事に振り回され、散々な目に合ってきたが、どこか耐えねばと思えたものだ。

そもそも査問会議になどにかけられるようなことは皆濡れ衣だ。派閥がないことと地方出身であることへの差別だ。
室井は恥じた行動はしてきたつもりはない。結果的に誰かを傷つけてもそれは不運で片付けるべきものなのだ。

おずおずと室井は横にジト目を向ける。
セットもしていない髪の奥から、栗色の瞳が上目遣いにくりりと向いた。
壁に寄りかかり腕を組んで足を投げ出す所作には、風韻が漂う。

「茶でも出す?」
「結構だ」
「座ったら?」

丸いちゃぶ台を親指でクイッと指され、室井はチラリと視線を走らせた。

寛いでいたのだろう、部屋の隅にはモデルガン。
だぼだぼのスウェットの上下は彼のスタイルの良さを逆に感じさせた。憎らしいくらいの、八頭身。
素足でぺたぺた歩く様子は、寝起きの幼子だ。

「何故言い返さなかった」
「しんじょーさん、言いだしたら聞かないから」

それはそうだが、と言いかけ、室井は警戒心を逸らせる。

「新城とも知り合いか?」
「ええ。まあ、ね」

1LDKの小さな木造アパートだ。
深い海を思わせるカーテンが、この秋の寒さの中、大きく揺れていた。
ブブと、テーブルに剥き出しのスマホが震動する。
青年は横目でそれを見て、タップすることなく、奥の部屋へと向かった。

「このベッド、使っていいですから」
「君は」
「寝袋でも雑魚寝でも」
「・・・布団くらい、調達させる」

あっそ。
然程興味もなさげに、今度は親指をクイッと曲げる。

「便所はそこ。風呂はあっち。今から適当に掃除しちゃいますんで」

腕まくりをして、うし!と気合を入れる背中を、室井はただ見送った。
やっぱり、嫌味なほどに、見映えがいい男だ。
足も長い。


***


翌朝、新品の羽毛布団で目覚めた室井は、見慣れぬ天井にぎょっとした。
カッと目を見開き、身を起こす。
聞き慣れない工場の操業音で覚醒したのだと気付くと、心底うんざりとした気分が押し寄せた。
舌打ちしたいくらいの心境で、室井は跳ねた前髪を気怠げに掻き揚げた。
落とした溜息は物憂げなものとなる。

「・・・」

襖を隔てた向こう側に、人の気配がある。
昨日、彼とはほとんど話さずに終わった。
そもそも足りない食材などを調達すると言って部屋を後にしたっきり、彼が戻ったのは夜も更けてからだった。

知り合ったばかりの男にどう対応していいのかも分からない。
どんな態度でいるのがこの場合正しいのだろう。
官僚か、知り合いか、他人か。
室井の記憶にある新城も、あんな風に言葉尻に噛みついてくる男ではなかった。
奇妙に許される距離感が、室井にこびり付いたように違和感だけを植え付けてくる。

室井はとりあえず身なりを整え、着替えてから、軽いストレッチを始めた。
体型や筋力をキープする自己管理能力も、エグゼクティブであるための必須条件だ。

――ここで、これからしばらくは缶詰となる。
捜査本部も気になるが、自分を殺したいほど敵意を向けられている相手が面倒だった。
恨みか、嫉みか、憎悪か。
官僚ともなれば、よくあることだから動機は気にはしないが、こうしてこちらが身を隠さねばならない状況が
負けを認めているようで癪だった。

汗ばむまでパンプアップを行うと、シャワーを浴び、気持ちを切り替える。
スーツを身に纏ってから、室井は襖を開けた。
誰もいなくなっていた。

きょろきょろと辺りを見回す。
くしゃくしゃの外国製煙草、やたらと数のある時計。
窓は少し、空いていて、カーテンが揺れていた。
何故か転がる国語辞典。癖の強い字で書き込まれたカレンダー。
家主の気配が、そこら中に満ちている。
みすぼらしい、庶民の典型だ。

錆びたステンレス、昭和の臭いのする台所、焦げたやかん。
何もかもが室井をイライラとさせる。
なんで俺がこんな惨めな生活を送らなきゃならないんだ。

秋田から出てきたのも、広島から戻ったのも、こんな生活をするためじゃない。
陶器の禿げたコップすら、うんざりとした。

「あ、終わりましたか?」
「?」

台所の方から、ひょこっと青年が顔を覗かせた。両手に皿を持っている。
何がだろうと眉間を寄せ、即座に、室井の毎朝の習慣のことだと気付く。
彼が知るわけがない。一倉か、と何となく思った。

「朝めし、どうぞ」
「君が作ったのか」
「他にいませんよ」

ざっと皿に目を走らせ、室井が口を開く。その寸前。

「黙って食べてください。卵は頭にもいいんですよ」

封じられ、室井は口唇を尖らせた。
眉間を寄せた強張った頬に、目の前の青年は涼しい顔でパンを齧る。

こんがりと焼けたトースト。
スクランブルエッグ、ベーコン、レタス、トマト、カップスープ(クノール)
北海道コーンクリームだ。

何故室井が言うことを先に分かったのだろう。
然程困っている様子も見せない男は、相変わらず目を引いた。
少し伏せてもぐもぐと租借する視線は、睫毛の長さを影が伝えてくる。
健康的な丸い頬に、警戒も嫌悪もないが、友好的なものもなかった。
一倉に見せていたような顔は、室井には向けない。
だらしなく結ばれたネクタイに目を走らせ、室井はトン・・と机を指で弾く。

「官僚は選ばれた精鋭だ。君みたいな出自の知れない庶民とは違う」
「東北大の逸れもんでしょ」
「明日からの私の食事はいい。施しは受けない。・・・危険で食べられるか」

冷めた白い皿を、一瞥し、室井は口を付けることは止めた。
こういう所轄の浮かれた連中は、キャリアが日々コップ一つ、毒を盛られていないか気を張っていることすら、意識しない。
お気楽なものだ。

椅子に座ったまま、食事の手を止めた、真っすぐな瞳が、室井を見上げていた。
室井も揺るがず見下ろす。

「俺、先に出ますんで。迎えは9時ごろだそうです。これ、うちの鍵ね」
「私の今日の予定を知っているのか」
「昨日の夜、新城さんからメールで。送迎はしばらく細川さんが担当するそうです」

机に置かれた擦り切れた鍵を、室井はじっと見た。
新品ではなく、この家に似つかわしい銀色のオーソドックスなタイプだった。
こんなもので、身の安全を図れというのか。
こんなもので、今の自分の身の危険が始末されている。

「・・・フ」

室井にしては粗っぽい、荒んだ笑みが口端に滲んだ。
そのまま背を向けた室井は、そんな自分に青年がどういう顔をしていたか、知ることはなかった。

工場の操業音が狭い部屋を振動させる。高いモーター音。
新木場は2000年代に入って急速に発展した街で、高速バスや乗り入れなどで都市部へのアクセスも盛んになった。
だが、一歩入ればそこは海となる埋め立て地だ。
潮の臭いが室井の鼻腔を吐き、本当に本庁から放り出されている孤独感を現実のものとした。

昔はここまで孤独感を感じていなかった気がする。
東北大というハンデは入庁当初から厳しかったし、中々手柄を上げられてない現状にヤキモキもしていた。
だが、今よりもっとどっしりと構えていられた。周りに頼っていなかった。
いや、違う、もっと確かに、もっと具体的な味方がいた気がする。
誰のことをそう思っていたんだか。

新城・・・ではないだろう。あれは、仲間というより戦場の同胞だ。
では、沖田か?中野か?まさか池神のことではあるまい。
スマホを取り出し、失礼にも候補に上げなかった一倉の番号を、室井は押した。朝めしを抜くわけにはいかない。

バタバタと、背後で慌ただしい音がして、青年が玄関へと猛ダッシュしていく。
モスグリーンのコートを軽く羽織って、古ぼけたショルダーバッグを引き摺り、ワークブーツの紐を結ぶ。
振り返りざま、室井が見ていることに気付き、片手を上げて敬礼してみせた。

「呼び出されました!んじゃ、俺、出まぁすッ」
「・・・」

大した仕草ではないのに、モデルのようだ。
バタンと扉が閉ざされたと同時に、室井は大きく肩で息をした。

騒々しい男だ。
煩いわけではないが、いるだけで華やかだった。
その証拠に、彼がいなくなった途端、静まり返るこの部屋が、まるで他人行儀となる。

室井は部屋へと戻った。

テーブルには、室井が手を付けなかった皿にラップが掛けられていた。
癖の強い字のメモが添えられている。
“食え!身体が持ちませんよ!毒なんか入れるか!”
洗い損ねた皿がシンクで寂しげに転がっていた。

室井は両手をシンクに付き、項垂れた。

何かが狂い始めている。
どこから狂いだしていた?
一度狂いだした歯車は、二度と戻らない。

人生最悪の朝だった。












7.
「新城さん、あのぅ・・」
「例の件、か?」

畏まってバックミラー越しに問いかけてくる細川に、新城は先に口火を切った。
わざわざこうして人払いのできる、車内という密室空間を選択してきたのだ、容易に質問は察せられた。
キャリアには多くの材料があり、その情報を以って他者を制する。
細川が荒んだ目で問いかける機密情報など、今はこの件しかなかった。

「押し付けたのだと一倉さんから聞きました」
「丸投げしたみたいな言い方だ。これでも踏ん張ったんだがな」
「何と言われたのです?」
「好都合だと。厄介者の室井さんを処分する時が来たということなんだろう」

手の平を翳し、お手上げだという風に新城が零す。

「5年前、切り損ねた弔い合戦のつもりでしょうか」
「仇討だったらどうする」
「考えたくも御座いません」

もしそうなら、出だしから後手になっていたことになる。
細川としても、新城の情報戦に引けを取ることなど、プライドが許さないだろう。
今は打つ手が何もないのは明白だった。

「あの時、超法規的手段で室井さんを救ったのは、新城さんです。もしかして新城さんへの報復ということは考えられませんか」
「それも、考えたくもない」

同じ言葉で新城も切り返す。
室井を切ることが新城への見せしめだとしても、今の室井の状況を誰かが想定できた筈はない。

「状況は、かなり不利ですね」

バックシートに凭れ、足を大きくくみ上げた新城が細川に顎をしゃくった。
それはいっそ、弱みだったかもしれない。

「青島については何か言っていたか?」
「彼は私たちに愚痴ってくるような方じゃありませんよ」
「それもそうか・・」
「本当に、こんなことって有り得るんですね・・」
「だから困るんだ」

一体誰が室井の命を狙っているのか。一体誰が室井の記憶を奪ったのか。
室井が戻らない限り、こちらには戦う術がない。
“おもり”をしながらの交戦など、せせら笑われるのがオチだ。

「泣き言は言ってこないから、まだ上手くやっているんだろうって、一倉さんは言ってましたけど」

大丈夫なのかなぁ?と細川はハンドルを握りながらぼやいた。
信号が赤に変わる。

「青島に捜査権を握られているのも、避けたかったんだがな・・」

遠い目をした新城の言葉は、車内に重たく響いた。
悲痛に歪む目元は、捜査会議ですら滅多に見られない、新城の本音である。
その顔を引き出させられたことすら、事態の深刻さを物語っていた。

室井が二度に渡って狙われたことで、警視庁は彼を持て余した。そして、寄りにもよって青島に遭遇させた。
反吐が出る。

このままでは室井はお荷物になる。始末できる最大のチャンスは、上層部にある。
青島に押し付けたのも、それで共倒れになってくれれば手間が省けるといったところだろう。
それは事実上の、新城への勝利を意味していた。
だからと言って、これはない。

「あの二人を一緒にして、大丈夫なんでしょうか」
「危険だろうな」
「そうですよ、かなり無謀なことです。分かっているのでしょうか」
「どちらの意味で言っている?」
「え?」

細川の間の抜けた問い返しに、新城はニヒルに口元を歪めた。

全てが危険すぎる。
狙われている状況で警備の薄い環境に放り出したこともだが、室井に青島を引き合わせたこともだ。
まだ室井を狙った意図が掴めていない。
奪われた記憶の現実が追い付けていない。
あんな状態の室井に青島を逢わせるなど、自殺行為だ。
そして、あんな状態の青島に室井を任せるのも、悪趣味だ。

「脳の負担になることを医師は警戒していたわけでしょう?」
「だが容態は落ち着いている。この刺激は脳波に効くかもしれないぞ。室井さん個人限定で」
「それは・・」
「ただ室井さんに青島という劇物は、刺激が強すぎるだろうがな」

フフンと吐き捨て、この下品なゲームを仕掛けた人物の顔を新城は脳裏に思い浮かべる。
この可及的緊急避難を、新城は最後まで反対した。
もっと警備の厚い、目の届く、青島から離した戦略を立てるべきだった。
この騒動に、青島をこれ以上巻き込むべきではなかった。
これでは室井ではなく、青島を護れない。
室井が記憶を奪い返す前に、青島が壊れてしまう。

「室井さんを襲った相手って、もしかして池神派の」
「さすがにそれは露骨すぎだろう」
「なら、派閥崩れの」
「面白い推理だ。室井さんが戻ってくることでキャリアを失う連中には充分動機があるな」

狸の腹の中は知らないが、来春、急に室井が戻されるという話が浮上した。
その矢先の、この突然の人事である。
何故今更室井に一課の管理官などをやらせるのか。
そこには二重三重に絡み合った、腐った糸があるような気がしてならない。

「チャンスがないわけではない」
「え?」
「偶然だろうが、管理官という立場は室井さんと青島が出会った時の状況と酷似している。その上で二人を引き合わせた」
「何かが起こるかもと?」

余りに儚い期待であり、新城は細川の問いに頷くことは出来なかった。
拳を交える自分の指先が震えていることに気付く。
事態の怖さを、誰よりも、脳よりも、本能が察している。

「新城さんは室井さんの記憶に期待してるのですか?」
「室井さんには青島が必要だろう。でも私が言っているのは、青島の方だ」

さもありなんという顔で、細川は絶句した。
今の状況を知っている人間はごく僅かだ。
その誰もが、青島の状態を心配している。
突然、愛しい相手を奪われた、一人の男の衷心を、護ろうと集った努力をぶち壊された。

「潰れちゃいますかね、やっぱり」
「もたないかもしれない。そしたら我々は揃って共倒れだ。辞表を用意しておけ」
「このままでいいんですか?」
「分かっててやったのかと思わせる気味の悪さだ。だが、それもアリかと考えてな」
「どういうことです?」
「どうせ壊れるのなら、最後に二人きりで過ごさせてやりたいという仏心だ」
「ああ、下心いっぱいの」

従順な細川にしては珍しく俗っぽい言い回しに、新城は視線を向ける。
ミラー越しに合わせ、お互いにただ、憂慮の合意を確認した。

「結局はあの二人に賭けるしかないんでしょうかね?」
「一週間か・・・拗れるならそろそろだな」

冷たい北風は、もう冬の匂いを連れていた。












 

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新城さんは常に現実を見ている人。でも一番室青の呷りを喰らう人。