公文書Code3-2-8 016
34.
海に落ちた二人は事前に待機していた救助隊に引き上げられ、室井や益本が海岸線に下りた時には、既に張られたテントに担ぎ込まれていた。
ブルーシートの隙間から橙の灯りが揺れるそこは、控えていた一倉と新城が付き添っているのが遠目にも朧気に判別できる。
今にも振り出しそうな雲はそれ以外の全ての光を吸い取り、作業する黒い人影も高まる波に見分けが付きにくい中
ガスが出始めた辺りは、一層闇に包まれていた。
防波堤の頂上にいた時より一層迫る波の高さが、砕ける度、地響きの震動を全身に伝えてきた。
室井は辺りを行き交う捜査員の群れからも遠く離れた場所で、隣でボロ泣きしている益本と共に見守る。
「益本!」
一倉が手招きし、益本は目元をコートでゴシゴシと擦り、引き攣った声を洩らした。
体裁を整えきれないのだろう、こうまで泣ける男の姿に、室井は顎を上げて荒れた空を見る。
「行け。恐らく一課の仕事依頼だ」
「うす」
短く返事を残し、ようやく益本が近づいていく。
テントの前で指示を受けた益本が、何度か頷き、一倉に背中を叩かれ、そして、現場に走り去っていく。
現場保存のためだ。これは当事者だった益本が一番適任だった。
俺たち刑事は、事件の後に仕事がある。例えそれが上司の尻拭いであってもだ。
一倉が、遠目に室井も立ち尽くしていることを認め、片手をテントの屋根に乗せた体勢で、ブルーシートの中に声をかける。
暫くして、中からひょこっと現れたのは。
愛しい男の姿に、室井の目が丸く見開かれた。
着ていたジャケットはなく、派手なシャツはあちこち破け、びしょ濡れの髪がうねっている。
真新しい包帯があちこちに巻かれ、やけに白く浮かぶ主張に、目を凝らした。
口をまあるく開け、室井を認める青島が小さく笑った。
青島が片足を引き摺りながら、ひょこひょこ近づいてくる。
足場が悪く、何度も転びそうになる。
思わず室井も駆け出した。
強い潮風によろめき、岩場に足を取られ、青島が両手を広げてバランスを取る。
徐々に二人の距離が近づき、藍色の大気の中でも彼の輪郭がはっきりと見えてくる。
溜まらず、室井は足を速めた。
すぐ手前というところまできて、室井がその手を引き寄せようと伸ばした、次の瞬間
青島が片足を踏み切って、ジャンプする。
室井の首に飛びつき、両足を腰に回してくる。
ジャンピングハグをする温かな身体を、室井もしっかりと受け止めた。
凍えている、しっとりとした感触。
生きている息吹が室井のうなじにかかり、はっきりと命を感じた。
青島が室井の髪に頬を押し付けて、ぐりぐりと確かめるのを、好きなようにさせると、ますます力を込めて抱き付いてくる。
「怒ってるかおだ」
「おまえが好きなんだ」
青島が抱きあげられたまま、室井の腰に回した足の爪先を軽く揺らす。
「ふーん」
「反応が薄い」
「照れ臭いだけだよ」
「そんな風には見えない」
室井はこれ以上どうしたもんかと頭を捻った。
どう言えば、今の気持ちの全てが彼に伝わるのだろう。
青島のためなら、罪をかぶったって、法を犯したって構わなかった。
でも最後の所で、青島が描く未来が室井を苛ます。
だから室井が現実を見失うことはない。
室井は本田と同じミスはしない。
「家を出ないでくれ。近くにいたい。君と一緒に生きたいんだ」
「それは罪滅ぼし?」
「今言った。好きなんだ」
この腕の中に青島がいることが全てだった。例えばもし、これが三人目の青島だったとしても、もう室井には何の意味もなかった。
「やっぱり怒ってるんだ?」
「怒ってない」
リスクを取れない臆病者に用はない。
青島が見せてくれた世界はいつだって室井を芯から逆立て、虜にした。
人知れず眠ってしまった、室井と共に生きた青島に、届けたい想いは切なく溶けて、室井の想いを強くする。
哀しい結末は、もしかしたら本当は自分たちに用意されていたかもしれないものだった。
それでも、その瞬間まで、共にあれれば室井は幸せなのだ。
「じゃあねぇ、お願いがあるんだ」
「言ってみろ」
ずるずると地上に足を付き、青島は室井の肩に額を押し付け、しがみついた。
青島の指先が室井のシャツを遠慮がちに掴み、少し俯いた襟から伸びるうなじのラインが美しい軌跡を描く。
「ホットケーキ。一緒に食べたい」
室井はゆっくりと、腕を外し、青島の頬を両手で掴んだ。
濡れた額を押し付け合えば、青島も室井を見て、照れ臭そうに笑った。
「はちみつかメープルシロップかは、選ばせてあげるよ」
室井は大きく顔を傾け、そのふくよかな口唇に重ねるだけのキスをする。
キスは、海の味がした。
青島からは、いつも海の匂いがしていた。
震えるようなキスに、見つめ合い、次の瞬間、どちらからともなく咬み付く勢いで口唇を重ねる。
「ッ」
遠くで捜査員たちの騒めきが聞こえる。
波の音は何度も地響きを伝えてくる。
貪り、吸い付き、強く擦り合わせれば、凍えた中にあってただ一つの温もりが消えそうになるほど、夢中にさせる。
滴る髪を掻き混ぜ、粘性の音を立て、声もなく擦り合わせ、吐息ごと呑み込んだ。
湿ったシャツ越しに背中をなぞり、腰を引き寄せ、想いの丈に白い息が幾つも闇を染める。
始まりの夜、雨に打たれてびしょ濡れで泥だらけだった。
刈り込まれた髪はほぼ元に戻って、何度も確かめた知っている手触りと、同じように濡れて冷えた身体が、室井の腕の中にある。
静かに、ゆっくりと熱を離し、瞳が克ち合った。
そして、室井は青島の肩に目元を隠した。
擦り寄る青島も、室井の首筋に頬を押し付け、ざらついた室井のうなじをぺろりと舐める。
「行こう。覚えててくれたんだな」
室井はやっとそれだけ言えた。
遠い願いも、やっと、叶う。
まだ海は荒れている。
今夜はクリスマスイブだ。
信じ続けた願いを、今、天へ向ける。
35.
後日、日野の自宅から応酬されたパソコンから、今回の計画のあらましと、汚職事件の真実が記載された文書ファイルが発見された。
同時に、本田の署名が入った遺書も発見される。
達筆な字で、日野宛てに書かれたその日付は、本田が失踪した日で、日野への感謝と後悔と、謝罪が掛かれていた。
「これじゃまるで恋文だっての」
益本が指で弾くそれは黄ばんでいて、幾筋もの濡れた痕跡が残る。
これが、日野の人生最大の後悔につながったとするならば、人の想いは凶器にもなるということだ。
「本田は最後にそれまでの間違いに気が付いた。そのことを日野に知っておいて欲しかったんだろうな」
「でもそれ、遺された方はたまったもんじゃないでしょーよ」
恐らく本田よりも激しく妄執的な感情で一人の男を手放さない男に、益本はジト目を向ける。
室井もジロリと目玉を動かした。
時間は戻せない。失ったもの取り戻せることはない。
室井が同じ立場になった時、恐らく青島を巻き込まないために同じ決断をしそうな男に、青島のひたむきな愛情は
やはり凶器となるのだろうか。
「本田は日野が救ったんすかね?」
「孤独を感じて死んでいったのだとしたら、あまりに報われない。罪もなく追い詰められた末の自死だとしても、やりきれないな」
「日野と過ごした時間がせめて安らげていたんだったら、って信じるしかないかぁ」
益本が背凭れに伸びをするようにして、お手上げという風に顎を反らした。
この数か月、極秘に設置された第二会議室の捜査本部は既に解体され、幻となり、元の簡素な事務室に戻っている。
資料も破棄され、その痕跡は警視庁のどこにも残っていない。
鈴木の行動も、不問となった。
彼は長いものに巻かれたということだ。
その決断を、責める者もいないだろう。
この事件の発覚を受けて初めて極秘チームを知る者もいたが、それすらここ一課ではもう過ぎ去ろうとしている。
「俺だったら御免だね。変わっていく相手を目の当たりにして、何も出来ずに指咥えて、挙句こんな別れかよ」
「それが生きるってことなんだろう」
命の期限まで、取り残された方は、孤独と寂寞を抱え、相手の証の後始末を行い、弔うだけの情に見合う存在かを自問し続ける。
ただ一人取り残された荒野で、それでも嫉まれたところで、文句も届かない。
益本の視界で、置いていかれその過去を一人全て背負った男の枯淡な横顔に、出会うことはなかった男の影が重なった。
「まさかこの二人、そおゆう仲だったりとか?」
本田と日野の間柄が、どこまでのものだったのか、それを記すものもない。
ただ、日野は自分の気持ちの大きさに気付いてはいなかった。
「微妙な所だな。本田が本気で捕りに行こうとしてたなら、遺書なんか残さない」
「ラブストーリーは突然になんですよ」
「そもそも最初から正直に話していなかった仲だったということだ」
「大事だから言えないとか、あんでしょーよ」
「そのためにも、最後まで根っこの部分だけは、譲ってはいけなかった。相手が信じられるように。疑われる方がキツイだろう?」
「上のジジイたちの面子とプライドは地雷なんだよ。そこを踏んだ時点で終わってっだろ」
本田と日野の本当の関係性について、日野は口が裂けても言わないだろうが、そんな日野が青島の記憶を奪ったところで
大した後悔など持たぬことは当然だった。
日野にとって、青島を室井から奪うことが何よりの復讐になったからだ。
でも、本田のように、室井だって“最後のチャンス”を青島に与えはしていない。それでも青島は食らい付いていく。
自分だけが潔白なつもりでいて、日野は自分の罪も闇も受け入れられていないから、本田に置いていかれたことが受け入れられなかった。
本田サン、アンタとんでもないモン残してったんだぜ?そこんとこ、分かってんのかよ?
「結局俺らにできることって何もなかったってことですかね?」
「組織としての立場をわきまえたんだ。誇ってやれ」
益本が大きく振り仰ぎ、逆さまの視界で室井を捕らえれば、室井も憮然と見下ろした。
交わす視線に混じる、苦味は白髪と共に、年を取るほど増えていく。
どちらも目尻に皺が増え、頬がこけ、スーツの値段が上がった。
組織で生きる者の定めとか、縛りとか、同じ時に記憶を重ねることの有難みや幸せに、稀に人は潰されてしまうのだと知った。
「日野が言った、闇ってなんなんですかね?」
「それは、きっと、知らない方がいい」
その口ぶりから、室井も実はその闇と呼ばれるものについて、知っているのだと益本は勘付いた。
或いは薄々察しているといったところか。
ここでそれに迂闊に触れさせないのは、やはり室井もキャリアだからなのだ。
「ああっそ!室井さんも潰されちゃうわけですかね~」
「君は生き残るんだ、いいな?」
「!」
なんだその言い方。
「君は、日野の二の舞になりそうだからな」
「なるかい!」
益本が勇むと、室井の頬が少しだけ緩んだ。
笑っているのだと、初めて益本は気付く。
「あとこれ。パスコード付きの変なファイルがあんですよ」
コンコンと益本がモニタをノックして指摘する。
そこには日野が本田から転送してもらったと思しき事件ファイルが年代別に並び、その最後に、西暦ではないファイルがひとつ存在していた。
≪公文書コード3-2-8≫と名付けられている。
クリックするとパスワード入力画面になる。
「全部開けると思ったら、これだけガードかかってンす。鑑識に開けてもらいます?」
「そうだな・・いや待て。その必要はない、どこかで見た文字列だ」
「えぇ?」
室井がモニタを渋い目で見つめ、数秒。
「旧湾岸署の住所かもしれない」
「マジ?だったらパスは――WPS?」
本田は室井に固執していた。可能性は充分ある。
益本が入力する。
本当に開いた。
それは文書だった。
そこには、本田がこれまで覚書してきたのだろう、室井と青島の出会った経緯から始まり、二人で関わった事件、そこで何が起き、上がどう捕らえていたか
それを踏まえた本田の私見、そして、あの約束に繋がる、詳細な記録が時系列を追ってまとめられていた。
事件に関わらない第三者としての本田視点は、室井や益本が知る概要とは、少し毛色が異なったものだ。
室井と青島の失われた時間の記録がそこにある。
「う・・っわぁぁ、ストーカーかよ。かなり詳細に調べてありますよ、これ」
「本田がこれを作っていたことで、日野の中で俺たちが想像以上に美化された可能性はあるな」
「本田の意図って結局何だったんだ?」
「そんなの私が知るか」
高雅な風貌の声色で、随分と粗雑に切り捨てた室井に、益本は、呆れたように目を向けた。
室井ってこんな人間だったんだ?
今回の事件で青島とも濃密な関係を築く一方、随分と室井との距離が近づいたように思う。
素の室井を測らずとも知ってしまい、それが結構面白かったりする。
神経質そうに見えて実は大胆だったり、ものぐさだったり、無口だと思ってたら意外と口悪くて、傲慢我侭だったり。
見た目と異なり、細かな所に無頓着なのも、新発見で、結局この堅牢を彷徨う一仲間として、結構、悪くなかったりする。
これも運だの偶然だので片付けられるのは、益本としてもちょっと頂けない。
益本がジッと見ていることに室井が気付いた。
もう、昔みたいな雲の上のキャリアじゃない。
広島に左遷させられた負け犬でもない。来春、室井は東京へ戻ってくる。
「なんだ」
「あんときさぁ・・、日野を挑発した時。青島をよく飛び込ませましたね。なんで?」
「それは可能性の一つとして考えてはいたが、想定外だ」
「え、うそ!じゃ、青島の独断?」
「応援が控えていることは伝わっていたと思うが、そんなこと私がさせるか」
「全部アドリブかよ~」
改めて青島の無鉄砲さに益本は舌を巻く。記憶を失ったところで、生来の部分が変わるわけじゃないらしい。
室井が話を引き延ばしつつ日野を挑発することで、相方の青島が逆方向の立ち位置で攻め落とす――
刑事の基本原則とは言え、それを咄嗟にやってのけたこの二人って、一体何なんだ。
どんな肝っ玉を持っているのか。
「よく堪えられましたね。間違って日野を逆上させちゃってたらどうするつもりだったんです?」
「現場で人に触れるのが好きな青島らしい判断だろう?青島といるならこの程度、日常茶飯事だ。もう慣れた」
あのギリギリの攻防の最中で、益本は生きた心地がしなかった。
何の勝算もないところに、青島だからという理由だけで賭けられただろうか。
日野も賭けられなかった。そっちの方が益本にとっては人間臭い。
いずれにしても、あんな橋渡は二度と御免である。
「キチガイめ」
本田と室井の決定的な違いは何だったのか。
日野のいうように、運と偶然だけだったとしたら、あまりに本田が憐れだった。
でも、派閥も持たずに群れを嫌っていたこの男に、いつの間にやら新城や一倉、沖田と言ったキャリアが派閥を越えて力を貸してくる。
そうさせるだけの魅力が、室井ではなく青島にあるのだとしたら
今度は日野が憐れだなと益本は眉を顰めた。
「こっちもある意味濃厚な恋文じゃねーですか」
「やきもちか?」
「!!・・あ!それと俺!まだ諦めていませんからね!」
揶揄おうと思ってやり返された益本が、沸騰する。
「精々頑張ってくれ」
「いいんですね!?聞きましたよ!?後で泣き入れても知りませんよ!」
日野が仕掛けたゲームは初めから的外れだったということになる。
何故なら室井は青島を愛したからだ。
無職になることも、このゲームから降りることも、青島が許さない。
日野の最大の誤算は、その青島が記憶を失ったことで、誰より近くなってしまったことだろう。
見せ付けられた室井と青島の間にあるものは、益本を細胞からビリビリと突き刺すような迫力だった。
過去もまた変わると青島は言った。
愛したことを認められなかった本田が、愛していたことに気付かなかった日野を追い詰めた。伝えていたら少しは結末は変わっていたんだろうか。
「って、聞けよ!!」
益本の宣戦布告をあっさり流し、気付けば室井が帰り支度を始めている。
「アナタねぇ、そんな余裕ぶっこいてっから、あんな野郎に奪われちゃうんですよッ!」
「ご忠告、肝に銘じておく」
「忠告じゃねーよ!」
日野は、誰かを本気で欲しがったことはあったんだろうか?
青島を欲しがり歓喜する自分も、欲望に忠実な獣であり、同罪だ。
ま、そこんところは深く追求しないでおく。
「日野にもチョット妬いたクチだろ?」
「・・・」
記憶が欠けた幼い青島には、無邪気で天真爛漫な無鉄砲さがあった。そこに、最後の最後で、日野は救われたんだと思った。
渦巻く悔恨が青島の過去も変え、そのせいで変化した色も書き添えておいてやろう。
そして、多分、益本も第二の日野にはならない。
「その本田のファイル、私のパソコンに転送しておいてくれ」
「ぇ、あ、はい。どうすんですか?」
室井がコートを優雅に羽織り、背筋を伸ばす。
嫌味に彩られる漆黒が肩越しに振り返った。
「私も一部欲しい。よくまとめられている」
「自画自賛用かいッ!」
「お先に失礼する」
「帰んのかよ!」
「今夜は青島が鍋を作ってくれているのでな」
「羨ましいなおい!・・って、待てェ!」
益本が額に手を当て室井に咬み付くが、既に室井は背中を向けて立ち去る寸前だった。
窓からは鐘の音が厳かに聞こえてくる。
新しい年の幕開けである。
「三が日、正月デートに誘わせてもらいますよ!」
「三が日は私の誕生祝いをしてくれるそうなので、多分お前、ふられる」
「!!」
happy end & happy New Year!

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