公文書Code3-2-8 015










32.
風を切るように、ナイフの刃先が青島の喉元に添えられた。
上下黒革のボディスーツを着、無精髭を生やした男――日野は、その耳に頬を宛てる体勢で影を重ね、滑るように防波堤を進む。
足の元から吹き上がる潮風は無慈悲の唸りを上げていた。
息遣いの生々しさと、無機質の硬度だけがリアルで、日野の作り出す気配はどこか空疎だ。
墨色の大気を吸い取らない反射防止の黒塗装したブレードは、肉を切り裂くためだけに存在していた。

「ケーサツって、け、け、拳銃かと思った・・」
「所持しています。でも、多分、貴方はこちらの方が苦手でしょう?」

意味が分からないながらも、言い当てられたことに青島が背後の日野の瞳を探る。

「警察関係者のほとんどが知っていることです。それを克服しているかどうかは、賭けでしたが」

勝ったようですねと、日野は後ろ手に締め上げた青島の腕を更に強く捩じ上げると控えめに微笑んだ。
物柔らかな表情と真逆の強い力が、空恐ろしさを生み、逃げ出す隙が存在しないことを青島に悟らせる。

黒々とした東京湾を遥か眼下に臨み、波が直接叩きつけてくる防波堤の頂上に立っていた。
吹き荒ぶ疾風は、急速に体温を奪っていく。
既に日付が変わりそうな時間帯、空と海の境目はなく
エメラルドに発光する霧の中、岬の先まで海はどす黒くうねっていた。

「これ、軍用ナイフでしょ。イイモン持ってんじゃない」
「ミニタリーマニアとも聞いてましたけど、そこはご記憶に?」
「わりと、ながい、趣味なの。錆止めも兼ねるし、炭素鋼の見た目が俺は好きだね」
「切れ味も気に入っています」
「なにを、切ったの、かな~なんて・・」

乾いた笑いは、無尽に飛ばされた。
緩やかなカーブを持つブレードが冷たい硬度を主張し、天へと聳え、日野が逆手に持ち替えた。
身を切るような潮風が肌に凍みる度、青島の足を容赦なく竦ませる。

「俺に、何させたいの・・」
「さあ、どうされたいですか?」
「・・帰ろうよ」

のろのろとした青島の千鳥足を責めることもせず、日野は合わせるように、だが決して留まることは許さず、闇の終点を目指していく。
喉元にピタリと添えられたままの刃先が彼の唯一の意思表示であり、重なる影の細められたその目は笑っておらず
帰るところはもうないんです、と、空疎な声も海風に掻き消された。

「最初に俺を拉致ったのも、あんた?」
「室井警視に圧力をかけるには貴方を使うのが一番効果的なのもまた、警視庁の常識ですよ」
「俺、なにやってんだろう・・」

状況を放棄したような、気の抜けた青島の吐息が洩れる。
眉尻を下げるその無防備な横顔に、日野は少しだけ無駄口を許した。

「以前の貴方は、そこのところも理解しているようでした」
「そうなの?」

室井の弱点として、自らの価値を正確に理解し、室井もそれを認め、その上で二人が結束する形が、今の青島には半信半疑だ。

「ヒーローはお嫌いでしたか?」
「目立つのが好きってわけじゃないよ」
「当時貴方は、SATも負かし、キャリアを怒鳴りつけ、容疑者を見過ごし、嬉々として先頭を走ってみたり」
「ほんと、俺、なにやってんだろう」
「はは・・、そうですねぇ、沢山の仲間、理解あるチーム。キャリアに噛みつける強い意志。誰もが、正しいと思ったことを言えずにいた中で」

海の飛沫が口の中まで塩辛くする。

「余程、日常が居心地良い場所なんだろうなと」
「本音がどうかなんて、人には分からないでしょ」
「少なくとも私にはそう見えた・・」

青島の瞳が夜光を取り、くりんと振り向いて自らを背後から捕らえる男の顔を観察する。

「あんたも警察のひとなんだよね?」
「それが何か?」

多いにある問題を意に介さず問い返してくる様子は、質問者の戦意を失わせる。
なだらかに勾配を持つコンクリート壁に阻まれた細道の見晴らしも悪く、既にお互いの顔すら見え難い。
足を進めるその先には何もないと知っている岬は未開拓で、文明的な手入れもない中において
いっそ、脅迫する彼が唯一の共同体とあっては、安心すら覚えさせた。

「ケーサツってさ、どんなところ?」
「いいところだ、なんて、この状況で言って欲しいのですか?」
「ま、ね」
「兵隊は普段表舞台に出ることがない仕事です。影武者のようなものだ。派手なところはみなキャリアが持っていく」
「貴方もキャリア?」
「ノンキャリです。貴方と同じ」

闇に葬られることを暗に認める言い回しは、この場に相応しく黒い海に紛れ、日野が何故この場所を選んだのかを理屈じゃなく納得させるものとなる。

「終わらせたいんです。ある人のためにも、そうしてあげたい。でも、最期も一人だなんて、そんなの、あんまりじゃないですか」
「どして、俺?」

明らかな殺意というものは、日野からは発せられていなかった。
敵意もない。
だが、その瞳の奥に潜む何かを感じ取る青島の声が、少し掠れる。

「どうして、か。一番、憎いからですかねぇ。ここまでして終わらせたい世界ですよ。貴方を消したら、ざまあみろと思う」
「なんだよそれ?」
「違うな。誰かに、見せしめをしたいんだろうな」

誰か、とは勿論、室井を指していることは明白で、青島は敢えてそれを指摘する口を噤んだ。
彼は何かに怒っているのだ。何故誰も見向きもしないのかと。
その目撃者を室井にやってほしいのだ。理由は分からないけれど。

「貴方だって、こんな世界、選べるのなら選ばないでしょう?」

そんなことはないと叫べるほど、今の青島に明確な根拠は存在しなかった。
きっと日野はそれを分かっていて、答えられない質問で誹毀している。

だが、最後に叫びたくなるのも、最後なら何かを成就させておきたいのも、命の柱というやつなのだろう。
無価値に消失することに懼れや焦燥を感じることを、むしろ誰よりも身に沁みている青島は
例えそれが、あるひとのため、と情愛に訴えたところで、何の効果もないことを知っている。
むしろ、そのひとのためにこそ、という方が親和的だ。

「だったら、なんでそんな顔してンの?」
「そんな?」
「・・泣きそうじゃん・・」
「――」

歩いてくださいと、柔らかな口調で命令し、日野が膝頭で青島を強く蹴る。
労わりの欠片もない扱いは、彼の張り付いた顔容を嘘くさく見せ、青島の背筋を強張らせた。

夜目に慣れてくると、1メートル程の幅を持つ足場が、何の仕切りも柵もなく荒れた海に向かって飛び出していることが見えてくる。
そこが岬の終点であることが察せられた。
剥き出しのコンクリートが粗雑に切り落とされた、その限界点まで来て、ようやく日野の足が止まる。
下から吹き上げるように黒い海風は、恐々と顔面を打ち、目も上手く開けられない。
風を遮るものなどある筈もなく、ここまで吹き上がった海水を交えて、辺りをまた濡らし、引いていく。
海の底も見えない。
潮に濡れた髪が肌に貼りついたまま、喉仏に突き付けられた状態の刃物から青島は目を反らした。
千切れた息は、海に消えた。

「こ、この場所になんか意味があんの?」
「今夜は荒れそうだ。折角のイブだったのに」

至近距離でも海風が二人の言葉を無情に遮り、意識を削ぐ。
二人は今、防波堤の終点で黒い海に向かって立っていた。
眼下は途方もない水の世界だ。

「室井警視に見せしめるなら、海だから。かつて、彼は恋人を海で亡くしているでしょう?」
「それも、警視庁の常識?」
「思ったより冷静なのは、彼を信じているから?」

後ろめたい関係を持っているのだと揶揄する言葉に、青島が眉間を険しくした。
確かに、この澎湃では、禁忌の男同士の感情など戯れに過ぎないと、理屈もなく責め立てる。
日野は独善的な目で青島を驕慢した。
無防備に顔に出してしまう透明感は、日野が噂で聞き齧った“劇場型の演出を仕掛けるトラブルメーカー”というレッテルからは、程遠い。
実際、拉致した一回目の交接で巧みに情報戦を仕掛けてきた彼よりも、今の青島は幼く邪気がなかった。
日野は青島の顎を掴み、強引に振り向かせ、額を突合せる。

「・・んだよッ」
「脅えてます?震えている」

青臭の隙だらけの様子に、以前の天性な勝ち気が同居し、なんともアンバランスな印象を持つ。
キッと睨んでくる顔は、清浄で、いっそぐちゃぐちゃにしたくなる。

「アンタさ、計画の半分も達成してないんじゃないの」
「何故?」
「いいのかよそれで」

浅はかにも挑発してくる眼差しで、青島が日野を煽ってくる。
その向こう見ずで飾り気のない青島の虹彩が夜を吸い取り、煌めき、海とは対称的なのに、良く似合った。

「青島くん、記憶を失くすってどんな感じです?」
「どんなって、言われても」
「大切なことも忘れて、大事な人も忘れて、日常を捨てて、それって解放なんですかね・・」

背後から拘束する日野は青島より一回りは大きく、その屈強な羽交い締めに青島は無抵抗に睨み上げていた。
だが、あろうことか、やがて小さく舌打ちをしてから、委ねるように全身の力を抜いた。
戦意を喪失させるだけの顔を自分がしていることには、日野は気付かない。
寒さだけでなく確かに震えている癖に、唐突の、純真無垢で無防備な態度に目を白黒させる日野を横目でもう一度見上げてから
青島は黒い海を見た。

「やめといたほうがいいよ。知らない時間が俺以外のとこにいっぱいあるかんじだから」
「時間が増えたみたいだ」
「日頃のフルマイって大事ね。連日投下される爆弾に、俺、そろそろ堪えられなそうだもん、もぉ、こっぱずかしくって」
「室井さん、大事にしてくれてるんですね・・」
「どうでしょ」

ぷいっと横を向いてしまう青島の顔ははにかんでいて、照れていることを窺わせた。
伏せた睫毛が黒々と濡れる。闇を取る瞳はそれでも透明だ。
それが日野を苛立たせる。
同じなのに、同じじゃない。
達成したものを持たないのは彼も同じであることを尽く見せしめ、その点において唯一、日野は青島に対し誰よりも同類だったと自覚させた。
なのに、護られている者とは、こんなにも遠い存在だ。
怖いはずの刃先も行方の喪失も、全て日野に委ねる青島の信頼が、その未成熟さを浮き彫りにしている。

「記憶喪失って、ストレス性の退行現象とは聞きますが、君の場合、さて、どちらにストレスを感じたのでしょうね?」
「・・アンタが知ってることなんじゃないの?」
「誰かのために必死になる貴方を見て、皆が何とか貴方を支えてやろうと動かされる。室井さんもその一人だった」

分からせるように、日野が言う。
刃先は相変わらず青島の喉仏を狙っていた。
傷つけたい。終わらせたい。この腹の底から湧き上がる凶暴な衝動が日野のここまでの原動力だった。
貴方が巻き起こしたことで、人が狂わされていくのだと、呪いたい。
迫りくる浮遊感は五感を狂わせ、平衡感覚さえ奪い、凍えた指先をも足先も、より頼りないものにさせる。

「貴方から広がる波紋は、多くの目を虜にした。もし、出会いが違ったら」

その先の言葉を日野が口にすることはなく、眼下に叩きつけ砕ける波に合わせ、日野は上手に感情を沈め込んだ。
時間は二度と取り戻せない。
決着がついてしまったものは、覆せない。
青島の視線が日野を映し、二人はじっと見合った。

「青島くんこそ、なんでそんな顔してるんです?」
「そんな?」
「泣きそうですよ」

毎日が必死な最中、ふいっと失う瞬間がどこかにはあって、それは、今の青島にとっては遠い世界の話ではない。
同調するまま、見つめ返してくる青島のその伸びた髪は、もう以前の長さと然程差はなかった。
初めて会話をした、誘拐時の記憶が混在し、日野の中では時間軸さえ曖昧となる。
あの日の彼も、こうして、こんな目で、日野を憐れんでいた。

「――いいぜ、付き合う、その計画。きっと、付き合えるのは俺だけなんだろ?」
「!」

だが、あの時とは違う答えが耳に届き、日野に現実が戻った。
恐々とした潮風が二人の頬を無情に打ち、闇の底に攫おうと、轟音を重ねて黒いうねりが猛る。
こんな距離でも声は断ち切られ、途切れ途切れに届くもどかしさに、青島は声を嗄らして叫んだ。

「付き合ってやるよ!だからせめて相棒には事情くらい教えてくれてもいいんじゃない?」
「君には通り一遍説明をしたんですけどね」
「ごめん、それ、覚えてない」

その時、空を足音が切る。

「んなことさせっかよォ!!」

頭上からの突き刺さるような断罪に二人が同時に振り仰いだ。
そこには息を切らしている益本が手摺に片手を付いて息を整えている。
咄嗟に、剥き出しの断壁の上に立ったまま射程距離を取った日野が青島を強く抱え込む。

「どうして貴方がここにッ!」
「へっ!想定外だったとでもいうつもりかよッ!?」

鉄柵に片手でバランスを取り、人の背丈の三倍はあるだろう階段を、益本は柵から一気に飛び降りた。

「そいつを放しな!」

両足で着地し、間合いを詰めることに成功した益本は、両手を広げて口端を持ち上げた。
崩れた髪にネクタイを飛ばし、凍えた身体を熱くし、勇猛果敢な助太刀の登場に、日野は見せ付けるように刃先を青島の喉仏に突き付ける。
怯んだ青島が顎を横に反らしその白く細いうなじが益本に晒された。
分かるだろう?との強迫に、益本もそれ以上の接近には踏み切らない。
静かな怒りに似た激情が益本の腹の底に渦巻き、ギリギリの均衡状態に鋭く空気が戦慄する。

「折角のイブイブデートで舞い上がってた騎士から攫って行くなんて男の風上にも置けねぇぜ」
「貴方こそ、こんなところまで追いかけてくるなんて、自らキャリアを汚すことを躊躇わないのか?」
「男のイブを狂わせたことも充分罪深ぇんだよ!」

仁王立ちした益本のジャケットが正面からの風圧に巻き上がり、押し返されそうになった益本が顎を引く。
千切れそうなほどにバタバタと布が鳴き、呼吸さえも滞る。
恐らく益本がここまで全力疾走で青島を追いかけてきたことは、その乱れた髪や汗で湿ったシャツから見て取れた。
ネクタイを徐に緩め、大きく息を整えた益本が、ペロリと下唇を舐める。
日野が青島に耳打ちした。

「彼は何故あんなに格好つけているんです?」
「あれが生粋の目立ちたがり屋。イイトコ見せたつもりなんじゃないすかね」
「何でもう鬼の首取った顔してるんでしょう?」
「そこは・・性格ですかね?」

くすくすと笑う青島の視線が益本を捕らえ、二人の内緒話を断片的に捕らえた益本が小鼻を膨らます。

「なんだよ、笑ってんじゃねーよッ!どんだけ心配したと思ってんだよアホウ!」
「探してくれたんだ益本」
「こっちはフラれたと思って焦ったぜ」

益本を見つめる嬉しそうな瞳は、いつも会議室で益本を見つけた時の青島のそれであり、益本はようやく一息を吐く。
続けて、喉元に突き付けたままの日野のナイフに、愛しい者を略奪された野性的な目に変えた。

「アンタが日野サンだろ。テメェも探し回らせやがって!手間かけさせんじゃねぇよ!」
「捜一との鬼ごっこは楽しかったですよ。所轄の意地を出せました」
「勝ち逃げはさせねぇっての!あと、さっさとソレ下ろせよ、青島が傷つくだろ!」
「お断りします」

日野の声が若干低くなる。

「青島をどうするつもりだ!」
「ナイト気取りですね。貴方こそ横恋慕でしょう?」
「んなことはなぁ!もう百も承知なんだよ!その上での男の決断だ、てめぇにだってそういう覚えがあるからこんなことしてんだろうがよ!」

捜索中、益本は日野についての情報を掻い摘んで室井から聞かされた。
新城と一倉が裏で極秘裏の別ルートで動いていて、そちらからの情報ということだった。
差し置かれたことも腹立たしいが、日野がやろうとしていることも、益本にとっては理解できない。

「逃げきれないことも、分かりすぎるほど分かってるよな?」
「ここまで来たら引けないことも分かるんじゃないですか?」
「お前、何がしたいんだよ?」
「何をしたかったんでしょうね・・、もう今となっては」

判然としない応答に、益本は言葉に詰まり、首を掻く。
追い込んだつもりの指先は宙ぶらりんだ。
日野の焦点を暈した言葉の欠片はどれも、雑駁な澱みで真実を暈してしまう。
遠方に臨む黒い波が大きく高さを持って、轟音がまた耳を叩いた。

「あ~~、んじゃ、本田はどこだ」
「益本さん、事情はもうご存じなのでしょう?」

事情という言葉に、日野の腕の中で初めて青島が顔を上げ、日野を見て、益本を見る。
益本はそれに促され、大きく頷いた。

「まぁな。影でコソコソ調べてたネズミが幾つかネタを上げてきたよ。だがな、上層部や警察庁は本気でこの事件を解決する気がない。
 私情を挟み、私怨に紛れ、それなのに担がれたキャリアも出しゃばり、躍起になっている理由もまた、私情を挟んでる。
 そう仕組んだのは、お前さんだ。結局のところ、灰色の檻の中で出来ることなんざ、中央で吼えるだけだ」

日野は薄らと口元だけで笑んでから、青島の後ろ髪を鷲掴み、仰け反らせ、その晒された喉仏にそっと刃先を向けた。
黒い波が幾度も打ち寄せる音が切迫感を煽り、弾け飛ぶ飛沫がこの高さまで上がってくる。

「止めろ!」
「いざとなれは皆が保身に走っていく」
「キャリア引っ掻き回して、そんなのが見たかったのかよ!」

のらりくらりと交わされる押し問答に隙を伺うが、ナイフの刃先の狙いは定まり、間合いを詰めることは不可能だった。
ジリジリとした攻防戦は、長期戦になるほどこちらが不利だ。
日野はいつだって終わらせられるからだ。
グッと堪えた益本の焦れた顔に、満足そうな笑みを浮かべ、日野はそっとナイフを引いて見せた。
青白い闇に浮かぶ肌に一本の紅いラインが浮かびあがる。
端から、肉がたらりと生命の証を溢れさせる。

「おいッ!止めろって!!」

怒号のような益本の声音に、日野は感情の撓み一つ浮かべない。
抗おうとした青島の手首を日野のゴツゴツとした手が捕らえ、身動きを封じたまま、優雅にナイフを横に引いていく。
青島の顔が痛みに歪んだ。

「・・ッ・・」
「待ってってッ!頼むから!!」
「益本ッ!いいって!逃げていいから!この人はどうせ自分のことも、俺たちも、見逃す気なんかないよ!」
「分かってるよ!分かってるけど!」

焦って叫ぶ益本に、青島が叫び返してくる。
そう言われて逃げても事態は変わらないし、背後は絶壁で、回り込めない。
東京湾とはいえ、日も暮れてかなり時化てきていて、ここは高さもある。

「お前を置いていけるかよ・・ッ!」

おあつらえ向きに荒ぶ海風に、耳鳴りを呼び、益本は腕で視界を庇い、踏み堪えた。
このままじゃ苦悶の表情を浮かべて喘ぐ青島を、ただ遠巻きに見るしか出来ない。
室井が、丁度良い場所だったと言ったが、こういうことか。
何か手を!だが、どうする!
ぐるりと辺りを一周した益本の目が、寂寞の舞台に悄然とする。

「日野ッ!お前の望みは青島を消すことじゃあ、ないんだろう!」
「文句は後程、上層部にでも直訴してください。所轄が言うことを聞きませんでしたと。言ってみたらどうですか」

上に訴えたって何の意味もないことを、日野ではなく益本も知っている。
日野の言いたいことは、つまり、救いなんかないってことだ。
いつものことだ。一蹴される。皮肉にも彼ら自身の振舞の蓄積で。
これじゃ埒が明かない、どうする、どうしたら!

混乱した益本の視線が、それでも一縷の望みを求めて彷徨い、間合いを取ったまま、ジリリと横に移動する。
すると、益本の視線がある頭上で止まった。
あ、と口を開ける益本を訝しみ、日野の視線もハッと頭上に向かい、驚愕に見開かれる。

「なんッ」
「来たか・・!」

益本と日野が同時に呻くように喉を鳴らした。

「遅くなった」

防波堤の先、先程益本がいた場所に、人影が一つ、今度は室井が立っていた。
ようやくかよ、と脂汗の滲む額を拭い、益本が二ッと歯を食いしばる。
室井は階段を使い、ゆっくりと降りてきてから、益本から数メートル離れた場所に立った。
日野からは更に五メートルほど、対象者を刺激しないための間合い、絶妙なポジションに、益本は片目を細める。
精鋭キャリアの完璧な現場把握だ。

「良く間に合ってくれた」
「ヒーローだねぇ。またいいとこだけ持っていく気かよ?」

益本のやっかみに反応ひとつせず、室井は日野をジロリと睨み上げた。

「私のフィアンセに手を出さないでもらおうか」

登場直後の爆弾発言に、その場全員が硬直し、室井を振り返る。
空気を一変させ、三人の視線を釘付けにした当の室井はどっしりとしていて無頓着だ。

「手を出したのは私ではなく、そこに控えるお仲間ですよ?クリスマスデートに鼻下を伸ばし、口説き文句のオンパレードで、挙句、最後は口唇まで盗み、」
「つ、つ、付け回すなんて悪趣味だぞ!」
「そういうご商売をなさっているのに?」

やかんが沸騰する益本に対し、青島も顔を赤らめ額を抑える。

「ハートまで盗まれていないか、ご心配されたらどうですか?」
「その必要はない」

なんだと?と首だけ向けてむくれる益本を一蹴し、室井は優雅に一歩だけ前に出た。
室井の上質なコートが荒ぶる潮風に撒かれてマントのように貫禄を放つ。
日野の背格好が、一度目撃した追跡者に酷似していることを目視で確認し、室井は整然と日野に向かい合った。

「日野だな?」
「・・・」
「こうして会うのは、二度目、だな?」
「何故ここが?」
「ソイツの。・・悪趣味なシャツの襟元を見てみろ」

辺りにサッと視線を走らせ、室井の信憑性を確かめるべく、日野がゆっくりと刃先で青島の襟元を持ち上げる。
その間、視線は度々辺りを警戒し、青島を締め上げたままだ。

「発信機か・・!」
「えええええええーーっっ!!!」

日野の発言に、一番声を上げたのは青島本人だった。
場違いにも素っ頓狂な声に誰もが拍子抜けする中、青島が室井をキッと睨む。

「いつの間に!」
「キスの間に、だ」

緊張感のない苦情に飄々と返し、室井はこの時点で初めて青島と視線を見交わした。
闇の中でも共鳴するように、青島もまた、室井の視線を受け止める。
数秒、或いは数十秒。
見つめ合うだけのその場の空気が凛とし、張り詰めた。
誰もが口を挟めない。
一頻りの後、日野が不審に思わぬ間合いで、ジロリと睨むように隣の益本に視線を一度送った室井の横柄な態度は
牽制しているのは、益本へ、なのかもしれない。

「へえぇぇ、俺って信用ないんだぁ・・」

熱い視線を奏でたにも関わらず、さっさと先に外したことに、青島が不満げな皮肉で室井を糾弾した。
室井は日野を真黒い瞳で真正面から留め、不躾に言う。

「それは、私のだ」
「彼とのふしだらな関係をそこまで認めるとは思いませんでした。私みたいなノンキャリは、貴方の塵一つにもなりませんか?」

ノンキャリに関係がバレたところで、その発言力もないという差別意識かと日野が毒のある言い方をするが
室井は肩を竦めただけだった。

「余裕ですね。騒ぎになれば上の耳にも入る。エリートキャリアが男色だったなんて、」
「それ以上に、腐敗したものを、君は見たんじゃないか?」
「――!」

室井の着飾らぬ切り返しに、日野が瞠目する。
黒々とした漆黒の瞳は光も受け入れておらず、その冷徹で高雅な表情に、日野の顔が初めて汲々とした。
室井が二度目の邂逅に合わせ、仕度してきたことを日野も理解する。
益本も日野の変化を窺い、動かない室井を横目で見て、また日野に視線を戻した。
三者の間に鋭い緊張が迸る。距離も硬直状態に入った。
徐に、室井が語り出した。

「事の始まりは五年前。最高裁まで持ち込んだ燃費不正問題で、和解金を支払って刑事訴追は免れたが厚労省の対応に苛立ちを募らせ、異例の交代劇につながった。
 合わせ、警察介入の不手際を突かれ、警察庁にまで飛び火した。
 そのことに大きな借りを作った上層部は、早急の立て直しを世論から急かされた。
 官僚支配を元に戻そうとするのが霞が関の総意だ。――どこか事実と異なる点は?」

要点だけを並べた説明に、日野の口から、は、と白い息が飛ぶ。

「上出来です。警察庁に飛び火した後の経緯は上層部によって念入りに隠していた筈ですが」
「君の依頼だ」
「では、速やかにそれを世間に公表してください」
「明日夕刻のニュースに合わせて記者会見を開く算段を整えてある」
「仕事が早いな。貴方はやはり、完璧だ」

飾り気のない吐き出された言葉は、覚束ない動きで虚ろな大気の中に拡散していくようだった。
奥歯を噛んで、歪に口端を持ち上げる血なまぐさい顔は、目的を遂げたというのに一切の救いのようなものはない。
いっそ、見たくない現実を思い知らされたような歯痒さに、海が啼く。

「こちらからも質問を二つ、いいか?」
「何を知りたいんですか?」
「まずひとつ。君がそれを知ったのはいつだ?――いや、本田がそれを受け入れた理由は何だ?」

その質問に、日野の顔がこれ以上ないくらい、鎮痛に歪んだ。
何とか踏み堪え、喉の奥で搾るように出した声は、野太く濁る。

「受け入れてなんかいない、最初からもう全部、シナリオは出来上がっていたんだ」

本田は克己心の強い男だった。
上昇志向や政治家への食い込みでアクの強い印象があるが、上層部への愛想も良く、慇懃に対応した。
国内外の要人が参列する中で事件が発生すれば、本田の進退問題に発展する。失敗は許されない。
そうして、体よく処分された。

「最後に池神から本田さんに送られた言葉は、ただ一つだ。
 “天下の治安責任を有する警察本部長として重大かつ深刻な事態を招いたことに対し責任を痛感している”」
「裏切られたのか」
「反論の余地さえ、本田さんには残されなかった」

益本が忌々しく舌打ちする。

これは、円卓の上で勝手に清算された白紙案件なのだ。
何らかの理由で、池神は本田を汚職事件の犯人に仕立て上げたいらしい。
目撃情報の捏造、証人や参考人への脅迫容疑、不正や差別といったでまかせが行われた事実は、一課にも一切残っていない。
それを今、暴きたい人物がいる。
恐らく日野が捨て身で復讐したいのは警察上層部そのものなのかもしれない。

「責任ってなんだ?こんな事態が起こっちゃったから、廃棄物処理してくれって?」

行き場のない怒りは、堰き止めるものを失い、今、下から吹き上げるような潮風に散り散りに飛ばされる。

「一緒に罪に塗れるなら、いい。縦型社会の定めだ。清廉潔白でいたかったわけじゃない」
「公表された報告書では、確か、本田の単独犯で、命令を無視し、法を犯したことに因る実質的な懲戒解雇――」
「そんなのってないだろう・・!最後には一人にした。退職した時点で、本田さんが頼れる上司はもうどこにもいなかった」

典型的な仲間切りだった。下々を見下したり、ノンキャリを切ることよりも性質が悪い。
本田は濡れ衣を着せられたまま、退職に追い込まれた。
裏切り者のレッテルを張られ、警察の名誉を落とした無法者として、葬られた。
そのやり方は数年前、収拾がつかないからと、室井に責任を取らせ、首をかけさせた時と、何ら変わりはない。

「何故我々をターゲットにした?」
「本田さんは深酒になると必ず貴方の話になった。無口な人だったけど、その目はライバルを見てるようで」
「・・・」
「同じ目にあった貴方がどう出るか、見たかった」

日野が歪んでせせら笑う。

「復讐するのか、今度は長いものに巻かれるのか、潰れるのか、試した」
「――」
「結局こっちも、見たかったのは腐敗した汚物の処理方法なのかもしれない」

夢の残渣を打ち付けた、あの焦燥を、あの絶望を。
本田は室井に何を見たのか。
その意味ではきっと、室井の行動は、日野の好奇心を満たすものだった。
錯綜する感情を制御しきれぬまま、何か言おうとした日野の口唇が、空で止まって、震える。

「俺ら所轄も青島くんの噂は知っての通りで。だから、その分、俺たちとの差が、いつも比較された。悔しかった。憎らしかった。何で俺たちだけがって・・!」

堪える日野の喉仏が何度も上下し、それでも堰き止められないものを呑み込むように、何度もナイフを握り直す。
星などない。曇天に覆われたエメラルドの視界は不可思議な不透明さで、視界を隠し、密度を込めた大気に白い息が何度も上がった。
益々荒れてきた鈍色の雲は低く垂れ込めて圧迫感を与え、いつもは拝める臨海都市へ猛烈な速度で覆い被さっていく。
海と同化した、そこに行き場なんてものはどこにもなかった。

「だから青島くんを失ってみたら分かると思いまして。室井さんに価値があるのかどうか。でも、彼にも言いましたけど、拒絶されちゃいました」
「・・・」
「そしたら、彼の記憶を奪えるなんて。刑事長いことやってきたけど、やっぱり神っているんだなって思った、天罰だろ」

その言葉にそれまで黙って聞いていた益本が、思わず叫び返した。

「天罰って、そりゃないだろ!」

高い所から激しく落ちるような失墜感が、益本の腹の奥を押していた。
日野の話は平凡だけど、青島に意味はない。
そんなことを言ったところで、日野にも意味がないことも分かっている。
失えないものを得てしまった憐みに満ちた瞳で、日野は益本を見て、哂った。
どちらがこの場で説得力があるか、明白だった。
だからきっと、日野には青島が必要だった。
室井はそんな青島だから未来を賭けられたのだ。それが日野の最大の後悔のリンクしている。
日野はライバルも削ぎ落すことで、本田の屈辱を晴らそうとした。

「けどさ・・!」

ようやく欲しいもの手に入れた肉食獣のように獰猛で、そのくせどこかやるせない色を湛えた瞳に、益本は何も言えなくなる。
益本のぐちゃぐちゃの感情を見透かしたように、囚われたままの青島が煌めいた瞳で勝ち気な顔に変えて見せた。
大丈夫だよ。俺は染まらないよ。安心していいよ――
口端を片方だけ上げた、情熱を失わない瞳に、益本は溜まらず顔を歪めた。

黙ってしまった益本の様子を高慢な瞳で見下ろす隙に、室井の親指が一度だけ、下げられたまま袖口からそっと背後を指し、一瞬だけ視線を右に反らした。
青島の不思議そうな顔を認め、室井は話を戻した。

「本田は今どうしているんだ」
「もう皆さん、気付いていらっしゃるんでしょう?」

ここまで、誰もが薄々察していた悪寒を、日野の言葉ははっきりと肯定していた。

「証拠がない内は推論を偏らせないのが刑事だろう」
「証拠なんて」

室井が見据えているのは、青島だけで、その視線は頑なに外さない。

「本田は、死んだんだな?」

室井が静かに忌み言葉を口にした。
その質問に、日野が答えることはなく、その場の誰もが口を閉ざす。

「まさか、自殺だったのか・・?」

なんたることだ。みんなが寄ってたかって一人の男の人生までを狂わせた。
捜査段階から名が挙がっていながらここまで姿を見せないということは、つまりはそういうことなのだ。

「一番のものを失ったら、もう恐いものなんてなくなる」

最悪の結末が明らかとなった先に、日野がしっとりと青島を見つめ、もう一度、ナイフを喉元に宛がった。
誰も間合いを詰められない。
日野の瞳は哀しみに落ち、他の全てを拒絶していて、青島をグイっと鷲掴みにする。
室井が擦り切れるような声で唸った。

「もうひとつ、聞きたいことはそいつのことだ・・!記憶を失うほど、君は彼に何をした。何故彼の記憶を奪うまで追い詰めた・・!」
「特に何も?余程、貴方のことを忘れたかったのでは?」

くすくすと、場違いに笑う日野の嗤いは、怨霊染みて聞く者の背筋を凍らせる。
だが室井はその一点に於いてのみ、許す気は毛頭ない。

「特に何もしていなくて人の記憶が飛ぶか」
「実際、飛んだわけですよね?」
「彼に何を言った・・!」
「だから特段のことは何も。室井さんの立場を少し教えてあげたくらいで」

血の気を失った室井の面差しが般若の如く陰影を深くする。

人は思いもよらぬ言葉で傷つくこともある。
昔の青島は、とにかく背伸びしたがって、室井に追いつこうと必死で、室井を護ろうと大切にしてくれた。
日野が何気なく言った言葉も、きっと、青島にとっては、同じ所轄という立場の人間に、何より言って欲しくなかった言葉だったのだろうと思えた。
日野は絶望しているが、もしかしたら、日野の決断は青島にとって眩しく映ったのかもしれない。

何で言ってやらなかったんだ。
君がそこにいるだけで幸せだと。
そこにいてくれるだけで、力が湧くのだと。
俺だけ護られて、喜ぶとでも思っているのか。

歯ぎしりをする力みは、吹き出す怒りを抑えているかのように映り、荒ぶ風に立ち竦んだ。
たった一つの擦れ違いが、こんな救いのない結末となって目の前に置き去りにされ、更なる悲劇を生んだ連鎖を
どうして誰も止められなかったのだろう。
たった一つの間違いが、こんな大きくなる前に、誰か何とか出来なかったのか。

「なんで言ってやらなかったんだ。たった一言でいい。貴方だからだ、と。それだけで良い。それだけで人は生きれる、本田は救われた・・!」

馬鹿野郎と、室井は心中で叫ぶ。
室井にとってみれば、本田はもう一人の自分だった。
孤独だと知って、たった一人消えていった本田。
傍で控えていたただ一人の味方の存在にも気づかないで。護ったつもりで、護られていたことも知らないで。
貴方だから傍にいたいのだと、そんな簡単な言葉を聞くこともなく、一人で罪と共に、消えた。

「なんならもう一度、恋させてみせよう、くらいの甲斐性、突き付けてやれば良かったんだ」
「恋?私が?」
「所轄捜査員に言わせると、“仕事を愛している”んだそうだ」

白く息を吐き、一度だけ天を見上げた日野の目もまた、たった一つを得られなかった悲しみに濡れていた。
もう遅いよと、日野の口唇がそう形作る。
それは同時に、室井の心にも突き刺さった。

刹那、空気が切れる。
いきんだ視線で益本が一歩前に出た。その動きに、日野はナイフを青島の喉に高々と添える。

「日野ッ!止めてくれッ、もう充分だろう!」

動こうとしない室井にも焦れ、益本が先に叫ぶ。
益本の視線が、室井を見て、青島を見つめ、日野に頼み込む。
細長く白い首筋には霞む夜目にも分かるほど鮮やかな赤い二本めのラインが、傍観者の目に焼き付いた。
強風に足元が掬われ、息すら危うい居心地は排他的で、手足など感覚が薄れるほど凍えているのに、益本の心臓だけが喉から飛び出そうに爆音を打つ。

「そんなチャンスさえ、私に与えられることはなかったですよ、室井さん」

時間は戻らない。
日々惜しげなく費やしている時間というものは、それだけで罪深い。
チャンスを奪われた、室井もだ。

「一つ、忠告しておきます。組織の闇は深い。我々の前に顔を出した闇よりも、ずっとずっと暗くて深いんです。貴方がたが知っているのはほんの断片だ」

ゾクリとさせる日野の呪言に、唸りを上げた波が弾け飛ぶ景色は、最早現実感はなく、作り物のようだった。
室井の漆黒を見下ろす日野の腕の中で、青島が息苦しいままに呻くのも、この期に及んで対峙し続ける二人の男の態度も
益本にとっては悪い夢だ。
握り締めている拳が凍え、痺れている。

「室井さんッ」

思い余り、音無き声で益本が室井を詰ると、室井は益本に一瞥だけ寄越した。
均衡を保ちたいのに、室井の髪も益本の髪も逆立ち、コートも散り散りに飛び、押し返される。

「鬼が出るか蛇が出るかを楽しむ相棒がいるのでな」

だが室井は動じない。
何か大きなものに呑まれることなど意にも介さない室井の声は、逆巻く海で発するには、異常なまでに平坦だった。
闇に溶けるような漆黒の髪は千切れるほど崩れているのに、その眼は時も記憶も司るものもなく、暗黒として熱も持たない。
大胆とも豪胆とも言える室井の背中に歯ぎしりをするが、その強がりが益本を辛うじてこの場に立たせている。

「大体、君、拉致するにはあまりに不適格な人間を選んでいるぞ。その時点で天命なものか」
「こうするのが一番だったことはもう明白だ。ノンキャリが騒いだところでアンタだって見向きもしなかったろう」
「だろうな。名を伏せて、俺が動けば必ず池神が喰らい付いてくる。不祥事は彼の一番忌み嫌うところだ。実際、私も本部を私怨で動かした」

日野の今更の皮肉は、聞き飽きた台詞であり、室井にとっては青島と出会ってから散々巻き込まれた、不運である。
経験の浅さは室井の冷静さを崩すことはなく、冷徹さと貫禄を持つ官僚の面差しに、日野の単調な言葉など刺さらない。

「貴方がそこにいるのだって偶然と運だってこと、分かってるんでしょう?」
「・・・」
「約束だなんて綺麗事で皆を騙し、結局貴方だってキャリアの旨味に毒されたんだ」
「そう思うなら見届けてみればいい。俺たちの仲を見損なうなとも言った筈だ」
「挽回するチャンスを与えてもらえるとでも?」
「ただ一つ分かるのは、そうやって君を置いていった相手に今更義理立てしても、もう何の賞ももらえないということだ」

本田の本当の望みはそこにないだとか、本田を失望させるなだとか、室井は情に訴えた説得などしない。
ただ日野の愚かさだけを突きつける。
それが官僚としての覚悟なのだと、日野を攻撃する。

何故なら、室井がここで日野に染まったら、青島が悲しむことを知っているからだ。
かつての青島が命を賭して護ろうとしたものを、自分が受け継ぎ、繋いでいく。

どちらも引かない駆け引きに、益本は動けなかった。
いっそ煽動するような室井にハラハラする足元が、生きた心地がしない。
肺の奥まで染み込む冷気が痛い。
視線を彷徨わせ、ギリギリの攻防に、息が詰まりそうで、冷たくなった手を必死に握る。

グッと詰まった室井と日野の平行線は、睨み合うだけとなっていた。
これが修羅場か。ってか、こんなリスキーな賭けで平静を装える室井の肝っ玉に、目を瞠るだけだ。

どう転ぶのか。どうなるのか――

その均衡を破ったのは、三人の睨み合う男たちではなかった。
ズケズケとした臆面もない室井の物言いに、ここまで静観していた青島が日野の腕を掴んで酸素を求めた。
息を吸って、助け舟を出す。
あろうことか、日野にだ。

「んなこと言ってぇ。室井さんだって過去の俺を裏切れないだの、忘れさせてもくれないだの、散々ごねてたじゃん」

あっけらかんとした、明るい場違いな声に、室井も益本も、日野すら意表を突かれた。

「ごねてない。今その話はいい」
「自分のこと棚に上げて、このひとの過去の清算は否定するわけ?」
「それは君が中途半端に消えたからだろう」
「俺のせいにするんだ。大体、えっらそーなこと言って、俺のこと中途半端に引き留めちゃって、それで手ェ出してりゃ世話ないよ」
「そうだったか?」
「しらじらしい」

高潔で、官僚然としていた室井の表情が、一瞬にして崩れた。
先程までの殺気立った空気が一変していて、しどろもどろな室井の珍しい慌てぶりに、日野も益本も顔を向ける。
グリンと大きな目玉が益本を見れば、益本のジト目に合い、正面を向けば日野の呆れた目に合う。

「自分だってさっさと先行けばよかったじゃんか」
「行けるか、君を置いて」

瞼を落とし、室井が肩を落とし観念する。

「だってさ、日野さん」
「!」

これが、青島の仕掛けた策略だと、室井も益本も悟る。
一発勝負は青島の最も得意とするところだ。

「日野さん、俺たちは、壊れない。俺たちは最後までやりきるよ」
「青島くん・・?あなた、約束を・・」
「あー、なんかしたらしいね。覚えてないけど。でもあのひと、やる気だよ」
「それはどうでしょう。個人の想いとか情熱なんて国家権力の前では無力でした。むしろ邪魔だと言っていい」
「じゃあ、聞いてみようか」
「はい?」

青島の視線がもう一度、室井へ向く。

「俺んこと追いかける?」
「もう二度と、一人では泣かさない」

青島の口唇が、三日月のように引き上がる。
顎を上げ、生意気な顔で見下ろす青島に、室井も眉間を寄せつつ、口唇を尖らせた。

「ほんとに俺にまいっちゃってるねぇ」
「君は劣化版だ。本当の俺の相棒はもっと強かだ」
「あ、また比べた!」
「この程度の窮地、抜け出せなくてどうする」
「俺がいないって泣きべそ掻いてたくせに」
「おまえ、自分から付いていったな?」
「そこは~、ほら、頼まれちゃったし」
「頼まれたら、おまえ、躯も差し出す気か?」

影掛かる瞳、寒さの中でも林檎色をした口唇が、誘うように薄く開いた。
室井の漆黒が、クッと眇められる。

「安売りするような男に見えます?」
「説得力は薄いな」
「あんたが戦うんなら、俺が骨を拾ってやるよ」
「君と話していると悪魔と取引している気分になる」
「俺はハッピーエンドはいらない」
「ああ、俺もだ」

どんな醜態をさらしたって、それが同情だって、この手を離してはいけないのだと、こういうところで室井に知らしめるのだ。
愛想が尽きたような顔で、だけどすっかり参った顔で室井が白状する言葉を、日野は呆気に取られて聞いていた。

「・・だ、そうです、日野さん」

“会えなくても離れないひとっているかもね”
青島が日野の耳にひっそりと囁いた言葉に、日野はゆっくりと視線を合わし、少しだけ揺れた目をした。

「胸焼けしちゃった?」

青島は全てを拒絶する日野に対し、全てを受け入れる聖母のように、静かに身を委ねていた。
見つめ合い、重なり合った時に、ただ、沈黙を捧げる。

「室井さん、貴方も物好きだ。今更青島くんを囲ったところで、取り返せるものは何もないのに」
「その青島が遺してくれた形見だ」

欲しがる気持ちを毛頭隠すつもりもない。それで溺れ切るなら、それで本望だと受け入れている室井の姿勢は
ただ喚くだけしかできなかった、戦ってもこんなやり方しか選べなかった自分を、酷く責めてくる。

この感情は正しいものなのか。
この感情は受け入れていいものなのか。
そんな葛藤をしたことすら罪となる糾弾に、負けたのだ。
いつか理解する、激しい消失の衝撃を、堪え切れぬと逃げた。

高潔なエリートを崩さない室井にしては悪ぶった、横柄な顔に漆黒の瞳が宿る。

「記憶がないまま俺に付いてくるのは怖いか?」
「ぜんぜん。そこはどうでもいい」

青島もやんちゃな笑みで応えれば、見せ付けてくる二人の熱情に、日野は日野だけが知る本田を偲んだ。
自分にだってそういう相手が確かにいたのに、それを掴み取れなかったのは。

「何でこんなとこまで来ちゃったんだろうなぁ・・」

今いる場所は酷く遠くて、こんな場所を見たかったんじゃなくて、ここには本田さんもいなくて、俺は一人で。
課せられた課題は重く圧し掛かり、この先永遠にいないと分かっている相手に費やす時間の果て無さに、ただただ、絶望する。

濡れた瞳は海を取り、日野が歪に崩れた笑みを無理に作って、青島を見た。
散り散りに乱れ飛ぶ青島の髪が、至近距離にある日野の目許にも打ち付け、それほどまでに近くにいるのに体温さえ感じ取れない。
その心許なさに、体勢を保つように青島が日野の腕に覚束ない指先を重ねる。

「ごめん、青島くん。君にはひとつ、嘘を吐いた。君のことが憎いって言ったけど、本当は違う。ずっと羨ましかったんだ」
「うん・・、知ってる」
「そっか」

俯く日野の瞼から、飛沫を浴びた雫が夜の光を受けて落ちた。まるで涙のように見えるそれを青島は呆然と見つめる。
咄嗟に益本が静止する。

「日野!戻れ!!」
「来ないでください!愛する彼がどうなってもいいんですか!」

まだナイフは青島を狙っていた。
青島の首に腕を回し、背中越しににナイフを宛て、日野が後退り、牽制する。

「日野さんっ、だめ!」
「ここまでやって、俺だけ許されたくないんだ」
「でもだめだよ!」
「能力がなかった、戦い方を知らなかった、もう、自分にしてやれることが、何もないんです」
「ここで諦めちゃったら、ほんとに全部終わっちゃうんだよ、ぷつんって!」
「終わらせることが、私の本望だと先程言いました」

記憶が消えるということは、そこで時間が止まるということだった。その恐怖が、腹の底から湧き起る衝動が、瑞々しい感性となって、青島を湧きたてる。
日野はさっき、たくさんの時間があるようだと言ったが、重複してあったって、そのどれもがホンモノじゃない。
その恐怖が今の青島の足元をふらつかせる。

「あんたの中で全部終わっちゃったの?」
「過去は変えられないんだ!」
「まだ決まってない。過去だって変わるんだぜ?」

恐怖の中、鮮烈な瞳で青島が紅い口唇をにんまりと持ち上げた。

「これ以上痛い思いすること、ないでしょ?」
「本田さんは悲しまないさ。そんなの、こっちだって最初から織り込み済みで、別に正義なんかどうでもよくて、もう、どっちにしろ引き返せない!」
「違うよ!日野さんが一人で背負っちゃうのが、だめだって言ってんだよ!」
「え?」

肩越しに青島が日野の目を見て、悪戯な笑みで無邪気に瞳を輝かす。
そして、背後に大声で呼び掛けた。

「益本!」
「おおおうッ?」
「愛してるぜ!」

ウィンクして投げキッスまでしてくる気障な男に、益本はばかやろうとしか呟けない。

「クリスマスでぇと、久しぶりに笑った気がする。また一緒にバカやろうぜ!だめ?」
「~~ッ、いいに決まってんだろ!」

上目遣いでおねだりする青島に、益本の答えなんか決まっている。
本当に嬉しそうに青島が微笑み、今度は室井を見る。
その瞳が克ち合った瞬間、室井には全てが理解できた。

「ッ、青島ッ」
「室井さん!」

室井が名を呼んだのとほとんど同時に、青島も室井の名を呼ぶ。
制されたのだと、室井が歯痒く思う前に青島が小首を傾げた。

「おかしいよな、こんなはずじゃなかったんだけどな」
「いいから!だめだ、戻れ!」
「でも言ったデショ。俺はハッピーエンドはいらない」

今度は室井が口唇を引き結ぶ。
こんな時まで届かない願いに、重なる熱に、繰り返す時の無情が背後で高笑いする。

「ちょっとだったけど、傍に居て、貴方と暮らせて、けっこー面白かった」
「後で聞く!」

拳を握り、室井が怒鳴る。
先程までの余裕が室井の顔から消えている。

「頑固だし、几帳面過ぎて笑っちゃうし、頭堅くて。でもね・・・室井さん、傍にいるよ」

それは正にあの時の答えで。

「貴方に心奪われました」
「!!」
「あんたに俺を返すよ。だから、約束、破るなよ!」
「だめだ・・駄目だ!」

小さく敬礼して見せて、その顔がやけにサマになっていて、憎らしいほど気障な笑みを残し
そして。

「どうするつもりです・・!」
「こうするんだよ!!」

日野の問いかけに素早くこたえると、援護の方へと救援依頼をしていたように見せ掛けていた体重を、青島が一瞬にして逆にしたことで、二人のバランスは簡単に崩れた。
外向きに勢いを付けた青島と日野の身体は、背後に傾き、黒い闇に浮かび、衆人環視の中、背後の海へと吸い込まれていく。

「青島ァァ!!」

益本の絶叫が嵐の中に尾を引いて、潮風に掻き消され、微塵になるとの同時に、二人の影は断壁の向こう側へと消えていった。













33.
室井にとって青島は、最初から異次元のヒーローだった。

ああ・・

海が高い波しぶきを上げるのを、室井は呆然と見つめていた。

ああ・・

分かっていたし、こうなることを予想もしていた。衝撃なんか受けない筈だった。
それでも目の前で海に消えていく青島の残像が、瞼に焼きついている。

室井を通り過ぎる疾風は高い金切り声を上げ、日付の変わった深夜の都会を吹き荒らしていた。
黒いコートが無尽蔵に千切れる。
その肩をグイっと引く様に捕まれると、室井の身体は簡単によろめいた。

「おっ、ま、ちょっ、なんてことさせるんだよ!」
「大丈夫だ、後方支援の仕度をしていないとでも思うのか」
「!!・・にしたって!もしものこととかあんだろうが!」

益本が噛みつくが、室井の漆黒は、同じ色の海をまだ映したまま、光すら相殺させていた。

「いいんだ、時間稼ぎは充分に出来た」
「時間稼ぎィ?このくだんねぇ会話から計算か!」

呆れたように詰る益本に、また強い海風が押し返すように二人に強風を打ち付ける。

引き留める言葉も、焦った様子も、日野を油断させる計算か。
青島の作戦に乗ったふりで、室井は痴話喧嘩を請け負った。
だとして、いつ青島は室井のその計画を知ったのか。

何故益本より室井の方が遅れてきたのか。
室井が何を狙っているのか。
すべて青島は分かって、それで。

「アンタの方が真っ青だぜ」

正面から断続的に吹き付ける風で室井の頭髪もとうに崩れ去っていた。
益本の逆立つ髪も巻き上がり、べとべとになって不快感を齎し、ジャケットも役立たずだ。
荒んだ大気の中、やつれた姿の室井に、同じくボロボロの益本も、泥だらけの顔を拳で拭った。

舞台は2000年代の法治国家だ。
根強いキャリア差別が残るこの堅牢で、濡れ衣を着せられた上級キャリアの冤罪を晴らすために
たった一人のノンキャリが孤高に戦った。
その話を聞いた時、益本の中で、まだ会いもしないその男が、まるで青島に見えた。

「日野の望み、知ってたのかよ」
「あれはただの拗らせた愛情だ」

今、同じ運命を背負った二人に、同じ背負う罪と覚悟を見る。
日野が絶対に譲れないことを青島は知っていたし、青島はそんな日野にとって亡くした欠片だったのかもしれない。
或いは、なりたかった自分だったのか。
日野は、あの日失くしたものを取りに来たんだ。

そして、青島はクリスマスの東京の、暗い海に消えた。
分かるのは、俺たちはまた青島を失ったということだ。

「会いに行こうぜ」
俺たちの想い人に。

益本が気を取り直して、室井の肩に軽く手を置いた。
今くらいは、こんな気安さも許されるだろう。
益本は、室井の返事を待たずに、重い足取りで眼下の岸壁下へと向かっていった。

「会いに・・か」

生きるためのモチベーションが崩され、社会や世間から盛んに押し付けられる美しさや誠実さに、彼は絶望していた。
そんな人間に掛ける言葉はないことを、室井は経験上知っている。
広島で、一人の夜を思い出した。
自分は何故、絶望の中、おめおめと生き延びられたのか。

小さく息を落とし、室井もまた、二人が引き揚げられるであろう海岸線に向かって降りて行った。















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