公文書Code3-2-8 014










30.
ペンギンが群れになって閉館待ちをしている。
群青に染まる海を背負う彼らの世界を、どんよりとした曇が縁を飾り、冬景色を銀色のオーナメントで冷たく揺らした。
海辺の日没はちょっと遅い。

「久しぶりに食うと美味ぇもんだな」
「正解だったっしょ?」

この寒空の元、アイスが食べたいと言い出した青島の意向で、ペンギンの前で益本と青島はパステルカラーのアイスクリームを突き合う。
コーンの上に好きなものをトッピングできるアイスオンアイスだ。
ほのかに香るラム酒が大人の味を演出してくれるラムレーズンソースも、焦がした香ばしさがビターなココアパウダーも
二人きりのイブイブデートは邪魔も入らず、通報も入らず、青島の着る向日葵色のシャツが目に眩しい。
何故か自慢気な青島の顔を至近距離で拝める役得も最高で、益本はニヤけた目尻を引き締めながらアイスを傾けた。
反対側からスプーンで一口、掬えば、甘さと冷たさは、水族館の効きすぎた暖房で乾いた喉に心地良く
これが水族館名物と言われるのも頷ける。

「食い終わったら、あったけーもん飲もうぜ」
「あまくないやつね」

ちょっとの祈りだって、今夜は許されるだろう。
平日とあって、訪れている観覧客は少ない。

「うりゃっ」
「!」

ぱくっと。
息遣いすら感じ取れる距離に浸っていると、青島が益本の持つスプーンをぱくんと咥えた。
してやったりという、自慢気な瞳が間近で光り、ぺろりと舌なめずりをして離れていく紅い舌がアイスに溶ける。
やべぇ、なにこれもう最高。

「早く食べないとみんな俺に喰われちゃうんだからね」
「刑事は目配せも大事なんだよ」

青島の挑戦を受けるも、益本の鼻の下は伸びきっている。
目許は細められ、口調も柔らかく、説得力は薄い。
ははぁーん、と見抜いた青島の目が、完全に益本の下心を冬の空に透かしていた。
というか、惚れた弱みを握られている。
それを分かった上での今日のイブイブデートなのだから、益本に勝ち目はない。

「見惚れてたんだね、俺に」
「たぶらかされたんだよ」
「イイ男でごめんね~?」
「なまじ当たってるからムカつくわ」

嬉しそうにも楽しそうにも青島の頬が浦風に赤らみ、もふもふとしたボアコートの袖口から覗く指先が益本を揶揄ってくる。

「・・・」

視線を交わせば、青島も上目遣いで益本を受け止めていて、友情なんだか愛情なんだか良く解からない交接に怯むのはまだ早く
次の瞬間、二人してアイスにがっついた。
小さな箱に入れられたカップル仕様のそれを、益本が手にし、二人して額をぶつけるようにして、奪い合う。

「おっま、ちったー遠慮しろよ!」
「食いもんに遠慮て、霞でも喰ってんの」
「そういうはらぺこあおむしは、これでも喰らえっ」

今度は益本がココナッツの塊を掬い取ると、青島に向かって差し出した。
青島がそれにぱくんと食い付き、満足気な笑みに頬を丸くする。

「ぶふふ。つめたーい、やったー」
「血糖値ヤバくなればいい」
「中年発言」
「ガキが」
「最後はちょうちょだモーン」
「いっちょ前に大人ぶるか?!」

アオムシじゃなくてアオシマだもんと笑う吐息がちょっとだけ掠れ、口端に付いたココナッツを指で掬ってぺろりと舐めた。
今日はふとした仕草がいちいち娟麗で、益本はつい視姦してしまう。
目が追う時間で、益本の言葉に何か反応したか、青島が少しだけ瞳色を変えた。

「あのさ・・益本ぉ」
「うん?」
「俺、室井さんとヤっちゃった・・」

アイスの残りをスプーンで掻き回して、虚ろな青島の指先が最後の一欠けらを掬い取ると、原型を崩したアイスはぽたりと流れた。
興味を失ったスプーンは残され、益本の手元には空となったコーンだけが冷えて撚れる。
視線を合わせようとせず、無言でペンギンを見る青島の様子に、益本は喉元まで出かけた言葉を呑み込んだ。

「それ、挿れられたってこと?」
「うん・・」

パタパタと海沿い特有の強めの風が青島のシャツの襟をはためかせた。
無駄に開けられた首元から覗く鎖骨に陰影が妍を飾り、だいぶ伸びてきた髪は記憶を失う前より少し短いくらいで、時間の境目を曖昧にさせる。
伏目がちとなった横顔が急に大人びて見えて、こんな風に二面性を持つ彼の魔性と斑気に、海の匂いを持たせることは
まるであの頃を再現してしまったようだった。
あの頃――つまり益本がまだ友人とすら認識されなかった過去だ。記憶は益本にとって単なる過去でしかない。
益本が次の言葉を忘れたせいで、海風の強いそよぎが耳に届いた。

「良かったのか?それで」

ズッコケたり、頭打ったり、コーンを投げたりしなかっただけ、マシだと思って欲しい。
具体的にヤっちゃったの意味が挿入を指すことまで確認してしまうのは、刑事の性なんだろうか。
聞く必要なかったよーな、聞かないと収まりが悪いよーな、何とも複雑な男心で益本は片眉を曲げる。

あンのクソなまはげ、イブに勝負をかけると思ったら、俺のデートより先にそこまで手を出すんかよ。
この前から、ちょくちょく目障りに、こっちより一歩先を打ってくる。
必死じゃないかと笑い半分、残りは嫉妬だ。
所詮、男は本能で惚れた者を奪い合う性なのだ。
そう思う反面、横取りされた不始末は否めない。

「テクのハナシ?」

今の質問が、ベッドスキルに満足出来たかという問いにもなる言葉足らずな質問だったことに、益本は言われて気が付いた。
んなこと聞く気はねーわ。聞きたくもねーわ。
そういう意味合いの目をニヤリと光らせれば、青島も指を立て、セクシーな色香で口端を持ち上げた。

益本はケースからコーンを取り外し、半分に割って手を伸ばす。
素直に受け取った手は静かに引かれていった。

「キャリアの人って、これ、不祥事だよなぁ?まずったなぁー」

寄り添う益本と青島の会話に耳を欹てる者もいなかった先程より人足は増え、閉館時刻まで残り少ないことを告げるアナウンスが一帯に流れた。
それに合わせ、園内は一斉にライトアップされる。

益本が良かったのかと聞いたのは、青島にとっての話であったのに、青島の主語はあくまで室井だった。
柄の悪いシャツが復活していることで一旦アパートには戻れたんだなということが察せられる。
奇抜な紋様が並ぶ向日葵色のシャツに、グレー系のストライプスーツ。
少し大きめに胸元を開けたそこには黒のグラサンが下がり、キメの細かい肌が露出する。
正直、青島の好みと室井の好みが不協和音を奏でている。
今日のためなのかを悟らせず、益本が贈った香水を付けて現れた青島に、微かな期待をしていたのも、事実だ。
青島の上で、今三者三様の恋模様が具現化しているようだった。

「そうでもないぜ?多くのキャリアは性生活もお盛ん。それをキッチリ掌握させる。ゴシップなんかにもさせない。抑圧する能力必須」

ま、室井は無理だな。
数年前、元カノの入水自殺をゴシップされて、切り返せなかった男だ。

「淫らな性事情だなー」
「ストレスの溜まるポジションなんだろ、無理もねーわって感じだけどな。清廉潔白~なんてむしろ少数よ」
「益本は?」
「イイ女回してくれんならって期待もしてたけど、先輩のおさがりだろ?それにほら、俺、メンクイだかんね」

それに、今は。
目の前でそうやって笑ってくれるお前に心が囚われたまま。

「正直だな~」
「本気にするな。相手の全て、受け止めますよ~」
「益本のそーゆーとこ、ほんと、俺に似てる」

誰に抱かれたって、益本の憶測にこびりついた染みは、同じ波紋を描いていく。
肌に他の男の味が付いていたって、気持ちがそう簡単に切り替わるものであったなら、もっと上手にやれるんだろう。
改めて思い知らされた執着心に、ふと室井の顔が浮かんだ。

「惚れた・・ってこと?」
「正直、そこんとこはまだなんとも。男だし。流されたって言われると反論もしづらい。けど」
「けど、同情でもない?」
「そうなんだよね・・」

嘘だろぉぉ。折角のクリスマスデートで何でこんなカミングアウト聞かなきゃならないんだよぉ。
いっそ泣き出したい面を両手で多い、思いが空回り、この寒いのに食べたコーンがちょっとだけ握り潰された。
アイスで冷えた身体に受けた衝撃は北風より強く骨まで沁みる。

隙を見つけて口説こうと思った矢先の先制パンチは、確かに益本の想像を遥かに超えていた。
冷たい海風が黄昏に、急速に幕を下ろしていく。

「俺とキスしたこと、言った?」
「言ってない。言えるかよ」

でも俺には明け透けにそこまで言っちゃうわけね。
これって信用されてんの?それとも眼中にないの?やりすぎてめちゃめちゃ近い距離まで来ちゃったみたいな?君とはカゾクとか。
懐かれている気はするだけに、期待値も高く、反動も高い。

「なあ、今更だけど、その、昔付き合ってたこととか、微塵も思い出してねーの?」
「・・それなんだけどね・・」
「え、なんか、出た?」
「お化けかよ。・・じゃなくてさ、なんか、こう、ぼんやりと、俺、誰かにすっごくあったかいもん、貰ってた感じが・・少し。熱いってゆーか息苦しいってゆーか」
「・・・」
「俺それ知ってるって。どこかで・・」
「そんな曖昧な相手と、どうすりゃそんなシチュになれるわけ?」

室井と青島が一線を超えたかどうかなど、益本にとっても、恐らく二人を知る多くの人間にとっても、些細なことだ。
それよりもこの短期間でみるみる近づいていく二人の距離が、背筋を凍らせるほど不気味さを持ち、恐ろしささえ抱かせる。

一体どんなシチュでそういう状況になったんだか。
先日ちょっとしたニアミスが起きて、青島が追ったものの追跡失敗に終わったとは小耳に挟んだ。
青島が、抱きたいと言われて抱かせるような男なら、益本だってもっと踏み込んでいる。

悶々と想像を張り巡らせるが解答は得られず、つい唸って腕を組むと、コーンを歯で挟んだ青島が横目を向け、ふっと目尻を細めた。
少し大人びたと感じさせるのは、こちらの先入観なんだろうか。

「口先だけで、こう、眉間に皺寄せてることにね、腹が立っちゃったんだよね。俺のために身を引くだの、君の倖せを願うだの、綺麗事ばっか並べやがって」
「それな。自分が一番の被害者なんだろ」
「それ!」

かりかりかり。
青島が益本に指先を突きつけ、コーンを齧る音が黄昏の波音に逆らっていく。

「あったま来て、挑発して、傷つけてやりたくなった」
「・・・」
「や、そでなく。なんてゆーか、カオ崩れるとこ、みたかったんだよね」

白と青の光のコントラストが樹木ごとに空に生え、砂利の小道を沿うモニュメントも浮かび上がり、日没を祝うように連なる光が海へと続く。
水族館らしい演出のアーチはクリスマスデートをする恋人たちの歓声を呼んだ。
徐々にカップル連れが増えてくるが、誰も他のカップルには目もくれず、光の演舞に夢中で、寄り添う影に海風が背中を押す。

「でもまずった。告白させちゃって、襲わせちゃった。俺が」

青に染まる大気の中でも分かるほど真赤な顔で、口元を隠しながら、青島がしどろもどろに困り果て、益本の方を見た。
チロッと探られるその艶美な眼差しに撃ち抜かれ、ロストヴァージンの熟した耽美にドキリと鼓動が高鳴った。
その顔こそ、反則だろー?

「たださ~、あんま熱心に口説いてくっからどんなもんかって思うじゃん」
「あー」
「いっつも辛そうな目で俺んこと見てさぁ!そんなにそいつが好きだったのかよ!俺、知る権利あるよね!?って。もう一人の俺がどーゆー奴だったのか教えろっての!」

太陽が水平線に触れ、視界が曖昧になる薄紫のトワイライトタイムは、たった一瞬の残像だ。
長い足で足元の柵を蹴り、湧き上がる感情を抑え、首を振る彼が夕闇に融合していく。

「そう来るとは思わなかったってのと、どこかで分かってた気もする感じが半々」

あああ、その顔で誘われたら俺だっていただきますしてぇ!どうやって強請ってくるんだよ、どうやって鳴くんだよ、見たかったー!俺がー!
強請られる室井が羨ましすぎんのが一周して殺意が湧くー!

二人の横で太陽は静かに眠りにつき、空を群青色に染め上げて、その向こうにやがて夜がやってくる。
夕日が逆光となり、彼の顔を黒く塗りつぶしている。
益本の視線に気付いて、青島が悲しそうに苦笑した。

「益本は、俺がオトコにされても、変わんないね」
「元々、記憶あるお前も知ってるからな」

記憶をダシに使えない。そんなこと、室井だって解かっていたことだろう。
室井の年代にもなれば、自分が抱いている相手が何を考えているかもわからないようなセックスはしない。
青島を完全に取り戻せたわけじゃないことも織り込み済みで、抱いて、恋より先に未来へ道連れにすることを覚悟させたのだ。

ちっくしょ~、ベースが同じなら勝てると思ったんだけどな~。
そっち行くかぁ。
好きって気持ちなら、負けていなかった。
でも、室井の中の欲しがる気持ちの飢餓感と、妄執的な青島への固執が、尋常じゃない。
朴訥なようで激しい室井のおぞましいその情火を見ることが出来るのは、ごく一部の人間だけなんだろう。

「あのひとにとって、仕事って命賭けちゃうくらい重要なものらしいんだよ。それを頼んだのが俺でって流れらしく」
「あー、約束ってやつね?話してもらえた?」
「んん、やっぱみんな知ってんのね。俺には具体的には教えてはくれなかった」

恋だけの勝負ならきっとまだ勝てる余地はあるんだろう。
でも、目の前で見せつけられる二人の残虐とも言える求心力を盾に、未来の時間を奪われる。
それでいいのかよ室井!
また青島を泣かせる気なのかよ!
俺はどっちを選ぶべきなんだ。

「公の仕事を全うしていくための根っことして、自分を迷わせない場所?支えてくれるものってのを求めてんの。それが欲しいんならやるよ、みたいな」
「いいのか?それで」
「わかんね」

紫紺の雲間から太陽の最後の足跡が海をオレンジと濃紺に描いた。その残照が虹彩に反射し、麗しく灯る瞳に犯しがたい優美を見る。
記憶がなくても共鳴し合う室井と青島の不可思議な繋がりに、沈黙を選ばされたことを益本は知った。

いつの間にかペンギンたちも寝所に戻ってしまっていて、残された水面がさざ波立っていた。
漫然と見下ろす寂れたプールに、語り掛ける者もいない。

「今日来ること、よく許してもらえたな?」
「男同士の約束に口出しはさせないよ。でもすんげー顰め面だったけど」
「怒ったりすんの?」
「室井さんが?や、もう完全に子供扱い。今夜も益本がいるから外出すんだからなってお節介。一人になるなって耳タコ」

腹立つ男だなー。俺が手を出すこと知っててその余裕か!過保護か!
俺のこと全くライバル視していないところが、逆に心理的圧力だわ。

「いっつも室井と何話してんの?あの人、自分から無駄口話すタイプじゃないだろ?」
「そっちでもそうなの?」
「一緒に仕事したエリートん中で、断トツ。沈黙課長」
「あはは、つまんなそー」
「誰も話しかけないよ。あれじゃ。言って、一言返ってくればいい方」
「でも、嘘はない。・・だろ?」

よく見てんね。
顎を上げて、益本もそこは同意を見せる。
一方で、無防備に信じきれる無垢さに、不可解な反発を抱かせるのも、確かだった。

冬の夜は急速だ。
潮の臭いが強くなり、唸りが北風に変わる。
寒そうに、凍えるのを怖れるように、青島が手を口許に当てて、白い息を吐いた。

「――・・、」

嘘がない男である分だけ、室井の情愛は罪深い。
ばっかだなぁ。
俺も、室井も。そして、青島も。

益本がその手首を取った。
それは以前会議室で掴んだものとは違い、しっかりと意思を乗せたものだった。
冷たい手が重なり、そのまま呼吸が擦れる音がして、息を止める。
聞こえた音に扇情させられるよりも、代わりに焦燥が体内を蝕むように支配していった。

「今は強がる時じゃないだろう?」
「そう、だけど、でも」
「ごちゃごちゃ考えんな」
「・・・」
「こんな状態のアンタを帰していいとも思わないんで」

ゆっくり顔を近づける。
青島は逃げなかった。
どうしていいか分からない瞳が夜の光を吸い込み、追い詰められたそこで、覆い被さるように顔を近づけた益本を不安げに見上げる。
いきなり覚悟させられた未来は、この青島にとってどれだけのものとなっていくのか計り知れない。

「護るって、言ったぜ?」

片方の手首を掴んだまま、そっと壊れ物を扱うように益本の指先が青島の頤に添えられる。
信じられないくらい、心臓がバクバクしている。
童貞捨てた夜だって、こんなに緊張していただろうか。

「待って・・」
「キャリアは、降りかかる火の粉は自ら振り払う。振り払われる。それでも室井に、義理立てすんの?」
「きっと、あのひとは、俺を裏切らない」
「一緒に崩れていくタイプだ」
「それだ・・俺に対する執着がすごい・・たぶん、地獄へも道連れにされる」

瞳を交わし、そのまま時を止めた。
見つめ合うそこにあるものは、何なのだろうか。
この短期間で俺たちが交わした時間と記憶の結晶が、名も付けられないまま、柊のイルミネーションを向かえて、答えを迫られる。

益本の影が、そっと青島に近づいていく。
寸前で一度止まり、淡い瞳に宿る光を見つめ、益本は青島の口唇に口を重ねた。

「・・っ・・」

小さく顎を引かれ、軽く離れた口唇をまた追いかける。

「青島、逃げるなよ」

手首を掴み、顔を覗き込む。
二人の前髪が潮風によって絡み合うように重なった。額を押し付け、一歩踏み込み、益本は濡れた口唇をまた奪う。

「お前のこと、好きなんだ」

鼻先を掠め、益本の頬が、青島の頭に触れる。
青島の喉が鳴った。
息を潜め、答えを待った。きっとそれは返ってこないと知っていた。
声は聞こえない。愛撫するように、ゆっくりとその手の平で青島の背をなぞり、強く抱き寄せる。

「お前だって、俺を好きだろう?」

青島の手が、益本のジャケットの裾を強く握りしめたのが分かった。

「俺にとっては、益本がはじめてのひとだ」
「あんま煽るな」

ぼんやりとした目付きで呟き、自ら飛び出た言葉に、青島本人がハッとする。
あわわと慌てて、赤面し、周囲を見渡す様子からは、意図せず飛び出た言葉であることを益本に教えた。

普段なら平気で噓を吐いたり騙したり、人を誑かしたりできる男が、室井の前では出来なくなる。

二度目のキスは、しょっぱい味がした。
自己犠牲と他人の喜びを天秤に掛けたことが信じられなかった。
新月の芽生えの予感がしたあの夜と違って、今ははっきりとした気持ちで口唇から思いの丈を注ぎ、しっかりと受け止められる熱に、目を閉じる。

きっと、こっちの青島は本物の青島じゃないと誰もが思っているだろう。
昔を取り戻すべきだと願っているだろう。
勝ち気で、負けん気が強く、少年っぽさを残す小悪魔で、いつもみんなの中心になる陽気な男だった。
当時の面影が益本の脳裏を過ぎる。
益本に勝ち目があるとすれば、そこだ。

でも、この戦いに真の勝者はいるのか?

何度も擦り合わせ、重ね合う傍から消えていく熱に、ただ怖くて必死に重ねた。
縋るように身を預ける青島を抱き締め、体温も香水もあまりに頼りなく、足元が崩れそうに揺らぎ、吐息ごと重ねて欲しがった。
こんなに震えるような、壊れそうな、切ないキスをしたのは、益本だって初めてだった。

「なんか・・照れ臭いな」
「そだね・・」
「おまえ冷えてる。あったかいもんでも買ってくる」
「一人にさせんの?」
「アタマ冷やす時間くれって言ってんの!このまま連れ込むぞ!」
「ばぁか」


だけど、益本がスタバから戻ってきた時、もう、そこに青島の姿はなかった。












31.
『むむ、室井管理官ッ!!あ、あ、あおお!』
『落ち着け、どうした』
『い、いなくて!ちょっとトイレ行ってる間に、戻ってきたらいなくて・・!どうしたら、どうしたら、俺ッッ!!クソッ』

こんな時に頼れるのが、恋敵のこの男だなんて悪趣味にも程があるが、この捜査本部の実質的な指揮官であり上司であるのだから
報告義務はある。
だが、意外にも室井の声は粛々としていた。

『今の君の居場所を』
『臨海町の水族館ですけど』
『一日中?』
『ぃ、いえ!最後にこの水族館に来て、散策中でした。はぐれたのは今から20分ほど。俺、もう少し周辺を探してみようかと思ってまだここに待機中で』
『良い判断だ』
『アイツに何かあったら!俺ッ!!』
『大丈夫だ。青島には発信機を付けてある』

発信機ィィ??
思いもよらぬ発言に、心臓が口から飛び出しそうだった益本は、一気に現実に引き戻された。
聞き慣れたようで聞き慣れない言葉が、益本の思考を停止させる。
口をパクパクとさせ、次の言葉を探すが頭は真っ白だった。
絶句している益本を他所に、電話口の向こうでは室井が泰然と指示命令を伝えているが、益本には逆に非現実的で耳を素通りしていく。

『今から発信機の場所を君のスマホに送る。恐らくそう遠くへは行かない筈だ。君はすぐにそこへ向かってくれ』
『車で移動されたら』
『それもないだろう。この時間まで君たちを付け回していたんだ、向こうも追い詰められた故の、ソコが最善策だったとみえる』
『――』
『人目に付くリスクは避けたい筈だ。それに、意識ある成人男性を人目の付く中、そう素早く拉致することは容易じゃない』

確かにそうだった。
益本が席を外したのはほんの5分。
客観的に刑事視点の推理を告げられ、益本も一気に粟立った気持ちをしっかりと抑え込み、刑事の顔に変えていく。

『冷静過ぎて、腹立つわ』
『少しは頭が冷えたか。では頼んだぞ』
『まっ、待ってくれ!あのッ!青島言ってました、胸の奥になにか温かくて熱いものが残されてて、それ知ってるって!あんたのこと、完全に消したわけじゃない・・ッ』
『・・・』
『あんたのこと、完全に失ってないからあいつ』
『ありがとう。君にだから話せたことなんだろう』

室井の言葉は少し、負け惜しみみたいな色合いを持って益本の耳に残された。

『私もすぐ後を追う。それまで君に託す』
『わかりました、お願いします!』
『頼んだぞ』


え?なんで?どうして?
見捨てられた、それが益本の最初の感想だった。でも直ぐに思い直した。
青島は何があっても人を見限って先に帰ってしまうような人間ではない。何があっても相手を優先させてくる奴だ。
自分は何を見ていたのか。
青島の何に惚れたのか。
その自分の感性を信じられると思った。

もしかしたら、室井もまた、そうやって根拠のない狼藉に真摯な期待を持てたのかもしれない。
背面の“俺たちズッ友”のプリクラがイルミネーションのライトに浮かび、益本はスマホを片手で強く握り締めた。














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