公文書Code3-2-8 013
28.
翌朝、室井はまだ太陽が明け染まぬ宵の本庁にいた。
送迎の中で中野から前日の引き継ぎを貰い、作業を終え、会議室に向かうと、何故かそこに先に到着していた一倉が片手を上げる。
夜勤明けのようだった。
「いつもこの時間に来ていたのか?」
「一応情報は共有しておきたいからな。なに、別件上がりだ」
ホワイトボードの手前で、二人で公開捜査に踏み切る流れを確認する。
警察は組織であって、分かり切っていることでも、こうして手順を踏み確認作業を行うことがルールだ。
今はもう時間がない。
「その記者会見で、脅迫状の件と実名で本田に付いても触れるんだな?」
「一気に揺さぶって先手を取らないと、本田自身が危ない」
「池神は何を狙っているんだ?」
「分からない」
多くの捜査員が登庁前とあって、昼夜ない捜査一課のくたびれた空気とは異なり、第二会議室に人はおらず、二人の声が憚られるほど響く。
冬至の今日、冬の遅い朝陽が斜めにテーブルに射しこむ清涼な大気は目覚めたばかりの朝露に湿っていた。
刹那、室井がスッと片手を上げる。
耳を欹てる仕草に、一倉の目も険しく走った。
遠くから駆け寄る靴音が徐々に増し、二人の間に静かな警戒が走る。
ノックもせずに入ってきたのは新城だった。
「とんでもないことが分かりましたよ」
新城にしては珍しく、挨拶もそこそこに切り出す言葉に、気を抜く間もなく一倉も室井も顔を曇らせた。
回りくどいことは嫌いだが、新城家は代々官僚や政治家を輩出するサラブレッド官僚であり、礼儀を重んじることに身命を賭する男だ。
そもそもこの時間、此処に一倉と室井が揃って登庁していることを新城が知っている時点で、彼の火急性を証明する。
「どうした」
「室井さんからご提出頂いた本田の音声ですが、鑑識の結果が出ました」
「随分かかったな。何か分かったのか」
「録音内容としては何も。拾われる背後の生活音まで計算されているようで場所の特定にも至らないということでした」
「だろうな、アッチだって刑事だ」
「ただ、そもそも我々は前刑事局長とそこまで親しくはない。この中で交流のあった人間はいますか?」
新城の少し的を外した質問に、一倉と室井が顔を見合わせた。
一倉が顎を撫ぜながら記憶を辿る横で、室井も眉間を寄せて腕を組む。
「直接の面識か?俺は随分昔にキャリアレース外れた身だぞ。そもそも課が違う」
「室井さんは」
「ここ数年地方勤務の私に接触する機会があったと思うか?彼とは派閥も違うから君だって話したことないんじゃないか?」
二人の回答に、新城は指先で持っていた資料を弾いた。
「職務上、面や経歴はデータベースなどでご覧になったことくらいはあるでしょうが」
胸ポケットから取り出されたのはICレコーダーで、テーブルの中央にコトリと置かれる。
「倉庫の隅まで漁らせましたよ」
「あくまでお前はやらないのね」
一倉の揶揄に新城は肩を竦めただけだった。
ICレコーダーのボタンを押し再生する。
「本田が刑事局長時代、若手職員に講演したセミナー時の音声です」
それはかなり古い記録データらしく、雑音から始まった。
ざわざわとした多数の騒めきとマイク音声が拾われ、やがて司会の招きに壇上に誰かが立つ音がして、拍手が沸き起こった。
続けて、その人物が挨拶をし、冗談交じりに何やら高尚な教えを説き始める。
「待て。これが本田か?」
三人が耳を澄ます場を遮ったのは室井だった。
室井の遮りに、表情を変えず一倉と新城が顔を向け、三人は見交わした。
あの日、いつもの送迎の帰りに青島が紛失したスマホから室井に直接連絡が来て、会話した。
あの時、室井が応答した人物とはまるで違う声だった。
「これが、本当の本田本人だと思われます。声紋分析結果を見る間でもなく、私でも別人に聞こえます」
「だったらあれは誰だったんだ?」
「本田の実家に連絡を取りましたが、今だ行方不明のままとのことでした。捜索願も出したそうです」
「本田も失踪していたということか・・?」
「ご家族から、本田が親しくしていたという所轄捜査員の存在を教えてもらいましてね」
所轄という言葉に、何やら奇妙な胸騒ぎが走った。
ざらりとした感触が心の襞を伝っていく。
そのことを心得ているかのように、新城は敢えてそのことには触れない。
もう一つ、と言って一枚の写真を指先で弾いた。
「彼――日野という男です。ところが彼もまたここ一カ月弱、休職中でした。無断欠勤で恐らくは退職処分になるかと」
「退職?いきなりか?」
「ええ、勧告をしたかどうかも曖昧な返事でした」
「一カ月?ということは・・」
「本田の家宅捜索を行った時期と一致してますよね」
あの電話がかかってきたタイミングで日野は姿を消した。
多分、警察が動いたからだ。
「じゃ結局、本田はどこにいるんだ?」
一倉が最初の疑問を投げかけると、その言葉に新城が軽く眇めた眼差しで応えた。
「それを言うなら、日野も何処へ行ったのかという話になります」
「何処へ行ったんだ?」
「私に聞かないでくださいよ」
「調べてあんだろ?」
「それにお答えする前に、音声データの一部を切り取って日野の所属していた所轄に問い合わせたところ――これは日野の声にとても良く似ている、と」
「あの電話は日野だったということか!」
一倉と室井は目を剥いた。
本田と結託し事件を企てているのではなく、日野こそがこの事件を起こしている。
二人に接点があるのなら、脅迫状の時点から日野の可能性が高くなった。
むしろ本田の単独犯ではなく、彼こそが、池神が喉から欲しがっている協力者だ。
「何故上層部は日野の存在に気付かないんだ?」
「公になっている直接の接点がないということ、階級からして二人の知名度がそこまで高くないこと、そして」
新城が次の発言を賢明に閉ざし室井に視線を流すと、室井はその意味を正確に察し、続きを引き取った。
「キャリアとして、ノンキャリの彼を本田が隠したということか」
新城の言葉を引き継いだ室井の言葉に、新城はさもありなんと顔を歪めた。
恐らく本田のウィークポイントとさせないために、本田は口外しなかった。
そこまでする必要がある世界なのかという問いについては、少なくともここにいる三人にとっては、それほど大袈裟なものではない。
護り抜くためにそうするしか方法がなかったなどと言い訳めいた窮地には無縁だとしてもだ。
そして、それほどまでに親密な関係であるならば、本田が不祥事を起こし依願退職したことも、日野も当然知っていた。
恐らく本人から、聞かされた。或いは問い詰めた。
「だったら日野は何故わざわざ電話してきたんだ?本田のふりをしてまで」
「本田に因る自作自演じゃなかった。そこから私は恐ろしい仮説に辿り着いてしまいましたよ」
その言葉に、一倉と室井の視線が一斉に新城に向けられた。
交わす三者三様の視線が“恐ろしい”と仮定した新城の言葉に呼応し、一倉、室井の脳内でも其々憶測と推理が展開され
見交わす目からは概ね同じ結論に辿り着いたことを示している。
「だけどよ、そんなこと出来るのか?」
「だから室井さんを名指ししてきたのでは?そして、そこに説得力を持たせるために――」
「青島を使ったのか」
怒りも恨みも悟らせない感情の乏しい室井の機械的な言葉は、凍えた大気に融合した。
ありきたりな応答のようで、大差ないそれは、ある意味それしか言葉知らぬ稚児のようだと一倉は思う。
室井の内面は朴訥のようでいて激しい。
ギリギリの境目を曖昧にさせるそれを横目で見ながら、一倉は表面上、次の言葉を繋げた。
「池神なら面白がって乗ってくると踏んでのことか?子供の喧嘩じゃないんだぞ?」
「充分ノンキャリの浅知恵って感じじゃないですか」
室井の指先がトンっと机を叩く。
「違うな、恐らく、私の首を切るつもりだ。最初から成果は求めていないし、協力者が見つかれば及第点。そして他キャリアの見せしめになる階級の都合の良い人物を」
室井が自分のクビを片手で切る動作をして、ギロリと黒目がちの目を持ち上げた。
池神の最終的な狙いは、半年前突如退官させられた本田の汚職文書を貫くことで、警察の威信を護ることだ。
最初から池神の狙いは、要らないもの一掃だと一貫している。
それを知っている日野は、自らの存在を知りもしない池神に反逆したつもりで、所轄の青島を浚ってみせたのだ。
アンタにとって屁でもないだろうと。
実際、池神とって、必死に捜査を行う我々本部は、実に飽き足りる動きだったろう。
三人の背後のホワイトボードには、関係者の顔写真が今にも落ちそうに貼りつけられ撚れ始めている。
「協力者についてですが――日野の警察学校時代の教官、誰だと思いますか」
「まさか身近にいるとか言い出すなよ?」
「身近かどうかはどうぞご自身で判断を。この人物です」
新城が日野の隣に並べた写真には、この極秘捜査の本部長という汚れ仕事を上から押し付けられた、我々捜査本部の長である見慣れた男の顔が映っていた。
「マジかよ・・そういうことか・・」
「このことを、池神は知らないで辞令を出したのか?」
絶句する一倉と室井の前で、新城は先に衝撃から立ち直り、頭が痛いとばかりに首を振る。
「知っていたら、彼はダブルスパイということになりますよ」
「おいおい、これ以上恐ろし気なこと言い出すなよ、俺はナイーブなんだよ!」
一倉が寒さからではない震えに腕を擦ってみせるが、新城は最早半眼で黙秘する。
室井もさっさと無視をし、新城の持ってきた資料を取り上げ、パラパラと捲りながら軽く目を通した。
「よく内通者が鈴木だって分かったな」
室井の呟きに、新城はそれこそ偶然の産物だったことを告げた。
たまたま一倉が以前名を上げていた政府関係者の松田が新城の父を訪ねて自宅に訪れた。
無論、その偶然は新城が作り出したものではある。
その時、酌をしながら昔話を振ってみた所、名前があがった。
「柄にもなくお世辞とおべっかの口車で媚び売ってしまいましたよ」
「青島の得意そうなことだなぁ、習っておけばよかったな新城」
何故か酷く後悔しているような新城の背中を、一倉が叩いてハッパをかける。
「貴方はどうしてそう人の古傷を抉るような発言をなさるんです。青島に似たところで嬉しくもないです」
「接点が見えた。結果オーライとしろ」
「こっちは危ない橋を何度も渡らされて肝が縮んでるんですよ!」
「それほど青島が好きだったんだな」
適当な一倉に新城は溜息を落とす。
この先輩には何を言ったところで無駄足だ。好き勝手やって、こちらを振り回し、時に裏切ることも淡々とやってのける冷酷な一面を供え
キャリアで生き残る裏技を教えてくれた相手である。
勿論キャリアの正攻法を教えてくれた親族代々続く派閥の諸先輩方を新城は理想とする。
だがその分、一倉の露命をつなぐ姿勢には、今は救われる。
「ところでその青島は?今日は姿が見えませんが」
いつも一緒にいるのに今日はいない。
新城が口調を改めて室井に問うと、室井は見ていた資料から顔を上げた。
「自宅に残らせた。こっちの作業はほぼ終わっているからな。私も今日はこれで帰らせてもらうつもりだった」
「そうですね、一人にしない方がいい。また飛び出されても困ります」
新城が特に室井の返答に疑問を持つことなく頷く。
だが隣で一倉が空かさず指を振った。
「甘いぞ新城!何故自宅に残したか?そこまで追及すべきなんだよ!」
「はい?」
「室井、昨日青島が飛び出してから、中野の送迎を断ったそうじゃねぇか?」
室井を取り調べる一倉の目は、もう刑事の目であり、揶揄の色も浮かんでいる。
だからこの先輩は。一倉の意図を察した新城が口を開けてフリーズした。
これだけ追い込まれた状況でそんな悠長なことで遊んでいる場合でも気分でもない事態だが
スタイルを変えない図々しさにはキャリアの好戦的な癖を見る。
「お前はいつもどこからそういう情報を引っ張り出してくるんだ?」
「お前如きが俺ををはぐらかそうなんてのが甘いんだよ。何年の付き合いだと思ってんだ」
「付き合いが長くたってそんなマメになれるか」
「俺の統計上、飛び出した相手を追いかけた後は、盛り上がってベッドインになる確率98%だ」
室井の小言などばっさり切り捨て、一倉は興味津々な眼差しで室井の前に指を突き出した。
言えよという一倉の追及に、室井が心底嫌そうな顔をする。
「どこの統計だ」
「なんだよ、ヤらなかったのか?男が廃るぞ」
「青島みたいなことを言うな」
「むしろ襲われたか!やるなあ青島!だからお前じゃ青島に勝てないんだよ」
「んなッ!」
「そーやってボーッとしてっとこを、バクッと行かれるんだ虚けめ」
「いい加減にしろ」
にじり寄ってくる一倉を突き放し、室井は帰り支度を始めた。
そそくさと退散しようとする背中が、本音の駄々洩れである。
新城まで意味深に口端を持ち上げた。
「まさか何もせずに指咥えていたわけではないでしょう?」
「君まで私を丸裸にしたいか」
「捕られますよ」
「捕られない!摑まえる!だからもう勘弁してくれ!」
「・・・」
「・・・」
四つの目玉は必死な懇願に負けてやるほど律義でも義理堅くもない。
引く気などないだろう好奇を浮かべた二人の顔を交互に見て、室井はようやく観念した。
「抱いた。でもまだ返事は貰ってない」
「だらしねぇ」
「ほっといてくれ」
コートを片手にそそくさと愛しのスウィートホームに帰ろうとする室井の背中には、詰めの甘さと手際の悪さが透けている。
その背中に一倉が追い打ちをかけた。
「きちんと捕まえてないと気付いた時には手遅れになるのが世の常だぜ。人の心だって変わる。一寸の違いも許せねぇ大人になると生き難い」
「もう記憶云々に拘っていない」
「それでいい。分かってんのかね?色んな意味で青島狙ってる奴ぁごろごろいっからな。油断してると捕られちまう」
記憶があるかないかではない。室井にとって大事なのは青島かそれ以外かである。
本庁内で、青島を得た室井が札付きになる一方で成果を上げてくることに、少なからず羨望を抱くキャリアがいることも事実だった。
だが今一倉が言っているのは、そんな神経質なことではなかった。
「益本辺りに捕られるならまだマシってことだ」
「・・・」
公開捜査に踏み切れば、室井と青島の関係もある程度、公になる。
これまで無名だった所轄捜査員Aが、実名報道となる。
「まだ約束を持たない青島をこちらに巻き込むご決心が付きませんか?」
「――・・、記憶がないなら役に立たないとは、君も言わないんだな」
足を止めた室井が、少しの間を置いてから新城の質問に小さく呟く。
新城はそれに言葉で応えることはなかった。それが答えだ。
肩越しに室井が二人に顔を向けた。
一倉の顔は思ったよりも真剣な面差しであり、室井のだらしなさを責めていた。時間がないのだと責めている。
新城も似たような顔だった。
血気盛んな頃は紆余曲折もあったが、ここにいる面子は今、戦友であり同志であり、少なくとも仲間という点に於いて彼らを超える者は他にいない。
誰を頼れるのか、誰を信頼できるのか。
青島だけを原罪の鎖で繋いできた闘いの日々と比べ、片棒を担ぐ彼らが室井に残されたことを知る。
絶望した数か月前、中野に弱音を吐いたことを想起し、室井の表情が幾分ニヒルに和らいだ。
その表情を認め、新城も深入りする。
「所轄捜査員と本庁キャリア組。状況が酷似しています」
本田がどんな気持ちで日野を隠したのか、室井には分からない。
それでもきっと、そこにあるのは同じ葛藤だ。
「逃がしはしない」
犯人なのか、青島なのか。
どちらとも言えぬ宣言は、やはり室井の官僚としての甘さを見透かすもので、残された二人の追及の手を萎えさせた。
だがその振れ幅が、室井の強さでもあった。
「そう来なくちゃな」
一倉が気合いを口にする後ろで、事件の幕が迫っていた。
日野は元々何かに焦っている。
恐らく鈴木が池神の動きや本部の進捗を伝えていて、あの部屋も盗聴されていた。もしかしたら、此処もだ。
しまった。迂闊に色々と話してしまった。
だがこれで、時間がないことは日野にも伝わった。
これは、恐らく本田のためのリベンジマッチだ。
29.
うつ伏せで枕に突っ伏していた青島が、物音にゆっくりと顔を向けた。
前髪が逆立ち、まだ腫れぼったい目で室井に焦点を合わせてくる。
「気が付いたか?」
「なんで・・となりに、いないんだよ・・」
室井の姿が見えないことに不満を漏らす青島の短い髪を室井は柔らかく掻き混ぜた。
昨夜は随分と泣かせてしまった。
詫びるように、腰を折り曲げ、もう完全に自分のモノとなった彼の口唇を奪う。
「ほんの数時間だ。躰は使い物にならないだろうからまだ寝ていろ」
「・・ほんと、ムカツク」
「もう一度襲われたくなかったら、そんなに可愛く拗ねないでくれ」
「抱かないの?」
切り返され、室井は目を見開いた。
枕に沈みながら口端を持ち上げ艶美な笑みを湛えた青島は、昨夜とは違い白い陽光に包まれ、悪戯気に笑う。
あどけない程のその顔に、室井は二の句を次げない。
みすぼらしい下心を見透かされているのは明白で、躰を重ねることで救うつもりが救済を受けたのはむしろこちらであることを、室井自身認めざるを得ない。
もしかしたら、青島は弱音を見せることで室井を吐露させたのかもしれなかった。
「――・・」
結局室井では青島には敵わない。
腰に手を当て、参ったなとこの可愛い小悪魔に室井は諦観の息を吐いた。
その大人びた眼差しは昨日までにはない成熟した柔らかさを見せつけ、青島の頬がちょっとだけ染まる。
覚悟を決め、室井はベッドの端に腰を下ろした。
「厭だったか」
室井の重みでギシリとベッドが撓む。
髪から頬、耳へ、熟れた愛撫を思わせる指先が青島の輪郭を確かめ、潜り込めば、ブランケットから丸みを帯びた肩が露わとなった。
全裸で横たわっている青島の背中に幾重にも情痕が浮かんでいるのが鮮やかに浮かび、昨夜の烈しさと、どれだけ室井が欲しがったのかを物語っていた。
「ヤではない・・かな?」
「そうだな。声、掠れてる」
室井の意趣返しに今度は青島が室井の腹にパンチを繰り出すが、その手首をグッと掴んだ。
指先で青島の腫れた瞼や目尻にそっと触れ、昨夜の濃密な気配を再現させる。
「もっと抵抗されると思った。雰囲気に流されたとしても・・・少しくらい、俺は期待してもいいか?」
枕の奥からじぃっと見上げる薄茶色の瞳は穢れなく、その純潔に晒されることを躊躇うほどだ。
煮え切らない態度が青島を逆に苦しめていた。
言いたいことを言わせず、追い詰めた。
だから逃げては駄目なのだ。
そして、摑まえるなら今だ。
暫く沈黙を作り上げた後、青島は視線を室井から外し、睫毛を震わせた。
焦点はどこにも合っていないように見える。
「・・まあ、ヤっちまえばこっちのもんかと思って」
「!」
返答に困っていると、不自然な沈黙は思いの外、長く続いた。
どう返せばいいのか分からず、茶化すタイミングも逃し、室井は口許をもごもごさせる。
次の瞬間、青島が長い腕をブランケットから伸ばし、室井の手首を掴むと、背を倒し体重を味方にグッと引いた。
倒れ込む形で室井もバランスを崩し、突如の暴挙にそのままベッドに縺れ込む。
優雅な二つの腕が室井の首に回って、二人の身体は折り重なった。
「お、おいッ!」
「じれったいよ、やっぱりあんたのやり方は!」
「あ、青島ッ」
腕で自らの身体を支え、なんとか押しつぶさないように青島の顔を覗き込んだ。
至近距離でその悪戯な瞳が真っすぐに室井を見上げている。
屈託なく笑うその顔は、記憶のものと変わらない。変わったのは、自分の事を覚えていない事だけ。
「ぃ、いきなり何すんだ!」
「その済ましたカオを、崩したいんだよね!」
つい感情的になってしまった室井に、嬉しそうにも楽しそうにも瞳を煌めかせ、青島も言い返してくる。
「君はいつも茶化してばかりだ。俺を揶揄うのはそんなに面白いのか?」
「あんただって俺んこと、交わしてばっかだ」
「突っ走って良かったのか!?」
「俺が欲しくないの!?」
脆い癖に、強い。
今だって崩れてしまいそうな不安と恐怖を抱えているだろうに、こうして彼は笑うのだ。
この強さを眩しさが欲しいと理屈じゃなく室井に衝動が走る。
勝てない。敵わない。
「君を巻き込むから躊躇うんだ。死ぬときは一緒だとでも言わせたいか」
「言わせたいね」
そんな室井の気も知らず、青島は呑気に室井に構って貰えて嬉しいと、全身で表していた。
自分の目の前で揺れる室井のネクタイを引っ張り、揺する。
「なんでスーツ?」
「昨日の仕事を片付けに行っていた」
「昨日、俺が行っちゃうと思って、あんなに焦ってたの?」
「・・そうだ」
「俺が消えたら、ヤだ?」
無邪気に懐いてくる青島に、室井はまっすぐに見つめ、素直な心を感じ取る。
従犯に悩んだ険阻の顔で見下ろす室井に、むぅと青島も頬を膨らませ、今ははっきりとした感情を晒してくる。
白い光に透けて、情痕が散った肌は華のように溶け、室井はそのまま敬虔な口付けを与えた。
しっとりと吸い上げ、煩い口を塞ぐと、室井は瞼を伏せる。
「泣かせて、本音を晒してやりたかった。でも暴かれたのはこちらで、当てが外れたな。君の狙い通りだ」
ふふと空気を和らげる動きで青島の息が頬を掠めるのが分かる。
躊躇うような指先が、そっと室井の頬に触れ、愛おし気に辿り、それは無意識だったらしく、室井と目が合うと
急に照れたように手を離した。
室井はその手を堰き止め、指先にキスを捧げる。
「こんな時、どう告げれば良いんだろうな・・。俺が愛した男が遺してくれた形見なのだと思った。俺が寂しがらないように授けてくれた贈り物だと」
「そんなこと言ってたね」
「だからなのか?絆のない出会いをしても俺は君に惹かれる。それはどう抗っても変わらなかった」
室井の中枢に残された圧倒的な記憶が、物理的な重さと息苦しさを持って室井に青島を覚えさせる。
簡単に引けるくらいなら、こんなに悩まない。
重ねられた体温、滑らかな肌の感触、しなやかですらりとした手足、記憶に裏打ちされた実体は抗えぬ破壊力を持って喉元までせり上がり
それは昂揚感に近かった。
「今のおまえがたまらなく愛しい。こんなに大切にしたいと思う気持ちを簡単な言葉なんかじゃ表せなくなった」
青島に相応しい彼氏になりたいのなら、照れもリスクもぶっ飛ばしてがむしゃらに行けと本能が命ずる。
これを恋と呼んでいいのかすらも、曖昧な境目となり、もう良く解からなかった。
「腹正しいほど、惹かれている。君にここに居て欲しい。頼む。俺と一緒に生きてくれ」
捧げる相手に告げるには、相手の上で四つん這いという格好はあまりに不格好ではあったが、今の室井に周りは見えていない。
謹厳で無口な男が語る睦言は、高雅な響きを持って白いシーツをヴェールに変えた。
緊張で硬くなった肩も、晒された細長い首筋も、きつく噛み締められた首筋も、シーツからはみ出た無防備な肢体も
どれもが誘惑的に室井を虜にしてくる。
誘われるまま原罪に堕ちても悔いはないとすら白状させられるまで、囚われる。
室井が感じている様々な激情や焦燥とは相容れぬものだとしても、青島との距離を完全にゼロにしたいという非現実的な渇望すら、覚えていた。
その妄執的な情火に触れた青島は、やがて、若干視線を彷徨わせた後、小首を傾げ上目遣いで探る。
「なんて答えればいい?」
「それを、俺が決めていいのか?」
「いいよ」
室井の喉が酷く干乾びている。
「なら、傍にいると。ひとことでいい」
余りに率直な言葉に青島が微苦笑するのとは対称的に、ようやく発せられた室井の言葉は呻くように低かった。
「そやって、俺んこと、落としたんだ?」
「上手になんか、口説けなかった。昔も今も」
室井と青島が出会ったのはもう10年も昔になるのに、それは室井の中だけに鮮やかに残される。
遥か遠くなったその日を回想するかのように室井の漆黒が柔らかく揺れ、青島が少し身を起こした。
室井もようやく四つん這いのまま覆い被さっていた態勢に気付き、すまん、と一言呟いて身体を戻す。
ポンポンと青島がベッドを叩くので、隣に来いというのが分かった。
「迷った?」
「何について?」
ネクタイを解き、室井は青島の髪を軽く掻き混ぜると、ベッドに腰掛けた。背後で青島も背中合わせにちょこんと座る。
甘えるように背中に背中を凭れてくる彼の手を握り返し、室井もまた青島に少し体重を預けた。
行為の後、室井が清めた躰からはいつもの石鹸の匂いがしてくる。
「だからさ・・キャリアとか、捨てたんでしょ?」
「捨てていない。俺たちはな、二人で組織と戦うライバルみたいなものだった」
「それが室井さんの恋人の定義?」
「そうではないが」
「じゃ、どやってえっちぃ関係になるの?どこからが恋人だよ?」
「そう聞かれると、確かに明確な境目はないかもしれない」
「何やってんだよ~ぅ」
だらしないと、本人にまで責められるのは、どこか切なく、もどかしい。
ぶつかり、決裂し、対立した。その過程でお互い糸を辿るように共鳴した。それが愛へと変わるまで。その愛が実るまで。
お互いの目許に湧く焦燥に、同じ色を見つけるまで。
決して取り戻せない時間の歪みに、必死に抗う胸の痛みを悟られないように、室井は静かに語る。
「用意していた言葉なんか、何も言ってやれなかったな・・」
「うん、そんなかんじ」
「気付いてもらえなくて、逃げられて、避けられて。向こうも同じ気持ちでいるのだと、もしやと気付いた後に、一気に攻め込んだ」
「きのーみたいに?」
二人の馴れ初めを、青島に向かって話す不可思議な語り草は、あの頃と同じ冬の匂いに包まれていて
繰り返す時の導きに変えられるものなどそう多くないことを今更ながらに自覚しながら、自白する。
それは贖罪であり供養であるのかもしれない。
「逃がすわけにはいかなかったからな」
「俺、なんて言った?」
「そこも、知りたいか?」
キャリアにとって、厄介なことで、面倒でもあり、それは青島にとっても罪に堕ちる覚悟が必要なギリギリの決断だった。
その中で向き合って、そこで室井が見つけたものが何だったのか。
身の内から騒ぐ最後の警告すら届かぬ、慨嘆の果ての決断と覚悟を今の青島は知らない。
「相手は俺なんでしょ?なんかモンダイ?」
「俺が今、口説いているのは、おまえだぞ」
鼻先をちょんと指で突くと、青島は薄らと笑む。
長い足を片方立て、膝に腕を投げ出す青島の姿態はそれだけで嫋やかで、男を淫らに誘う娼婦のようである。
そのくせどこか純潔を残す今の青島は、陽の光に晒されたシーツの上で妍冶な肌が節の立つ骨格の陰影を刻み
乱れた髪に昨夜の名残を見せ付けながら、室井の頬をぶにぃと引っ張った。
だから、この幼さがヤバイのだ。
仕方ないなと肩で息を落とし、室井は正面を見据えた。
しかし青島の指先に五指を絡め、しっかりと握る。
「はじまりは喧嘩だった」
「騙し合いに落とし合いだって聞いた」
「何度も衝突する度に、心に刻み付けられた。烙印のような痛みだ。君の方はどうか知らないが」
「聞いたことないんだ?」
「ないな。眩しかった。友人でも同僚でもない、曖昧な関係が続いて、そんな時、仕事がお互い重なってしまって音信不通となったことがあって」
「刑事あるある?」
「もう限界だと思って官舎に誘ったんだ」
「いきなり連れ込んだの!?」
「分かるか?勝負所は逃げ場を断つのがセオリーだ。でも敏い君のことだから俺の気持ちなんてとっくに見透かしてて、それでも誘いに乗ってくれたんだろうな」
「官僚ってサイテー。ついでにそれ、狡くない?」
「ない」
「ヨユーない男ってダメンズの典型じゃね?」
「そういうことを臆面もなく言っちゃう男がいるからこっちの腰が引けるんだ」
青島との付き合いを青島に駄目出しされる。
握った手を軽く振り、君のせいだと室井が口唇を尖らせる。
「誰かに捕られるくらいならさっさと落としたかった。その想いが先走り過ぎて、でも失敗した」
「なにしたの」
「先にキスしてしまったんだ。後はなし崩しだ」
なんか今とやってること変わらなくない?と婀娜な横目で顎を上げる青島を引き寄せ、耳にキスを贈る。
見つめ合う至近距離で、湿った息遣いに蕩けるように、青島もまた啄むように室井の口唇をそっと掠めた。
「いつ、すきって言ったの?」
「言ったかな・・」
「ええ?俺は?」
吐息で交わす言葉が優しくて、温かくて、触れる傍から溶けて。
「・・・言ったこと、ないの?」
「ああ」
「ふーん」
「・・・・」
「ま、言えるか、・・・とも思いますけどね」
髪を掻き揚げ、額にキスを与え、指先で愛を綴る。
「いっつもあんなえっち、シてた・・?」
「あんなとは?」
「俺をいたぶって・・縋らせて・・イジメて・・コーフンしてたカオ、サイコーにそそられたんだけど」
「むしろ君の方が俺の上で搾り取ってくる」
「げ/////」
ここで赤面するところが記憶の青島にはない初心さであり、幼さである。その控えめな華やぎは室井を癒す。
固まった口唇を舐め上げながら室井は囁いた。
「夜のパートナーとしても申し分なかった。いずれ、今の君もそうなる」
「オトコに手慣れてんだね。キャリアってみんなそう?俺、何人め?」
「君が初めてだ」
「ぇ、え?ほんとに?俺、嫉妬しちゃってたのに」
「・・どこでそう思う」
「やたら器用な指先とかさ。サイズとテクにやられたと言っても過言じゃないのに」
「・・・」
頻りに唸り、二度目のロストヴァージンに斜め上の感想を漏らす青島に、その技巧を研究させたのはおまえだぞとは言い出せず
室井は賢明に閉口した。
勘違いをしたまま室井の背中から両手を回し、青島が室井の顔を覗き込んでくる。
「室井さん、かーわいー。俺が室井さんのハジメテ奪っちゃったのね~」
「1本や2本、見たことあるだろう」
「握らされるシチュってあんの?」
「・・・」
昨夜、誰に昂奮しているのかを分からせるために、反り立った自身を青島に握らせ、この肉で貫いてやるのだと煽った。
その時の脅えたような怯んだ顔は、雄を劣情するには充分であって、久しぶりに触れられた楔が赤黒く脈打って疼いたことを思い出す。
ジロリと肩越しに横目を向ければ、ただの頬杖が絵になる男に勝てる気はしなくなる。
「今はどうだ?また男にあんなことされて、受け入れられたか?」
「ん~、まあ、丁度いいや。男好きってことにしとけば周りもある程度静かになりそー」
「それはないと思うぞ」
青島が本庁に出向くようになってから、女性職員の噂話は連日花が咲いている。
湾岸署に居た頃から他部署での噂は堪えないと風の噂でも聞き及んでいた。
記憶を失ったらしいということも漏れ伝えられていたが、そもそも記憶云々は、彼女たちには関係ないらしい。
尤もその大半が、合コンという名の室井にはあまり馴染みのない婚活イベントらしいが。
「俺がほんとにあんた落としたの?俺すげぇ」
「ちょろいだろう?」
「難易度高すぎだって」
「こんなに追いかけさせられているのにか」
不意に声を上げて青島が笑い、スッと室井から離れた。
肩から回っていた腕が残像のように視界の端から消え、フッと軽くなった重みと、隙間に入り込む冷気に急に興味を失われたような、取り残された背中が寂しくさえ感じる。
「じゃあさ!ずっと追いかけて来いよ!俺んこと!」
青島がブランケットを羽根のように揺らし、両手を広げてふわりと飛んだ。
片腕を付いて振り返り、深い紺のブランケットが海のように波打ち。
透けそうだと思ったのか、冷気に不安を煽られたのか、室井は徐に腕を回し、青島を正面から摑まえる。
腰から引き落とした。
小さく悲鳴を上げ、膝元に転がり込んできた青島を抱き留め、力任せに胸に抱く。
背後で、ふわりと、青島を包んでいたブランケットが半分落ち、典雅な肢体が陽光の元にその美しさを晒し、室井の腕の中にあった。
記憶の青島なら言うことはなかっただろう。
でもそうやって大人びたふりをして、手に入れたものは何だったのか。
きっとこれが、今も昔も青島の本心だ。
室井の後頭部に手を回す青島の誘いに抗わず、クイッと引き寄せられたまま、室井は口唇を与える。
しっとりと重ねた肉を擦り合わせるだけで、室井の胸は震えていた。
腰を強く引き寄せすぎたために青島の身体は不安定な態勢となり、それを支えるために優雅に室井の首に腕を回してくる。
膝立ちでベッドの上でお互いに抱き締め合いながら、昨夜と違わぬ濃密な口付けを交わした。
シャツ一枚の室井には全裸の青島の温もりが直に伝わり、温かい。
「もぉぉ、止めろって」
甘い舌を吸い上げながら、青島の髪を掻き混ぜていると、青島が嬉しそうに首を振る。
「チクチクして、今迄と違う感触が心地良いんだ」
「自分だってイガグリじゃん」
「額の傷は、ほとんど消えそうだな」
「・・うん」
「だいぶ伸びたなぁ」
「・・あとちょっとだけですよ」
そう言って首を大きく反らし、持ち上げた顎が綺麗な流線を描き赤子のように室井に全身を委ねてしまう。
荒々しくもないが成熟した男の仕草で、室井が抱き留め、青島の口唇をしっかりと塞いだ。
何度も重ねる度に密度を増す動きに、吐息は甘く、それでも欲しがる室井の貪欲さが、青島の身体を徐々に後ろに反らせていく。
膝を脚の間に入れ、更に引き寄せれば、青島は完全に室井に縋り、シルエットが完全に重なり合った。
「俺が室井さんの未来、止めちゃった」
「俺は、おまえから与えて貰った・・。それこそ、たくさんのことを惜しみなく。今もこうしておまえを俺に捧げてくれた。こんな、俺なんかのこんな半年くらいの時間、全然足りない」
もともと出自も違い、とくに共通利益も持たない二人が、刑事として出会って信念のために長年苦楽を共にした。
あんな事件がなければ、今も傍で支え合っていた。
時は巡り、それでも引き寄せた絆が、違和感に違うと咆哮しながら共鳴を呼ぶ。
「どうしてあんたはそうやって俺の決心を簡単に鈍らせるんだろう」
「決心なんかさせるか」
不意に居心地が悪くなるまま、身動きを封じされているわけでもないのに抜け出せない隙の無さに、青島が息を呑んだ。
ふにゃりと顔が歪み、溢れる感情に任せて青島が吐息のような声を掠れさせる。
「あんたの法螺話、聞くの好きって言ったじゃん。あれ、は、ホントウ、だよ」
何時から、と問われてもおそらく最初からだったと答えるしかない。
初めて観たあの強烈な瞳に、きっと室井は陥落してしまっていた。
「君に会う免罪符がないと思った。君を信じられなくなったわけじゃなくて、解放してやるチャンスが来たのだと」
「手ェ出しといて言う台詞じゃないね」
「怖かったんだ。君がいない時間を一人で耐え抜けるのか、君がいなくてこの先を戦えるのか。だったら俺も忘れさせてほしいと」
室井の指先が澱みなく青島の髪を掻き混ぜ、骨格を確かめ、肩を滑り、背中を辿り、抱き留める腕に力が籠る。
「忘れられた?」
「君は意地悪だ。忘れさせてもくれない、逃げさせてもくれない、追いかけさせる」
弛みなく、毅然として語る室井の言葉には無駄がなく、清書されたもののように研ぎ澄まされ
官僚としての品格を青島に知らしめた。
同時にどれだけ室井がこの言葉を青島に告げるまで苦悶したかを想像させた。
「随分と悪足掻きをした。だが、記憶を奪われたところで俺の気持ちがどうこうなるものじゃないってことくらい、分かっていたことだった」
室井が青島の顔を上げさせる。
覗き込むその瞳は揺れている。
「運命なんて、今なら信じられる」
複雑な色を湛えた室井の漆黒が、もう下りることを許さないと告げていた。
「俺はあんたと思い出を語ることが出来ない」
「・・・」
「記憶が戻ったら、この気持ちも消えちゃう・・?」
二人を繋ぐものが一件強固な絆に見えて、か細く頼りない一本の糸のようなものだったと知った時、二度とこのような時間を得ることはないのだと思った。
同時に、壊れやすいことももう知っている。
だから青島の気持ちはそのまま室井の気持ちだった。
室井が青島の頬にキスをする。
「君を好きになって良かった」
「戻りたい。でも、戻りたくない」
「おまえの弱音、初めて聞く」
「あんたこそ。愛したこと、後悔したことあった・・・・?」
未来という当たり前の時間に怖がる青島が可愛くて、愛の芳情に惑う自分とシンクロする。
室井が大人の雄の成熟さで目を眇め、耳元に口唇を押し付け、室井の方こそ降参したようにそっと愛の言葉を囁いた。
「人生最大の痛恨事だとでも言って欲しいか?」
「思い出して欲しい?」
「――捨てて欲しいか?」
今なら聞ける。スラリと出た言葉は思ったよりも重力を持たず、青島に沁み込んでいく。
消えてしまうことを怖がる青島と、失うことを怖れる室井の思いが重なって。
「もし、俺の記憶が戻らなかったら、」
その先の台詞を室井が奪う。
「その時は、もう一度、始めよう」
「また忘れても」
「出会いから始めよう」
「・・・あんたって、顔に似合わずしぶとい・・」
「顔は余計だ」
何の計算も駆け引きもなく、湧き上がる想いだけを形にした言葉は、温度も持たない大気に溶けていくようだった。
声が震えそうになる。掴んだ指先も覚束ない。
不意にぎゅっと青島が何かに堪えるように目を瞑り、呻くように声を絞り出した。
「あの・・ね、俺、・・」
「言わなくていい。分かっているから」
「・・・ッコ良すぎだろ。そんなとこに参ったんだろうな」
じっと室井を見つめてくる青島を、室井も反らさず見つめ返せば
季節が変わるように、そこに明確な境目などなくて、移ろいゆく。
青島がゆっくりと瞼を落とし、顎を持ち上げた。
そこに、室井が顔を傾け、貴族的な動きで近づいた。
