公文書Code3-2-8 012










24.
令状請求までは経緯報告していたが、以後目立った進展もなく足が遠のいていた矢先、室井は池神に呼び出された。
上役だけに与えられる上層階特有のバロック様式の前で、室井は襟を正す。

「失礼します」

一際大きな木目調のテーブルに座る池神がくるりと椅子を回転させて顎をしゃくった。
室井が深々と頭を下げると、挨拶もせず池神は開口一番こう言った。

「そろそろ成果が欲しい。君が警察にとって限りなく重要なのだと私に証明しろ」

顎肘で脂ぎった顔を向ける池神は、狙った獲物を逃さぬ目付きで室井に答えを促した。
ここに直接足を踏み入れたのは、この捜査に呼び戻された時以来だ。
なんら変わらない椅子や戸棚の配置に、時の停止を見る。

「現在捜査員総出で証拠品を洗っている段階です。まだ新たな発見には至っていません。本田宅には、」
「コソコソと他にも動いているらしいじゃないか」
「――、何のことでしょうか」

バレていたのか。しかし無理もなかった。
核心を持つ情報は警察内部にしかなく、この件は警察の汚職事件から発生したものであり、中枢を突くことを避けられない。
新城もかなり危ない橋を渡ったと言っていた。
室井の顔が一瞬だけ強張るが、池神には悟らせない動きで引き結ばれ、確実な証言が池神の口から出るまで白を切る。

「本田はキャリア警察官僚では珍しい九大出身。真面目で責任感が強く、庁内でも信頼は厚かった。そして、」
「それで誤魔化しているつもりか。本田の他に、誰まで掴めたかと聞いたんだ」

成程、それが池神の狙いか。室井もまた見え透いた駆け引きに唸る。
複数の人間が関わっている事実を、池神の質問は示唆していた。
つまり池神は最初から単独犯だと思っていないのだ。脅迫状の主すら本田ではなく、本田がそうする筈がないと
何かに因って確信している。
恐らく、トカゲの尻尾を切ったはいいが、その先を取り逃がしてしまった。
無論、室井から情報を得るのと同時に、室井らがどこまで首を突っ込んでいるか、見張る役目も含んでいる。

「脅迫状は本田本人の意思を反映させたものでした。捜査員誘拐の実行犯に絡んでいます。ただ協力者は浮かんできません」
「それだけか?」

ねめつける池神の視線は蛇のように纏わりつき、室井も同じ穴の狢だと強迫する。

「先程も申し上げた通り、確証となるようなものがまだ出てきておりません。ただ、本田の周りではここ数カ月で、企業の重役や富豪が不審死しています」

敢えて一倉が引っ張り上げたマツダの名を伏せ、室井はカマをかける。

「君はその偶然の一致で警察の貞操を貶めたいと」
「ですが重なり過ぎています」
「戻って三カ月か?すっかり管理職面になったじゃないか」
「――恐れ入ります」

やはりはぐらかされた。

「全てに事件性はないと報告されています」
「だったら蒸し返すことはない」
「ですが見過ごすことは危険です。4月には天然ガス大手前社長の妻子の遺体が別荘で発見。
 同月、石油大手ガス傘下の金融機関前副社長と妻が自宅マンション前で事故死。
 5月には厚労省の役員が心不全で」
「もういい」

不機嫌を露わに池神が椅子を鳴らして横を向く。
のらりくらりと情報を並べてみせれば、池神に焦りが見えた。

「面倒なことは嫌いそうに思えたがね。そうでもないか、君は昔から何かと雁字搦めになるのが好きだったね」

室井は先程から漂う違和感に俄かに眉間を寄せた。
室井に与えられた任務はあくまでも、警察を脅迫してくる人物の逮捕だが、越権した汚れ仕事まで背負わされているのであれば
多少の無茶は可愛げあるというものだ。
だが、一体俺たちは何をやらされているんだ?
池神の口ぶりは本田に有利に働く情報は欲しがっていない。
ついでに、池神もまたシロだ。彼が直接制裁を下したわけではない。
自らの手を汚していたらもっと露骨に室井の口を封じるだろう。そもそも池神がその椅子の座り心地を手放すとも思えなかった。

「今度こそ、上に残りたいんだろう?」
「はい」

裏が読めない室井の警戒を見透かす駆け引きを、池神が断ち切った。
トントンと苛立ちを表す池神の指先が、時限爆弾のように聞こえる。

「救出された刑事、名はなんと言ったか」
「彼が何か」
「記憶がないというのは、本当かね?」
「どういう意味でしょうか」
「何か見たのではないかとの声も上がっていてね。私も黙らすのに苦労している。本当に何も聞いていないのか?」
「・・聞いておりません」

何故今ここで青島の話題を出すのか、室井の背筋にも冷たいものが走る。
もしかして本当に聞き出したいのは。

「信頼されていないのか。聴取の仕方も知らないのか」

肩を揺すって嘲笑う池神の背中が大きく撓んだ。
そのまま振り返り、池神はテーブルを越えて室井の前まで近づいてくる。
徐に手が伸び、池神が引き千切れるほどの力で室井のネクタイを引っ張り上げた。
キリキリと布が軋む。

「君のお気に入りなんだろう?大事にしているようじゃないか」
「捜査に個人的なことは持ち込んでおりません」
「紳士的な発言だ。恋人を奪われた惨めな男の悪足掻き、二度もか?実に見苦しい。彼の前でどんな面を出せたのか。私なら無理だ」

至近距離で室井と池神が視線を交わした。
池神が声を落とし、睥睨する。
室井のタイピンが力に負けてカーペットに落下した。

「ソイツを連れて来い。私が直に取り調べる」
「止めてください。本当に彼は」
「何かを見ている。何かを知っている。記憶を失っているなど合理性のないものを警察官が信じるな」

息が苦しくなるほど締め上げられ、室井の青白い顔が徐々に赤らんでいく。
室井の罪科を知りながら、その後ろ暗さに付け込んで、池神が責め立てた。

「叩かれて埃が出る分際で飛ばされたくせに、未だ懲りないか」

室井が池神も疑っていることまで読まれている。
池神の中にある焦りが伝染し、室井の中にも焦りが走った。

「東京に戻るのは、この件を手土産にしてからだ。その時までに今度こそ身辺を綺麗にしておけ」

池神が焦る理由は、こちらが不用意な核心に迫ることだ。
青島に記憶がないことも、裏で一倉や新城が動いていることもバレているのなら
時間がない。
この事件は本田が全ての責任を取って辞職ということで片が付いている事件だった。
そのために必要なのは、寝返った連中の一掃。
つまり後は本田の口を封じるだけで、終わる。

「最初に、警察にとってお前がどれだけ重要な人間になれるか証明しろと言った筈だ。がっかりさせるな室井。身体を使ってでも吐かせろ」
「・・ク・・ッ」
「それが出来なければその役目を私がやってやろうと提案しているだけだ」

池神が力を抜き、解放させると同時に室井の肩を強く掃き捨てた。
反動で室井が少し後ろに下がり、荒く息を吐く。

「なに、あの顔ならこっちだってまだまだ現役でイケるさ。楽しみだよ」









25.
執務室を出たタイミングで、室井のスマホが震動した。
うんざりとしながら、頭を切り替え、画面を見る。
目を見開いた。

『室井です』
『・・ぁ、俺・・』
『今どこだ?』

室井が本部を離れるまで青島は今日も顔認証システムと格闘していた筈だ。
だが今明らかに外の音がする。

『・・あのさ・・』
『どうした』
『あのさ、いま、誰かに付けられてる・・!たぶん、同じ人。ねぇ、追いかけていい?ってか、俺、追いかけるよ!』
『――!ちょっと待て、危険だ、下がれ!』
『でも・・』

明らかに切羽詰まった青島の声に、室井の手も汗ばんだ。
このタイミングで?何故だ?偶然にしては背筋を凍らせるようなタイミングの悪さだ。

『益本は一緒か』
『んん、今日は・・いない。一課で頼まれたことがあるって・・言ってた』

スマホは目の前の国道の走行音を同時に拾い上げ、酷く聞きづらい。
室井は場所を移動しながら、口早に訴える。

『俺たちの行動が筒抜けになっている可能性がある、罠かもしれない。今は一旦引き返せ!』
『あんたらケーサツはそれでいいんじゃない?』
『君が危険なんだ!』
『・・上に。行くんだろ・・?』
『ああ、行ってやる!そこからの景色、おまえに見せてやる!だから今は戻って来い!』

トラックのボイスアラームが、室井の願いも虚しく青島の声を時折遮った。
せめて場所を探るため、室井はスマホを耳に押し当てる。

『今どこだ!』
『あんたの法螺話、・・聞いてるの俺、割と好きだったよ。・・これ、前の記憶かなぁ・・』
『青島ッ!』
『悠長なこと、やっぱ性に合わないんで!』
『おい!』

通話は切れた。
室井は蒼白となり、走り出す。
何をしでかすか分からない、それよりも。
また、彼が消えてしまう。

「冗談じゃない・・!」

その時またスマホが震動する。

『室井さん!今、下で青島が飛び出して行きましたよ!』
『新城、本田の命が危ない、消されるぞ!』
『はい?!』
『多分、居所が掴めなくて俺たちに捜索をかけさせた。越権捜査を黙認していた可能性がある!』
『――、緊急配備の準備しておきます。ですが、我々ですら足取りが掴めていないんです。そう簡単に手を出せるとも思えない』
『この情報が本田の耳に入れば本田だって時間がないことくらい分かる。先手を打ってくるかもしれない。危険だ』
『ようやく動きますか・・なら貴方のやんちゃ坊主も早く捕まえておいてください。左のコンビニです』

新城の“捕まえる”とは、具体的に何を意図していたのか。
真意も掴めぬまま、室井はエレベーターのボタンを連打した。焦れて、最後に拳で叩きつけ、舌打ちをする。
脳裏に浮かぶのは、秋の雨。暗いゴミ捨て場。打たれて横たわるモスグリーンの塊。

「クソッ、そんなことあるわけ・・!」

何で今そんなこと色々思い出してくるんだ。
外はまた、雨が降り出しそうだった。
















26.
「青島ッ!」

駆け寄った勢いのまま、室井は青島の腕を引き寄せた。

「よかった・・!!」

このまま消えてしまったらどうしようかと思った、足元が崩れるような恐怖と安堵が室井の胃の中で入り乱れている。
決断の瞬間に、ほんの少しでも室井のことを過ぎらせてくれたのだとしたら、その奇跡には多大なる感謝を奉げたい。
力任せの勢いに雪崩れ込む青島を、しかと受け止め、ぐしゃぐしゃの青島の後頭部を己が肩に押し当てる。

「よく連絡をくれた」

手の平いっぱいに感じる生の青島の感触、体温、マスカットの香り。確かに彼がここにいる息吹を感じ取った。
言葉なんて何も出てこず、室井は息を殺し、目を瞑る。

偶然の一致にこじ付けて警察の貞操を貶めたいのかと罵っていた池神の高笑いが耳の奥で残響していた。
青島が室井を思い出したことも、こうして室井が青島を見つけられたことも
目の前で起きていることが全て偶然だとしたら、そこに幾ら理由を探そうとも、いつまで経っても真相には辿り着けない。
運命という言葉一つで片付けるのは簡単だが、これを室井を試すゲームなんかにしてたまるかという気分だった。

「く、苦しぃ、よ」

力の限りに抱き締めていたことに気付き、室井はハッとして少し腕を緩める。
夜とはいえ、街中で堂々と抱き締めてしまった。職務中だ。
夜目にも分かるほど室井眉間が深まり、微かにその頬も朱く染まる。
官僚たるもの、何時如何なる時でも冷静さを失ってはいけない――指令だ。

「す、すまない、つい」
「ぃ、いぃえ・・」

揃って俯いて、向き合って立ったまま、次の言葉を譲り合う隙間に12月の凍えた風が二人の背中を叩いた。
青島は左に視線を投げ、室井は逆を向く。
だが左手はまだ青島の腕をしかと掴んだままでいた。
その指先が持つ飢餓を訴えるほどの執着を、隠すことは困難だった。
日常という当たり前に目の前にあった空気が突如消失する恐怖は、どうやら何時になっても慣れるものではないらしい。
横目でそんな室井の顔色を探っていた青島の顔が、不思議そうな眼差しに変わった。

「なんで、あんた、そんな必死なの」

強かな下心を見透かされた気がして、室井は目を瞑る。

「君がこれ以上傷つくようなことは、させたくない。それだけだ」

ぶっきら棒に吐き捨て、室井もようやく指先を離し、スーツの襟を整え直した。
鞄も持たず、コートも袖を通しただけの着崩した様相に、常の気高さはなく、室井の慌てぶりが透けている。
撫で上げた額にはこの寒空の下、薄らと汗が浮いていた。

「それに、俺を巻き込めと言ったろう。君に後れを取りたくはない」

対抗意識を乗せた口ぶりは、体裁を繕い直したような声音になったが、その言葉はどこかかつての二人を思わせた。
宙に浮いたその言葉を咀嚼するように、青島が間を取るぎこちなさは、急速に室井の頭を冷やしていく。
青島の顔が、困ったように反らされた。

「見失った!信号と・・ラッシュで、もう追えなかった・・!」

呻るように吐き出された言葉は白い息となって、上空へと霞む。
公園の手前ではクリスマスシーズンを控えた街並みが夜を飾り、人通りは多く、黒々とした群れが蠢く景色は、二人が立つ場所とは対照的だ。
誰もいなくなった公園。曇天の空は低く垂れ込め、鬱蒼とした闇の圧迫感に閉じ込める。
広場に点る白くぼやけた人工的な明かりと、耳馴染みの良い彼の声に入り混じった 戸惑いの色。
青島の声は凍える風の中、凛と震えていた。

「そうか」

深追いさせることよりも、青島の身の安全が確保できたことが室井にも、本田に対しても、価値がある。
青島の背後で、信号が点滅する。

「明日、周辺の防犯カメラを当たらせる」
「じゃなくて!」
「・・どうした」

夜の大気に透けそうな脆さと苛立ちを悟らせる青島に、何かあったと室井は神経を研ぎ澄ます。
記憶の青島なら巧妙に隠すことが出来ただろうに
こうして時折、幼い青島は、室井の記憶の彼より感情の若さと瑞々しさを手に余らせてしまい、どこか脆く思わせる。
じっと見ていると、視線を彷徨わせ、横を向いてしまった。

怪我はしていないようだ。室井が贈ったダークスーツ。さわさわと夜風に流れる斬髪が逆立っている。
コートもマフラーもなく、ジャケット一つ引っ掛けた姿は、今しがた直に感じた筈の温度すら嗅ぎ取らせない。
本当に、コンビニに寄るくらいの気軽さで外に出た後、鉢合わせたのだろうと思えた。

だが何かが室井の心に波紋を投げかける。
青島の言葉には続きがあるようなのに、幾ら待ってもそれ以上はなかった。

「・・穴、開いちゃったらどうしてくれんの」

唐突に青島が言ったことを室井は咄嗟に理解出来なかった。
そして、暫し沈黙の逡巡の間に、答えはとうに通り過ぎていたらしい。

「自覚ナシ・・ってね。俺にどうしろって」

歪んだ微笑みを茶目っ気に隠し、青島が何か誤魔化そうとしていることだけは室井に伝わった。
真実を渡したくない気持ちの表れか、青島が室井から僅か身体をズラす。
その横顔は今しがた見せた嘘の笑みすら取り損ねていた。
室井は首を傾げ、口の中で呟く。

「無事なら良い。帰ろう」
「よくない!!」
「?」

今度は何か怒らせたようだ。
口唇を突き出し、流石に分からんという顎を反らす室井の前で、青島が電灯に透けていた。
公園は不気味なほど、鎮まりかえっている。

「俺が憎いってサ」
「・・話せたのか?」

主語を抜いた説明と、余計なことを考えていたせいで、室井の反応が一瞬遅れた。
接触したとは思わなかった。
本田は青島を取り戻そうとしているのか?連れ去ろうとして記憶のない青島に抵抗されたか。
それとも何か伝えたいことがあるのか?それでもこのタイミングで接触するリスクは大きい。
――また、タイミング、だ。

ただ、本田は焦っているのだろうと思った。まさかあの執務室が盗聴されている?
室井は黙ったまま青島を見据え、青島が話そうとしていることに耳を傾けた。

「すごく辛そうだった。でも俺のせいだって言ってた・・!俺、何したの?ホントは俺、何かしたんじゃないの?」
「君は何もしていない、本当だ」
「じゃあ“約束”ってなに?結局お前たちの約束のせいなんだって!」
「・・君が気にすることでは」
「それは何?あんたの愛情のつもり?」

何故ここで本田が俺たちの仲について口を挟むのか解からなかった。
元々交流の無かった男が、伝え聞いた室井と青島の仲を知った所で、何だというのだ。
青島の顔はどこか泣き出しそうに歪んでいた。
今、迂闊なことを口にすれば青島は確実に本田に同情し走り出してしまう。
本田に危険が迫っている現状で、これ以上この幼い青島を巻き込めず、室井は次の言葉を躊躇った。

「それとも、記憶失った俺を哀れんでんの?」

妙に口籠った室井に、空気が微妙になる。

「捜査に個人的感情は持ち込んでいない」
「だったらあの人は何で俺を狙うの?」
「だからそれは――!」

一方通行のやり取りは、どこか核心を避けている。お互いに。
互いに思うところや含むところが解かれた筈の今になってもまだそれを言うか。
駄々をこねるような子供の姿に、室井は大きく息を吸った。
それが呆れと誤解され、刹那、一歩、青島が室井から下がり、両方の拳を街灯の明るさに分かるほど強く握り締めた。
朱い下唇を噛み、白く浮かび上がるその面差しが、凛と刺してくる。

「俺がやってることが誰かを傷つけるんなら、俺はあんたの味方じゃいられない」
「青島、」
「来んなっ」

室井が一歩踏み出したと同時に弾かれた。
青島だ――場違いにも室井の脳裏はそんなことを考える。
勘の良さも、反射神経も、比ではない。本気でかからなければ室井でも敵わない。

「追うことが、怖くなったか」
「怖いよ!最初から!」

半ば叫ぶように言い返され、室井は息を呑む。

青島が遺した幼い青島は、いつもどこか飄々としていて、陽気で天邪鬼で、室井に対して全力でぶつかってくることはなかった。
なのに今、感情が剥き出しとなって、核心に触れられることに脅え、無防備に立っている。
懐かしかった。嬉しさもあった。同時に、二人の間に隔たる時の長さが、重たく圧し掛かった。
人情に走りがちな幼い彼と一緒になって感情的になるわけには、いかない。
闇に溶け込み、殺気立ち、毛を逆立てている野生動物のような青島へ、室井は感情を乗せぬ漆黒を向けた。

「人を疑い、追い詰め、傷つける仕事は、こちらがやる。それが刑事の務めだ」

その答えは、恐らく青島の望むものではなくて、期待を裏切られた青島がどう寂寥感に包まれるかを分かった上で
室井はそれだけを口にした。

「なんだそれ。困っているひと、見捨てんの?」

刑事でなくなっても似たような台詞を吐く青島に、室井はそれでも真摯な面差しを反らさなかった。
青島は被害者心情に引き摺られやすく、直接話したことで感情移入した部分もあるだろう。
悪いことではないが、そこら辺の理念の抽象論は、時を経ても官僚思考の室井には理解できない。

「見捨てはしない。だが時を待てと言っている」
「ヤなこった!ここでそれが出来なくて、何がケーサツだよ!」

やなこったって言われてもだな。
大人を食う視線を正面から受け止めるが、室井は表情を崩さない。

「ハチャメチャなことをされたら困ると言っているんだ」
「あんた、仕事になるとこうだもんね!」

スゴイ顰め面をされて、視野が狭いと言わんばかりに青島が両手で、こう、と顔の両側を塞ぐ。
曖昧にさせた室井の言い方が、青島の怒りを買い、慎重に距離を取っていたお互いの均衡を崩していた。

「結局ビビッてるだけじゃないの」
「疑うことを知らない人間の話には価値がない」
「疑うだけのなんもしない人間にはなりたくないよ!」
「警察は組織だ。上司の命令を信じられなくなったら刑事でなくなる」
「あんた、それでいいの?」

核心を突かれ、室井が漆黒をギロリと向ける。
それで良いのか――決断を迫られた時、ケジメを求められた時、辞令が下る時。
如何なる時にも室井の脳裏で青島が責め立てた。
同じセリフを、直に、目前で、脳裏と同じ声で言われ、室井のタガも外れる。

「いいとか悪いとか、そんな話をしているんじゃないんだ、話せばわかるとも思っていない!」

そんなことは百篇だって考えた。そうでなくするために俺たちはここまで戦ってきた。
その約束ごと抱えて、俺の前から消えてしまったくせに。
俺に記憶だけ与えて、消えてしまったくせに。
峻厳な態度で室井が青島に近づき、むんずとその手首を掴んだ。

「おまえだって、俺の葛藤など知りもしないだろう」
「前の俺なら知ってたとか言うんだ?」
「比べたわけじゃない」
「同じことだよ!こっちの俺は要らないってことでしょ!」
「そんなことは言っていない!」

室井が青島の腕を掴み、強引に連れて帰ろうと引き寄せるが、全力で抵抗される。

「放せよ!ヤだ!」
「話は帰ってからだ!」

ズルズルと青島を引き摺る足跡が二本、蛇の如く長く砂地に描かれていく。
室井はもう振り返りもせず、力づくで青島を引っ張った。

「かーえーらーなーいぃぃー!」

細身の体格ではあるが、しっかりと鍛錬を重ねた筋肉質の室井は刑事の資質を持ち、青島一人くらい、どうということはない。
膝を折り曲げ腰を落として抵抗してくるが、確実に青島を引き摺って行く。
何があったか、今夜の青島は聞かん気だ。

「俺だってなんかしたい・・!」
「だから!無茶出来るか!おまえを失うのが怖いんだ・・!」
「それ、逃げてるだけじゃん・・っ」
「違う!」
「違うって何が?!俺って何なのっ?あんたにとって言い訳の道具?!あんたの足引っ張る厄介者?!」
「そんなこと考えたこともない!」
「あんたのやり方はまどろっこしいよ!」
「大事にしたいだけだ!」
「じゃあ男なら繋ぎ止めろよっ、突き放すなよ・・っ!」

ダラダラと取り留めない口喧嘩が続き、言い返そうとした室井の口が、ふと、開いたまま止まる。
今青島は何と言った?
振り返り、力を止め、室井が青島の顔を見た。
泣き出しそうな、不安そうな、ぐちゃぐちゃの赤い顔で口唇を引き結び、室井に腕を取られたまま青島が室井を睨んでいた。

「あ、青島?」
「俺が望むなら手を離してやるって?君の倖せを願うって?なんだそれ!?」
「・・・」
「怖いよ、みんな失くして。きっと、俺、また消える。あんたの前からまた消えちゃうんだ。誰にも気づかれない。俺の中からあんたまで消えちゃって」

なんだそれは。どういうことだ?彼は何を言っている?
青島はそういう消失の恐怖をずっと抱えていたのか?ずっと怖がっていたのか?
初めて聞いた心音に、室井は言葉を失った。
いつも何食わぬ顔をして、記憶を失くしたことも受け入れて、今を楽しそうに生きているから、周りの誰もが騙される。
でも、きっと、言わせなかったのは、俺だ。

不貞腐れて頬を膨らませる青島を、室井はジッと射抜く様に見下ろした。
初めて見せた青島の弱音に、冬の大気も一層深まっていく。
鈍色の鉄塔が黒い空に先を隠し、鉄線を揺らしていた。
青島は口を噤んでしまう癖がある。分かっていたことだったのに。

「俺は、何から訊ねたらいい」
「なにか。・・・あったのはあんたの方でしょう?」

言葉より雄弁に、その眸が語っていた。
敏い青島に、室井の機微など見抜かれている。
凍てつく温度に、掴んだ指先から悴んでいた。少し出てきた風は冷たく、木枯らしの強さを突き刺してくる。
ゆっくりと、その力を解き、室井は正面に身体を戻した。

「俺だって、何かしたい・・消えちゃう前に、なにかしたい。これだけやったんだって思って、そんで、俺んこと、あんたにも、覚えてもらって、」
「どういうことだ」
「・・あんたは、自分のことばっかで、気付きもしないんだ・・」

悔しそうな顔が、彼の無念と自分の方が二番手である自己否定を物語っていた。

「俺はどういう顔をして君を見ていた」
「・・くるしそうなかお、してる」
「ずっとか」
「・・ずっと」
「・・・」
「俺、匿って、迷惑しててもなんも言わないし、それにさ」
「俺は誰彼構わず拾ったりしない」

それに、の後が続けられなくなった青島に、室井は緩く手を伸ばす。
だが、その手は、直前で擦り抜けた。
舌打ちされ、青島のキラリとした虹彩が逃げた。

「そゆとこ。勝手に全部決めちゃうし、全部背負っちゃうし、家ん中カンペキだし、大人のオトコって感じだし」
「・・・」
「なんか、勝ち目無いっていうか」

一言も逃したくなくて、室井は言葉を挟まない。
無言をどう解釈したのか、やがて、青島が顔を上げた。
青島の姿はどこか謎めいていた。丸い瞳が室井を見上げ、濡れたように光る。
本当に言いたかったことは、多分、そういうことではなくて。

「マジなの?遊びじゃないの?」

不安そうに青島の揺れる瞳を、室井は黙って見つめ返していた。
愛した男を失ったショックで、彼の想いなど思いやってやる余裕なんか、なかった。
自分でもどうしようもなくなって、心の奥では助けてと叫んでいる。それに気付きもせず、気付かせもせず、青島は一人で消えていく運命を覚悟していた。
恋を与えることで、それを持て余す想いに溺れ、室井に申し訳なさを募らせる。早すぎる時間の闇に、心が追い付かない。
甘えていたのも、共にいられて救われていたのも、室井の方だ。
馬鹿野郎。俺は一体彼の何を見ていたんだ。

室井の愛を受け止めるばかりで、事件は勝手に動き出し、周りは彼を置き去りにし、誰も青島の気持ちなんてお構いなしだ。

「俺にどうしろって?」

室井を挑発し、唆してみたところで、10年分失った未熟さを隠し切れないでいる差は
追いつけない距離に似ている。
室井が青島を見る眸は深く濃く、真に観念するのはどちらであるべきだったのか。気づいたときには二人の距離は近づいていた。

「君が望むなら終わらせてやると言った。“君”が望むなら、だ」

君の倖せだけを唯願う。
でももし、君が俺を望んでくれるなら。

「だから好きだということだけは、疑うな」

ふにゃっと、重心を失ったかのように、青島が室井に縋るような目を向けた。
少し煌めく瞳は濡れていて、朱くなって夜に灯る。

「ほんとはさ・・」

その先の言葉はやはり続きがないらしい。
もう一度、青島の視線は公園の入り口に向いた。
別世界のように賑わうイルミネーションが瞬き、冷たい世界に青と白の道が通る。

「薄い氷の上を歩いているみたいで、引っ張ったらすぐ切れちゃう糸みたいな。夜眠る前、ああもう終わりだって、目が覚めたら違う人になってて今の俺は永遠 に眠るんだって」
「・・・」
「だからもう、俺んこと、放して・・」
「・・・」
「あんたは、次、行って?」
「・・断る」
「あのさあ・・!」

焦れた青島の手が伸び、室井の肩を押し返した。
意地を張って口を引き結ぶ強がりが、室井の息をも殺した。
そんな顔してそんなこと言うくせに。
今自分がどんな顔をしているのか、青島は分かっていない。

「俺には、離れたくないと、聞こえる」
「あんたは昔の俺に戻って欲しいんでしょ?そしたら今の俺が消えるってことでしょ?!」
「君も連れ戻してやる」
「だから俺は!」
「だから何だ!」
「俺も何か、最後に、できることしたいんだって!何にもなれずに消えてくのがヤなの!」
「最後になんてさせるか」
「出来もしないこと、簡単に言うなっ」
「君こそ最初から諦めるな!」
「じゃあ、今ここで!さよならの代わりにキスしてください」
「!」
「できないでしょう?」
「っ、やってみなければわからないだろう!」

論理も思考もめちゃくちゃだと思いながら室井も叫び返した。
消えるなんて、冗談じゃない。

記憶を失うということがどれほど自我を追い詰め、恐怖を増幅させるか、その終わりの見えない地獄絵図を室井の現実主義の頭は想像できない。
そのせいで、青島は理解されない苦しみを室井の傍でずっと抱えて、言い出すことも出来ずに。
明るく振舞って、そうして室井の罪をまたひとつ許してしまうのだ。

「君を手放すつもりはないんだ。君は俺が心の底から愛した男が遺した大事な形見だ。これ以上大切なものがあるか」
「あ、そ・・・ゆうつもりだった、んだ」

青島が乱れた感情を閉じ込め、声のトーンを変えた。

「俺が寂しがらないように、一人で躓かないように、間違わないように、あいつが遺してくれた。俺とあいつの愛情の証だ」
「・・・」
「俺とあいつの、生きた記憶そのものなんだ」
「だって、他に何も憶えてなくて・・いつも・・怖い・・」

益本が言っていた“知ろうともしないこと”とは恐らくこのことだ。
思い返せば部屋で二人きりになった時、どこかぼんやりとした青島を見て少し変だと感じていた。
益本は青島の怯えを知っていた。寄り添う意味をそこにお互いに持ち合い、だから青島も益本を信頼した。
出遅れた敗因は分かっている。

しゅんとする青島に、室井はもう一度手を伸ばし、そっと逆立つ髪の毛をくしゃりと握り潰す。

「このまま、二人でどこか行くか?」

答えを待たず、室井は早々に中野に連絡を取り始める。
送迎を断ってしまう早業に、青島が目を丸くしている横で、通話を切って、室井はスマホの電源も落とした。

「海はこの間散歩したからな。今度はどこがいい」
「どこ・・って」
「こんな夜は、みんな忘れて、気分を変えた方がいい」
「忘れるのはもうヤだよ」

今夜は甘えっ子な青島に、じゃ覚えていろと室井が告げる。
幼い青島は、記憶の青島よりもずっと、繊細で感情が剥き出しで、素直だ。
パラパラと、とうとう細かい雨も降り出してきた。
それでも二人は、動かない。

「それとも今夜は外食にするか?」
「室井さんが作った方がウマイもん」

流石にその台詞には室井も固まった。
その台詞は一歩も二歩も反則である。
なんだその殺し文句。
好きと言われるよりダイレクトだった。
黙ってしまった室井に、青島がチロッと視線だけ上げた。
怒ってる?と機嫌を窺う様子は捨てられた野性のようだ。

「・・何でも作ってやる。何がいいか言え」
「なんでも」
「一緒に作るか・・」
「うん」

青島が困ったように掠れた声を震わせる。

「過去は簡単には離してくれないみたい」
「・・ああ」
「ごめん」
「謝らなくていい。あと、泣くな」

過去は簡単には離さない。それはきっと誰より室井が一番知っていた。

「コレは俺んじゃない・・俺はあんたに応えることできない、なんにも」
「・・・」
「だからもう、最後の晩餐して、俺んこと、放して・・クダサイ」

野外ではあることも厭わず、堂々と引き寄せ、室井は青島を抱き締めた。
腰に手を回し、後頭部を片手で引き寄せる。
頬を寄せ、腕の中に包み込んだ。
震える肩が心細そうに項垂れる。きっと寒さなんかじゃない。
抱き締めたことで、何か伝わってくれればと願った。
でもこんな他愛ない行動でしか表せない想いが溢れ、もどかしく、息苦しい。
室井は青島の髪に鼻を埋め、囁いた。

「青島、俺に抱かれてみるか?」
「・・なに・・言ってんの・・」
「冗談なんかじゃ、こんなこと言わない」

淫らな獣欲も乗せず、真摯に訴えるだけの室井の言葉に、青島は顔を伏せたまま息を呑んだ。
強張り、冷たくなった頬に、室井の指先が淫靡な色を乗せて辿る。
その指が青島の頤に回り、そっと持ち上げた。
瞳を交わし、無言で見つめ合う。
その先を予感させる、繊細でいて大人の色香を放つ指先に、青島が一歩下がろうとした。それを腰に回した手でクッと縫い留める。

「今の君がここにちゃんとあると、俺が教えてやる。俺が君を全部受け止めてやる」

サァーッと、通り雨のような霧雨が辺りを白く巻き上げていく。
まるでそれは結論を促すような絹糸であり、室井にはそんな煙幕に追い立てられてきた青島の本音にようやく触れたような
そんな一瞬だった。

頑なな口調に威厳を交えた室井の言葉に、青島が困ったように眉尻を下げる。

「えーと。・・黙秘権。行使していい?」

室井は薄っすらと口端に笑みを湛えた。
初めて見せる成熟した大人の顔に、青島が目を奪われたように息を止める。

何が問題といえば、一番はそんな室井に青島が文句をつけられないことだ。
凍えた雨が二人を打ち付け、スーツの中まで濡らし、吐く息を白く浮かばせた。
室井の前髪も落ち、黒々とした毛先から幾つも雫が垂れ、漆黒の眼と同化し、闇色に縁取られるその姿は
いっそ死神なのかもしれなかった。

「言ってることめちゃくちゃで・・、ゴーインでガンコで。勝手だし」
「・・・」
「あんたのそんなとこに、落とされたのかなぁ・・」

室井は青島の耳に指先を滑らせ、そっと顔を傾ける。
触れるだけのキスは、冷たく雨の味がした。

「抱きたい」

雨で滑る口唇を少しだけ放し、どちらのものとも分からぬ熱い息が白い煙となり、細い雨に消える。
濡れた肌が電灯に照らされ、赤い口唇だけがやけに色づいた。

「君を抱かせてくれ」

雨の音が途切れなく間を持たせていた。
提案通り、室井は可愛らしく拗ねる戯言を口を塞いで黙らせた。












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