公文書Code3-2-8 010
19.
窓辺に片足を上げ座り、雑誌に目を落とした青島を、室井は気づかれないように観察する。
本当に変わらない。
二人きりの甘い時間は室井にとって楽しいものでしかなかった。確かな愛情と揺るぎない信頼を得て、未来を確固たるものとして疑わなかった。
会えば毎日笑い、話していたような気がする。
青島が紡ぐ物語は室井には新鮮で、新しいことにどんどん手を出していく躍動感に魅せられ、カラフルに彩られた。
夜の営みは淫奔で、室井が率先して誘い込むことが多かったが、青島はいつも呆れた顔をしながらも、朝まで付き合ってくれた。
それこそ、煽られ狂わされ、根こそぎ乱れさせられた。
今は、随分、お互い距離を持ち、他人の顔をした時間が増えた。
威勢の良いようなふりをしているだけで、彼は聞き上手だったのだと、今なら思える。
短めに刈り込まれた短髪が光の残像を吸い、淡い色素が金色に光る。
光の加減によって雰囲気も横顔も変える美麗な姿態は、見る者を捕らえて離さない。
人間臭のしない雰囲気と小顔が朝陽に冴え、ざっくりと羽織っただけの白いシャツに、それはとても良く似合った。
静かに室井が近づく気配に、青島が顔を上げる。
「出掛けるぞ」
「いいの?どこ?」
「服を一式揃えてある。それに着替えろ」
室井が奥部屋を親指で指せば、青島が不審を持った目で室井を探った。
「・・何する気」
「誕生日だろ」
「・・ぁ・・」
今気付いたという顔で青島が呆けた。
誕生日を祝う歳でもなくなったが、これは明らかに抜けていたと見る。
確かにここのところ色々あり過ぎて、室井とて自分のことも後回しになっているくらいだ。
青島にしてみれば、何もかもがハジメマシテから始める新生活であり、記憶を失くしてからの数か月は息を吐く暇もなかっただろう。
まして見張られているとなれば。
「そうだった・・。へえ、そういうマメなとこあるんだ。それとも点数稼ぎ?」
「両方だ」
「正直者」
人を揶揄うように下から見上げるこの顔は知っている。
青島はよくこうして背伸びしたがった。
こんなにも自分の記憶には鮮度があるのに、青島とは擦り合わない温度差が、ただ染みる。
「確かにまいんち通ってみたり、ストーカーかってくらい几帳面なとこあったわ」
「それは、君が定時連絡をすっぽかすからだ」
軽い足取りで部屋を横切る足は素足で、ペタペタと音を奏でた。
俺今日で幾つになるんだっけ?忘れちゃったと軽口が届く。
記憶と同じ面影を持つ未完成の青島が、もう室井が知っている青島はいないのだと、改めて突き付ける。
感じるのは、愛した青島が遺してくれた愛おしさだ。
室井が用意した服の選定を見て、げんなりした青島が振り返った。
だが室井は譲らない。
「なんで休日にスーツ?」
「似合うからだ。それに今日はドレスコードもある」
言い切りやがったよこいつ、と顔を歪めた青島が、呆れながらもシャツのボタンを外しだす。
目を反らし室井はその場を離れた。
ネイビーブルーのシャツにネクタイを引っ下げながら青島がもう部屋から出てくる。
見れば乱暴に脱ぎ捨てられたシャツやパンツが、抜け殻のように部屋に残されている。
そんなところも変わっていない。
「どこ行くの」
「まず、そろそろ生活水準をあげたい。うちにはホットプレートしかない。その後、時間が残れば、ゆっくりしてもいい」
ふっと青島の表情が崩れる。
少し顎を上げてネクタイを結ぶ仕草が婀娜っぽく鏡に映し出された。
この部屋には生活できるものが何も用意されていない。
今までは中野に最低限の日用品とデリバリーだけ頼んでいた。流石にこの先もずっとそこまで面倒見させるわけにはいかなかった。
「ホットプレートだけって、何か意味あんの?」
「それは君が」
「なに?」
「・・なんでもない」
喋り過ぎたというように室井が口を噤み、並んでクローゼットに戻る。
ジャケットを抱え、スマホや手帳などの持ち物を確認し、身に付けていく室井の姿を青島が一度だけ見た。
「俺が、何?」
しまった。興味を持たせてしまったか。
どうしようかと思い、少しだけ逡巡した後、室井は口を開いた。
「君が、ホットケーキが食べたいと言ったからだ」
「ほっとけぇきぃぃ???」
眉間を顰めた顔と、何とも甘ったるくこの場にそぐわない単語に、青島もまたリアクションの仕様がなかったらしい。
しばし無言で手を止めていた。
だから言いたくなかったのに。
室井はさっさとコートを手にし、青島を無言で見据える。
嘘は言っていない。
「あ~・・。じゃあ一応聞いといてあげます。いつ?」
「何がだ?」
「だから。たんじょーび」
室井は目を丸くして固まった。
20.
大型家具店の2階は食器で埋もれている。
高潔で凛然とした室井の上流階級の風貌は、厳めしい顔も相まって他者を圧倒し
その隣に控える、麗しい背丈とすらりとした手足が際立つ清雅な短髪の男性という組み合わせは、ある意味最悪だった。
立っているだけで悪目立ちをし、四方から視線が注がれ、人だかりを作り上げてしまう。
「俺は慣れてっけど、あんたは?」
「世間の注目を浴びることに一々ビビッてたら官僚などやっていられない」
「強気に出たね」
窯元で焼かれた上品な黒や鈍色のカラトリーコーナーで、青島に皿を選べと指示すると、サイズを指先で聞いてくる。
頷き返し、意見の一致を見た所で青島が室井の下げるカートに入れてくれる。
これなんかどう?とたまに目線で合図するセンスも良く、室井を立ててくれた。
一々可愛くはあるが、恋人デートしていた頃とは違い、やんちゃっぽい愛嬌などはなく、作業は淡々と進められた。
これでは事務的に備品を足しに来た買い出し班だ。
このままでは会計時に領収書をとか言い出しかねない。
「目立っちゃっていいの?」
「見せ付けてやれ」
「バレバレってこと?」
不思議だった。運転手としての出会い、事件での交錯、そして約束を交わすあの瞬間。そこから芽生えていった仄かで強かな情熱。
その記憶を持たない自分たちは友人にすらならない。
様々な邂逅を経ていくことは、二人の未来に繋がる重要なステップだった。
傍に居ても、近づくことはこんなにも難しい。
「益本んときはこんなに見られなかったけどなぁ。あんたが浮いてんだね」
「君が目立っているんだ」
お互いに責任を押し付け合い、反対を向く。
怯むな室井慎次。まだ序盤、挽回のチャンスはある。捉え方次第だ。
自身に言い聞かせ顔を向ければ、青島は隣の女の子ににこやかに手を振っている。
「・・・」
次はどこ?と青島が目線で聞いてくる。
室井は鍋やフライパンが並ぶコーナーを視線で教えた。
「そういやさぁ、俺、何て呼べばいい?」
「!」
「・・あ!や!そーゆー意味ではなくて!その、役職名とか、付けた方がいいのかなとか、その、」
「あ、ああ・・」
注目を浴びていることよりも俄かに身体を緊張させ、室井がギクシャクと返事をした。
初心な反応で狼狽える青島に、返って室井の方がむず痒くなる。
何なんだこの擽ったい距離感は。
元恋人だぞ。いや待てこれは恋人というより、新婚さん――ッ!
「今日さ、ボディガードいなくね?」
「犯行声明通り警察が動いている現在、敢えて衆人環視の中、狙ってくるメリットはない。一般人を巻き込むのは面倒なはずだ」
――のに、なんだこの父兄参観みたいな事務会話は。
「フライパンは熱伝導率で選びます?それともコーティング?」
「さん付けでいい。他の同僚もみなそうしている」
「俺もそれでいいの?」
「ああ」
青島が聞きたい意図は別な所にあるような気がしたが、室井は気付かないふりをした。
過去と比べることを負担にさせたくはない。
新城の言う通り、比べられて嬉しいはずがない。
日常会話も下手くそな室井に、青島はフライパンを片手に暫く前を向き、考えるようにした後、室井を見た。
「じゃあ・・“ムロイさん”・・?」
ぞわっとした。
油断していた所に呼ばれた舌足らずの声に、室井の全身がビリリと震え、反応する。
思えば、青島が記憶を失くしてから、直接名前を呼ばれたのはこれが初めてだったかもしれない。
随分と呼ばれていない気がした。
随分と懐かしい気がした。
同じ声、同じトーン、同じ柔らかさで青島が室井を呼ぶ。
室井の脳裏の中で、青島が呼んだ声が何度も何度も木霊した。
「な、なに?へん?」
急に固まってしまった室井に、青島が戸惑いを見せる。
室井の顔は、それこそ般若のように険しい。
青島が後退り、上目遣いで眉を顰めた。怒らせたとでも思われたらしい。
ロボットのように、グリリンと室井の顔が青島を捉えた。
「もう一度呼んでくれ」
「・・やだ」
「なんでだ」
「なんか下心がありそう」
ちっ、勘の鋭いやつめ。
室井が横を向いて、こっそりと舌打ちをする。
「ねぇ、益本んことも、呼び捨てだとマズイ?」
「・・・他の男の話はいい」
青島からの返事がないので視線だけ戻すと、青島は棚に片手を置き、もう片手は口許で拳を作り、笑いを堪え切れずにいた。
光に霞み、柔らかく無防備な笑みに、ウっと詰まる。
こんな顔を見たのも久しぶりだ。
青島なりに気遣っているのかもしれない。嬉しい。
でも、ものすごく、嫉妬していることを見抜かれて哂われている――!
喜んでいいんだか、嘆くべきか、室井は迷った。
くすくすと肩を震わせ、室井が見ていることに気付き、青島が愛嬌のある視線を流してくる。
久しぶりに緊張の取れた親しみのある面差しに、室井は釘付けとなった。
見つめ合う二人に、周囲に群がる人々がざわついてく。
取り繕うように、とても不自然に室井が話題を変えた。
「箸、椀、酒器も揃える。さっきのブランドから選べ」
「はいはい」
「二組ずつになるから色の組み合わせに注意しろ」
「げ。ペアってこと?」
「センスの問題だ。このブランドは上品で優美なデザインが有名で、永く使えて飽きが来ない」
「じゃあもう少し色味を入れた方がいいよ」
***
ある程度の買い物を済ませる頃には、カートは山積みとなる。
配達を依頼し、会計に回る。
「このカゴ全部ね。あ、領収書もお願いしまーす」
うーわー言いやがった本当に。
「あれ?なんかまずかった?」
「――いい。もう経費で落とす」
一倉や新城には馬鹿にされるだろうが。
家具店を出ると、また人目を引いた。
擦れ違う度、視線が二人を振り返る。
サングラスを掛け、ジャケットの前を開けて歩く姿は、確かにモデルか何かの撮影のようだと室井は思う。
モスグリーンの拠れたコートを着て、ショルダーバッグを下げ、エンジニアブーツでちょこまか走り回っていた面影は今はなく
長い足が繰り出すリズムは、スーツの価値を高めた。
そういう彼を連れ回す時、密かに得意気だった頃を思い出す。でもその当時の青島はもっと控えめで、室井に遠慮がちだった。
今は逆に先に立ち、得意気にひらひらと青島が愛想を良くするものだから、余計に人は群がった。
「あのぅ、お仕事ですかぁ?」
信号一つ待つ間、妙齢だが綺麗に着飾った観劇帰りらしい女性に、初めて声をかけられた。
嬉々として青島を見つめる顔は紅潮し、見るからに青島目当てだと透けている。
「いえいえ、ちょっとそこにね。買い出し」
「そうなんだぁ。あの、もし良かったらこのあとご一緒しませんかぁ?」
「こんなオジサンですけど」
「えええ?若く見えますよぉ」
語尾にハートマークが付きそうな黄色い声が華やかに舞い、青島もまた無駄に笑みを振りまいていく。
人好きのするアクのない顔立ちだからこそ、嫌味もない。
ムッツリとした室井が背後で出方を窺っていると、青島がそんな室井を横目に親指を指した。
「このひと俺のなんで。また今度ね」
劈くような色めいた驚きの喚声は、花火のように弾け、そんな女性に青島は手を振り、足を戻す。
逆ナンを難なく断り、室井まで茶化して見せる、そのたった一言に、室井は青島のスキルを見た。
助け船は出すつもりだったが、こうも鮮やかに決められると、男としての立場はないし、室井の内心は逆に穏やかではなくなり、舌を巻く。
そうだった。青島は昔っから女の扱いが上手いんだ。
「これで満足?」
「礼は言わないぞ」
詫びてるはずなのに上司のような命令口調の室井に、見透かすような瞳が控えめに笑む。
「次は?」
「電気店。炊飯器や掃除機、欲しくないか?」
「コーヒーマシン」
「そろそろインスタントに飽きていたころだ」
目線を合わせ、同意を乗せ、二人同時に一歩を踏み出す。
信号が青に変わり、目指すは最新家電だ。
「ところで室井さんは、俺のことなんて呼んでいたの?」
「普通に“あおしま”と」
「・・それでいいよ、これから」
21.
予約していた39階のレストランで夕食を摂り終わる頃には、冬の短い日足は深い闇に閉じ込める。
海を一望できる桟橋に向かって、青島が手摺をぽんぽんと叩いて遊ばせながら、歩いていく。
今日おろしたばかりのコートの裾が海の凍えた風を包んで、胸の襞を揺するように騒めいた。
いつ、帰ると言いだされるかと冷や冷やしていたが、青島なりに誕生祝いを楽しんでくれたようだった。
「こんなデートしてたんだ?」
「したかった。こっちが忙しくてな・・、君の方は緊急対応を求められがちだから」
目的地もなく思うように歩かせていたが、遊歩道の最奥まで来て、青島が足を止めた。
この時期、寒空から叩き下ろす海風は苛酷で、こんな時分に散歩をしている人間はいない。
室井の黒いコートが大きく巻き上がる。
海沿いの散歩に誘ったのは、青島とは海の思い出が多く、青島はやはり海が良く似合った。
もう一度それを見たかったのは、室井の最後の我侭だった。
「俺って、仕事熱心でした?」
可笑しなことを聞く、と室井は内心苦笑したが、室井も隣に並んだ。
柵を掴む青島の指先が寒そうに丸くなっている。
「仕事大好き人間だったと思うぞ」
「そっちは仕事しか生き甲斐がない中年オヤジってかんじ」
「どうかな」
「飛ばされたって聞いたけど。キャリアって戻ってくるときは出世の条件付き?」
「そんなものがあるか」
「んじゃ失脚して、そのまま辞めたいとか。そうは思わなかった?」
「まったくないな。これでは仕事ができない。そう思っただけだ」
本当は、それも“約束”の続きだからと言いかけたが、止めた。
あの大階段で約束した始まりの日は、やっぱりあの日の室井と青島だけの、絆だ。
「さて、どう持っていくかと考える。汚い言葉で罵りあっても何も救われない」
「そういうこと言ってっから、甘いって舐められるんじゃないの」
益本辺りに何を吹き込まれたのだか。
今の青島の評価では、室井は閑職に追いやられた没落者らしい。
散々な言われようも悪い気はなく、むしろ面白いものだと室井は思う。
立場を超えた約束の神秘が見せた魔法は、実に室井に心地好いものだった。
室井は毅然とした顔のまま、青島に倣い、海を見る。
夜の海は黒くうねり、風の強さで崩れた室井の前髪が額を小刻みに打ち付けた。
「警察を誇れる組織にしたいんだ」
「うーわー、また随分とアバウトな理想論で。小学生の作文みたい」
「そう思うか?」
室井がニヤリと性質の悪い笑みを送る。
その悪餓鬼ぶりに、青島が呼応した。
「俺を唆した人間がいるんだ」
「・・ぇ、まさか、俺?」
室井の顔色を見て何かを悟ったらしい青島が、げんなりとした顔に変わる。
当時の青島が聞いたらきっと、唆してないっと反抗するんだろうなと、室井は懐かしく思い浮かべる。
自然と柔らかくなった表情に、青島が意外そうな顔をして室井を見つめていた。
「じゃあ・・、叶えるんだ?その夢」
「ああ」
「今回の事件も手柄にしないとね。多少のミスは揉み潰せよ。あんたに出来んの?」
「君の言葉は時々悪魔に魂を売れと言っているように聞こえる」
ふふんと、顎を持ち上げて笑む子供みたいな企みの顔が夜光に透けて、風の向こうに立つ。
身体の芯まで冷やす海風は、享楽な熱を持たず、今の自分たちに丁度良い。
「上等じゃないか」
静かに呟く室井の声は風に途切れて届かない。
遅い青春の大半を過ごしたあの街の、肌にまとわりつく湿気を思い出す。
何度もやりあって貶め合って、探り合って、それでも途切れない繋がりの果てに、信頼を生み出してきた。
あの約束は室井の心の中で静かに強かに生きていく。
「辞めようとしたことは一度だけある」
「でも辞めなかった」
「辞めさせてもらえなかった。新城・・、覚えているか?君のアパートに一倉と三人で行った時の残り一人だ。彼に、辞表を取り上げられて」
「あのデコ2号。家宅捜索んとき来たひとね?」
こうしてまた一つ、今の青島とも海の匂いや温度が刻み付けられ
それが室井の全身を細胞から吸収させた。
記憶とは、重ねていく時間の結晶であり、こうして傍にいるだけでそれはとても愛おしい。
青島が遺してくれた幼い青島と紡ぐ時間もまた、室井に託された時間なのかもしれない。
だとしたら、青島には一生頭も上がらない。
「進退をかけるとか出世を狙うとか、そういう軸じゃない。自分の信念に恥じることをしたくないんだ」
続けて?と強請るように青島が首を傾ける。
「信念を曲げて警察に残ることはそれまでの自分と変わらない。だけどそれをしたら、今までの君が悲しむから」
「愛しちゃってンだ、俺んこと」
くすりと、まるで鈴が鳴るように笑んだ青島は艶美で、室井は心臓が不覚にも跳ねてしまう。
なんと綺麗に笑うのだろう。
こんな時まで。
思わず身体に力が入り、拳を強く握った。
正直な自分の身体に不機嫌に眉間を寄せれば、見透かしたように夜に光る瞳は柔らかく笑んでいて、室井を惑わせてくる。
でもその眼差しはどこか切なく、寂し気だ。
「折角巡り合って、同じ理想を持てたんだ。俺くらいは大事にしてやらないと。・・違うか。君の存在でこっちがかなり助けられた。だから」
少し喋り過ぎたようだ。
室井はそれ以上のことを賢明に口を閉ざすと、少し風除けを取れる場所へと移動した。
そこは円形の開けた休憩地になっていて、室井は黙ったままその先端に立つ。
やや遅れ、青島も付いてきて、室井のすぐ隣にぽんっと両足を鳴らして合図した。
「昔の話など、興ざめだったろう。すまなかったな」
青島が小さく首を振った。
「俺、寄生虫かって取引先に罵られて辞めたとこで記憶止まってるから、そんなこと言える人とその後巡り合えたんだね~って。なんかすごいや」
それは初耳だった。
初対面同士から始まり、経験と邂逅を重ね、心を通わせてきたと思っていたから、室井にしてみれば
青島がどういうスタンスから始まったのかは、聞いたことがなかった。
そう言えば青島は昔から自分のことはあまり語らない。
「刑事の仕事に興味が出たか?」
「うざいだけだと思ったけど、あんたとか益本見てたら」
「刑事は命がけになる。キャリアになれば今度は出世争いだ」
「んだよ、夢もくそもないこと言うなぁ」
青島が欄干に登り、身軽に体重をかけて海を覗き込む。
細身のラインにコートが巻き付き、風を切る。
黒々とうねる海は、底も見えないほど真黒だ。
「夜の海って吸い込まれちゃいそう」
それでも共に仕事をした中で、肌で感じた刑事の仕事から、今の青島も何かを感じ取ってくれたのだろうか。
あの頃の二人が交錯したように、彼も何かに反応してくれたのだろうか。
それだけで、胸が震えた。
痛む目頭が、青島の無念と哀愁を室井に知らしめていた。
俺たちはどうして引き裂かれてしまったのか、どうして青島の未来が断ち切られたのか。
その運命を呪う隙も無く、過ぎ去って、もう運命の歯車はあの頃のように俺たちを弄ばない。
喧嘩して、裏切って、同じ目的に走った。
重ねた残像が膨らんで、また室井の脳裏を過ぎていく。
「けど、もうみんな忘れちゃったから。俺にはなぁんもなくなっちゃったから。こんな終わりってあるんだねぇ」
こんな恋の終わりもあるんだと知った室井の声もシンクロした。
悲痛な叫びは海の唸りに混ざり、掻き消される。
「生まれ変わったら、今度は俺、護る方がいいな」
戻る可能性はほぼない。
記憶障害は、加齢とともに症状が軽減していくこともある。
それでもそんな不確かな未来を見据えて、今の青島をなおざりにしたくない。
「刑事、辞めるのか?」
「今からイチから始めるってのはね。思い出さなきゃ意味がないよ」
「そんなことはない」
「あんたも。思い出さなきゃ、今の俺が例えば好きになっても仕方ないんでしょ」
「なら、思い出さなくていい」
全てを断ち切られて、それでも確かに育んだ季節の色が心の奥に焼け跡のように煤けていて
ふとした瞬間に失った衝撃の大きさを室井に訴える。
その衝撃をこの先一生抱えて生きていくのだろう。
「次、行きなよ」
詰まる胸を感じながら、室井は隣で海風に向かう青島を見つめた。
虫が良すぎる、この数多の感情が届けばいいと願いながら。
応えぬ室井を長く見つめた青島は、欄干から飛び降り、コートをはためかせて着地した。
「あの部屋さ、俺が住む筈だったって言った。つまりアイジンをマンションに囲ってた系?」
「だいぶ誤解がある」
短めの髪は月明かりに反動で銀色に濡れ、夜空に溶け込む青島はエメラルドの輪郭を縁取っていた。
その瞳に暗い東京湾を映し込む。
凍える指先が感じる季節が、青島から夢も未来も奪った秋は、既に遠いのだと伝えていた。
エメラルドに揺れる優美で綺麗な造形美に魅入られる室井の横で、本来ならば感じ取れる体温が分かるこの距離は
今は吹き荒ぶ冬の海風が無情に二人の間を擦り抜ける。
「知りたいか?」
「言いたくないことなんだ」
「隠し事を持つという意味ではない。君を信用していないからとは思わないでくれ」
欄干に肘を乗せ、室井を一々試す青島の横で室井は成熟した目を向ける。
「それで喧嘩したって言ったろ」
じゃ何?と強請る数多の光を取る姿に、室井は抗う術を失う。
声すら遮る風のせいで、二人の距離は自然と近づいた。
「この数年、俺たちは遠距離だった」
「ああ、そうか、そうだね」
「異動のこととか出世が不安で、この先のことも分からなく、だが言いだせるはずもなく、どうやって生きていこうかと思った時
君と出会った海の街で、君と生きたいと思った。寂しい思いをさせていた。甘えっぱなしだった。
遠い距離は俺たちの距離も少し遠ざけた気がしていた。実際、会えるのは年数回だ。電話の頻度も減っていた。
もう愛されていないかもしれないと思って、それでも一緒にいてほしくて、あのマンションを買った」
「・・ぇ、一人で先走っちゃった?」
「言葉にするとドン引きだな」
視線を交差し、やるせなく笑めば、青島も頬を緩めた。
「怒られた。勝手なことをするなと怒鳴られた。キャリアのくせに自覚が足りないと」
「らぶらぶじゃないの」
「事件が起きたのはその直後だ。君が、俺のために戦ってくれたと聞いた時、どれほど後悔したか。どれほどの、感謝を抱いたか」
「――」
「俺は何も伝えられなかった。助けてもやれなかった」
徒然に語る室井の言葉が後悔の色を宿して海に吸い込まれる。
悔恨も罪も飲み込む闇色の瞳は、それでも孤高に海の色と対峙していた。
室井は内から込み上げるものを力で抑え込むように諫めた。
「――ねぇ、二人きりの時も俺、“室井さん”だった?」
「俺を揶揄いたいか?」
悪戯心は、強い海風が嘲笑う。
余りにあっけなく突き放された恋の末路をせせら笑う唸り声も、罪を責める懲罰なのだ。
二人の視線が、厳かに絡む。
約束もない。
恋もない。
どうしてこんなに引き離されなければならなかったのか。
寂しそうな瞳に、かける言葉も見失う。
「名前で呼んでみてくれ」
「うーわー、そう来ましたか。・・なんだっけ、名前」
室井が内ポケットから警察手帳を青島の目の前に突き出す。
「ん!」
「・・しんじさん?」
ちょっぴり照れ臭そうに笑うところ、可愛すぎか。
訳アリのイケメン、暗い過去を持つイケメン。もうそれでいいじゃないか。
俺たちはもう充分苦しんだ。
贖いは別なところで自分が受けるから。
「もう一度」
「・・・・・照れ臭いし」
目線でもう一度言えと室井が命令する。
「シンジ、さん」
「・・・」
「慎次さん・・」
「・・・」
「慎次さん」
「・・・」
「たぶん、呼ばせてないでしょ・・」
「・・分かるのか・・?」
何度か室井の名を繰り返す青島に、室井が引き寄せられるように近づいていて、顔を傾ける。
青島が痛みを堪えるような顔をした。
その頬を室井の指先が、壊れ物を扱うかのように、そっと触れ
二人の似たような短髪が対称となり、風が崩し、叩く。
灼け付くような衝動と、吐息も感じない凍風が、どこかアンバランスだ。
「俺さ、こないだ、益本に」
青島の口唇が、何か例えば室井以外の男の名を吐くのが堪えられなくて、室井は徐にその口唇を塞いだ。
ふっくらとした弾力は久しぶりに触れた室井の全身を走り抜け、やはり細胞から震わせた。
泣き出しそうな感覚に似た痛みが全身を支配し、飢えるほどの欲望を曝け出す。
明確な理由など、今は持ち得ていなかった。
少し身動ぎする青島の頬は片手ですっぽりと覆えてしまうほど小顔で、少し持ち上げると
室井は壊れ物を扱うように何度も何度も塞ぎ治した。
凍えた海風が時折唸り声をあげて重なる二人を打ち付ける。
凍てついた時の全ての世界の中で、口唇に伝わる熱だけが、頼りなく、か細く、ただ一つの本物だった。
「どうして、避けなかった?」
「あんたこそ、なんでこのタイミングで・・?」
息を止めるままに触れ合わせていた口唇が銀の糸に繋がれ、熱い吐息が眩暈を起こしてくる。
唾液で濡れた朱い口唇が、僅か震えるのを伏目がちに認め、室井がしっかりと青島の視線を捉える。
一瞬の怯む隙に、その腕を捕えてゆっくりと引き寄せた。
「デートの終わりはキスだと言って、君は良く笑っていた。君の笑った顔に俺は幾度となく救われてきた。そんな悲しい顔をするな。笑ってくれ」
「・・・」
“俺のー、だいすきなひとが俺のことで苦しむのはやじゃん”
そう言って、君は俺の隣で笑っていた。
あどけない顔で青島が室井を見上げてくる。
ここに遺された青島は、室井の愛した青島が託した贈り物だ。青島が室井が寂しがらないように遺した、大切な形見だ。
でも確かに上がる心拍数が、誤魔化しようのない熱を訴える。
俺と過去の青島が決めた約束と政治の闇に、この幼い青島を巻き込めるのか。
逡巡する気持ちも、今は苛烈な熱に蕩けさせられる。
「俺、そんなくさいこと、言った・・」
俯き、照れた目元を隠すが、その頬は赤らみ、唾液で濡れた口唇が朱く夜に映える。
無意識に続きを強請るような嬌姿に、室井の喉が小さく唸る。
室井は掠めるように、もう一度口唇を押し付けた。
掴んでいた腕を引き寄せ、抱き込み、慈しむように、慰めるように、幾度も触れ合わせる。
脅えないように、傷つけないように、優しく優しく触れて、触って、囁いた。
「傍にいてくれ」
「でも俺は」
益本に譲った時、どれほど嫉妬の痛みで胸が張り裂けそうだったか。
キャリアレースに巻き込みたくない、男同士ではない幸せを与えたい、傍にいる理由がない。
沢山の言い訳が室井を縛り、足元を掬った。
でも、離したくない。離れたくないんだ。
「そう簡単に切り替えられない」
青島は自分の記憶が戻らないことを、もう知っている。
過去にとらわれずに室井を先に進ませるため、次に行けというのなら、それがこの恋の答えなのかもしれない。
だけど、決まった正解がないのなら、そこにも微かな希望があると、伝えてくれたのは青島だった。
青島がいる限り恋は室井に力を与える。
「・・ん・・っ・・」
夜を映して揺れる瞳が彷徨い、青島がキスを解こうと、小さく首を振る。
ああ、こんな顔もするのか。
大きな抵抗でないことに、室井は頬に手を添え、口付けを少しだけ深めた。
逃さぬ動きは成熟し、手触りの違う髪を指に挟み、室井が大人のキスをしめやかに与える。
触れ合わせた箇所だけが、ただ、熱い。
両手で青島の頬を掴み、短い髪を指に絡めた。
「・・忘れちゃって、ごめんね・・?」
「君が謝ることじゃない」
離れる決意をした。日が経つに連れ、妙な焦りみたいなものがずっと蟠りとしてあった。
恋に忠実であることは、そんなに罪深いことなのかと室井の奥底が問い質している。
慈しみ、与えて貰うばかりだった恋に、残された自分がしてやれることを捧げたいのだ。
記憶があるから欲しいのではない。約束があるから求めるのでもない。
この先もずっと、青島が遺してくれた彼と繋がっていたいだけだ。
「君を、誰にも捕られたくない」
熱に浮かされるように告げ、室井はもう一度口唇を重ねた。
