公文書Code3-2-8 009
17.
「マジに告られちゃった」
ペットボトルを煽りながら軽く落としてきた爆弾発言に、益本は思わず珈琲を吹きそうになった。
本庁備え付けの、温度だけ高い珈琲の水面がバウンドする。
舌打ちで誤魔化して、それでも益本の奥底に燻る焦燥みたいなものに交じるのは、疑いようのない嫉妬だ。
お持ち帰りをした挙句、先手を打つなんて、室井の方を問い質したい。
チロッと上目遣いに益本の機嫌を窺ってくる青島に、益本も顔を近づけたままくりくりと動く瞳を覗き込む。
戸惑いを隠さない目元は恐らく偏見や誤解と言った色眼鏡を怖れてのことだろう。
幼く、純真だ。刑事をやっていれば自然と染まる必要以上の知識や経験を今の青島は持たないからこそ、罪咎の力を以てしても
それは蜜のようだった。
だから益本は敢えて話に乗っかってやる。
「どうすんの」
「・・どうするったって・・」
ペアになり、押収した備品をリストアップしながら一つずつ確認していく作業に入っていた。
益本は手元を動かしながら、会話を続ける。
「迷うとこ?ズルズル引き摺るとあの手のタイプは凄まじい勘違いをするぞ」
「その前に俺わね、自分を無類の女好きだと思っていたんだよ」
「事実だな」
「そーだよ。なのになんでオトコ?何がどう回ればそういう展開になんの?」
同じ作業を繰り返していく流れは、地味な根気が要った。
朝から既に10時間、手元も頭も疲労を蓄積する状況では、次の段ボールを開封する手前で青島の雑談の方が優位となる。
青島の中で、衝撃の告白はどうやら、好意の是非ではなく、室井のカミングアウトの方に打撃があるようだった。
あの毅然とし武骨で面白味のない官僚が、何をどう転がせばそんな道を踏み外すようなことをしでかすのか?
降格、左遷と、札付きの噂はここにいれば幾らでも耳に入った。記憶がなくとも今の室井の危うい立場など肌で感じ取れる。
しかし室井本来の風貌が堅苦しいことが幸いし、自ら堕落しそうなイメージはない。
なのにスキャンダル級の大罪である。
ましてや、その相手が自分で、自分もまた受け止めたという事実が、青島の中で青天の霹靂なんだろう。
「で?また絆された?」
「っ、す、するかよ・・っ、オヤジじゃんか・・っ」
頬を膨らませて青島がパッと身を反らした。
手元の資料で顔を半分隠す仕草は、しどろもどろといった感じだ。
したんだな、と益本がジト目で黙すれば、青島は更に狼狽えたように視線を明後日の方に投げた。
可愛い誤魔化し方に、益本の中でふと嫌な予感が湧き起る。
「え。まさか、もうなにかされた?」
「さささされるかッ、なにかってなんだよッ」
「掘られたとか」
「ないないないっっ」
刑事の目を向ける益本に、青島は片手を大きく振って顔を顰めた。
この反応だと、確かに手は出されていない様子だが、だいぶ怪しいものだと、益本は顎に指を宛がう。
そもそも目まぐるしく表情を変える青島の陽気で無垢な性格は、生意気ながら多くの捜査員の好感を得ていて
こんなのを二人きりで密室で見せられたら、室井の冷静さも吹っ飛ぶというものである。
「ほんとになんもないな?」
「ないって。でも・・・別な意味ですごいこと言われて、すごいことされた気がする・・」
ゴン。
ベタなリアクションする自分が恥ずかしい。
強く肘から崩れ殴打した額をテーブルに押し付け、益本は痛みよりも先に雲行きの怪しさに歯嚙みする。
すごいことって何だよ、されたって何をだよ。
随分と手ェ早えじゃねーかよ室井ィ。
「何されたって?」
「だから・・、もう一度口説いていいかって。ただ俺が思い出すまでは手を出さないって。紳士面が鼻に付くね」
「エリートキャリアには皆そう思ってんよ」
本部では、本田から直接接触があったこと、身の安全を考慮し青島を室井宅に保護したこと、本田をホンボシとする等が
既に公表されていた。が、本人を問い詰めたらこの惨状だ。
まあ、室井は腐っても官僚である。
幾ら青島が口達者と言っても、余程の非常事態にでもならない限り、室井が論理的思考に負けるとも思えない。
しかし室井の前に素の青島を野放しにして室井が正気でいられるかも、疑問である。
「気付くとさぁ、いつの間にかあのひとのペースにハマってんだよ。あなどれん・・」
今青島の周りで何が起きているのか、その発端はなんだったのか、知ってしまったのだと聞いた。
予期せぬタイミングで、予期せぬ相手から、無遠慮に告げられた内容は、今の青島にとっては負担を強いるものだった筈だ。
なのに禁忌的な恋まで告げられ、昨夜はさぞ過激な夜だったに違いない。
益本の目尻が少し哀調に揺れた。
「なんでかな?俺がこう返してくるってテクを先読みされてる気持ち悪さがある」
「元営業マン。トークスキルは専売特許じゃなかったのか?」
警察官だった記憶もなく、訓練の記憶もなく、あったとしてそれはノンキャリの経験値という素人に毛が生えた程度である青島にとって
心理的に事件の負荷を背負う重たすぎる現実は、想像以上にその細い肩に圧し掛かっていることだろう。
益本はタイミングの悪さを呪う。
同情し、心配げに見つめた。
目の前で黙々と作業をこなす様子は、意外にマメなことを知る。
青島とペアを組み、開封、チェック、精査作業をすること、丸一日。
横目で押収品を確認しながらパソコンにリストアップしていく青島の手元は的確で繊細で綺麗だった。
打ち込み方も、扱いの速さも、覚えの良さも、成程コンピューター会社出身なわけだと益本を納得させる。
伏せた目元を盗み、長い睫毛と整った顔立ちを眺めていると、青島がふと口端を緩めた。
「見惚れた?」
「・・・生意気」
ぽんっと、益本は持っていたファイルで軽く青島の頭を叩いた。
他愛ない会話の中で、深められるのは親睦だけではないらしい。
人の柔部を簡単に察せるのが青島の魅力である。そして、自分がモテることも正しく熟知している。
こういうのに本能を刺激されちゃう男は多いだろう。
心配しているつもりで気遣われちゃ、立つ瀬がない。
益本は顔を作り直して作業に戻った。
それでも青島の意識が自分に向いていることに益本の気分が上がってしまうんだから、始末に悪い。
「で、何?しばらくそこで暮らすのか?」
「そうなるかなぁ。結局一度もアパート戻れてないし」
「服とかどうした?」
「・・・・・・・・・全部揃ってた」
「恐ぇぇ」
「同感」
「あ、だから今日のスーツ違うんだ?」
「そうなんだよ、シュミじゃないんだよね。あのひとの好みに合わせて今朝は激しく着せ替えごっこですよ」
ふーん。所有印のつもりか虫除けか。
今日の青島は、いつものヤクザ風の軟派なスーツではなく、糊のきいたクールな英国紳士風で、薄地の黒いワイドカラーを少しだけ開けている。
少し明るめの上質な光沢感を持つスーツをさり気なく華やかにキメてくる。
背伸びした奸賊風味の堕落感とは真逆に、清楚で気品のある装いは、成程これが室井の趣味かと、らしくて笑ってしまう。
短めの髪をウェットに纏めたスポーティな爽やかさは、うなじのラインまで綺麗に見せ
腕に添えられる時計がいつもより高級感を主張し、引き立っていた。
見事なハイクラスの仕上がりだ。
「まあ、お前のセンスよりはマシだな」
「じょーだん、イケてるの間違いだろ?」
「紫の虎柄シャツが?」
「俺の美学、ばかにすんな?」
部屋の隅、ひそひそと内緒話を重ねる二人きりの時間は実に特別で懈怠で、クセになる。
愛おしくておかしくなりそうだ。
我慢できず、益本は指先で青島の頬をぷにっと押す。
柔らけぇ。
なんだよ?と囁く視線。焼き付いてくる表情。首を傾げて青島が益本をまっすぐに見つめてくる様子に見え隠れするのは、親しみを込めた危うさだ。
「信じたの?官僚殿のコクハク」
「どうだろ。俺、そーゆーのも割と敏感な方だったんだよね。オトコってのは射程圏外」
「わっかりずらそーなツラしてんもんな」
「遊ばれてたのかもね。ま、改めて考えてみるとさ、嘘くさいよ色々と。出来すぎっていうかさ」
それでも簡単に人を信じきれてしまう青島の優しさが、益本の眼前で狂おしく迫る。
或いは室井だから、信じたのか。
「キャリアなんて成果主義にトチ狂った連中だぞ」
「以前の俺たち知ってて、益本がそう聞くってことは、つまり、騙してはいないってことか」
中々、ご明察だ。
益本の満足気な顔に、反対に青島は力なく笑みを作った。
「でもねぇ・・、なんか悲愴な覚悟背負っちゃった顔だったんだよ。一人でさぁ」
「やっぱり絆されてんじゃねーか。元警察官が!」
「思い詰めちゃってて、ハラキリしそうなやつ」
青島が人差し指を一本立てて、恐ろし気に説諭する。
眉頭を寄せて囁く顔は、マジだ。
「室井のこと、怖くねぇの?自分の知らない自分を知ってるんだぜ?」
「益本もだろ」
「俺は今も昔もおんなじ。けど、室井は違うぜ?」
「う・・ん、それなんだけどね・・」
もっと深い場所まで知っている。むしろ青島の知らない青島の全てを抱えている男だ。
「実はさ、ちょいと、検索かけてみたのよ」
「なにを」
「だから――男同士のヤり方?」
ガン。
あ、今度はマジに額ぶつけたわ俺。
かっこわるッ。
「~~・・・」
何故そこへ行く青島。室井が性的なことまで喋ったのか?
調べたということは知らないということである。
その手の話は悪友なんかや男同士の猥談などでネタになりやすく、警察官ならば耳年増であることがほとんどだ。
しかもわざわざ調べただって?
「で?理解できました?」
ナニをどうするのかとか。ドコがどうなるだとか。
「う、うん・・、流れくらいは」
「コーフンした?」
「そこじゃねーって。でさ、上手く言えないんだけど・・・俺、一度、同じことググったことがある気がしたんだよね・・。それで怖くなっちゃって」
益本の手元が止まった。
一瞬、記憶が戻りかけているのか?と思った。
だが、上目遣いで益本に心を許す顔からはそれ以上のものを感じ取ることはない。
室井と関わることで、青島の中に眠らされた記憶が刺激されているのだとしたら、それは元に戻る可能性を秘める。
でも、それだけ二人の関りが意味があったという証明であることにもなり、益本にしてみたら面白くない。
「益本?引いた?」
「――や。それより、ヤったのかヤられたのか?って、思って」
カッと青島の顔が分かりやすいほど朱くなった。
それはそれで反則だって気がする。
その火は益本にも伝染する。
室井と青島がどういう臭い仲なのかは意外と知っている者は少ないが、やはりそういう仲だったのだと益本は改めて思った。
新城も言っていたが、室井が完璧に隠していて証拠がない。
まあ、そうだとは思っていたが、本人の口から聞くと衝撃だ。
衝撃だが、それよりも、青島を性的対象として見て良いのだと改めて肯定された気がして、少々益本の顔も火照った。
どこか後ろめたい気持ちも確かにあった。それが今は爛熱に焼かれていく。
二人してなんとなく俯き、視線が外された。
「履歴があるわけじゃないから。でもなんか見たことある気がしたんだよ、こう、サイトの雰囲気とか、文章とか」
「女相手にソッチもって思った可能性は?」
「んなアブノーマルな付き合いするかよ」
顔の前でひらひらと手の平を振る様子を見る間でもなく、青島がフェミニストであることは疑いようもなく
恐らくは正攻法なアタックとセックスをしてきたのだろうことは疑いようがない。
どんなふうに女に触れ、抱いてきたのか。どんな顔を見せるのか、知りたくなる。
「なんか、俺、ほんとに記憶、失ってたんだな~って」
「・・・」
「俺の10年、どこ行っちゃったんだろ?」
その口ぶりがあまりに寂しそうで、益本は言葉を挟めなかった。
俯いたまま、青島がペン回しをして、窓の外を見る。目の前にいる益本の存在すら映さなくなったその瞳に映る夜が、墨色に落ちていく。
「あっちは自分のせいだって言ってっけど、それって俺のせいじゃん。俺が忘れちゃったことで、どんだけ今――」
言いかけ、青島がその先の言葉を躊躇った。
失われた言葉が埃の中に落ち、段ボールを開封する音やキーボードを叩く音、何かを操作する音、それら作業音が静かに耳に入ってくる。
益本は資料を置き、両拳を青島の頬に宛がい、無理矢理自分の方へと向かせた。
目をぱちくりとするその顔を掴んだまま、拳でぐりぐりと押す。
弾力が心地好く、益本が歯を見せて笑むと、青島もつられて小さく顔を緩めた。
「なにすんだよ~~~」
危うい距離感に、惑いそうになる。
見失うのは二人の関係なのか。倫理なのか。益本が青島と親しくしたのは青島の記憶がなくなってからだ。
記憶がなくなった彼が切なくて、消えてしまいそうで、その儚さに胸が詰まる。
自分が誰と話しているのか曖昧だ。
青島のことが益本の中から離れない。
そんな短い期間に急速に坂道を転がり落ちる惑溺した自身も、どこか別物だった。
「怖いならコワイって泣いていいぞ」
「こわくないもん」
「嘘だな」
「ほんとだって」
「“俺達ズッ友”」
「あはは、あれ、どうした?」
「貼った。スマホ」
「だせぇ、実は俺もやった」
一頻り、じゃれ合うようにはしゃぎ、青島が後ろに退けるが、益本が手を伸ばす。
それを避けようとした青島の手首を掴み、伸びてきたもう片方の手首も掴んだ。
逃げ場を失って、抗うことを封じられた青島がしばらくは身動ぎしていたが、やがて、益本が本気で逃がそうとしないのが分かると
両手を掴まれたまま、笑いが途切れ、力なく項垂れる。
そのまま出方を待っていると、観念した青島が益本を一度見て、下を見て、くちゃくちゃになった顔を向けた。
「わり・・、なんか、まだ、混乱してて」
「ま、当然だな」
一緒にプリクラ撮ったりカラオケ行ったりしていたつい最近の時間ですら、また一つ青島の中で褪せて流される。
幾ら心揺さぶられても、それすら無価値なものだと流される。
自分の意思とは無関係に変えられていく時間というものに、確かなものは残らない。
勝手に10年分の時間を取り戻させる現実は、酷く無情だ。
「俺が知らない俺の方が本物なんだって思ったら、今知ってる俺って、誰なんだ?」
「今知っている俺って方を、俺がこうして摑まえてる」
「摑まえんの?」
「捕まえますよー?刑事なんで」
しくじったというように自らの失態を悔やむ青島が赤い口唇を歪ませた。
綺麗に顔を作る青島に、切なくなる。
その急速に大人びた気配に益本の心臓が締め付けられた。
「今の俺には全部が嘘くさい。嘘ばっかりの中で一番嘘くさいのが・・俺だ」
「んなとこ、抜け出しちゃえよ」
現実からなのか、室井の部屋からなのか。
判然としない物言いに、それはどちらでも構わなく、今の二人にとって変えたいものに差異はなかった。
益本の言葉にやんわりと目線を上げ、青島がまた俯く。
「益本」
「ん」
「やっぱ、すんげ、こわい」
素直に吐露した青島が益本に両手を掴ませたまま、力を抜く。
「あのひと以外、何も確かな物がない」
青島にしてみれば、室井という男の存在はようやく見つけた、失われた記憶と繋がるたったひとつの鍵だったのかもしれない。
それは目の前の現実に自分を繋ぐ唯一の命綱だ。
ある筈だった知識が奪われ、自分の感覚に自信が薄れ、頼る人もなく、雁字搦めになる青島の戸惑いは、無機質な室内を損なわなかった。
帰る場所も戻る場所も失い、名前くらいをようやく絞り出せる脳味噌に、室井という存在に辿り着き、浮世を繋ぎ止めた。
だがそれは同時に今の自分の不完全さを露呈するものである。
益本にしてみれば、ようやく記憶との最後の繋がりとして、室井の存在が青島の中で鎖を掛けているように見えた。
どんなに逆立ちしても、10年分の記憶を差し引いても、室井と青島が過ごした長さの迫力に、益本は打ちのめされる。
やんわりと見つめるだけで、全てを包み込んだ益本の視線に、青島は泣き出しそうな顔を必死に繕った。
「俺って、なんだろ・・俺、消えちゃうのかな・・」
大丈夫、ほら掴んでいるだろ。
そんな思いを込めて、益本は掴んだままの手首を持ち上げてみせる。
青島が小さく吐息を落とした。
「益本は優しいな。・・甘えちゃいそうだ」
「俺が言ったこと、覚えてるか?」
その空気を壊さず、益本が静かに踏み入っていく。
記憶はないはずなのに、最初見た時よりずっと、昨日より今日と、日を追うごとに青島の中で室井の存在が大きくなっていることを
益本ですら感じ取れるのだ。室井が感じ取れていないわけがない。
何でこの二人はこうやって切欠もないところから惹き合うんだ?
惹き合うという言葉は少し違うかもしれない。でも確実に運命みたいな必然が室井へ青島を流そうとしている。
「コワイ時は、一緒に逃げてもいーんだぜ?」
悪ぃ、と言って顔を背けようとする青島の両手をクイッと引き、くりくりとした瞳を覗き込むように顔を近づければ、いつもは匂った香水がない。
そうか、あれは自宅の方に置きっぱなしか。
「どうする?」
今日は邪魔が入らない。
段ボールに囲まれた質素なシチュだが、意思を込め、益本は青島をじっと見つめた。
俄かに引き寄せられたまま、夜を映し込む瞳が益本を映し込んでいる。
「本気だからな」
室井は、思い出すまでと言ったらしい。落ちるまで、ではない。
つまり、恐らく思い出すことはない青島と、再び交わることはないと思っているのだ。
自分たちの恋は終わっていくのだと分かっていて、その終わりを迎える我が恋に、全霊を注いで完結させる。
それが室井の愛し方か。
頭の高さより上まで山積みにされた段ボールが壁際から二人を囲み、無造作に置かれたテーブルに向き合って座り
益本と青島は静かに見つめ合った。
数名の捜査員もまた同じ作業に没頭する声がBGMとなる部屋は静かで、背後の窓はとっぷりと更け、真冬到来の節電ビルは足元が寒い。
益本は周囲に視線を軽く走らせ、その動きに青島が訝し気に眉を動かす隙に、空かさずスッと首を伸ばした。
目の前に迫る滑らかな頬に頬を添えた。
敢えて接触するかしないかギリギリのラインの行動に、驚きも恥じらいもすっ飛んだ青島が、瞬きをして益本を見上げてくる。
その目を至近距離で捕らえ、耳元に告げた。
「俺のことも、嘘くさいか?」
「ここ、職場だろ」
「誰も見てねぇって」
熱を孕む吐息にくらりとした蜜が益本の脳髄に滴った。
「益本のそーゆーとこ、俺に似てる」
大して気を悪くするでもなく、毛嫌いするでもなく、ようやく青島が艶美な顎を反らして微笑んだ。
今夜は薫らない香水に、こちらも逆に情火を注がれる。
不意に見せる、生意気で誘惑的な表情に、食い入るように視線を外さないのは、せめてもの反撃だ。
室井が見ているのは過去の青島だ。
記憶が欠ける前の青島を今の青島に重ねて見ていて、それを押し付けている。
そんな男に青島は護れない。
「男の味を、今のお前は知らないんだろ?だったらそのまま忘れちまえよ」
「忘れたまま・・」
「知りたくなったら俺が教えちゃる」
「ばかだな益本も」
「だな」
愛されていたくせに、のうのうと胡坐をかいていた男が気に喰わない。
吐息が交じる距離で囁けば、そのまま吸い込まれて構わないと思った。
「抜け出せるか?」
「がっつりガードされちゃって。合鍵も渡してくんない。俺、信用されてない」
「ああ、そういう俺様キャラなんだ、官僚殿」
合鍵を渡さないのは信用の問題ではなく独占欲の問題だとは思うが。
「じゃあ攫っちゃうのはアリですかね?」
「・・ケリがついたら、ね」
今度は心細そうに憂いを帯び、悩まし気な表情は妍艶で、どこか官能的な色香を持った。
一人で背負う男の覚悟の顔だ。
その顔が、益本にもう一歩を踏み込ませる手筈を失わせる。
「んだよ、下心満載のメシも誘えないじゃん」
「ええ?」
きょとんと青島が益本を見る。それから紅い口端が持ち上がった。
その目は悪戯気に光り、益本に強請っている。
ようやく見せた笑顔に、張り詰めた空気も緩んだ。
「腹、空かね?」
「気が合うね」
「近くに安い店、知ってる。仲間内しか来ないとこ。予約入れりゃ行ける」
「あ、でも、目の届くところに居ろって」
「労働者の基本原則突き付けてやれ」
益本は同じプリクラが貼られたスマホを取り出した。
18.
「いいんですか?二人で外に出ていきましたよ」
益本と青島が連れ立って部屋を出ていくのを見届けながら、新城が入れ違いに会議室に入った。
浮かれた益本の声が廊下に反響し、並ぶ背中が時折振り子のように付かず離れず、重なっていく。
室井は中央テーブルで真正面を見据えたまま、仁王像のような顔で鎮座していた。
「室井さん?」
鬼の形相はピクリとも動かず、一文字に結んだ薄い口唇、瞼は微動だにしない。手元のプリントアウトした図面が、ぐちゃぐちゃと握り潰されていく。
話を聞くべきか流すべきか、どちらにも得しないだろうことを悟る新城が恨めしそうな眼差しを落とせば
室井もまた、ゆっくりとジト目を上げた。
「・・・」
「・・・」
捜査本部の正面で無言で見つめ合うキャリア二人に、辺りは不穏な空気立ち込め、殺気立ち、近くにいた捜査員たちがそそくさと掃けていく。
恐らく益本と室井の直前までの会話を聞いていたのだろう。
一体この先輩は何をしでかしたんだと新城もまたジト目に変わった。
「言いたいことがあるなら言え」
「しくじったのですね?」
目を剥き黙秘する室井に、新城が鼻から盛大な息を吐く。
昨夜連絡を受けた時には、青島をマンションに保護したという話だったが、その割には拗れたようだ。
今後の対応を協議するために訪れた新城は、どうしたものかと先が思いやられる。
室井の不機嫌の原因は青島にあるに決まっている。当の青島は益本と仲良く出ていった。
「で?」
もう一度、室井の拳がプルプルと硬く握られた。
「順当だ」
「それで」
「こ・・っ、告白してしまった・・」
「いきなりですか」
「言うなッ」
くわっと目を見開き、それでも抑えた声で制した室井は、周囲の視線に咳払いで誤魔化した。
室井は心底参ったというように、険しい顔で目を瞑る。
連れ込んで早々に脳味噌が沸騰してしまったらしい室井に、新城は閉口するしかない。
「少々口が軽すぎませんか。貴方、仮にも警察官僚ですよ」
「攻守の出しどころは間違えていない。ここで嘘を吐く方が青島を傷つける」
「これから一緒に住まなければならないのにこれ以上警戒させてどうするんですか」
「説明をしていただけだッ、ただ、最後に、ミスった。思わず零れていたんだ、こ、心の声がッ!・・そこは、言うつもりはなかった・・」
「本当に青島の前では色々とネジが飛びますね」
うんざりとした顔で室井が目を開き、スーツの襟を正す。
几帳面で神経質な男がここまで取り乱しているのは、確かに珍しい。
「捜査に支障はないよう、対処する」
「今更ここに色恋沙汰など持ち込まないでくださいよ、ただでさえ面倒な案件です。何かあっては、貴方の大事な相手を失うことになる」
「その前に益本に捕られそうだ」
「安易に告白なんかするからですよ」
グッと詰まった室井は最早口答えをする気力もないようだった。
とはいえ、益本を焚き付けた新城としては少々後ろ暗さもある。
新城にしてみれば、室井にハッパをかけるつもりで益本を煽ったが、益本に青島を譲るつもりまではなかった。
新城とて、ここまでそれなりに交流してきた大事な後輩をみすみす渡しては面白くない。
その辺りは室井が踏ん張ってくれると思っていたが、この有様である。
思った以上に益本が踏ん張ってみせた。
「なかなかやるじゃないですか、益本刑事も」
「・・・」
室井が酷く恨めしそうな目を新城に上げてくる。
お前はどっちの味方なんだと言いたいのだろう。
「もしかして、青島に避けられました?」
だが新城はどちらの味方でもない。
「それとも振られたので?」
「まだだ」
「よそよそしくなってしまったと」
「あからさまには。警戒はされていると思う」
「天邪鬼な男の操り術は貴方のほうが心得ているでしょうに」
「そうかもしれないが――信用されていない」
「だからそれは貴方が安易に」
「言うな」
新城の二度目の発言を遮って、室井は額に手を当てた。
「今も目の前で益本に掻っ攫われた」
「そう言えば二人はどこへ行ったんです?」
「夕食のために先に休憩に入らせてくれと」
静かに新城が腕時計に目を落とせば、もう随分と遅い時間を指していた。
「許可したんですか」
「・・・」
「まさか押し負けたんですか」
「ここにいる全員、朝からずっとこんな調子だ。捜査員の健康管理も役目だ。許可は正当な流れだ」
「先約しておけば宜しかったのに」
新城が情けないと思いながら卒然と呟いた言葉に、室井は今気付いたというように目を丸くした。
その表情に新城こそが驚く。
「考えもしなかったってお顔ですね」
「・・・」
「何やってるんですか。油断し過ぎでは?青島が一度自分を選んでくれたからって、今接点のない貴方をもう一度選ぶ保証などありませんよ。本当に奪われますよ貴方」
「分かったから!もう理詰めで一々責め立てるな・・!」
仕事中だと指摘する意図で室井がぐちゃぐちゃになりつつあった図面をテーブルの上でスライドさせる。
それを取り上げ、新城が軽く目を通していく。
室井が顎に手を当て、正面を向き、仕事を装う。
「・・喧嘩していたんだぞ」
「それもどうせ貴方が一人で突っ走ったからでしょう?」
「何故言い当てる」
「アレが貴方の青島じゃないとして、あの青島を護る役目は誰にあるんでしょうね?」
融通が利かない、機械的な物言いしか出てこない、室井のその不器用さが、どれだけ青島を傷つけてきたのかは
室井本人は知りもしないのだろう。
「過去に決着を付けてやりたい。そもそも全ては私の責任から始まった。だがそれは過去の青島と心中するということだ」
「記憶があったら、青島は貴方のその道連れに喜んで付き合うのでしょうね」
室井が新城を見上げた。
新城も視線に気付き、資料から顔を上げる。
「確かに約束を失った青島を解放させたい貴方の気持ちは分からなくもない。彼はここまで充分我々の礎となった。解放させてやりたい」
「・・ああ。ずっと、大変な決意をさせてしまったと。こんな道を選ばせてしまった。キャリアの闇にまで付き合わせ、挙句、こんな」
「貴方には青島が必要だった」
「必要としているのは、私だけだった」
室井の強がりが、年を重ねた分、哀愁を増し、それは同じ時間を過ごした新城にも痛いほど理解できた。
年のせいなのか。これが経験という記憶の苦味なのか。
「記憶のない青島をこの先の政治に付き合わせられるか。そんな権利も力も、俺にはない」
「それで」
「俺たちは友人となった。過去に始末を付けるため、戦う戦友だ。裏切れない」
堅苦しい思考回路は、だが堅実で謹厳な室井らしい。
その堅物ぶりが、恋の流線を阻むのだろう。そんなところまで、今の青島に伝わるかは甚だ疑問が残る。
同じキャリアとして、政治の暗闇は分かるだけに、新城も強くは否定できなかった。
「青島に何て言ったんです」
「もう一度・・口説き落としたいと」
「どちらの?」
闇色の瞳が一瞬の動揺を乗せる。
そこの境界が曖昧になっているから室井は出遅れる。
目の前の青島には、過去の室井のリードなど何の意味もない。
益本に強気に出られないのも、身を引いたつもりでいるからだ。
「意地の悪いことを聞かないでくれ」
「だったらさっさと今の青島に振られてください。未練たらしい。記憶ばかりに固執されては、確かに息が詰まる」
「簡単に言うな」
室井が口を尖らせる。
「ならば大勢の前で愛を叫んでみますか?泣き縋って跪いてみますか?それとも力づくで手に入れますか?」
「アイツの前でそんな恰好悪いこと出来るか」
「綺麗事もいいですけど、みっともない」
「みっともないとはなんだ」
「言っていることと、やっていること、貴方バラバラですよ」
「分かっている!だから困っているんじゃないか!」
「反論は正々堂々と本音を言ってからにしてください」
気付きました?と新城の目が室井を咎め下ろせば、室井が情けない目で見上げた。
頭でっかちの理性よりも、室井の感情の方が余程正直だ。
友人となったと豪語したところで、室井の中から溢れ出した感情は歯止めも効かなくなっている。
今の室井は、過去の青島も、今の青島も、両方が欲しがっている。
図々しいなと思いつつ、強かで野心的でなければキャリアは務まらない。
「今更、不確定要素に賭けろというのか?」
「最初からでしょう?」
「アレは青島から託された大事な形見なんだ。二度と傷つけるわけにはいかない」
「ご自身がもう一度傷つくのが怖いですか」
「君は怖くないとでも言うのか」
「室井さん、貴方の悪いところは往生際の悪いところです」
ジロリと室井が目玉を持ち上げる。
新城も負けじと見下ろした。
欲しいくせに出し惜しみをし、譲るつもりもないくせに踏み出せない。煮え切らない男に待つのは哀れな苛立ちだ。
「・・参った。反論の余地がない」
「それは、貴方が不甲斐ないからです」
またしても正論をぶつけた新城に、室井は最早閉口するしかなかった。
「ですが室井さん、私は貴方の往生際の悪さを尊敬もしてますよ。こと、青島に関してはね」
驚いて振り返る室井の視線が新城の背中に突き刺さる。
むしろそれを心地好く感じ取り、新城はテーブルに仰々しく腰を下ろした。足を組み上げて見渡す視線は勝ち誇った笑みが嫌味のままに添えられる。
苦々しく室井が不服な目で訴えるが、最早負け惜しみにしかならない。
打ち合わせに入りますよと新城が手元の資料を置き、促した。
***
その日の帰りの送迎の車内はいつも以上に冷え込んでいた。
車窓には冷たい雨が打ち付ける。
益本と夕食から帰って来てから、青島の様子が少しおかしかった。
チロリと視線だけ走らせれば、頬杖を突き、反対側の車窓に流れる街を虚ろに眺めている。
端正で優美な横顔に濡れた夜光がエメラルドに反射し、冷たい色に睫毛が影を落とした。
男をドキリをさせるだけで、何も告げない表情が、また一つ闇に隠される。
月光に浮く輪郭は、何を想うのか教えてはくれない。
室井は視線を落とし、痛む心臓に奥歯を噛む。
視線を感じているだろうに、青島はこちらを向こうとはしなかった。
「・・・」
ふとバックミラー越しに運転を任されている中野と視線が合う。
彼の視線も、青島がどうしたのか不安げに問いかけていた。
「何かあったのか」
「・・・」
室井の言葉は誰へともなく零れ落ち、それに応えるものはいなかった。
ふぅと落とす息さえ憚られる緊迫感に、室井はもう一言だけ添える。
「益本と何かあったか?」
「・・別に」
一言だけ返事が聞こえ、そうか、とだけ室井は答えた。
