公文書Code3-2-8 006










11.
小走りに階段を降りる通路の先に、長い影が揺れた。
黄昏時のぼんやりとした逆光はその輪郭さえも曖昧に溶け込ませてしまう。
目を細める室井が階段を降り切った時、待ち伏せていた益本が立ちはだかるように腰を上げた。
鋭い眼光を向けてくる。
自分に用があるかもしれないと分かりつつ、室井は敢えて視線を合わせない。

「探しに行くんですか?」

通り過ぎてから、足を止めた。
室井の行き先を知っている上での足止めだ。
つまり用件は一つしかない。

「貴方自ら?今までほったらかしにしてたのに?」
「何が言いたい」

背中を向けたままの優越な態度を崩さず、室井は腕時計を見る。
益本はスマホを持った手を高々と振り、室井に近づいてきた。

「コンタクト取れますけど。コールしましょうか?」

暫し考え、室井は厳格な声色で制した。

「言いたいのはそれじゃないだろう?」

実際本当に連絡が取れるのであれば、今必死に街中で鬼ごっこをしている捜査員の助けになるだろう。
室井などに一々報告してこなくても、直接現場に連絡を取ればいい。
だが追手が警察でなかった場合も有り得る現状、不用意に鳴らすことは憚られた。
そんなことはこの益本だって分かっているに違いない。

「ええ、まあ」

案の定、益本は素直に認めた。
周囲には人影はなく、二人のせいで開かれた自動扉が室井の目の前で静かに閉まっていく。

「もう聞いていますよね色々と」

益本が単刀直入に切り出した言葉は、静かに室井を責め立てていた。
明らかに室井は未だ連絡先を知らされていないのを知っていて、自分の方が一歩リードしていることをアピールする言動だ。
いつかはこういう日が来る予感がしていた室井は、仕方がないという風に目を向ける。
紫の霞の中で、二人の視線が初めて交差した。

「――ああ」
「知ってて放置。余裕ですか?」
「捜査に支障がないのであれば、口出しすることじゃないだろう」
「仕事の話をしてるとでも?」

当たり障りのない言葉で濁す室井に、益本は引き下がらなかった。
髭すら生えにくい室井に比べ、年も上で、かなり居丈高な益本は、見た目以上に強椀に立ち塞がる。
チームを組んでいた頃と変わらぬ敵視を向けてくるが、久しぶりにこうして向き合う姿は、共に歳月を重ねたことを物語っていた。

「仕事の話でないのなら、後にしてくれ。急いでいる」
「そうやって逃げるんですか?青島からも」

ギラッと夕闇に室井の漆黒が紅く強まった。

「言っている意味が分からない」
「もう青島の周りをうろつくの、終わりにしてもらえませんかね?」
「・・・」
「引き下がれって言ったつもりですけど」

言葉を選ぶことなく、仮にも上司であり現捜査本部の長である室井に、益本は高圧的に言ってのけた。
室井はその不躾な態度よりも、内容にザワリとしたものを感じ、身体が堅くなる。
ついに来たかという感じだった。

「それこそ、君に指図される謂れはない」
「そうやって、過去に縛り付けていることが、彼の負担になってるって思いませんか?」

それは何度も考えた。
一番目を背けていたことだ。
言い当てられ、室井は天井を仰ぎ、寸暇の後、鼻から息を吐き出した。

「振られたんでしょう?」
「言葉を慎め」
「だったら最初から恥じることすんなよ!」

宙ぶらりんとなった室井の見苦しさを、益本は正面から突き付けていた。

失われた10年を愛することの罰は永遠に逃れられない。
益本が毒づくこの恋が、罪咎な情熱だということも、未来に永遠に続く烙印に導きもないことも、とうに知っている。
青島を失った夜から、正解が掴めないまま、生きていかなきゃならない心許なさが、事実を受け入れていないことだと気付いている。
それでも手を取ったあの日の覚悟も狂おしさも後悔も知らないくせに。
突然断ち切られた日々に、ありがとう一つ言えなかった痛みも、無念も
乾いていくだけのこの孤独も知らないくせに。

「もういい加減、彼を解放させてあげてください」

益本の顔は微塵も笑っていなかった。
出過ぎた行為を後悔する色もなく、批難を込めた口調で室井を糾弾していた。

「未来を見させてあげようとか思わないんですか?大事じゃないんですか?」

失ったものや得られなかったものだけを見つめているときに過去に対する苦しい後悔は起こりがちだ。
俺を失くして進む君に、出来ることを持たないということは、要らないということ同義だと益本は言っている。

殺し合いが始まりそうな気勢で二人の男が均衡状態を拮抗させる中、益本の言葉に、やがて室井は気付く。
彼が言いたいのは宣戦布告などではなく、今の青島への心配だったり優しさだったり、そういう思いやりだ。

「・・・これは、事件なんだ」

それだけ言うのがやっとだった。
冬の乾いた空気は肌も喉もひりつかせた。
刹那、睥睨の中央で、音もなく空気が切れる。

「一人にさせんなよッ」
「君に何が分かる!これは俺と青島の問題だ・・!」

弾けるように二つの怒声が重なって階下に響いた。
苛立つ益本に、煽られ言って、室井は嘲笑するように口端を歪める。
生きていればそれでいいと思った。でも違った。二人で過ごした時間を持たない青島は、俺の青島じゃない。

「そういうルールで動いている。それは青島も納得していたことだ・・!」
「ハッ、ルールね。だったら事件が終わったら、俺がどう行動しようと自由ですよね」

胸倉を力任せに掴んでくる強さに眉間を潜ませ、室井がピリピリとした神経を尖らせれば、負けじと益本も息巻いていた。

益本には本田の狙いについては未だ伏せられていた。
室井の行動が見張られていることを、益本は知らない。
益本から見れば、行方不明の恋人を越権行為で探した挙句、記憶を失っていたら傷ものにされたとばかりに捨てた男に見えるのかもしれない。
随分と、情熱的な中年男にされたものだ。

それでも、どうすることも出来ず持て余している自分は、益本の描く浮ついた男と大差なかった。
逃げたつもりなんかなかった。
忘れられて、青島のために何が出来るか分からなくなってしまっただけだ。
青島を失って、自分の未来さえ見えなくなった。
せめてこの恋に誠実でありたくて、約束まで捨ててしまうことが出来なかった。
俺くらいは、共に生きた時間を覚えていてやらないと、余りに青島が可哀そうだと思った。
それでもそこに、益本が抱くような温情があっただろうか。

失われた10年を愛することは、今の彼を否定している。

やがて、益本が舌打ちし、戦慄く手を投げ捨てるように振り解く。

「何故、君がそんなことを」
「ダチを気遣っちゃいけませんか」
「青島が何か言ったのか?」
「仮に何か言ったとしても、それを話してもらえない貴方が知る必要がありますか?」

益本の目は青島が欲しいと言っていた。
雄の欲望を隠さぬ目は、同じ戒律に堕ちた男の目だった。
その恋敵の方が、容易く二人の未来を夢見ることが出来る事が、室井には妬ましく、ただ羨ましかった。

「君には、話すのか」
「まあ、愚痴の聞き役程度ですけどね」

それでも羨ましいことに変わりはなかった。
過去を知る者たちの助言よりも、無関係の人間の視点から繰り出す言葉は、室井の深部を突き刺し、抉り取り、打ちのめしてくる。
記憶を消した青島を、独り占めする権限は今の室井にはない。
室井の目が闇に溶け込むように静かに伏せられる。

「・・そうか」

怒りも恨みも、波が引く様に収めた室井の声が零された。
それが益本の癇に障る。
室井は話を終えたとばかりに、もう一度時計を見た。
焦れた益本が、不遜にも室井の腕を掴む。

「室井さんッ!」
「君が本気で欲しいと思うのなら、君が向き合うのは私じゃない」

空を切るように室井が腕を捻り、益本の拘束を振り払った。
技術を見せつけられ、顔を猛々しくする益本を、室井は折伏させる。

愛した男の倖せは、室井こそが願う。
それよりもっと大切なのは、相手が凄惨な経験をどう理解したか、現在の自分がどんな人間かをきちんと知るために、心が記憶をどう整理したか、だ。
それを担うのは、益本みたいな、過去を持たない相手が相応しい。

負け惜しみなのは百も承知だった。
今は譲ってやる。
忘れられた男は、引き下がるしかないのだ。














12.
「見ていらっしゃったんですか・・」

室井が消えた後、壁から姿を現した新城に、益本はしくじったという顔で青筋を立てた。
バレてしまっては取り繕い様がない。

「連絡を取り合っていると聞いていたが。本当のようだな」

主語を敢えて抜かした新城の言い回しに、益本も利口に意図を察する。
本庁内で彼の存在を口にすることは今かなり危険だ。
迂闊に室井と口論になってしまったが、他に誰にも聞かれていないことを益本は祈った。
なんか、かなり、ヤベーこと口走ってしまった気がする。

「酒呑んだり、ゲーセンでプリクラ撮ったり、カラオケ行ったり、くらいですけど」
「流行の歌が歌えるのか?」

雑談に乗ってきた新城に、緊張に警戒を乗せ、益本は必死に言い訳を考える。

「まさか!昭和世代ですよ。懐メロですよもう」
「あの男は喜びそうだな」
「それが!知ってました?あいつ、すっげー歌、上手いんすよ。俺、立場なくって」
「憎たらしいほど何でも器用にやる奴だ」
「少しは気晴らしになればと・・、や、そんなの言い訳で、もう少し、下心はあったんですけど・・」

頻りに頭を掻く益本に、新城が靴音を鳴らして近づいた。
グッと益本の身体が強張る。
新城賢太郎と言えば既にキャリアの中でも憧れの出世コースを歩む、突出したエリートだ。
目を付けられたら、この東大派閥が牛耳るキャリアの中で、生き残れない。
益本はこれで出世は潰れたと思った。

「室井さんとの仲を知ってて近づいたのか?」
「それは――」

仲とはどこまでのことを指すのか、益本は戸惑った。
だが、さっきの会話を聞いた上で問いかけるということは、つまり、やはり、そういうことなのだ。

「フン、今更確信したって顔か」
「半信半疑だったので」
「だろうな。室井さんがあらゆる手を尽くし、隠し通していた。そこに隙は無かった」
「護っていたんだって脅しですか」
「隙は無かったのに、何故、今回狙われたのかということだ」
「!」

新城は青島に対しても、他のノンキャリよりも付き合いが深いと益本は見ていた。
無論、室井との交流も近く、長い。
その新城に、青島との仲について、室井寄りの発言でもなく、中立的な視点で指摘されたことに
益本は改めて敬服しつつ、畏怖を覚える。
新城の魂胆が見えない。
が、ブレない視点は、室井よりも魅力がある。

「新城さんはいつ頃?どうやって知ったんですか?」
「あの堅物が、唯一世間話を振ってきた。妙に懐かれている相手がいると」

演技は下手だと嗤う怨色の顔は、夜を迎え表情を失う。
なんだろう。
その場面を見たわけでもないのに、何故か益本はその時の室井を想像して、腹の底がムカムカとした。

「お前はその下心とやらをどうするつもりだ。室井さんから奪うのか?」
「ぇ、あ」
「あの室井さんに喧嘩を売ったんだ。貴様がそこまで同僚思いだったとは知らなかった」

流石に迷った。だが、ここまでバレてしまえば隠す意味もなかった。

「なんか、後に引けなくなっちまったなって・・、だって、だからって、あの態度はないでしょう!?」
「そうだな」

ゲームで勝ちを意識したかのような顔を見せた新城に、益本はこの会話の真の狙いを未だ掴めず、薄ら寒さすら感じていた。
これは、煽られているのか、牽制されているのか。
自分は何を試されているのだろう。

「そう脅えなくていい。良い啖呵だった」
「・・失敗した・・」
「いい。誰かがあれくらい言わないと、あの人はいつまでも大袈裟に悲劇のヒロインぶるから」

頭を抱える益本に、新城は特に気を悪くした風でもなく、官僚然とした態度を崩さなかった。
だがそれは、室井も同じだった。
上官というキャリアを忘れて煽るだけ煽ったが、室井を真の意味で屈することは出来なかったように思う。寸ででかわされた。
改めて咬み付いた相手の階級と素質に、益本は竦み上がった。
トントンと規則正しくファイルで手を叩く様子が、逆に空恐ろしく映る。

「私、飛ばされますかね・・」
「室井さんはそういう個人的な感情で人選するタイプではないだろう。お前の能力次第だ。私なら――ライバルは残らず抹消しておくが」

驕慢な態度で顎を上げた新城のせせら笑いが温度を持たぬ大気に揺らいだ。
感情的な本音を丁寧に隠すその高潔な顔に似合わず、言っていることはかなり際どい不気味さが、彼の真の実力か。
小柄ながら、その威圧は凄まじく、益本のスーツの中はこの寒さ中、滝のように汗が垂れていた。
見えぬ姿を追うように透明の自動ドアを一瞥した新城の視線が、再び益本を冷やかしの目で嘲る。

「で?お前はどうするんだ。室井さんは多分、現場に向かったぞ」
「!」
「後れを取ると、元サヤだな」
「!!」

ハッとして、益本は思わず顔色を変えた。
貶められたことを知るが、とうに覚悟が決まっていたことも知る。

「・・渡すかよ!」

益本が唸るように洩らした。

「一言だけ忠告しておいてやる。あの二人に関わるとロクなことにならないぞ」

踵を揃え、背を伸ばし、敬礼をしてから、益本は走り出した。















13.
視界に入るだろうタイミングを計算し、室井が脇道から姿を出せば、敏い青島はやはり気付いた。
指先を動かすことで、青島の行く手、信号先の公園を指し示す。
国道のこちら側から、走る青島が向かったのを確認してから、室井もそっちに向かった。

そこそこの広さを誇る敷地はこの時間、陽は落ち、辺りは街灯が青白く光っている。
室井は先に着いていた青島に追いつくと、すぐさま駆け寄り、水道から直接水を含む彼の腕を引き、室井はその場を離れさせた。
見晴らしの効くそこから移動し、また逃げる。
正面ビルの隙間に押し込んだ。
続けて室井も押し退けるように身を入れ、両手で青島を囲うと、息を潜めて時を待つ。

「・・・あれは一課の人間だな・・悪いことをした」

ボソリと独り言のように呟けば、青島がこちらを見たのが分かった。
誘われるように視線だけ向ければ、かなりの至近距離に顔が接近し、視線が合う。

「!!!」

なんって大胆な態勢に持ち込んでしまったんだ!
近い!近過ぎる!そりゃそうだ、大人二人が入れるほど広くないビルの設備用通路だ。
周りは白い柵で囲われ、空調機や室外機、受変電機設備が幾台も並び、モーター音が作動している。
だがそんなのは室井の耳には入らない。

足が絡まり、胸板まで密着しそうなほど接近している。
久しぶりに触れ合う体温に、見知った気配に、室井の目は見開かれた。脳味噌はショートした。
青島の顔横に室井が両手を付く体勢のまま見つめ合う。

際どい距離に上目遣いの恐々とした表情は、室井の視界を釘付けにした。
間近に迫った青島の濡れた赤い口唇、触れそうに薄っすらと息を上げる吐息交じりの呼吸。
走ったせいで染まる頬、今日に限って掛けていないサングラスのせいで思い切り視界を捕らえるあえかな瞳。
変わらない石鹸の香りだの、見知らぬ香水の香りだの、医療用傷当てガーゼの消毒液の匂いだの
何から何まで、嗅覚、視覚、触覚と、ありとあらゆる感覚をダイレクトに直撃され
あれだけ悶々と理屈を並べていた室井の頭から何もかもが吹っ飛んだ。

「――ッッッ」

今日もだらしなく着込んだサテンの黒地シャツがこの寒空で大胆に開かれていて、目のやり場にすら困る。
男相手に目のやり場に困るだなんてそんな状況があるか。
いや待て彼は元恋人だ。恋をしたら性的興奮も覚えるのは自然な現象だ。
今も愛する面影と同じなのだ。
でもだからといって、誰が来るとも分からぬ野外で、こんな態勢で。
――室井の頭は大分混乱していた。

「ねぇ・・あんたさ・・」
「静かにしていろ。見つかったら困るのは君だ」

甘い囁き声で耳元を擽られたら、たまらない。
努めて形式ばって答え、室井は追手の様子に目を血走らせた。
青島の身長が室井より少し高いため、吐息も声も、室井の脳天に響く。

室井は仕事だと言い聞かせ、刑事たちが通り過ぎるまで必死に堪えた。
その中に益本の姿も見えた。
やはりあの後、彼も捜索に向かったのか。

「・・・」

あれは宣戦布告と言うより最後通牒だった。
だが彼は知らない。この街も、この街で暮らした青島の生活も。
青島の行動範囲も行動原理も分からないから、室井などに先を越されるのだ。

室井は彼らが通り過ぎるのをじっとやり過ごした。
数分、或いは数十分、そうしていて、更なる追撃者がいないことも確認し、室井は首だけを出して周辺を見渡した。
不審者はない。
最早顔を向けることも出来ず、室井はぶっきらぼうに空に命令する。

「出ろ」
「あんたが先に出てよ」
「・・無理矢理入り込んだんだ。靴が片方、柵に引っかかってしまっている。先に出てくれ」
「えええ~・・・、しょーがないなぁ・・」

青島の文句が室井の耳を幾度も掠める。
目を伏せて室井が身を引くと、あろうことか、青島は室井の両肩に手を置き、身体ごと室井に寄せるようにして長い足を折り曲げた。
その拍子に、密着した身体を室井が抱きかかえる形になり、室井は目を見開く。

「・・おい・・ッ」
「だって狭い」

なんなんだこの拷問はッ。
室井の首筋に額を埋めるようにして、青島が身じろぐ。太腿が擦り合わされ、室井の開いた股に青島が入り込んだ。

「ちょっと待て」
「じっとして?」

狭い通路で揉み合うようにごそごそと男が二人足元を奪い合う。
埃や砂が頭上から降ってくる。

「ん、あ、俺のも引っかかっちゃった・・・、よいしょっと。あれ、出ない。んしょ、やべ、引っ掛かったかも・・」
「まだなのか」
「んん~・・もすこし」
「早くしてくれ・・」

色んな意味で限界だ。
つい回しそうになる拳を握り締めることで耐え、室井は眉間を盛大に寄せて奥歯を噛み締める。
密かに誇る大殿筋と上腕二頭筋の才能を褒め称えた。
絡み合う四肢と、鼓膜を擽る息遣いに、強い酩酊感が襲うまま、胸板にしな垂れかかる青島に室井の全神経が集中していた。
太腿が、太腿が。

「あ、出た。片方」

勘弁してくれ。

「ほら、そっちの足を一度捻るんだ。ちがう、右だ。ブーツの紐が引っかかったらサンドイッチで朝までになる」
「こう?・・ん、ちょっと足こっち入れさせて」
「・・・」

室井より足の長い青島が動けば、それは室井の股間を刺激した。
太腿が熱く擦れ合う。
堪えろ、今は堪えぬくんだ。

「音を立てるな」
「しぃぃ~」
「ッッ」

耳元に吹き込まれ、ザワッと室井の肌が震えた。
シィって・・。子供みたいな甘い匂いと高めの体温が、取り巻く。

「遅い!」
「・・抜けない・・」
「ならもうブーツ脱げ!」
「そうする」

後ろ手にブーツを揺するため、青島が完全に室井に抱き付いた。
括れたラインと肉感が伝わり、室井は息を止める。

「あ、いけそう。出るよ?」
「・・なんでこんなことに・・」
「とと。よっしゃ、脱出成功ー!」

両手を上げて伸びをする青島の後ろで、室井が額を抑え込む。
手から擦り抜けた甘い肉体の感触が両手に残っていて、わなわなと震わせた。
室井にとっては青島の全てが室井を悩殺するのだ。
とりあえず、頭も身体も冷やしたい。
今夜は冷えてて良かった。


****


「なんであんたが俺に付き纏うわけ」
「付き纏われたくなかったら、私の目の届く所で暴れてくれ」

斜め上を仰ぎ、室井は強かに舌を出す。
ミネラルウォーターを一気に飲み干し、青島は面白そうに目をくりくりと瞬かせた。
成就の月にその身を委ね、清純な横顔はまだ汗で光っている。

「連絡しろと言っておいたつもりだったが」
「受け取ってあげただけだもん。それに、知らない番号からじゃ着拒されちゃうかもだし」
「なら番号を言え。登録しておいてやる」

売り言葉に買い言葉のようなやり取りに、楽し気でありながら、どこか緊張している様子の青島が不思議で、室井はつい素直に応答してしまう。
期せずして久方ぶりに感じてしまった彼の感触の残る手の平を、そっと握り締めた。
その室井に、青島はこてんと首をかしげてみせる。
スッと室井は顔を反らした。

「流石にそろそろ一課の人間くらい、顔を覚えているんだろう?何故無茶をした」

ばれた、と、赤い舌をペロッと出すあどけない表情に、無鉄砲だった頃の青島の面影を見る。

ベンチに腰掛ける青島の正面に立つ勇気がなかった室井は2メートルほどの距離を残し、斜めに立ち竦んでいた。
室井の足元に、青島の長い足がポンと投げ出され、その肢体の良さを見せ付ける。
今夜のシャツが月光に色を変え、医療用傷当てガーゼがやけに白く目立った。

「君にだって君を特別に想うひとがいる。だから、命を粗末にするな」
「あんたはそれが誰か、知ってるの?」
「気になるのか?」

思わぬ切り返しに、室井はつい顔を戻した。
そこに疑問を持たれるとは思わなかった。
今までだって自分のことには一切無頓着だった男だ。

「ん~・・、こないださ、荷物くれたじゃん。あ、返してくれたっていうべき?その中にスマホもあってさ」
「・・・」
「使わないけどさ、家に充電器あったし。中身みたの。イニシャルなのか愛称なのか、名前じゃない登録があって、履歴が不自然に消されてて」

室井の胸がドクンと高鳴った。

「誰?って思って。急に連絡取らなくなって向こうからも一切なしって、脈なしだしさ」
「・・・」
「まあ、アドレス帳のほとんどが、誰?って感じなんだけどさ」

確かにプライベート用の一台は持たせていた。
だからといって、全ての連絡をその一台で済ましていたわけではない。
当然、メイン・スマホの方でも短いやり取りはしていたし、その履歴は消しておけとも言っていた。
室井と青島の仲は本庁内でも周知のものであり、全く連絡を取らない、連絡先を知らないという方が、このご時世、不自然だからだ。

「えー?ヤバイひとだったら、俺んこと、タイホする?」

月光に儚く透ける青島はやけに綺麗で、冷たい大気に清楚な肌を晒し、ウェットな短髪を逆立てる。
冬の訪れを告げる風が知らない香水の香りを室井に幽かに教えた。
不安げに見上げてくる栗色の瞳は、室井を慕っていた頃のものでも、警戒していた頃のものでもない。
同じ夜に溶け込む瞳はお互いに矛先を見失う。

「大した相手じゃ、ないんだろう・・、気にすることはない」

じっと見ていた青島が情けなくへらっと笑った。
砕けた無邪気な笑みに、室井がウッと詰まる。

「なんだ」
「あんたさ、顔コワイけど、実はイイヒトでしょう」
「・・そんなことはない」
「そ?」

顔が怖いとはなんだ。人をなまはげみたいに。
付き合っている時は一度だってそんなこと言われたことなかったぞ。

「色々ごちゃごちゃ考えちゃって、最初の一歩が出遅れてそうなタイプ」
「・・・」

最悪だ。そんな風に見えるのか。
10年の記憶のない青島は、中々に容赦がない。

「ザ・警察官僚。頭堅そ~」
「いらねごど」
「あは、なまった。どこのひと?」
「しょわしね」
「ん?」
「・・・・・あぎだだ」

へえと興味深そうに室井の話を青島が聞く。
付き合い始めの頃もそうだった。
何が面白いのか、室井の話にじっと耳を傾けていた。

身軽にぽんっと立ち上がり、青島はそのまま夜空に手を翳した。
あちこち擦り傷だらけだったものは痕すらなく消え、すらりと美しい軌跡を描く様子から
残りの傷はもう額だけなのだろう。
もう行ってしまうのかと名残惜しく思う室井の前で、今日も一段とガラの悪くなった青島が瀟洒な顔で振り返った。
不意に、冬に変わる冷たい大気に紛れてしまいそうな危うさに、室井は身を硬くする。

「・・・」
「――・・」

不自然な間は、見知らぬ香水で室井の心を騒めかせた。
闇に溶け込む青島の輪郭に、不自然で不穏な空気が凍り付いた。

「俺の周り、不自然なことばかりだ」
「・・・」

顔色を変えることなく、無表情で刺した青島の言葉に、室井は言葉を呑み込む。
急に大人びた顔をする彼の顔が、陰惨に陰った。
それは、野性の獣のように感情が剥き出しとなる。
掴めそうで掴めない青島を、掴んでいいのかさえ曖昧にする闇色の影に、居心地の悪い沈黙だけが残された。

「ん!」

青島が腕だけを伸ばす。
指先には白い紙きれ。

「・・・なんだこれは」
「俺の名刺。連絡先、知りたかったんでしょ?」

まるで、出会いを一からやり直しているようだ。
室井の喉が震える。

「君は誰にでもそうやって名刺をばら撒いているのか?」
「その、義理チョコみたいな言い方、どーなの」

室井が近づかなければ届かない距離で、名刺が月明かりに光る。
室井の目が名刺を見て、青島を見る。

「私が貰っていいのか?」

青島が妖艶に微笑んだ。

「むかーしの都知事と同じ名前の青島デス。青島俊作。覚えてて・・。俺がいなくなっても」

何でそんな何代も前の都知事は覚えていて俺の名前は忘れるんだ。
消えてしまったことを茶化す青島を、ただ抱き締めたかった。
現実の室井の凍える手は、ただ鞄を握り締めていた。

「・・もう、消えるな。私の前から」
「逃げきれたら勝ちなのかなぁ、このゲーム」
「本職の刑事たちをこれだけ振り回しておいて言う台詞か」

欲しい?と弄ぶ顔で青島が指先で名刺を回す。
室井は乱暴に一歩踏み出し、掠めるようにそれを奪い取った。
青島の思うままに動かされている自分に舌打ちするその心根まで読まれたようで、青島が室井に指をさし、笑む。

「私で良かったのか?」
「・・さぁね」

気紛れで、意地っ張りで、素直じゃない。
特に今夜は消えてしまいそうに見えた。
脆く、儚く、崩れてしまいそうな、ギリギリの所で何かを堰き止めているような。
荒削りで無秩序な素振りは、見つめ続けてきたからこそ、幼さが露骨に物を言う。
青島の言葉の節々に感じる疑問を辿り、室井はハッとした。

「なにをするつもりだ?」
「焦れったくってね・・」

再び取り出したサングラスを、青島は夜にも厭わず掛け直した。
それも、防御なのかもしれない。
室井の手元に残された名刺に、青島の名前がクリアに映る。

「今度出会えたら、あんたとも友達くらいにはなれたかな」

あんたとも、と言った。
ということは。

「もう一人は、益本か?」
「知ってるの?」

やはり益本と交流を深めているのだなと思う一方で、何かが室井の胸に引っかかる。
今青島は逃げ切れたらと言った。
知らないアドレス、不自然な履歴、執拗な追跡者。それらすべてを判断する材料が今の青島にはないから
容疑を掛けられることを懸念し、青島は信用する人間を選べないでいる。
青島は口を噤んでしまう癖がある。
今はどうだ。ちゃんと冷静に青島と向き合っているか。なにかを見誤ってはいないか。
不自然なほどの焦燥と違和感が室井に去来した。

「まさか――、まさか君は、ワザと捕まってみるつもりか・・!」

そうだ、青島が大人しく護られてくれるようなお姫様じゃなかった。
室井が目を見開く。
誰も巻き込みたくなく、一人で決着を付けようとする男だ。
室井に告げたのは、最後に見届けてくれる相手として、キャリアは適役だったからだ。
それじゃこの名刺は手切れ金代わりか!
突如気付いた可能性は、目の前の青島の顔が肯定していた。

「待て。今本部とは別に裏で動いていることがある、じっとしていてくれ」
「相手の顔も狙いも分かるよ」

しまった。そこまでは計算していなかった。
何とか青島を思いとどまらせる方法を考えなければならない。
だが、今の青島を室井で説得できるのか。

「すまない、捜査情報は迂闊には喋れない、それは、君の安全の意味もある」
「そっちの事情は俺には関係ない」
「今君が動けば、裏で取っているガサ状まで紙切れになる!」

早口に室井が畳みかける。
追い詰められた今の青島の機嫌が損ねられたら、もう何をしでかすか分からない。
今この場で先手を。
どう言えばいい。
どう言えば青島に届く。
今の俺では青島を止められない。

「まだ何か隠してるんだ?」
「裏切っていない、本当だ」

胡散臭そうな顔を向ける青島に、室井は更に続ける。

「信頼してくれと言った。その言葉に誓える!」

彼が彼の意志でここにいてくれることを選んだ決断が、室井の中で俄かに違和感を燻らせ、困惑させた。
既に興味を失ったか、青島が眉を曲げ、背を向ける。
その背中に室井は畳みかけた。

「待て!詳細は言えないが、君を人質に取ることで、警察に圧力をかけたいのだと睨んでいる。君は元々警察側の人間だから」
「嘘くさい。俺の存在くらいで圧力にならないでしょ?他の人でもいいじゃん」
「犯人と思われている人物が狙っているのは警察全体ではなく、我々捜査本部というごく小規模な組織だ」
「・・・」
「君の存在は上層部への圧力にはならない、しかし、我々の、私の行動制限になる。何故なら」

それでも青島は、本田の話を聞けば、彼を助けようと言い出すのかもしれないと、遠く思った。

「何故なら、君が攫われたのは――、君が狙われたのは、私のせいだからだ」
「!」

月夜に青島の瞳が透きとおるように焔を帯びていた。
怒りだったのかもしれないし、恨みだったのかもしれない。自分をこんな目に合わせた憎しみでもいい。
それでもそんな一瞬に咆哮を自分に向けてもらえるのなら、それは室井にとって最高の蜜だった。
甘美な密に酔い痴れて、他の男の瞳になど映させたくない。
青島にとっての本当の敵は自分のような気がした。

「あんたと俺、なんか、あった?」

青島の声は、抑制されたように凪いでいた。
それが余計に室井の傷みとなる。同時にこの痛みに抗えない。
審判を待つように、室井は直立したまま、鬱勃たる顔を向けた。

「青島くん。君の仇は私が必ず取る」

ずっと、君に会う免罪符がないと思っていた。

「ふぅん・・」

終わりにするのなら、この件は自分が決着を付けるべきなのだ。
この恋の相手役が、自分だったのだから、そのくらいの権利は譲ってほしい。
益本の言う通り、目の前の青島のために室井が出来ることは、全てから解放させてやることだ。

室井の中で、どっちつかずだった気持ちに、ようやく覚悟が決まる。

この恋の最後に、君にこの手で餞をさせてほしい。
俺が、君を未来に送り出してやる。
それをするのは、益本なんかじゃない。

「あんたが俺に付き纏ってた理由ってそれか。結局、自分の罪滅ぼししたかったんだ?」
「違う――、そうだな・・、これは、俺の過去の清算になるんだろうな」

過去に囚われていくのは、自分だけでいい。
過去の思いも記憶も、青島の過去も、俺は捨てられない。あの頃の愛した青島を裏切れない。
凍り付いた、生きた時間の欠片が室井の胸に突き刺さる。
冬の風は、温もり一つ持たない。まるで今の自分たちのように。

「・・・」

室井に狙いを悟られた青島は、それでもどこか気分を害したわけではなさそうだった。
記憶がないということは、青島にとって周りの人間にどこまで何を言っていいのか、その判断すらつかないことだらけだろう。
室井は辛抱強く待つ。

「いいよ。じゃあ、俺の運命、あんたに預けておく」

室井は目を剥いた。
その言葉に、室井の全身が、細胞から、震えた。

顎を上げ、青島が赤い口唇に人差し指を押し当て、内緒ねと臈長けた顔を見せる。
光沢のある黒の革ジャンが彼を野性的にも荒削りにも見せて、室井を処裁する顔は凛々とし
未完成で清浄なままの青島が、そこにいた。
怖さも躊躇いも押し殺せる、凄艶な魂を、室井はただ眩しいと思った。

「・・ありがとう」

益本みたいに、未来を語れる勇気があったら、結果は変わっていただろうか。
一番愛していた。本気で惚れていた。
何より大切だった相手をこんな目に合わせて、怒りが静かに室井を支配していく。
だから、君の仇は俺が取る。

「俺、まだくたばってませんけどね」

室井はただ頷くのが精一杯だった。


****


交差点の角に立ち尽くしたまま、室井は青島の影が見えなくなるまでひっそりと見送った。
滲む視界に、自身の瞼が少し濡れていることを知る。

青島の中にもう自分はいない。
あの頃の君が感じたひとかけらでも、自分は持ち得ていたんだろうか。
今の室井は、青島と共に戦い、鍛えられ、形作られてきた、室井なのだ。

室井は熱くなった目頭を片手で抑えた。
青島が、少なくとも室井にやるべきことを遺してくれた。
あの頃の確かな気持ちのまま、曇りのない未来を歩んでいけば、君が認めてくれる気がした。

きっと今の青島は、寂しがる室井に青島が遺してくれた最期の贈り物なのだ。
だから君は未来へ。

幸せは叶えることは、俺たちは出来なかった。
この恋は俺が責任を持って墓場まで持っていく。
誰が青島の記憶を奪った。
誰が俺の大切な人の運命を狂わせた。

室井はスマホを取り出しコールする。

『私だ。頼みたいことが出来た』

もう触れることは叶わない。
抱き締めることも、キスをすることも許されない。温かな体温を感じることもない。
明日から俺たちは、史上最高の友人だ。













第一部完
the next stage beginning…    

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お気づきの方も多いでしょうが「過去の清算」という言葉は室青王手サイト「Virtual Brain/桜石日月さま」の小説の一節に登場するものです。
もうこの比喩を見た時、脳天直撃するくらい、なんって上手い言い回しなんだ!!!と、心の底から衝撃を受けました。
短い言葉に凝縮された的確な言葉の選択に感銘を受け、これ以上の完璧な言葉はないとまで思いました。

室青を表現するとき、室井さんはもう割と当初からぞっこんなわけですが、俺が尻拭いしなくちゃと何処かで思っているのだと思います。
その役目を誰にも渡すつもりはないし、その役目に優越感すら抱いているかんじ。
見事な表現で、今も忘れられません。大好きです。
敬意を払い、どこかで私も使いたかったのです。桜石様のファンの方、お気を悪くされたらすみません。
無断拝借すみません。苦情は桜石様のみ受け付けます。