公文書Code3-2-8 004









7.
暗闇に同化しているアパートの下から目的の部屋を見上げると、窓に明かりは点いていなかった。
3階建てのモルタル補修は秋の夜に深々と鎮まりかえっている。
室井は一度腕時計に目を落とす。

深夜を回る。時間を確認してから、近くのコインランドリーに向かった。
徒歩30秒。
想像通り、中央の待合室で胡坐をかき、週刊漫画雑誌を読みふける青島の姿があった。
ガラス越しに見る姿は、距離にして数メートル。
久しぶりに見る面影だ。

遠目に窓越しの影を盗み見るよりもずっと生々しい姿は、室井の胸を詰まらせた。
発見の氷雨が室井の耳に生々しく残っている。あんなに傷つきボロボロになった君を見て、足が竦んだ。
黒の鞄をグッと握りしめ、記憶のままの青島の横顔を見つめる。

風呂上がりなのか、洗い晒しの髪に真新しい白の絆創膏。
薄いブルーのデニムシャツを無造作に羽織り、胸元は三つくらいボタンが外れている。
長い足を組み、裸足にサンダルをつっかけた片方は脱げてしまっている。

彼の声を知っている。匂いも甘い吐息も、触り心地も知っているのに、目の前の彼は他人だった。
青島の中に自分がいないのなら、自分の中に残る記憶や熱は、想像以上に頼りなく嘘くさい。
突如引き裂かれてしまった心も感情も理性も、今尚置き去りのまま、追いついていないことをまざまざと見せ付けた。

余りにじっと見つめて動けずにいたためか、青島の視線がふと上がった。
ガラス越しに視線が合う。かなり驚いた顔をされた。
一度丁寧に頭を下げ、室井は灯りの元に姿を見せた。

「暗闇にとつぜん全身真ッッ黒の顰め面が居たら飛び上がります」
「声をかけるタイミングを失った」

それだけ?という胡散臭そうな目を向けられ、室井はジッと黒目がちの瞳で青島を見据える。
近くに来ると一層青島の気配を感じ、堪え切れぬものが室井の胸を掻き毟った。
他人を映す青島の透明な瞳と表情に堪え切れず、室井は少しだけ視線を下げた。

「何?」
「今日は逃げないので驚いただけだ」

足元には食べ終わったコンビニ弁当。
飲みかけのペットボトルはカフェラテだ。
週末のこの時間、青島はいつも大物の洗濯をするためにこのコインランドリーに入り浸っていた。
その習慣が変わっていないのは、新木場の生活がそういうサイクルで回っているからだ。

「なんか用事?」
「ああ」
「誰に?」
「君に」
「いつの?」
「・・今のだ」

寂しげに灯る瞳に、見つめるだけで動けない。
見定めるだけの、そんな仕草に、思わずといったように室井の眉間に少しだけ皺が寄った。

「・・・」

その顔を認め、青島の視線が一瞬だけ隣で唸る乾燥機の時間を確認に走った。
成程、逃げられないと察したか。
多分、今、青島の中で興味の方が勝った。

「体調はいかがですか?」
「・・たぶん、見てのとおりですよ」
「私のことは、分かりますか?」
「こないだまでストーカーしてた右のデコ刑事1号、ですよね?」

その称号に、室井の眉間が深く寄せられる。

「今日は連れのデコ2号はいないんですね」
「仕事で来たわけではないので」

ペットボトルの残りを飲み干すと、青島は乱暴に口許を拭い、室井を更に挑発するかのように凛と見上げてくる。
引き摺られまいと、室井は奥歯を噛み締め、睨み下ろした。
強いがどこかあどけない眼差しは、室井の知らない色をしている。

「だったら今日は何?手短にね」
「君が定時連絡をすっぽかさなければ警察も回りくどいことはしない」

敢えて責任転嫁するような言い方をしてみる。
乾燥機に表示されている時間は残り五分。
それを指し、青島が指を五本立てる。
室井はそれに頷いた。

「これが君の所持品となる」

ぶっきらぼうに紙袋ごと差し出せば、青島はそれをじっと見て、それからもう一度室井を見上げた。
座ったままの青島が、静かに隣まで来ていた室井を上目遣いで探る。

「・・・」

沈黙が続いた。室井は辛抱強く待つ。
ギリギリの攻防は、コインランドリーという舞台に似つかわしくない激しい心理戦だと室井は思った。

浅くなった呼吸が上質なスーツの下でじっとりと汗を吹き出させていく。
久しぶりに青島と話して、きっと緊張しているのは室井の方だった。
驚くほど心臓が早鐘を打っている。
その極度の緊張の中、それでも青島の一挙一動を見逃したくなく、瞬きもせずに室井は青島を瞳に映していた。
気を抜けば、これは俺のもんだと叫び出しそうだった。
今日は怒鳴り返されない理由にも、小さく警笛が鳴っていた。

「そっちで捨ててください」
「ルール上、それは出来ない。それに、それは君が大事にしていたものだ」

明らかに不審な目の色を向け、もう一度だけ青島が視線を紙袋に向けた。
すぐに離れ、室井の目を見据えながら、室井を探ってくる。
ただひたすら、室井は審判を待った。

要らないと言われるのは、こんなにも恐ろしい。

渋々青島が丸い指先を延ばしてくる。
それをスローモーションのように室井は見つめていた。
温度など、伝わる筈もないのに、室井の指先は汗ばむ。
時間にして数秒。青島は大人しく紙袋を受け取った。

「知らないのばっかだ。・・あ、でもこの時計、イイ感じ」

こんな見知らぬ物を今更渡されても困るといった顔色に、室井は沈黙で応える。
室井に聞かせるつもりもない独り言を耳に入れながら、室井は紙袋から事前に抜き取ったものを忍ばせたポケットをそっと握った。
靖国神社のお守り。指輪。
この二つはきっと、今の青島に返しても、意味がない。

「処分を希望するなら、あとは君の自由となる。警察の許可は要らない。ただ」
「ただ、何?」
「――いや」

出来れば取っておいた方が、後悔がないと告げるのは、余りに酷な気がした。
もし記憶が戻ることがあったなら、捨てたことを惜しく思うだろう。
でも、戻ることがなかったら、永遠に意味のないゴミなのだ。
室井が抜き取った、御守りと指輪も。遠い日の約束も。甘い記憶も。

それを背負わせることに今は意味を見出せなかった。
捨てられるのだろうと思った。今はその事実に室井の方が堪えられない。
とりあえず受け取ってくれたことに満足し、室井は足元のゴミ袋に目をやった。

「これだけは護れ。勝手に出歩くな。それと、食事を摂れ」
「食べてますよ」
「こんなコンビニ飯じゃなく野菜を摂れ」
「くっついてるレタス食べたし」
「そんなの野菜の内に入らない。面倒なら鍋でもしろ」

うつらうつらとしたやり取りの果てに、くつくつと青島が笑いだした。
他人行儀のその顔に、室井の胸はただ悲鳴を上げる。

「あんた、そんなこと言いに来たの?」
「・・・」

勝ち気な眼差しで、今度こそ揶揄うように軽く顎を上げる粋な仕草。伏目がちな男の眼差しに、室井の心臓はどくんと鳴る。
こんな表情は、見たことがなくて、彼を知らない時代の長さを呪った。

「変なひとですね」
「・・他に何を言われると思った」
「ん~、仕事の邪魔すんなとか、手間かけさせるなとか。説教?」

室井が黙したまま視線を向ければ、青島も見返した。
暫しじっと見つめ合う。
通い合うものなど、ありはしない。
仕切り直された人生は、重なる予感さえ握り潰した。
こんな会話をしていることすら、不思議な気がした。自分は一体誰と話をしているのか。
それでも、久しぶりに青島と直接対峙し、室井の中にあったあれほどの不安よりも強い動悸が、室井を高揚させた。

「悪いことだと、自覚はあるんだな・・」
「!」

室井は性質悪く口端を持ち上げた。
もうこうして個人的に会うこともないんだろう。

「失礼する。だがやるならもっと上手くやれ」












8.
部屋に入るなり、新城はスーツが撚れるのを嫌い、コートを肩から滑り落とした。
木目調のハンガーラックには高級スーツが何着も並ぶ。
疲労感を隠しもしない指先が、取り損ねた一つの木製ハンガーをカツンと落下させた。

「お疲れのようで」
「これで疲れないタフガイがいると思いますか」

一倉が拾い上げたハンガーを目線だけで礼を言い受け取ると、新城は一倉にも二つハンガーを手渡した。
ツヤツヤと光沢をもつ木製のそれは、重厚感があり、重い。
一つを受け取り、残りを入り口で寡黙に控える室井に振る。

役職が上がるたび、それなりの恰好を求められた。
だが一倉は元より、室井とて、そこそこの銘柄であり、新城ほどの値段はかけていない。
新城の愛用ブランドは高品質な生地を提供している世界的に有名なファブリックメーカーで
その最高級ブランドに劣らない品質であり、公僕としてというよりは、代々続く名家としての嗜のようだった。
オーダースーツならではの十万円台からの取り扱いが多い。

「その辺に適当に座ってください」

自宅に招いたにも関わらず、持て成すことを放棄した新城の促しに、一倉と室井はテーブルを囲むように腰を下ろした。
塵一つ落ちていない行き届いた八畳間は月明かりが窓枠を囲む。

「おお、いいウィスキーが並んでんじゃねぇか。注いでやろうか?」

一倉がダークブラウンの戸棚に並ぶコレクションを、顎を擦りながら品定めをする。
昭和で時が止まったような内装は、障子を開けた向こうの闇に紛れる庭園と相まって、酷く世相を忘れさせた。
家の者はいるということだが、屋敷の広さのせいか、人の気配は薄い。
打ち合わせの場所は喫茶店や個室のラウンジでも良かったが、誰に聞かれるとも分からない状況を今は避けたかった。
この面子がやけに接触していると目立つことも危険視した。

「それも、私の精神安定剤でしてね」
「よく集めたなぁ」
「父や叔父から譲り受けたものもあります。血筋が凝り性なんですよ、これでも」
「見りゃ分かる」

新城が心底意外そうに片眉を上げた。
グラスを三つ取り出し、テーブルに置くと、中央のブランデーを取り出した。
どうやらお気に入りのボトルらしいことは、その丁重な扱いで見て取れる。
タイは緩めず、ジャケットだけを脱ぎ、引き締まったラインを拾い上げる新城のベスト姿は、硬骨漢な新城には珍しく
そう多く拝めるものではない。

「それにしても良くここまで調べ上げたな」
「私の人脈を舐めないでください」
「・・・」

手元の数十枚に及ぶ資料は、今回脅迫状で指定してきた取引に関与するであろう官僚から、サロンに集まっていた政治家まで
日付と会場、連絡先、住居、資産まで合わせて記載されている。
大口をたたいても、新城もまた大きな橋を渡ってみせたことは明らかだった。

「口は堅いんだろうな?」
「さあ?刑事なんて腹に一物持った輩ばかりですからね」
「お前もか」

一倉と新城の視線が生温く絡み合い、同族である加担を晒し合った。

「かなり釘は刺されました」
「下りるなら今だぞ」
「選択肢を頂けるので?」

一倉の目尻が些か年老いたもののように滲み、孤独な哀調の眼差しに陰る。

「これがドラマならな」

打ちのめされても動かねばならない。
誰かが倒れても先に進まねばならない。
自分たちはそういう職業に従事していた。
ここで新城が下りても、一倉は責めることはしないだろう。
重たくなった空気を肌で享受し、少なくとも未だ最悪の事態にはなっていないことを、各々が確認することは
せめてもの慰めだった。

「俺の方はな、新城が警察内部を探るって言うから、そっちは任せて、当時の政府関係者を当たってみた」
「コネクションをお持ちだったんですか?」
「あるわけないだろ、一介の中堅キャリアが」
「――」
「昔、事件で知り合った三流記者がな、政治部にいたことを思い出して、それとなく当時の話、探らせた」

浪花節を揶揄するような発言をしても、こういうところが一倉である。
一倉らしい戦い方に、新城が今感じるのは優劣ではなかった。

「三流・・ね、品のないゴシップ記事を載せる方ですか」
「だが奴らの得意分野だ」

一倉の隣では、先程から室井が一言も発せず手元の資料から丁寧に目を走らせていく。
それを横目で長し、一倉はそこにスッと指先を伸ばした。

「その手に関しちゃ俺らより上手だよ。で、そこで上がってきたのが、この、マツダっていう執行幹部だ」
「ああ、ウチにも来たことありますね・・」
「・・・」

要所で飛び出る新城の高い系譜発言に、また一倉は閉口する。
何気ない名族意識は一々、一倉の気を削いだ。
呆れたように溜息を落としつつ、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。

「おっまえさあ、どんだけお坊ちゃんなんだ?」
「そうですか?」

渡された写真を見ながらフム、と顎を撫ぜる新城の仕草は貴族的で、この部屋に設えることでその風格は急速に格上げされる。

「今の今まで、ジャイアンにくっつくスネ夫ぐらいにしか思ってなかったが、・・いやはや、付き合いが長くても知らねぇもんだな」
「それ、誰がジャイアンだと思ってるんです?」

ピンと指で写真を跳ねさせ、新城が返却する。
写真は何かの集合写真だった。

「おい、それを出世争いから外れた俺に聞くのは酷ってもんだろ」
「ジャイアンどころかしずかちゃんにも見限られそうな橋を渡りましたけどね」
「まあ人間、落ちるときはあっという間だよ」

自宅ならではの砕けた仕草で背もたれに身を沈め、新城は片手を広げた後、グラスを取った。
褐色の液体がゆらりと揺れ、一気に喉奥へと流し込まれる。
悲痛な声色を隠さない呟きは、一倉の溜息も天井に大きく吐き出させた。

「こんなことまでしてしまった自分が信じられません・・」
「賢太郎坊ちゃんの最後の冒険ってとこか」

その呼び方止めてくださいよと払う手を、一倉が軽く小突く。
付き合いは長く、異なる理論や主義で対立したこともあったが、その進退を天秤にまで乗せるのは、新城の刑事人生においても初めてだった。

「権限が欲しいと飢えていた若い頃に比べ、ある程度自由度を持った今、まさかその身内を疑う羽目になるとは」

派閥の古株に護られて、新城はさして苦も無く順調に出世をしてこれた。
だがこうして、考察すれば考察するほど、自分を取り巻く層は、思うほど厚みがない。
今こうして共にしているメンバーくらい、腹の内を曝け出せない。
共にいることでお互い特に大きな利潤など貰えそうにもないのにだ。

「誰をどう信頼するか、此処から試されるぞ」

誰が信頼を置けるのか、誰なら気を許せるのか。事件が終わった時、恐らく世界の見方は変わっている。
その切欠を作った男は、それも楽しいでしょと笑うのだろうか。

「その後・・・どうなんです?」
「何も。元気に刑事と鬼ごっこやってるよ」
「そうですか・・」
「忘れているっていうのは、ある意味幸せかもしれんぞ。くだらんものを見ないで済む」
「不用意に構ってしまう男でしたね、いつも」
「もう、解放してやれっていう運命なのかもしれないなぁ」
「それでいいんですか?」

運命だなんて一倉が柄にもないことを口にする辺り、それだけ不可解なことが起きてしまった証拠だった。
振り返れば、室井と青島が出会ったのも、共鳴したのも、そして神格的な絆を見せたのも
新城にとっては何もかもが不可思議だ。

「それで、いいんでしょうか・・」
「お前の方が落ち込んでどうするよ」
「ええ、ええ、割り切るのが正解なんでしょう、勝手に期待したこちらが悪いんでしょう、でも、悔しいんですよ・・ッ」

腕で目元を覆ってソファにざっくりと倒れ込み、顎を反らして胸の内を晒す新城に、一倉もまた、同じ気持ちだった。
新城が室井を警察に必要だと思ったのは、室井が青島と成した壮大な、非現実的でありながら、力強い、あの約束の結末を見たかったからだ。
そこまで賭けるなら見せてみろと、焚き付けた。
室井の背後に青島がいるから賭けられた。
道半ばで、こんな形で諦めることになるとは思いもしなかった。

「あんなッ、散々人を食ったような生意気盛りで引っ掻き回しておきながら、私の手ではなくて名前も知らない下民に汚されたなんて、冗談じゃない!」
「だよなぁ・・」

一倉もグラスを取り上げれば、褐色の液体に映り込む自分自身は酷く情けない顔をしていた。
しん・・と途絶えた部屋には秋虫の声が感傷を煽り、一言も雑談には乗らず黙々と室井が紙を捲る音が時折混じった。
都会の一角であることを忘れさせる此処は、起きている悲劇をどこか虚ろに遠ざける。

「青島を見捨てられないのは、こっちの方だなんて、見苦しいったら」
「それだけ、いつの間にか、懐んとこに入り込んでて、アイツに寄りかかってたんだなぁ・・」
「勝手すぎる。前から思ってたことですけど!」
「アイツらしいじゃねぇか」

眩しくて、熱くて、太陽みたいな男だった。
警察を、引っ掻き回すだけして、消えていった。

「・・最後の最後まで手間のかかる・・」
「本人が聞いたら泣いて喜ぶな」

新城が腕を外し、身を起こした。
らしくなく、新城が必死になっているのも、やりきれない思い一心からの衝動だ。
それを、一倉も分かっている。

「だったら憚れってんですよ・・」

新城が零した悪態に、一倉は同意の目を向けた。
共通の眼差しの先に、額に腕の痕が付く新城がいる。
今は嘆いている時じゃない。
青島に最後にしてやれることが、我々にもある。

「とりあえず、落とし前を付けてやろうぜ」

これは、我々に対する挑戦状でもあった。
意見の一致はその目を見れば、伝わった。
その時、室井がようやく目を通し終えた資料をテーブルに戻し
老眼鏡の位置を整え、今度は一倉の資料を取り上げる。

「やはり、本田と青島に接点はないな」
「お前もそう見るか。同意見だ。室井を叩き潰すか、室井を広島から呼び寄せられる仲と知って狙ってきたか、だ」

一倉の意見に頷き、室井はページを捲り、言葉少なに目を走らせた。

「だが、私自身にも、恨まれるほど接点が思い当たらない」

被害者である青島の視点ではなく、室井の視点から見る概要でも、改めて突き付けられる動機の面での難局が浮き彫りとなってくる。
それが犯人像を不透明にさせている。

「事件を掘り返してくれる相手として、お前が適任だったんじゃねぇか?」
「わざわざ呼び戻してまでか?」
「過去、降格だの査問委員会にかけられた札付きだのでリスクがない、派閥がない人選という可能性はあるだろ?」
「派閥がないと言ったって縦の繋がりもない。友人でもない俺を信じるだけの勇気はないだろう」

この戦場に、池神は来春に東京へ戻すという餌をぶら下げてきた。
汚職を揉みつぶす役割まで与えるつもりで、始末を付けろと、池神は室井を広島から呼び戻したに違いない。
汚れ役だとは、分かっていた。
恨みは恨みを呼ぶ。負の連鎖は止まらない。
最終的に待つのは、いらないものの一掃だ。

新城がふと、先程の写真をもう一度手に取る。

「では、松田との接点は?」
「それも、ないな」

室井は資料を膝に乗せ腕を組み、眉間を深く寄せて考え込む。
そもそもこの事件の発端は、青島を狙ったものではなく、室井を担ぎ出すための作戦だったと睨んでいる。
だとしたら室井にそれなりの関与がありそうなものだが、誰にも思い当たる節はなかった。

「私の首を切るつもりか・・?メリットはなんだ?」

室井の現在の役職から見ても、引き摺り下ろしたいほどの価値はない。

「本田は今どこにいるんでしょうか」

新城が写真を見ながら呟く言葉に、一倉はそこにも首を傾げた。

「雲隠れしているのが不気味だな。脅迫文はまだ届いているんだろ?」
「目的は達成されていないということになる。室井さんにまだやらせたいことがあるのか?次はどこで動く?」
「青島に逃げられたことが想定内でも、記憶を奪えたことは想定外の筈だ。後は、記憶を失っていることを知っているのかどうか、だが」

ただそれも、本部の情報が筒抜けである現状では時間の問題であり、恐らく既に知られていると思って良さそうだった。

「室井の動きを見て何らかの異変は感じ取ってくる。利用するならそこだ」

何故青島が室井と接触しないのか。犯人にとってそれは不気味な現象に違いなかった。
今のところ、勝算はない。
勝算があるとしたら、青島を取り戻した今がチャンスの筈だった。
ただ、それをするには、無防備な青島がまた狙われる危険性があり、保護が前提となる。

「とにかく、内部から戦争を吹っ掛けるぞ、各自、辞表を用意しておけ」
「おい、あんまり大ごとにするな」
「青島が関わって大ごとにならなかった事件があったかよ?」
「一倉」

呆れた室井に、一倉の目は真剣だ。
新城もニヤリと笑み、身を乗り出してくる。

「確かに受け身は性に合わない。ここまで揃えば、上も説得できそうじゃないですか」
「だから全面戦争なんだよ」
「穏便にやってくれ」

新城まで乗ってきたことに、室井は更に眉間を深くする。
まったく俺の周りはなんでこう好戦的な男が多いんだ。
池神にしても、室井を担ぎ出せばここまでやってくることは、計算していた可能性が高いが
これは多分、池神と本田の持久戦だ。どちらかが気付いたら、次の手を打ってくる筈だ。
キャリアというのはどうも勝ち負けをかける勝負事には血の気が多い連中だと室井は思う。

「とりあえず、本田にガサ状を取ります。現時点で消息不明であることと、脅迫状の差出人の可能性が高いことで、充分説得力はあるでしょう」
「ああ、警察発表の前にこれ以上先手を打たせないほうがいい」

一倉と新城で勝手に進んでいく話に、室井は天井を仰いだまま、口を尖らせて噤んだ。
一応捜査本部のトップは室井ということになっている。
記者発表も自分がすることになるだろう。
顔出しすれば室井が出てきたことを本田に悟られるし、やりようによっては本田への宣戦布告になってしまう。
何より全責任が室井の肩にかかってくる。

「行け、室井。男になる時だ」
「一倉、他人事だと思っているだろう」

それでも親指を立てて、室井の肩を抱く一倉の顔に、室井が落とした溜息は軽いものだった。
それなりの覚悟は室井の中にもあったことが見て取れる。
悪態を残し、室井はまた手元の資料に戻った。
改めて室井の横顔を見直す一倉もまた、エンジンのかかり始めた様子に同期の目を向けた。

「なにかあったか室井?俺を騙そうなんて百万年早いぞ」

少し考えるようにして室井は間を取ると、観念したかのように老眼鏡を外した。
コトリと置く横には褐色の液体が濡れる。
差し出されたままのグラスは目の前でテーブルに電灯を反射し、ふと、秋虫の声が止んだ。

「この間、直接話す機会があった」
「え?会えたのか?」
「ああ。おかげで少し、決着が付けられた気がしている」

決着という言葉を使った室井に、新城も顔を上げた。
さり気なく一倉と視線を交わし合う鋭さは、室井には悟らせない。

「終わりにするのか?」
「どうだろうな・・」

ゆっくりと息を吐く様に使った言葉は室井の意図を曇らせ、この夜ようやく含んだアルコールが室井の薄い口唇を濡らした。

「嘘だろ?別れるってことか?」
「別れるも何も、今のあいつにこっちの記憶はないんだ」
「そうだけど、そうじゃなくて」

一倉の方がもどかしいと言ったように急く言葉に、室井は苦笑を覗かせた。
青島の手を取ると告げた時、一番反応を見せたのが一倉だった。
お前にノンキャリを護り切れるわけがないと頭ごなしに否定され、それに啖呵を切ったのも、そう遠い話ではない。
そのことを一倉がまだ覚えているかは分からないが、室井の虹彩に宿る色に何か感じ取ったらしく、決まり悪そうに襟元を緩めた。

「言って見ればこっちが振られたも同然なんだぞ」

相手の中に恋心がなくなった。
それは失恋と同義だ。
室井がゆっくりと顎を反らす。誰も見ていない漆黒はただ天井を映した。

「何悟ったような顔してんだよ、そんなにあっさり手放せるものじゃないだろ」
「誓った約束ごと、あいつは持って行ってしまった。私だけ置いていきやがった。もうここには何も残ってない」

室井が肺の奥から全ての空気を捨てるように息を吐く。

「しがみついているのは私だけだ」
「んな顔をして言うことかよ。取り戻すんだろ?」
「浪花節は嫌いなんじゃなかったのか」
「男には勝負する時があんだよ」

秋の夜更けは藍色のヴェールで包み込んでいた。
割り切れるわけがない。
室井の両手が、グラスを強く掴む。
取り戻せるのなら、なんだってする。
だからこそ、これまでだって、力任せで護ろうとして、痣ばかりつけてきたんじゃないかと恐くなる。
その痣が、今回の悲劇を生んだのだとしたら、君にどう償えばいい。

「もう、終わったんだ」
「馬鹿言え、そんなん青島が望んでるか、分からないだろう?」
「喧嘩をしていたと聞いたろう?あれは本当だ。騒動の前、少し口論をした。青島は、別れたがっていた」

手を離せば、君は解放されるのだろうか。
追い詰めてしまう切欠を作ったのは間違いなく自分で、非常事態に、そのことが欠片も影響しなかったとは思えなかった。
断ち切りたくて、限界の状況の中で、やっと捨てられたのなら、青島にとって記憶の喪失は救済だ。

「それが、青島の本心だと本気で思ったのですか?」
「・・・」

新城の言葉にも黙り込んでしまった室井に、仕方ないなという顔をして一倉が室井の肩を二度叩いた。
此処にいる三人は誰もが、青島に置き去りにされてしまった。

「静かに、待つ男でしょう?私の知る青島は、ですが」
「もう、過去はない」
「過去だの現在だの言ったところで同一人物ですよ」

同一人物といったところで、道連れにするだけの勇気を持てたのは、過去の青島が室井に覚悟をくれたからだ。
手放してはいけない存在だと分かっていたはずだ。
でも、記憶を捨てたなら、こんなキャリアレースに彼をもう一度引き込むだけの勇気なんか、室井にはない。

青島がいないだけで、世界は頼りなく不安で恐ろしいものに見える。
雨が恋を降らせて流していくように、記憶の中のあの日の地面はしとどに濡れていた。

「罰が当たったのかもしれないな」

キャリアの身でありながら、禁忌に身を焦がした。
それでも、青島から齎される罰なら、室井は望んで一身に受けるだろう。

「皮肉なものだ。ずっと、置いていかれないようにとこっちは必死だった。なのに私がアイツを見捨てて進むんだ。滑稽だろう?・・哂えばいい、みんなして哂えば」

青島は最後の引き金を引く役目を、室井に残した。
それをよりによって自分に託すのか。君を断ち切れないこの俺に。

俺を置いていくのなら、俺にも忘れさせてくれ。俺の中から君を消していけ。
でも実際、要らないと言われるのは、あんなにも怖い。
この恋の最後の審判の鍵が室井にあるなんて、どんな悪夢だと室井は思う。

「しっかりしろ、お前が諦めちゃ終わりだ。青島の尻拭いはお前の専売特許だろうが」
「どうにもならないことだってある」
「なんとかするんだよ!」
「どこかで終わりにすべき関係だったんだ・・!青島がいなければ、何も出来ない。どこにも進めない。俺になど、何の力も――」

室井が五指を絡めた拳をグッと握り、額に押し付けた。
もう君はいない。
永遠に会えない。
君のことを、どうすれば癒せるのか、分からない。どう詫びればいいのか、言葉を知らない。
その全てが、自分の犯した失態のせいだ。

「手帳を投げ出す時でさえ、貴方はどこか冷静でしたのに」
「馬鹿言え・・それだって肝が冷えた」

在りし日の同じ想いを馳せ、新城と室井は一度だけ視線を潜らせた。
室井もまた考えあぐねている様子を新城は感じ取る。
打ちのめされ、堪えている仲間を見て、どこか奇妙にホッとする。
そういう現実なのだと分かち合うことで、人は傷を抱え合うものなのかもしれない。
そういうことが、共に生きてきたということだ。
もう、青島とはそれが出来ない。

仕切り直すように、或いは、落ちぶれていくだけの思考に対抗するために、一倉がソファの背もたれを大きく揺らした。
凍った空気を掻き混ぜるが如く、指先を室井に向けて回す。

「悠長にしてっと~、益本に捕られちまうぞ」

また益本か。
納得したような室井の顔とは対照的に、今度は新城が困惑した顔になった。

「益本?一課の?」

説明を兼ね、室井が一倉に顎をしゃくった。

「何を聞いた」
「一課の方に顔出した時、ちょいと小耳に挟んだ。けっこー頻繁に連絡取っているらしいぞ。いいのか?」
「・・・」
「スマホで、だぞ」
「今の俺に何を言えってんだ」
「ダスティン・ホフマンみたいに攫いに行くヤツ」
「「・・・・」」

益本は青島と接触する機会はあった。
その中で二人だけのアドレスを交換した確率は高い。
それでも、そこまで青島にアタックした益本を忌々しく思わないわけでもなかった。
散々追い返された室井にしてみれば、口説くテクニックさえ、憎らしい。

ふぅと、大きすぎるような溜息を落とした室井は、老眼鏡を外した。

「無理だ。あからさまに逃げられている」
「益本にリードされたな」

そもそも恋人でなくても同僚でなくても、敵意を向けられるだけの動機が室井には分からない。
連日付け回したことが、そんなに気に障るのか?

先日会った時は、あんな風に会うのは最後のつもりだった。
その時は、いつもみたいに逃げ出されなかった。
益本の存在が、青島をそうさせたのかもしれない。
室井の胸がドクリと脈打った。

「実は一つ気になることがある。青島のスマホが見つかっていない」
「は?鑑識が押収して、こないだ返しただろ?」
「そっちじゃない。青島は二台持っている。持たせていたというべきか。これは誰も知らないはずだ。そして青島の部屋の家宅捜索からも出てこなかった」
「本当ですかそれは」

聞き返す新城に、室井は大きく頷いて見せた。

「一台、個人連絡用に持たせていた。有事の際にお互いの関係を辿られないよう取った対策だ」

警察官は常に危険に晒されている。
ケータイ、スマホ、タブレットなどの通信機器は、情報源として悪用されやすく、また男同士の付き合いという後ろ暗いこともあり、関係を隠蔽する狙いもあった。
見つかったのは普段用の方だ。
自宅や旧友などの連絡先が入力してあり、これが青島のものだと充分特定できる。
ただ、室井との関係は辿れない。
プライベートで室井が渡していた方は、まだ見つかっていない。

「つまり拉致られた時にどこかに落としたか、犯人に潰されたか――」
「今も犯人が所持しているか、だ」

スッと三人の眼に緊張が走った。

「何故言わなかった」
「こちらも平静ではなかった。それに、返却物リストに台数が書いてなかった」
「電源は」
「入っていない。時間的にとうに電池が落ちている」
「充電してなければ、ね」

秋の夜更けは背筋を凍えさせる。
俄かに室温が下がった気がした。

「していないと思うか?」















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