公文書Code3-2-8 003









5.
果てしない逃走劇の末に、しぶとく喰らい付かれ恨みの塊となった男は、今、益本の下で溺れる者の如くもがいていた。
その体力のほとんどを消耗した手足で地面を叩く様子から、振り切れるだけの力はもう残っていない。
男を取り押さえたまま益本は後ろ手に手錠を取り出し、その両手を拘束した。
警部補となって、経験も積み、指導することも増え、キャリアに憧れはあるが、現場で成果を上げた時が一番益本がカタルシスを感じる瞬間だ。

「──ええっと。午後7時50分、強盗致傷及び公務執行妨害で逮捕ね!」

応援の捜査員が追いついてきたところで身柄を引渡し、まだ息が上がる中、益本は隣で額の汗を無造作に拭う青年をようやく見た。
軽やかな瞬足と鮮やかな逮捕術で強盗犯を直接捕まえたのは、実は益本ではなく、隣で息を弾ませる彼、青島である。
益本が相方と離れてしまい、一人で追っていたところ、途中から援護してくれた。

「お前、こんなところで何やってんだ?」
「あれ?アンタも俺を知ってる人?」
「フラフラ出歩いてちゃマズイだろ。本部、騒ぎになってんぞ」
「本部?」
「警察!」

ああ、と分かったような分かってないような曖昧な返事が気怠げに浮かび、青島がまた汗で濡れた髪を袖で拭った。
短く刈り込まれた髪は治療のための処置だったと聞いている。
あちこちに貼られたままの絆創膏が田舎小僧みたいだが、知らない瞳でそっぽを向く横顔は、どこかアンバランスな色香を灯していた。

「アンタも俺をタイホする?」
「アンタ、じゃなくて、益本!益本伸幸」
「益本は、告げ口する?」

子供みたいな口の聞き方に、益本は息の整い始めた口から、は、と呼吸した。
呼び捨てかよ、と忍び笑う気持ちは、寂しさの裏でこうして再び会えたことを思いの外、歓迎している。

「刑事みたいな真似してんじゃねぇよ、一般人が!」

叱るというよりは窘めるように軽い口調で諫めれば、青島は反論もせず、小さく赤い舌を出した。

「なんで一緒に追いかけた?」
「益本が止めてくれって言ったんじゃん」
「だからって普通、素直に従わないだろ」
「女の悲鳴が聞こえたら、助けるのがオトコだろ」

イケメン発言が飛び出して、思わず益本は苦笑した。
腰に手を当て、まだ息を整いきれてない青島をじっと覗き見る。
汗ばむ素肌からは石鹸の香りがした。
なんだよ、と不貞腐れる顔に、警戒はない。
思わず追いかけた、それは青島の中に潜在的に刑事の記憶が刻まれているからなのか、元来の性分なのか。
犯人を足止めしたハイキックからのラリアットは確かに警察学校で習う柔術のような型通りではなかったが
学生時代男同士でじゃれ合っていたものより精度が高く、思わず身体が動いたというかんじだった。
だが、聞いていた通り益本を見る目は他人の目だ。

「ご協力感謝するよ。イイ足だ」
「俺、陸上でもやってたかな、思ってたより走れてびっくり」

他人事みたいな返答は、こちらが事情を察しているという前提だ。
どうやら青島の警護を命じられている連中よりは、自分は合格らしい。

「怪我が治ってなにより、だ」
「イイコト言うね」

寂しさと嬉しさの入り混じる濁った感情は、苦みを伴って益本の喉を掠れさせた。
本当は最近走り込みをしているだとか、筋トレに励んでいただとか、直接聞いたことがある益本は、ただ口を噤む。
刑事の目を走らせた益本の目の前で、以前とは大きく雰囲気の変わった青島が、夜のネオンに揺れていた。
見慣れた古い緑のコートは着ていない。
黒いジーンズに黒の革ジャン、ポケットには黒いサングラスが覗く。白いシャツが妙に清楚さを思わせる分、童顔なこともあってか、危険な危うさを持ち
見る者の視線を反らすことを阻んだ。
値の張りそうな時計が電灯を反射し、益本の目を細める。

「服。そういうの、趣味なんだ?」
「分かんない。家にあったから」

そりゃそうか、と益本は思う。
青島の趣味なんて、当然聞いたことがない。
どちらかというともう少しカジュアルなものを想像していただけに意外だった。
同時にもしかしたら室井の趣味なのかもしれないと、勘繰った。

ふと、益本を訝し気に見ていた青島が、意味深に目を眇めた。
すぐにそれは反らされ、風の吹く北向きに益本の視界から消える。
笑われた気がして、益本の胸の襞がザワリと震えた。

「なんだ?」
「んん、別に・・。益本は、思い出したかとか覚えてないのかとか聞かないんだなぁと思って」
「ああ・・、見りゃ、思い出してないことくらい分かるからな」
「益本と俺、一緒に仕事したことあるんだ?」
「んー、まあ、同じ張り込みやったりとかしたんだぜ?」

一瞬、お前の相棒はエリートキャリアだと口が滑るところだった益本は、頬を撫ぜることで誤魔化した。
わざわざ告げてやるほど益本はお人よしではない。

「張り込み?刑事ドラマみたいっすね」
「無線でさ、『L2から各局、これよりマル害入店、指示があるまで待機』とかさ」
「えるつー?」
「現場指揮官車!おっまえ、そこからすっぽりかよ!」

目の前で警戒心を見せながらも、ほんの少し目を輝かせた青島を、まるで少年みたいだと思った。
10年分、失っていると聞いた。
もしかしたら今の青島は10歳分子供に戻っているのと同じなのかもしれない。
キャリアとノンキャリの確執も忘れ、公務員の柵も忘れ、無邪気に益本の話に相槌を打つ。

「俺も、了解!とかやった?」
「やったやった。でさ、お前、任務中に近くの女の子、助けたいって言いだしてさぁ、焦らせるわ」
「はは、そうなんだ俺」

出会った頃、ただ腹立たしくて邪魔で、益本が邪険にしたことも覚えていない。
嫌っていたことも、吐いた悪態も、些細な会話も、消えた。
今と同じで女を優先して仕事をおじゃんにしたことも、もう益本の中だけだ。

「悪ぃ、こんな話。聞かされたところでお前が気分悪くなるだけだったな」
「ふぅん?割と紳士なんだ?」
「そうですよ?」

顎を上げて高飛車に先輩ぶるのは、無意識の意地だったかもしれない。
他人に戻るということは、こちらのアイデンティティまで危うくするのだと知った。
しくじったなと内心思う益本の目には、無邪気なだけではない青島の虹彩に、どこか胸を締め付けられる。

「ま、楽しかったんなら、俺はそれでいいよ」
「お前は今も昔も問題児だよ。何も失っちゃいない」

忘れた青島にしてみても、知らない自分を知らされるというのは、価値を失ったと見せ付けるだけに過ぎない。
どうしたって取り戻せない過去は、何気ない顔をして、酷く残酷だ。

「慰めてんの?それ」
「ガラじゃないか」
「でも、今夜のことは、覚えておくよ」

俺たちは、多少仕事上がりの一杯に誘い合うだけの、浅い付き合いだった。
それでも益本にしてみれば、所轄の人間とここまで交流をしようと思った相手は他に居なかった。
その価値は、益本の中では嘘になっていない。

「じゃあね」
「あ、待てよ。連絡先、教えろよ」

いいと言いながら視線を通りの向こうに投げる青島の肌に、まだ残る汗が夜露のように濡れ
そんなことを露ほども思っていないだろうことを、益本にさえ勘繰らせた。

「なんで?」
「酒でも行こうぜ。・・・また」

また、と敢えて付け加えた。
青島の反応をまっすぐな視線で待つ。

「そういう仲?」
「そこは今のお前が決めていい。今度は未来の話をしようぜ」
「悪くない口説き文句だけど」

青島が考えるように足元をぶらつかせた。両手をポケットに入れる黒い影が、夜風を背負い、凛とした艶を覗かせる。

「俺、ケータイ失くしちゃったもん」
「本部から持たされてたろ?」
「捨てた」
「捨てたぁ?」

おいおいおい。大丈夫なのかそれ。
口をポカンと開けて思考を停止させていると、青島が何とも言えない悪戯な顔に変わり、コツンとワークブーツを鳴らした。

「だって。四六時中監視されてるみたいじゃん?」
「でも次狙われたらヤバイんじゃね?」
「どうせ俺んちの周り、刑事だらけ」
「だから逃げたのか?」
「そ」
「じゃ、誰とも繋がってねぇの?」

極秘裏に室井すら個人的に動いていないということなのか。
それは、益本に少し違和感を覚えさせた。
黙ってしまった益本に、青島は叱られたと勘違いしたのか、小さな声で苦情を洩らす。

「だとしても、あんな極悪連中に護って貰いたくはないよ。ケーサツってガラ悪い、性格も最悪、顔も最悪。高飛車な割に服の趣味だっさ!混じりたくない」

ちょっと前までお前もその仲間だったんだけどね。
お前の服のセンスも、人のこと言えた風じゃなかったけどね。
益本は可笑しくなって辛うじて出かけた言葉を口許を抑えることで留め、自分のことを指をさす。

「俺!俺もケーサツ!」
「益本・・は、ちょっと、悪くないね」

不用意に舞い上がりそうな不可思議な気持ちを呑み込み、益本は辺りに目を走らせ、大手家電量販店の看板を見つけた。
思ったより悪意に染まった理由じゃなくて、ホッとしている。

「んじゃさ、俺が買ってやるよ、快気祝いに」
「野郎に買ってもらって嬉しいと思えるほど苦労してないです」
「どうせ誰にも祝ってもらってないんだろ?」
「それは、そーだけど」

やっぱりだ。記憶を失ってから青島は室井と交流がないらしい。
それに、今青島はケータイと言ったが、実際持っていたのは買い替えたばかりのスマホだと聞いていた。
多分、室井と選んだのだと思った。
どこのメーカーかも知っている。その情報は契約会社から警察に提供済みである。

「んじゃ、同じ警察官としての詫びってのはどうだ」
「それじゃケータイ一台じゃ採算取れないよ」

二人して夜に変わる道の真ん中で見つめ合う。
同時に吹き出せば、ほんの少しだけそれは、以前のような空気を期待させた。


***

鈎爪のような新月が闇色の空に白く見えていた。
自宅まで送り届けると、益本は車を停めていた場所へと戻る。
ボンネットに腰を下ろし、自分のスマホをタップした。












6.
「管理官!益本警部補から報告!青島を有明付近で保護したと!」
「もうこれで何度目だ?!」

ワッと上がる歓声には、安堵や喜びの同情から、迷惑そうな不満声まで様々だった。
危機意識が伝わらない青島は、捜査員の目を盗み、度々滞在先から姿を消した。
交代で見張っているが、被疑者でもない一般人扱いである以上、警護にも限界があり、隙を見ては出し抜かれている。

「警察の面子潰す気かよ!」
「よくやるよなぁ!」
「その昔草壁さんも負かされたって話じゃん」

口々に反感を洩らす捜査員たちの渋った顔は、捜査に進展がないことを告げていた。
埃臭い一室の上座に、一人の捜査員が向かう。

「その様子じゃ不審者などの追跡、尾行等は見当たらなかったんだな?」
「一人で散策していただけのようだったとのことです!」

電話を受けた若手刑事は白の長テーブルの中央に立ち、厳めしい顔で並ぶ男二人の前で背筋を伸ばした。

「どうしますか?」

鈴木特別本部長に問いつつ、視線は隣の室井に向かっていた。
鈴木もまた室井に脅える視線を投げる。
管理官代理として、実質この極秘の捜査本部を率いているのは室井だというヒエラルキーは、あからさまだった。

二つの視線だけでなく、部屋中から固唾を吞んで見守る空気が、ひんやりと冷え込んだ。
室井は顎の下で両手を組み、目を閉じて低い声で問う。

「不審な様子はなかったのですね」
「はい」
「誰かと連絡を取り合っている様子は」
「ないとのことです。そもそも渡したスマホは自宅付近の用水路から発見されています」
「他に接触していた者は」
「いません」
「ならいい、放っておけ」

警察に不信感を募らせている青島は、スマホの所持にも抵抗を見せ、GPSを共有させてはくれなかった。
あれだけ警察官に憧れて夢を託していた男の変貌ぶりに、室井の胸はまた一つザクリと慄く。

階級の高い上司の前で、若手捜査員は俄かに狼狽えているが、室井には気付いてもらえず、鈴木に救いの目を向けた。
言うだけ言って黙ってしまった室井は、その強面の質素な顔から不機嫌のようにも見受けられ、その視線は既に手元の資料に落ちている。
直立したままの若手捜査員は怒らせたのかと背筋を震え上がらせていた。
助け舟を出すように、鈴木がしわがれた顎を擦った。

「んじゃ、君、とりあえず張り込み班に連絡入れてあげて」
「ハイッ」

役目を与えられ、ようやくこの場から立ち去れると、若手捜査員は元気な声を残した。
室井がそれを気配で追うこともない。

「有明って――、何か目的があるのかね?」
「普通にベイサイドだからじゃないですか?」

鈴木がホワイトボードの前で段ボールの資料を取り出している捜査員に気晴らしに声をかける。
雑談のような応答に、辺りの捜査員も加わった。

「新木場から遊びに出るとしたら、潮見・・、幕張とか芝浦とか、あの辺なんじゃないですかね?」
「先週の警護担当しましたけど、確かになんもなかったですよ」
「新木場って臨海地区だろ、駅周辺まで殆ど倉庫で真っ暗ってハナシ」
「そもそも益本刑事は何故有明にいたんだ?」

捜査員の中からふと上がった声に、室井の手が止まった。

「別件で張り込みに出向いていたって言ってました」
「別件?ああ、今一課が追ってるやつか。益本さん、今日いないなと思ったら向こうに応援に行ってるんすね」
「応援っていうか、アッチが本業だろ」

単なる雑談であるのに、室井の耳は嫌になるほど言葉の聞き取りに集中していた。
目の前の資料に目を落とすふりをして、平静と無関心を保つ。
その指先が白く資料を握り潰した。

「でもよく今の青島さんに職質取れたな」
「元々知り合いっぽいって話」
「知り合いって言ったってさぁ。室井管理官を差し置いて?」
「・・おいッ」

室井が視線を上げたことに気付いた刑事たちが雑談を止め、きまり悪そうに各々の仕事へと戻っていく。
鼻から息を吐き、何を言うでもなく室井はまた資料に目を落とした。
文字など、一つも視界に入ってはこない。

「――」

小さく気付かれぬよう落とした室井の溜息は、小さく手元の白い資料を揺らした。

「休憩してきます」

鈴木だけが反応を見せた。
室井は席を立ち、本部としている第二会議室を出ていく。
扉を閉めれば、辺りはすっかり陽が暮れていたことに今更のように脳が気付いた。
背後の喧騒が室井を抜きにして連綿と続く。
灰色の空が、あの日と同じ、窓の外をモノクロにし、陰鬱な気持ちを晴らすことはない。

“だって室井さん、現場のことなんも知らないんですもん。一緒に捜査してて足手まといで、もうほんと・・・使えませんでした。最低”
“足手まといとは何だ!”
“一緒に捜査しててね、よく分かりましたよ。しょせん上のもんは上のもん、エリートはエリートっすよ”

自分は分かろうとした。咄嗟に怒鳴り返したのは、もう10年も前のことだ。
のに、今も青島の言葉と共にありありと蘇る。
美しい記憶は、美しい分、酷く、醜悪だ。

“現場の刑事は あなたに期待してます”

あんな風に言ってくれたのに。
約束ごと未来を失った今、君がいない。
湾岸署にいない青島とは、室井は出会わない。

青島が見つかったことで、室井の中では、仕事とプライベートの板挟みだと思っていた軋轢は大分減っていた。
見つかって良かった。
助かって良かった。
平たい理屈を賢明に脳裏に浮かばせてみれど、それは一層軽薄な言葉となって上擦べりしていく。
そんなことを微塵も思っていない癖にと、自分の傲慢さが自分を責めた。

元気でいてくれて嬉しい。
生きていてくれて嬉しい。
でも、本当に帰って来て欲しかったのは。

「管理官」

緑色に澱む通路の奥で、いつの間にか横に中野が立っていた。
控えめに掛けられた声に、室井は老眼鏡を外し、こめかみを揉む。

「どうした」
「先日の私物の件ですが、捜査員が接触を図りましたが、失敗。返却できずに持ち帰ってきています」

中野が持ち上げた紙袋の中に、見慣れた手帳や財布、時計、コート、捩れたショルダーバッグなどが見えた。
勝手にいなくなって、勝手に再現される残像が、ふとした瞬間にこうして室井の脳裏を今も、幾度も幾度も振り子のように押し寄せる。

「本人に引き取りに来るよう通達もしたようなんですが、応答はないそうです」
「・・交代で見張らせている者の車にでも積んでおくか・・」

軽く投げやるような気持ちで呟いた室井の言葉に、中野は酷く驚いた顔をした。
室井が冗談を言うとは信じられず、目玉をギョロギョロさせている。
その様子を見、室井は少しだけ息が出来たと思った。

「その、もし可能でしたら、室井さんが個人的に保管されますか?」

会えに行けていないのでしょう?と中野がようやく絞り出した言葉に、室井は静かに瞼を落とした。
それを言うために、中野はわざわざ荷物を預かってきたのだろう。

実際、室井は毎朝日課のように青島のアパートに顔を出してから登庁していた。
それは送迎をしている中野だけが知っていることだ。
退院後数日は直接声掛けをしたが、怒鳴られ蹴り出されたので、今は遠目から姿を確認するだけに留めている。

君に会う為の免罪符がない。

「私が持っていても、青島が嫌がるだろう」
「ですが、どれも、貴方には覚えのあるものなのでは」
「女々しいと笑うか?」
「――いいえ」

中野の顔は悲痛に歪んでいた。
恐らく自分も同じ顔をしているのだ。

逃げているだけだとは分かっていた。
時間を先延ばしにして、平穏な嘘の日常に癒されたふりをしている。
何もなかったのだと安心させて、同じ時間を取り戻せていると錯覚させて、或いは初めからなかったのだと言い聞かせ
心の奥底で脅えることなどないと騙す。
いつかはいつもの変哲もない日常がそこに戻ってくると、有りもしない期待を脳がまだ抱いている。
リアルな現実を目の前に突き出されるのが怖いのだ。

「一応、捜査員の中では、先程の件からも益本刑事に任せたらどうかという意見も出ています」

また益本かというどうでもいいことが室井の頭を過ぎった。
中野の気遣いには、室井の立場を慮る以上のものがある。

「お立場は察しますが、もう少し捜査員とコミュニケーションを取られては?」

きっと、青島もそれを望むのだろうが。

「いいんだ。政治にこの捜査を巻き込みたくない」

室井は緩く首を振った。
室井の目的はあくまでも政治であらねばならなかった。
それが一番の孝行であり、近道だと警官はみな教わる。

室井は疲れ切った身体をだらしなく支柱に寄りかからせた。
普段の毅然と律する室井にはありえない姿態が、薄暗い廊下に紛れこみ、そのまま闇と一体化しそうな額に軽く手を当てる仕草に
中野の眉が潜む。

「新城さんと一倉さんが動いてくれています。本田の計画も見えてきました」
「――・・」
「味方はいます。しっかりしてください、ここで負けたら青島さんに顔向けできませんよ」
「・・分かっている、分かっているんだ中野くん」

悲痛な室井の声が、廊下に静かに響いた。
青島を中心に事件が澱みを描く。彼を助ける捜査に、これ以上私怨を交えたくなんかない。
頷くことも忘れた中野は、辺りに人の気配がないことをもう一度確認する。
意図を察し、室井も顔を上げた。

「続けてくれ。ソースは信頼できるな?」
「沖田さんからだそうです」

中野がスッと耳打ちするために声を潜めた。

「目的は、当時の汚職事件を活発化させ、ホンボシのリアクションを待つこと」
「やはりホンダは被害者だったか」
「身代わりにされたのかもしれないというのが新城さんの見解でした」
「誰の、ということか」
「マスコミに一部を公表し、公開捜査に踏み切りましょう」
「この特捜にも関わることだ。本部長に確認を取る。が、上からの許可は下りないだろうな。それを防ぐための極秘捜査ってことか。良く出来ている・・」

青島発見後、一日の休みを貰い、室井は翌日から再びこの池神の命じる任務に就いている。
現時点でこちらの動きを池神と、真犯人に気付かれるわけにはいかない。積極的な捜査はいっそ建前だった。
記憶のない事実はいずれ池神の耳にも入る。
これ以上その事実を利用されないためにも、室井の牽制は必要だった。

「新城さんからも現状維持に努めてくれと。ですが本田の居所は分かっていません」

新城の意図は明確だ。
重要参考人である青島のお目付け役と、犯人かもわからない脅迫状の情報収集を表向きに
真の狙いは、池神の狙いと本部の狙いを斟酌する、調整役だ。
室井は今それを一人で一手に引き受けていた。

この案件は、勝っても手柄にならず、負ければ致命的に警察の威信を傷つけ、池神の機嫌を損ねる汚れ仕事である。
にもかかわらず、室井に捜査権を委ねられているといっても、事件の全ては室井の蚊帳の外で回っていた。
捜査本部内にその事情を共有する者はなく、旨味のある餌と、愛しい相手を奪われた哀れな中年という憫笑を買う。
今はそれを逆手に取る。

「新城さんも内々で探ってみるとは言っていましたが、私は反対です。対象者が危険すぎます」
「こんな時ばかりはその馴れ合い派閥、役に立つな・・」
「室井さん・・ッ」

いつになく踏み外した物言いを繰り返す室井に焦れた中野の意図も、明白だった。
脅迫文の通りに公表しないでいれば、いずれ青島を再び狙ってくる可能性が否定できない。
室井に圧力をかけるためには青島を使うのが一番だと、バレている。

「もう、どうしようもないんだ・・」

“一生俺が守るよ”
そう言って背中越しに笑っていた君の手を握り締めた。
甘い言葉など柄じゃない。人目を避けるようにスーツの裏で手を繋ぎ、ただそれだけの出来事だった。

「でも、生きて、くれたじゃないですか・・!戻ってくれたんですよ!」

室井の両肩に中野が手を乗せ、軽く揺さぶり窘める。
室井は俯いたまま、抵抗もせず、項垂れていた。

「前に進んでいればいつかきっと・・!」
「いつかなんて、もうないんだ」
「前に進まなければ青島さんが泣きますよ・・ッ」
「・・・」

室井は両の手を開く。
優しい日々が確かにここにあった。
青島が作った、時に過激で脳裏に焦げ付くように鮮烈な、幾つもの追憶が、ここにあるから動けない。
目頭を指先で揉み、変わり果てた愛する記憶と現実の暗さに、室井の頭は付いていけなかった。
先に進んでしまったら、あの日の君を置き去りにしそうで。
あの日の君を裏切る気がした。

「中野くん。こういう時に信頼できる仲間とは、なんなのだろうな・・」

顔も上げず、室井の視線が中野を映すことはなかった。
室井にも、信頼できる先輩キャリアや尊敬している上役はそれなりにいた。
だが今、大きな秘密を抱え、それを誰に打ち明けられるのか、誰が信頼に値しているのか。
信用性が高くとも、打ち明けることで未来永劫、毒とならない人物はいるのか。
勝算などない戦いにいきなり参戦させられ、最愛の、そして絶大の信頼を寄せる相手を失った今、室井に道標となる物は何一つ残されていないことを思い知らされた。

一呼吸置き、言葉を選んでから中野が口を開く。
昔から賢明な男だ。

「追い込まれた時に、人は関係が整理されるのを、見てきました。これをチャンスと捉える人もいる」
「・・・」
「危機的状況で、五感が研ぎ澄まされるのでは?」
「それは、いいことなのか?」

庇護を必要とするような愚直な視線に、中野は一層沈痛な顔となった。
“青島?あれは、私が連れていく”――そう言い放った室井の高飛車で、高貴で潔癖な面差しは、もうない。

「腹を括ってその流れに身を任せてみてもよろしいのでは?お忘れですか?室井さんは割とそうやってここまで来られた気がします」
「君はどうする」
「勿論、お供致します」

頼りなげに頬をピクリと動かしたのは、笑おうとしたからだったのか。
室井は中野から視線を外し、秋深まる中庭を見下ろした。
漆黒に映り込む夜は暗く、こけた頬に深い影を刻む。

「・・ありがとう。中野くん、私を思うなら、いざという時は必ず保身に走ってくれ」

窓を見続けたまま、独り言のようにようやっと出た言葉に、中野はただ頭を下げた。
視界に持ったままの紙袋がカシャリと鳴いて映る。
ゆるりと、室井の視線も紙袋に落とされた。

「他の捜査員を再度行かせますか?」
「――、今度は私が行く」
「え、室井さん自らですか?」
「別件に人員を割きたくない。それと、誰が行っても結果は同じだろう・・」

中野が本日、初めてほっとしたように頬を緩めた。
室井はゆっくりと紙袋を受け取る。

君は意地悪だ。忘れさせてもくれないで。
たった一人で、消えてしまった。












 

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青島くんイメチェンシリーズ。今回はあぶ刑事風で。