公文書Code3-2-8 002










3.
「新城!ここにいたか、まずいことになった!」

喫茶店のガラス扉を鳴らす下世話なベルが鼓膜を叩くと同時に、埃臭い資料がテーブルに投げ出された。
外気が小道の排ガスを巻き込み、エンジン音と人の気配を連れ込んでくる。
これ以上はないというくらいしわくちゃの顔になり、天井を仰いでから、新城がクワッと目を開けた。
まあ、こんなことはしょっちゅうだ。

「浸漬法は私の精神安定を司る、唯一の時間だったのですがね」
「この店、盗聴器ないよな?」

職業柄、ベッドの最中でさえ官僚にプライベートはない。
カウンター席に並び、今更偶然を装う男に倣い、正面のスパイスやグラスが並ぶ陳列棚を目に移す。
一つ丸椅子を開けたその位置、サッと店内を確認する顔色。
用件は、聞かなくても分かっている気がする。

新城が立ち上がると同時に一倉も腰を上げ、奥の高級ラグと革製チェアが並ぶ4人掛けの席に向かった。
一倉が着席するのを見届けてから、腰から綺麗に20度、お辞儀をし新城も一倉の正面に座る。

「問題児、見つかったそうですね」
「耳が早いな。誰情報だ?」
「ソースをバラしてどうすんですか」
「細川は優秀だなぁ」

新城は視線を走らせ、扉がしっかりと閉まっているかを目線で確かめる。
客の途切れた時間帯。残る客層の顔ぶれ、ひそひそ声が届かぬ位置。
そもそもこの先輩が、そういうことまで計算した振舞に違いなかった。

「誰にも付けられてないな?」
「細川は優秀なので」

半ば真剣な声で同じ言葉を返した新城に、一倉は初めて正面から視線を合わせた。

「まずいことになった」

唐突に本題に入った様子から、見た目ほど一倉にも余裕がないことが伺える。
そこにマスターが恭しく頭を下げ、片膝を付くと、カップを二人の前に並べて去っていった。
それを見計らい、新城が先に口を開く。
自分にわざわざ出向いて来たからには、何か手を貸してほしいことがあるのだ。

「無事だったと言ってましたが?」
「汚職事件の方を知りたい。何か聞いてないか?」
「それを調べるために極秘捜査が立っている」
「本気で上が捜査を望んでいると思うか?」
「わざわざ室井さんを呼び戻していることからみても、ある程度の返り血は覚悟しているのでは」
「何で室井なんだ?」

それは脅迫状に名前が上がっていたからだ。

「待ってください、失踪にまで上層部が絡んでいるなんて眩暈がすることを言い出さないでくださいよ?」
「それを話す前に、お前の情報を知りたい」

顰める目尻の険しさに、新城は少々嫌な予感がした。悪寒、かもしれない。
それほどまでの一倉の様子は異なっていた。
真っすぐに一倉を見据えたまま、新城も迂闊に口を開けなくなる。

「新城、これはとんでもない事件かもしれないぞ」

もう一度繰り返された言葉はずしんと腹に圧し掛かる。
緊迫した空気と一倉の重たい声はピリピリとした刺激を発していた。
店内に流れるクラッシックピアノが、遠い。

「本田刑事局長はどこかの議員との不手際の責任を取って自宅待機、その後、自らの意思で退官という経緯だと聞いていますが」
「ハッキリしないな。罪状は」
「裏金だったか横領だったか。不正関与を黙秘していたことを追及されたのだったと」
「金?横流しか?」
「そこら辺りについては池神の息が掛かっていてもう洗い出すことなんかできませんよ」
「ふん、犯人にとっても手を出せない絶対領域だったのかもな」

だがそれで何になる?
ここまで国家相手に喧嘩を売った見返りを、刑事が知らないわけがないのに、ここまでしてきたからには
相手は相当の覚悟の上なのだ。
揉み消せば、その火種は燻り花火となる。

「向こうだってそう簡単に室井を引きずり出せるとは思ってないだろうに」
「だから、青島なんですか?」
「辻褄が合ってきたな」

一倉がニヤリと笑んだ口元がコーヒーカップに映り込んんだ。
思うほどそれは楽し気なものではない。

「室井さんを名指しして、青島を消せば、分かるだろう?という脅しですかね?」
「そう思わせるように仕組んだ可能性はあるが」
「奇妙な偶然を、こちらが勝手にこじつけている可能性もある?」
「そうだ」

刑事が勝手な憶測で推理を繰り広げてはならない。
地道な捜査が進展するまでは、結論を出すべきではなかった。
そのための内密捜査機関でもある。
新城は努めて息を細く吐き出した。

「後は青島から聴取すればいいのでは?」
「それが出来たら、俺はお前よりも先に青島んとこ行ってるよ」
「?」

突如零された一倉の言葉に、少し店内の射光が暗くなった気がした。
先程運ばれてきた適温だった珈琲の湯気の先が、フッと消える。
目の前で、新城をギロリと覗き込む一倉の視線は、逆光で奥底を覆い隠していた。

「打撲痕や裂傷。擦過傷は数えきれないほどあったが、致命傷となったのは低体温。意識が戻るまでに数日かかった」
「今朝、退院したと」
「病院で厄介になるだけの手は尽くしてもらったからな」
「まさか、余命宣告――」
「殺すな、生きている」
「お、驚かせないでくださいよ、貴方が変な言い方をするから」
「カラダは無事だって言ったんだよ」
「じゃ無事じゃないところって――」

軽口を返しつつ、新城の刑事の経験は凡そ正解を感じ取っていた。
その固まった目の前で、一倉が自分の頭部を人差し指でトン・・と突く。

「脳」

短い単語なのに、それは針のように突き刺さる。
冗談で軽口を返したのに、聞きたくない答えが返ってきて、やはりと思いつつ、新城の喉は干乾びた。
何か物凄く辛酸なことが口を開け、頭を擡げてきている。
その顔を瞬きもせず見つめる新城に、一倉はもう一度、繰り返した。

「意識が・・?」
「ある。――が」

真実を口にすることが掟破りのように一倉の口は深刻だ。

「青島に、俺たちの――刑事の記憶がない」
「・・ま、さか・・」
「自分のことも分からない。名前すら思い出せないでいる」
「頭を打った影響で・・?」
「頭部MRIに異常なし。そもそも大袈裟に血は出ていたが額の傷はタンコブだ」
「――なら」
「医者は心因性のものだろうと言っている。だが、俺は言ってやったんだよ。コイツは馬鹿だがそんなデリケートじゃないってな」

どこか茶化した一倉の物言いは、返って重たいものに響き、テーブルの木目を微かに揺らした。
それが一倉の硬く握られた拳によるものだと、新城が気付く頃合いに、一倉は淡泊な声をもう一度発した。

「青島の中に、もう、俺たちはいない」
「ぁ・・、青島が我々を謀っている可能性だって」
「・・新城」
「彼の方を信用するなんて変ですよ・・!ノンキャリは常に使えない人種です。キャリアを敬う一部のハイエナはその甘い汁が吸いたいからで」
「新城!」
「だから、とぼけた振りをするよう指示されているだとか!」

少し大きめの声で諭され、新城もまたらしくなくトーンを上げて叫んだ。
一倉の瞳に映る自分を見て、自分の顔が情けなく強張っていることに気付いた。
カップを取ろうとした指先が目測を誤る。

「正式な診断は、解離性健忘症。ったく言葉にするとなんとも曖昧な響きだよな・・」
「・・・」
「逃げ出してきたと考えられる。でも問題はそこじゃない」
「なぜ今か、ですね」

頷く一倉を見る、絞り出した新城の声もまた、耳を疑うくらい掠れていた。
こんなに動揺するなんて、自分で可笑しくなる。
平静を保つ方法は、キャリアならみな習得していた。今の、目の前の、一倉のように。
だが俄かには信じがたい話だった。
いきなり過ぎた。
それでも一倉の目がそれを事実だと告げていた。これは、現実に起こっていることだ。

脳より先に肉体が事実を防御なく受け止めていて、新城の呼吸が浅くなっていた。
新城は冷め始めた珈琲をゆっくりと口に含み、一倉の説明を待った。

「室井は広島から戻って以来、本部に缶詰だった。あの夜でなければ室井が発見することはなく、他の誰か、或いは発見が遅れて死亡させた可能性もある」
「・・・」
「そのタイミングだって、俺がたまたま本部に顔を出して、たまたま室井に促したんだ。ひでぇ面だと」
「その場に残っていた人間は?」
「数名、いたにはいたが」
「つまり、室井さんの帰宅を知ってから、わざわざそれに合わせて官舎に青島を放置した者がいる?」
「そういうことになる」

そんなことが出来るのは、身内しかいない。

「逃げ出したと言ってましたね。青島に身の危険がある。どこかに匿うべきでは」
「ああ、ああ・・!分かっている・・!でもそれが出来る状況でもないんだ・・!」

一倉が頭を両手で抱え、はあっと大きな息を落とすと額を覆った。
脂ぎった頬は浅黒く、血色の悪さが一層、孤独な戦いの苛酷さと抱えている疲労を伝えていた。

「分からないか、新城。青島はもう俺たちの知っている青島じゃない。俺たちのことを何も知らない。仲間じゃない。いきなり警察だと名乗って信用を勝ち取れるか?」
「!」

そんなのは分かっている。
新城とて、キャリアとして長くこの仕事に就いてきた。その間、悍ましいものも醜悪なものも見てきた。
かつての青島のことを思い浮かべようとした。
でも、新城の脳は何も浮かばせることは出来なかった。

「こんなこと本当に起こり得るのか?俺は未だに煙に巻かれている気がしてるよ・・」
「酷い――悪夢ですね・・」

言ったきり、新城は押し黙った。
今、捜査本部が奪われたものは、二つだった。
真実と信頼だ。
それはどちらも形あるものではなく、一度手放せばどこにあるかも分からなくなる不確かなものだ。

「室井さんは、このことを」
「医者の説明を一緒に聞いた。正直、見ていられなかったよ・・」
「聴取は全く出来なかったのですか?」
「二親が泣き崩れている前で、それをやんのは流石に俺もしんどかったよ。刑事を長く続けているけど、あんなシーンは御免だね」

項垂れ、頭を抱える一倉を、虚ろな目で眺めながら、新城もがっくり、肩を落とした。

「ご両親のことは?分かっていたのですか?」
「自分のことも忘れてるんだ。でも俺たちの時と違って、落ち着いてくると、自然と馴染んだみたいだった」

聞くに堪えない暴露に新城も額を片手で覆う。

「自分の名前すら咄嗟に出てこなかったんだぞ。友人、家族、それらを差し置いて俺らが出しゃばれる状況じゃない」
「日常生活に支障は?」
「それもまだなんとも。どこまで覚えているかはこれから判明してくるんだとよ」

先の長い話だった。
解離性健忘症の予後の見通しは、ときには記憶がすぐに蘇ることもある。
例えば患者がトラウマやストレスになった状況(事件や事故など)から離れると戻る可能性が高くなると言われている。
一方で、健忘が長期に渡ることも珍しくない。特に解離性とん走を起こした人でその傾向が強い。

「青島に何があったのか。そして半年前、本田刑事局長に何があったのかだ」

大半の人は、健忘の原因になった精神の葛藤の解決に至ることで、欠落した記憶と思われるものを取り戻すことが出来る。
しかし中には心の壁を突き破ることができず、失った過去を再構築できない人もいる。

「今どうしているんです?退院したのでしょう?」
「病院に匿うわけにはいかないからな。でも説明もできなくて、ご両親も来ていることだし、アイツのアパートに身を寄せて貰ってる」
「室井さんはどんな様子です?」
「搬送されてから病院から離れようとしなくてな・・、無事が分かって事切れたように倒れた。まーあれは過度の疲労と寝不足だ」

キャリアはそんな柔じゃないと呟く一倉の目の下にもクマが出来ていて、彼もまた眠れていないことを示していた。
ましてや、恋人である相手を奪われ傷つけられたのだ。
室井に与える影響もまた計り知れない。

「今日から通常勤務に戻っている。池神に何か悟られるのも怖いしな」

眉間を揉み、澱んだ空気を仕切り直すように、一倉はゆるく首を振った。
持ってきた資料にパンっと指を弾く。

「どう思う新城。俺たちまで室井と一緒に項垂れているわけにはいかない。その間こちらでフォローアップできることを詰めておく」
「つまり、一倉さんは今回の失踪と脅迫状は繋がっていると確信したわけですね?」
「タイミング合わせて死体放り投げる真似、狙ってるとしか思えない」

この雑談の冒頭、可能性として偶然もあると指摘していた。
それを覆すための、この回りくどい時間だったことを、新城もようやく察し、真似て頭を切り替える。

「となると犯人の狙いは脅迫状通り、汚職事件の公表にある」
「と、俺は読んだね。だから詳細が知りたいんだ新城」

心得た視線を向ければ、一倉はハタと思い出したように顔を近づけた。

「それともう一つ。近いうちに時間を作れ」
「なんでです?」
「見舞いだよ。見ておいて損はないだろ?」










4.
「帰れよ!知らないって言ってるだろ!」

怒鳴り声が聞こえて、先頭を歩いていた新城は階段の途中で足を止めた。

「帰ってください。話すことはありませんっ」
「やましいことでもあるんじゃないか?」
「か・え・れ!」

背後に続く一倉、室井と目を合わせてから、アパート二階をそうっと盗み見てみる。
一つの扉の前に一人の男が扉を押さえ、もう一人が道を塞ぎ、アパート住人と揉めていた。
住人らしきサンダルが、押された勢いで片方が飛ぶ。
声は、よく知っていた。

「そんな態度だからそんな目に合うんです、自業自得ですよ?」
「何が目的だよ!あんたらホントに警察なの?!詐欺じゃないの?!てか、犯人だったりしてね!」
「聞き分けがないと余計に疑われますよ!」

短気なのはお互い様のようだ。
訪問側の意気込む男二人は刑事、こちらも見たことある顔だった。

「非協力的な態度だと今度襲われても誰も助けてくれなくなる」
「へえ、それって脅しじゃないの?」
「善良な一般人を護るのが仕事なんで」

あからさまにジロジロと全身を舐め回す視線はいやらしく、これではむしろ刑事の方が不審者だ。
マニュアルにある最低限のマナーなど、現場に出た彼らの頭からは抜けている。
二階まで上がったこちら側に、気付きすらしない。

「貴方が誘ったんだったりしてねーぇ?」
「っざけんなよ?」
「ぢつは囲われていました、とか?逃げ出したんじゃね?痴情の縺れ?」
「あのねぇ!おまわりさん、呼ぶからね!近所迷惑だから、ホント帰って!」
「そうやってはぐらかすとこ、怪しいな」
「覚えてないッ、知らない!!」

そろそろ聞き込みなんだか悪徳勧誘なんだか分からなくなってきたころ、呆れて口を開けたまま立ち尽くしている新城の肩を叩き
一倉が横を擦り抜けた。
室井にいたっては、視線すら背けている。

「その顔でタラシこんだってかんじだよなぁ?」
「すみませんね、モテるんで!」
「可愛がられたいみたいだなァ、おい!」

住人の腕を掴み、部屋から引き摺り出そうとしたその手に力が込められると、簡単にその身体はバランスを崩した。
久しぶりに扉越しに見えた青島の顔に、新城はホッとするような懐かしいような、不思議な気分に苛まれる。
髪は短く刈り込まれ、額に大きく貼られた医療用傷当てガーゼが真新しい。
その無防備な腕を捻り上げようとした、その時、一倉が割り込んだ。

「おーっと、そこまで。ね、離れて」
「なッ、あっ、い、一倉さん・・ッ?!」

一倉が黙ったまま顎をしゃくった。
刑事らの目線が一斉に背後に注がれ、そこに立つ面子にまた驚愕する。

「ゲッ、室井管理官ッ、し、新城統括官まで・・ッ」

とんでもない上流階級の面子に慄いたその若手刑事二人は、途端背筋を伸ばして敬礼をした。
脂ぎった汗が冷や汗に変わっているのは、その蒼白となった顔色を見れば明白だった。

この面子が勢ぞろいすることの威圧感が、一瞬にして浮ついていた朝の空気を一変させる。
一倉は出世街道から外れたものの、部下の面倒見の良さから部内では一目置かれた男である。
が、それよりも、本庁に勤務している人間にとって、東大派閥の白眉、由緒ある血統も合わせ持つ新城を知らない者はいないし
盟主の座に一番近いと囁かれている資質には勿論、その最大派閥に逆らってエリートキャリアに残れるほど、ここは甘くない。
唯一の例外として、東北大出身で派閥を持たぬまま異例の待遇を受けたのが、残り一人、現極秘捜査本部の管理官である室井の存在だ。
その派手過ぎる経歴通り、現在広島に異動となっている処罰は、実に生々しい。

その面子が全員、ここに雁首を揃えている。
この圧巻の光景に、無防備に立ち向かえるほど肝っ玉の太い新人刑事はいない。

騒がしかった空気が一瞬にして鎮まった中、何とも居心地の悪い空気が辺りを取り巻いた。
その様子をくりりとした目で見届けた青島が、脱げたサンダルを履き治し、不満そうな顔で黒スーツの団体の行方を見守っていた。
最後尾に立つ室井が、不手際だという顔で口を開く。

「聞き込みに行けと指示を出した筈だが?」
「~~たッ!たまたま近くを通りがかったため、監視と事情究明のために立ち寄りましたッ」
「とてもそうは見えなかったがな・・。まあいい。すぐ持ち場へ戻れ。引き続き君たちに頼みたいのは目撃情報だ」
「「ハッ!!」」

お咎めはないのだと理解した途端、二人の刑事は行儀の良い返事を残し、その場を立ち去っていく。
その背中に室井は低く凛とした声で、駄目押しをした。

「ツーマンセルは基本だ。怠るな」
「心得ておりますッ!」

室井の冷徹な気配に萎縮し、足を縺れさせながら、そそくさと二人が階段を鳴らす音が消える。
手応えのない返事には天を仰ぎたい気持ちしかなく、室井がジロリと睨み下ろせば、新米刑事などひとたまりもなかった。

「早く行け!」

焦れて新城が怒鳴った。
転げ落ちるような足音が遠ざかっていく。
再び静寂が戻ってくると、最初に口を開いたのは意外にも青島だった。

「で?アンタらもオトモダチ?相当おヒマなんですねオシゴト!」
「しらばっくれるなよ、俺とはもう何度も会ったよな。顔覚えるのは得意なんだろ?」
「こんなとこでそんなスキル使いたくないんですよ」
「俺らはお前の身元引受人ってとこだ」
「俺は保釈中の罪人かっっ」
「おおう、面白いこと知ってんな」

ざっくりとした白いTシャツに、細身の薄いブルーのジーンズ。
この秋口の寒さで薄着の恰好は、彼を記憶よりやけに華奢に見させた。
小ぶりの面立ちはシャープな印象を際立たせ、所々に覗く擦過傷の痕が痛々しく赤らんでいる。
何より額に大きく貼られた医療用傷当てガーゼが、事の大きさを突きつけるのは、こちらの方だ。

「お引き取り下さいっ」

そう言って部屋に戻り閉ざそうとした扉を、寸でのところで一倉が足を挟ませることで阻んだ。
むぅっと睨み上げる丸い顔に、一倉が勝ち誇ったように、ニヤリと笑った。
それが気に喰わなかったらしい。
青島がムキになって長い足先で一倉の足を蹴り出してくる。

「悪ぃな、こちとらこういう状況には慣れてるもんでね」
「出てけってのっっ」
「おおう、粋がいいな」
「俺はケーサツのお世話になるよーなことしてませんっ」
「それだけ元気なら大丈夫だろ」

こういう時、一倉の飄々とした性格は有難い。
もう背後の新城と室井は萎えて固まってしまっている。

「とりあえず入れてくれよ。話があんだ」
「い・や・で・す」

いーだとする青島の仕草はまるで子供である。
朝陽に薄い髪色が透けた。
体格差とスキルに物を言わせ、一倉があっさりと青島の攻撃をかわせば、聞かん気の青島も大人しくはしない。
まあまあ、と宥めすかしながら、やがて一倉が完全に扉を止め、抗うことを奪った。
むっと、上目遣いに睨み上げる瞳は、だがやはり、他人のものだった。

「今の奴らも、まあ、ウチの部下だ。血の気の多い奴らが揃っててね。非礼は詫びるよ」
「二度と来ないでくださいっ、それと!アンタもね!」
「そう言うなよ、そろそろお前さんだって色々と知りたいことが出てきてるんじゃないのか?ここは取引と行こうぜ」
「ってか、そっちのデコふたり、誰だよ?!」

青島が指差す先の男二人は未だ固まっている。

「片っぽ、覚えてないか?病院にいたろ?」
「覚えてません~」

だが、ある程度図星だったのだろう、青島の瞳の色が僅か困惑に染められた。
この男を本当に信用していいのか、見定めるだけの情報が、多分、今の彼にはまだない。

「今回のこと、お前が仕掛けたゲームでないことは上層部は理解している。だからこそ、とりあえず、休戦だ。此処は危険だ」
「めんどくさいよ。そーゆうの。どーでもいい」
「頼むよ、この部屋もバレている可能性が高いんだ。寝込み襲われたらアウトだぞ」

その言葉に流石に状況を察してきた青島の目付きが変わった。
本来青島は勘が鋭い。
チラリと無言で立ち尽くしたままの新城と室井を探る青島の目は、やはり友情などという甘い欠片はどこにもなかった。

「ああ、自己紹介がまだだったな。左のデコが新城、右のデコが室井だ。この面子だけは、覚えておけ」
「なんで?」
「お前の、最後の綱だからだ」
「ふぅぅぅん」

ぺろりと赤い舌で下唇を舐める仕草は見る者に嫌味なほどに心拍を上げさせる。
こんな顔もするんだと誰もが思う。それだけ、これまで接してきた青島は、刑事としての青島だったのだと見せつけられた。
何かを企んでいるような悪戯な目が良く似合い、掴み切れない現状を騒めかせて楽しんでいる。

「どこに隠れていればいいの」
「匿う場所か。ホテルの手配は多分経費が下りない」
「見事な公僕発言ですね」
「友人宅とかどうだ?」
「今の俺が友人を上げられると思います?じゃ、交渉決裂ってことで」
「そこの、室井の部屋はどうだ」
「やですよ」

即答である。

「やだって。嫌われてんな」
「思いの外、信頼無いんですね室井さん」

一倉と新城に交互に言われ、それでも室井は無言を貫いた。
眉間に寄せた皺だけが一本増えている。

「とにかく俺は、アンタらの世話には一切なりませんからっっ、帰って!!」
「待て待て、そうなると刑事がこの辺り四六時中張ることになるぞ?」
「どうぞご勝手に!!税金ドロボー!」

青島の足が一倉の脛を蹴り上げ、一倉が呻いた隙に、大きな音を立てて扉が閉められた。
ご丁寧に施錠とロックチェーンの音までが追い打ちをかけた。


***


「部下がポカやらかしてな・・、ヘソ曲げちまった」

車に戻り、一倉が事情を説明する。
今朝は三人だけで来ていた。いつもの送迎や護衛は断り、最小限の信頼できる人数に留め、車もレンタカーだ。
運転は一倉が買って出た。

「これを私に見せてどうしてほしかったんです?」
「いや・・、お前のことはどうだろうと思ったんだ・・結果は同じだったな」
「その結果次第では、変な期待をしてしまいますよ」

ふんと鼻で笑った一倉は、それでも目許に疲労だけではない色を滲ませていた。
新城のことはわかるかどうか、試したということだ。
あれだけ熱く公私ともに関わり合った室井が分からないのだ。不思議はない結果だが、何かの期待に縋ってしまうのは人の性なのだろう。

「どうするんです?あんなに喧嘩腰にしてしまって」
「いいんだよこれで。刑事がうろつくシチュエーションってのを青島に理解してもらうためにもな」

最初から一倉は青島と交渉する気などなかったということが見て取れた。
今回の目的は、この事件に関わる面子を今の青島に面通ししておくことなのだろう。
喰えない男だと新城は密かに嗤う。

「でも鍵を握っているのは確かだ」

沈んだ顔の男が三者三様に異なる方向に視線を投げていた。
運転席に一倉、バックシートの上座に室井、下座に新城。
思い詰め、口数も少ない彼らの思いは、だが皆同じであろうことは感じ取れた。

「犯人も、そう思っているんでしょうね」
「これ以上、仕掛けてくると思うか?」
「犯人にとって記憶を奪うなんて狙って出来るわけがない。だが、殺すつもりにしては詰めが甘い」
「返却したことで区切りを付けたと考えるか、二度目があるという警察への脅しか・・」

一倉と新城の、取り留めない推理が、爽やかな朝の陽射しに似合わず、どんよりと進められていく。
ハンドルに一倉が額を押し付け、新城はバックシートに全体重を埋めた。

「湾岸署の方に頼んでみたらどうでしょうか」
「同じだよ。それに余り大袈裟にしないほうがいい。本庁として嗅ぎまわっていることを他の課や中堅キャリア連中に知られるとマズイ」
「内部犯だからですか?」
「それ以外にないだろ」

一旦は青島の記憶を封じることに成功した。内部犯なら、それは恐らく犯人の耳にも入る。
これは犯人にとって都合が良いのか悪いのか。
姿が見えないとなると躍起になって探しだす可能性はあるし、今の青島にその危険性が伝わるとは思えなかった。
暫し沈黙が続き、各々がそれぞれの思惑を巡らせる中、ややして新城が先程から一言も発しない隣の男に視線を移した。

「室井さんは直接お話になられなくて良かったのですか?」
「もう早朝出向いて、怒鳴られた」
「――・・」

不気味なほど変わらない室井の横顔に、それはいっそ恐怖すら覚えた。
室井の感情が凍り付いている。
うっかりと触れたら砕けて粉々になってしまうような、そんな冷たさと危うさを秘め、室井はただ腕を組んで目を閉じていた。
だが早朝出向いたと言った。それでも室井になりに藻掻こうとしているのだ。

「そういえばご両親は?出てきていると言ってませんでしたか?」
「ああ・・、数日一緒にいたみたいだ。でも青島が日常生活は無難にこなせることが分かって、差し当たっての生活に問題ないってことになってな」
「生活は出来る・・結局どこまで抜けているんです?」

先程の元気過ぎる様子から察するに、通常通り着替えや家事などをこなし、買い物などにも出掛け、この街のことも分かっているようだった。
一倉が気怠い様子で顔を上げ、漫然と目の前のアパートを見上げる。
扉は閉まったままだ。

「ここ10年の、記憶がないということになる」
「やけに、具体的ですね」
「湾岸署に配属されたところから、プツン」

ということは、今の青島の記憶は。

「俺が影響していると思わないか?」

ここにきて、初めて室井が会話に加わった。
その具体的な言葉に、新城が横目で影を盗むと、室井は足元に視線を落とした。

「俺の、せいだ・・」

膝頭の上で拳を握り、室井が僅かな嗚咽を洩らす。
涙こそ出さないが、必死に湧き上がる激情を堪えている様子は、新城の言葉を失わせた。
室井の手は小刻みに震えていた。
目の片隅に焼き付け、新城は気付かれぬように平静さを保つ。

「結論が、早急すぎでは」

室井は朴訥としていて無口だが、内面は激しい男である。
だからこそ出世にしがみ付けるのだし、ここまで耐えて尚、折れないのだ。
その激情を余すところなく一心に青島にぶつけていたことは想像に難くなかった。
その拠り所をすべて失い、行き所を失くした。
だからだ、と新城は気付く。
今の室井は凍てつくような気配と気負いに染まり、自我が覆われている。

「こんなケース、青島は望んでいないと思いますが」
「そうだぜ室井。青島がどんだけお前を信じて託してきたか、お前が一番よく知っているだろ」

其々に掛けられる言葉の意味など今はなかった。
それは室井だって解かっていたと思えた。

「・・どうして・・こんなことに・・」

呟く室井の言葉に、答えを返せる者はいなかった。
ハンドルを右手で叩きつけ、一倉もまた哀しみを露わにする。
誰もが目の当たりにしたこの状況に心が付いていけていない。
口では、一緒に項垂れているわけにはいかないだなんて行儀のよいことを言ったって、見せ付けられた現実の辛辣さはそれを上回った。

青島のキャリアを見る目は他人だった。
そこにはキャリアへ歯向かった強さや聡明さもなければ、信念を追う直向きさもなかった。
道端に転がる石ころと同じ目で我々キャリアを見、あの頃見せた苛烈な興味すら失せていた。

「貴方を、護ろうとしたのかもしれませんよ」

きっと、青島なら最後の最後まで、室井に迷惑をかけないように、考えた筈だ。
いつもいつも室井の足を引っ張ることを嫌う男だった。

「今は生きていた良かったと思っていればいい。どんな形であれ返してくれたんだぞ」
「一倉、君は、取り返しのつかない時間の重みを感じたことがあるか?」

室井の白く長い指が、震え、ゆっくりとシートの上で円を描くようにプリントを取り上げた。

「私は、これで二度目だ」

それをくしゃりと握り潰し、扉を開け、室井は車を出る。

「おいッ、室井!」
「青島は終わらせたがっていた」

そして青島は消えた。
湾岸署が存在しないところで、俺たちの関係は成り立たない。
刑事でない青島と自分とは、出会わない。










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