奇跡。未来。すべてが。



東京スヰート





 本当のことを言えば、顔を見た瞬間に、賭けの負けを確信してた。
 堅い表情は、あの秋に見たときよりも、苦しげだった。
 いつも二人の間にあった理想と、いつも二人を包み込んでいた現実と。その狭間で、苦しんでいた。…そんなこと、わかっていた。あの人に、どろどろした感 情をそのまま言葉でぶつけたときだって、わかっていたはずだった。
 まだ、愛してる…。
 いいや、まだ、じゃなかった。ずっと、愛してた。…愛してる…。
 だから、言った。
「俺は、あんたの命令を聞く…!」
 ほかの誰も、信じない。あんたのほかには。
 そしてあの人は、こたえてくれた…。





 室井さんは、退院する日に迎えに来ると言った。
 早く治せと、それだけ言って、それきり連絡はなかった。…真下に聞いたところによると、降格になったと…俺のせいだと、一日泣いて、それから泣くのはや めた。室井さんは、絶対後悔していない。そう思ったからだった。
 退院が決まった日に、室井さんの携帯に電話をしたけど、留守電サービスにつながって、ああ、やはり忙しいのだと一つため息をついてから、退院する日だけ 吹き込んで、電話を切った。
 思いの外増えてしまった荷物を抱えて、久しぶりのアパートに帰った。
 すみれさんが掃除をしておいてくれて、まるで自分の部屋じゃないみたいに綺麗になったアパートで、一本だけ煙草を吸った。入院している間は禁煙を命じら れていたから、一瞬だけ、くらりときた。
 見慣れた部屋。きつい煙草の香り。開け放った窓から見える、薄い色調の冬の空。
 ああ、帰ってきたんだ…と、少しだけ、感慨に耽った。
 入院は、思っていたより長引いた。リハビリも、辛かった。思うように体が動かないもどかしさは、たまらなかった。
 なにより辛かったのは…あのひとの不在だった。
 誤解を越えて確かめ合った愛は、なにより強いはずだと思ったけど…会えない秋より、疑い続けた冬より、辛かった。そばにいて、抱きしめて欲しかった。大 丈夫、歩けるようになる、刑事に戻れる、そして約束の叶えられる日まで、一緒に歩いていこうと…囁いて欲しかった。
 …甘えだろう。体の辛さが、不安をかき立てていたのだろう。
 だけど今、ひとりで座って空を見上げていると、あのころの辛さの原因が、なぜだかはっきりとわかる。
 確かめたから…もっと強いつながりが、欲しくなった。
 ただ、それだけのこと、だったのだ。
 もう、嘘はつかなくていい。
 成層圏の向こうまで透けて見えそうな空が、心を解き放ってくれた。
 煙草を消した。
 残った煙の向こうに、放り投げたキーホルダーが見えた。









 視界を横切った白いものにはっとして、空を見上げた。
 …雪だ。
 どうりで冷えると思った。
 吐く息が、どんよりした空にかき消えていく。…その向こうに…いとしいひとが、歩いてきた。
「…どうしているんだ…」
 立ち止まって、呆然としている。
 俺は、笑ってしまうのを止められない。
「今日、退院したんです」
「…今日だったか…?」
 そうですよ、と返すと、室井さんはあわてて駆け寄ってきた。
「こんなとこでなにしてる!早く部屋に入れ、傷に障るだろう!」
 俺の腕をとって、エントランスに向かう。
「鍵は渡してあっただろ…!?」
 顔をくっつけて、今にもかみつかれそうな勢いで。
 そんな室井さんに、俺はやっぱり、笑ってしまうのだ。
 俺は、柱の陰になっているのを確かめてから、室井さんの唇にかすめるようなキスをした。
 室井さんは、びっくりして目がまんまるくなっている。
「…室井さんに、ちょっとでも早く、会いたかったんです」
 室井さんは、少しだけ困った顔をして…それから俺を、ぎゅっと抱きしめた。





 夕飯は済ませてきた室井さんと、夕飯なんか絶対入らない俺は、室井さんが着替えてコーヒーを入れてくれたら、なんだか落ち着いてしまった。
 『具合はもういいのか』と『はい』をすませてしまったら…もう、なにを話していいんだか、わからない。
 こうやって、肩に互いの体温を感じながらソファに座ってるなんて、本当に久しぶりで。
 微妙な緊張感と、甘い沈黙。この部屋に漂う、ほのかな室井さんの香り。
 ああ俺、帰ってきたんだ。もう、ひとりじゃない…。
 なんとなく、室井さんの肩に頭を預けてしまったのは、俺にとっては自然な流れだった。
 …のに。
 室井さんは、さりげなく俺と距離を保って、とってつけたように言った。
「今日は、どうしたんだ?…家で、ゆっくりしてたらよかったじゃないか」
 どうした、って…。
 室井さんが迎えに来てくれるって言ったのに、来てくれなかったから…来たんじゃないか。
 ちょっとかちんときたけど、俺は呑み込んで室井さんがつくった距離を詰めてやった。
「室井さんにちょっとでも早く会いたかったから、って言ったじゃないですか」
 軽く睨みあげた先にある室井さんの表情を見て…俺は、室井さんのそっけなさの理由に思い至った。
 これは、ひさしぶりが持ってきた人見知り、だ。
 室井さんは、照れてるのを隠して怒ってるみたいな、顔してた。
 …なに話していいんだか、わからなかった。
 見慣れてるはずの室井さんちにどきどきして、部屋に入れなかった。…そう、俺も、緊張してた。
 室井さんも、緊張してる。久しぶりの俺に、どうしていいかわからなくなってる。ふれあう距離に、どきどき、してる…。
 だけど、このひとは知らないから。
 俺が、密かに覚悟を決めてること。
 欲しいものを欲しいって言える勇気を、今の俺は持ってること。
「あのね、室井さん」
「なんだ?」
 また距離を置こうとする室井さんの腕を引っ張って、俺は言った。
「俺、あのときすごく、嬉しかったんです」
「あのとき…?」
 室井さんは眉間にしわを寄せた。
「そう。確保だって、言ってくれたときです」
 室井さんは、軽く目を見開いた。
「ごめんね、室井さん。俺、あのときまで、最後のとこで室井さんのこと信じ切れてなかった。室井さんがどんなに俺のこと好きだって言ってくれてても、でも いつかはきっと離れなきゃならないって。ほかの誰にも文句は言わせないなんて、そんなことできっこないって思ってた」
 だから…俺は室井さんとセクシャルな関係には、絶対にならなかった。それさえなければ…ただのナカヨシだって、誤解してもらえるって。あなたを守るつも りで…
「俺は、自分を守ろうとしてたんだ…」
 なにもなければ、忘れることだって、きっと容易にできるはず。
 忘れなければならないのは…俺の前でだけ見せてくれた柔らかい表情。広くて深い、プライベートの室井慎次。それだけ。
 それだけなら、忘れられる。
 心の奥の方に閉じこめて、目覚める瞬間だけ思い出す。そんな恋でいい。
 …あなたが好きだと気づいた頃に、戻るだけ。
 そう思って…弱い俺は、自分を守ろうとしてた。
 室井さんの腕を握った手に、力がこもる。
「だけど、俺は…室井さんが、俺の名前を呼んでくれたとき…室井さんが、本気だったんだって、やっとわかった」
 きっと、東京中の警察官が聞いただろう。
 青島、確保だ。
 室井さんは、上層部の命令と一緒に、全部の殻を破ったんだ。破り捨てて、俺に見せてくれた。室井さんが言ったこと、全部本当だって。…俺を、取るん だ、って…。
「うれしかった…」
 じんわりと、あのときの感動が胸によみがえって、広がっていく。
 広がったものを逃したくなくて、室井さんに抱きついた。
「ごめんね、室井さん…」
 信じ切れなかった俺を赦して。
 弱かった、俺を赦して…。
 室井さんの胸に顔を押しつけて…懐かしい、室井さんの胸の感触を味わう。
 室井さんが、俺の背中に腕を回して、ぎゅっと力強く抱きしめてくれた。
 そして耳元で俺の名前を呼んだ。
 大好きな、この声。少しかすれたような、でも深い響きのある…。
 …還ってきた。この場所に。たったひとつ、俺だけの場所。俺のためだけの。
 溢れ出した思いに俺が漂っているのに、室井さんははっとしたように俺を突然引き剥がした。
「…室井さん?」
 腕の長さの分だけ離れてしまった室井さんを、俺は伺う。
「す、すまない、その…」
「…なんで、謝るんですか…?」
 ついさっきまで抱き込まれていた胸の感触に懐きたがる俺を、室井さんの腕は拒んだ。
 …そのわけを、俺は知ってる。優しい、優しい室井さん…。
「その…すまない、あんまりくっつかないでくれ。私は…君が思ってるほど、聖人じゃ…」
「室井さん」
 室井さんの言葉を遮って、俺は室井さんの手を取った。
 室井さんの、綺麗な手…ずっと前には、見るだけしか許されなかった。気持ちを確かめ合って、触れることができるようになった。そして…
「俺…」
 室井さんの手に、口づけて…
「決めてるんですよ?…俺は、室井さんのものだって」
 室井さんを、見上げた。
 室井さんは、信じられないものでも見るように、俺を見ていた。
「…いい、の、か…?」
 俺は、黙って頷いた。
「でも、君は…」
「室井さんは…おれのもの、だよね?」
 室井さんが、俺を抱き寄せた。
 いつにない力強さで、俺の息が詰まる。
 ほかにはなにもいらない、と、室井さんのかすれた声が耳に響いた。
 …俺の息が詰まったのは、室井さんの腕のせいだけじゃ、きっとなかった。
 甘いキスが、俺を寝室に誘った。





 こんなにも熱い夜は、初めてだった。
 これまでだって、恋人と幾度もベッドをともにしてきたけど…こんなに、胸が苦しくなるくらいに愛しい夜は、今までなかった。
 室井さんの綺麗な手が俺の肌をたどるたびに、信じられないくらい快感がわき上がってきて、俺に甘い声を上げさせる。
 火傷しそうに熱い肌。俺をつなぎ止める腕。唇が幾度も降りてきて…涙で霞む視界の先に、苦しげな室井さんが見える。
 愛してるって、何度も何度も囁いて…ああ俺、ちゃんとこたえられてるかな。俺も室井さんを愛してる…このまま室井さんと溶けあって、ひとつになっちゃっ てもいいくらい…あいしてる…。
 室井さんは、俺の譫言みたいな言葉、聞こえてるのか、な…。





 あれ、と思って目が覚めた。
 体、動かない…。
 室井さんに抱き込まれてるんだってわかったのは、うっすら開けた瞼の先に、室井さんの顔があったからだ。
 俺…ああ、そうだっけ…。
 室井さんに、抱かれた、んだった…。
 だんだんと、もやがかかっていた記憶が蘇ってくる。
 艶やかな狂乱と歓喜に満ちた時間が…。
 今、目の前にいる室井さんは、俺が今までに見たどの室井さんより、安らいでいた。
 柔らかく、満ち足りた顔で…規則正しい寝息を立てている…。
 わき上がってきたのは、静かな感動、だった。それから、強い決意と。
 もう、絶対に離れない。
 なにがあっても、室井さんを信じて、守る。約束と同じ強さで。このひとが俺を想ってくれるのと、同じ熱さで。
 俺の決意が伝わっちゃったのか、俺を抱きしめた腕の力が強くなった。
「むろい、さん…?」
 室井さんが、ぼんやりと目を開けた。
 俺は、室井さんの胸に手をついて、顔をのぞき込んだ。
「おはよ、ございます…」
「ああ…」
 室井さんは、俺の腰に廻してた手を離して、目をこすった。
「夢じゃ、ないんだな…」
 俺は苦笑してしまう。ゆうべも室井さんは、何度も俺に確認したんだ。これは夢じゃないんだなって。
 そんな俺に、室井さんは照れくさそうに笑う。
「仕方ないだろ、俺は聖人君子じゃない」
 室井さんはもう一度俺を抱き込んで、くるりと反転して俺を体の下に組み敷いた。
 早技一本に目を丸くしている俺の耳元に、室井さんが囁いた。
「夢に見るほど、君が欲しかった」
 ああ、もう…。
 こんな陳腐なセリフでじんわりきてしまうなんて、どうしたらいいんだろう。
 俺は室井さんの背中に腕を伸ばして抱きしめる。
 室井さんも、俺をぎゅっと抱きしめた。
 カーテンの隙間から、朝の光が射し込んできているのが見えた。
 暗い部屋に射し込む、一条の光。
 きっとこの先に…すべてが待っている。
 二人が歩く道も、その先にある約束も、そこにたどり着くまでの困難を乗り越える、いくつもの奇跡もきっと、すべて。
 もう、誰にも、自分にもごまかす必要はない。
 もう、絶対に迷わない。
 あなたと一緒に、生きていく。
 俺は、室井さんにそっと告白した。





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