RETURN MATCH 1
時計の針が5時をさした。
それを横目で確認して、新城は席を立った。
新城指揮下の捜査員たちが一斉に上席の新城を見たが、ぎろりと一瞥されて、皆あわてて視線をそらす。
こんなふうに、5時ちょうどに席を立つ新城は、最近では珍しくはない。
NY長期研修から帰って2ヶ月。
日頃、冗談ヌキで殺人的な忙しさの捜査一課だが、今日のようにぽっかりとあいた一日が、何度かあった。そんな日は必ず、新城は5時ちょうどに退庁する。
それはなぜか。
新城にそれを直接訪ねる命知らずは、いかに猛者揃いの捜査一課刑事たちにもいなかった。聞こうものなら、一にらみされると石になるとか、針が眼から出るとか噂されている、新城の殺人視線が飛んでくるからだ。
それに、聞かなくても、理由を知らないものなどいない。
警視庁の、いや、いまや全国警察機構の鬼門とまで言われている、湾岸署だ。
そこの交通課婦警に新城が入れあげているのは、かなり有名な話である。NY長期研修の直前、その婦警に新城がプロポーズされたというエピソードは、もっ
ともポピュラーなものだが、彼女とのデートのために5時きっかりに退庁して、花屋に寄って花束を買い求め、そこからさらにデパートにまわって毎回趣向を凝
らしたプレゼントを選んでいることまでは、あまり知られていない。捜査一課のプライドにかけても、新城のイメージをハンマーでたたき壊すこの事実は知られ
てはならないのだった。
しかし。
ああ、今日はデートなのだな、とだれが見てもわかるにやけきった表情と、それでも、イカン、気持ちを引き締めねばと思うらしいしかめっ面のスイッチ切り替えには、なにか背筋に薄ら寒いものを感じている彼らであった。
次の異動で、新城が昇進してほかの部署へ移るまでの、数ヶ月の辛抱だ…!
そう自分に言い聞かせつつ、今にも羽が生えて飛んでいってしまいそうな新城の後ろ姿を見送る刑事たちであった…。
本日の花束は、チューリップにしてみた。
かわいらしいイメージが、夏美にはぴったりだと前々から思っていた。
しかし、これまでチューリップの花束を贈ったことはなかった。今日、この日のためだ。
先ほど貴金属店で買い求めた、指輪が入った小箱をポケットに無造作につっこんで、そっと握りしめる。
チューリップを贈る時は、この指輪を渡すときと、決めていたのだ。
そう、今日こそ!
新城は決意を固めていた。
NY行きの直前に、二人の気持ちは確かめ合っていたし、帰ってきたら当然結婚するものと決めていた。しかし、肝心の言葉をまだ言っていない。照れくさく
て、これまで伸ばしのばしにしていたが、やはりけじめはつけねばなるまい。今プロポーズすれば、女性があこがれているという、ジューンブライドとやらにも
間に合うだろう。
待っていろ、夏美!!
決意も固く、銀座の街をずんずん歩いていく新城に、奇異のまなざしが贈られていることには、幸せなことに、新城は全く気がついていなかった。
待ち合わせの時間に、夏美は10分遅れてやってきた。
レストランには、余裕を持って予約を入れてあったから、そうせわしなくすることもなく二人は店に入った。
NYから帰ってきたときから思っていたが、この1年半で、夏美はとみに大人っぽくなった、と新城は思っている。
くるくる変わる表情や、感情を隠しもしない大きな瞳が輝いているのは、以前と変わることはなかったが、ちょっとした仕草や、つけるアクセサリー、香水
が、ときに新城をどきりとさせる。そんな新城を、どうかした?とのぞき込んでくる表情が、また少女から大人の女性に変化しつつあることを意識させて、新城
はいつもなんでもないふりを装うのに苦労するのだ。
今日もそうだった。
いつもは、通勤帰りの比較的ラフな格好をしているのに、今日はスーツを着込んでいた。少々短めではないか、と説教したくなるスカートからは、すんなりとした脚が伸びていて、どうにも目のやり場に困ってしまう。
ごほんと咳払いをして、新城は居住まいを正した。
すでに料理はデザートに入り、夏美は嬉しそうに生クリームをすくっている。
「…夏美、相談があるんだが」
もちろん断られるとは思っていないが、やはり緊張するものだ。
女性が喜ぶような甘いセリフを言える性格ではないことは夏美も承知しているから、耳に心地よいようなプロポーズの言葉を用意してきてはいない。
やはり、男は直球勝負。
「…今度、君の父上にご挨拶に…」
と、言いかけた新城を遮って(どこが直球勝負だ)、夏美が口を開いた。
「あ、私も相談あるんです。聞いてくれます?」
にこりと夏美に笑われては、新城が聞かないわけがない。
「あ、ああ、なんだ?」
多少ひきつり気味の笑顔を浮かべる新城になんの気も止めず、夏美は真剣な面もちで言う。
「あのね、私やっぱり刑事になりたくて。今日、巡査部長試験、受けてきたんです。来週合格発表なんですけど、受かると警察学校入るでしょ。しばらく寮生活になっちゃうから、週末しか会えなくなっちゃうの。賢ちゃ…じゃない、新城さん、週末ちゃんとお休みあります?」
「…今、何と言った?」
「だから、お休み」
「そうじゃなくて、その前だ」
「しばらく寮生活?」
「もうちょっと前だ」
「受かると警察学校」
「そうじゃない!」
いらついて、つい声を荒げてしまった。
夏美がビックリしたように大きな瞳をさらに大きくしている。
店員も、なにごとかとこちらの様子をうかがっている。
しかし、今の新城にそんなことはかまっていられなかった。
今、夏美は何と言った?
「…巡査部長試験を受けたと言ったな?」
「言いました」
瞳を大きくしたまま、夏美が答える。
「なぜそんなことを!」
「なんでって…小さい頃から、刑事になるの夢だったって、いつも言ってたじゃない」
「刑事はダメだと言っておいただろう!!」
「そんなの変だって、私も言いました!」
周囲をはばかることなく大声を上げていたのに、先に気づいたのは新城だった。
「…君は、私とのことをどう思っているんだ」
「え…?」
どうしてそんな話になるのか、夏美にはさっぱり見当がつかない。
そんな夏美にいらついて、新城はポケットにしまっておいた小箱を夏美に差し出した。
「今日、私が君に話したかったことは、これだ」
おずおずと、夏美が小箱に手を伸ばし、ゆっくりと箱を開ける。
そこには、小さな石をはめ込んだ、華奢なデザインのプラチナリング。
「これ…」
夏美が新城を見つめる。
しかしそこには、夏美の大好きな優しい笑顔はなかった。
「君も、同じ気持ちだと思っていた。…警察官僚の妻が、どうして現場の刑事などやっていられると思うんだ。巡査部長になって、刑事になってどうする。私のことは、どうでもいいのか」
苦々しい口調で言う新城に、夏美は悲しげに小箱を返した。
ぎょっとしたのは新城だ。
「夏美…!?」
まさか、返されるなどとは思いもよらなかった。
これをさしだせば、夏美は瞳を潤ませて、うなずいてくれるとばかり思っていたのだ。
「新城さんが、そういう風に思ってるんじゃ、わたし、これうけとれない」
それだけ、押し殺したような声で言うと、夏美は立ち上がった。
「帰ります。食事おいしかった。…さよなら」
ことばも出ずに夏美を呆然と見送って、夏美の背中が店から出ていって初めて、新城ははっとして夏美を追った。
店を出る直前、あわてて会計をしようとしたが、夏美が支払った後だった。
「夏美…!」
きらびやかな街の中に、すでに夏美の姿は見あたらなかった。
それでもあきらめきれずに周囲を見渡していると、どん、と背中に誰かがぶつかる。
そんなことは気にもとめず、夏美を捜そうとしていると、ぶつかった相手が肩を叩いた。
難癖つける気か、とぎろりと振り返ると、そこには見慣れたモスグリーンのコートが立っていた。傍らには、黒いコートの室井もいる。
「あ、やっぱ新城さん。どうしたんです、こんなとこで。…っと、そうすると、さっきのやっぱり夏美ちゃんか」
「ほらみろ、声をかければよかったんだ」
「っていうけどねー、あんな凄い勢いで走ってくのに、どうやって声かけるの」
「!夏美を見たのか?」
のんびりとしたこのカップルの会話に耳ざとく夏美の名を聞いて、新城がかみつくように青島に詰め寄る。
新城の勢いに、青島が一瞬たじろぐ。
「あ、ああ、会いましたよ。っていうか、すれ違ったんだけど。…はぐれちゃったんすか」
「どっちへ行った!?」
「わかりませんよ、もう。すごい勢いで走ってくんだもん。今日の試験、出来よくなかったのかなって思って」
青島の言葉に、力が抜ける。
結局、知らなかったのは自分だけなのだろうか。
ため息をつく新城に、心配そうに青島が問う。
「…もしかして、ケンカ、したんすか?」
「そんなところだ」
意外に正直に、新城はぽつりと言った。
珍しい、弱々しげな新城に、青島と室井は顔を見合わせる。
室井につつかれて、青島は新城の顔をのぞき込んで言った。
「よかったら、新城さん、俺たちと一杯やってきません?」
青島と室井に誘われるままに歩き出そうとして、新城は手の中の花束に改めて気がついた。
渡しそびれた、ピンクのチューリップ。夏美のように、人の心を暖かくしてくれる花だと、思って買い求めた…。
そっと花束を握りなおして、新城は二人と並んで歩き出した。
