Atlas 天
こんな夜には、地図が欲しい。
この道の果てになにがあるのかを知りたい。
目の前には厚い雲がかかっていて、道が見えない。
一歩踏み出したその先に、地面があるのかどうかさえも。
ただ見えるのは…あの夏。
とても暑かった、あの日。
あの日私が道を間違えたということだけ。
あのとき…別の道を選択していれば。
君を失うことなど、なかったのに。
こんな、胸を切るような痛みを感じることも。
一歩も踏み出せない恐怖を感じることも。
きっと、なかったのに…。
失ったのは、君と、君がいる未来。
幸福に違いなかった、別の今…。
頭を抱えうずくまる私の肩を、叩く者がいた。
のろのろと顔を上げる。
「…一倉…」
「なんて顔してやがる」
呆れたように笑って、私の頬をつねった。
「俺は警告しただろう?」
返す言葉もなく俯く私に、一倉は一つため息をつき、ベンチに座る私の横に腰掛けた。
「どうだ?」
「…まだ、終わらない…」
「そうか…」
一倉が、赤いランプを見上げて足を組んだ。
赤いランプが灯ってもう2時間以上が経過していた。
「俺のせいだ…」
「ああそうだよ、お前のせいだ」
さらりと一倉は言った。…こうして責められていた方が、下手に慰められるより遙かに楽だと思った。
「携帯に…着信があったんだ。おそらく犯人からだ。あんたのせいだ、と言っていた。おとなしくしてないからだ、と…」
「つまらん理屈だな」
一倉は吐き捨てるように言った。
「俺の、せいだ…!」
警察官の職務は、常に危険と隣り合わせ。中でも四課はまっとうな思考が通用しない奴ら相手で、それなりの覚悟をしてしかるべき。…その覚悟が足らなかっ
たのだ。大切な人を危険にさらすかもしれないという、覚悟が。私の手の届かないところで、青島は刺された。守りきることが、できなかった…!
「俺のせいだ…俺の、せいだ…!」
ぎゅっ、と目を瞑った。赤いランプが焼き付いて、瞼の裏も赤かった。
一倉が、いい年して泣くな、みっともない、とつぶやいた。
「いいか、今四課が動いてる」
私の肩に手が置かれる。
「同じ警察官が刺されたんだ、全員かっかきてる。お前、携帯捨ててっただろう、主席参事がつかまらなくて困ってる。すぐに本庁に戻って指揮をとれ」
「ムリだ…」
青島の生死もわからないのに、仕事になど行けない。ここから一歩も…立つことさえできそうにない。
弱音を吐く私に、一倉がため息をつき、私の肩を揺さぶった。
「おい室井…」
「俺のせいなんだ!」
顔を上げ、叫んだ。
その瞬間、視界がぐるりと逆転し…私は床にはいつくばっていた。
一倉に、ぶっとばされたのだ。
一倉は私の胸ぐらを掴んで引っ張り上げて言った。
「そうだよ、お前のせいだ。…だったら責任とれ!」
そのままがくがくと揺さぶられる。
「そこらへんの覚悟もできないで青島と一緒にいられると思うな。危険にさらしたんなら、もう二度と危険がないようにするのが男だ。二度と手を出せないように組織をつぶせ。…その気がないなら、青島と別れろ!」
青島と、別れろ…。
これまで、何度一倉にそう言われたかわからない。
ただ青島と一緒にいたかった。愛おしさを留めることなどできなかった、それだけで青島の手を取った私の…生半可な覚悟を見通して、言っていたのだ…。
私は、唇を噛みしめた。
それを見て、一倉は手を離し、私の腕を取って立ち上がらせた。
まだ血のついたスーツの埃を落とし、襟元をなおす。
ぽんぽん、と私の胸を叩いて、先程までとはうって変わった静かな口調で言った。
「青島をつけてたのは坂本会の若いのだ。…覚えてるな?」
「ああ…」
以前、青島を使ってつぶした組織だった。
「行け。手術が終わったら連絡する」
「ああ…」
もう一度、ランプを見上げた瞬間…ランプが消えた。
そっと病室のドアを開けると、規則正しい機械音が聞こえた。
証明が消され、静かに眠る青島の横顔が、機械が放つグリーンの光に浮かび上がっていた。
私は足音を立てないように近づき、ベッドの前に立った。
青島を刺したのは、坂本会系の組織子飼いの男だった。
同じ警察官が刺されたことで、捜査員の志気は上がっていた。私は青島を抱き起こしたときの血をつけたまま、捜査の陣頭に立ち…異例のスピードで被疑者を
逮捕した。事務所で多少暴れ、脅迫めいたことも言い捨ててきたが、私にとっては荒ぶる気持ちを発散する場を与えられたにすぎなかった。…その足で、病院に
戻った。
もうきっと…二度と見ることのない青島の顔を、よく見ておこうと思った。
青島を愛している。誰よりもなによりも愛している。
でも、どんなに想っていても、抗い得ないものがあるのだ。そして、大切に想うからこそ…守らなければならないものがある。触れることすらできなくなっても。
青島が刺されたのは、私のせいだ。この先同じことが起こらないなどと、誰も言うことはできない。私が、警察組織に身を捧げる限り…私が、青島のそばにいる限り。
願うのは、青島の幸福。だったら私を忘れ、生きていて欲しかった。
誰の目を気にすることなく。突然の暴力におびえることなく。幸福に…しあわせに、なってほしかった。
きっと私の世界は一切の色彩を失うだろう。なにもかもが味気なくなるだろう。…でもそれは、罰なのだ。青島を傷つけた罪を背負って…二度と触れられぬ罰を追う。この罪を抱えて、一生生きていくつもりだった。
私はそっと腕を伸ばして頬に触れようとし…指先に血がこびりついていることに、今更ながらに気がついた。
ハンカチは…青島が持たせてくれたのだった、と思いだし、ポケットを探ったが見つからなかった。暴れたからどこかに落としてしまったのだろう。もうこのスーツはダメだ、どこで拭いても同じだ、と思い、私は指を胸にこすりつけて、血の痕を落とした。
「…ダメ、ですよ、室井さん…」
はっと見ると、青島がうっすらと目を開けて私を見つめていた。
私はベッドの脇に跪き、汗で張り付いた前髪をそっと払ってやった。
「…目、覚めたか…」
「いま…」
しゃがれた声だった。
「…お守り、効きませんでしたか…?」
薄れていく意識の中で、青島が私に渡したのは、青島が大切にしていた靖国神社のお守りだった。私はそれを内ポケットから取り出して見せ、ありがとう、と言った。
「おかげで、この程度ですんだ」
「この程度…?」
青島は、笑おうとして失敗したようで、顔を歪めた。
笑われても、仕方のない格好だった。
青島は腕を伸ばして、あちこちに擦り傷をつくり、明らかに殴られた痕の残る顔に触れようとした。私はその腕を掴んで言った。
「…お前は、わかってたんだな…」
「え…?」
「俺のせいで、お前は刺された」
青島は、くすりと笑った。
「あんなおっかない顔した兄さんに、恨みを買った覚えはありませんからね」
「よく言う…」
私は青島の手にそっと口づけた。
「…すまなかった…」
青島は、少しだけ目を見開いた。
「俺のせいだ」
青島はなにも言わず、手をそっと伸ばしてぼさぼさになった私の髪に触れた。
柔らかい感触に、目を閉じた。
「痛かっただろう…?」
まぁねぇ、と言って青島は私の髪をなでつける。
「室井さんの方が、痛そうですよ…?」
「こんなの…痛くない、ちっとも。お前に比べたら…」
君の受けた突然の暴力に比べたら、こんな痛みはなんでもなかった。そして…これからも受けるかもしれない暴力への恐怖に比べたら…私の痛みは、罪として受け止めるべきなのだ…。
「青島、別れよう」
私の声は、震えていた。
意を決して瞼を開けると、青島は大きく目を見開いていた。
「俺といると、お前は不幸になる。死ぬかもしれない。…そんなのは、絶対耐えられない」
「室井さ…」
私は畳みかけるように言った。
「俺のことは、忘れてくれ。もう二度と…お前の前に現れないから…忘れてくれ…」
青島は、呆れたように唇をすこしだけ歪めた。
「困った人ですね…」
そう言って、私の髪を再び撫でた。
「なんのためにお守りあげたんだろう」
…え?
私が眉間に皺を寄せたのに気づいて、青島は小さく笑った。ようやく、笑えるだけの余裕が出てきたようだった。
「室井さんが、この怪我のこと気にするだろうな、って思ってました。春にも…秋にも、俺は刺されて…そのたんびに室井さんは気にしてた。俺のせいだ、って…いつだって…」
本庁と所轄との連絡がうまくいかず、青島が殺されかけたことがあった。
秋には、私の判断が遅くて、腰を刺された。
そのたびに私は…身を切る思いをしてきた。
…それも、これで最後だ。
私が関わらなければ、青島もきっと…
「でも俺は生きてる。今も」
青島は、私の考えていることなどお見通しだ、と言わんばかりにきっぱりと言った。
私がなんと言っていいのかわからずにいるのを見て取って、青島はふっ、と表情を和らげた。
「…なんでそんな死にそうな顔してるの?俺はあんたの方がよっぽど心配です。あんたが気にしないように…あんたがちゃんと自分の仕事できるように、って…お守りあげたのに…」
青島の手が、腫れた私の頬に触れる。
「前にも言ったでしょ?…室井さんと一緒にいるのに、俺が不幸になるはずがない、って」
青島の手は…熱かった。あの夏、初めて触れた唇と、同じくらいに。
「俺のこと、不幸にする気ですか?」
瞳が悪戯っぽく光る。
「赦して…くれるのか…?」
青島はくすりと笑う。
「怒ってないでしょ、最初から。…こんなのは、最初っから覚悟の上」
私がそっと青島の手を取ると、青島はぎゅ、と私の手を握った。
「また、覚悟が決まってなかったの…?」
「決まって…なかった…」
じわり、と涙が浮かびそうになった。
私は、どこまで愚かなのだろう…。
あの夏に、私は知ったのだった。
青島は、どんなリスクを背負ってでも、自分の思いを貫き通す。まっすぐに…弱い私の心を貫いて。大切なものを、だれより知っている…。
「…また、刺されるかもしれないぞ…?」
「そのときは、お守りが守ってくれます」
「なにが起こるかわからない」
「だから人生、おもしろいんでしょ」
「…俺が一緒にいても、いいか」
「一緒にいてくれなきゃ、俺は不幸になっちゃいますよ?」
私はベッドに腰掛けた。
青島が、ゆっくりと腕を持ち上げる。
私の肩に腕が置かれ…引き寄せられた。
こんなに傷だらけになっちゃって、せっかくの男前がだいなし。
青島は、小さく笑って…私に唇を求めた。
唇が合わさったとき…理性がまた告げた。
本当にいいのか。青島を不幸にしないと、言い切れるのか。
…私は、2年前と同じことを答えた。
この腕の熱さを、離すことなどできない。もう離れて生きていくことはできない。
その代わり…生涯かけて守る。もう二度と傷つけない。それだけの力を持ってみせる。強くなる。この誓いが…私の背負う罰だと思った。生涯をかけて。
一ヶ月後、青島は退院した。
以前のように、無茶なリハビリをしたようだった。
今では、傷は痛まないのか、と聞くと、ぱたぱた、と胸を叩いて見せて、どっち刺されたんでしたっけ、などと言って笑っている。
私はといえば、血糊のスーツで大暴れした参事官として有名になり、その界隈では恐れられているそうだ、と一倉に言われ、非常に不本意な平和な日々を送っている。二度とやりたくない、あんな大立ち回りは。
一倉と言えば、相変わらず暇なようで私のところにコーヒーを持って来ては馬鹿な話をしていく。マンション買わないかと最近うるさい。一瞬その気になりか
けたが、一倉と同じマンションだと聞いてやめた。どうせ、毎晩酒を持って上がり込んでは青島と呑む気だ。絶対お前の近所には住まない、と言うと、またぶっ
とばすぞ、と脅迫めいたことを言う。一倉の方がよっぽど四課に似合っていると思う。
今日も東京は暑く、蝉がわんわんと鳴いている。
でももうじき…ゆっくりと空が高くなり、風が涼しくなって、ここから見える風景も赤や黄色に彩られるだろう。
なんの約束もなくても移り変わる季節の中で…変わらぬものがある。確かな約束とともに。あの夏の日から変わらぬ熱さで。
相変わらず、私たちの足下は頼りないタイトロープ。
でも…この危うさを乗り越える。乗り越えてみせる。
乗り越える強さを与えられたこの夏を、私はきっと忘れないだろう。あの夏の日とともに。
人は、愚かな生き物だ。
後ろを振り返っては、あのとき別の道を選んでいればと悔やみ、今にため息をつく。
きっと別の今が。別の未来が。そうつぶやいて。
でも人は、今を否定しては生きてはいけない。
この道を選んだから…今がある。
得難い友情と、大切な人に囲まれた、幸福な今が。
もう地図はいらない。
罪も悔いもすべて背負い、今を生きる。
遙かな道を、君と。未来永劫。
伝説の巨人、アトラスのように、永遠に。
