Atlas 天







 目覚まし時計が、うるさく鳴った。
「ん…」
 のろのろと腕を上げようとして、いやに腕が重たいことに気がついた。
「ああ…」
 昨夜は、青島が来て…恋人は、私の腕枕ですやすやとおやすみ中、だ。
 この轟きの中で目を覚まさないとは、なんという大物。
 私は半分呆れたのだが、彼が目を覚ませない理由の一端を担った者としてそれ相応の責任を感じ、彼が目を覚まさないように気遣いながら腕をそっと抜いた。
「ん…」
「よっ、と…」
 ぱちり、と目覚まし時計のボタンを押して、ようやくうるさい電子音が止む。
 …が、私の腕は甘い重みのおかげで痺れてしまっている。このしびれが治まるまでは…こうして、恋人の寝顔を見つめていることにしよう。
 そっと、頬に触れ…柔らかな髪を掻き上げる。
 意外にまつげが長く、どきりとしたのはもう昔の話だ。青島が私の腕の中で眠るようになって、もう2年がたつ。あの頃感じていた胸の高鳴りは、静かな愛おしさに変わっていった。
 ふ、と青島が目を開けた。
 うす茶色の瞳が焦点を合わせ…私を認め、柔らかく光る。
「おはよ、室井さん…」
「ああ」
 ふわ、と大きくあくびをして、青島はころん、と寝返りを打って私の身体に抱きついてきた。
「こら、重たい」
「んー…やっぱここが落ち着くんすよねー…」
「まだ寝ぼけてるのか?」
 頭をくしゃくしゃにかき混ぜてやると、青島はくすくすと笑いながら言った。
「寝ぼけてると、思います?」
「…思わない…」
 私は青島を抱きしめ、組み敷いた。…寝ぼけた身体が、こんなに熱いわけがない。
「室井さん、俺、今日非番」
「知ってる…」
 首筋に口づけると、青島が頭を抱き寄せながら言う。
「でも、室井さんは非番じゃないでしょ」
「ああ」
 身体をまさぐり、口づけて…
「だからダメだってば、室井さ…あ…っ」
 抵抗を押さえ込みながら、私は言った。
「こら、確信犯。今更じたばたするな。責任とれ」
 紅潮した顔をのぞき込むと、青島はぷっと吹き出した。
「ばれてんの」
「まだまだだな」
「困らせてやろうと思ったんすけどねぇ」
「もう慣れた」
 青島はまた笑って、キスを強請った。
「じゃあ…もっと困らせてあげます」
「ああ、そうしてくれ…」
 深く口づけながら、私たちは甘い嵐に身を任せた。





「室井さん、ハンカチっ!」
「ああ」
「メシはっ!?」
「いい、いらない」
「あーもうっ、時間が~!」
「…なんでお前が慌てる?」
「なんで室井さんが慌てないんですっ」
 ぎろりと睨まれて、少しだけ怯んでしまう。
「早く早く早くっ!」
 青島に背中を押され、玄関まで追いやられる。
「もー、なんで寝ちゃうかなぁっ!?」
「そうだなぁ…」
 結局あの後、登庁の時間に目を覚ました私は、非番の青島に急かされているというわけだ。
 緊張感のない私の返事に、また青島が目くじらをたてる。
「…なんでそんなにのんびりしてるかな…っ?」
 おっと。さらに怒らせると、今後が怖い。
 私はまじめな顔を取り繕って、青島に言った。
「行ってきます」
「はい行ってらっしゃい」
「7時頃、電話する」
「はいはい」
「夕飯、外に食いに行こう」
「はいはいはい」
 気のない返事をしながら、青島は手首をぺちぺち、と叩いて見せた。…時間を気にしろ、ということなのだろう。
 …そう急がなくても、これだけ遅れたらもう同じだと思うのだが…。
 などと言ったら、また怒らせる。
 私は片手を上げてドアを開けた。





 青島の心配は、もちろん杞憂だ。
 今は、そう目立った動きはない。
 自分のデスクに1時間遅れでついて、昨夜から増えた書類がないかを確認する。
 ぱらぱら、と資料をめくっていると、デスクにコーヒーカップがとん、と置かれた。
「よお、重役出勤」
「一倉…」
 同期の一倉が片目を瞑ってコーヒーをすすっていた。
「聞いたぞ、室井参事官どの大遅刻事件」
「…そんなことが薬対まで広まってるとは、世の中平和で結構なことだ」
「いや、そこで聞いただけ」
 さらりと言って課の入り口を指し示す一倉を見上げ、眉間に皺が寄るのを自覚する。
「青島と朝寝か?恋人時代が長いってのはいいねえ、いつまでも新鮮だ」
 訳の分からないことを。…事実ではあるが。
 私は書類に目を戻した。
「私をからかいに来たのなら時間の無駄だ。さっさと自分の仕事しろ」
「仕事しに来たんだよ」
 …不意に声に真剣みが帯びた。
 見上げると、一倉は親指で廊下を示している。…ここではできない話ということか。
 私はため息をついて書類の束を揃えて机の端に置いて立ち上がった。





 一倉が持ってきたコーヒーを一口すすった。
「クスリの動きがあったか」
「ああ、そうじゃあない」
 一倉は、窓の外を見ながら言う。
 …クスリとヤクザは一心同体。一課にいた頃よりも、一倉と組んで仕事をすることは多くなっている。
「話は、青島のことだ」
「…またか」
 一倉には、青島のことは話してある。嘘がつけない私が、平気な顔で閻魔大王にも舌を出してみせるような一倉に隠し事などできるはずがなかった。
 一倉は最初驚いて見せて、すごい剣幕ですぐに別れろと何度も言った。
 …が、それだけだった。別れろと何度も言う。が、それが他の者に漏れることはなかった。そういう男だからこそ、私も包み隠さず話したのだった。
 しかし一倉も、最近ではだいぶ態度が軟化してきていた。ある事件をきっかけに青島のことを認め、今では可愛がってすらいる。いずれ本庁に欲しいな、とまで言うほどに。
「今度はなんだ?」
 また薬対で使うと言うのだろうか。
「いいや。…しばらくお前、青島と会わない方がいいな」
「…なんだと?」
 なにを今更。
 私の視線が鋭くなったのを横目で見て、一倉はさめかけたコーヒーを一口含んだ。
「…昨日青島の奴、お前の家に泊まっただろう」
「あ…ああ」
 見られていたか。…官舎だから、仕方がないと言えば仕方がないが。
「うちの若いのが見たんだそうだ。…ああ、大丈夫だ、信頼できる奴だ」
 一倉が信頼できると言うなら、そうなのだろう。この男の人を見る目は確かだ。
「…で、そいつが気になることを言ってた。青島をつけてるやつがいた、ってんだ。それも、どうみても」
 ぴっ、と頬を斜めに指で切る。
「どこかのにいさんだ。見覚えがあるって言ってたから、今確かめさせてる」
「…そうか…」
 俄に話がきな臭くなる。
「…で、今朝湾岸署の方にも確認を入れた。あいつ今、組がらみの仕事はしてないな?」
「ああ、相変わらず強行犯だ」
「だよな、あいつには向かない仕事だ。あいつに暴力やらせたら、いっきに戦争が始まっちまう」
 一倉は苦笑しているが、青島の無鉄砲さを最近では気に入ってもいるのを知っている。
「だとすれば、青島がつけられる理由は」
 一倉はコーヒーを飲み干して言った。
「室井。お前しかない」
「…俺か?」
「ああ」
 一倉は私の胸をどん、と拳で突いた。
「優秀な参事官どののおかげで、ここんとこ検挙率がぐっと上がってきてる。解散に追い込まれた組、追い込まれそうな組…お前さんに恨みを持ってる奴なんか、星の数ほどいるさ。なんせあちらのにいさんがたは、なかなか恨みを忘れちゃくれないからな」
 軽々しく言ってくれるではないか。畑違いの四課に配属されたときは、上層部の嫌がらせに違いないと思った。仕方がないから仕事で証明してやろうとがむしゃらにやってきたのだが…
「犯罪者予備軍のくせに、生意気だな」
 私が腕を組みながらそう言うと、一倉はまた私の胸を突いた。
「そうそう、そうやって相手にしてやらないとこもまたまずかったな。…だからやつらは、弱みを探す」
「…青島か」
「そういうことだ。しばらく会わないでおけ。ほとぼりがさめるまでな。お前には辛いかもしれないが…」
 口はにやにやと笑ってはいるが、目は笑っていない。
 …本気なのだ。
 本気で、青島と私を心配してくれている。
「大丈夫だ、一倉」
「お前なぁ」
「いや、大丈夫だ。…お前が、ついててくれるからな」
「おいおい…」
 一倉は、気味悪げに頭を振って見せた。
「青島には、借りがあるだけだ。なにも守ってやろうなんて言ってないぞ?情報を、流してやっただけだ」
 私は一倉を上目で見た。
「じゃあ俺は?」
「お前は、ただの同期のよしみ」
「浪花節はうならない方がいいんじゃなかったのか?」
 意地悪く言ってやると、一倉は唇の片端だけ上げて見せた。
「そう言うな。俺だって、手を組むなら仕事のできる奴の方がいい」
 そして、時計を確かめて私のコーヒーカップを奪い取った。
「そろそろ戻る。どこの組のやつか、わかってる頃だ」
「そうか。なにかわかったらまた連絡をくれ」
「ああ」
 一倉は、私の胸を指さしながら言った。
「いいか、青島とはしばらく会うな。警告したぞ、俺は」
「…聞いてはおく」
 この馬鹿、と小さく言って一倉は背を向けた。
 …悪態をつきながらも、一倉はきっと全力をあげて私と青島を守ってくれることだろう。
 一度懐に入れた人間には、限りなく力を尽くす。そういう男だ。
 同期のよしみと一倉は言ったが、それ以上に与えられる友情に、私は感謝した。数少ない…本当に少ない、青島とのことを認めてくれる、かけがえのない存在だった。青島の得難さを理解し、私にとって必要なのだとわかってくれる…大切な、友人だ。
 …相変わらず、リスクは大きい。私たちの足下は、いつでも頼りないタイトロープだ。でも…渡りきることができると、信じることができるのは、こんな瞬間なのだ。
 私は窓の外を見た。
 いつかと同じ、突き抜けるような夏の青い空。
 あのときと同じ熱さが、今でもこの胸にある。




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