恋をしよう
香ばしい焼き鳥の匂い。
あつあつのコロッケやモツ煮込みがあげる湯気。
それは、多忙だった一日をようやく終えた男の足を誘う。
赤い提灯に背中を照らされてのれんをくぐった男を呼び止める声がした。
「あれ。新城、さん…?」
…聞き覚えがある…。
ゆっくりと振り返りながら、やばい奴に見つかってしまった、と思った。
「いや意外っす。新城さんがこんなとこで呑んでるなんて」
「…こんなとこって言うな」
青島は新城の隣に座って、刺身を摘んでいた。
新城は憮然としてビールを呑んでいる。
「新城さんなんか、ちょー高級なトコでワイングラス回してるって俺たち信じてましたよ」
「なんかって言うな」
「おやじさーん、生中!」
「聞いてるのか」
「あ、新城さんなに呑みます?」
「梅焼酎」
青島が変な顔をする。
「新城さんって…」
「なんだ」
「おやじばっちり入ってますねぇ…」
「うるさい」
呆れたように言う青島を、ぎろりと睨んだ。
まったく、この店は気に入っていたのに、こんな奴に見つかってしまうとは…。
新城はため息をつきたくなってしまった。
毎日肩肘張って仕事をして、日付が変わる頃に部屋に帰っても、なにかしようという気はまったく起こらない。
ここで…ほどよく汚く、ほどよく味がよく、ほどよく干渉してこない愛想の悪い親父が経営する小さな居酒屋で夕食兼晩酌をするのが、新城の唯一と言ってい
いくつろぎだったのに…。
しかし、何杯かグラスをあけるうちに、言うこと聞かないわ無鉄砲だわかわいげないわ部下に持ちたくない男ナンバーワンの青島に対する印象が、少しだけ変
わっていった。
話題が尽きない。共通の話題と言えば仕事がらみしかなく、こんなところでしていい話ではないのだが、決して仕事の話はふらずに新城も楽しめる会話を続け
ている。
ああ、こいつは気を遣っているのか、としばらくしてから気づいたが、接待のうち、といったかんじはしない。青島も楽しんでいるのだ、とまたしばらくして
から気がついた。
そういえば、と以前青島の資料を見たことを思い出した。以前は営業マンだったらしい。だからか、と思いながら、先入観ばかりでいてはいけないものだな
と、なんとなく思った。
となりで馬鹿な話をしていても気にならない…距離をきちんと保ちながら、きのおけない話ができる相手というのは、新城にとっては数少なかった。
腹もふくれて、いい気分になって、店を出た。
このまま二件目にいってもいいな、と思ったが、青島はそれじゃあ、といって背中を向けた。その引き際も、気に入った。
その日から、青島は一緒に呑んだらおもしろい奴、という位置を占めるようになった。
それは、時折一緒に呑むようになった頃だった。
そのころには、仕事とプライベートをきちんと分けられる男として、新城の中での青島の地位はさらに上がっていた。
所轄は本庁の駒。思い通りに動いてこそ意味がある。
新城のその考えを納得したようではなかったが、呑み仲間じゃないか、などというなれ合いを職場で出すことは決してなかった。
その日は寒くて、熱燗をひっかけて帰ったら気持ちよく眠れるな、と思っていた。
湾岸署の管轄も平和なようだし、と思って青島を捕まえて、小汚い居酒屋に入った。青島は珍しく、微妙な顔をしてついてきていた。
「あのー…新城さん」
「なんだ?ここはな、唐揚げがうまい。頼もう」
「はあ…」
なにか言いたげなのに、ずいぶんたってから気がついた。
そのころには、二人ともだいぶ呑んでいて、ほろ酔いかげんの新城は慣れない新城の冗談に肩をふるわせて笑っていた青島が、不意に笑いを引っ込めた。
「…どうした?」
「いえ」
軽く言っているようで…なにかをごまかしているようにも見えた。それは、新城が見慣れない種の表情だった。
少なからず驚いて、じっと青島を見る。青島は目を大きく広げてみせ…苦笑した。
「すんません。えと…も、出ましょっか」
「あ…ああ…」
唐揚げと飲みかけのビールに未練はあったが、コートを手に立ち上がった青島に釣られて勘定を済ませた。青島と呑むときは、いつでも折半だ。上司と部下と
か、そういうのじゃなく…ただの呑み仲間、だからだ。
ネオンがきらびやかな街に出て、寒さに首を竦める。青島はほてほてと歩きながら、なにか言いたげな雰囲気を身にまとったまましかしなにも言わずにいた。
どうしたんだろう。
珍しく、人の感情の機微が気になった。
…唐揚げ、うまくなかったかな。
ぼんやりとグリーンの背中を見つめながら歩いていると…ふと、青島が歩みを止めた。
「…新城さん。ちょっと、寄っていいですか?」
「あ…ああ…」
青島が指さしたのは、コンビニエンスストアだった。
「ちょうどいい。私も明日の朝食を買っていく」
「まーたコンビニ弁当。わびしいっすねー」
ようやく出た軽口に、新城はほっとしたのだったが…青島は、ため息をついていた。
「…どうした?」
「わびしい、っすよねー…」
青島が見つめたのは、レジ近くに置かれたチョコレートの山。
つん、とそれをつつく。
「わかってました?今日、バレンタインデー、なんですよ」
「あー…」
製菓業界の陰謀の日。あいにく新城にはまったくと言っていいほど、関係ない。
しかしそれでなんとなく、青島の沈んだ様子に納得がいった。
「なんだ。女の子とデートじゃなくて私と呑んでるってのがわびしいって思ってたのか」
苦笑しながら、明日の朝食用の弁当を物色する。
「…違いますよ」
青島の声も、笑いを滲ませていた。だから安心した。
背も高くて行動力もあってちょっと顔がよくて、きっと女がほっとかないだろうと思っていたのだが、なんだ、彼女いないんじゃないか。
三十すぎて女っ気なくてお互いわびしいバレンタインデー。同病相憐れむってやつだろうが、恋愛自体に興味がないどころか意味を見いだせない人間が自分以
外にいると思うと、なんだか気分が軽かった。
新城はおむすびセットを手にとって振り返り、青島に声をかけた。
「青島」
青島は、チョコレートの山の前で、立ちつくしていた。
「どうした?」
ゆっくりと手が伸びて、赤い包みに触れる。
「どうしよ、っか、なー…」
うつむいた顔は長めの髪に隠れて、表情が見えない。
「どうしよう、って…」
「買っちゃお、かな…」
…そんなにチョコレートが好きなのか?
だったらなにもそんないかにも女が買うようなものじゃなくても、そっちに安いのがいっぱいあるのに、青島は人生最大の決断を迫られているかのような空気
を漂わせて、チョコレートの山の前に立ちつくしている。
新城は呆れながら言った。
「そんなに好きなら、買えばいいだろう?」
その言葉に、青島がゆっくりと振り返った。
…その表情に、なぜだかどきりとした。
青島は、なにかを呑み込んだような…温かいものにつつまれたような、笑みを浮かべていた。
ありがと、新城さん。
ぽつりとそう言って、赤い包みを手に取りレジの前に置いた。
「これ、ください」
店員は、怪訝な顔をしていたが、ビニール袋に入れて青島に手渡した。
青島に声をかけられるまで、新城はおむすびセットを手にしたまま立ちつくしていた。
さっきの青島のとろけるような表情を…一生忘れられないだろうとなぜだか…そう、なぜだかそう思っていた。
なぜか青島は、新城の後をくっついて歩いてきていた。
「…帰らないのか?」
「いえ、帰りますよ?」
用事を済ませたら。
そう言う青島は、先ほどまでの物憂げな色を消し去って、いっそ晴れ晴れとしていた。
電車に乗って、最寄りの駅で降りて、官舎までの道をてくてく歩いて。
青島は、どこまでもくっついてくる。
だんだん…胸がばくばくいっている気がしてきた。ある可能性に、気がついたのだ。
さっき青島が買ったチョコレートはどう見ても贈答用。女が男に…好きな男に贈る。もしや青島は…あのチョコレートを自分で食うのではなく、だれかにやる
のではないか。その…もしかしたら、この、自分に…?
ちょっと待て、と思った。
おおおおお、男同士だぞ!?よせ、やめろ青島!それは自然の摂理に反してるぞ!人類が破滅するぞ!!
背中に緊張感を漂わせた新城に、青島が声をかけた。
「新城さん」
「ななな、なんだっ!?」
声がひっくり返ってしまう。こ、告白なんてされたらどうしたらいいんだっ!?
「俺、新城さんにお礼言わないと」
「ああっ!?」
新城の不穏な声を気にもとめずに、青島は言った。
「俺…迷ってました。ずっと…どうしよう、どうしようって迷ってばっかいて」
迷ってろ!そのままずっと一生、迷っててくれ!
「ありがとうございました」
青島は、ぴょこんと頭を下げた。
「俺、新城さんに背中押してもらった」
押してない!押してないって!
「俺、告白してきます。…あのひとに」
だからやめろって!!…って、え…?
「あの、ひと…?」
「はい」
青島は、とろけるような笑みを浮かべていた。
「すごくすごく、好きなひとがいるんです」
ここに。
そう言って青島は、官舎を指さした。
「本当に、ありがとうございました。きっと玉砕しちゃうだろうけど…好きだから」
青島はもう一度頭を下げて、背中を向けた。
迷いのない背中はエレベーターホールに消え…確か、新城の不肖の先輩の住む階でランプが止まるまで、新城は寒風に吹かれて立ちつくしていた。
なぜだかいつまでも、青島の笑顔を思い浮かべながら。
…やがて、酒にほてった体が2月の風にすっかり冷やされて、小さくくしゃみが出た。
新城は我に返って、鞄を持ち直した。
とりあえず、部屋に帰ろう。そして風呂に入って、考えよう。いろんなことを。
そして…自分も恋をしよう。
あんな幸福な笑みを、自分も浮かべられるように。
それはとても、あたたかそうに見えた。きっと焼き鳥やモツ煮込みやよく冷えたビールや梅焼酎より、自分を幸せにしてくれる気がした。
よし。
奇妙に気合いを入れて、習慣でエレベーターホールの脇の郵便受けを確かめた。
そこに、小さな包みが入っていた。
それには見たことのある…湾岸署の交通課のお騒がせ婦警の名が、かかれていた。
