ショートショート~バ レンタイン7題B面
連続オムニバス後編。チョコレートを巡る恋の箱詰めです。ODF後設定。7作完成。2016/2/21










04. 女の子の決戦日
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『無事、処分の手続きが終わった』
『そですか、良かったです』
『君のお陰だ。よく説得してくれたな』
『半分は室井さんでしょ。俺、ストーカー並みな電話なんかしてないですもん』
『ストーカーか・・・』
『一歩間違えばね』


青島の軽い詰りに、受話器の向こう側から押し殺したような柔らかい吐息が混じる。
湾岸に降り注ぐ二月の弱い陽差しが眼前の水面を乱反射し、潮風が髪を遊ばせた。


『失敗したらどうしようって、ハラハラしてましたよ』
『そしたら二人で彼女に土下座だな』
『あんたも男の面子、丸潰れだったね』

久しぶりに聞く彼の声は、何より甘い。

『あの日・・・彼女は鬼のような形相でやってきたぞ』
『はは、ちょっと焚き付けすぎたかな』
『いや、よくやった。だが何を言った』
『んー?ちょーっとね、俺たちの昔話を。・・・ま、俺自身の罪滅ぼしの意味合いもあったし。過ごした時間の長さだけは負けませんからね』
『・・・・妬けるな』
『抜け駆けしてたひとが何言ってんのっ』


湾岸署の昼休憩を見計らったように、室井から着信が入った。
今日は朝から通報もなく、穏やかな昼下がりを迎えた刑事課はまどろんでいて
鋭く鳴り始めた着信メロディに、ぼんやりと凭れていた椅子から飛び上がり、周囲から怪訝な視線と失笑が浴びせられた。

節電を呼び掛けている室内へ射し込む陽射しも柔らかく、春のようにぽかぽかと上がった気温は、つい緊張感を欠く。
茹だった頭を冷やす意味もあって、スマホを片手に焼きそばパンの残りを口に咥え、屋上に出ている。
辺りに人影は無い。


『こっちは所詮雑談の域を出なかった。彼女もそれを分かっていたから付き合っていたんだろう。最終的に説得出来るのは君だけだろうと踏んでいた』
『買い被りますね・・・、・・・・・・・ん?ちょっと待って。まさかすみれさん怒らして俺に繋いだのもワザととか言う?』
『・・・・・』
『・・・・マジかよ・・・・』


まだ春には早い外の空気はさすがに冷たく、暖房で火照った頬を急速に冷やしていく。
肩から羽織っているだけのコートが北風に揺れた。


『同じ境遇であることが言葉に威力を持たせる。・・・・遠くの部屋に閉じこもっているだけの俺が同情したって、彼女は鼻で笑うだけだったろ う』
『そう、ですかねぇ・・・』
『同調や共感だけでは、追い詰めた彼女の心は溶かせない。所詮エリートコースに乗って道が拓けている貴方に何が分かるのと、散々言われた』
『アンタがズケズケ言うから拗ねちゃったんじゃないの』
『そこは否定できない。・・が』


穏やかにゆるりと話す室井の声は低いバリトンボイスで、青島の耳を柔らかく擽る。
吐息混じりに呟かれる声に艶を感じ、水面の眩しさを理由に目を瞑った。


『君なら、君の古傷が彼女の強がりを抑え、本音を零させると踏んだんだ。彼女自身の言葉を引き出すのが目的だった』
『悪趣味~』
『君がそれを言うか』
『策士もそこまでいくといつか敵を増やしますよ~。闇撃ちにあっても知らないから』
『それは怖いな』

二人でクスクスと共犯者の笑みを零す。

『ま、結果オーライってね。気持ち、伝わってますよ、すみれさんには』
『・・・泣かせただろう。泣き腫らしたような目をしていた』
『・・・・、恋の終わりに涙がないなんて、嘘ですよ。新しい恋がここから始まるんだから当然でしょ。そんくらい察してやんなよ』
『第二の恋か・・・』


誰もいない空間だが、前髪が表情を隠してくれるのが、有り難い。
フェンスに肘を投げ、背中を預けて寄りかかった。


『ちゃんとフォローしてあげてくださいね』
『ああ、分かってる』

肯定も、否定も、無い言葉。

胸に何かが痞えたような気がして、顔を上げた。
振り向けば数多に光る水面と、東京ビル群。蒼い空気に目を細める。


『彼女の人生を始まらせたのは、あんただよ。責任重大なんだから』
『期待に応えられるよう尽力するが・・・・彼女の期待はどこにあるか。臍を曲げられているんだ、何とかならないか』
『女のご機嫌取る方法なんてひとつでしょ』


俄かに室井の背後が騒がしくなる。

『・・・っと、すまない、人が来たようだ。たぶんもう時間だ』
『これから会議?』
『ああ、今日は三つも抱えている』
『無理しないでくださいね』
『また連絡入れる。・・・君も無茶するなよ』
『あー・・・』


青島の返事も待たず、通話は切れた。

ふぅ、と大きく溜息を吐いて、スマホを閉じる。
胸ポケットに仕舞いながら、空を大きく振り仰いだ。

フェンスの向こう側に広がる広大な景色。ぽっかりと浮かぶ雲。
ひとりぼっちで立つ屋上。


結局、あの日すみれと何を話したのか、室井の口から語られることはなかった。
その後二人はどうなったのか、何を話し、これからをどうしていくのか。どうなっていくのか。
その未来予想図は、青島の知らない所で描かれていく。

大分からの切符は片道だった。あの夜、すみれは無事帰宅出来たのだろうか。室井が世話を焼いたのだろうか。それとも。
あの日、すみれからも室井からも連絡はなかった。




「あぁあぁぁ、青島さぁ~ん・・・、ここにいたぁ」
「おぅ、夏美ちゃん」


不意に人の気配を感じ顔を向ければ、屋上の扉を両手で押し開けて、篠原夏美が斜めになって満面の笑みを浮かべていた。
ひょいひょいと飛び跳ねるように近付いてくる。
フェンスに向かい、青島の隣に立った。


「うっわ、いい眺め!」
「今日は風もあるし天気も良いしね」
「まっぶしーい!」


フェンスに手を乗せ、ぴょこんと跳ねて感動を身体で表わす。
女の子がいると途端、沈んだ空気も華やいだ。

二人して暫し無言で絶景を目に映していると、夏美が風に靡く髪を片手で抑え、光る水面を瞳に映したまま、口を開く。


「真下署長が探してますよ。なんか渡したいものがあるって」
「へ~、なんだろ」
「始末書?」
「そういう目で見られてんの俺」
「じゃあ、お説教?」
「はは、大人しくしてんのに」
「渡したいものって・・・・。あ。そだ、これっ」


何やらごそごそとバッグから取り出した。

黒いパッケージの小箱。
シェルピンクのリボンが可愛らしく風に揺れる。


「毎年ありがと。やーっぱ嬉しいんだよね~。いいね~オンナノコ」
「係長にはお世話になってますからっ」
「有り難く、頂きます」

ぺこり。
頭をおどけて下げて見せると、目の前で夏美もおどけて頭を下げた。
二人して目を合わせて笑う。


「良かったら一緒に食べない?」
「いいんですか?」
「うん、男としては一人で味わうのもバレンタインの味だけどね。一緒にっていうのもオツでしょ」


包装紙を破くと、6個のアラカルトのチョコが並んでいた。
ダイアモンドカットの形が特徴的なそのチョコはベルギーの有名老舗だ。
ハート型のつるんとしたチョコのビビッドカラ―も目を引いて、まるで宝石箱のようである。

夏美の目が輝いている。


「見た目、綺麗だと思いません?」
「カラフルだね」
「でしょ!実は今年はそれで選びました」
「ありがと」
「お先にどうぞ」
「でわ」


ダイアモンドチョコを一つ摘んで、夏美を見ると、パッと笑って夏美も同じダイアモンドを摘む。
同時に口に入れた。

カリッ

「「おーいしーv」」
「溶ろけるねぇ・・・、ん?柑橘系?の味が」
「うんうん。イイ味。これ買って正解っ」


程良い酸味が、チョコレートの甘さと混じって口に広がった。
中身はガナッシュになっているらしい。
溶けていくうちに味が変わる。


「なーんかこんなにのんびりしたの、久しぶり~」
「珍しいよね、重なる時は重なっちゃうから」
「そうそう。今日は早く帰れるといいなぁ」

時折強く吹き抜ける風に、包装紙がガサガサと煽られる。

「篠原のおじさん、元気?」
「げーんきげんき!退職して体力余ったってぼやいてる」
「あはは、そか、懐かしいな」


夏美の父、篠原刑事もまた、青島に自由を与えながら見守り、導いてくれた一人だ。
大人の余裕で若き刑事の情熱を摘むことなく育て、寡黙ながら支え、背中で教えてくれた。
そういう出会いが自分をここまで繋げてきた。

・・・・ふと、先日会った鳥飼を思う。
彼には、こんな風に、後々になって胸の奥がぽかぽかするような出会いもなかったのだ。
たった一人で良かったのに。
たった一人で、人の一生というものは180度転換してしまう。
同じ刑事人生で、それは、どれほど違いを齎しただろう。


「逢う度に二人目の孫の顔を見せろって煩いの」
「もう立派なじぃちゃんだ」
「青島さんのこともね、話すとね、目を細めて聞いているから、嬉しいんだなぁって思う」
「あれ。じゃー悪いこと出来ないね」
「ね」


二人で額を突き合わせて笑い、チョコをもう一つずつ摘む。
今度はプレーンなタイプを取った。ナッツが練り込まれているようだ。


「青島さんは・・・・その、どう、なんですか?」
「うん?」
「そろそろ・・・・本命とか・・・・作らないんですか?」
「痛いとこ付くね~」
「結婚、しないつもりなの・・・?」


口の端だけで笑って応えると、夏美は息を詰めたようにそれ以上の言葉を呑みこんだ。
くるりと正面を向く。


「父も心配してた。モテそうなのにって。実は湾岸署の七不思議って言われてるの、知ってます?」
「持ち上げてくれるのは嬉しいけど、出会いってあんまないものよ」
「あげる人も?」
「・・・・いませんねぇ」
「寂しいですねぇ」


ゴォォと聞こえるのは高速の車なのか風なのか。
他には何もない静かな空間が沈黙する。
口の中だけが甘い。


「でも、誰か、好きな人はいますよね・・・・・?」
「・・・・」


ぽつりと夏美が呟いた。

あまり他人のことに突っ込むことの少ない夏美には珍しく、だからだろうか、小さく呟かれたその言葉は、冗談で返すタイミングを失わせた。
じっと前を向いたまま、夏美の言葉を反芻する。
それは断定だった。


「でも、実らない恋でしょう?実らせるつもりがない、って言えばいいのかな?」
「どうして――そう思った?」
「強いていえば、あたしも刑事だから・・・・かな・・・」
「・・・成程」
「女の子ですもん、色恋沙汰にはピンときちゃいます。あと、他の人には分からないだろうけど、あたしも年齢重ねてきちゃってるから、かな」
「・・・・・そか」


少し俯き加減で困惑を映していた夏美の瞳が、遠くへ投げられる。


「チョコ。・・・だったらあげちゃえば?」
「俺から?」
「そう。今どき可笑しくもないでしょ」
「・・・受け取って――は、くれるだろうけど・・・」
「駄目なの?」
「なんか、そういうことしちゃうと、大事にしてたものまで壊しちゃいそうなんだよね」


ふーん、とつまらなそうに喉を鳴らすと、夏美がフェンスに両肘を付く。
その上に顎を乗せる。


「今の関係も良い感じなんですね。・・・でも実ってないでしょ」
「そんなこと――。ってか、そこまで分かっちゃう?」
「そこは・・・・女の勘、かな」

ポツリと呟き、視線を向けない声は、夏美の方が寂しそうに空気に溶けた。


「好き合ってはいるんだけど、なんか決定的な関係にはなっていないような・・そんなアンバランスなイメージ。感じてる・・・」
「・・・・・」
「実らない恋なんて、しても辛いだけじゃない・・・。どうして捕まえないの?何で実らせるつもりがないんですか?勇気がないとかじゃないんでしょ?」


誰にも告げたことはなかったし、告げるつもりもなかった。
言うことそのものが、罪であるこの恋と心中するつもりだから誰も巻き込みたくはなかった。
が、この屋上の空気と二人だけの空間と、的確な夏美の指摘と、そしてこの眩しい水面の煌めきが、緩やかに青島から本音を零させる。
今だけ、まどろみの中に堕とさせる。


「ないことはないんだけどね。・・・先がないから」
「相手も青島さんが好きなんでしょう?言っちゃえばいいのに。もう年齢的にも支えられるのに」
「言うことで・・・終わってしまうものもあるんだよ。俺たちにはそっちが大事で、俺はそれを避けたいんだ」
「それでもいいって言ってくれても?」
「子供染みてるように見える?」
「そうじゃなくて・・・、ん、でもそういうことになっちゃうかな?可愛い恋も青島さんには似合ってる気もするんですけど」


てへ、と笑った夏美の顔は無邪気で、純粋に興味ではなく心配してくれていることが分かった。
恋に対しても夏美に対しても、何故か申し訳ないような気になった。


「いずれ、このままじゃ居られなくなることは・・・分かってるつもりだよ、お互い」
「それ・・・、お別れって意味に・・・聞こえます・・」
「俺はね、終わらせることで背中を押してあげたいんだよ」
「・・・・それで・・・いいんですか?」
「・・・・うん」


声に出してみて、改めて、そうなる運命が事実なのだと、心に去来した。

哀しい恋にしかさせられないことを知ってて走りだしたのは、青島だ。
覚悟が出来ていないのは、自分の方かもしれない。
恋はいつだって残酷な結末しか連れて来ない。
そこに、曖昧はない。

かつて約束をした。
警視総監になったその日が、タイムリミットだ。
約束は失効する。

ようやく室井の時代がやってきた今、青島の役目は終わりを迎えつつあった。


「青島さんらくないよって言っても?」
「・・・・うん」
「このまま終わるのを待つんですか・・・?」
「・・・・うん」


よくスポーツ選手や若手アーティストが、売れずに開花しない時期を支えてくれた女性を嫁さんにするって話を聞くけど
捧げた時間を室井に責任取って貰える筈は無い。
第一、責任を取って貰いたい訳じゃない。
俺が、惚れこんだ男に捧げた時間だ。

約束の失効が意味するものは、青島だけが理解していた。



「だったら――だったら尚更、胸の奥にある気持ちを一年に一度くらい、形に出してみたらどうですか」
「え?」
「チョコ」
「・・・そういう具体的なことは今は相手を追い込むだけになっちゃいそうで」
「何弱気なこと言ってんですか。恋は始まっちゃってるんでしょ?」
「そりゃそーだけど」
「でも違いますよ。そうじゃなくてチョコって、恋人とか家族とか、決まった形だけに与えられた特権じゃなくって、言えない気持ちが咲く日だと思うんです」
「・・・・咲く?」
「気持ちって全部伝わっているようで、伝わっていないもんなんです。私も家族が出来て良く思う。事件を見てても思う」
「まあ、そだね」
「だから、いつもなら言えないことを、伝わらないことをチョコに託して・・・・・それが形になるんです。それがチョコなんです」
「・・・・へぇ、いいね、そういうの・・・」
「相手に気持ちを強制するだけが、バレンタインじゃないですよ」
「・・・・」

「愛の告白とか、男女の発情の間にしちゃうとちょっと蒼いですけど、そういうんじゃなくて大人のバレンタインって、もっと神聖で純愛で、気持ちを求めるも のじゃなくていいと思います」


伝わらなくってもいい。どうなりたいとも思ってない。ただ、溢れてくるものを形にしたのが、箱詰めされたチョコになる。


「・・・・・・・あ、やだ、あたしの方が、少女染みてます?」
「いや・・・」
「でも笑ってる」
「可愛いなと思って」
「もぉ!ちょっとバカにしてるでしょ~っ」
「してない、してない」


軽くぽかぽか腕を叩いてくる夏美の少し火照った顔に、何だかささくれ立った心が凪いだ。
好きだって気持ちだけが、抽出されて。

女の子の想いは、男とはまた違うのだ。


不意に胸ポケットが震動する。
片手を上げて断り、取り出せば、メールを受信していた。
その宛名を見て、一瞬指が止まるが、そのままもう一度ポケットにしまいこんだ。


「そんな顔しないで。俺は出会えただけで幸福もんなんだから」

夏美の顔が沈んでいるのに気付き、努めてトーンを上げた声を出す。
ぽんぽんとその頭部を撫ぜた。
惨めだとは思ってないが、自分の恋の末路を憐れんでくれる人がいる。
消えていく恋は、確かに此処にあったのだ。




階下に続く扉がガタンと寂びれた音を立てて開き、栗山が顔を覗かせる。


「こんなとこにいた。篠原さんまで呼びに行ったまま消えちゃうし」
「あ。ごめん、忘れてた」
「青島さん、真下署長が呼んでますよ。第一取調室に来てくれって」
「なんじゃそりゃ?」


夏美と目を合わせ、肩を竦め合う。

あ、わりぃ、と言って、持っていたチョコの箱を見れば、あと二粒。
ビビッドカラーのハート型チョコが二粒残されていた。

はい、と夏美の前に差し出す。
一粒真っ赤な方を摘んでみせると、夏美の小さな指が最後の桃色のチョコをを摘む。

「ゴチソーサマ」





片手を上げて、去っていく青島の後姿を、夏美はじっと見つめていた。

さっきスマホを見た時、一瞬垣間見せた顔。
実は、最初に声を掛ける前も、そんな顔をしていた。
誰かと電話をしているようだったから、声を掛けるタイミングを図っていたのだ。
通話を終えた青島は、そんな目をして空を見上げていた。

それは、いつもの明るく無邪気な笑顔と違って、何かを憂えるような、見る者の心を締め付ける息苦しそうな顔だった。
見たこともない青島の表情。


そんな、恋なのだろうか。
報われない恋ではないのに、終わっていく恋。
そんな恋があるなんて。

あんな顔なんか、してほしくない。
あんな顔をさせる恋なら、しない方が良い。
煽ってしまったことを、少しだけ後悔した。

恋は、色んな形があるけれど、甘いばかりじゃないのだ。



手元に残ったハート型チョコを口に入れる。

カリッと噛めば、フランボワーズの酸味と共にカカオの味が広がった。
二人で食べていた時はあんなに甘かったのに。
手には半分砕けたハート。


「にがいよ・・・・」




*:*:*:*:*


その夜。すっかりと陽が落ちた道を、青島は六本木へと向かっていた。

大好き。大好き。すっごく、すっごく、好きだった。

俺ばっかりが好きなんだから。
だけどいつか、好きということすら許されなくなる日が来る。
あと数年。もしかしたら来年。
室井が警視総監となった暁に、俺はその他大勢と同列になる。
その時、彼の隣で微笑む女性は誰なのだろう。


人は変わっていく。
俺の役目は終わっていく。

言えるうちに満足するまで伝えておきたいことがある。
言えるだけ今はきっと極上の幸せだったと、未来の俺は叱るだろうから。

チョコを渡そうかなと思ったことくらい、何度かあった。
そういうイベントに乗るのは大好きだったし、そのくらいしか、恋を恋として楽しめるものはなかった。
でも、しなかった。
したらきっと、次が欲しくなる。来年も、再来年も。その先をずっと。

数年後には確実に隣にいないであろうこの恋に、そんな未練を付けられない。
終わりが来るこの恋に、未来の約束は要らない。



コツコツコツと、夜道を急ぐ足音が、日の落ちた住宅街にだんだんと速足になって響いていく。

窓からほんのりとしたオレンジの灯りが漏れ、夕飯の支度の匂いがしている街。
家族の温もりは、きっと永遠に手に入らない宝石のようなものだ。
だけど、居場所の温もりは、確かにずっと俺に与えられていた。


だったら好きになんかならなきゃ良かったのかな。

ついに堪らなくなって走り出す。


バレンタインは、乙女の聖戦だ。
だけどそれは、天下取りゲームのようで、実は狙いはもっと別な所に在るのだと言うのなら。
ただ、チョコに想いを込めるんだ。言葉にならぬ想いがチョコになるんだ。
10年後、20年後じゃない、今だけのこの熱が、甘い塊になる。

一年に一度だけ許された、自由に想いを込められる日に。


そうならば、一度だけ。
一生にただ一度、この熱い想いを形にしておきたかった。
この恋が消えちゃう前に。
これが、最後のチャンスだ。
受け取って欲しいんじゃない、伝わって欲しいんじゃない、だた持て余すほどの焦がれる灼熱に正直になって、嘘を誠にする。
唯一人だと思えた、あのひとに。直接は言えないから、チョコに想いを込めて。

もう、きっと、来年はないだろうから。




官舎の前で荒く息を整える。
ごそごそと箱を取り出した。
ダークブラウンのパッケージにルビーレッドのリボンが目を引くベルギー産チョコ。
コニャック、キルシュなどの洋酒を交えたショコラだ。

このまま投函しても最近のあのひとの周りは騒がしいから怪しいだけだろう。
メッセージカードなんか添える柄じゃないから、胸ポケットから煙草を取り出す。
一本を、ラッピングされたリボンの間に挟み込んだ。


「最初で最後だ。初めて俺が贈るんだぜ。感動くらいしてよ」

官舎の集合ポストに放り込む。
ガコンと重たい音がした。
20160208












05.義理チョコ御免
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コンコンと二度ノックしたが返事がない。
そっとドアノブを回し中を窺うと、丁度室井は電話中だった。
目線で合図を送られ、新城は一礼して入室する。


手渡すつもりの書類をA4ファイルから抜き取り、準備する。
提出されてきた草稿が三部。事務書類の入った茶封筒一部。さっき細川から聞いたスケジュールを確認するための皮手帳。


明るい午後の陽射しがチンダル現象に因って粒子を散乱させていた。
来客用のソファに腰掛ける。
逆光になる室井は老眼鏡を掛け、口数少なく相槌を打ち、受話器を肩と耳に挟み、分厚いファイルを忙しなくチェックしている。
捲る紙の乾いた音が途切れなく聞こえた。
電話はまだ長引きそうだ。

ぐるりと部屋を見渡した。

質素で素朴なイメージのある室井だが、何故か無味乾燥な壁の中央になまはげが置いてあって、実は室井の中の滾る情熱を表わしているようだと新城は思う。
端正な顔から見える冷徹さと寡黙な性格が、根を無害で無益な男に錯覚させるが、それは見込み違いだ。
長い付き合いの中で、じわりと見知ってきた室井の本性は、正に秋田にあるのかもしれない。



「待たせたな」
「いえ、電話中に失礼しました。・・・次の相手は大学ですか」
「ああ、公聴会の調整が難航しててな。電話である程度まで詰めてしまおうと・・・。その後は法務省だ。これで本格的な稼働が視野に入る」


ファイルをパタパタと手際良く閉じながら、室井が世間話に応じてくる。

組織改革審議委員会で議決された草案は、異例の早さで実務案まで持ち込まれていた。
無駄な予算を削り、連結系統を一本化した室井の厳選された手練は、内よりも外の評価が高いが、春には概要を公表したいとの思惑もある。
体系が大詰めに入り、今後は学識経験者などの公述人を招いて意見を聴く公聴会も検討され、その後各分野についての詳細な審議を行うために分科会が開催され ていく。
年度が変わる4月を皮切りに、今後2~3年を目処に効果と改良を検証する方針だ。

議論が本格化した背景には、警察機構に対する隠蔽体質の誹議があるだけに、オープンな対応と早急な立て直しで
コンプライアンスの失墜した現状にクリーンな変化を印象付けたかった。
勿論、我々の狙いもそこにある。

主な人事異動を終え、関係省庁との連携も進み、いよいよ当該組織としてのコーポレート・ガバナンスは一定の完成を見る。
上位圧力を行使して統治するガバナンスとは異なるこの新体制が、健全かどうかは、これから世間に晒されることで評価されていくだろう。



「報告書が数点上がってきています。それと・・・先日依頼された恩田の件は承認が取れました。これが異動の正式な書類だそうです」
「そうか、御苦労だった」

立ち上がり、用意した書類を手渡しに移動する。
室井のデスクにはブラックのA4ファイルが山積みとなっていたが、その隅にカラフルにラッピングされた幾つかの小箱が重ねられていた。
一目瞭然で中身に想像が付く。

新城の視線に気付いたのだろう、室井が目の前で仕方のなさそうな溜息を漏らし眉尻を下げた。


「この時期はどこへ行っても忙しないな」
「職員から?」
「ああ・・・、顔を見たことがあるだけの女性からも受け取ってくれと囲まれてしまった。断ったんだが・・・」
「隣に積まれているのは見合い写真ですか」
「それも厄介な代物だな。時間が取れそうもないと辞退したが、押し付けられた」
「中々に面白味の無い断り文句ですね。女性にしたら立つ瀬もない」
「・・・・どうしろと」
「そろそろもっと具体的な断り文句を用意する時期に来たのではないかと言っているんですよ」


暗に、結婚を前提とした付き合いを公言しろと匂わすと、聡く察した室井がチロリと新城を一瞥し、肩で大きく息を吐く。
瞼を伏せ、老眼鏡を外した。


「君もだろう?・・・どうしている。多くの縁談が持ち込まれていると聞いている」
「耳の痛い話ですね・・・。私の場合は父に言って保留にして貰ってます。もう少し身辺が静かにならないと憧れの家族サービスも手抜きになる」
「君がそんな家庭的な男だったとは初耳だ」


新城もまた、独身でここまで来ている。
条件は同じだった。最近躍進を続けている審議委員会のツートップが、妙齢でありながら独り身であることもまた、世間の大きな話題を攫っている。


「そういう意味で目立ちたくはなかったのですがね。マスコミも世間も我々の性欲に興味津々だ」
「4月にはもう少し時間も取れるように調整しよう。こうも缶詰じゃ部下たちからも揶揄される」
「ここが正念場ですからね・・・」
「ああ」

チラリとチョコレートの山に視線を向ける。

「ただ・・・、だからこそ身辺整理はしておいた方が良い。私は貴方と泥船に乗って心中するつもりはありませんよ」
「チョコが何か問題だとでも?」
「叩いて埃の出る関係は清算しておくことが鉄則だ」


新城は室井の顔をじっと見つめた。
室井もまた、探るような目でじっと新城を見据えてくる。
やがて、室井の方が観念したように抑えた口調で口を開いた。


「何を言わせたい」
「室井さん・・・昔ならいざ知らず、今は貴方と同じ船に乗る身です。この微妙な時期に審議会に水を差すような真似をする筈がないでしょう。信用ないです か」


警戒も露わにされ、逆に新城は少し可笑しくもなった。
肩の力を抜く。
デスクの上のチョコを一箱取り、コトコトと掲げて見せた。


「この先はもう少し同胞として扱って頂けませんか。私は貴方の援護者でもあるつもりです。泥舟になるかどうかの選択権が私にもあるのなら、隠し事は止めて 頂きたい」
「言い方が悪かった。頼りにはしている。だが、隠し事とは――」


想定外だったようだ。
室井は酷く意外な顔をしてみせた。
おや?と思う。これは本気で真意が伝わっていないと見る。新城が揃えている情報とは、少し擦れ違いがあるようだ。

箱を戻し、仕方なしに新城は水を向ける。


「先日、沖田から渡されたチョコレートを受け取らなかったそうですね」
「・・・・・沖田から聞いたのか?」
「いえ。中庭で恩田と沖田が言い争っているのを悪趣味にも盗み聞きしました」
「恩田くんと?本当か?」
「沖田は貴方の相手が恩田だと思っているようですよ」
「・・・!」


先日、恩田すみれが室井の執務室を訪ねた。

世紀末を思わせる剣幕で、勢いのみで乗り込んできて、室井への接見を求めた。
たまたま外から戻ってきた新城がかち合い、対応に当たったため、騒ぎにはならなかったが、あれではまるで、討ち入りだ。
久しぶりに見た彼女は、必死に細い糸の上で堪えているかのような危うさを感じさせた。
室井の部屋に案内すると、まるで室井は想定内であったかのように受け容れ、新城は退席したが
暫く部屋の中から恩田の怒声が聞こえていたのを確認している。・・・が、やがて部屋は静かになった。

その後、室井から、恩田の処遇を聞いた。


「ご存じでなかったので?」
「ああ。もう少し詳しく聞かせてくれないか」


この先はこういうゴシップ染みたことも、取り巻きの記者らに都合良く記事にされ、悪意のある書き方をされればそれが足を引っ張ることにも成り得ていく。
特に女性スキャンダルは面白可笑しく書き立てられ易く、ワイドショーなどメディアも挙って取り上げる。
内部騒動とはいえ軽視するべきことではなかった。
トップの態度は警察の体質や教育の徹底を問われる。
トップに立つということは、そういうリスクも背負うということだ。


新城は手帳を仕舞うために一旦デスクから離れながら、あの日見た女の修羅場を回想する。

「恩田のチョコを室井さんが受け取ったことで、それを知った沖田が自分が断られた理由を恩田に求めたようでした。恩田は恩田で勝気で、奪えなかった癖にと 沖田の火に油を注いでいましたが」
「それは・・・また・・・派手にやらかしたな」
「結婚に踏み切れない貴方がたの理由を問い質し、少し・・・責めてもいるようでした。恩田のせいで貴方が強い風当たりを浴びていると」

振り返る。
室井の目を真っ直ぐに見た。

「その気がないなら離れろとね」
「そうか・・・」
「まあ一理ありますがね。・・・どうします?誤解を解くならご助力しますが」
「いや・・・・いい」
「何故」
「例え誤解を解いても、彼女に応えられる訳ではない」
「・・・・・」


つまり、チョコは本命で、告白をされたということだ。
友チョコや義理チョコではなかったということか。それをあっさり白状することになっている室井の迂闊さに、新城は恋に不慣れな中年男の哀愁を見た。

冷徹な仮面で敏腕な指揮を見せる男が、女一人に手古摺る。
実直である故に経験が希薄で、濃密な関係には不慣れなことを窺わせた。そのギャップが、新城に、機械的な男の綻びと人間味を感じさせる。
室井には昔から、こういう詰めの甘さがどこか残る。
それは室井の人への希望であると同時に、捨てきれない最後の弱さなのかもしれないと思った。


「その騒ぎを知っている者は」
「その点は心配ないでしょう。沖田もキャリアです。周囲への警戒は何より用心しているでしょうから」
「・・・そうだな」
「ただ、事を拗らせるのは危険です」
「ああ。迂闊だった。気を付けるようにする」


それにしても、あの日の恩田の剣幕からは、とても愛の告白などという甘い空気などどこにも漏れていなかったというのに。
チョコは渡したということか。
涙目で乗り込んでくれば、傍目には色恋沙汰に見えるのだろうか。
沖田にしても、新城の目線からは、好意を寄せていることは感じ取っていたが、このバレンタインに告白したことまでは気が付かなかった。
まさかこの時期に動くとは。・・・・いや、この時期だからこそ、か。
正に恋は摩訶不思議な力を秘めている。

皆、この春が何かしらの区切りになることを、潜在的に、或いは本能的に、嗅ぎ取っているのだ。



新城は暫く無表情のままにファイルを棚に治めていく室井を眺めていたが、やがて、意を決し、口を開いた。

「少々立ち入ったことをお聞きしても?」
「なんだ?」
「大したことではないのですが・・・プライベートで」
「言ってみろ」
「こんな恋のから騒ぎも、貴方が縁談でも組めばたちどころに消えるような微々たることです。しかし・・その、・・・・ご結婚する意志は本当にあるのです か?」
「今は・・・・本当に考えていない」
「先は?」
「・・・・分からない、と答えるのが正解なのだろうが・・・」
「その山積みの見合い写真、本当は全て活用するつもりないんじゃないですか?」


ファイルを仕舞う手が止まり、少しだけ、背中を向けたままの室井の気配が変わったような気がした。
両手を掲げた体制は、スーツの上からでも完璧な腰のラインが美しいシルエットを描く。

日々鍛える努力を怠らない。
隙の無い鍛練と精神は、こういう所に滲み出てくる。
これを欲しがる女は数多といるだろうに。


「言い訳に、余裕がないというのはもう限界ですよ」
「・・・・沖田くんも、そう言っていたな・・・」


室井が遠い目をした。

孤高な男だと思う。
その寂寞も抱えられる強い精神の持ち主である。

どの世界に於いても、頂点に立つ人間は孤高だ。
いつ寝首を掻かれるか分からない緊張状態を常に強いられる。それが頭役というものだ。
その意味で、誰にも心を許さず、誰よりも欲深でありながら、達観と鎮座を貫ける室井の資性は、正に完璧と言えた。
穏やかな中に揺るぎない貫禄を見せ付ける風貌も、天性の素質を見る。
儚さや脆さなどが見える人間など、国のトップに立つ器ではない。

かつて、室井が人に対し、異常なまでの獰猛とも言える執着を見せたのは、後にも先にも、ただ一人。


「ならば、質問を変えましょう。・・・青島のことはどうするつもりで?」
「何故ここで彼の名が出てくる?」
「腹心の共として、交友関係やメンタルを把握しておきたいだけです。いざという時のサポートは的確に行いたい」
「・・・・」


仕舞い終えた棚から離れ、それでも室井は考えあぐねている様子で、眉間を寄せた。
言うか言わまいか、揺れていると言ったところだろう。


「室井さん、今更私にとぼける意味もないと思いませんか」

わざと視線を外し、新城はデスク前まで近付くと、デスクの縁に腰を乗せ、足を組んで扉の方を仰いだ。
室井には背を向ける形になる。
室井の視線をひしひしと背中に感じた。


「先日、青島に会う機会がありましてね・・・。カマをかけたらあっさり零しましたよ。それすらあのチャラい男にはポーズだったかもしれませんが」
「・・・彼はなんと?」
「相変わらずの小奇麗な忠誠心でしたよ・・・頭が下がる」
「・・・・・」
「自分の目に狂いは無かったから、貴方が警視総監になるためなら何も惜しくはないと言ってました。・・・何も、ね」


横目で室井を見れば、室井の瞳が極僅かだが嬉しそうに細められ、虹彩が陽光に艶めいた。
願いを叶えた男の瞳だ。
不器用な男だと思う。そして、こんなにも分かり易い。
多くの者はこの男の分厚い精神の皮に覆われた灼熱を、知りもしないだろう。見た目の厳格さに騙される。

その溢れんばかりの想いを隠し続けるのか。
出会った頃から、二人の時空は超えていて、ここまで繋がっていた。


若き日のありし三人の姿を思い浮かべ、新城の目も遠くに投げられた。

「本当に、青島とここまで来てしまうとはね・・・」
「散々無茶をやったな」
「そこに私も入るのですか?」
「若かったと思わないか」
「ああいう時代は、あの時にしか出来ないのでしょうね」
「・・・・ああ」

パタンと最後のファイルを閉じる音がする。

「きっと、貴方にガソリンを掛けられるのは彼くらいでしょう?とんでもないものに懐かれましたね」
「・・・彼とは何も変わらない」
「この先の新たな時代でも?」
「ああ」
「それは、今まで通りの距離を維持するということですか」
「そうだ」
「・・・そう、ですか・・・」
「危険、・・・だと思うか?」
「・・・・未知数ですからね・・・」


この役職についてから、室井は青島の影を一切匂わさなくなった。

マスコミを呼んだ第一回公開審議会の席で親密さと存在価値を証明させた後、沈黙を貫いた。
元々、吹聴するような節はなかったが、益々徹底した無関心を装っている。気心の知れたキャリア連中の雑談にすら、口を閉ざした。
彼を護るためだと容易に想像が付いた。
本庁キャリアと違い、所轄の身分など、どんな犠牲に巻き込まれるか想像が付かない。特に此処から先は。
また、嗅ぎまわる記者などが、警察内では有名な降格処分を含む室井と青島の歴史を、どうゴシップにされるかも危惧する所だった。


口を閉ざすことでしか、護る手段がない。
なんて不器用な人なのかと思う。
同時に、どれだけ大事にしているかを想像させる。

あの会議で、室井が青島の背中に見せた最後の笑みが、新城の全ての蟠りを説明していた。
あれは、他者を映さない瞳だ。


「でも、特に先のことを約束した訳ではないのでしょう?」
「分かっているとは思うが――話したことは、ないな」


この先の舞台へも、連れていくつもりなのだろう。
長い時間の果てに手に入れた玉を、手放すつもりはないという成熟した男の意思が透けていた。

そのこと自体に、新城はもう嫌悪も否定も感じていない。
室井の心をさざ波立たせることが出来るのは、今も一人だけだと思っている。
室井にとっての、青島が成し得た功績がどれほどの価値があったかなど、誰よりも分かっていた。


・・・・室井に見る目がない訳ではないのだ。むしろそれは超越している。

この短期間の審議会でここまでの構成要素を拵えたのは、室井のリーダーシップというよりも、室井に因って厳選された委員会メンバーの抽出にあると言って良 い。
抑圧され、決して順当とは言えなかった刑事人生の中で、それでも俯瞰した視点で冷静に周りを観察し、人を見ていたのかと思うと
新城は慶福する思いだった。

人に対し、必要以上の執着を見せる人間は、一方で隙も多く欲望を制御出来ない瑕疵を露呈する。
ならば、我々の長は畏敬に値すると言えるだろう。
この男には、他者を圧政する天質がある。


だが、そういう生き方は一方で、寂しい男でもあるということだ。
本当に満たされる密な関係を知ることは、この宿命を背負った男には、一生無いのだろう。


他に救いが求められない。
それはまるで自分のことを指している気もして、新城は緩く首を振った。



「公安がまた張っています。品の無い指示はなくなったとはいえ、それも仕事ですからね。思う所もあるのでしょう」
「本当か」
「我々の警護や、マスコミに先手を打つための情報入手経路だと思われます」
「痛くもない腹を探られて、要らぬ噂を立てられても面倒だ」
「彼らの行動を制限する権利を剥奪したのは、我々審議会ですよ」
「しかし――、・・・そうか」


室井も何か含む所があるらしく、顎に細長い指先を当て、宙を見据えた。
ぼんやりと新城はその瞳を向けた。


条件は同じだった。

室井を見ていると、新城はまるで自分の孤独さを炙り出しているかのように錯覚する。
キャリアとして出世レースを仕掛けてきた連中には、腹の探り合いこそが人間関係だった。
・・・だが、室井には青島と言う奇妙なカードがあった。

息苦しささえ齎すそれは、室井には青島がいるという、ただそれだけのファクターの違いである。

そこが、多くのライバルたちとの、ひいてはトップリーダーたちとの決定的な違いとなった。
頭役として諦めなければならなかった温もりを補っただけでなく
青島が室井の眠っていた才能を爆発させたのは、紛れもない事実だった。


それは、男なら誰もが欲しがるカードである。

感じる胸の痛みは、嫉妬なのか羨望なのか。
奇妙な苛立ちにも似た鬱屈が、腹の底で煮え滾っている。
与えられなかった希望は、自分の能力の欠如であるのか、人生の欠如であるのか、新城を大いに混迷させた。



だが、そのことと室井から青島を引き離すことは、別話だ。
自分は室井に青島をどうして欲しいのか。
自分は室井をどうしたいのか。
濁ったような感情が胸の裡で澱んでいた。

今、季節は目まぐるしい勢いで動き、慌ただしく環境が変わり始めているのは、確かだった。
時代は移ろっていく。


「本気で護りたいなら、ここが最後のチャンスでは?」
「どういうことだ?」
「公安は最早我々の敵ではない。情報操作に一役買ってくれるかもしれませんよ」
「いずれ、そうするかもしれない。だが今は抑えろ」
「ネックは青島ですか」


新城には、その賭けとも言える態度が理解できないのだ。

室井からその好カードを奪おうとする人間は幾らでもいるだろう。この先室井が表舞台に立つほど比例して増えていく。
なのに室井にその意味での危機感はない。
青島が傍にあることを信じて疑わないのだ。どんな仕打ちを与えても、喰らいついてくると盲信している。
細事には神経質なほどに拘りと注意を見せる男が。

剥き出しのままその危うい均衡が、この先も延々と続くという無策の暴挙は頭役としては拙劣すぎる。

爆薬として、カードをこの先、切るだけならともかく、カードを支えとして手元に置くつもりなら、何かしらのカードケース、防護策が必要だ。
確かな保証がない関係は、いずれ破綻する。

―手放しで生きれるとは、露ほども思っていないくせに。

追いかけていけば捕まえられるという発想が、既に新城には幻想に見える。



ふぅと声に出しそうな音で詰めていた息が後ろから聞こえ、自らの思考に沈んでいた新城の意識が浮上した。

室井が書類棚から離れた。
何の変哲もない態度を装いながら、少し遣る瀬無い表情を乗せ、眉間を指で揉みながら窓際へ向かう。
背後に移動する気配を、新城は視線を向けないまま感じ取っていた。

室井がデスクの後ろ側に回り、腰を乗せ、腕を組んだ。

デスクを挟んで、二人は対のような形に位置になった。
視線は穏やかに窓に、そして扉に注がれる。


「君は・・・私に結婚を利用しろと言っているのか」
「・・・・」
「その女性を巻きこむことになるぞ。全く無関係の女性をだ」
「愛してやればいい」
「く・・っ、簡単に言うんだな」
「毎晩ベッドで愛を囁くのは、然程難しいことじゃない」


社会的保証となる婚姻関係は、確かに都合の良いカードケースになる。

ならば形式上の婚姻を結ぶか。それもありだろう。建前が付く。
室井に、この先も彼以上の女が表れるとは思えない今、法的に有効な手立ては必要であった。
夫婦は、誰もが納得する手立てとなる。

だが、孤独を好むこの男に、そういうパフォーマンスはプライベートまでストレスを掛けさせるだけのように思えた。

以前の新城なら、それもキャリアの務めだとばかりに強要していただろう。
ただ、先程自ら口にしたように、今の新城は室井の味方でありたいと思っている。

ならば、率先して身を滅ぼせとは、言い難かった。


「・・・ッ」

自分が室井をどうしたいのかも分からなくなっている自分に苛立ち、新城は内心、舌打ちをした。
感じているこのモヤモヤとしたものが、正に室井も抱いているもどかしさなのかもしれない。


「何も捨てられない人間は、何も護れなくなりますよ」

室井の気配が自嘲の色を乗せて、背後でゆるやかに揺らぐ。
まるで、そんなものはとうに乗り越えてしまい、新城の懸念など些細なことだとでもいうようだった。
奪われた心を隠そうとしない潔さに、男の覚悟と色気が見える。


「捨ててしまいたいと、足掻いて・・・足掻いて・・・無駄だと悟ったものがある・・・・。遠い昔話だ」
「・・・・」
「愚かだと笑うか?」
「・・・・心中する覚悟はどこで?」
「さあ・・・これといって切欠は・・・」


照れ臭そうに、本音を隠したような口ぶりが室井の嘘をこちらに勘付かせた。
その声音に、慰められているのがこちらであるような気さえする。


「青島にも結婚させないつもりですか?」
「あいつが望むなら――」
「強がりを」
「何故強がりだと分かる」
「ならば、いずれ捨てるつもりなのに手を取ったとでも言う気ですか」
「・・・・」


室井が背後で低く唸っているのを、新城は不謹慎にも可愛いと思えた。
青島のことになると、いつもこれだ。
まったく・・・・

「恋とは人を愚かにするものだ」
「恋、だと思うか」
「・・・割れ鍋に綴じ蓋に見えますね」
「・・・・」
「盲目の理由を探るのもまた愚行ですよ」


言葉が途切れ、不自然な無言が続いた。
室井は沈黙の後、敬虔に告げた。

「案ずるな。敷かれたレールは最後まで走る。・・・君には多少、片棒を担がせることになるが」


チロリと横目で盗み見た。
室井が見せた初めてのその顔は、恋などという軽い甘さではなく深い愛情に湛えられていた。
飛べなければ、堕ちていくつもりなのだ。二人で。
変わりの人材を求めない。愛だけに生きる刹那を抱いているつもりでもないくせに。
不器用だなと思う。
同時に、苛立ちもある。

だったら、根こそぎ奪い去ってしまえば良いものを。



「弱さを知ることは罪ではありませんが、その弱さを相手に求めるのは――傲慢になりますよ」
「手放せと?」
「事はもうそんな単純じゃない。それに今言いたいのはそこじゃない」
「?」


察しの悪い室井に、少し言葉に苛立ちとに苦笑とも取れない憐みを浮かべ、新城は彼に深く関わる人間の苦労を味わった。
室井がこの調子では、この災いは自ら招いたものだと言っても過言ではない。


「貴方は采配に長けてはいますが、人の心の機微には疎すぎる。それが致命傷になることもある」
「新城、この期に及んで回りくどい言い方は止めてくれ」

背中を向けたまま、室井が焦れた声を覗かせる。

「まだ分かりませんか。マスコミの件も今は所詮妄想だ。公安だって今更本気で貴方を追放しようなどとは思っていない、悪足掻きだ」
「だったら何だ」
「問題は貴方自身のことですよ、室井さん」
「はっきり言え」
「白なり黒なり、はっきり付けておかないから、こういう隙を生む。込められた想いが重いだけに、こちらの答えもシビアにいかないと・・・・いずれ人の心に 呑まれますよ」


室井の中に、打たれる衝撃に対する耐性は人並み以上なくせに
好意に対する防御という最低限のマナーが備わっていないから、周囲が浮足立つのだ。

沖田に見出させた隙も、恩田がチョコを渡せた事実も、不用意に職員から受け取るチョコも、全てが同じ根拠に成り立っている。

曖昧な関係を引き摺っている内に、例え室井が呑まれなくとも周りが呑まれることで、真実がどうにも止まらなく歪んでいくことだってある。
嘘から発した偽物が力を持ち、それを甘んじて享受する苦味は、何も室井だけが味わうものではない。
恋は、時に周囲を巻き込む恐ろしい力を内包している。



新城の言わんとしたことをようやく理解した室井が、困惑の表情を向けた。
新城も横目で憮然としたものを返す。
じぃぃと二人はしがない視線を交わし合った。

全く、凛とした気配で毅然と配下を制圧させる男が、恋の一つも上手く裁けない。


「だが、これ以上・・・どう言えば良かったと言うんだ」
「そのせいで、大事な人を傷つけたり不安にさせたりすることになっていると知っても、ですか?」
「しかし・・・・折角出してくれた勇気を否定することはないだろう・・・。沖田くんは分かってくれていた。今度のことも、確認を取りたかっただけだろう。 他意はない」
「本気で言ってます?」

好意の裏に込められた想いなど、渡された方は与り知らぬことがほとんどだ。全て知っていると見抜くことなど出来やしない。

「貴方の優しさに振り回されて立ち竦んでしまう人もいることを、もう少し自覚した方がいい。きっぱりと傷つけることもまた、誠意だ」
「別に私は博愛主義じゃない。ただ・・・伝えることすら許されない想いも世の中にはある」
「それで大事な人を失うことになってでも?」
「誰のことを言っている?」
「・・・・」
「・・・・、何か、聞いたのか」
「私の口からは、何も」


スッとデスクから腰を上げる。
もう用は無い。言うだけは言った。

背中に少しだけ気配を強張らせた室井の息を呑む音が聞こえた。
その気配を意識してから、新城は扉を向いたまま、貞実を告げる。


「主意は理解できました。あくまで波風を立てない方向性で私もご協力致します」
「新城・・・、君は――」
「今回の件は私の耳にも入っていないということで。ここで留めてください」
「・・・承知した」

ゆっくりと歩みを止め、扉の前で立ち止まる。

「・・・私は、貴方が選んだものが白であろうと黒であろうと、付き合うつもりですよ、室井さん」
「そうか。・・・心に留めておく」
「では、これで失礼させていただきます」
「・・・・ああ、新城。ちょっと待ってくれ。これを片付けるのを手伝っていってくれ。昨日の懇親会の女性社員から頂いたものだ。みなさんでと」
「・・・・」


高級ブランドチョコだ。
またもや、チョコなのだ。

この時期、様々な想いがチョコになる。悪意がないものから、重たいものまで。
人が人を想う気持ちの形だけ、チョコがある。
様々に渦巻く気持ちが鬩ぎ合い、それらがチョコとなって目の前に露呈する。
これが、日本のバレンタインという魔法なのだ。

チョコには魔力が宿っている。


悔しさにも憤りにも似て非なる熱いものが、新城の身体を貫いた。
これもまた、チョコの力なのだろうか。


摘んだチョコを見つめながら、口を開く。
ブラウンとゴールドの箱に敷き詰められたバラエティに富んだチョコは、トリュフの詰め合わせで、見るからに高級そうだった。
誰もが知るベルギーのトップブランドだ。


「一つ、御助言しておきますが。後学のために」
「なんだ」
「貴方の理屈は正論だ。だが人はそんな理屈じゃ動いてはいないようですよ。下手な誤解は尾鰭を付け、思わぬ災害を招く温床になる。・・・警察官なのに陳腐 な悲劇を繰り返すので?」
「私にその可能性があると?」
「特に、言葉で何も告げていないであろう貴方には」


顔を上げて視線を捕える。
室井の瞳は、漆黒の宝石のようで深く呑み込む様に広がっていた。


「言葉で告げられないのなら、断ち切ってやることも大切だと覚えておいた方がいい。伝えるつもりじゃない、これで終わらせにする想いもあるんですから」


室井が息を呑んだのが分かった。
好かれることに不慣れな男は、こんなにも臆病だ。
こんな風に様々なチョコを受け取っていくうちに、逆にどれもが同じ想いであるかのように錯覚してしまうものなのかもしれない。


「義理だからと甘く見ていると、思わぬしっぺ返しを喰らいますよ」
「・・・君の経験論か」


口の端だけを持ち上げて、やり過ごす。
室井は、突き放された子供のような瞳を見せた。


「新城・・・君は――迷うことは、ないのか・・・?」
「私は最初からデパート商戦に乗じたチョコなど受け取りません。誰のもね。・・・本命だけですよ」


本当は治めて帰ろうと思ったものを、鞄から取り出す。
こっくりとしたブロンドのパッケージにブラウンのリボンが掛かった小さな小箱を、黙って差し出した。


「これは?」
「私からの贈答品です。部下から上司へ。何の不自然も無いでしょう?」
「・・・・」
「義理、ですよ」

初めて、渡した。
チョコの幅広さを知らぬ男には、丁度良い。





*:*:*:*:*


扉を閉めてから、新城は大きく息を吐いた。


人は、ただ一人があれば良い。
室井にとっては、それは名言などではなく信条だろう。
こういう男だからこそ、青島のような立場が違うままに認めてくれる相手が有効なのだ。
本当は、室井の傍には青島さえいれば、それでいいのだ。室井は立派な警察機構のトップとして後世に残る仕事をするだろう。

だが、青島は?
そこまで彼は自惚れられるだろうか。

相手も同じ気持ちでいるなどと思うのは、幻想だ。
一見、お互いを支え合って均衡を保っているかのように見せる二人だが、片腕を失った時、壊れるのは室井の方だろう。
それを分かっていても、恐らく青島は――。



窓の外に視線を投げた。
夕暮れに染まっていく空が毒々しいまでの茜色に変色していた。


〝それでも、すごく、すごく、好きだから〟
それで良いのかと問うた新城に、風がそよぐようにそう応えた青島の声が耳に木霊する。
好みで動くなと憎まれ口を返すと、柔らかそうな笑みがふわりと舞った。


恐らく青島は、室井のために生涯を捧げる覚悟はあっても、この先を共に生きていく覚悟は出来ていない。
室井があの調子じゃ、無理もないだろう。
だが、長い長い共に過ごした時間が育てた共鳴が、室井を切れさせない。
身を引いても、青島は室井を陰ながら慕うのだろう。
囚われたまま、きっと一生。

ここから先を付いていく理由がないことを、室井は分かっていない。また、付き合わせる波紋も分かってない。


孤独に戻る男に群れる女子群が、新城には虚しく映った。

届くことのない想いに縋るのは、愚かな足掻きのようだ。海に弾ける泡沫のように形になりはしないのに。
一夜の幻が見せる倖と割り切れれば、狂乱の世も楽しめるのだろうか。


しかし、それでも。
あれほど直向きに変わることにない情念を、見返りなく捧げる青島の生き方を思い描く。

条件は同じだった。
むしろ順当に出世レースを勝ち抜いてきた自分の方が、優位だった。
なのに、室井の生きた道が、苦い結末でも、酷く甘く感じる。

恋をしたかった。
室井と青島が惹き合うような、あんな強い引力を感じるような感情の交換を感じてみたい。
例え別れが決まった情交でも、冷たい自分の世界に一時でもそういう人が一人でもいたら、温かいだろう。

どうせなら自分も、心の底から焦がす恋で、愚かな戸惑いに翻弄されてみたかった。
恋がしてみたかった。




胸元のスマホが震動する。

時は忙しなく急き立てる。
メールを確認して、もう一度空を見上げた。
強い北風が、壮絶な色に染まる夕空を透明に深めていく。


もう時期が来たと見るべきなのか。
それとも、この先も必要な存在だと強く進言するべきだったのか。
新城には図りかねた。

青島を解放させてやるのが、正解かどうかさえ、分からない。
室井の気持ちが今は見えるだけに、新城には重苦しいものだけを残した。


室井を強く支えるもの。
それが自分でなかったことが、多少の虚しさを残す。
室井の願いが、儚い望みになることに、多少の寂しさを残す。
キャリアであっても、こんなに近くに居ても、二人を救う術を持たない自分が、不甲斐なかった。

「・・・っ」

だけど、三人で鬩ぎ合い切り抜けてきたこの刑事人生は、悪くなかった。



窓の外の梅の花が一輪だけ咲いているのに気付いた。
国会対応や地方に本部がある業界団体との調整が直ぐに始まっていく。待ったなしの挑戦はそこまできている。
別離の春は、もうすぐだ。


あれもこれもと欲しがるのは、子供の駄々と同じだ。
何かを失う時は、必ず来る。



摘んだままだったチョコを口に含む。
長い付き合いの果てに、今、王者へとなっていく室井に、今日初めて憐れみを覚えた。


「苦い、な・・・」
20160212












06.あとはあなたの返事だけ
line
2013年2月13日。本庁執務室。


「室井さん、こんなものが届いていたのですが」

中野が足早に入室してくると、切迫した様子で室井の前に立った。
持参する資料を鞄に詰め込んでいた室井は、その徒事ならぬ様子に、思わず手を止め怪訝な顔を向ける。

「どうした」
「・・・・」

中野が黙ってそれを差し渡す。

何の変哲もない普通の白い封書だ。
宛名に審議会の名と室井の名が記されている。
差し出し人はない。

表裏を確認してから、顔を上げ、中野を見上げた。


「これをどこで?」
「本庁の他の郵便物と一緒に紛れていたようです。恐らくここ二、三日の話ではないかということでした」
「・・・・」


手触りや堅さも特に異常なものは感じられず、刃物などが仕込まれている様子もない。
厚みもほとんどないことから、紙質のみだと判断できた。


「この消印は?」
「葛飾区管内ですね。日付は今週月曜日。今確認取らせてます」
「開封する」
「大丈夫でしょうか・・・」
「してみないことには、何も分からん」


念のため、胸ポケットから白手袋を取り出した。
ピッと張って指に装着していると、中野が気を利かせ、コピー用紙を一枚抜き取る。
粉末や微金属などが封入されていた時のための下紙にする。

ペーパーナイフで滑る様に開封した。


「葉書・・・?」

封筒の中には葉書が一枚入っていた。
その宛名を見て目を見開く。
慌ててもう一度封筒の方の宛名を見るが、確かに自分宛だった。

他には何も入っていないようだ。


【いつか春が来たら攫いに行きます】

春を思わせる桜の絵葉書に、ただ一言添えられた便りは、宛名が青島俊作となっていた。



「どういう・・・ことでしょうか」
「・・・・」

中野も不可解な顔をして覗き込んでくる。
午前の若い空気はまだひんやりと肌に冷たく、コートを羽織らぬ身体を固くさせた。

脅迫状や襲撃だとばかり警戒していただけに、少々拍子抜けしたのも事実だった。
他に攻撃的な要素も無い葉書は、春の挨拶と桜を乗せた紙面を朝日に染め、朗らかに沈黙していた。

だが、何故青島宛ての葉書を室井付けで送る?
青島と室井の関係を知っている者でなければ、この発想は出て来ない。


もう一度葉書を見る。
普通に郵便局で市販されている一般の絵入り葉書だ。桜は印刷されているものだ。切手まで桜柄の季節葉書。
割と繊細で達筆の直筆の文字。


「指紋鑑定に出しますか」
「・・・・その必要はなさそうだ」
「え?」


中野が意外な顔をしてうろたえた。
それに柔らかい苦笑を見せ、室井は葉書をデスクに置くと、座椅子の背凭れにググッと体重を掛ける。
白手袋の長い指を絡めて、肘を付いた。


「大体察しは付いた。心配はいらない」
「え、どういう――」
「この件は君と私の所で伏せてくれ」
「了解しました・・。しかし・・・何なのですか?」
「唯の寒中見舞だ」
「はぁ・・、」
「心配しなくても、大事にする気の無いチョッカイだから、気にするな」


暫し納得のいかない表情で室井を見降ろしていたが、やがて中野は部下として正確に心得を治めたようで
姿勢を正した。


「ではそろそろ出発のご準備を」
「ああ、もうそんな時間か」


バタンと扉が閉ざされる。
それを確認してから、室井は手袋を取り、もう一度葉書を取り上げた。

春になったらという文句を准えたのか、我々の警察バッジをリンクさせたのか。
桜の葉書は始まりの訪れを告げていた。


「鳥飼、か・・・」

青島への伝言であるなら、直接送ればいい。
住所を知らないのだとしても、弁護士にでも聞けば個人情報とはいえ、簡単に調べあげてくるだろう。
それが面倒だったとしても、わざわざ室井宛てに送る必要はない。
警察を通すのなら、この宛名は不自然である。湾岸署に送った方が早い。
室井と青島の仲を匂わせ脅しているつもりか。

つまりこれは、青島宛ての形を取りながら、室井宛てなのだ。封書に書かれていた通り。


〝攫いに行く〟
つまりは室井への宣戦布告状だった。
室井と青島の真の仲を知っているのかどうかはともかく、これは鳥飼の告白なのだ。


「やってくれる・・・」

いつか、と言っているからには、今春のことではなく、裁判が終わり、罪を償ったらという意味なのだろう。
そのこと自体は、室井を苛立たせはするものの、ざわめかせるものではなかった。
問題は、何故鳥飼が突然こういう行為に出たかだ。
最近の東京拘置所の入館者名簿を調べれば判ることだが、恐らくは青島が訪ねたに違いない。
そっちの方が、室井の関心を奪った。

鳥飼を本気にさせる、何かがあったということだ。

彼は何をしに行った?


青島は元々、人に優しい。逮捕するまでが所轄の任務だと言いつつ、その後のフォローもちゃっかり考えていたりする。
地元に密着した警察を目指す彼らしい発想だ。
だが、それだけで鳥飼の心を動かせるか?
湾岸署でやり合っている内に元々何らかの疎通があったということか?

いや、そうは見えなかった。

手強いですね・・といつか零したように、意識している素振りはあった。
しかし鳥飼の態度はむしろ、青島よりも自分へのあからさまな対抗心に偏向していたように思う。
同じキャリアとして、ライバルという以上に、その思想や信念の根源が同じ素材で出来ている色を向こうも感じ取っているから
青島を通して、室井への敵対心が芽生えるのだ。
だが、エリートキャリアという意味では、箱入りで育った自分と違い、鳥飼には何処かアウトローの生々しさがあった。

その成長過程の違いが、やがて、あの凄惨なクーデターを引き起こし、最終的な決断の違いを生んだと室井は見る。

つまり、室井を清純たらしめるのは、青島の存在があったからだ。
きっと、ただそれだけの違いだった。


しかし考えてみれば、同じ素材を持つ人間であるということは
確かに鳥飼のようなエリートタイプは、青島のような庶民的な野生の原石に思慕しやすい。
自分もそうであったように、型に囚われない自由は、ルールの中で生きる人間には、反骨と羨望の象徴だ。


「攫う・・・か」

一体、自分の知らぬ所で、彼に何が起きているのだろう。
どうして彼はこんな風に、いつまで経ってもいつもこの手から擦り抜けていくような存在なのだろうか。

手の内に治まってくれるような、大人しい宝石であったなら、気苦労もないのだろうが。
それは多分、彼に魅入られた時点で運命付けられた宿命なのだとも思う。
自分はそれを永遠に追い掛けていきたいと、彼の手を攫った時に決めた。
覚悟はしていたが、こうも目の当たりにされると、癪に触るものだ。




室井は、大きく息を吸って、乱れた波長を宥めるまじないであるかのように、眉間を揉んだ。

鳥飼に何か仕掛けられるということよりは、青島が自らの意思で羽ばたいてしまいそうな移り気が、室井には恐怖だ。
そう言えば、最近の青島の様子について、何も知らないことに思い至る。

もう随分と、プライベートで彼と合っていない。
恩田すみれの件で、湾岸署で一度顔を見たくらいだ。
この腕で、彼を確かめたかった。

顔を見たい衝動に駆られたが、今日はこれから大阪への出張が控えている。
大事な公聴会に、発起人の自分が欠席するわけにはいかない。


室井は封書に葉書を戻し、引き出しに仕舞おうとして、思いなおし、鞄に向かった。
鞄を開いて、再び手が止まる。
あの日以来、ずっと持ち歩いているものが埋もれていた。


〝終わらせるつもりで渡すチョコもある〟

急に不安になった。
先日、郵便受けに見慣れない小箱が入っていた。
贈り主の名前はなかったが、アメスピが一本刺してあった。

相手が分かったら、身体が高揚した。

かつて貰ったことなどない。
何故急にくれたのか。単に彼の気まぐれな彼の思い付きで、ただ好きだと言ってくれたのだとばかり思っていた。
だが。


「・・・・・」

珍しく贈られたチョコレート。
宛名のない贈り物。
桜の葉書。
わざわざ今年だけ贈る意味。・・・ならば、これはどういう意味だったんだ?


室井にとって甘いチョコレートは一つだけある。
その他は唯のカカオの塊だ。どれも大差がない。
だが、ひとつだけの特別なチョコを隠しているのだから、他人の目には室井の態度は煮え切らないもののように見えただろう。

そのことに気付いたのは、この宛名すらないアメスピが刺さったチョコを受け取った時だった。


初めて貰った甘いチョコ。
一体、あいつはどんな想いでこれを贈ったのだろう。


青島と一緒に食べようと思っていたから、開封もせずに仕舞いこんでしまっていた。
取り出して、リボンを解く。

箱の中にはつるんとしたチョコが整然と並んでいた。
その一つを取る。


そっと口に含む。

「苦い、・・・」


色々な想いが混じるから、バレンタインは甘くてほろ苦い。
直ぐにでも確かめたくなった。
次に会えた時にでも問うつもりで、何の連絡もしてなかった。
自分の迂闊さに舌打ちする。

込められた意味は、想像以上に重いのかもしれない。




*:*:*:*:*


とっぷりと暮れた闇の夜空が丸い車窓に流れる。

『ふわぁい、青島でーす』
『今何処だ?』
『お疲れさまっす。今日はねぇ、もう家です。風呂まで入っちゃった』
『お疲れ様。早かったんだな』
『ええぇ?この時間で?室井さんの感覚、狂ってますよ』
『そうか』

いざ本人の声を聞いたら、何と言って切り出したら良いのか、判らない。

『室井さんは?なんか外っぽいですね?』
『・・ああ、出張帰りでな。新幹線の中なんだ』
『うへぇ、大変でしたね。まさかこれから本庁?』
『いや、今日はもう直帰だ』
『そか』


自分を気遣う青島の甘い声が耳を擽る。
彼の少し高めの柔らかい声は甘く、いつも室井の奥にまで浸みこんでくる。
それが今日は、妙に胸に沁みる。

大阪での公聴会の後、様々な所用をこなしていたら、すっかり深夜になってしまった。
付添いの部下の大部分は先に帰らせ、中野だけは残務処理に泊まりとなっている。警護のSPは新幹線の乗車までに断った。
最終列車が東京へと加速度を上げる。


『寝てないんじゃない?声がチョット疲れているかんじに聞こえる・・・』
『大丈夫だ。・・・でも気疲れはした。人が沢山いる前で喋るのはどうも性に合わない』
『警視総監になる人間が何言ってんの』


吐息まで拾う声だけの接触が、まるで情事の時の息遣いを錯覚させ、あらぬ方向へ思考が働きそうになった。
甘く熱を孕む吐息。少し上擦った喘ぎ。仰け反る白い喉。
記憶の中の断片的な映像が、室井の現実の身体を錯覚させる。

室井は表情を引き締めて窓の外へと視線を向ける。

久しぶり過ぎると身体全部が青島に反応する。


『今どこら辺?』
『もう山手線に入った』
『じゃあもう東京すぐじゃん』
『ああ』


とっぷりと暮れた夜景が流れる都会は、マンションやアパートの通路の灯りだけが等間隔で連なっている。
無機質な人工の灯りは、深夜でも煌めきを失わず、時間の概念を消失させてしまう。
忘れると決めた傷痕も、失ってしまった昔の恋も、拾いあげて居ても居られぬ焦燥感を掻き立てる。
心の隙間を更に寂しくさせる。
窓に自分の顰め面が映る。


隠し事がないかと問い詰めるのもなんか違う。
用件を言いあぐねていると、勘の良い青島がいつものように聡く察し、甘い吐息を乗せた。

『室井さん?どうかしたんですか?もしかして何かあった?』

その言葉に、思わず責めるような言葉が漏れた。

『どうか。・・・したのは、君の方じゃないか?』
『え?』


気遣う言葉はいつも、ささくれ立った自分の心を癒すものだったのに、今夜は抑えられなくなった。
色んな記憶と不安がごちゃ混ぜになって、理知的思考を崩壊させる。

青島はいつだって室井のことばかりだ。
こんな風に。
チョコにしてもそうだ。
どうとでも取れる形で型を成しておきながら、直接は渡さない。言葉も添えない。名前すら残さない。
青島の本音は零れない。

新城の言っていたチョコのミステリアスさを、こんな形で理解する。


『君はいつもそうだ。こちらの心配ばかりして、自分のことは笑い話にしてしまう』
『何言って・・・?』
『君に関わる権利を俺から剥奪していく。俺は君の、何だ?踏み込ませては貰えないのか』
『言っている・・・意味がよく・・・・わかりません」

クッと冷笑が浮かぶ。

『分からない?確信犯だろう?』


青島に、分からない筈がない。
今、室井に全神経を集中させ、思い当たる節を必死に隠そうとしている筈だ。
この期に及んでも、甘い言葉は口には乗せない。
尤もそれは、自分も同じだからあまり人のことは責められた義理ではないが。


少しだけ剣呑な感情を乗せてしまった声に、受話器の向こう側で、青島の気配に堅さが混じった。
こちらの不穏な空気を察し、言葉を繋げなくなっている。
傷つけた、のかもしれない。
だが今は、この一手が突き刺さったことすら、心地良かった。


『何で怒っているのか、分かんない・・』
『そうだろうな』
『ええと、俺、何か責められているの・・・?』


黙っていると、困り果てたような青島の声がおずおずと室井の機嫌を窺ってくる。
不安気に戸惑う寂しげな声色に、思わす堅く目を瞑る。

『・・・いや、違うんだ。そんなつもりじゃない』

ただ抱き締めたい原始的な衝動だけが、理由も乗せずに込み上げていた。


青島は室井を差し置いて、何かを決意してしまっている。
それだけは、漠然と感じた。
恐らくは室井のためなのだ。
長い付き合いだからこそ、それは良く分かる。青島の愛情を疑ったことなんか一度もない。
その嘘吐きを、嘘ごと愛しているつもりだった。


だが、こうも頑固だと、闇雲に腹が立ってくる。

セックスの時もそうだった。
今でこそ煽情的に強請ってくるようになったが、幾ら責め立てても、中々声を上げようとはしなかった。
室井がしつこい愛撫を繰り返し、執拗に責めても
爪を肌に立てることすら警戒し、歯を食いしばって紅潮させた顔で横を向いて耐える。
シーツを乱し、裂けるまでに開かせた下肢を火照らせ、淫蕩に小刻みに震わせながら、それでも堕ちてこない。

雄の欲望を露わにする獣染みた飢えが、室井の理性を掻き毟る。


『俺ね、そうやって完璧じゃないあんたを知るたび、俺がいなくちゃって思う。ちょっとね、ゆーえつ感」
『・・・・』
『だからね、聞くだけならいっくらでも聞きますよ。俺、カウンセリング上手いよ』
『俺から事情聴取する気か』
『バレた?』
『君が・・ッ、そんなだから、不安になるんだ・・・ッ』
『室井さん・・・?』


いつの間にか囚われていたその狂気とも言うべき執着は、彼なしでは生きられないなどという少女染みた言葉さえ吐かせる思考を、脳裏に植え付けさせ
その滑稽さと信憑性に、室井自身を強く惑乱する。
付き合い始めの頃は、何故自分がそんなにも彼のみに心を占めているのかさえ、把握できない程だった。
好きという、シンプルで冗談のような言葉が、だが一番しっくりとくるその感情が
日常さえ狂乱させるほどに侵食していき
やがて確かな形を持って青島に向かい、それを受け止めさせることで、心の均衡を取ってきた。

奪い、植え付けることで、満たしてきたこの均衡が、やがてそれでも不完全であることを、長い恋路は嘲笑う。

際限の見えない飢餓は、室井を眩暈すらさせるほど、貪欲に陶酔の渦へと陥れた。
青島に因って溺れていくのか。それともこの内に秘める自らの感情に溺れていくのか。

何でも吸収する青島の若い成長力は、恋にも同じで
何でも受け止め、室井のことなら殊更受け容れてしまうから、益々室井はのめり込んだ。

だからこそ、本当の意味での青島が遠ざかっていく。


強請るほどに開かせれば、その分、希薄になっていくことに、いつしか焦燥感を覚えるようになった。
愛は、受け容れて貰えることだけが愛ではないと、青島と恋をして、室井は初めてそれを知る。



『奪っても奪っても、君が足りない』
『・・・だったら、もっと奪えよ。我慢すること、ないでしょ?』
『・・・・もうきっとそれだけじゃ満たされない』
『だからいっつももっと好きなように抱いていいって言ってるのに』

スマホを持つ手に力が籠もる。

『あんたの理性はそうやって・・・・飲みこんじゃうから』

愛の言葉が手の平から零れ落ちていく。もう、受け取れない。

『そうやって、君はいつも応えてくれる。俺だけを選んでくれる。・・・・無償で俺に何でも与えて、君に何が残る・・ッ』
『俺のことは気にしなくていいです』
『そんなこと出来るわけないだろう・・・ッ、惚れているんだぞ・・・!』

カッと灼熱が迸った。
思わず声を荒らげる。

『君はッ、俺がいなくなってもいいのか・・・ッ』
『なんでそんなこと・・・言う・・』
『俺をッ、奪うだけで満足するような男にして、君は嬉しいのか!?』
『・・・っ』


受話器の向こう側が沈黙した。
大きく息を吸う。


『二人で行こうと決めたのは嘘か。君の言う未来とはなんだ』
『・・・・』
『黙秘か。ということは、俺の推理はほぼ的中しているということか・・・』
『だって室井さん・・・・』


何かに心が灼かれているような気がした。
だけど、今なら何かを掴めそうな気がした。
焦れるような平衡状態は、ならば自分たちの場合、魂からぶつかり合う前触れとなる。


『中途半端な愛情なんかで、俺を誤魔化せると思うな』
『・・・本気で言ってる?』
『本気かと問うなら、俺こそ問い返したいところだ。・・・君の愛は本気か』

青島の気配が胡乱となり、声色が少し変化する。

『俺に何を言わせたいの?』
『君こそ、俺に何を言って欲しいんだ?』
『・・・っ、何も・・・・』

青島が電話口の向こう側で息を呑む。
パフォーマンスの得意な青島にしては、珍しいミスだ。


奇妙な沈黙が続いた。

これも、二人にしては珍しいことだった。
大概が同じ温度にシンクロして同調していく。会話も思考も感情も、信念も。
だが、そういう目の前の分かり易いものに目移りして、見過ごしていただけで、本当はずっと、こんな違いがずっと二人の間に横たわっていたのかもしれない。
どこで掴み損ねてしまったのか。

そのことに、今、室井はようやく気が付いた。



『お・・・俺が不満なら、はっきり言えばいいだろ・・・』
『君こそ何故俺には我儘を告げない』
『俺は――・・、充分・・・』
『愛を囁いていれば満足できるような、俺をそんな男にして、楽しいか』
『・・ぇ・・・』
『そうしていれば俺を理由に離れて行けるからか。俺には随分と無責任なんだな』
『違う・・・』
『おまえ、この恋を、終わらせようとしているな・・・?』
『・・・っ』
『・・・・何故だ?』
『・・・・』


ようやく、口に乗せることが出来た。

図星なのだろう。あれだけ騒がしかった受話器の向こう側が、沈黙した。
どうしてだろう。
好きだと言うだけの二文字の言葉が、こんなにも強く君を傷つける。


『その程度の愛情で男の手を取ったのか、おまえ』
『な・・ッ、その程度なんて言うなよ・・・っ』
『恋だけに盲目した付き合いはする気はないと・・・言った筈だ』


どうせ素直に吐く訳がないと思い、煽るだけ煽っていく。
多少傷つけたって構わない気がした。今なら。


『分かってるよ・・・っ』
『分かってない。おまえは俺の覚悟を分かってない』
『室井さんだって俺の覚悟、分からないでしょ・・っ』
『逃げだす男の覚悟をか。そうやって役立たずだと尻尾を巻いて逃げだすのか。俺にだけ恋も満足にできない男の烙印を押し付けて』
『そんな・・・っ!・・つもり・・・俺は・・・』
『恋愛ごっこにもう飽きたってことだろう?堅実な人生を歩むにはいい時期だな。遅いくらいだ』


時期、と自分で口にして、まるで天から答えが降ってくるように、その言葉に、室井の脳裏が青島の態度の理由に閃いた。

――そうか、この時期だからか。・・・こいつも。
そういうことか。


『なら、これを機に清算しますか・・・?』

青島の震える声が受話器を通して室井の耳をも震えさせる。

『そうすればおまえに都合の良い未来が用意できるからな』
『俺じゃなくて、室井さんにだよ』
『・・・・青島。・・・、もう駄目だ、分かってしまった・・・』
『・・ぇ・・、何のことだよ・・・?』
『とぼけても無駄だ。大体、全部、分かった』
『・・・・』


ドンと拳を窓ガラスに押し付け、室井は下を向く。

ここに彼がいないのが悔しい。
思い切り抱き締めてやれるのに。

きつく、目を瞑る。


『頼む。俺を、愛情で奪うことを恋の理由にするような、そんな男に成り下げないでくれ』
『それは逆だ、室井さん・・っ』
『そうなる』
『違う・・っ、ならないよっ、あんたはちゃんと・・・!』
『違わない。おまえがそうするんだ。これから』
『なんで・・っ、なんでそんなこと・・・っ』
『言わない言葉は、ないのと同じなんだ・・・』

それは、自分に向けた刃でもあった。

『・・なにか・・・知って・・?俺・・・』
『馬鹿野郎・・・・。おまえだけは・・・っ、おまえだけは最後まで付き合ってくれると思っていた・・・!』
『・・・ッ』
『臆病者が・・・ッ』
『だって・・だってしょうがないじゃん・・・っ、もうこれ以上俺に出来ることなんて何もないもん・・・ッ』


室井の怒声に呼応し、最後は叫ぶように青島の声が擦り切れた。
にんまりと、室井の口端がらしくない性質の悪さで持ち上がる。
それは泣き出しそうに歪んだ顔の上で、妖艶な雄の色気を放った。


『・・・言えるじゃないか』
『・・っ』


激しい口論の後の沈黙は、まるで嵐が去った後のようだった。
口調を整え、ゆっくりと告げる。

『おまえ、俺の前から消えるつもりだったんだな。・・・約束が叶ったら』


泣いている気がした。

『青島』
『・・・っ』
『青島』

優しく名を繰り返す。
きっと、声すら上げられず、滂沱している。座り込んで。たった一人で。

『青島』
『何だよ・・ッ』
『今、俺に言いたいことは?』


鼻を啜る音がする。
嗚咽を呑み込む音がして、息を殺す音がして、ようやく、小さな小さな声が聞こえた。


『逢いたい、です』
『やっと、言ったな』


腕時計を確認する。
東京駅に到着するアナウンスが流れる。


『今から逢いに行く』
20160214













07.ビターもミルクもお気に召すまま
line
切れたスマホを力の抜けた手の平に乗せたまま、ぺたりと座りこみ、青島はブラックアウトした画面を漫然とした瞳で見つめていた。

俺は、彼を傷つけたのだろうか。
そんなつもりはなかった。
愛していたからこそ、護るべき決断をした。

だけど、相談もなしに決意することが、長く付き合ってきた彼にどう思わせるか。
乗り越えていける男だ。でも、憂慮すべきはそこじゃなかった。

与り知らぬ所で過去にされる恋は、一生引き摺る痣になる。

知らされず、真実を他から聞く人間がどういう気持ちになるかなんて、一番に考えるべきことだったのに。
俺は、自分と未来のことばかりで、あのひとを思いやるところまで、気が回ってなかった。
恐らく室井が青島に求めているのもそこだと知っていながら。


はらはらと、声も立てずに、透明な雫が頬を幾筋も流れ落ちる。
手の甲で、グイッと拭った。


泣いている場合じゃない。
しゃんとしなくちゃ。
まだやるべきことが残ってる。

顔を上げて時計を見た。
午後11時30分。
傍に投げ出してあったモッズコートを鷲掴み、玄関に勢い良く踏み出す。
自分がスウェットだったことに思い至り、慌てて引き返す。
ブラックジーンズに履き変え、テラコッタのTシャツの上にマリンブルーのジーンズシャツを引っ掛ける。ブラックのカウチンセーターも羽織った。
財布とスマホだけ引っ提げて、モッズコートを宙に投げる。

袖を通すと同時に走りだした。



+++

新幹線がホームに滑り込む。

最終だったからか、東京駅はごった返していた。
勿体ぶるような長いタイムラグの後シュッとスライドした音と同時に、室井は身体を滑り込ませるようにしてホームに転がり出る。
扉に引っ掛かった鞄を乱暴に手繰り寄せ、駆け出した。


言語とは思考である。
日本語の美しい類型が人の心の繊細な心を紡ぎ、隠れた襞まで伝えようと音に乗るのだ。
ちゃんと、言葉で告げなければ、気持ちは伝わらない。
どれだけ彼の寛容に甘え、臆病に逃げ、言葉を時間を無駄にしてきただろう。

「・・ったくあいつは!何考えてんだ――!」

共鳴する心が、泣いている。
片翼をもがれて、泣いている。

まるで融合するように重ねられてきた二人の時間が、事を曖昧にしていれば永遠に続くという幻想を期待させていた。
正確には青島が、まさか青島の方が、幻想に生きていた室井とは異なり現実を冷静に見ていたという意識格差が、室井をより戒める。

この先を護れるかどうかも定かではない。だけどそれでも、どうしてこんなに逢いたいと求めてしまうのだろう。


新幹線の通用口を出ると、そのままJRの中央連絡通路を走り抜けた。京葉線のホームは相当離れている。
長い地下通路がもどかしい。
群れる人垣が煩わしい。

黒い波を抜けるように室井は前だけを見て走った。


+++

二月の凍てつく夜風は頬を赤らめ、切り裂く。
寝静まった街を、青島は全速力で駆け抜けた。


魔法はいつかとける。
好きな人に告白して、告白されて。デートしたり、手を繋いだり、羨ましがられたり幸せを分け与えたり。
そんなカレカノらしいささやかな日常が、自分たちには与えられなかった。
まるで悪いことをしているかのように隠れ忍び、陽の当たる道を怯え、覚束ない身体で夜を抱き合った。
だけど、幸せだった。
二人で眠る夜も、共に目覚める朝も、俺は幸せだった。


はっはっと走る自分の荒い息遣いが頭の中に直接響いてくる。

何で走っているんだろう。
まるで、終幕を告げるために向かっているようなものなのに。
それでも身体が、心が、あのひとを焦がれて先走る。
走ってどうにか変わる未来じゃないのに、どうしてこんなにも逢いたいと思ってしまうんだろう。


酸素が足りず、上擦った息が喉を枯らした。縺れる足がそれでも止まらず駆け出させる。
知りすぎるほど馴染んだ街が、知らない街に見えた。
息が切れる程に走り続けた。


+++

息が切れる程に、走り続けた。

頭の中は青島のことばかりだった。
逃がしたくない。手放したくない。
さっさと攫ってしまえば良かった。


京葉線のホームに電車が滑り込んでくる。
階段を転がる様に駆け降りた。
発車のベルを聞きながら、閉まるドアに潜り込む。


彼の巻き起こす激流のようなあの灼熱にただ浮かされ、あの烈しい瞳に煽られ、どうしようもない身体と精神の昂ぶりを教えられた。
衝突をしても途切れない魂と魂がぶつかり合うような交接で、人と交わる密の味を刻まれた。
彼に与えられた温情を糧に、自分が得た物の大きさを一人戦うたびに思い知った。そして密やかに煽情されてきた。
そんなのは、彼にしか出来ない。

なのに、彼は躯だけ与えて去り際を選べてしまう人間だ。

「・・・チッ・・・」

自分の愚鈍さに迂拙さに、苛立ちが破裂する。

分かっていたことだった。
自分にだけこんなにも強烈な味を憶えさせておきながら、儚く消えて見せる。
どうせ、室井には青島の起こす理屈も理性も資性もすっ飛ばした、でたらめな風に逆らえやしないのだ。

約束や信念に縛られ、護られ支えられていたのは、室井の方だ。

こんなにも夢中にさせ、この身を震わせる享楽を、他人に譲るだなんて、冗談じゃない。
苛烈な嫉妬に心が張り裂けそうだ。

何もかもを越えた所で、彼が欲しかった。
そうさせたのは、青島だ。
出会ったあの頃と、何ら変わりない熱い滾りが今も室井の焔に火を点ける。


ガタゴトと、列車が八丁堀を通過していく。
辛気臭く古びた車内が、埃臭い萎びた電灯に揺れる。逸る心を落ち付かなくさせた。


青島。青島。
行かないでくれ。
ちゃんと告げさせてくれ。



+++

頭の中は室井のことばかりだった。
傷つかないで。最後に残すのは愛だけにして。


寝静まった工場地帯を抜けると、駅前の喧騒が行燈のように視界に入った。
うら寂しげな灯りは、孤独なノスタルジーを持ち、こちらの閉じ込めた筈の心の隙間に浸み込んでくる。


あのひとと自分を隔てる違いなんか、分かっていたのに。
約束という言い訳がある内は、傍に居る理由が明確で、だからいつか来る時に怯えながら、熱い腕に抱かれ白霧の中に誤魔化した。
弱かったんだ。現実を直視して、何より大切な物を失って、その先の自分が空っぽになることが。

だったら手を取るべきじゃなかったなんて、幾夜願ったことだろう。
護っているつもりで、傷つけることばかりだ。


ぼんやりと闇に浮かび上がった新木場の駅は、最終を待つだけの古ぼけた雪洞を灯す。
モッズコートが風に流れ、青島は更にピッチを上げた。


あのひとが抱える俺への想いが、どれほど重たく深いものだったかなんて、青島が一番知っている。
だけど室井はもう、自分の価値を懼れる男ではない。

力強い手で自分を求めてくれる腕が、熱が、愛おしい。
安心して全てを委ねていた。

自分を何より求めてくれる腕を、自分だけのものしてしまえたらなんて、馬鹿な夢を思った夜も
これでみんな過去にする。
ただ一言、この人生を後悔なんかしていないってことを、伝えたかった。


室井さん、室井さん・・・っ。
愛してくれてありがとう、好きになってくれてありがとうっ。

大好きだったから、ちゃんと送り出させて。あなたを。



+++

電車が午前零時の新木場駅に滑り込む。

見失った欠片を取り戻したい。
取り零していた場所まで戻れることが出来たら、今度は間違えない。
今ならきっとまだ間に合う。


若く青臭い理想を共鳴させた時代を終え、そこまで彼を奪って良いのか、うろたえたのも事実だ。
でもそんなの、信じたかっただけだ。
二人の未来を、確かめる勇気がないだけで。

だから臆病にも、彼の意志に任せる逃避をした。
だから時間に委ねる逃避をした。

こんな結末になってから、やっぱり嫌だと子供のように駄々を捏ねるなんて。
とっくに答えなど出ていたのに。

空回りしているような空虚な気持ちが室井の胸を襲う。


現実だろうが幻想だろうが、幸せそうに綺麗な顔で笑う青島が、ただそこにいるだけで、室井の心は暖かった。
彼の透明な瞳に映るのが自分だけであることが、誇らしく、それだけで良いと思った。

息を殺し、彼だけを想う。
これが甘えだというのなら、俺はそんなに強い人間にはなれない。


扉が開く。
室井は堅く瞑っていた目を開けた。
今、ケリを付ける。



+++

午前零時の改札口へ滑り込む。

戻りたい。
だけど時間は戻せない。

無色だった青島の世界に、鮮やかに世界を描いてみせたのは、室井なのだ。
夢が鮮やかな色で描かれ、こんな自分でも欲してくれる腕に抱かれて、明日を求めた人生は、幸せだった。
夕闇の染まる黄昏で佇むような関係でも、そこから見ていた世界は絶景だった。


夜の凍えた風が、駅のコンクリで更に冷やされて、足元を吹き抜ける。
青島のコートの裾を巻き上げた。

これから先どうなって行っちゃうのか。俺たちは、どこへ向かわされているのか。

心細さと不安が、青島の心をさざ波立たせる。
放置された空き缶が足元でカランと鳴って、捨てた本音が水面下でドクリと脈動した。


それだけで、良かったのに。もう戻れない。
俺たちを隔てるものが、俺たちを繋いだ約束だとしても、俺は後悔なんかしない。
約束が終われば、相棒の役目も終わる。
政治と秩序の世界に俺の居場所は無くて、思い出に刻むのは俺だけでいい。

だけど、手放されたことで、如何に自分がちっぽけな存在であるかを知る。

この先何を道標に進んでいくのだろう。
・・・所轄刑事としての自分の理想を追えばいい。そんなの頭では分かっている。
だけどどうしようもなく巻き込まれていく強大な時代のうねりに、一人放り出されたような空白感が、自分の足を竦ませる。
格好付けてみたって、命を下され、それに従い、或いは反発しているだけで良い間は、どれほど楽か。

変わっていく世界がどす黒く蠢く。
だけどもう、約束の先を誤魔化せない。

どうせなら、一緒にこの先を生きてみたかった。その決断を室井にさせるのは酷だろう。
離れても、きっと俺の心は彼に囚われたままで、そんな恋を許してくれるのなら、その掛け替えの無い相手があのひとで、良かった。



額に浮かんだ汗を甲で拭いながら、辺りに視線を彷徨わせた。
酸素の足りない胸が痛いほど圧迫する。

逸る心が急き立てる。
息を整え、彼だけを想った。



+++

日付を回ったホームは閑散としていて、降りる客はほとんどいなかった。
凍えた夜風が車内で温められた室井の身体を急速に芯まで冷やした。

階段を足早に駆け降りる。
皮靴がコンクリを冷たく響かせる。
改札に目を向けると、そこに見慣れたコートの男が膝に手を当て俯いているのが見えた。
本物の影に心臓が飛び跳ねる。


「青島っ!」

脳が認識する前に、口が動いていた。
男が顔を上げる。
その顔が、心細そうに歪んだ。

「・・ろぃ、さん・・・っ」

青島の声が静かな駅構内に広がって、室井の胸に反響した。


転がる様に改札を抜けると、青島も走り寄ってくる。
伸ばされたその腕を、何を口にすることなく、室井はただ先に引き寄せ抱き留める。
こんな公道の往来でと脳裏を過ぎったのは一瞬で、胸に堕ちてきたふわふわの身体を強く、ただ強く、抱き締めた。


「室井さん、俺・・・っ」
「いいッ、もういいから・・・」
「・・・っ」
「冷たいな・・・、いつから居た」
「・・・今・・・」

腕の拘束を解き、顔を覗き込む。
お互いの上がった息が混ざり、白く浮かんだ。
視線を絡ませ、その頬を撫ぜる手が触れようとして、宙で止まる。
そっと、肩に手を乗せた。

「帰るぞ」
「・・・・うん」




*:*:*:*:*


部屋に入るなり、室井は青島を容赦なく壁に縫い付け、その両肩を押さえ付けた。

バタンと扉が硬質な音を立てて遅れて閉まる。
電気も点けっぱなしだった部屋から零れる灯がぼんやりと片側の頬を柑子色に染めた。


逸れた時を埋めるように、じっと見つめ合う。

肩に乗せた手の平だけの接触なのに、途切れそうなそれを離せない怖さが、まるで室井の心を露わしているようだった。
たった一人の人間に、こんなにも感情が揺れる。こんなにも囚われる。
だが、基本明るく前向きな思考を抱く青島を、ここまで不安定にさせているのが自分の不誠実な態度だとするなら
それは、仄暗い悦びに室井を浸らせた。


「不甲斐ない、な」
「・・・なにがですか・・・」
「君どころか、自分を護ることで精いっぱいの愚かな男だった」
「またそおゆう卑屈な言い方する・・・」
「事実だ。・・・いや、事実だったことを――さっき知った」


公人として、警察のトップとして、傍から見れば眩く貴い、だが実際は峻厳で無愛想な道がこれからの室井の前に広がっていく。
しかし、一番大切な物を護れなくて何が先導者だというのか。

肩から離せない手が僅かに力籠もる。


「また一人で・・・何でも決めやがって・・・」
「俺、自分の感情に先走ったこと、後悔はしてないです」
「君・・・らしいな」


呟くように言葉が落ちた。
青島も、カクンと首を傾げ言葉も無いまま、室井を見つめ返す。
冬のカサついた風に束になった前髪が一束流れた。


突き放す様なそれは、だが一方で室井への思慕が口ぶりに滲んでいて、室井の胸をただ締め付ける。

それを飲み込むまでには恐らく数多の葛藤があっただろうことを、意地っ張りな彼は悟らせない。
それが、どんな強がりであったとしても、青島は隠してしまうのだろう。


「当ててみせようか」
「・・ぇ・・・?」
「おまえの、本音」
「・・・」


髪を愛撫するようにゆるりと指先に通し、室井が青島の瞳を覗き込む。
透明に広がる蒼い世界を瞬かせ、言葉も継げなくなった青島も室井を映した。

ただ黙って静かな視線が交差した。

そっと室井が呟く。


「10年後も、20年後も、君からチョコが欲しい。ずっとだ」

青島の顔が歪んだ。

一年に一度、言えない想いが結晶となるチョコレートを、毎年渡せと強請る。
つまりそれは、青島の秘めた想いを全て伝えに来いと言っているのだ。
意味するところは、恋をし続けてくれと願っている。


青島は歪めた顔をなんとか体裁を整えようとして視線を反らし、彷徨わせた後、明後日の方角を向いた。

「・・・でも・・・俺・・は、もう・・・・」
「次の約束を交わす」
「・・・約束・・・」
「今度は君のこの先の人生を全部俺に渡す約束だ」


飴色の光を射していた瞼が伏せられ、青島が下を向いた。
丸い指先でコートの裾をぎゅっと握る。
だけど引き結んだ口唇が、どうしようもなく震える。

全てを置き去りに逃げ出した。
正しいことだとは思っていない。だけど他に道がないんだと、同じ言い訳を幾度となく繰り返した。
だがそれは、一体誰に対する言い訳だったのだろう。


「・・・期限は・・・?」
「君の望む場所でいい。俺が決めていいなら、墓場までだ」

室井が両手を壁に付いて、青島を腕で囲む。

「その言い方は・・・卑怯です。今度こそ俺・・・何の役にも立ちません・・・」
「君の恋は損得で決まるのか。卑屈な物言いをしているのはどっちだ」
「どして・・・俺・・・?」
「・・・・」


そこからなのか、と室井が閉口する。

もう何年付き合ったと思っているのだろう。
彼の怯えの根源にあるものは、立場の違いであり、社会的な乖離であり、それに因って巻き起こる室井への論詰だ。
あのチョコは、やはり最初で最後のけじめのチョコだったのだ。

愛情の裏返しであるそれは分かっているつもりであったが、今はそれさえも煩わしい。
後悔がない、そんな筈がないのだ。
二人で過ごした濃密な時間は、そんな言葉で簡単に割り切れるほど軽いものではなかった。
だからこそ、その繊細な細部に触れる権利は、そこに気付ける室井に与えられた特権だと、今は理解する。
一人でなんて、行かせない。

だが、言葉に含まれるニュアンスに、いつにない心許なさを感じ、室井は片眉を上げる。


「おまえはまだそんなことに一々揺れるのか」
「だってあんた・・・!じゃ、すみれさんは・・・・?」

室井の少し責めるような口ぶりに、青島の感情が揺れた。

「何故ここで恩田くんの名が出る」
「だって・・・だって、俺の知らないとこで電話して・・・あの夜だって・・・!」
「チョコレートを貰った、と言えば満足か」
「・・・ッ、・・ぁ・・、そ、ですか、ですよね」
「彼女と付き合うと思うか」
「だってあんた・・・・チョコは・・・」


途切れそうな感情が青島の中の憂心を掻き混ぜる。

本当は、沸々と湧き出て目まぐるしく変わっていく時代の変化に、心が追い付いていない。
格好付けてみたって、まだ、青島の中に何の覚悟も出来ていないのだ。本人を前にしてしまえば。
捕まえてて貰わないと、自分が壊れて、飛んでいってしまいそうで、足元から崩れそうだった。
変わっていく世界は恐慌で、一人では立ち尽くせない。

心細さを露わす指先が、そっと気付かれぬ強さで室井のコートの裾を握る。


「不安にさせたか」
「・・・知らない」
「意地っ張りめ」
「・・だって・・・・」


暗がりに、ぽつんと青島の言葉が溶ける。

気の効いた言葉一つも添えられない。
室井は促すために両手で囲んでいた腕を曲げ、肘を付いて更に顔を近付けた。
未だに蒼く瑞々しい恋心の初心さを覗かせる青島に目を奪われる。
目の前で動く桜色の花びらも、室井にとっては極上の素材に映った。


「言ってくれ」
「・・・だって・・・・だって・・・・、この先のことは、もう俺の手に負えないです・・・・どうしていいか、分かんないんだもん・・・」
「俺に任せられないか」

青島の瞳が愁い事を持つ種に向けられ、縋るように室井の漆黒の眼を捕えた。

「俺、お別れ言うつもりだったんですよ・・・」
「知ってる・・・。おまえにそんな決意をさせられる男は俺くらいだろ・・・」
「・・・お荷物だよ・・・」
「おまえがそんな煩いを見せたの、付き合い始めた時以来だな・・・」
「あんたのことに関してはこれっぽっちも余裕なんかないんですぅ」
「・・・・俺も、捕まえた気になっていたおまえがこうやって擦り抜けていくから――」

室井の声が突如掠れた。

「余裕なんかなくなる・・・」


息を呑む青島の飴色の瞳に、室井だけが映り込む。
聞こえるのは、街を抜ける北風の音だけだ。


「じゃあ・・・室井さんが、捕まえててくださいよ」
「・・・・」
「どうせ捕まるんなら、俺、室井さんがいいです」


生き物の全てを凍らせるような北風が、切なげな鳴声を立てて扉の向こうを通り過ぎる音が、孤独感を共有させる。

喉に痞えていた、言うつもりの無い言葉がポロリと落ちた。

室井の手がゆっくりと後頭部に周り、肩口に額を押し付けられる。
次に、まるで奪われるように室井の腕の中にきつく抱きしめられた。
この手に抱かれて、あっけなく崩れた。その熱さに眩暈がするようだった。
室井の体温に包まれ、もうどうしようもなくなった。


もしもこの夢の続きがあるのなら、それでも貴方と一緒に見たかった。

「俺のこと、忘れないで、室井さん・・・っ、ずっと・・・」


打ち砕かれ、粉々になっても、また一つの新たな形を造り始める。
形の種類ではなく、その作業こそが、幸福というのかもしれない。





*:*:*:*:*


部屋に上がり、冷えた身体を温めるため、青島が湯を沸かしに行く。
何を淹れるか迷っている青島の横に室井も立ち、勝手知ったる戸棚から、ブランデーを取り出した。
それを何気なく見ていた青島が、小さく「・・ぁ・・」と言った。

なんだ?という目を向ける。


「もう日付変わってるから、今日はバレンタインですよ」
「・・・そうだったか」
「チョコ使ったブランデーカクテルとか作りましょっか」
「出来るのか?」
「ええ・・・・女の子向けですけどね。・・・あー、でもビターチョコがないや。それにあれはリキュールだったっけ」
「良く知ってるな」
「まあね」

挑戦的な物言いをすれば、好戦的な瞳が室井を貫く。

「珈琲とブランデーも合うんですよ。じゃあそれにしてみます?」
「いいな」
「よっしゃ。ちょっと凝ってみますから、期待してて」
「何をするんだ?」


湯が湧き、まず青島はドリップ式の珈琲を入れた。少し濃い目。
それをテーブルに持っていき、部屋の電気を消す。
真っ暗になったが、キッチンの灯りは点いたままなので、顔は分かるし、手元も見える。

珈琲が入ったマグカップの上にスプーンを置いた。
そのスプーンに角砂糖と、室井が出したブランデーをかけ、ジッポを近付ける。
カチッ。
青白い火が闇に映える。ブランデーの香りと炎がなんとも妖艶で、幻想的な世界が小さなカップの上に創造された。
思わず見入る。

キャンドルライトのような柔らかな灯は、ゆらゆらと揺れて、まるでお伽の世界に迷い込んだようだった。

やげて、火が消えた。
スプーンごとコーヒーの中に入れ、カランと混ぜる。


「はい、どうぞ。カフェ・ロワイヤルでっす」
「見事だな」
「へへ・・・ちょっと室井さんには甘いかもですけど、身体、あったまりますよ」
「ああ・・・ありがとう」


さっきまで泣きべそ掻いていた青島が、綺麗な笑顔を乗せた。
それが室井の漆黒の瞳に映る。

口に含むと、先程の煙の名残が香ばしく、アルコールが喉を焼く。
青島が演出した束の間の幻惑に、何かが沢山、細胞まで浸みこんだ気がした。




そのまま電気は点けず、ベッドを背凭れに二人並んで座り、ブランデーの香りに酔いながら珈琲を啜った。
月明りも控え目な、静かな夜だった。


「拘置所に、何しに行った」
「・・・あれ?バレてんの・・・?」

ぽつりぽつりと話す言葉はしっとりと沈む。

「葉書が届いた。・・・これだ」
「・・・ん?あちゃー・・」
「何をした」
「怖い顔しないでくださいよー、ちょっと顔見に行っただけですよー」
「何もなくてこんな挑発送ってくるか」


全くちょっと目を離すと、何しでかすか分からない。
室井のために突っ走る傾向は相変わらずだ。
恐らく青島なりに考えて、何かを企んだに違いない。本当に危なっかしく、大人しくしていない。
この幉を握れるのは、自分だけの役目にしたい。


「何を煽った」
「説教すか」
「さよならの準備をしている男に言いたいことなど山ほどある」
「最後まで付き合う、それが刑事でしょー」
「・・・それで恋敵を増やしては割に合わない」
「・・・ふ・・っ」


くしゃりと苦笑を漏らす青島の吐息が甘く夜に溶ける。
じっと青島の顔を見る。
暗がりに輪郭が淡く浮かぶ顔は二人きりをより意識させた。


「本命チョコを貰っているようなひとには言う権利ありませーん」
「なら、あの山積みのブツはなんだ」

暗がりでも分かるテーブルに積まれた箱の山を室井が指を指す。

「あ~~~~~、貰いました」
「何人と付き合うつもりだ。しかも一番下のは随分デカイな」
「・・・ああ、それ真下から。雪乃さんと連名で。ゆうきくんのお礼にって」
「君の方が余程危険だ。どこまで俺は妬けばいい」


あははと青島が笑う。
柔らかい空気の感触が、貪欲な本能を誘う。
この空間全てが愛おしい。


「・・・じゃあ・・・室井さん・・・ホントにすみれさんとは・・・・」
「おまえだって、あの時現場で彼女を抱き締めただろう」
「そ・・・れは、そうだけど」
「鳥飼とは何でもないってことでいいんだな?」
「オトコ相手に妬かれてもね」
「・・・・・」
「あれ?でもそういや俺、鳥飼さんに欲しいって言われて、やってみればって煽っちゃった」
「・・・・・」


室井はこの先の壮大な苦労を思って盛大な溜息を吐いた。
半眼を向ければ、チロリと目と目が交差し、悪戯っぽく細められる。


~*~*~*~

やがて、カップの中身が空になっても、どちらも立ちあがることはせず、ただ暗闇を見つめ、お互いの呼吸を聞いていた。
ブランデーの残り香が、微かに思考を酔わし、気持ちをまどろませる。
クラリとした酩酊感に逆らわず室井が僅かに視線を落とせば、1mmの差も無い場所に青島の手が力無く投げ出されているのが見えた。
そっと握ると、少しだけビクリと固まったのが伝わる。
だがこちらを見ようとはしない。気配だけを窺い合う。


「煙草、いいですか。・・・吸っても」
「・・・俺にも一本くれ」


手探りで青島がくしゃくしゃになったシガーケースを取り出し、一本を差し向けた。
二人の間で灯るジッポに両側から近付き、火を点ける。
暗がりの闇に、二人の顔だけが海老色に浮き上がる。


「おまえ、幾つになった」
「・・・・、また聞くの?室井さんの4つ下なんだから計算できるでしょ」
「・・・もう、15年だ」
「ですね」


人生の上半期が暮れていく。
お互いの手を取った時に、その他の全てを失うと同時に、確かに手の中に堕ちてきた。
そのほとんどを、お互いの熱で占めた人生だった。
二人で駆け抜けて辿り着いた山頂は、極上で、甘酸っぱかった。


キッチンの蛍光灯の薄明かりが斜め後ろの角から差し込むだけの暗がりで、呼吸する音と秒針の不協和音が続く。
二人の手元がほんのりと海老色に照らされる。
握り込む様に室井の長い指が青島の指先に絡まった。


「おまえは色んな役目を兼任してくれた。友達・・・ライバル・・・同僚・・・部下・・・盟友・・・そして、恋人」
「・・・・」
「色んな感情も引き起こした。情熱とか嫉妬とか・・・怒りも憎しみも、おまえだけが起こす」
「・・・・それは、俺も、でした」
「傍で支えてくれたことに、感謝している」
「あんたが見せてくれた夢は、俺の宝物でした」


室井がこの時代を閉じようとしていることを、肌に感じ、青島は瞼をそっと閉じた。
暗がりで、良かったと思う。

室井の歩んできた道を、ただ、想った。
きっと今、室井もそうだと思った。


「・・・俺はその全部が欲しい」
「・・・・・」
「だがもし、おまえがこの先の役目が嫌だというのなら、他は全部要らない。友達のおまえなんか、要らない。欲しいのはこの先も隣に居る関係だ。名はなんで も いい」
「後悔しない・・・?」
「俺には、そう聞く勇気すらない。おまえが嫌だと言ってもこの手を離す決断が出来るかどうか、分からない・・・出来ないと、思う・・・」


半分程吸った煙草を灰皿に押し付け、座ったまま室井が青島の方へと身体を向けた。
青島も、泣き出しそうな顔を上げた。
視線が交差する。


「・・・結婚、しようか」


酷く幻想のような言葉だったのに、青島は笑いも否定もしなかった。
深い色を湛えた濡れた瞳で、じっと何かを堪えて室井を見返してくる。

深夜の車の音も、秒針の音も、聞こえなくなった。


どのくらい見つめ合っていただろうか。


「返事を。青島」
「・・・・・いい、とは言えないよ・・・」

ゆっくりと間を取って、室井が青島の煙草を取り上げ、両手を握る。
そっとその指先に口唇を押し付けた。


「なら、ご両親に挨拶に行かせてくれ」
「なんて言う気?」
「今後、マスコミが俺たちの関係を問い質しにくることも想定される・・・・その事前説明だ」
「・・・男に組み敷かれちゃいましたなんて、恥ずかしくて言えるか」
「そろそろ諸々の覚悟を決めて貰わないと俺が困る」
「・・・・・」
「土下座してでも・・・・攫ってみせるから」
「・・・・ばか、じゃないの・・・」


その髪を梳き上げ、頬に触れ、室井は握っていた手をクイっと引き寄せた。
簡単に崩れてきた、もこもこした身体を腕に治め、その匂いを大きく吸い込む。
髪にそっとキスを降らす。
このまま世界を閉じるように、室井は瞼を閉じた。

長い長い時間を経て、今ここで抱き合えるのなら、何も間違ってなんかいないんだろう。



〝そんな娼婦のような扱いで満足してるのですか〟
青島の脳裏に、鳥飼の言葉が蘇る。

二人で強大な壁に模索している間はいい。
だが、レールに乗った室井の人生はきっとこれから加速度を上げて賑わっていく。
支えることが必要なくなれば、自分たちの繋がりは、恋人として過ごした記憶だけだ。
この先を室井に委ねるということは、そういうことだ。
甘えきってしまうことで、本当に室井なしでは生きられなくなる自分に怖気づくのは、恋だけの枷が拙いからだ。

だけど、もう、そんなのとっくに――

長い長い時を駆けて緩やかにシフトした二人の恋の破片だけが、まるで潮騒が引いた後のように残されて、降り積もる愛おしさに胸が詰まった。


室井が青島の後ろ髪を掴み、顔を上げさせる。
青島が上目遣いで室井を見上げる。
闇に光る透明な瞳が、室井の動揺を誘う。
意識していないのだろうが、少し乱れてこめかみに掛かる細髪や少し開いた紅く濡れる口唇、濡れたような瞳が、煽情的に光り、目を奪われる。


どちらからともなく顔が近付き、傾けられた。
触れる寸前にふと表情が変わる。久しぶりだね、と、吐息のように漏らした青島の口唇を室井がそっと塞ぐ。
重ね合わせたのは、これから先の運命だ。
寄り添う時間ではなく、どう時代が移ろっても変わらない愛を、密かに誓った。

・・・・・密かじゃだめなのだ。
少しだけ口唇を離し、伏せた瞳で見下ろす。


「今度の約束は、一生を賭ける」
「・・・・俺もっ」

ありがとうというのも、何か違う。
やっぱり言葉を持たなくて、室井は離れていくその口唇を追い掛けて塞いだ。



~*~*~*~*~

バレンタインは隠していた想いが一年に一度、チョコとなって表れる日だ。
チョコには魔力が宿っている。古代ギリシャでは神の食べ物とされる、ふんわりと蕩ける甘さに誘われて何を暴きだされるか分からない。
チョコをビターにするかミルクにするかは、受け取る側の隠し味なのかもしれない。


室井はキスをしながら鞄からあのチョコを取り出した。
暗闇でも、それが何かは分かるだろう。ニヤリと笑って掲げれば青島が照れ臭そうに笑う。


「食べてくれたんですね」
「ああ・・・、おまえから初めて貰ったチョコだ」

一粒摘んで口に入れる。
そのまま、顎を捉えて後頭部を引き寄せ固定した。
濃く、深く、口付けでチョコが二人の間で優しく溶けていく。

重なる室井の口唇に薄く開かされ、甘い渦を引き起こされた青島が目を閉じた。


この特別な日を二人で越えていけることに、深い憧憬を抱く。
これが、大人になるということか。
時代が変わり、心が移ろい、何かを捨てる都度、新たな息吹を芽生えさせていく。

雪解けのような滑らかに薫るカカオの豊かさに誘われ、特別なひとときが満ちて広がった。
ふんわりと癒してくれる小さな一粒は、口溶け淡く、濃く、深く、溶けていく。
熱く濡れた舌を絡ませ合えば、ほんのりとチョコまで蕩け合い、それは極上に甘かった。




+++

その後、室井の左手の薬指には銀色に光輝くリングが嵌められるようになった。
記者団にも色々突っ込まれるが、そうだと答えるだけで詳細を語ることは一切なかった。
そのリングの意味を悟る者は、新城だけである。

因みに、青島の首には銀色のチェーンが光り、その先に室井と同じ型のリングがぶら下がっている。
20160221












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happy end  choko←後日談。ぬる いえろ話です。読まなくても別に物語に支障はありません・・・。

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04は青島くんでした。
05は新城さん。
06は室井さん。
07はモチロン室青。
ぱちぱちありがとうございました!

お題はこちらからお借りしました。ありがとうございました!
 88*31 Discolo/鮭さま