ショートショート~バ レンタイン7題A面
今回は趣向を変え連続オムニバスに挑戦。チョコレートを巡る恋の箱詰めです。ODF後設定。沖田さん→すみれさん→鳥飼さん→青島くん→新城さん→室井さんの順。











01. 振り絞る勇気はきっと
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警察上層部が引責辞任したことで、警察組織の抜本的改革に踏み出すこととなった新体制は年明けから本格始動に入った。
2013年初春。

変革をアピールするためもあって、県警本部長や刑事部長クラスの大規模な人事異動も盛んに行われたことも世論の後押しとなり
封建的な思想を抱いた旧派閥も沈黙せざるを得ない状況が構築されつつある。
各改革委員は関係省庁との調整に奔走。
昨年暮れの警察不祥事をセンセーショナルに社会悪として警察の信用失墜を叩いていたマスコミも
やがて発起した新体制の奇抜さに目移りし、世論は次第に康寧へと向かっていた。

警察組織改革審議委員長に就任した室井の手腕には隙がなく、実績を外部から積み上げることで成果を強調。
室井・新城をツートップとした委員会の躍進は最早、社会的要人界に無視できないものとなっていた。


目指す新体制が確固なものとなり、改革もいよいよ佳境を迎えていたこの春。
沖田はとある決意をして、霞が関から一駅離れたガラス張りの喫茶店のテラスに座っていた。




滑る様に黒塗りの車がガーデンテラスの向こう側に停車する。

遠目にも分かる上質な黒のロングコート。
送迎の者と口を交わし、後ろ手で扉を閉めると、心持ち駆け足でこちらへと向かってきた。
沖田の眼が自然と釘付けになる。
一目で上流階級の人間だと分かる雰囲気は、身形の高貴さだけではない。


「すまない、少し手間取った。待たせたな」
「いいえ、久しぶりの余暇を満喫しておりましたわ」
「確かにそうだな・・・。こうも忙しいと茶を飲む暇も持てない。君にはいつも無理を言っている」
「とんでもありません。室井さんと新城さんのお役に立てるなんて光栄なんです私」
「そう言って貰えると・・・少し気が楽だ」


重そうに膨らむ黒のバッグを椅子に置き、室井が沖田の目の前に座る。
北風は冷たいが、春のような陽気が、テーブルの上に木漏れ日を揺らす。


「すっかり珈琲が冷めてしまったな。もう一杯頼まないか」
「お気遣いありがとうございます。でしたら・・・・今度はカフェオレを」


ウェイターを呼び、室井がブラックとカフェオレを注文する。

紳士的な振る舞いの仕草を、沖田は目に焼き付けるように見つめていた。
一ミリの隙もなく撫でつけられた頭髪から伸びる細長い首筋。
丁寧に締められたシルク・タイ。

まるでショーウィンドウのマネキンのような完璧さは、齢を重ねた重厚感に満ち溢れ、気圧される。
だが、女に慣れている訳ではないのだろう、二人きりとなったプライベートの空気をそれ以上演出することが出来ず
室井の視線が彷徨った。


「・・・、今日の打ち合わせは予定通り進んだ。来週からいよいよ実務レベルの調整に入れそうだ」
「おめでとうございます」
「君たちの努力の成果だ。あのレポートは好評だった」
「あら・・・」


平日だからだろうか、車の走行音が遠くに聞こえるくらいで、喫茶店も閑散とし、午前の時間が止まる。
ウェイターが品物を運んでくるまで二人は無言だった。
カチャリと陶器が触れ合う音がして、珈琲の湯気が白く空気に溶ける。

この微妙な空気と時間の妙味をもう少し楽しみたかったが、そわそわしている室井の心境を慮り、くすりと内心で微笑して、沖田は本題を切り出した。
鞄からシックなカラーでラッピングされた焦げ茶色のリボンの揺れる小さな箱を取り出し、それを、言葉を添えず、そっと室井の前に置く。


「・・・これは・・・」
「受け取って、頂けませんか?」


見ただけで何かが分からぬものではない。
中身ではなく真意を問うているのは明白だ。
沖田は大きく息を吸った。


「私、学生時代から言い寄られるばかりで、自分から男性の方に渡したことないんです」
「・・・!」


その一言で、仮に女性経験が少なくとも聡明な室井ならば、この箱の意味とその決意の重さが察せられただろう。
意味深にじっと丸い目で見つめれば、案の定、少し見開いた眼がじっと沖田を見つめ返していた。


今ならばと思えた。
室井に救われたあの日から、沖田の心は室井で占められている。

忠誠や尊敬といった社会的なものから徐々に甘い色の付いたものへと変化し、恋へと変わるのにそれほど時間は掛からなかった。
だが、告白した所で、手のかかる子供など受け容れて貰えるとは思わなかったし、沖田自身プライドが許さなかった。
だから時を待った。
じっくりと恋を熟成させるように、仕事で認めて貰った上で、女としての評価も貰えた上で、そこから自分を見染めて欲しかった。

尤も、恋などそんな悠長なことを言っている場合ではないことも、分かっていた。
だが、幸いにも、室井の周りに強敵となるライバルの影は見えなかった。

加え、室井の境遇も沖田の企みを憂慮させた。
身辺が慌しい間や、降格処分などの間は、男として矜持が保たれないだろう。現をぬかしている場合ではない筈だ。
そんな時に女などに言い寄られても、身勝手で空気の読めない女だと思われるだけだ。

いつか、時は満ちる。それまではお傍で仕えさせて貰おうと、尽力してきたつもりだった。



「人払いをしたのは、そのためか・・・・」


沖田は黙って頬笑み、そっと、ベージュのマニキュアが塗られた指をカップに添えた。
その指が、知らず震えていたことに気付く。
恋心が身体を震わせるなど、初めてのことで、むしろ、気持ちを知られたことより沖田はそちらの方に動揺した。


室井が一度堅く目を閉じ、肩で息を吸った。

端正で、美しいラインだと思う。
この男に、沖田はキャリア人生のほとんどを捧げてきた。


「職場の近くで・・・二人きりでお会いすることで、今の政治状況に思わぬ水を差すことは、本意ではありませんでした」
「そうか・・」
「先日もまた、お見合いをお断りになっていましたね・・・。まだ、余裕は無いとの言い訳をこの先もお使いになるおつもりですか?」


一時途絶えていた室井への縁談話は、此処の所また盛んになっていた。
適齢期を過ぎた経歴に傷もある男になど用はないが、将来警視総監のポストが現実的になってきたことで
警察機構自体が、要職に就く際には妻帯者であって欲しいとの思惑があからさまだ。


「こんな中年の男に用などないだろうにな・・・」

個人の魅力ではなく、家柄が結び付くのが、キャリアの結婚だ。
それを室井も分かってはいるのだろう、目の前で弁えたような笑みを覗かせた。
目尻に皺が寄るが、柔らかい砕けた表情。
沖田の眼がまた釘づけになる。


「いいえ・・・そのままで、とても魅力的です。その・・・、少なくとも、私の眼には」


言ってから、沖田は少し自分の目元に朱が差したことを感じ、俯いた。
室井の瞳に映っていることが、気恥ずかしい。
こんなこと、かつてのどんな男にも思わなかったのに。

本当に美しくて、だがどっしりとした男の貫禄がある。
見合いなど切欠に過ぎず、多くの女は、いずれ誰もがこの男に本気になっていくだろうと思えた。
室井も誠実な愛を返すだろう。


「君には幾らでも相手はいる筈だ」
「そんな――テキスト染みた答えはよしてください、貴方の・・・・言葉でお聞きしたいです」


ずっと、憧れ続けた男だった。
ようやく軌道に乗った改革に微力ながら参加できたことも、沖田にとって何の不満もない。
地味で寡黙な風貌ながら、身の内に抱える熱源のような意志や精神に、心から魅せられた。
内から浸み出る崇高な精神がその気高さを可能としているのだ。
そして、そこに時々垣間見える人への真摯な視点が、この上なく美しいと思えた。

成果を出しつつある状況、そしてその中枢に君臨する男。
だからこそ、今ならば、自分の気持ちを伝えられると思った。このタイミングだからこそ、言えると思えた。



「そう・・・・だな。君は見合い相手ではない。ならば・・・・聞いてくれ」

沖田が視線を上げる。
中央で、交差する。
それだけで、甘く、そしてほろ苦い。

今、自分の前にいるのは、上司の室井警視監ではなく、室井慎次という一人の男だ。


「気持ちは有り難い。だがこれは、受け取れない」
「・・・・・・、何故、ですか・・・」
「他に想う人がいる」
「!」


それは、想定外の答えだった。
室井の周りには女の影などなかったし、プライベートもここ一年・・・沖田が室井を見つめるようになってから数年、特定の相手とのデートらしき素振りを感 じ 取ったことはない。


「嘘・・・・、どなた・・・?」
「それは・・・・言えない。・・・が、私は他の人間を好きになることはもう出来ないと思う」


そう言って、室井は深々と頭を下げた。
その旋毛を沖田は虚ろな瞳で呆然と見つめる。

振られないと思っていた訳ではない。
だが、こんなにも明確に断られるとは思っていなかった。少なくとも、既に室井の心に誰かが居るだなんて想像していなかったというのが正解かもしれない。
心のどこかできっと期待していたのだ。

嫌われてはいない。
好かれていると思う。
ならば、そういう目で見て貰っていれば、いつかは。


現実を目の前にして、沖田の心は激しく揺れた。

共に仕事をしてきて、その中で通じあうものがあると思っていた。
信頼していたし、信頼されていたと思った。
そして芽生えた確かなものは、例え恋ではなかったとしても、二人を象る大事な欠片になっていくと思っていた。
なのに、室井にとって自分は、沖田が思うほど大事じゃない。
この恋を失っても、室井は痛み一つ、覚えない。

その差が、とてつもなく沖田を打ちのめす。


「お付き合い、されていたのですか・・・・?」
「それも・・・・答えられない。申し訳ない」
「チョコ、だけでも、貰って頂けませんか」
「これは・・・君の気持ちが詰まったものだろう・・・。そんな大切なものを、軽々しくなんか受け取れない」


冷たく突き放す言葉の裏に、室井の沖田に対しての尊重する想いが透けていた。
どこまでも、優しい人だ。
恋の痛みを初めて知る。
恋でこんな痛みを伴うことは、かつてなかったかもしれない。
想うだけでは叶わないものがあることを、初めて学ぶ。

恋は、方程式ではないのだ。
曖昧な答えなど導き出さない。


「残酷、です・・・」
「よく、言われる・・・」

その相手に、だろうか。


珈琲もカフェオレも、すっかりと冷めてしまっていた。



*:*:*:*:*


送迎の車は返してしまったので、タクシーを拾いにメインストリートまで歩く。

渡そうと思ったチョコは、まさかの結末で、再び沖田のバッグへと戻っていた。
もう一度、このバッグに戻すことになるなんて。
気持ちはともかく、チョコは受け取って貰えると思っていた。
まさか、手にも取ってくれない結末だなんて。

黙って一歩前を歩く背筋の美しい立ち姿を見る。

恋とは、こんなにも辛いものだっただろうか。
受け容れて貰えないことは、まるで自己否定されたかのような絶望感を抱かせる。
自分がひどく、価値の無いものに思えた。
幾ら学歴があったって、幾ら優秀な部下だって、幾らスタイルを磨いても、女を磨いても、愛しい男に見染めて貰わなければ何の意味もないのだ。
その、あまりにシンプルな恋の掟に、喉の奥が熱くなる。
今、自分が何に打ちのめされているのかさえ、明瞭ではなかった。


「すまない・・・・もっと、気の効いたことが言えれば良いのだが。この通り、私はつまらない男だ」
「そんな・・・・こと・・・」


否定しようとした言葉の語尾が冬風に消える。
メインストリートまでの細道は、寂びれた民家の隙間を縫う抜け道で、ひと気はまるでない。
生活の匂いのする洗濯物が揺れてはいるが、タンポポ色の日光が優しく降り注ぐだけだった。
まるで、世界がここだけ切り取られ、二人だけになったような錯覚を受ける。


「君に言わせてしまうまで、気付けなかった。私の落ち度だ」
「そんな――それは違います」
「敏感に人の心を察することが出来ない。朴念仁だ。警察官向きではないのかもしれない、が・・・」
「そんな・・・そんな風にご自分を責めないでください。そんなつもりで言ったんじゃありません私」


少しだけ振り返った室井の眼差しが、見たこともない数多の色を乗せている。
ハッとして沖田は瞳を潤ませた。

多分、これが、男としての室井の素顔なのだ。
初めて垣間見た枯れた雄の色気に、沖田は切ないくらいに胸が締め付けられた。

恋の告白は、相手の深部に触れられる。
成就するしないに関わらず、その本音が透けて見える。

だが、自分は、こんな室井を引き出したかったのだろうか。
自分の恋は、こんな顔しか引き出せないのだろうか。


「君を傷つけたかった訳ではない。君の気持ちも・・・・・信じ難いが、本当に嬉しく思う」
「信じても・・・?」
「ああ。・・・その、あまりモテた試しがないのでな」
「それは・・・・貴方に告白する勇気がないだけですよ・・・・」


室井が気付いていないだけで、彼はもっとモテていると沖田は思う。
給湯室や女子トイレなどの女性職員は、どうでもよい男の噂話などしない。
悪目立ちしている部分も含め、室井の気質に触れ、畏れている人間は男女問わす多いだろう。


どうだろうか・・・と地面に視線を落としながら、室井が小さく零す声が、風に乗って届く。
初春の木漏れ日が射す頭髪がキラキラと光を帯び、男らしい首筋に堅めの髪が丁寧に撫でつけられていた。
ゆっくりと歩みを進める背中は多くのものを背負い、だが、寄りかかるものを持たず、孤高に歩み続ける背中は寂れている。
冷徹な背中を見せながら、だが足を運ぶのは女の子速度だった。

嗚呼、この人は、自分の魅力に気付いていないのだ。
それどころではなかった人生だからかもしれないが、その恋の相手は、何も言わないのだろうか。
ということは、恐らく片恋なのだ。

そんな恋に、自分は負けるのだ。



沖田は黙って室井の後頭部を見つめた。
細い小道の角まで差しかかった時、指先で、室井の肘辺りをそっと摘む。
室井が歩みを止め、振り返る。

メインストリートの車の往来が、室井の向こう側に見えた。


「沖田くん?」
「一度だけ・・・・一度だけで、いいんです・・・せめて・・・・私に――」


その先は、言えなかった。
頭の中では不埒なことを捲るめく考えているのに、破廉恥だからというわけではなく、室井をこれ以上追い詰めそうで、言えなかった。


「チョコ、初めて買いました。世の女性たちが集う群れに入り込んでの争奪戦でした。欲しい男を射止めるために、ここまでするのかと」
「・・・・」
「貴方が・・・、貴方がどれだけ素敵か、そのお相手の方が言わないのであれば、私が幾らでも言います。何度でも言いますから。ですからもっと自信を持って ください」


この男に抱かれたいと思った。
身も心も、貪るように奪われたい。
あられもない体位で組み敷かれ、泣き喚くほどの悦楽を憶えさせられ、その長い指先で弄られ、熱く貫かれたい。
この清廉な顔が、どう野生の雄に変貌するのか、その境目を見てみたいと思った。

一朝一夕で育てた感情ではない。
この男には、女にそこまでさせるだけの価値があるのだ。


もし、私の想いが彼の勇気の欠片になるのなら。
例えこの想いが実らなくても、愛した時間を無駄にはしたくない。
この想いを私が抱いたことで、この男がほんの少しでも自分の魅力に自信を持ち、男としても前を向けるなら。



「私の気持ちまで否定なさらないでください。私は、貴方を選んだんです」
「君、こそ・・・・。その気になれば高根の花だろうに」
「私は貴方を見つめて参りました。初めて仕事でお会いした時から、ずっとお慕い申し上げてきました」


思わず室井の袖を掴む指先に力が籠もる。
お願い、届いて。


「何故そのような恋を?貴方の魅力を目減りさせる恋に、何の価値がお有りなのですか?私でしたらそんな顔させませんっ」
「沖田くん・・・」
「私の告白が貴方の自信に付与されるのであれば、何度だって伝えます。迷惑だと言われても気持ちは変わりません。好きです。本当に好きです。私、貴方のこ とが 好――」


風のように音も無く目の前の黒っぽい布地が近付き、肩からグイッと引き寄せられた。
あっと思った時には室井の腕の中に浚われていて、抱き締められているのだと理解した。


「すまない・・・・これで、勘弁してくれ・・・」


肩に顔を埋め、男の力で抱きすくめられる。
耳元に室井の吐息のような哀願が聞こえ、腰に腕が回された。
密着する厚い胸板の中でいつも嗅いでる室井の匂いが鼻孔を吐き、酩酊感が襲う。
あまりに苛烈な白い世界の中で、これで、終わりなのだと理解する。

視界が滲み、世界が真っ白に侵食していた。




*:*:*:*:*


「先に乗りなさい」
「・・ぁ・・・、室井、さん・・・」

タクシーのドアにそっと押し込められる。
沖田は何も言わずにただ捨てられた子供のように後ろに立つ男を見上げた。


男に甘え、縋るようなみっともない姿は、室井には見せたくなかった。
恋も仕事も、性ではなく対等な人間として成していきたいと思っていた。

なのに、子供のように駄々を捏ね、無我夢中でおもちゃを手に入れたい子供のように、諦めたくない。
頑是なく泣きじゃくり、嫌だと喚きたい。
感情が制御出来ない。

恋に狂わされる。
こんな恋など、したことなかった。


まだ、室井の匂いも体温も、残り香が沖田の息を途切れさせる。
こんなにも室井で満たされて、この恋を終わらせるだなんて――

「・・・っ、」


暫く見つめ合い、やがて、沖田は渾身の力で喉に力を入れた。
自分のためじゃない、室井にこれ以上背負わせないためだ。

ここが、私達の境界線なのだ。
そしてそれは、越えることの出来なかった壁だ。
触れ合いそうな体温がそこにあるのに、でも、もう一生交わらない。

私の恋は、彼の一欠片にはなっただろうか。


「・・・、各省庁への実務提案プランの作成に取り掛かります」

涙声は、春風に揺れて散った。

今だけは許して欲しい。
本庁で再会した後は、元の強気なキャリア官僚に戻るから。

それを分かっているかのように、室井が小さく頷いた。

バタンと扉が自動で締まる。
滑るように車が走りだした。


流れる景色を漫然と瞳に映しながら、ふと室井の様々な顔が過ぎっていく。
余り表情の長けた男ではなかったが、共に過ごす中で色々な表情を見た。
でも、さっき見せた顔が、その中でも極上だった。

これが、恋の醍醐味だ。
きっと私は、初めて本当の意味で、恋をした。



鞄の中から行き場を失くしたチョコを取り出す。

まるで、自分の気持ちそのものだ。
世の女の子は、チョコに自分の想いを託すのだ。
その意味を、今、痛切に理解する。


ビリビリと音を立て包装を破り、宝石箱のように並んだ中から一つチョコを摘む。
大人の女を意識して買ったビターチョコは、フランス高級ブランドだ。


口に入れる。

「にが・・ぃ・・・・」
20160201













02.バレンタイン代行人
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軽快なメロディが鳴り、うつ伏せでベッドの上で雑誌を読んでいたすみれは、葡萄色の飴玉をひとつ摘んだまま横目を向けた。
受信画面に表示された、もう見飽きるほど覚えてしまったその番号に、大きく溜息を吐く。

毎晩決まった時間になると掛かってくる。
もう掛けて来ないでと突っぱねた年末にケータイを処分し、それまでの繋がりを全て絶った。
そうしたら家電に掛けてくるから、また番号を教える羽目になった。
恙無い奇妙な数分の、東京の空気を意識して終わるその電話が、いつしか日常になり、すみれの生活に組み込まれてきた頃。
昨日は強く言い合いをしてしまったから、今夜はもう掛かって来ないと思っていた。


暫く受信画面を見ていたが、切れる様子は無く、機械的なメロディが繰り返し奏でられている。

中々に、手強い相手である。
頑固なのは眉間だけにしてほしい。

カランと葡萄大の葡萄の飴玉を口に放り込んだ。
ころころと口の中で転がしながら、スマホを耳に当てる。


『昨日の今日でよく掛けて来れたわね!そのしつこさにはホント頭が下がるわ!』
『え?えぇ?何が?・・・ってか元気じゃん』
『え・・っ?・・・青島くん・・・?』
『・・・・うん。ひさしぶり』

驚きで言葉が続かない。

『俺のこと忘れちゃった?』
『な、な・・・っ、何で青島くんが室井さんのスマホから掛けてくるのよ!』
『え、だって俺、番号知らないし』
『そゆことじゃなく・・・ッ』


昨年末の大騒動の折り、入院していた病院から、すみれは忽然と姿を消した。
誰にも何も告げずに東京を去り、当初の予定通り大分に帰った。
それ以来の、声だった。

何も言わずに、消えた自分を、青島はどう思ったのだろう。
すみれは続ける言葉を失い、そこから先を押し黙った。

微妙な空気が流れる。


『ちょ・・っ、イタ・・っ、なにす・・・・わかってますってば・・、だからッ、も、ちょっと黙ってて下さいよ・・ッ』
『・・・・』

電話口の向こうで、何やら押し問答が聞こえる。
微かに聞こえるもう一つの声は、ここ数カ月で聞きなれてしまった男の声だ。


『えと・・・、すみれさん』
『・・・なに』
『東京観光しない?』
『・・・・・・バカなの?』
『えー、割と本気』
『どこ連れ回す気よ』
『お台場?』
『絶・対・嫌。それにあたし、青島くんより詳しいと思うわ』
『だよね~。じゃー無難に定番デートコースかな?』
『どこよ』
『それは来てのお楽しみ?』
『そんな怪しげなプランに乗る女の子がいると思う?』
『あはは~容赦ないね~』


警察を辞めたことを、青島には告げなかった。
もうとっくに耳に入っている筈なのに、それを敢えて避けているのは、お互いなのだろう。
いつも一歩が踏み込めない。だけど踏み込まないその距離感が、二人の尊重でもあり、二人だけの世界だった。
相談も、事前通知もしなかった薄情な女に、彼は何を思ったか、知るのはちょっとしたホラーだ。


『・・・本題、何?』
『え?デートのお誘いだけど?』
『本気なの?』
『うん。すみれさん、東京出ておいでよ。久しぶりにさ』
『遠すぎて面倒くさいわ』
『国内で何を言う。そんな気負わないで・・・気分転換?・・・俺、普通に楽しいデートコースを演出してあげられると思う よ』
『・・・・・』
『それでも嫌?』

お誘いを乗せる甘い声のトーンは、あの頃と何ら変わりは無く耳朶を擽る。

『・・・・室井さんの策略?』
『ん~・・・半分YESで半分NO』
『・・・なにそれ』
『室井さんに泣き付かれたのはホントウだけど、それは切欠。デートは本当に俺の提案』


イテッとか、何すんのとか、何やら楽しげな東京の変わらぬ空気が800キロを越えてそこにある。
彼の気遣わせない気遣いは、何も変わらない。


『ね。出ておいで』





*:*:*:*:*


「お疲れさまっ」

三日後。すみれは羽田に降り立った。
散々見慣れたモスグリーンのコートに両手を差し込み、青島が満面の笑顔ですみれに向かって飛んでくる。
文字通り、ぴょこんと跳ねて、両足で正面に着地した。


「お出迎えご苦労さま」
「言う言う」


憎まれ口を叩いても、目の前でけらけら笑っている。それが青島なりの優しさだと言うことは、長い積み上げた時間が理解させる。
すみれも小さく肩を竦め、じっと見上げた。

電話の翌日、速達で送られてきた航空切符はビジネス指定で、差出人の名すらなかった。
手紙もメモもない切符だけが入っている素気なさが、その手配主をあの朴念仁だと表わしていた。


「髪切ったんだね。なんか出会った頃みたい」
「若造りって言いたいの?」
「可愛いなって言ってんの」
「その記憶は上書きしていいわ」
「嬉しいくせに」

二人の立つ発着ロビーは丁度ガラス張りで、真っ青な空の蒼さが向き合う二人のシルエットも蒼く染め上げる。

「行きたいとこの希望は相変わらずなしですか、お嬢さん?」
「任せるわ」
「えーと、じゃあ横浜とか行っちゃう?」
「東京観光じゃなかったの?でも海は嫌。・・・見たくない」
「なら陸だね。・・・・・えーっと」


そう言って青島の視線が明後日の方へと向かい、なにやら思案する顔に変わった。

非番だからだろうか、ネクタイは着けていなく、ジーパンに綿シャツ、ジャケットというスタイルが妙に若い。
少しこっくりしたカラーで統一された全身は、スラリとした長身を引き立て、洗いざらしの淡い髪が空調にふわふわしていた。

青島くんだなぁと、漠然と思う。
まるで時が戻ったかのように、何も変わらない彼が目の前に居る。
時が終わり、途切れたのは、すみれの中だけで、こうして終わらせない悪夢は、預かり知らぬ所で未だ引き継がれているのだ。

じっと青島を見上げていたすみれの顔が、分からない変化で哀惜に歪んだ。


「っと、じゃあまず、腹ごしらえしない?銀座でランチしようよ」
「分かった。当然――」
「奢りです」




久しぶりの東京が始まった。

青島に連れ回されて廻った東京デートは、意外にも楽しめた。
銀座でフレンチのランチコースを楽しんだ後、軽くウィンドゥショッピングしながら地下鉄へ。
増上寺で御守りとおみくじで戯れ、東京タワーの展望台に登って、二人で妙にはしゃいだ。

一番驚いたのが、青島が職場の同僚でなく本当に一人の男性として、すみれを女性扱いしてくれていたことだった。
湾岸署に居た頃とはまるで違う話題を振ってくる。
嗅ぎ慣れない仄かなパルファム、寄り添う距離感、会話の途中で向けられる視線のタイミング。
デート中のさり気ないエスコートも極自然で、レディファーストな立ち位置から、休憩のタイミングまで、実にスムーズだった。
人混みを避けたプランであることも、その心遣いがまるで知らない男の人に見えた。

きっと、これがプライベートの彼なのだ。
二人の間は何も変わっていないようで、やっぱり何かが変わっている。
でも、途切れた時を、彼は無闇に繋いでこようとはしない。
その優しさが、今は有り難かった。



タクシーで表参道に出て、オープンテラスのカフェでお茶をする。

この辺のお店はどこも、芸能人なども利用するちょっとリッチでステータスが異なる。
エクステリアまで凝った店装は、スタイリッシュな家具が特徴的で、それだけで気分は開放的であった。
表通りからちょっと入ったロケーションも自然光が眩しく、ゆったりとした贅沢な時間が流れているのを肌で感じる。
よくこんなお洒落なお店を知っていたわねと揄えば、昔のデートプランだと白状する。
そのはにかんだ笑顔が、太陽に蕩けた。


「疲れた?」
「んん、辛いかなと思ってたんだけど、楽し過ぎてて忘れてた」
「そりゃ良かった」


ワッフルに生クリームとフルーツが色とりどりにデコレートされた皿が、目の前に置かれる。
チョコレートソースで抽象画のように皿が描かれたデコレーションプレートで、シーズンだからだろうか、ハートマークも描かれていた。
盛りつけのセンスまで、お洒落だ。
思わず感嘆の声を上げて目を輝かせていると、そんなすみれの顔を青島が頬杖を付きながら首を傾けて目を細めていた。


「・・・・はしゃぎすぎ?」
「んーん、元気だなーって」


〝元気〟の意味を悟り、すみれは口を噤む。

開放的なテラス。可愛い料理。洒落た街・・・今、このシチュエーションが全て、青島に因って仕組まれた舞台であることに少し肌が栗立った。
ドクリと心臓が早鐘を打ち、本題に入るタイミングを切り出されたことを推察する。
その、あまりにも手慣れた段取りと自然さに、すみれはハメられた悔しさよりもやられたという称賛の方を強く募らせた。
気負っていた力が、自然と抜ける。


「・・・まぁね。今日まだ痛み止め効いてるし」
「・・・、すみれさん、今何してんの?」
「ニート」

ワッフルにクリームをたっぷり乗せて頬ばりながら、視線を送ると、青島は脱力したように笑った。

「俺も昔一度やったけど、あの悪いことしているような、自由すぎるような、なんとも言えない感覚が味だよな~。漫喫とかネカフェも通ったなぁ・・・」
「青島くんの趣味の原点ってそこなの?」
「モデルガンとミリタリーは高校。時計は社会人」
「良いご身分ね」
「楽しまないと。・・・・すみれさんは?」
「あたしは楽しいんだけど、近所の視線が面倒で外には出てないわ」
「ああ、実家だとね~」
「・・ね、まだるっこしいことは嫌いなの。言っていいわよ」
「んじゃ、はっきり言うよ。・・・すみれさん、戻ってきなよ」


てっきり、言わずに去ったことを責められるのかと思っていたすみれは、表情を無くした。
雑談の延長で軽く投げられた言葉は、他愛なさを装いながらも、含む意味は重い。

すみれの変化を認めた青島が、頬杖を付いたまま、片手ですみれの皿からラズベリーを一つ摘んで口に入れる。


「・・・どこによ?」
「警察に」
「辞表を出したのよ。聞いたでしょ」
「その辞表、室井さんとこで、止まってる・・・・。魚住さん、泣いてたよ」

ワッフルにフォークとナイフを突き立て、一口サイズに切り分ける。

「それで?同情させて戻れって言うの?」
「そこまで刹那的じゃない」
「目的は何?」
「俺たちの目的は、あくまですみれさんだよ」


俺たち、と言った。
やはりこの件の裏には室井が絡み、何かの計画が進行しているのだ。
もう、うんざりだった。


「室井さんに何を言われたの?大喧嘩したことも、知っているんでしょ」
「ああ、うん、聞いたよ。埒が明かなくなったって俺ンとこに連絡が来た。・・・・びっくりしたよ、あのひと、すみれさんを戻そうと努力してたんだね・・・ ずっと」
「ただの自己欺瞞でしょ」
「でも俺は行けなかったよ・・・」


顔を上げる。

少し俯き加減の青島の顔が歪んでいて、その声は木漏れ日の中、陰りを帯びた。
テーブルに投げられたその瞳は光の関係でプリズムのように揺れ、不思議な色を宿し、その真意を悟らせない。
不意に見知らぬ男にすり替わったように思え、すみれは息を止めた。
無造作に開けられた首筋から覗く、喉仏と鎖骨が、男を意識させる。

目のやり場に彷徨い、すみれの視線は再びワッフルに落ちる。


「すみれさんに何も言わずに消えられて、俺、どうしていいか何も分からなくなった。相談も貰えなかったってことが、どういう意味だったのかも。・・・あんなに傍 にいたのに」
「それは・・・・タイミングの問題よ」
「ずっと傍に居たのも、一番近くに居たのも、俺だったのに、・・・独りで悩ませたのも、俺だったね」
「それは――」
「誰より分かって上げられる筈の立場にいながら、すみれさんにとって支えられるだけの人間じゃなかった、そうなれなかったんだ」
「それは違うわ!」


声が少し大きくなり、周囲の視線が注がれる。慌ててカップを口にした。
ローズヒップティーの甘い香りがすみれを包む。


「青島くんだから、言えなかったのよ」
「うん・・・、肩の怪我のこと、痛そうにしているの、俺見てたんだ。でも、隠したい気持ちも、分かった。俺がそうだから・・・」
「だからよ。だから言えなかったの」
「うん・・・そうなんだろうなって・・・置いていかれてから気付いたよ、全部。俺もきっと同じこと思う」
「・・・・」
「そうだろ?爆弾なんか抱えていないままの身体で同じ視点で歩 いていきたかったって」


添えてあるブルーベリーをフォークで掬う。
フルーツの酸味が、口に広がる。


「幻想よね。歳だって取っていくんだしさ。身体はいずれ、付いていかなくなるわ・・・・和久さんも腰が痛いってずっと言ってたね」
「言ってたね・・・それでも、立派な刑事だったと思わない?」
「・・・・思うわ」


短い時の中で共有した確かな時間が蘇る。

あの日のあたしたちは、確かに未熟で、でも懸命だった。
前だけ見て、ここにこそ永遠があるのだと幻想を抱いていた。
ずっと、このままが続くような。・・・そういうの、ピーターパン症候群っていうんだっけ。
何より確かな記憶は今も胸の裡で疼いていて、熱く輪郭を縁取っていく。

だけど、それはもう、過去の産物と成り果てた。

捕り損なった幸せは、あたしには荷が重すぎた。
息苦しさに追い詰められたあの場所は、とても窮屈だった。


「俺だけが、分かってやれる筈だったのに、カッコ付けて逃げてたのは俺の方だ。・・・ごめん」
「謝らないで。あたしも言わなかった。お互いさまよ」
「でも、現実を見ている人もいる。・・・すみれさん、タイムリミットだ。俺たちのその先を続けている人がいる」
「・・・・」


青島の、目の色が変わった。
これは良く知っている。大好きで、憧れて、魅せられてきた、あの眼差しだ。
ヒュっと息を呑む。


「室井さんが動いている。その意味、分かるよね?」
「・・・頼んだ覚えはないわ」

悪夢は終わらせてくれない。
すみれの預かり知らぬ所で、こうして脅かしてくるその悪夢の続きを、東京に来て改めて肌に感じた。


ふぅ、と吐く息に重さを乗せながら、視線を伏せた青島が言葉を続ける。

「室井さんが連絡取っているって聞いたとき、俺、ヤられたって思ったよ。どうして先手を打たせたんだろうって・・・・悔しかった」
「なにそれ?」
「だって、俺を出し抜いて、俺たちの仲を――。・・・いや、でも、俺だからこそ行けないだろうとあのひとは踏んだんだろうけど」
「・・・・」
「軽く見られたようにも思ったし、すみれさんと俺が護ってきたものを、穢されたようにも思った。・・・それこそ、幻想を」
「・・・・嫉妬?」
「嫉妬だよ」


眉根を少し寄せ、飴色の瞳を真っ直ぐにすみれに向け、口唇を尖らせて不貞腐れたように青島が言い捨てる。

言い切る青島の眼は真剣で、逸らさせては貰えなかった。
とても眩しくて鋭い視線で、その世界の中心に居た彼が、そのままの強さですみれを捕える。
息が、詰まる。

もう解放してほしいのに。
何でみんな、あたしが護ろうとした硝子の欠片を、挙って壊そうとするの。
この想いも願いも、ただそれだけのために、あの日一緒に捨てた残骸だ。


小枝を鳴らし風が吹き、すみれのフェイスラインで揃えた髪を散らした。視界を都合良く隠してくれる。
少し頬が火照った気がして、掴んでいたフォークを握り締める。


「・・・・どっちに?」
「話の流れで分かるでしょ」
「どうかしら?青島くんは室井さんに盲信的なとこあるからな。・・・彼への対抗心じゃないの。置いて行かれないように」
「・・・鋭いね」
「一応この間まで刑事だったのあたし」
「そりゃ失敬」


ぱくりとまた、ワッフルを口に入れる。
焼き立ての生地はサクサクとした歯ごたえも楽しませる。クリームの甘さが口いっぱいに広がった。

未だ、幻想と称する世界で生き続けられる彼が眩しい。
白地テーブルを挟む僅か数十センチ先に見えない壁がある。
だけど今、向き合おうとしてくる彼は、かつてのどんな時よりも、近く感じた。

こんな風に今になって近くなるなんて、残酷だと思う。
あの頃のあたしには、どんなに欲しがっても与えられなかったのに。

嫉妬しているのは、自分の方だったと不意に気付いた。


「ねぇ、このプランの勝者は誰なの。青島くんのメリットは何?」
「ん~、オトコのプライド?」
「どこがゴール?」
「すみれさんを戻せば俺らの勝ち」
「あたしの利得がどうして青島くんの勝利になるの」
「一応、得になるって認識はあるのね」
「でも喧嘩したわ」
「はは、聞いた。・・・頭ごなしに戻れって言われて、カチンと来たって?」
「そうよ、アイツ、あたしに〝いい加減逃げるのはよせ〟って言ったのよ!死刑もんよ!」
「確かに!」


春も浅い陽射しの中で、青島が声を立てて笑った。
無邪気で無垢なその顔は、童顔なこともあって幼く見させるが、果たして彼は今年幾つになったんだったっけ?
こんな顔を、ずっと傍で見ていたんだなぁと、思いを馳せる。
ずっと、見ていたかった。誰よりも近くで。

妬いている。でも誰に?室井さんに?それとも、昔の自分に?
散在する自分の心に急速に酩酊感が襲い、すみれは息を絶えるように視界を閉ざした。


一頻り笑った後、青島が珈琲を口に運び、それから空に視線を投げて、大きく息を吸った。

「いいか?良く聞いて、すみれさん」
「何・・・」
「さっきも言ったように、すみれさんの辞表は正確には受理されていない。現在は三ヶ月の停職処分という名目の休職扱いだ」
「・・・え?」
「あの事件ですみれさんがしたことの処分にしては、これでも軽めに設定してある」
「器物破損ね・・・」
「バスと倉庫の破壊は流石にマスコミにも世間にもバレバレだから、警察としても何らかの対応をしないわけにはいかないんだ」
「・・・・・」
「助けられた俺がこんなこというのは生意気かもしれないけど・・・。だから、俺のことは軽蔑してもいい、けど」

青島の瞳が深く濃く艶めく。

「分かってやって。戻る戻らないはともかく、すみれさんが納得しないと室井さんの今の政治に水を差すことになる」
「っ!」


警察組織改革審議委員長に就任した室井の動向は、こんな地方に居ても耳に届いていた。
特に、実績を外部へ見せ付けることで世論を味方に付け成果を上げている室井の手腕は、殊更あの事件に対する鋭い世間の関心を持って結審を待っていた。
そのケジメには、確かな誠実さが求められるだろう。
今、多くの者の目が注目している。
身内贔屓が根源であるこの事件の完全なる清算は、旧体制からの脱却を示す、モデルケースともなりえる。


「あたしまで利用するつもりなのね」
「きっと、すみれさんはそう言うだろうって、言ってた。その時は自分を悪者にして良いから説得させて来いって言われてる」
「・・・ムカツくわ」
「室井さんも、戻ってきて欲しいんだよ。すみれさんをこういう形で失うことに、悔しがっているんだよ」
「仕事の出来ない人間は切るべきでしょう。そうゆう所から足元掬われるのよ、あの男は」


フッと大人びた笑みを見せ、青島が身体を戻した。
もう、さっき見せた子供のような貌ではない。
そのコケティッシュな変化にドキリと魅入られる。呑み込まれる。

いつだってこうして青島の造り出す世界に魅せられて、溺れさせられてきたのだ。
追いかけるのに必死だった。狂おしいまでの灼熱は届きはしなかった。
あの頃難しかった我儘は、今はこんなにも簡単に許される。

なんて人生は残酷なのだろう。

青島の飴色の瞳に、自分が映り込んでいるのが見えた。
狡い、と思う。
震える指先が届かなかったあの頃、決して見せてくれなかったその隙のある瞳は、いつも空を見上げていて
あたしがあたしで居られなくなった今、数十センチその先で、透明な瞳にあたしを映している。

あの頃届かせてくれなかった指先は、今伸ばせば届くのだろうか。


「謹慎処分は春には解ける。そうしたら次は免許センターに異動ってことになっている」
「何もかもレールの上なのね」
「そこに最低三ヶ月。その後は交番勤務か事務員を経て、希望所轄に・・・って流れだけど、事務や経理なんかの外回りのない仕事で留まるのもありって話だ」
「・・・・」
「・・・どう?プライド、傷ついた?」
「・・・・え?」


いきなり突き付けられた未来図に呑まれ、思いもしなかった質問に反応が遅れた。
漫然とした瞳を向けると、青島はひっそりと笑って見せた。
珈琲の上にこんもりと乗っていた生クリームが付いた親指をペロリと紅い舌で舐めてから、添えられているシナモン・スティックで珈琲を掻き回す。


「普通、これまでとは違う仕事を命じられたら、直結するのはそれまでの評価の下落。大抵の人間はプライドが傷つく。そこに信念を持って働いていた人間な ら、尚更だ」
「・・・ああ、そうね」
「だから俺も、この計画を聞いた時は、室井さんに噛みついた」
「ええっ?」
「今日だって、まだ言うかどうか迷ってた。でも、すみれさんの顔みて、言うことにした。だって俺、まだ信じられると思ったから」
「・・・・何?」
「アイシテルって言ったじゃない」
「・・ぇ・・・」
「この仕事、愛してるって言ってた。その愛が、盗犯係だけを指しているのなら、この話は俺で止めて、持ち帰るつもりだった」
「・・・・」
「あの時の言葉、変わってないんでしょ?すみれさんが愛しているのは場所じゃなくて、人だろ。刑事っていう全てのものだったんじゃないの?」


自分の気持ちを把握していなかった訳じゃない。
でも、彼が、何かを掬いあげてくれた気がした。

指先が止まる。
風も止まる。


「行ってやりなよ」
「・・・え?」
「あのひと、待ってるよ。すみれさんの答え。・・・この時間なら今日はまだ本庁に居るから」
「ッ!」


だからこその、この立地だったことにも合点が行き、すみれは目を丸くした。
ここからなら、霞が関はタクシーで直ぐだ。
散々ランダムに連れ回しているようで、さり気なく六本木も台場も新橋も避けているようなデートプランで、いつの間にか彼らの手の平に入り込んでいる。
すみれが過去を彷彿とさせたり、心を痛めるような土地は一切見せないで、でもいつの間にか彼らのテリトリーに誘い込まれた。


すみれの声が震えて風に流れる。

「あたし、終わらせたのよ」
「きっと、護ったんだ」
「大切だったもの、みんな捨てたわ」
「終わらせる勇気があるなら、始まらせる勇気も出せるよ、時が満ちた時に」
「この仕事が・・・っ、あたしを追い詰めるのよッ、もう知りたくないのッ」
「仕事に完璧を求めることと、自分に完璧を求めることを一緒にしちゃだめだろ」
「だからじゃない・・・ッ」


言葉が、繋げなかった。
どうして人は肝心なことは何も伝わらないのに、過ごした時間の長さは確かなものを曝けてしまうのだろう。
何で青島くんには、こんなにも人の柔い脆さが分かるのだろう。

あの日、身を切る思いで閉じ込めたものが熱を持つ。

こういう人に、あたしは成りたかったんじゃないの?
キャリアとして最前線で世界を動かすのでもなく、刑事として事件の渦中で走りまわるのでもなく、室井と青島が目指した双頭の約束の、青島側が示す、人に寄 り添う世界。

大好きだった。大切だった。だから、自分で穢さない内に閉じ込めた。
閉じ込め、断ち切ることで、護ったものがある。
その必死の想いを、皆が挙って手垢を付けさせる。
宝石のように大切な時間だからこそ、惨めに穢す自分を切り落としたのに。

あなたの隣に立てるあたしでありたかったのに。
「それを許さなかったのは、あたしじゃないわ」
「だから俺がいるんだと思えない?」

――ああそうだ。彼はこうやって、身を賭して他人を掬いあげてしまうのだ。

その強さが持てなかったあたしの前で、あたしを甘えるだけの女にして。
結局、戦えない自分に何の価値もないのに、運命はあたしを解放しない。
これで飛べたと思ったのに、こうして未だ同じ場所に居るあたしは、護りたいものも護り切れなかったのだろう。
それは、仕事の好みとか信念とか、理性で象るファクターとは全く違う所で、尚あたしを縛り付ける。
苦しい。苦しくて一歩も動けない。



すみれは縋るような細い視線で青島を見つめ返した。
頬杖を付いてコテンと首を傾ける青島の、色素の薄い髪が、冬風にキラキラ光る。

「・・・っ」

甘い胸の疼きが、すみれの呼吸を止めさせた。

あの頃ずっと二人の間にあった透明な壁は、それでも二人を透かしていて、そして今、消えていく。
今、自分たちは同じ目線でいると思った。

すみれの殻を破るのは、いつだって青島だった。やっぱり、青島なのだ。
人は人に触れて動き出す。
なんて人生は残酷で皮肉で、でもちょっぴりの切なさを含むんだろう。


今なら届きそうな指先を、すみれはスカートの裾を握って力を込めた。

「大丈夫。何も怖がることなんかない」
「あの男に敷かれたレールの上で踊ってみせろっていうの・・・」
「辞表が受理されてないこと知らなかったってことは、失業保険の退職票、申請してないんだろ。まだ迷っていたんじゃないの」
「・・・違うわ」
「仕事、好きなんでしょ」
「・・・ッ、だけど」
「行けって」
「・・・青島くん」
「行って、未来を掴んでこい」


ぶわっと、何かが腹の奥から満ち溢れてくるような気がした。
その熱い脈動が、指先まで浸み渡る。


「・・・ッ、ごめん、青島くん、ごめん、あたし・・・・ッ」
「いいから。早く」
「うん、ごめん・・・・・、ごめんね・・・っ」


ショルダーバッグを引っかけ、スカートを翻す。
その鞄の重量に、ようやく思い出したことがあって手を突っ込んだ。
小さなラッピングされた箱を取り出し、青島の目の前へ突き付ける。
桜色の爪先が、小刻みに震えているのが目の縁に入った。


「これ・・・っ、受け取りなさいよ・・っ」
「うぇっ?」
「ほらっ」
「あ、はい・・・」

条件反射のように出てきた手に、押し付ける。

「今日のお礼!」


きょとんとしている青島を尻目に、勢い良く歩道に走りだした。

後ろ髪が引かれ、何度も何度も振り返る。
彼を置き去りにしたのは自分なのに、なのに今、彼を一人残していくことが、またしてもこんなに胸を締め付けられる。

振り返るすみれに、その度に青島は手を振って見せた。


温かいものに包まれる。
何も出来ない自分を、何も出来ないままに包んでくれている人がいる。
今はまだ、それに応える術を持たないけれど。
あたしには彼の傷を救うことも、出来ないんだけど。


「青島・・、くん・・・っ」

涙が溢れて、世界が蕩けていく。
手の甲で口元を押さえて走った。
彼の思いも、優しさも、何もかもが、温かい。
温かさだけを選んで与えてくれたその翼が、甘えるのが下手なあたしを宙へ持ち上げる。

申し訳なくて諦めた未来に、ちゃんと責めて叱ってくれた人がいた。
個人の意志尊重とかではなく、護りたかったものを分かってくれてた人がいた。
終わらせることで護ったちっぽけなあたしを、青島くんは見つけてくれていた。

受け容れられることは、諸刃の剣だ。甘さも苦さも同居する。
でも今もう一度この底辺で、駄目なままでいいのなら。社会に受け容れて貰える本当の意味は、出た人間にしか分からない。

青島くんも、こんな気持ちであの最初の日、湾岸署に来たんだろうか。


「・・・ふ・・ッ、っく、・・・あ、おしまくん・・・っ」

青島くん。青島くん。あたしも、言わなくてごめん。いっぱいごめんなさい。
何も言えない意地っ張りで、ごめん。
いつか、言うから。必ず、伝えるから。その時は、この溢れる想いを貴方に告げてもいいですか。

ありがとう。ありがとうっ。




*:*:*:*:*


小さくなっていく白いフードが揺れるダッフルコートを、見えなくなるまで青島は見送っていた。

どんどん遠くなる影。
もう届かない。


出遅れた時点で、俺は負けているんだろう。
言って貰えなかったことも含め、俺たちのフィナーレは出会った日に決まっていた。
永遠に越えられない境がある。
幻想を見ていた男には幻想に生きるのが相応しい。現実を見ていた男が現実を手に入れる横で。

俺は、何を失ったんだろうか。
友人か、同僚か、仲間か、上司か。それとも――恋心なのか。


あまり一度に情報を与え、混乱させたくなかったから敢えて触れなかったことがある。
室井とすみれが見合いを設けたことも、真下から聞きだし、知っていた。
断ったという話だった。だが、その時すみれは既に進退の結論を出していた。

辞めてから連日親身に連絡を取り続け、自分を導き続けた室井に、何の感情も抱かない方が可笑しい。
必死に繋ぎ止めた、室井もだ。
そんな二人を今引き合わせれば、どんな化学反応が引き出されるか。検証するまでもない気がした。

俺は一体どっちを失くしたくないんだろう。




手作りと分かる茶色の包装紙と焦げ茶色のテープリボンが北風に揺れていた。
手元に残されたのは小箱一つ。

そっとリボンを解く。
中にはやっぱり手作りと思われるチョコレートトリュフが4つ並んでいた。
その一つを摘む。


口に入れる。

「・・・、甘い、や・・・」
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03.渡し逃げ
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促されたその扉を潜ると、全面ガラスの向こう側に緊張感のない笑顔でちょこんと座っている青島の姿があった。
顎を上げ気味に、頬杖を付き、嬉しそうにも見える視線で手を振ってみせる。

正面の椅子に無言で座った。


「お久しぶりですね、補佐官っ」
「その役職はもう解かれましたが」
「じゃー鳥飼刑事」
「辞表、受理されたの御存知でしょう」
「・・・ぅ、なら・・・・鳥飼、さん」


中々話を進められない皮肉にも動じず、伺う視線を滲ませ、青島が口唇を尖らせる。

見慣れたモッズコートからちょこんと覗く指は丸く、フェイスラインに沿って絆創膏が貼られている姿は
まるで、やんちゃな悪ガキのような幼さを感じ、鳥飼は不思議な感覚に包まれた。
青島と向き合う時はいつもそうで、日常の中の常識だとか通念だとかが、崩される。
刑事でもない、同年代でもない、同じキャリアですらなかった彼と、奇縁から今こうして向き合うのは、一体何の運なのだろう。


「今日は何しにここへ?」
「・・・元気かなーって」
「元気に決まっているでしょう?閉鎖空間で一体何が起こると期待してるんですか?」
「えー?アクシデント待つような男に見えます?」
「少なくとも起こす方でしょうね」
「鳥飼・・・さん、が、俺に聞きたいことがあるんじゃないかなーっと、思ってね」


拘置所に移されてから、鳥飼に面会に来た者はいない。
離散した姉家族も両親も、今はどうなっているのか担当弁護士は教えてはくれなかった。無事だとの一言だった。
鳥飼自身それ以上聞くつもりはなかった。

加害者家族の現実は厳しい。
鳥飼の行為に多少なりとも同情的なシンパシーを抱いた支援団体も、サポートを含めた協力をしてくれているとは聞いているが
裁判に影響力を持たせるものではないし、家族を護れるだけの力もないだろう。

子供を道連れにしようとした代償は重く、世間の反感は多大だった。
クーデターを成功させるためには、社会の目をあらゆる意味で引く必要があった。そうでなければ、仕掛けた意味がなかった。
その意味で、未成年者への攻撃は効果的なファクターではあったが、同時に事後、鳥飼ら反逆者へ向けられた反動も大きかった。
その矛先が、家族へ向かうのは想像に難くない。

・・・・いや、それも想定内だった。
闇の道を歩くと決めたのは、姪のひろみを失ったあの雨の日だ。



「説教なら聞く気分ではないのですが」
「痩せました?食べてる?」
「そんな常套句で何の懐柔をしたいので?・・・おかしな人だ・・・」
「知っている人を気遣うのは普通のことでしょ」

気遣われる謂れはありませんが、と口ずさみながら、風船が萎むように少しだけ肩を落とす。

「残念ながら一度浸みついた官僚体質というものは抜けないもののようでしてね・・・皮肉ですよ。この朽ちた身体はそれでも私という個人を維持し続け る・・・」


ぬるま湯に浸かるだけの官僚システムに、傷つき、落胆し、裏切られた筈のその警察機構に
思う以上に自分も足を踏み入れていたと感じたのは
皮肉にも、理想概念や思想癖などという官僚気質ではなく、こうした日常生活に浸みついた、日々の習慣だった。
常に人に見られているという意識、鍛練された肉体維持。
朝起きてから、筋力を高める運動や、姿勢を正す振る舞い、周囲に神経を張り巡らせる意識など、極さり気ないシーンで、それは出る。
身体が無意識に、習慣を求め始める。

何もしない自己保身の醜悪を責め、失意した筈の世界の人間と、自分はこうして瓜二つに成長を遂げていた。



「あ~それね~、皮肉だよね~。室井さんもプライベートであのキャラ崩れないんだぜ。何度酒呑ましても地蔵みたいなの、お猪口持ったまま。キャリアって厄 介だよな~」

するっと零れた言葉に、鳥飼は視線を戻した。

目の前の青島は気付かず明後日の方角に視線を投げ、疲れないのかね~だの、いつ素に戻るんだろうね~だの、ぼやいている。
左目の見えない自分を気遣ってか、心持ち右側にいるのが、さり気ない。

拘置所に入れられた自分に同情や憐憫でも表わすのかと思いきや、生活経験を楽しげに笑いに変えていく。
改めて、不思議な男だと思った。


そんな鳥飼の心理変化を目敏く肌で感じ取ったらしい青島が、キラリと眼を光らせる。

「だったら、そろそろタイクツしてるでしょ」
「・・・・しませんよ」
「俺、鳥飼さんの知りたい情報、いっぱい持っていると思うよ。新聞にも載ってないレアな奴」


挑発的な視線と物言いは、こちらの動揺を引き出し口を割らせようとするには、少し稚拙だ。
この程度の探り合いなら、化かし合いをするまでもない。恐らく言いたくて仕方ないのだろう、黙っていれば青島の方から話しだす。

案の定、青島がガラス前に身を乗り出して囁いた。

「アンタが壊した物語の続きだよ」


やはりと思うその単純な行動よりも、手前に迫った飴色の瞳が、妙に透明で綺麗だと思った。
こんな風に彼の瞳を覗き込んだのは、出会ってから初めてだった。
自分にはまだ人を見る余裕が残っているのだろうか。

吸い寄せられるように、表情を崩さぬまま、ただ、見つめる。


「知りたくない?」
「ないですよ。興味がないから終わらせたんですから」
「なら始まった世界には?」
「どうぞご勝手に。好きなようにやればいい」

「そこがアンタの悪い癖だ。思っていることは何でも言ってみれば良かったんだ。・・・・俺じゃなくても」


口ぶりが途端一変し、その眼光の聡明さに、一瞬気後れする。

情報をネタに鳥飼の興味を引き出したいのではない、あの事件の弱味を曝け出させようとしているのだ。
過去形で言い切られた言葉に、その内容が指すものが、この場のやり取りではなく、あの事件を指していることを理解した。
・・・・演出力が巧みだ。先に真意を悟らせなかった口車に、少しだけ是認の心意が湧く。
だが、行き着く先は説教か。
造反の意識の方が大きい。


「刑事にしては随分と回りくどい言い方をされるんですね」
「俺、元営業畑出身。周りから攻めてくの、定石」
「その程度の挑発で引っ掛かる企業家がいるとは思えない」
「挑発って分かってんなら、乗ってきてよ」

何故か仕掛けている彼の方が強請ってくる。
少しだけ鳥飼の口元に笑みが乗った。

「私の中はもう空っぽなんですよ」
「逃げんの」
「話し相手なら他に幾らでもいるでしょう?」
「話し相手、そうだよ、話さなきゃ何も始まらない」
「もう終わったんですよ」
「知りたいなら知りたいって言えよ。欲しいものは欲しいって口にしてみろ。・・・喚きもせずに、独りで背負うから、誰にも気付いて貰えないんじゃん か・・・」


ぺたりと青島の手の平が、目の前のガラスに張り付いた。
丸くて、子供みたいな手だ。ここにもバンソウコウ。

何故か青島の瞳の色が哀しそうに歪む。
鳥飼は意外な物を見るような瞳をした。何故彼が今、こんな瞳をするのだろう。


「アンタは戦い方を間違えた」
「・・・、殺人のお説教ならいずれ裁判が制裁を――」
「そのことじゃない」
「え?」
「方法なんか、この際どうでもいい。アンタはもっと人に縋るべきだったんだ」

ガラスに張り付いた指先が、何かを踠くように掴む。

「アンタが独りで抱え込むこと、なかった、のに。アンタには、導いてくれる人もいなかったのか・・・」


美しいと思っていた透明の宝石が、下を向き、哀しげに揺らいで歪んだ。
その瞳を、もう少しだけ見ていたかった自分に気付き、鳥飼は眉を顰める。


彼の言葉に、ひとつだけ、自分の間違いを知った。

自分には雑談をする必要も、する相手もいない。全てを捨てて掛かると決めたあの日から、バカを言い合う必要性がない半生だった。
自分の人生の本当の哀しさは、過酷な死を経験し、それをシステムに破壊され、それぞれで戦わざるを得なくなった現実ではなく
クーデターを起こした我々三名を正しく〝賛同〟してくれる年配者がいなかった交友関係の貧弱さだ。

あくまで目的はクーデターだが、別に国の英雄になろうとしてた訳じゃない。
狙いが達成されるのであれば、その方法は別に、クーデターでなくとも良かった筈なのだ。
そこまでしないと、この腐ったシステムは駄目だと追い詰められる前に、誰かが俺たちを導き掬いあげていてくれたら。


「アンタと室井さんは似ている・・・・。本音が言えなくて溜まったものがどこかで爆発するんだ」


彼がこんな顔をしているのだ。恐らく自分も似たような、きっともっと、酷い顔色をしているのだろう。

告発文を送り付けたことで、クーデターの名目は保たれて入るが、警察への訴追と復讐・・・・事は紙一重だ。
いや、多分、息子を殺そうとした久瀬の行為は、怨念に満ちていたと検察は判断するだろう。

一連の事件で、主犯が久瀬であることは覆らず、小池と鳥飼は直接手を下していないことから、余罪はあれど殺人教唆や公務執行妨害の線で裁判は進められる方 針だ。



「アンタが死んでいると言ったシステムを、本当に終わらせて、今新しい改革が凄い勢いで進んでいるよ」
「・・・・」
「人は、終わらない。良くも悪くもね。・・・外はめざましく生きてるんだ」


ガラスに添えていた手を戻し、青島が椅子に深く腰掛け直すと、背凭れに大きく体重を掛けた。
古いパイプ椅子は、それだけでキィィと鉄の軋む音を奏でる。


「アンタの願いを受け継いで、頑張っているよ、室井さん。アンタが蒔いた種だ」
「またひとつ、新たな階級社会が出来あがっただけでしょう?」
「それはこれからだろ。・・・せっかちなんですね。い・が・い・に」
「・・・・」


室井の手腕は、この拘置所の中まで届いている。
新聞でも連日政治面には必ずと言っていいほど、室井の名と審議委員会の動向が記載されていた。
派手なパフォーマンスは、そう言えばどこかこの青島を彷彿とさせた。


「この先に、興味、湧いてきた?」
「外付けのハードディスクは外してしまえば終わりですよ、内臓には勝てない。今の室井の立場で、その強攻が続くのもそろそろ限界でしょう」
「よく知ってんじゃん。やっぱ興味はあんだね」
「・・・・」
「それでも賛同派は確実に増えている。異常事態も続けば日常事態だ」
「そんな粗末な理想論で、鬱屈していく旧派閥の残党をどう窘めるつもりで?強制人事は独裁と何ら変わらない」
「フルーツバスケットに期待している者だっている。チャンスは平等だよ」
「それが狙いですか」


新たな戦いに敢えて火種を起こす。
これまで沈黙を貫いていた中堅キャリアにもチャンスがあると分かれば、古参の天下はそれだけ遠のく。
彼らをその気にさせるだけの餌さえあればいい。


青島が咲き零れるように笑った。

「ね、不思議だと思わない?アンタが目指していたものと、俺たちが夢見ていたものが、何故か同じ結論を持って広がっているんだぜ」
「・・・・」
「ダイジョーブ。いずれこの国は変わっていくよ。あんたが昔捨てた夢のまんまに。・・・・見切るのが早いんだよ」

ばぁか、と柔らかい目線で青島が微笑んだ。


やり方も思想も違っても、目指す形が同じであったならば、確かにもっと別のやり方で――例えば一時休戦協定を結ぶなどして結束し反旗を翻す海賊行為も、ア リだったのかもしれない。
そんな少年漫画のようなやり方を本気で信じているこの男に、絆され賭けても良いと思わせられる。
それだけの話術があるのではなく、彼の目が、そう思わせる。

寸暇を惜しまず絞り出した謀反の答えも、方法が間違っていただけだとこの男が言うならば
自分には共闘の選択肢は与えられていなかった過去も、打ち砕かれるだけで終わった人生も、今ならば許せそうな気がした。


青島の見せる世界の隅々が、ダイアモンドのように煌めき、眩しい。
痛みばかり覚える苦い世界でも、実はほんの少し甘い部分だってあって、それがたまたま自分には巡り合えなかっただけで、世界はもう少しマシなんじゃない か。
そんな甘い幻想を簡単に信じる気にはならないけれど
少なくとも、彼を取り巻く世界が、この先もそんな風に眩しく美しいものであって欲しいと、思った。

こんな光が傍にあったなら、俺は未来を委ねたって良かったんだ。



妙に幼い童話の世界に迷い込んだような思考に困惑し、鳥飼はひっそりと笑いを滲ませ視線を下げた。
青島の甘い声が、耳に静かに届く。


「だからさ、鳥飼さんも、混ざらない?」
「・・・?警察、辞めたんですよ」
「これからは内外から戦っていくんだ。違う立場は戦力だ」
「外の者が内の者に与えられる影響力の限界は、貴方こそが身を持って知っているでしょうに」
「所轄と本店っていう違う立場だからこそ意味もあったよ。同じ場所にいたらきっと俺たちだって此処にはいない。これからはそれが更に広がっていくから」
「成程、貴方は室井さんからの刺客だったと」
「へへ。・・・どう?」


そう言う青島の瞳は子供みたいで、とても年上の中年男性とは思えなかった。
ワクワクして近所の軒下まで探検して回った幼き日の躍動感と郷愁を抱かせる。
あの頃は、ただ紅い夕日空を見上げていた。


あえかな飴色の瞳に惑乱していく。
分厚いガラスで仕切られているのに、今、誰よりも、これまでのどんな時よりも、青島が近くに感じる。
人の温もりを感じたのも、酷く久しぶりであることに気付いた。


「・・・・・考えておきます」
時間はたくさんあるから。

そう呟くと、青島は目を細めて両手で頬杖を付いた。



何となく見つめ合い、会話が途切れる。
妙に鼓動が速く、照れくささを強張った頬で押し隠す。


「室井さんには言ったんですけどね、貴方がやっていることは偽善だと」
「ああ、国際犯罪かなんかの室長、断ったんでしょ、あのひと」
「・・・・」
「まあ、個人情報を集約するとか、国家規模のデータを警察が保管するなんてリスク高すぎだろってね~・・・」
「・・・・・」
「・・・ん?どうかした?」


急に表情を固めた鳥飼に、青島は聡く察して首を傾げる。
ゆっくりと見据えるように口を開く。


「何故、その話を貴方が?その話はあの日あの会議室で立ち消えになった筈ですが」
「ああ・・・、そ?」
「あの場に居た他の人間から聞くとは思えない。室井さん本人から聞いたんですね」
「・・・・・んー、まぁ」


そう言えば、先程も、プライベートを知っているような口ぶりだった。
酒の戯れも、単に本庁と所轄の交流の一環だと思っていたが。


「青島さんと室井さんって、結局どういう関係なのですか?」
「どういう・・・って・・・、まぁ、腐れ縁?」
「室井さんが以前言っていた、出世する理由・・・古く、約束を交わした男というのは、貴方でしょう?」
「・・・・・だったら何?」
「危険思想を共有した謀反者。円卓では有名でしたよ」
「ふーん・・・、やだねー、人の噂話ばかりのオヤジって」
「同じ職場の男同士で、理想を共鳴し合う。それってどんな気分です?」
「んー、最高?」


これまで額を突き合わせんばかりにガラス面に張り付き話していた青島が、不意にそっぽを向いた。

茶化したつもりの僅かに見える口元が笑っていて、嬉しそうな顔をしていることが見て取れる。
横髪で少し隠れたその頬が少しだけ染まっていることにも気付く。


言葉を止め、暫しその変化を黙って見つめていると、変な間が出来た。
その数秒が更に青島を赤面させる。


「ちょっとっ、そこで黙らないでくださいよっ!変な空気になっちゃったじゃんっ」


この時期、暑くもないだろうに、ネクタイの結び目をグイッと緩める。
引っ張られたシャツの襟元から、鎖骨までが一瞬露わになり、然程照明の強くない室内で、影となって鳥飼の視線に弄ぶ。


「とにかくっ、室井さんが警視総監になるまで、俺は下で支えていくだけだ」
「万一失脚したら道連れ、ということになりますね」
「有り得ないけど、そこは覚悟の上」

指鉄砲を向け、鳥飼に片目を瞑って指し向ける。

「どうしてそこまで?」
「ん~・・・、分かんないけど、信じちゃったし。あのひとも孤独な人だから、さ」


その眼は柔らかく慈愛に満ちていた。
この男に魅入られた人間は、こんな瞳を向けて貰えるのかと思った。


この光が常に傍にあれば、見失うことはないだろう。
もしかしたら、室井もそうなのだろうか。
あの腐った世界で、それでも高潔な魂を保つのは、傍で浄化してくれる彼がいたからなのだろうか。

確かに室井には、鳥飼の奥底で燻る熱と同じものを感じた。
なのに歯切れの悪い政治しかせず、決して澱みを見せない男だった。
掴み所がなく、何故彼には色が付かないのか。善にしろ悪にしろ、何かしらに偏る色が社会地位を上げた男には透けてくる。それがガラスの情熱を歪ませてい く。
室井にはそれがない。ずっと不思議だった。

あの世界で真っ直ぐなままでいるというのは、穢れを享受するより辛酸なことなのだ。

だとしたら、室井はこの先も青島を手放すことは、決してしないだろう。


何やら苛烈な灼熱が、腹の奥から沸々を湧き出でる。
どうして室井にだけ与えられたのか。どうして自分には無かったのか。
正義というものは、不平等に与えられた特権なのだろうか。


「あの時・・・言っていた、正義は胸に秘めておくくらいが丁度良いって――アレ、どういう意味なんです?」
「ああ・・・、あれね。ん~・・・昔、ね」

お伽噺だよ。
そう言って、静かに青島が語った和久という古刑事の昔話は、なんだか遥か昔奪われた温もりが詰まっていた。
それは、どんな同情よりも、慰みよりも、鳥飼の何かを潤した。





*:*:*:*:*


「さ・・・ってと」

カタンと椅子を鳴らして青島が立ちあがる。
モッズコートのポケットに両手を突っ込んだ。


「一日中、狭い房の中に閉じ込められてストレスが溜まってるでしょ。だってやることないんだもん」
「・・・・」
「だからハイ、ちょこれいと。」
「・・・・」
「もうね、あそこにずっと立ってるコワイお兄さんと話付けてあんの。部屋戻ったら、食べて」


手の平サイズの正方形の小さな箱が、ガラスの向こう側に置かれる。
ブラックの小箱に小さなダークブラウンのリボンが巻き付けられていた。


「もうすぐ何の日かも忘れちゃったとか言わないでくださいね?鳥飼さんには馴染みのイベントでしょ」
「普通は・・・・・女性が贈るものでしょう?」
「チチチ。今は友チョコ・逆チョコ・マイチョコ。色々あんのよ。そういう世間の風習は楽しまないと」

指を立ててニッと笑って見せる。

「はっぴぃバレンタイン♪」


言い残した言葉が空気に溶け、青島が背中を向けた。
思わず、その背中に声を掛ける。無意識だった。


「先程の約束。室井さんの方は納得しているのですか?」
「え?」

青島がドアノブに手を掛けたまま、肩越しに振り返る。


「いずれ貴方を切るかもしれない。新たな配下を見つけるかもしれない。裏切られないという保証は無い」
「・・・・いんじゃない?約束のためなら仕方ないことだ。俺は受け容れる」
「結婚すればまた環境も変わっていきますよ。恐らく今は見合い話も本格的に始まっているでしょうから」
「・・・・経験談?」
「ええ」

表情を変えずに肯いて見せると、何故だか必要以上に青島の顔から表情が無くなったように見えた。


「・・・覚悟の上って・・・言ったでしょ。気にすることじゃない」
「捨てられるのに?」
「そういう問題じゃないですよ」
「随分と信頼しているんですね」
「おうよ」
「なぜ」
「なぜ・・・って・・・。あれ?そう言えば、理由なんか深く考えたことなかったな・・・、でも、これだ!って思っちゃったんだよね・・・」

「所轄の身分では迷惑だと思ったことは?」


怯まず鋭く切り込むと、初めて青島が痛みを乗せた顔を見せる。
一瞬彷徨わせた瞳が、まるで迷子の子供のような色を乗せたのが、鳥飼に忘れられない尖りを刻んだ。


カタンと音を立てて、立ち上がる。


「リスキーなことをなさる。本当は、今日此処へ来たのも貴方の独断なんでしょう?バレたら室井の首も危ういでしょうに。何を考えているんです?」
「・・・・、俺はあのひとの足を引っ張る真似はしないよ。それにもう、こんなことで潰れる男じゃない」

幾分剣呑を含めた鳥飼の声に、口を噤んだ青島が悪戯っぽい瞳を向ける。

「では、私に何をさせたいのですか?」
「アンタじゃ俺の変わりとしちゃぁ、役不足っ。・・・・・味方を増やしたい。ただそれだけだよ」
「貴方が理解者であればいい。何故室井の反発を買いそうな危険な賭けに出る。室井を試しているようにさえ見受けられる」
「そんくらいの方があのひとも刺激あっていいんじゃん?」


ほぅ、と吐く青島の甘い吐息に、ガラスを越えて包み込まれそうになった。

「俺たちは違う場所にいてこそ意味があるって・・・・さっき言ったでしょ。だから、いいんだ・・・」
「同情でプライベートまで割き、心まで奪われて、そんな娼婦のような扱いで満足してるのですか」
「なっ!かっ、関係ないだろ!」
「なら、僕があなたが欲しいと言ったら、どうなります?」
「え・・・?」


答えを返さず、ただ、じっと見つめた。
青島も、微動だにせず、視線を逸らさない。


ややして、コテンとその首が傾げられる。

「ふぅん。・・・やってみれば?出来るならね。でも俺、そう簡単には落ちないけど」

べ。
紅い舌を出して肩越しに蠱惑的に頬笑み、青島は扉を開けた。瞳を挑発的に煌めかせた残像を鳥飼に鮮烈に灼き付けて。



バタンと扉が閉まるのを、瞬きもせずに見つめていた。


看守が置き去りにしていった小箱をそっと手渡してくれる。

拘置所に差し入れられるものは、指定された売店でしか認められていない筈だ。
そのチョコは、どう見ても売店で売っているものではなかった。
拘置所の管轄は法務省だから、彼に自由が効くとも思えないのに、一体全くどうやって買収したのか。

彼はいつも規格外の目新しさを見せてくる。
そう、まるで手品のように。


あんな眩しいダイヤの原石を、欲しがっても良い人生だったなら、さぞかし自分の人生はもう少し瑞々しい希望に満ちていただろう。
無垢で決して輝きを失わないその原石をダイヤまでこの手で磨きあげる幸運は、一体どれほどの享楽を自分に与えるのだろう。
欲しがっても、良いのだろうか。

――見切りつけんの、早すぎんだよ



手の平に残された、小さな箱をじっと眺める。
少し切なげに眉を寄せたさっきのあの一瞬の顔が、蘇った。
あの奥底に隠されているものはなんなのだろう。
知ってみたいと思った。

ここを出ることが出来た暁には、今度は自分から逢いに行く。
彼を浚って、明日を生きる。


彼が隣に居るなら、その先を生きる道はきっと、どんなものでも悪くないと思えた。
彼が室井のものになっていても関係ない。一夜の思い出を刻み、彼にとっての重要な人になってみたい。この腕で我武者羅に捕えてみたい。
向日葵のようなあの顔が、どんな風に変わるだろう。
それが出来たら、終わらせた筈のその先の人生を、生きていっても良いかと思えた。



小さなリボンを解いて、小箱を開ける。

中には一口大の褐色のチョコが入っていた。
ハート型で、オレンジピールが混ざっているのが見える。


口に入れる。

「甘い、・・・」
20160205











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こういうイベントものに手を出すつもりはなかったのですが最初で最後の挑戦です。室青は付き 合っている設定。
01は沖田さんでした。
02はすみれさん。免許センターは相棒ネタ。
03は鳥飼さん。

お題はこちらからお借りしました。ありがとうございました!
 88*31 Discolo/鮭さま