冒頭のハードボイルドな展開に騙されてはいけません。その後の設定のための単な
る前振りです。
時間軸は潜水艦前くらいの若いふたりで。OD1の後お互い連絡を取らないまま早数年という設定です。
東京変奏曲
東京の夜空に乾いた銃声が二発響き渡った。
第一章
1.
およそ人も住まわぬ荒涼とした地の果ての真ん中に置き去りにされたようだった。
人工的なネオンが幾重にも滲み、派手な七色は無機質にも思える不自然さで、この街の栄華を唱っている。
だが、そんなバブルの遺産に夢を抱ける時代はもう来ないことを、この街の人間なら悟らぬ者はいない。
それでも昭和の遺物を捨てられないネオンの派手さは、まるで廃れた今の自分みたいだと思った。
黒い建物の間から覗く、空高く突き出した大きなコンクリートの塊が、藍紺色の眠らない夜空に監獄のようにそびえ立つ。
日没を半時ほど前に終えたこの街は、宵闇から真の闇へ、やがて完全な魔の刻へと突入するだろう。
賭すほどに身体は熱いのに、あたりの空気はひんやりとしている。
青島はふらつく身体を重たくビルの壁に預け、大きく息を吐いた。
痛みなのか疲労なのか分からない身体の重さが、骨を軋ませ、肉を軋ませ
脂なのか汗なのか分からない水分の重さが、ぐっしょり濡れたシャツやスラックスを肌にへたりつかせる。
小間切れの浅い息が、上向いた口から忙しなく溢れ出る。
遠くで自分を探している声が怒声と共に聞こえるのを、目を閉じてやり過ごした。
時間が無い。
追っている連中は、この場所を突き止める前に証拠ごと隠匿してしまうだろう。
捕まらぬことだけが、最早成功とは言えなくなった。
青島はもう一度目を開け、歯を食いしばりながら身を起こし、鉛みたいな足を持ち上げた。
痛む膝を両手で叩き、歯を食いしばり、力を絞って再び走り出す。
いつものモッズコートが重たく膝に纏わりつく。
銃弾を二発・・・いや、掠めたのを合わせれば三発。
流れだす血の量からも、それほど楽観出来る状況でないことだけは分かる。
闇に紛れるとは言え、この大量の血痕を辿って、いずれ奴らがここを嗅ぎつける。
そうしたら、この全ての脱走劇がパァだ。
*:*:*:*:*:
見たことも無い管理官に、潜入捜査を命じられたのは、二ヶ月ほど前のことだった。
湾岸署に立った特捜の統括責任者だと名乗り、最初から青島を名指しした。
〝貴様が青島か・・・〟
まるで、舐めるように全身を隈なく毛先から爪先まで無遠慮に見廻した脂っぽい眼差しは、今でも覚えている。
好意的な雰囲気は欠片もなく、何かしらの敵意すら抱いていることを隠しもせず、そのまま、今回の潜入を指示された。
ある地下組織撲滅のために、取引現場の証拠を掴んでこいとのことだった。
経緯はそもそも、その半月前の湾岸署管内の廃ビルで発生した死体遺棄事件に遡る。
その被害者が、本店の銃器薬物対策課――薬対が数年に渡りマークしていた男だという、よくあるパターンで
当然、特捜が立った湾岸署に、最後の綱を失った本店が圧力を掛けて来た。
裏の仲間割れとみて、本店はこれを最後のチャンスと睨んだようだった。
だからといって、大した証拠もないままにいきなり潜入なんて、横暴すぎる。
普段から軽視している一所轄捜査員のこの特別待遇に、本庁捜査員からも荷が重いとの反対意見も上がっていた。
だが、取り換えの利かない本庁捜査員は出せないとの一点張りで、独裁政治が罷り通った。
管理官の名は・・・確か――桶永といった。
*:*:*:*:*:
ビル街の奥から、下町の寂びれた小道へと逆走し、裏の商店街から、隣町の工場地帯を目指す。
路地裏から続くアンダーグラウンドの商店街は、地元と一部の人間には馴染みの、裏街へと続く連絡路だ。
繁華街まで出て、人混みに紛れてしまうつもりだったが、この血量では返って目立つだろう。
相手は街中にも関わらず、銃を発砲した。
これ以上、住民に危険が及ぶような逃走は出来ない。
パトカーのサイレンが聞こえる。
誰かが通報したのか。
だが、自分の所まで誰が辿り着ける?
「ぁ・・・・はぁ・・・・っ、」
縺れそうになる足を、必死に動かし、とにかく走り続ける。
同じ場所に留まっている内は、危険だ。
足が重く、だるく、鉛のように進まない。
息が切れた乾いた冬の空気を吸い込む喉が、灼けるように熱くヒリついていた。
シャッターの閉ざされた店が並ぶ埃臭い商店街に、硬質な靴音が荒い息と共に反響する。
縺れ、白く浮かぶライトの暗がりに紛れ込むポリ袋に足を取られた。
コンクリートに右腕から叩きつけられる。
「ぅあ・・ッ、・・ぁ・・・は・・・ッ」
今どき珍しくなった水色のポリタンクが蹴飛ばされ、派手な音が空疎な街に反響し、生ゴミが散乱する。
すぐ近くには明朝の収集日を待つ大量の「東京都指定」の文字が並ぶ山が見えた。
「くっそ・・・ッ・・・、は、ぁ・・・っ」
悪態を吐きながら、膝頭に手を当て、何とか息を継ぐ。
酸素が薄い。
そこが、何の取引なのかすら、教えて貰えなかった。危険物だということだった。
彼らの犯罪歴、担当の島、グループ人数―― 「お前らは上の言うことなぞ要らないんだろう」・・・・その一言で、切り捨てられた。
潜入当日になって、島津一課長が潜伏先の場所と主要役員構成だけ、こっそり教えてくれた。
薬対だし、取引っていうから、麻薬か何かかなと、当たりを付けていたら、梱包された新聞紙がロシア語であることに面食らった。
彼らがしていた取引が、麻薬なんかではなく拳銃密輸だったということも、後になって知ったことだ。
両手を付いて、ガクガク言っている足に鞭を打ち、もう一度立ち上がる。
膝に両手を付き、その手が、ぬるっと滑ったことに瞠目した。
暗がりで見る両手は、真っ黒に縁取られる。
血生臭い、悪臭。
思ったより出血も酷いらしい。
一応、布で縛ってはあるんだけど。
「・・くっそ、立て、立って・・・・、まだ大丈夫・・・っ」
奴らは逃走の際に、青島に向けて銃を計三発発砲した。
そのうちの二発は、青島の片足と片腕に見事に命中している。
・・・・昔から、初対面の人間から信用を勝ち取るのが得意だった。
人懐っこい笑顔と、話題の妙、そして忠実な視線は、時を掛ければ必ず相手を捕り込んだ。
ここでもそれは例外ではなく
新参者であるハンデを僅か2週間程で克服し、一気にメイン取引のアシスタントとして同行を許可されるまでになる。
今回、別の取引も重なったと言われ、片方の取引は青島と更に下っ端の男二人に一任された。
それが、彼らの仕掛けたフェイク、ある種の試験だったなんて、抜き打ちテストも良いとこだ。
「・・・っく、は・・・っ、ぁ・・・っ」
足を引き摺りながら、それでも光りを目指す。
太陽を失った街は、孤独と荒廃を炙り出した。
四方から夜空に映え渡るパトカーのサイレンさえも、まるで自分を追い詰める闇の足音に聞こえる。
裏通りの商店街は当然、閑散としていて、人通りは無い。
数年前の都市開発で、多くの商店は表のメインストリートの今どきの店に客を捕られた。
この御時世で、こんな血濡れた惨劇に見舞われる異様さも、造られたセットのような街並みに、覆い隠される。
ここは俗世と浮世を隔てる最後の境なのかもしれない。
「・・ぁ・・・っ、はっ・・・は・・・ぁ」
電灯が滲んでいるように見える。
シャッターに手を付けば、ガシャンという音がヤケに大きく不協和音を反響した。
荒い息を付きながら、動かない足を引き摺り、それでも必死に走り抜ける。
乾き切った喉が張り付き、街の埃を吸い込んだ肺が、咳き込んだ。
裂けるような激痛が全身を走り抜ける。
「っく、・・・ぅ・・・ッ」
憔悴し、疲弊した肉体と精神は、既に悲鳴をあげ、痛みは熱となり、意識を朦朧とさせていた。
もう感覚も薄れてきて、痛いのか熱いのか、分からない。
額の汗を袖口で拭う。
どのくらい走っただろう。
追手の声が、少し遠ざかった。
視界が霞み、足が何度も縺れる。
パトカーのサイレンの音が複数重なり、ドップラー効果で、ぼわんぼわんと重層に反響している。
正確な位置すら掴めない。
真っ直ぐにすら走れなくなった、鉛のような身体は、何度か電信柱にぶつかった。
走っているつもりであるのは多分もう自分だけで、速度としては、歩いているより遅いのかもしれない。
一歩を踏み出す度、雨も降っていないのに、靴の中がぐじゅぐじゅと水音を立てる。
「ぁ・・・ぃって・・・ぇ、ぁはぁ・・・っ、はぁ・・・っ」
もう熱くて重くて、思うように動いてもくれない。
自分の足が、機械のようだ。
この出血量なら、貧血を起こす前に、出血性ショックで意識を奪われる方が先かもしれない。
息が荒く、整わない。
胸を掻き毟るようにして、シャツを握り、またブロック塀に背中を預けた。
「あ・・痛ったぃ・・・っ、はぁ・・・っ、あぁ・・・っ、」
荒い息を上を向いて口を大きく開ける。
形の良い鼻梁を通り、吹き出る汗が幾筋も流れ落ちた。
顎を伝い、胸元を濡らす水滴が、肌をブロンズに光らせ、開襟シャツの胸元から覗かせている。
掻き毟るように胸元を鷲掴むと、指先に、胸ポケットに入れていた古い御守りが当たった。
いつもいつも自分を護ってくれた。吉田のおばあちゃんがくれた靖国神社の御守り。
これを貰って、いつも隣にあって、俺は――
だけど、もう、効いてはくれなさそうだ。
ガンガンと響く頭痛は、肉体への警告なのか、現状への警告なのか。
ぬるっとした手触りに袂を見れば、シャツも血濡れていた。
「も・・・っ、っだめ、かも・・・ッ」
スーッと心も身体も冷えていく。
息をしようと上げた顎が上向いた。
撃たれた箇所だけが、灼けるように熱い。
水分を多く含んだスーツが重く身体に纏わりつく。
死ぬかも知れない。
本気でそう思った。
馬鹿みたい、だ。
こんなところで、こんな形で、終わるなんて。
泥だらけで、血にまみれて。生ゴミより臭く薄汚れて。
どうしよう。どうしたらいい。
片手を壁に当て、体重を支えながら、青島は額に両手を翳し、天を仰いだ。
管理官に連絡を入れるべきか。
だが、入れた所で、電源を入れた途端に、多分、基地局からの電波でこちらの居所が絞られてしまう。
もしかしたら、奴らもそれを待っているのかもしれない。
証拠のメモリチップも、まだ青島の手元だ。
これを奪わせる訳にはいかない。
だけど、その前に自分が捕まったら・・・・。
いや、命が消える方が先、か、な・・・・
*:*:*:*
青島が証拠の写真を盗撮していたことに気付いた彼らは、即座に青島から全所持品を奪い、監禁拘束した。
その日から一週間。
本部への定時連絡が途絶えているから、こちらの異変は警察には筒抜けの筈だ。
それでも、救助がくる可能性は低かった。
証拠も送っていない内に、突入するということは、この最後のルートを自らの手で潰すということになるからだ。
だから、次のロシア船入港のタイミングで人出が手薄になる可能性を図って、隙を見て逃走を企てた。
ケータイだけを掴んで、二階の窓から建物に伸びるトタン屋根に飛び降りる。
その時足首少し捻ったのと、空中に向けて発砲した弾道が青島の腹を掠めた。
色めき立つ敷地内に、男たちの怒号が飛び交い、空気が乱れざわめき立つ。
日没の紫色の中を、工場のライトが所々照らしている中を必死に飛んだ。
その場が混乱しているのに乗じて、トタン屋根の上を東に走った。
カンカンカンと、皮靴の甲高い音が鳴り響き、鋭い空気に亀裂を刺し、より焦燥感を煽った。
工場伝いのトタン屋根では、格好の狙いうちだ。
コートを銃弾が幾つも掠めていく。
足で工場の出窓ガラスを蹴破り、派手な音と共に階下に降下する。
突然天井から降ってきた男に、工場内に悲鳴が上がった。
小さく舌打ちをし、辺りにざっと視線を侍らすと、一気に奥へと身を転がし翻した。
硝子の破片が僅かな残光を拾って舞い落ちる中、肌を切り割かれることも構わずに、体制を瞬時に立て直す。
コンテナと段ボールの山積みになった裏に身を隠しながら、外を窺えば、湧き出てくる大勢の男たちが声を荒らげて走っていくのが見える。
まだ銃声が聞こえる。
青島は目を閉じて、息を整えた。
神経を集中させる。
いつ出るか。出た所で見つかるのは時間の問題だ。出口まで辿り着けるかも、分からない。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
数を唱えて、息を吸った。
チャンスとタイミングは時の運!
小石を投げ、注意を反らした隙に、身体を転がすように飛び出した。
――それが、死線の分かれ目だった。
少しの時間稼ぎを取れたお陰で、その後撃ち込まれた二発の銃弾が正確に身体を貫いていたとしても、最終的に、逃走することが出来た。
*:*:*
遠ざかっていた筈の追っての声と足音が、やけに近くで聞こえる。
青島はケータイを祈る様に額に翳した。
どうしよう。どうしたらいい。
このままでは捕まるのも時間の問題だ。
奴らは裏切り者の俺の命を見逃す筈がない。
奴らの狙いは、俺を捕まえることではない。俺の口を封じることだ。
だったら、命を奪われるのを覚悟で、さっさと情報だけでも送った方が良いかもしれない。
まあ、ケータイ奪われたら、俺の命もないんだろうけど。
ひと時、堅く眼を瞑り、祈る様に世界を閉じた。
この世に未練なんて、たくさんある。
だけど、後悔はない。
ケータイが、今の青島を現実社会と繋ぐ、唯一つの命綱だった。
でも・・!
このまま、何もせずに終わるのは惨めだと思った。
自分のプライドや自己確立はこの際不思議なほどにどうでも良かった。
刑事として、与えられた任務の中で、正義と信じた信念に恥じない生き方を貫きたかった。
―俺のするべきことに、全力を賭けろ・・・!
ぎゅっと瞑っていた眼を開ける。もう迷わずにケータイの電源を入れる。
軽快な機動メロディが、やけに平和ボケに響き渡る。
―どうせダメなら、でっかく咲いて散ってやる・・・・ッ!
即座にメールを起動し、本部へ最後のメッセージを製作する。
ロッカーナンバーも明記した。
血がこびり付いた指先でケータイを操作していく。
柄にもなく指先が震え、心臓が張り裂けそうに脈打っている。
間に合え!間に合え!
周囲に神経を張り巡らせるが、差し迫った怪しい影は、ひとまず見えない。
送信ボタンを押し終えると、今度はケータイからメモリカードを抜き出した。
それを、さっき拾ったビニール袋に詰め、同時に重しとして適当な塵も詰め込んでいく。
これが、今回の俺の報酬だ。
ケータイは押収された時、ロックは解除されていなかったが、中身を見られた可能性は否定できない。
ケータイにも情報を入れていることを、もし彼らが知ったとして、何故奴らはこのケータイを破棄しなかったのか。
それすらも、罠かもしれない。
そもそも何故、青島の正体がバレるような雲行きになったのか?
だが、今は、その全ての僅かなリスクを憂慮する余裕はない。
路地裏から裏手の荒川に小道を駆け降りる。
柵に手を付き、身を乗り出した。
黒く蠢く水のうねりに向け、睨み付けるように視線を投げる。
川沿いの冷たく湿った風が、切り裂く飛礫ように頬を叩く。
大きく息を吸い、スナップを利かせて、思い切り、黒い塊を投げ捨てた。
ヒュルヒュルと空気を切り裂く音が遠ざかっていく。
ややして、暗がりの空気と同化した闇の奥で、ポチャンと小さな水音が、黒いうねりに消えた。
「はっ、・・ぁ、・・ざ、まぁ、みろ・・・・っ!にっぽんのケーサツの底力っ、舐めんなよ・・・っ」
轟々と濁音を立てる川岸を見降ろし、荒い息を整える。
*:*:*:*:*
予め持たされたボタン型の小型カメラは、スーツの第一ボタンだった。
それは、見つけられた時、目の前で粉砕された。
しかし更に念を入れ、この数カ月、ミニカメラで押さえたその取引現場のデータを全て、ケータイのこのメモリカードにも転送していたのが、幸いした。
また、ケータイの録音機能をONにし、相手の名前、特徴、そして、次の取引のキーワードを、その都度記録してきている。
小型カメラに転送機能くらい装着しておけよとは、何度もぼやいたことだ。
そして、一番の切り札は、奴らにとって致命的な証拠である、今回の取引で大金だけ支払って未だ手にしていない商品の隠し場所だった。
取引は、物々交換ではなく、キーの受け渡しで売買が成立していた。
今回の現物を知っているのは青島だけで、それこそが一番の物的証拠であり、その情報こそが、警察が喉から欲しがっていたロシア・ルートである。
そして、その取引で教えられた、次の取引の日時と場所。必然的に知った、相手の素性。
それらを阻止するために、奴らは必ず青島の息の根を止めに来る。
今、彼らが躍起になって青島の行方を追っているのは、裏切り者への報復ということではないのだ。
*:*:*:*:*
全てを終え、青島は微笑さえ零した。
任務はすべて、完了だ。
これで、俺の意識が途切れても、俺の命が途切れても、大丈夫な筈だった。
なら、これでいい。
とりあえずあの桶永が青島をどう思おうと、俺は俺の仕事をした。
どさりと身体を丸め、壁に背中ごと擦り付けるように体重を掛ける。
もう、立っていることも、しんどい。
擦り切れるような吃音を漏らしながら、ズルズルとその場に力尽きた。
「し・・・・ぬ、のかな・・・っく・・・そ・・・っ」
もう、時間の問題だろう。
遠ざかっていた怒声と複数の靴音が、四方から聞こえてくる。
無駄かもしれなかったが、それでも青島は足を止めることなく、最後まで足掻き切るつもりだった。
一息吐いた後、再び額を拭うと、壁に手を付きながら立ちあがる。
「・・・っく、・・は・・・、は・・・ぁ・・・っ」
腹部から浸み出る血液がシャツから下肢をしとどに濡らしている。
激痛が全身を走り抜けた。
激痛、という言い方は最早正しくない。突き刺されるような灼熱だ。
引き摺るような足は、感覚が既に鈍く、体重を掛けられるのも、あと僅かかもしれない。
ゆっくりと足を進める。
だが直ぐに足が縺れ、小道の階段を踏み外す。傾く身体を支える重心も既にない。
そのまま、薙ぎ倒されるように階段の下まで横倒しになって転げ落ちた。
10段はあった段差を、引き摺られるように叩き落とされる。
「ッ!・・ッ、・・ィ・・・っく、・・ぅ、・・っ」
地面に叩きつけられた身体がミシミシと痛い。
苦痛に呻き声を漏らし、切り裂くような痛みに激しく喘いだ。
泥だらけの両手にも、力が入らない。
打ち据えられた身体が、河川の砂利の上で血の痕を引きながら、糸の切れたマリオネットのようにずるずると蠢いた。
それでも、震える両手で、何とか身体を起こす。
下半身から浸み出た血液が、ぐじゅっと音を立て、じわりと浸み出した。
パトカーのサイレンが、都会の夜空に反響し、こんなにも夜の街をざわつかせているのに、ここは静かだった。
誰も気付かない。
それが、酷く、滑稽で、空疎に思えた。
「・・く・・・ッ、ふ・・・・っ」
片足ずつ体重を掛け、近くの木を杖代わりに、何とか身体を立ち上がらせる。
左腕が痺れて、ほとんど感覚がない。
ひくつく腹に手を添え、感覚の薄れた足を叩いて意識を保たせる。
ゆっくりと、足を引き摺りながら、進み出した。
これが、全ての顛末なのか。
最後は一人、誰にも気付かれず、ボロ雑巾のように死ぬなんて。
奴らに良い様に扱われて、傷つけられたまま、終わるのか。
俺の人生が、誰にも見つからず、一人静かに消えていくなんて、想像もしていなかった。
こんな最期を迎えるために、頑張ってきたんじゃなかった。こんな仕打ちを受けるために片肘張ってきた訳じゃない。
なのに、現実ってやつは、こんなにも無情だ。
〝生きて・・・・帰ってくるのよ。仕事溜まってんだからね〟
湾岸署で最後に掛けられたみんなの笑顔と冗談が不意に浮かぶ。
もう護られそうもないその返事を、口唇だけ動かして天へ送った。白い息がふわりと溶けた。
死への恐怖というより、孤独に対する限界だった。
血濡れた手で前髪をくしゃりと握り潰し、嗚咽を堪える。
こわい・さみしい・さみしい、だれか・だれか――。
命が尽きると悟った心が、脳が、無意識に一番の拠り所を素直に求める。
「・・・・ッ、」
最後に心残りが、一つあった。
ずっとずっと、胸の奥にしこりのように抱えていたものがある。
凛とした力強く真っ直ぐな背中が浮かんだ。
それが脳裏に浮かぶことに、何の不思議もなかった。
迷った時、立ち止まった時、いつもまじないのように思い浮かべていた姿だ。
でも、今は何より、鋭利に青島の息を止めた。
「・・・ろ・・ぃ、さ――・・」
思わず足を止め、両手で顔を覆う。
最後に見掛けたのはいつだっただろう。
もう、随分長いこと、会っていない。
風の噂で、順当・・・ではないが、出世していることは知っている。
一番の、信頼を置ける相手で、今も、一番の拠り所だ。
青島の刑事人生を象るシンボルだった。
ただ、副総監誘拐事件で青島を負傷させたことを、あのひとは強く気にしていた。
責任感の強い人だから、多分、全部を自分のせいにしたんだろう。
降格し、美幌に飛ばされたことを後で聞かされ、でも、入院中の俺は、見送ることも、お礼を言うことも、弁明することも、許されなかった。
何も、告げられなかった。
だから、帰ってきたら、おかえりって言おうと思って、連絡を取らないままに月日は流れた。
告げられないまま、あの人が僅か半年で東京に復帰したことも、風の噂で聞いて。
多分、降格のことを俺が怒っていると誤解しているのかも、と気付いたのはかなり後のことで。
時が隔てた二人の距離と溝は、思う以上に遠く深くなっていた。
それは仕方がないことだ。
男なんだから、信じた道を行く上で、別れることもある。
それに、元々気軽に声を掛けられるような階級職でもない。
そうして、一度も連絡を取り合わないまま、接点もなくなり、3年の月日が過ぎていた。
ふらふらと、よろつきながら持ったままだったケータイの0のボタンを、親指の腹でそっと撫ぜる。
短縮0番。
一度も使われたことはなかった番号は、かつて、一番繋がりたかった回線だ。
ケータイの電源を入れてしまったから、もう見つかるのは時間の問題で、きっと、これが最後のチャンスなんだろう。
死んでしまうのなら、最後にせめて声が聞きたかった。
そんな我儘が、赦されるだろうか。
でも、死んでしまうなら、赦してくれても良いと思う。
このひとには、未来を担うだけの力と素材がある。
初めて、勝てない男だ、そう思った。
あのひとの魂が、俺の魂を共振させる。この躯の内部から。
その強く、静鑑なる漆黒の瞳が、いずれ君臨する世界の広さを無限に映し出していた。
凛とした立ち姿、意志の強い漆黒の眼差し。普段は隠されている野獣のような資性。
低いバリトンのような声。いつも苦悶に寄せられる眉間の皺。
曲がらない精神に、夢を拓いた。
ずっと遠くで、慕っていけると思っていた。
ずっと遠くで、見つめていて良いのだと、思っていた。
こんなに早く、終わりがくるなんて。
こんなに簡単に、断ち切られるなんて。
震える指先で、0のボタンをそっと撫でる。
ひとつ、大きく息を吸って、ゆっくりと押した。
秩序だったコールが始まる。
傍にいられなくたって、良かったんだ。
ただ、あのひとが、元気で立派に警察機構のトップまで上り詰める背中を、ここから見つめて居たかっただけだった。
最後まで見届けられると思っていた。のに。
どんな時も、俺だけはあんたを見ているし、祈っているし、信じている。
それさえも、もう許されなくなる。
単調な呼び出し音がずっと鳴っている。
出ないかもしれない。
時間も時間だ。
いや、あのひとのことだ。まだ仕事中かもしれない。
だったら仕方ないよな。
それに・・・・掛けたことも、なかったし・・・・
耳も聞こえなくなってきた気がして、ケータイを耳に強く押し当てる。
忍びよる闇と震えは、死への恐怖なんだろうか。
それとも、孤独への怯えなんだろうか。
身体が冬の風に晒され、凍えるように戦慄いている。
繋がってくれと願いを託す、か細い電子音が、妙に頼りなく聞こえ、ケータイを強く握った。
単調な呼び出し音が二重にも三重にも聞こえ、輪郭の歪んだ視界が、ぐにゃりと曲がる。
それでも、無意識に足だけは前へと小さく進めていく。
自分の荒い息遣いだけが、やけに耳に届く。
もうだめかと思った時、呼び出し音が切れた。
「・・・ッ、・・ぁ・・ッ」
青島は絶望したような痛みを感じて、下を向く。
電波が悪いのか、それとも、切られたのか。
まるで、繋がることも許されない関係なのだと、言われたようだった。
最後の頼みも切れて、呆然としたまま、都会の夜空を見上げれば、煤汚れた紫紺の空気は、ただ黒く
月も星も見えない。
これが、俺らしい、結末なのかもしれない。
別々のルートで頂上を目指すことを誓い合ったあの約束の日から、こうして見えもしない星を求めて彷徨ってきた。
仰ぎ見る都会の夜のように、果てなく遠い場所から祈れればいいのかもしれない。
これで、さよならだ。
何気なく視線を戻し、モニタを見る。
だが、モニタに表示されていたのは、待ち受け画面ではなく、カウントだった。
瞬間、思い違いをしていたことに気付く。
切れたんじゃない、回線が繋がっている・・・・!
ケータイを持つ手が震える。
『・・・ッ、・・、』
向こうでも、息を呑む気配がする。
声が聞きたいのに、名乗ってもくれない。
『・・・む、ろ・・・さ・・・』
『・・・ッ、青島かッ、本物だな!?』
言っている意味が分からない。
『今何処に居る・・・ッ!』
数年ぶりに耳にする妙に切羽詰まった室井の声は、若さと張りに漲っていて、まるで青島が初めて憧れたキャリア官僚そのものだった。
懐かしさなのか、嬉しさなのか、もう良く分からない感情が、一気に崩壊する。
『お、久し、ぶり・・・・・・・・です・・・』
室井の背後で、何やら狂乱に満ちた怒声が、数多く飛び交っている。
『一人かッ、周りに誰がいる・・・ッ』
『・・・・外。そちらは・・・・仕事中、ですか?』
『仕事といえば仕事だが・・・場所、言えるか?』
『・・・え・・・?』
そうか、と思った。
この騒ぎが、既に本部へ、そして本庁へと入っているのだ。メールも送ったことだし。
室井は、今、青島の置かれている状況を知っている。
また、迷惑かけちゃったのか、と思う。
『任務、終了しました、ちゃんと・・・・俺・・・・』
『ああ、届いている』
『・・・ってゆーか、この件に室井さんまで、関わって、いる、んすか・・?』
『いや、おまえが行方不明になったらしいという一報が本庁に入ったのは一昨日の夕刻だった。それ以降、こっちはちょっとした騒ぎになっている』
『だから、最初、電話に名乗って・・・くれなかったんですね・・・』
『拉致されている可能性を警戒した。・・・その、無事、なんだな?』
『それは・・・・・どうかな』
『青島?』
天を仰ぎ見て、努めて冷静を装い、口調を変える。
『なんか・・・久しぶりなのに、全然久しぶりじゃないかんじですね~・・・』
『・・・・』
『もう、俺のことなんか、忘れちゃったかと、思って・・・ました』
『忘れるか・・・』
室井の、子供みたいな口ぶりがおかしく、吐息に苦笑を混じらせる。
どんよりとした視界が、マーブル状に歪み、もう周囲の輪郭さえ分からなくなった。
『俺ん中では極彩色』
『盛ったな』
『そりゃ、あんたん中では通りすがり、かもしんないですけど』
壁に肩を擦りつけながら、一歩一歩進んでいく。
心臓がバクバク言っている。
だけど、もう、さっきまで感じていたような締め付けられるような軋みはない。
『それよりおまえ・・・、今一人だな?』
『あの、さ。何で・・・・あのとき・・・あの時何も・・・』
『青島・・・?』
挨拶の一つもなく飛び立っていった男へ苦言を申し立てようとして、でもとうにそんな意味も時期も持たないことを、自覚する。
時は既に遅すぎた。
全ては今更なのだ。
あれから、3年も経ってしまった。
もう、文句を言える間柄でも、繋ぎ止めて良い間柄でもない。
室井の中では終わっていて、そして今、青島の上でも、終わりを迎えるのだ。
『室・・さ・・・、俺・・・、俺・・・・・っ』
『青島?聞こえているか?・・・今周りに誰かいるか』
『・・・・っ』
室井の気遣う想いが切に浸みてくる。
こんなになっちゃった自分自身を、初めて申し訳ないと思った。
だけど、もう全ては手遅れなのだ。
このひとに、今更乞うことに、何の意味もなかった。
下手したら、自分の不始末のラストを背負わせることにもなってしまう。
青島は喉まで出かかった弱音を吃音と共に飲み干して、無理矢理笑みを作った。
『あんたも・・・・相変わらず、だね。それを確認出来ただけで、俺はいいや』
『何の話だ?いや、それより今の状況を――』
『あんたの噂、こっちにまで、時々届いてましたよ』
『・・・どうせ、悪評だろう』
過去を蒸し返すよりも、今は、このひとの輝かしい未来の話をしたい。
『昔、一緒に、捜査した・・・あんたと・・・・。あれ、楽しかったな・・・』
『・・・・そうだな』
『室井さん・・・俺らの目指してきたことって、きっと夢物語じゃないよ』
室井にとって、青島はきっと、ひと夏の冒険のような、長い刑事人生に於ける一点の染みみたいなものだろう。
今から思えば、そんな一点の曇りもない筈の彼の人生に、染みを付けられたのは俺ぐらいで
このまま消えていくのなら、それも、餞別だなと思えた。
予見性は遥かに無情で、その限界を刻一刻と狭めてくる。
追手の声が、かなりの近距離から聞こえた。
もう、時間がない。
『俺、言いたかったこと、ある。ずっと、言いたかった・・・あんたに夢貰えて嬉しかったって・・・一言・・・』
『それは私もだ』
『・・・・お世辞はいい、ですよ・・・』
『何故そんな世辞を言わなきゃならん』
『室井さん・・・っぽく、ない』
名を呼べるということは、こんなにも嬉しいことだっただろうか。
室井が言っている言葉が、遠くなっていく。
必死に繋ぎ止めたくて、青島はケータイを耳に押し当てた。
死とは、こんなに哀しいものだっただろうか。
輪郭まで曖昧になった世界で、室井の凛とした低い声だけが、この世との唯一つのリアルな繋がりとなる。
でも昔から、この声に絶対の信頼を置いてきた。
『たのし、か・・・・たなぁ・・・』
『もう諦めるのか・・・?』
『最高の、刑事、人生・・・・』
『おい、これからだろう?』
こんなんなっちゃって、ごめんなさい。
きっと、このひとだけは、俺の末路を憐れんでくれる。
込み上げるもので、胸と喉が締まる。
『も、ちょっ・・・と、見て、たか・・・・たけど』
『青島?』
その室井の声まで二重になっていく。
ああ、もうお終いなんだ。
視界から光も奪われ、だんだんと暗くなる。
『・・・俺、あんたに会えて、よかった、よ』
『何故そんなことを言う――』
『最後にもう一度だけ声・・・聞きたかったんだ、それだけ』
『何故最後にするッ』
室井の艶やかで滑らかな低い声。少しの呆れたような吐息。
少しの鋭さを混ぜてまるで吐息が耳に掛かるように届いた。
ノスタルジーに込み上げる郷愁は、想像以上に終わりを美しく縁取っていく。
『俺、室・・・さん、みたいな・・・・刑事に、上、行く、夢、託せて・・・』
『待て!青島ッ、おまえッ』
『あと、もう一つ・・・・出来たら・・・・もう一度会いたかったな――・・・・そしたら・・・』
そこで全ての平衡感覚を失い、そのまま足元の感覚が薄れ、青島の身体は宙に舞うように闇に傾いていった。
どさっ
「そしたら、なんだ」
地面に叩きつけられるかと思った身体はそのまま柔らかいものに留められ、宙で止まる。
二重に聞こえた室井の声が、リアルに左右から耳元に飛び込み
消えていきそうな意識が、辛うじて繋ぎ止められ、青島は、懐かしい匂いに包まれていた。
「むろ・・・さ・・・?」
「どうしておまえはそうなのかな。まったく、いつもいつも無茶しやがって・・・・」
「ど・・・して・・・・」
室井の腕がしっかりと青島の後ろに回り、厚い胸板に抱きとめられる。
何でここに室井がいるのだろう。
これも夢なのか。
それとももう天国来ちゃったのか。
「行くな」
「・・ぇ・・・・」
「死ぬなよ、俺の傍で。青島・・・ッ」
あんたとなら、何処へだって行けるよ。
そう応えたい想いは音にはならず、青島の意識はそこで暗黒の深淵へと途切れた。
カッと、二人が立つ位置を中心にSATのライトが点灯し、二人のシルエットを中央に浮き上がらせる。
既に包囲されていたことは、渦中の青島だけが知ることはなかった。
2.
新城がその一報を受けたのは、地方での勉強会に出席し、ようやく帰庁した夕刻過ぎのことだった。
登庁するや、報告もそこそこに、慌ただしく最上階の役員室に呼ばれ、事の次第の説明を苦々しい表情で受ける。
数年前から、本庁が大金を注ぎ込んで力を入れていた拳銃密輸ルートの件は新城の耳にも入っていた。
「折角ここまで築き上げてきた私の顔が丸潰れになりそうでね。・・・・捜査員が一人消えているという情報もある」
「――それで」
「ルートごと見失いそうなんだよ。各方面への言い訳も立たない・・・世間の非難は目前だ」
「捜査員は」
「所轄だったのが幸いだ。なんとでも理由を付けられる。だが、今回の捜査は当課だけではなく、警察として面子が掛かっていたのは、君も承知のことと思う」
「・・・・」
「この失敗は想像以上に深手となる。早急な打開策が欲しい」
「担当は誰だったんです?」
「そこがネックなんだ・・・、だから我々も強く抗えなかった」
「――」
「桶永くんだよ」
成程と、新城は思った。
曾祖父の代から警察に尽力してきたサラブレッドのエリートキャリアだ。
キャリア志向が強く、派閥重視で、血統と権力を何より愛する典型の堅物で有名な男である。
その系統譜だけを見れば、自分とある種同類だとも、新城は思う。
その生粋の頑固さ故、また内外に幅広い政界財界パイプもあることから、若くして警視正という肩書きを持ち、誰も表立って口を挟むことが出来ない立場にあっ
た。
「で、私に何をしろと」
「事態を速やかに収束させてくれ。マスコミを抑えておけるのもあと3.4日だ。・・・・ルートを途絶えさせるようなことだけはするな」
「しかし、桶永警視正が私のような若輩者の指図を好むとは思えませんが」
キャリアは何よりその縦型構造が物を言う。
派閥の違う、同じ階級の人間には、敵意を抱く者すら、少なくない。
それを分かっていて、何故年下の自分にこのような異例の措置を取らさせるのか。
目の前の老齢の男共は、実に痛ましいという顔を造って見せ、口端を卑しく持ち上げた。
「いつも無理を言ってすまんね。でももう事態はそこまで切迫していると理解してくれたまえ」
――タヌキが!!
恭しく一礼し役員室を出た新城は、扉を丁寧に閉めると同時に、顔を歪め、舌打ちをした。
そのまま興味を失ったかのように振り向きもせず、後にする。
一刻も同じ空気を吸っているのも馬鹿らしい。
小走りに埃臭い古ぼけた電灯に照らされる廊下を歩いていけば、その一歩後ろを、待機させていた新城の部下が、慌てた様子で追ってきた。
殺伐とした廊下が、苛立ちの含む硬質な音を響かせる。
「仕事だ。詳細はもう聞いただろう、問題の所轄へ行く」
「はっ、お車も既に用意出来ています」
「報告の続きを」
短く、この事態の委細な説明を要求する。
足早な新城に寄り添うように、部下が胸ポケットから手帳を取り出し、具体的な事務レベルの報告を始めた。
「――、で、それが最後の定時連絡だったようです。その時には特に変わった様子はなかったと」
「その他、送り込ませたという捜査員については」
「それが、その、一名、です」
「捜査は二名が原則だろう・・!」
「は、ですが、桶永警視正の独断で決まったようです」
「何をやっているんだ・・・!庇いきれないぞ・・・・」
新城の声に苛立ちが混じる。
「しかし確かに一度に複数名入所させては、向こうにも訝しがられます」
「連絡がなくなったのは」
「12月△日・・・ほぼ一週間前です」
「何故そこですぐに報告が上がらない・・・!」
漲る新城の声が、本庁の廊下に剣呑に反響していく。
「本部では、捜査員側が怠ったものと解釈したようです」
「携帯の電波は」
「未だ切られたままのようです」
「ったく・・・・、手間を掛けさせる・・・・ッ」
独り言のように呟き、新城は顎に指先を当てる。
閉ざされた居並ぶ扉の長廊下を越え、階段を降りた。
気を取り直すように、促された車の後部座席へ向かう。
視線だけ背後の部下へ向け、続きを促す。
「それで、その所轄は何処だ」
「湾岸署です」
「何?」
思わず後部座席に踏み入れた足が止まる。
開かれたままのバックドアの上に手を付き、聞き返す。
「・・・行方不明だという捜査員の名は?」
「は、えっと、・・ぁ・・、そこまでは報告に挙げられていません」
―報告に挙がっていないだと?
苦みを潰したような顔で、新城は視線だけを横に向けた。
恐らく、本庁の捜査員ではないから、名前など軽視したのだろうが、それは裏目だ。
上は、報告の一つもまともに出来ないキャリアだと認識を持つ。
だが、新城が気になったのは、そのことではなかった。
むしろ、他のキャリア組が出世レースから零れてくれるのであれば、いっそ好都合である。
バックシートに鮮やかに滑り込む。
それよりも、何やら嫌な予感が的中しそうな胸騒ぎがした。
消失した捜査員の名前は、聞かなくても分かる気がした。
*:*:*:*:
湾岸署の門を潜ると、神田署長と秋山副所長、袴田課長の三名がが、合わせて近寄ってくる。
歯切れの悪い彼らの歓迎の挨拶を頬骨一つ動かさない表情でいなしつつ、そのまま勝手知ったる奥へと進んでいく。
ゾロゾロと、尾鰭のように付いてくる中年の三つの笑顔は、本庁で見る、ねばついた媚びを得るような下心とは同じものの筈なのに何処か異なり
隠しもしない無頓着さが、返って反発を抱かせない。
新城は、フン、と鼻を鳴らしてあしらった。
が、うっとおしい。
「あ、あのぅ、うちの捜査員、どうなっちゃうんでしょう」
「君、幾らなんでもいきなりすぎるよ。こういうのは周りから攻めていくのがセオリーだよ」
「そうだよ、礼儀って大事だよ」
エレベーターの前では、部下が先にボタンを押して待っている。
直ぐにポーンと到着音が鳴った。
「あ、私どもがご案内しますが」
黙って乗り込み、くるりと顔を向き合わせる。
「結構。そのままそこで待機していてください」
新城が冷たく言い放つと、それで幕引きだとでもいうように、エレベーターの扉まで、緞帳のように閉まった。
大会議室前まで来ると、今度は扉前に腕組みして仁王立ちしている小柄な女性が、酷い睨みを効かせて立っているのが見える。
ここもか。
何もかもが想定通りの署内に、むしろ、懐かしささえ覚え、新城は威嚇する前に口の端が持ち上がった。
ゆっくりと背中を預けていた身体を起こし、その女――恩田すみれが、ストレートの黒髪の奥から鋭い視線をジロリと持ち上げる。
「どけ」
「新城さんが出てきたってことは、何か動きがあったの」
「情報はこれから精査する」
「何悠長なこと言ってんの!時間がないのよ、そんなの車の中でやってきてよ!」
「私もさっき報告を受けたばかりだ。所轄と違って事件は一つじゃないんだ」
「命は一つよ!」
きゃんきゃんと耳障りな怒声を無視し、すみれの肩を押し退け、新城は硝子扉の取っ手に手を掛ける。
すると、追うように早口で、はち切れんばかりに背中に掛けられた更なる甲高い声に、その手を止めた。
「ちょっと!もし青島くんに何かあったら、あんたらのせいよ!あたし――許さないからね!絶対!」
「――、」
新城の動きが止まり、視線が鋭くすみれを捕える。
「やはり、消えた刑事というのは、青島か」
「・・・そんなことも知らされていないの」
怒りは、しかし涙のような煌めきを以って、すみれの黒目がちの瞳を濡らし、その声を低く掠れさせていた。
少しだけその激情を押さえ込んだ瞳を真っ直ぐに見返した新城は
そのまま言葉は発せず、その会議室の扉を勢いよく開け、中に身体を滑り込ませた。
「ここから先の陣頭指揮は私が取ります」
上座に据えられている長テーブルの端まで行き、そこに一人だけ座り、捜査員に囲まれている中年の男に、それだけを静かに告げる。
男は意外だというような顔を見せ、それからギィと椅子を軋ませて背凭れに背中を預けた。
「何をしゃしゃり出てんですか、お坊っちゃん。ここは私の担当だ」
「上からの命令を受けました。ここから先は私の指示に従ってください」
「上から・・?しかしそれでは私の面子が保たれない」
「不手際を冒したキャリアに、チャンスを与えてくれるような生温い場所ではないことは御存知でしょう」
ゲジゲジの濃い眉を寄せ、桶永が口の中で何やら罵倒めいたことを小さく呟く。
しかしそれも一瞬で、慇懃無礼な口利きと態度の新城に、生温い視線を送った。
張り付いたような笑顔は、やはり、先程エントランスで見たここの署長らとは打って変わり、その造り物の微笑は完璧だ。
だが、遥かにこちらのほうが、性質が悪いことを、もう経験上知っている。
新城にとっては馴染み深い胸糞悪さは、しかし、対応という意味では扱いやすい部類かもしれない。
「不手際だなんて大袈裟だ・・・。大丈夫、捜査は至って順調ですよ」
「――」
暗にお帰り下さいと指図されたことに、新城は心底愚劣な悪感情を抱いた。
確かにこんなやりとりで呑まれるようでは、勿論、上に立つ資質はない。
しかし、野性の縄張り争いに似た応酬を仕掛けてくる男に、馴染みの闘争心を抱きながらも、現状把握も出来ない俯瞰能力の欠如を嘲笑う。
そういう人間に、用は無い。
「この状況を順調と表現する貴方の太っ腹には、敬服する」
「所轄を制御出来ないことは、最近のキャリアでも良くあることだ。最近の所轄は訓練もなってない・・」
「使いこなせないのなら、降りるべきですよ」
暗に上に立つ器ではないと皮肉を乗せる。
桶永の顔色が少し変わった。
「この程度で失敗などと言われては我々は何も出来ないでしょう」
「桶永さん、貴方は捜査員一人を失踪させているんですよ。これはちょっとどころではない、処分に値する失態だ」
「所轄のやったことですよ!定時連絡を忘れているだけに決まっている・・・!」
「違うんですよ、桶永さん。・・・上はそう見ていないということですよ」
「・・ッ!」
大きく息を吐き出しながら、心底不愉快な感情を隠しもせず、新城は抑揚のない声で吐き捨てる。
怒りを通り越し、口調は酷く穏やかなものとなった。
自分の眼に見えるものだけが真実と思う素人が陥りやすい浅はかさなど、愚盲である。
全ては上がどう判断するかで、真実が決まるのだ。
鋭く息を呑んだ桶永を一蹴し、新城は頭を上げて背後に身体を開いた。
会話を打ち切られたことに苦汁を呑んだ桶永が、派手に椅子を蹴散らし立ちあがる。
「しっ、しかしまだ事件性があるとは――!」
尚も食い下がる惨めな足掻きを邪険な視線で一瞥し、新城は息を呑んで二人のキャリアの押し問答を見ていた周辺の捜査員に、毅然と口を開く。
「ここからの指揮は私が取る」
「はっ」
桶永が薙ぎ倒した隣の椅子までゆっくりとテーブルを回り込み、新城はその中央に優雅に腰を降ろしながらテーブルに両肘を付いた。
右側から刺す様な視線を頬に感じながら、端然と口を開く。
視線も向けない。
「貴方はキャリアとしては優秀かもしれないが、現場経験が浅すぎる。点数を稼ぎたいなら事件性があるかないかは重要ではないんですよ」
「――!」
「それと――、餞別に良いことを教えてさしあげましょう。尤も、貴方にこの情報が何か役に立つ日が来るとは思えませんが」
チロリと視線だけ流した。
その瞳は冷たく明らかな侮蔑が込められ、桶永を冷酷に見下す。
その視線の先の、顔を真っ赤に火照らせた桶永が、その屈辱に耐えながら憤慨した様子で鼻息を荒くして、感情を露わにしていた。
その時点で、この勝負は明白だ。
「派閥に尻振る小童がッ」
「お互い様でしょう?それに、貴方は出だしで決定的なミスを冒している」
「・・・どういう意味だッ」
「この所轄のことを良く分かっていらっしゃらないようだ」
「所轄?」
「ノンキャリは確かに――我々キャリアからすれば、毒以外の何の足しにもならないし、信用性も持たない。だが、ここは・・・・・少し毛色が異なる。それを
感じない時点で失格ですよ」
「なんだと!」
「・・・・少なくとも貴方が送り込んだ刑事は、意味のないルール反旗はしない男だ」
不本意にもね、と付け足し、頬杖を付いたまま、新城が視線を戻した。
認めたくはなくとも、時として世界の天秤を傾かせる人間というものは、表れるものだ。
本来、一人の人間の行える善も悪も、世界恐慌から見れば高が知れている。
それでも、運命だとか、巡り合わせだとか、何らかの天性の力を得て、理がそうなっていたとしか言いようのない奇跡を起こして見せる者がいる。
その天変地異に触れた時、冷静で実直な判断を選べるかが資性の分かれ目であることを、新城は既に学んだ。
この時点で、その傾きに気付かない人間は、そもそも組織倫理を語る素質もない。
「しかしッ、まさか、そんなこと・・・!」
「ご安心を。連絡が取れないということは、仮に故意だった場合、貴方の望む楽観的結末は目の前ですよ」
動揺を見せ、狼狽しながらも尚も食い下がる桶永に、新城は顎を持ち上げ、心底嘲弄の声色で吐き捨てた。
それだけ告げると、最早視界からも桶永を外す。
会議室に意識を向ける。
マイクを握り、声を張り上げた。
「――状況報告を!」
*:*:*:*:*:
新城は提出されていた全ての報告書に目を通し終えると、大きな息を吐いて分厚い紙束をテーブルに放り投げた。
背凭れに寄りかかったせいで、キィと椅子が錆び付いた音を上げる。
何も、手がかりになりそうな新たな情報はなさそうだった。
とりあえず、他の目撃情報が出ていないかを探らせるためと、尤もらしい理由を付け所轄を追い出し
本庁捜査員には拳銃ルートの方からもう一度洗わせていた。
こちらの方に何か動きが出れば、それが突破口になる可能性が高い。
目撃情報など、新たな情報など出て来ないことは分かり切っていた。
警察が総力を挙げてこのルートを探っていたのは、もう数年も前からなのだ。尻尾を掴みながらも未だ有力な検挙に至っていないだけの理由がある。
一朝一夕で糸口が今更出てくるとは思えなかった。
部下が気休めにと運んできたカップに注がれた珈琲が目の前に置かれる。
ふわふわと白く立ち昇る湯気が、視界を霞ませた。
この湾岸署に、こんな洒落たものはあっただろうか。
カップを手に取り、口を近付けると、焙煎の芳しい香りが鼻孔を吐く。
給湯室で、特別に入れさせたのか。
こくりと、味わうように口に含む。
「やはり、ケータイの電波は切られたままとの報告です」
「向こうが電源を入れないと無理か」
「携帯会社に問い合わせてみますか」
「現時点で、ケータイの居場所と捜査員の現移住場所に接点が見当たらない。無駄足になる可能性が高い」
「既に破棄されている可能性もありますしね・・・」
それは、ケータイの話か、本人の話か。
苦みを残したまま、珈琲を口に運ぶ。
ミルクもシュガーも入らない黒褐色の液体は、まるでこの場に相応しい。
このグループは、大まかな役員構成こそ知られているものの、その影のような実体を炙らせようとはしなかった。
特に、アジトと呼ばれる本拠地を持たないことが大きい。
その都度、集合地や連絡方法を変え、密会地もなければ、定住をしない。
故に、地元警察との諍いは勿論、地元の人間が治安などに苦情を訴えることもない。
売買も全てケータイのみで行い、取引の痕跡も残さない、煙のような集団だった。
だが、現在の密輸拳銃のおよそ3割を持ち前にする、巨大グループだ。
末端までの人数を入れたら、それこそ規模は計り知れない。
つまり、今何処にいるかを知らせたところで、その情報は何の意味も持たないのだ。
―だが、何故連絡を入れないんだ・・?
連絡を入れられない状況にあるのか。だがそれは、どんな状況だ?
奴らはアジトを持たない。
ケータイを取り上げられただけならまだしも、居住地のない彼らが一人の男を監禁するには、それなりの場所が必要だ。
処分するとしても、そうだ。
「生きて・・・・いますかね?」
「正体はバレたと見るべきだろう」
事情を知った男を生かしておくメリットはあるか?
最悪なケースは幾らでも考えられた。
「だが、死体が出て来ない以上、彼らはまだ何処かに潜伏している可能性の方が高い。取引は終わっていないのかもしれない」
「あ・・、しかし、それと捜査員の命とは・・・」
「いや。奴らは無駄なリスクは犯さない。殺すとしたら、多分、仕事を終え移動する時だ」
新城は再び、額に拳を当て、じっと下を見る。
視点はテーブルにあるが、その視界には何も映ってはいない。
新城が知っている青島は、こちらの言うことに一々反発してくる男だった。
本人の我儘で駄々を捏ねているのかと思いきや、生意気にも理屈を通してくるから、扱い辛いことこの上ない。
だがそれ故に、その思考は若く経験不足の嫌いはあれど、筋が通っていて、通用するのなら社会と戦わせてみたい面白さはあった。
悪戯に、捜査を撹乱させるような歪んだ行動原理を持つ男ではない。
つまり、この事態には必ず何かしらの理由が存在する筈なのだ。
彼が連絡を断ったなら、そこに必ず意味がある。
これをどう捉えるか――。
ふと、ここで、とある先輩の顔が浮かび、新城は自嘲の笑みを漏らす。
飲みかけの珈琲カップを、コトリとテーブルに置いた。
こういう時、あの男なら、どう出るのだろう。
やはり〝信じて〟待つのだろうか。
危険と紙一重の舞台に送り込んでいるのかもしれないのに?
「正気の沙汰じゃない・・・」
「はい?」
「いや・・・・」
そのリスクとは、果たしてどちらの意味を指すのか。
自分のことか、それとも信じる相手か。
新城は自分の思考に苦い笑みを浮かべた。
―私も大分、あの二人に毒されてしまっているようだ・・・
緩く首を振り、思考を断ち切ると、もう一度レポートの見落としがないかチェックを入れるために、テーブルに先程投げ出した紙束に手を伸ばそうとして
しかし、ふと、その指先が止まる。
脳内で、今し方蘇っていた男を、もう一度思い浮かべた。
―もし、また、室井がかつて言ったように、青島が俺たちキャリアの思考を越えることをしてくるとしたら。
馬鹿げた問いだが、室井と青島をセットにして考えると、その付加価値の可能性は格段に上昇する。
新城は不意に手元の資料を徐に引き寄せ、パラパラと捲り始めた。
ここ一ヶ月の横浜港に入港する貿易船の一覧表がある。
「考えすぎか・・・・」
だが、何となく胸中をざわめかす嫌な予感が拭い切れず、新城は手元の資料を漫然と見続けた。
もし青島も次のチャンスをラストチャンスと考えていたとしたら?
次とは何処だ?
連絡手段を断たれた男が、最後に頼るものは何だ?
「――・・・・」
新城は受話器を取り上げると、手早く本庁へと繋いだ。
そのまま、もう片手で胸ポケットからケータイを取り出す。
訝しげな部下に、鋭い視線を突き付ける。
電話が繋がる。
「局長をお願いします。至急ご相談したいことが」
次だ。次に電源が入った時がラストチャンスだ。
