東京変奏曲3season Ⅳ
第九章
1.
銃声は、三発だった。
あまりにも鮮やかなその動きに、誰もが息を呑んだ。
まるで身軽で、しなやかで、萌ゆる深碧のようなコートは羽となり、引力で引き寄せられた二つの身体は折り重なって
青藍の月明かりの下で睦み合う。
室井は最早青島しか見ておらず、腕に飛び込んできた愛しい者をただ無心に留めていた。
新城が桶永の銃を吹き飛ばし、室井の銃口は正確に青島の左耳横を擦り抜けていった。
どんなにぶっ飛んだ発言をしても、刑事として桶永を撃たないと気付いた青島が、桶永に身を寄せることで弾道を交わし
桶永の弾道は新城により阻止され、室井の頬を掠めていった。
どうせ青島を殺されると思って腕の拘束を緩めていた桶永の足元に、青島が身体を落とす。
身軽な青島なら、態勢を崩しながらも飛び跳ねるようにそこからジャンプした。
足場が悪かったためバランスを失っていた身体を、咄嗟に駆け寄った室井が腕を引き胸にしかと抱き留めた。
「五人、じゃなかったか・・」
非常事態に援護がなかったことに桶永が顔を歪める。
撃たれた右手首を掴みながらも、数歩よろけ、下がり、そこで桶永は持っていたナイフを投げつけた。
ダーツみたいに飛んだそれは、倒れ込んだままの青島の背中に向かうが、駆け寄った一倉によって振り落とされた。
だが、最後の悪足掻きと取られたであろう、その行動を、桶永は満足気に見納めた。
桶永の配下の銃は、外から細川が撃ち落した。
だがそれは、新城を護るために撃った、護衛のためだったと後の言い訳が立つ。
つまりはずっと窓下に潜んでいた。
警察はツーマンセルが基本だ。
ということは新城は室井と組んでいたのではなく、最初から細川と組んでいて、恐らくこの場にいない中野もまた別の人間と組んでいる。
今頃今宵共に逃亡するために集めた彼らは、一網打尽にされている。
事件は組対に渡ったと聞いた。
権限も失い、情報を断たれた彼らはもう敵ではないはずだった。
どうやってここまで頭数を揃えたか。
そして、最後の役者は一倉だと睨んでいた。
最初に室井が銃を出し、続けて新城も取り出して見せた。
他に人手を集めただろうとは言え、超法規的措置で手を汚すのはスリートップ、つまり一倉までであり
部下たちにリスクを負わせるとも思わなかった。
やはり事を急いだのが、敗因だ。
もしくは、こいつらの、警察の底力を侮って裏切った報いか。
初めに青島が言っていたように。
全てがスローモーションのように残像を残し、桶永は最後にそれを見治める。
工場の中央で、室井と青島は抱き合ったままだった。
バン、と一発、銃声が反響する。
一倉だった。
桶永の足元を狙ったが、桶永は既に闇と同化していた。
しまったと後を追う一倉の手前で、頭上からドラム缶が一斉に倒れだす。
そして、静寂に包まれていた工場は、派手な爆音に包まれた。
「うわあッ!なんだこりゃあ!廃油か?」
一番近くにいた一倉にはドラム缶の中身が落下と同時に弾け、飛沫を全身に浴びた。
「追え!追うんだ・・ッ!!」
新城が窓枠から顔を出し、怒号を浴びせる。
足元には、桶永のナイフが銀色に光っていた。
「つくづく地の利を生かした戦術を使う男だなぁ」
「ブレインがそういう出自なのかもしれません」
「浮かねぇ顔だな」
「我々は何度彼を取り逃がせば気が済むのでしょう」
きっと、そんなことは想定内で、これで返り血のひとつも浴びせられると思っていた訳ではなく
桶永はその隙を作ることで、闇に紛れた。
足元で、廃油と鉄錆と汚泥の中、磨かれた銀のナイフが、物言わず高貴に光る。
細川の指示が、割られた窓越しから風に乗って途切れ途切れに聞こえ、全ては一瞬の出来事だった。
2.
まず、交渉は俺に任せてくれと室井は言った。
「それは、対象者の目を引くという意味ですか」
「ああ。現場の詳細はこの図面通りだろう、だが想定外のことが起こるリスクがある。その時こちらの統率が乱れることは避けたい」
女の写真には室内の一部しか映っていなかった。
だがその場所は割と簡単に特定された。
青島が見ただけで分かる場所となると、以前の潜入で盗撮した場所のどれかの可能性が高く
当時のデータから、一致する箇所をピックアップした。
「必ず姫を連れ去る方法を幾つか仕込んである筈だ。私が交渉している間に探ってくれ」
話しながら室井が開いたケースに、一倉は目を剥いた。
「おい、そんなもん持ち込むのかよ」
「銃撃戦になる」
「ここは日本だぞ」
「お忘れですか、彼らは銃の密売を行っていたシンジケートだ。一本や二本、くすねるくらい、訳がない」
ケースには銃が五丁。
鈍光を放つそれは、重厚な重さと品質を持ち、今夜始まるものを訴えていた。
「物騒な男になったな室井」
「提案したのは新城だ」
「お前・・」
一倉が愕然とする横で、新城が悪巧みをした少年のように目を座らせて銃を取る。
ケースから一倉も取り出し、手の平に乗せた。
硬質の冷たさが、生々しい。
手の平サイズのそれは、指紋一つ付いておらず、キラリと光を反射した。
「おい、まさか、許可は」
「そのまさかだ。一倉、お前は銃を持つな」
「なんでだよ、いいぜ別に。ここまできたら始末書まで付き合うぜ」
「違う。桶永も必ずそう思うだろうから、別の人間に撃たせるんだ」
意味深に顎を擦る一倉が新城を横目で見る。
新城も承知の顔だった。
「細川と中野に持たせる予定です。外で待機させ、コンビを組む相手も別人にして裏をかく」
「・・・成程」
ここまで散々してやられたが、顔を合わせる度、室井、新城、一倉はセットだった。
局長室に呼び出されるところまでだ。
先入観として、今回もこの面子が雁首揃えば、またこの三人かと桶永は睨む。
「まあ、持っててもいいが。素振りに気を付けろ」
主に新城の直属部下として先入観を持つ細川を、姿を隠して投入、中野は本当に別の捜査員と行動させることで
こちらの人手不足を曖昧に見せる作戦だ。
「一倉さんには別のことをお願いしたい」
「なんだ?」
新城がテーブルの上から渡したものに、一倉は了承の目を向けた。
高性能カメラだった。
「配置は室井さんを先頭に、私がその背後を少し斜めから。一倉さんは外を警戒する振りをして部屋の全貌を見渡せる箇所からこれを」
「わかった」
一倉が胸ポケットから僅か見える角度で備え付け、ぼやいた。
「なあ、俺たち二度目だよな、上層部に逆らうの」
「嫌なら抜けていいぞ。目を付けられる」
「違ぇよ、二度目なのがおかしくねぇかと言ってるんだ。これ、罠じゃないか?」
火事の時はなんとか誤魔化せた。
だが二度目もそうできるとは限らない。
その対抗策が、捜査員のシャッフルだなんて子供騙しの策しか練れていない。
そんな目くらましに引っ掛かるキャリアはまずいない。
「だとしても、もう姫が突っ走って行っちゃったんだ、やるしかないだろう」
口唇を尖らせる室井は、むしろ桶永に先を越されたことよりも、青島に先を越されたことが、気に喰わない。
そして、青島がそう出ることを桶永まで計算していることも含めて、この挑戦は負け戦だ。
「どうするつもりだ?まさか」
「新城、銃を出すタイミングは任せる。それまではなるべく引き延ばせ」
「分かりました」
「まず私だけで交渉する。発砲は、こちらが合図するまで待てるか」
「室井さんこそ、姫を前にして慌てて撃ったりしないでくださいよ。最適なタイミングを見計らってください」
「・・・・・・分かっている」
室井にしては自信も威厳もない返答に、一倉がその肩を叩いた。
「桶永は巧みにお前を煽ってくる。姫が淫らな格好をさせられていたとして、正気保てるか?」
「仕事だぞ。お前と一緒にするな」
「裸エプロンとかどうだ」
「・・・・」
そこで黙ってしまうのが室井である。
連絡用の小型無線機を確認し終えた新城が耳に取りつけ、室井に頷いた。
準備は整った。
『保護対象者二名。ターゲットは確保。その弱点もまた同じく姫だ。必ず執着してくる』
『『了解』』
無線機から聞こえる複数の声に、全員の視線が中央で一致する。
「姫の暴走、止められるか室井?」
「それは私がやる」
「読まれてんだよお前の思考回路」
「意思疎通がままならないまま、行動原理を利用される?上等じゃないか。だったらこっちがそれを利用してやる」
室井と新城が防弾チョッキを身に着け、黒手袋を装着した。
「一課から信頼のおける人間、何名引き抜けそうだ?」
「上層部に内密な任務ですからね、皆渋るでしょうが」
「あまり出世欲のない人間を選んでやれ」
「いっそコレ、上への反乱のようだな」
「どうするんですか、その後始末」
新城のボヤキに、室井が手を止め、制止した空気に三人それぞれ顔を見合わせた。
クッと先に笑い出した一倉が、拳銃を翳すことで、自分の参戦を宣言する。
「室井お前、実は相当怒ってたんだな」
「んなもの、最初からだ」
3.
首っ玉にしがみ付いたままの暖かい身体を、室井はしっかりと抱き留めていた。
腕の中に戻ってくれた彼の淡い髪を片手で柔らかく搔き乱す。
座り込んだまま抱き合う二人に、交わし合う言葉はなかった。
「室井さん、出港用の船舶らしきものは見つからなかったとのことです。この港からと言ってましたよね」
「場所を変えたか、フェイクだったのか」
「ですが、幾人か関係者らしき人間が集まっていたのは確かのようです」
「ターゲットは」
新城は、緩く首を振った。
あの瞬間、恐らく彼は敗北を悟っていた。
それでいて、先に青島を殺そうと思えば出来たのに、しなかった。
欲に負けたと彼は言うだろう。
援護を期待していたとも考えられるが、咄嗟の判断として室井を撃ったのは、これまでの桶永にしてはらしくないミスだった。
それだけ、桶永にとって青島の中の室井の存在が脅威だったということか。
そもそも、この随分と穴だらけの呼び出しをしてきたところから、彼らの綻びは致命的だった。
何故それでも決行したのか。
青島の後頭部を抱き込みながら天を仰ぐ室井が、一倉も戻ってきたことで、ようやく青島の身体を解放した。
目が合い、見つめ合う視線は甘美で、夜に浮かぶ瞳に室井の胸が軋む。
泥だらけの青島の顔を室井の手がそっと擦る。
生きていることの今更の確認に、青島の指先も室井の頬をおずおずと触れた。
触れられた箇所にピリッと電気が走った気がする。
弾道が付けた残傷が、月光の下でも赤く線を描いていた。
「なにそんなの持ち込んでんですか」
「おまえこそ、一人で出向くなとあれほど」
「だって油断すると思って」
「油断しなかったらどうなると思ってたんだ」
「いいじゃん、実際だいぶ読みを甘くさせられたと思いますけど?」
以前の桶永であったなら、こんな手は通用しなかった。
それでも、差し違えても、今夜会うべきだと思った。会って、俺が終わりにするために。
「我々が間に合わなかったら、君は、」
「間に合ったじゃん?」
室井の両肩に手を置き、青島が無敵の微笑みを浮かべたら、室井は勝てない。
仕方ないなと立ち上がり、青島の手を引き、青島も立ち上がらせた。
「怪我は」
「あんたの方こそ、キャリアなのに無茶しちゃって」
「こんな子供騙しの作戦でよく生き延びたなという気分だ」
「キズモノになっちゃったらどうするつもり?」
青島がぴょこんと跳ねて、室井の頬をもう一度眺める。
新城が反らしてくれた勇者の印だ。
青島が新城を見る。
「なんだ」
「その・・、どうも」
「来るのが遅いと文句を言われると思った」
「どこらへんから俺たちの会話聞いてたんです?」
「お前が駆け引きに失敗したところからだ」
「・・失敗してません・・」
「キャリアの戦場で勝とうなどと、まだまだ百年早い」
反論しようとして口を開けたが、特に文句が出てこないことに気付き、青島がしゅんとなる。
その背中を室井がトントンと慰めた。
それを青島がジト目で見遣る様子に、幾度か入る無線のノイズが騒動の名残を伝えていく。
「結局俺の活躍の出番はなかったな」
一倉が懐から銃を取り出し、手の平に乗せてポンポンと揺すった。
新城がその様子を見て、問いかけた。
「何故、最後、外したのです?わざと逃がしたわけではありませんよね?」
「お前の思考回路はどうなっているんだ」
「私なら足元を撃ってましたよ」
肩を並べ、いがみ合う新城と一倉の睨み合いは、だが一倉が早々に折れた。
「悪かったよ。取り逃がした一因は俺にある。あの瞬間、追うべきか撃つべきかを迷ったのは確かだ」
「保護対象者が無事だったからと納得できるほど下っ端じゃないんですよ、我々は」
「分かってるさ。直接狙ったんだが、暗すぎて的を絞り切れなかった」
降参のポーズを取って一倉が正直に非を認める。
ヘソを曲げた新城は、腹の虫はやはり治まらないらしい。
イイコにしている人間こそ、キレると始末が悪い。
「あっ、そうだ、あの人は?」
青島が入り口の方を振り返り、汚れた額を服の袖で拭いながら、その姿を探した。
闇に溶ける黒のジャケットを肩から纏い、地べたに座り込んでいる彼女を見つける。
「いたいた、よかった・・!」
駆け寄った青島に、女は見上げ、ウェーブの髪を揺らして笑みを見せた。
「えぇと、“こーこ”さん?」
「はい、“あおしま”くん?」
座ったままなので彼女の豊満な胸元は覗き込めそうに、はち切れて、窮屈そうにジャケットの前を掴んでいた。
まだ青白い顔をした彼女の長い睫毛がふんわりと揺れる。
「名前呼ぶの初めてだ」
「お礼を言わせて。ありがとう、助けてくれて」
「いぃええ?」
にっこりと笑う青島の屈託のない笑顔に、こーこも自然と表情を和らげる。
青島がちょこんとその場に座り込んだ。
「こーこさんって言うの、可愛いね」
「嬉しい。どこかの誰かさんとは大違い」
その言葉に青島もピンとくる。
「え、もしかして、この人また事務的なこと言ったんだ?」
「貴方にもそうなの?」
「そうだよ!いっちいちしかめっ面で教科書みたいなこと並べてくんの」
青島が背後の室井を親指で指せば、室井が渋面で居たたまれない様子でそっぽを向く。
その顔を見て、青島がこーこに聞いた。
「知り合いだったんだ?」
「前にね、あたくしの店に聞き込みに来たことがあるの」
「ふぅん」
微妙な沈黙は廃工場の隠せない冷気の中で、誰もに真実を悟らせてしまう。
こーこがくりくりとした瞳を瞬かせ、青島を覗き込んだ。
「恋敵ね」
「デートしてほしかったのにな」
「あら、いいわよ。今夜のお礼に」
「ほんと?」
「・・何を勝手に二人で決めているんだ」
二人の会話に流石に居心地の悪くなった室井が口を挟む。
その室井を肩越しに振り返り、青島が半眼となった。
「ってゆーか!室井さん、俺と同じ花を贈りましたよね!まさかアレおさがり・・」
「ちがうっ」
「でも名前で呼んじゃってたしぃ」
その言葉に、こーこも反応する。
「あら、じゃあやっぱりあたくしの花がおさがりなの?」
「ま、待て、ちゃんと別に買ったというか、一緒に買ったというか」
どっちだよと二人に睨まれた室井が目を硬く瞑る。
言い訳もろくに出来ないところが朴念仁の室井であり、それを良く知る長年の友もまた、助けるだけの言い訳を持たなかった。
「室井さん、花なんて贈る人なんですね」
「!!」
新城の指摘に室井は更なる難問を知った。
この流れでいうならば、新城にも何か贈っておくべきだったのか。
見舞いに花を添えたくらいで、この居心地の悪さはなんなのか。
救いを求めるように室井が視線を新城から一倉に流すと、一倉はニヤニヤと下品な薄笑いを浮かべていたが
ハタと思いだしたように手元を上げた。
「ああ、そうだ青島、忘れねぇうちに」
「はい?」
主を失ったナイフを青島に渡す。
「桶永の形見だ。とっといてやれよ」
「見たくもないよ」
「恐らくお前に持っていて欲しくて、ここに残したんだ」
「何でそう思うんですか」
「いいから」
青島は黙ったまま、一倉の手の平に収まる銀色の光を瞳に映した。
軽そうでいて、とても重いそれを、手に取るだけの勇気はない。
しばらく躊躇っている青島に、こーこが背後から青島に身を寄せるようにして、肩に手を乗せた。
「そのナイフね、桶永の護り刀なの。酷いことをしても、ワルイコトしても、いつも大事そうに持っていた。そういうやり方しか知らない人だった・・」
「サイテーだったよね・・」
これで警察も庇いきれなくなった。
証言者が増えたためだ。
上層部も見て見ぬふりは限界だろう。
芋づる式に彼のバックにいた警察内部の人間が明るみに出ることは絶対避けてくる。
生粋のエリートキャリアだった。
そこまで伸し上がるのに、学閥や点数などの他に、それなりの努力もあっただろうに。
彼が一体何をしたかったのか、何を考えていたのか、今となってはもう分からない。
「桶永が憎い?」
こーこの言葉に青島はただ俯く。
きっと、もう会うことはない。
生きたくて必死に走った時間が駆け抜ける。
夢中で、ただ懸命に生きていた。あの時間がキラキラと眩しいのは何故だろう。
荒れた部屋、古い油の臭い、今も生々しく刺す化学薬品のぬめり。
腐臭漂う禍々しい時間が、だけど、何倍も重たくて、光沢を持って、鎮座する。
命が輝いていた時間。
「大嫌いだよ、・・・でも」
こーこの白い手が一倉からナイフを受け取り、青島の手の平に握らせる。
少し冷たい彼女の手の感触が、そっと青島の手を包み込む。
「だから、持っててあげて。馬鹿な男がいたんだなって」
“俺、がんばれたかな”
“お前ほど手応えのあるやつはいなかったよ”
「大丈夫。どれほど好きなひとに失恋しても、その時は来るのよ」
「そっか」
―でも、絶対なかったことになんかできないよ―
青島の言わんとした先を正確に汲み取り、こーこは微笑んだ。
それでも彼女は笑うのだ。
全てを知って全てを赦す彼女の言葉は、ただしんみりと青島の心の中に落ちていった。
青島の指先が、しっかりとそのナイフを握り締める。
「一旦引き上げるか」
「というか一倉さん、油臭いです」
「このスーツ、もう駄目だなぁ」
ぼやく一倉のスーツだけが、廃油でベトベトになっている。
全ての始末と引継ぎを終えた中野と細川も戻ってきた。
室井がこーこを振り返る。
「こーこ、君も今夜はホテルを取る。ゆっくり休むといい」
「明日、迎えに来て下さる?」
「・・いいだろう」
どうせ明日から当時の様子を彼女から聞かなければならない。
こーこの耳に口を寄せ、ひそひそ忍び笑う青島が、連絡先教えてよだの、フルネームどういう漢字?だの、適当なナンパをするのを尻目に
室井は中野に指示を出す。
「中野くん、悪いが彼女のホテル手配を。服の調達も頼む。それと送迎まで君がやってくれ」
「了解しました」
無線機を耳から外し中野に託す室井に、中野がおや?という顔をした。
「室井さんはどうなさるので」
「今夜はこれで自宅へ帰らせてもらう。大丈夫だ、こちらは何とかなる」
「分かりました」
その言葉に、一倉も頷き、踵を返した。
「一旦引き上げた。帰ろう」
静かに眠りに付く廃屋の、閉鎖され朽ちたこの工場に、もう要するものは何もない。
時を止めることを遮るものもなく、ただそこは耳鳴りがしそうなほど静謐が戻っていた。
「帰るぞ」
「え?あ、はい」
きょとんとした青島が、こーこと室井を交互に見れば、こーこが大変ねという顔をして手を振った。
ご愁傷様とも取れる笑みに、青島は乾いた笑みを零した。
4.
to be continued…

このシリーズはネタが浮かんだら更新していきます。