東京変奏曲2season Ⅳ









第十章
1.
敷地の建物は二十時間以上も燃え続けた。
塔は、最後まで燃えていた。

あの時、転げた窓から見上げた塔は外壁を剥がされ骨格を剥き出し、それでも火の粉を巻き上げ藍の空を焼き焦がしていた。
室井の目には塔が泣いているように見えた。
何を嫌がり、何に反発され、踠いて、見放されたのか。それでも敵わなかった灼熱が憎悪に変わり、現世を憎しみに焼き尽くす。
何がそこまでその人間を追い詰めたのか。
それは一体誰の苦しみだったのか。
或いは自分の化身だったかもしれない。


翌日の新聞やメディアの一面を戯画的に飾ったその火災事故は、近隣住民への告知や避難対応が早く迅速だったため、奇跡的に一人の巻き添え者も出さずに済ん だ。
その功績が内外から高く評価され、許可なく不法侵入しようとしていた事実は不問となり、五人は口頭での厳重注意に終わった。
プライベートでたまたま通りがかった偶然ということになっている。
どう間違えば個人的にこの面子が揃うんだと新城は苦みを潰していたが
誰も信じないその虚飾が警察の絵面だ。

その新城は、二つの捜査本部を見事に併行させたという外部評価の声も上がり、表彰か特進が検討されている。
〝あれだけ今際の際に願われたら荷受しない訳にはいかないでしょう〟
苦みを潰したいつもの調子で室井が告げる青島の言葉に複雑そうだった。

季節は足早に過ぎ、長かった冬がようやく終わろうとしていた。



***

白い病院の白い角まで進み、室井は立ち止まった。
たくさんの赤いチューリップとエーデルワイスを優美に誂えた花束を抱え、病室をノックする。
扉は開いていて、太陽がたっぷりと注ぐ室内は光が舞い、その元で緩くウェーブのかかる亜麻色の髪をゆるく結いあげた女がベッドの上で栗色の目を丸くする。

「あら、いらっしゃい」
「加減はどうだ」


・・・・一つ、思わぬ遭遇もあった。
青島に言われ三階へ駆け付けた室井を待っていたのは、あの時古びたバーで応対してくれた赤いドレスの女だった。

〝あら、迎えにきてくれたのが貴方だなんて〟
〝君だったのか〟
〝凄いわ、夢みたいよ。王子様ね〟
〝よくこの状況でそんな呑気な感想を言えるな〟

ドアを破壊して入ったせいで血の滲む室井の手に女がそっと触れる。
室井はジャケットを脱ぎ、女の素肌にかけ肌を護った。

〝逃げられたと思っていた〟
〝今度逢えたら貴方からキスしてって約束したわ〟
〝した覚えはないな〟
〝じゃああたくしからしても?〟
〝こんな煤だらけでか〟

楽しそうに笑う。
その笑顔が室井の凍えた心を辛うじて繋ぎ止めた。


「これを」
「まあ、嬉しい」

見舞いの花束を片手で差し出す室井はまるで事務的な装いなのに、女は両手を広げておどけて見せた。
赤いマニキュアも香水も付けていない女は以前会った時より少し幼く見える。

「君には子供っぽかったか」
「いいえ、これがいいわ。こんなスマートなことされると擽ったい」
「慣れているくせに何を言う」
「エーデルワイスの花言葉をご存知?」
「花言葉?」
「大切な思い出。プロポーズする時に男性が贈る花よ・・・情熱的ね」
「・・・花屋で春らしいものをとリクエストしただけだ」


笑み、瞼を伏せながら花の香りを嗅ぐように女は花束に顔を埋め、ベッドに腰掛ける。
ふわりとシフォンのナイトウェアが風に揺れた。


「具合はどうだ」
「お陰さまで。数日で退院できるって言われたわ」
「そうか」

火事から十日が過ぎていた。
検査入院していた彼女も、担ぎこまれた当初は火傷や一酸化炭素中毒などで衰弱していたが順調な回復を見せていた。
青島が最後まで気に掛けていた女だ。

「この花、誰を想って選んだの?」


室井は黙ったまま窓辺へと向かい、開かれたそこから吹き抜ける風を受けた。
病院の広場が見下ろせるそこは見晴らし良く、空気の冷えた今日は東京でも遠くの山々まで蒼く見えた。
陽射しは麗らかでも、まだ風は冷たい。


「連絡は合ったか」
「・・・いいえ」


桶永の行方は分かっていない。
あの火事に紛れ、そのまま姿を消してしまった。
そもそもあの日あの場所に居たかも定かではなかったが、その後の証言で火事の起きる直前まで敷地内での姿が確認されていた。
やはりあの工場が潜伏地で間違いはなかったのだ。
密輸グループと桶永との直接の関与や接点はいまだ上がっておらず、不透明なままだ。
キャリア官僚ということで、火事と監禁の件は証拠不十分のまま本人不在で訓告処分となった。

ただ、海浜公園から回収されたファイルと、無事確保できた逃走中の男が警察に残った。
警察は重要参考人と情報を手に入れたことになる。
焼け跡からは拳銃の残渣や射撃場なども発見されている。
火事で散り散りとなった彼らの次の行く先は分からないが、事実上ホームグラウンドが一つ消滅したと考えている。

ファイルの中身は驚嘆するばかりの銃密輸や売買に関する相手先や取引先、連絡方法など事細かな詳細な情報が記載された手書きレポートで、現在精査中だ。
その中から日本経済界を牽引する大手物産会社や一部のキャリア官僚の名も浮かび、警察上層部の一部を震撼させている。
この事件が起こした波紋を知るのはまだ先の話だ。


「貴方は監視のためにあたくしの前に姿を見せるの?」
「・・・用事のついでだ」
「・・・」

きょとんと眼をくりくりさせた女は急に好奇心露わに瞳を輝かせた。
ベッドの上で身を乗り出す。

「ねえ。あの時言っていた探し人って・・・あの子でしょ?」
「――」
「〝性質の悪いじゃじゃ馬〟ぴったりね」
「何かしたのか」
「裸で大乱闘。あの子が来てから工場はみんなお祭り騒ぎだったわ」


窓の外を見つめたまま振り返りもしない室井の背中が憂いを湛え笑みに滲む。
言葉にせずとも、必死で戦おうとしていた青島が目に浮かぶようだった。


「不思議な子だったなぁ。明るくて、優しくて、ちょっぴりお人好しで、頼りなさそうで」
「・・・・」
「惚れてたんでしょ?」
「単刀直入に聞くんだな」
「だって。恋敵なら敵いそうにないわ」
「こちらも手を焼いていたんだ」


男同士だとかキャリアだとか、体裁やモラルではないものを素直に認める室井の無骨な顔に、女の顔が崩れる。
あははと本格的に笑った女はいつぞやの接客で妖艶な雰囲気を造っていた仕草とはまるで違う、気風がいいものだ。
窓から肩越しに振り返り、室井は逆光になる背筋を凛と伸ばし目尻を細めた。

「やっぱり、笑った方がいい」

ぽっと灯るように女の頬が桃色に染まり、そんな顔もするんだと思った。


「狡いわ。ずっと不粋で気難しい顔ばかりして、急にそんなこと言うんだもの」
「君こそ。あんなに大胆に男に迫っていたくせに随分と初心な顔をする。それも計算か」


ふわり。
女がショールを剥いで裸足のままベッドから浮きあがった。
ランジェリーのようなナイトウェアが舞って細い足が縺れ、バランスを崩す彼女を受け止めようと、室井が片腕を伸ばすとそこに飛び込む様に女は凭れてき た。
上向き、口付けられそうになり、室井は咄嗟に両手で肩を押し留める。
細く華奢な肩が肌蹴け、パール色のレース越しに豊満な胸元が押し当てられ、その谷間が視界に入る。
やり場に困った手が、合わせて片膝を付いた足の上に置かれた。
持っていた黒鞄が彼女の背後で床にどすんと音を立てて落ちる。


「んもぉ、隙もないのね」
「警察キャリアに隙があったら大問題だろう・・・」
「それもそうね」
「一体君のはどこまでが計算なんだ」
「キスをくれたら白状してもいいわ。それともベッドで好きって言わなきゃ駄目かしら?」


この少し恍けた洒脱さが何処となく青島を彷彿とさせ、室井は小さく笑った。
その顔に女が瞳を瞬かせ、魅入る。
結った髪が解け、肩に遅れ毛がはらりとかかる。
室井は黙ったまま彼女の手を取り、ベッドへと誘った。
丁寧に座らせ、落ちたショールを差し出す。


「また来る」
「・・・退院したらもう会いに来ない?」
「暫くは身辺警護が付く。担当は私が決める」
「ならせめて、その時は名前を呼んで?」
「・・・何だ」
「こーこって呼んで」
「源氏名か」
「失礼ね、本名よ!」


んもぉ、と少し不貞腐れたように頬を膨らませ、女が視線を逸らした。
事件以外で女性と向き合って話す機会など室井に草々なく、形だけは酷く親密な距離を造り出す女の物理的な間近さに、戸惑いと巍然を思う。
だが距離を飛び越えてくる人間というものは居るものだ。


「君は不思議な女だな。多くの男を知ってきただろうに」
「だから落とし方も知ってるの」


あっけらかんと言う酔眼もない捉えどころのなさに女性の神秘を見出しながら、フッと室井が気を緩める。
ずけずけと情愛を向けられても嫌味を感じさせない。得な女だ。それも商売上で培ったスキルと思えば切なくなる。
だからだろうか。
朴訥として己を語ることを得意としない室井の口が、困ったように薄く開いた。
そう言えばあの夜もこうして心情を暴露させられたんだった。


「こんなつまらない中年男に大した面白味もないだろう」
「貴方はきっと自分の魅力を分かっていないのね」
「言ったろう、たった一人と思った相手に手も出せなかった腰抜けだ」
「あの子、ずっと貴方を待っていたよ」
「知っている。あれは意外と寂しがり屋だから」

物狂おしい顔をして女が小さく吐息で笑うと、その細い指先を花束の上へ手向けた。

「妬けちゃうわ」
「よしてくれ、この歳で一途なんて粋がりたくない」
「・・・受け止められるの?」


言葉に含まれた意味を察し、室井もまた花束へと視線を向ける。
濁りのないエーデルワイスが、煙に消えた想いを弔い、無言で風に揺れる。
少し風が冷えてきた。


「寒くないか?」
「ありがとう、大丈夫よ」
「身体が冷える。少し、窓を閉めよう」


もう一度窓辺へと寄り、半分だけ閉めた。
橙の陽射しが傾いてきている。

女の言わんとしていることはまるで白昼夢のように幻惑的だった。
だがあれは現実だ。
青島の身体中に残されていた情痕。あんな鎖を巻いてまで強行したことが合意である筈がない。


それ以上のことを女の口から言わせるのも苛酷な気がして、室井は追求をしなかった。
どんなことがあれ、この気持ちはもう変わらないのなら真実なんか意味がない。

会話を終わらせ床に落ちていた黒鞄を掴むと出口へ向かう。
途中、ベッド脇に置かれた花束を取り上げ、もう一度女の胸元へと差し出した。
不安げに見上げる女の顔の横に純白のエーデルワイスが咲く。


「そんな顔をしなくていい。私にとっては些細なことだ」
「次はちゃんと捕まえられるの?」
「・・・・ああ」


ようやく女が安堵したように目尻を緩めた。
その小さな溜息は背負っていたものを吐き出すかのように室井には見えた。
その顔の横で埋もれるほどのチューリップは静かに華やぐ。


「今度逢う時は名前を呼んでキスしてね」
「・・・・」
「何かあったらあたくしを思い出して。決して裏切らないわ。お礼がしたいの」
「その礼がキスなのか」
「そうよ?だめ?」


室井の虹彩が艶を帯びて雄弁に語る。
そうして、室井は病室を出た。

「君には赤のイメージがあった。そのチューリップも君のために追加させたものだ」

退室がてら、室井がそう告げると女の顔が一瞬にして崩れ、どうしてそういうことを言うのと詰る声が廊下まで響き渡った。
成熟した男の笑みを浮かべながら、室井は病室に背を向けた。









2.
病院を後にし、正面ゲートまで来て室井は一度だけ振り返る。
午後の陽射しを浴びてカナリア色に染まる白い巨塔は青空を背に沈黙していた。
広場で談笑する声が風に乗ってここまで届く。


あれから、一番最後に助け出された青島は、昏々と陽の光の中で眠っている。
この一ヶ月の悪夢と不安の夜も塗り替える。
もう彼を脅かしていたものはない。
悪夢は確かに終わったのだ。

事件が別つものは大きかった。
それでも、胸を張って彼の元へ行ける気がした。

黒々と光る革靴が踵を返す靴底で、ジャリという音が上がる。
この季節最後の霜が下りていた。









The next stage begins…

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第二部了。