東京変奏曲2season Ⅳ
第九章
1.
今夜は非常につまらない夜になるかもしれない。
西の空に沈んでいく太陽が周辺を煉瓦色に染め、熱を失い始めた大気が急速に光を失い始めた。
涅色のシルエットを描く街は異常なほど人の気配が消え、活動を停止している。
日没まであと二十分。
室井は車の脇に立ち、目に痛いほどの西日に目を細めた。運転席には一倉が険しい目付きでハンドルに腕を掲げている。
かつて産業の中心となって活気づいた街の一角に位置するこの大型製鉄工場は、大きな敷地に複数の棟を有するこの街のハイライトだ。
今も連綿と活動を続けている。
澄み切って冴える藍色の空に白緑色にライトアップされた蒸留塔の存在感が圧倒し
鈍く光る銀色のパイプ群が朗々と畝る。煙突からは白煙が途切れることなく上がっていた。
夜照明に照らされるダイナミックな機能美に一度だけ目を送ると、二人は辺りを窺った。
「本当にやるのか」
「今更何だ」
「姫か桶永か。どっちかが発見出来たら突入するって話だったじゃねぇか」
「一致する関係者が出た以上、彼にも任意同行を求められる」
「んなこと考えてもいねぇ癖に・・・」
ドアウインドゥを下げたそこから一倉のしょうもねぇという苦笑が地を這う。
この敷地内に出入りする人間と、保有していたデータチップに残されていた顔写真の中から一致する人物を探し当てたのは昨夜遅くのことだった。
桶永の車を運転をする若い男がどうやら先の事件でも関係していたという細い関連性を頼りに、この場所の確信を高めた。
ピッという機械音が走り、無線機からノイズの酷い音波が二人の緊張を呼ぶ。
『B地点。予定配備完了しました』
『了解、あと二十分で突入開始だ』
室井の冷静な声が静かに夜に放たれた。
東側の正面ゲートから新城が、西ゲートから室井がそれぞれ同時に突入し挟みうちにする。
車が出入りできそうな大きな搬入口はそこだけであることは図面から確認済みだ。
一倉はその連絡役として此処で待機、外からの指示を行う。
それが今回の無謀な計画の一部始終である。
目的や狙いの共有など、ろくなものを煮詰めていない。人手も割けず信頼の於ける部下一人を連れたゲリラ戦である。
バレれば処罰どころか懲戒免職、クビも確実だろう。
あまりに無茶な捜査方法に、室井自身内心呆れている。
確たる証拠も令状もない強行突入なのだ。
無論、厳密にはそんな空論だけではない。緻密な情報収集は兼ねてあり、ほぼクロだという確信までには持ってこれていた。
二人の存在こそ確認できぬものの、関わりある大物政治家と工場との接点や、出入りなど、クロスチェックでは複数の事実確認と証言が取れており
近隣住民の聞き込みでは桶永らしき人物の姿も目撃されていた。
それらは全て青島があの日捨て身で持ち出したデータチップの解析結果所以である。
青島はきちんと自分の始末を付けてくれていた。
ただ警察組織として一番重要な99%を100%にする証拠が上げられなかった。
地平線など見えぬ東京の街でも、黒々と陰る家々の隙間から微かな残光が黄金に色づいてきた。
「全ては憶測で、陰謀説や類比推理の域を出ていないんだぞ。・・・要は当てずっぽうだ」
「ガセ情報に踊らされていると言いたいのか」
「何も出なかったら警察面子どころの騒ぎじゃなくなる。・・・俺もとんだ友情に足を踏み入れちまったモンだ」
「ビビるなんてらしくないな」
「ぬかせ、お前の肝っ玉が異常にデカイことをつくづく思い知ったよ」
一倉のおどけた物言いに室井はフッと息だけを吐き出した。
青島に感化されたという印象が周囲には強いが、室井の帰来の気性は激しい方で、いざとなった時の度胸は人一倍だ。
その牙は普段玲瓏で高潔なスーツの下に隠されていて滅多に顔を出すことはない。
同期として長い付き合いだった一倉でさえ、三年前の青島との暴走は青天の霹靂だ。
恐らく本人でさえ意識して制御出来る類のものではないのだろう。
一倉はチロリと視線だけを上げて隣に佇む男を盗み見る。
だが、その牙の在処を青島が覚醒させた。
危うさと資質を同居させたその力を、そこに内在すると周囲に知らしめたのだ。
それが三年前。そしてその男は今その牙を剥いて喰らい付こうと躍起している。
不覚にも、この資質に引き摺られる。
「この間もマスコミを抑えたんだろ。何したかは聞かねぇが、上もキナ臭いって思ってるぜ」
「どうせこの捜査は最初からオフレコだ。何も起きていないし、誰も見ていない。つまり処分も出来ない」
「強弁だね。俺は警察官として釈明されるのか、それとも肩書も名前もねぇチンピラとして葬られるのか」
「お前がそんなセンチメンタリストだったとはな」
「こんなスリルは金輪際勘弁してほしいね」
室井の瞳が毅然とした深みを帯びた。
「すべてが予定調和だ」
寸暇、見つめ合い、男たちは共通意思を確認した。
思い出したように一倉が胸ポケットを探った。
「・・・そうだ、お前にプレゼントがある」
「?」
「やるよ。姫と再会出来たら二人で祝杯でもあげろ」
一倉が取り出したのは小さな200mlクラスの小瓶だった。
中身は酒だと一目で分かる。
一倉愛飲のテキーラだろう。
ハードボイルドの代名詞のような存在であるそれを胸ポケットに入れて持ち歩いている辺り、一倉の愛嬌がある。
「お前、飲酒運転・・・」
「するかよ。未開封だ」
「・・・いらない・・・」
「ばっかお前、売上世界No.1の本格テキーラだぞ」
「だからなんだ」
「有り難く受け取れ」
「職務中だ」
「硬いこと言うなよ。愛しの姫君との久々の再会だろ。・・・祝おうぜ、室井」
「――」
一倉の云わんとしていることを察し、室井は口を引き結んだ。
一倉なりに心配と懸念と、そして同情と憐憫を、この酒に込めたつもりなのだろう。
室井の、青島への妄執も情愛も分かった上で、差し出してくれているのだ。
再び逢える奇跡を願い祈り、二度と会えなくなった二人の運命に、虐げられた室井と青島の運命に
それでも続く時の無常観に。
そして目の当たりにするであろう残酷さに。
男というものは歳を取る程に不器用となり口下手となる。
この突入が齎す凄惨な結末は、少なくともこの事件を収束させ、一つの現実を室井に突き付けるのだろう。
何を知ることになるのか。何を見ることになるのか。
この職業に就いていると助けたいだとか救いたいだとか護りたいだとか、そんなピュアな想いは確かにこの胸にあるのに
けれどもそんな思いはいつも悲しい現実の前で徒労に終わる。
必死になり、努力しても誠意を込めても、そんなのと結末は無関係で
大抵が打ちのめされたり、打ち砕かれたり、時には自らの手で見限らされたりする。
事件が人を欺き続けたその先に、何があるのか。
酔わなきゃ立ってもいられない事態になっても、恐らく室井は泣き縋ったりなどしない。
それを見越した上での、この酒なのだ。
手を出せず、室井は拳を硬く握り締めた。
酒ではなく現実の象徴としてのシンボルを受け取る覚悟を不意に求められ、怯む。
そんな室井の気負った気配に、一倉は微かに苦笑し無理矢理スーツの襟口を引っ張った。
バランスを崩し、室井が咄嗟に車に手を付く。
「お、おい・・一倉ッ」
「俺からの餞別だって」
一倉が胸ポケットに小瓶を捻じ込む。
室井は困ったように眉間を寄せた。
押し付けられた小瓶の入った胸元に室井が強張った片手を忍ばせる。
ニヤリと一倉が口端を持ち上げた。
「・・・」
仕方ないというように肩を落とし、室井は指先でスーツの乱れを正した。
起床し、出社し、働いて帰ってきて、眠る。家族や友人、同僚と同じ空気を吸い、食事をし、話をする。
ただ同じ日常を繰り返す当たり前の退屈な残酷こそ、日常であり、幸せだ。
青島のいない日々には空しさだけしかない。
だが、刑事は引き摺るわけにはいかない。
長引けば長引くだけ危険は増す。
青島が好きだった。愛していた。本当に大好きだったのだ。
いなくなったと同時に醜い妄執は純愛へと変わった。
仁義はシンプルに届かない者へと愛を謳う。
それに今、決着を付ける。
「あと十分。日没と共に決行だ」
男の瞳の中に紅い西日が灯った。
2.
『B地点異常なし。残り五分』
『A地点異常なし。了解』
陽が傾き、闇が覆う街はジリジリとした焦燥を表わしているみたいに迫っていた。
長い影が煉瓦色の大気と同化し、ピンと張り詰めた空気は温度を下げ、その分熱を凝縮するように圧迫させてくる。
無線の向こうの新城の声は動じた様子もない。
こんな時どれだけ平静を維持できるか、その精神力もキャリアの器であり、刑事は事件に試される。
その意味ではここにいる男たちは皆冷静だった。
日没が迫る。
それは、何の前触れもなかった。
ふと、室井は車のリアガラスが何かを反射した気がした。
不審に思い、振り返る。
――刹那、足元が崩れ、大気が割れた。
「ッ!!」
地響きが唸るような爆音と共に震動し、世界を揺らしていく。
数歩遅れて爆風が突風のように訪れ、辺りの塵や埃を巻き込み吹き抜けた。
片手で目元を覆った直後。
ザアッと過ぎ去る風音にスーツの裾が千切れんばかりにはためき、呼吸を阻害する。
風圧で踏みしめた足元もジリリと後退した。
辺りの木々もなぎ倒されんばかりに撓み、粉塵を巻き上げ、竜巻の中で車も揺らめいていた。
「ンな・・ッ!何だ!?何があったんだ!?」
「分からないッ!」
一倉が顔を出すと、室井も片手を上げ、西側の空を仰ぎ、二人で瞠目する。
そこには先程まで夕焼けで染めていたのを再現したかのように空が赤く染まり、西塔からごうごうと紅蓮の炎が上がっていた。
「事故か!?」
「燃えているのはタンクじゃない!」
「だが時間の問題だぞ!」
無線が入る。
『室井さん!』
『無事か!』
『問題はありません!ですがかなりの規模ですよこれ!』
『突入開始だ!敷地に入れ!まず避難を優先させるんだ!私もすぐ向かう!』
『了解』
無線機を乱暴に車内へ放り投げると、室井はバックシートに畳み置いていくつもりだったコートを引き摺り出した。
「どうする気だ室井!」
「避難誘導をしながら姫を探す!」
「無茶だ!」
「時間がない!お前は近隣住民に避難を呼びかけろ!それから三大緊急車両、全部呼んでおけ!!」
***
二手に分かれた室井と新城は同じ終着点――合流地点を東西から目指す。
敷地内の西側は断線しているのかブレーカーが飛んだのか、闇に沈んでいた。
炎の灯りを頼りに悲鳴を上げ逃げ惑う人々に大声を張り上げる。
避難を促しながら室井はコートを頭から羽織り、白布で口元を抑え、火元と思われる奥手へと逆行した。
中野もジャンパーを被り火の粉から身を護る。
まるで迷路のように長い通路だった。建物の構造は勿論、築年数もかなり古い。
停電し、外からの灯りだけが頼りの廊下は紫紺の大気に朧に浮かび上がっていた。
そこにスモークの如く這う白煙が行く手を阻む。
このタイミングでの攻撃、放火を仕掛けてきたとなると、いよいよ以って相手も本気を出してきたということかもしれない。
否、気付かれていた?
つまりこれは脅しではない。
恐らく、事故でもない。
何者かが何らかの意図があってこの建物を本気で破壊しようしている。
「これじゃ顔の判別も付きませんね・・!」
「対象者を見つけるどころじゃないな・・・」
「混乱に紛れて逃げ出したとするなら、運の良い奴だ」
「本当に運だと思うか」
同じことを考えていたらしい。
室井のぼやきに中野もまた逆風の中、苦い視線を送り返した。
「まさか情報が漏れて我々を撹乱すること目的とした火事だとは思いたくないですね」
「可能性の指摘だ」
記憶してきた配置図面を思い浮かべ、部屋を端から確認していく。
今回の突入の最大目的が人質救出から避難誘導にシフトされたことで敷地の隅々までを巡る大義名分を得た。
後ろめたさもなく探索させて貰う。
火傷防止の意味も含め白手袋を装着、点灯させた小型ライトを歯に挟んで辺りを照らす。
焼け焦げる煙と煤が徐々に濃度を高め、ただでさえ悪い視界を白く濁らせた。
喉に燻る苦みを与えてくる。
「駄目ですね・・・これ以上奥手に向かうのは危険かも・・・しかもこうも暗いと何が何だか・・・」
「ああ・・」
サッと辺りに光を走らせてみるが、暗くてまるで分からない。
かなり築年数の経った建造物は天井も低くコンクリートが剥き出しの梁が影になって浮かび上がった。
「出火原因はどこなんでしょうね?」
「西塔が爆発するのを見たが・・・火の手はもっと前から上がっていたかもしれない。あの塔は図面では爆発事故が起きるような施設ではなかった筈だ」
「人災なら何で熔接炉とか、あっち側を狙わなかったんでしょうね?」
「狙いは西塔そのものか」
「もう狙いどころじゃなくなってきましたけどね。このままガスタンクに引火したら」
「先を急ぐぞ。考えるのはあとだ」
十分程で中心部となる東塔に辿り着いた。
中央で合流した新城たちと四名連立って、更に奥、つまり西塔へと向かう。
頬に突き刺す様な熱。焼け焦げた臭い。窓の向こう側で轟々と燃え盛る火の手。
喉や目の痛みが強くなり、咽るような息苦しさの中、濛々と熱気が迫ってくる。
出火元に近いとあって、焼失臭と混乱の惨状は比ではない。
お互いの声さえ遮る騒音の中から少しの薬品臭もし、揮発性のガスなら引火・爆発的な化学反応を起こす可能性が危惧された。
「室井さんッ、もうこれ以上は危険ですよ・・ッ」
「ここは撤退した方がいい・・!」
「・・くそ・・ッ」
「ですが今来た道はもう引き返せないですよ!」
「二次災害の危険もあるな」
「逃げ遅れた人ももういなそうだ。改めて後は消防に任せて――、ッ!!」
間を置かず、突如、崩れ落ちるような二度目の爆音。
気圧が変化したかと思うと震動と共に荒々しい破砕音が空気を切り裂いた。
窓の外に瞠目する。
隣接する木造家屋が奇をてらったように崩れ落ちていた。
崩落の向こう側が轟々と唸りを上げ、極彩色に彩られた煌びやかな光が天上を照らしているのが眼前に飛び込んでくる。
火の回りがやはり予想以上に早い。
ゴォォと獣が唸るような音。
日没をとうに過ぎ、闇に覆われた筈の都会の夜空を覆う濛々とした黒煙。
温度差で竜巻が起こり、火の粉を屑のように巻き上げる。
ガラガラという惨烈な崩壊の裂傷音に硝子が割れる音が混じった。
「伏せろッ!」
「ウゥ・・ッ」
風向きの影響で視界が一瞬にして真っ白になり、足が動かせず、向かってきた黒煙に呼吸が阻害される。
西棟とは十m以上離れているのにこの威力。
火事をなめていたわけではないが、昭和期に密接して建てられた工場建築はその多くが朽ちた木造であり相対距離も近い。
この乾燥した季節も火事の条件を高めているのは不運だった。
危険だ。瞬時にそう認識するのと同時に細川が近くの扉を蹴り破り、庇うまま新城を突き飛ばす。
追うように中野も室井の肩に手を回して押し込み、続けて机を踏み台にして飛び上がり、奥部屋へと転がり込んだ。
大きな窓が割れ、けたたましい音とともにガラスの破片が部屋の中まで撒き散らされた。
熱風は、防護もろくにしていない身体を弄るように襲い掛かる。
「ッ!!」
腕を押さえ、頭を擡げ、倒れ込んだ窓から空が見えた。
夜空を焦がす炎は骨組みさえ残さず、燃え盛る。
まるで知られたくない真実を声なき声に化し、咆哮のように哀しみが宿る紅蓮の炎が天へ昇る。
やがて、遠くで火災報知機がようやく鳴り響き、けたたましい破裂音の中、頭上でジジという音がして非常電源による通電が開始した。
同時に、天井からシャ―ッという音が耳に届く。
「スプリンクラーかッ!」
旧建築基準法時代だろうに、一応それなりの規模の工場だ。
老朽化で反応は遅れたが非常用設備は整っているらしい。
「そうか・・・こっちは住居棟だから・・・」
工場内では下手に水や消火剤を散布する方が劇物との化学反応で危険を誘発することがある。
防火設備は冷水より遮蔽癖、シャッターだ。
だが幸いなことに既に工場関係者が寝泊まりする区域に入っていたらしい。
建物が自家発電に切り替わったことで安全装置が作動し始めたらしく、施設の警報音も鳴りだした。
上から舞い落ちる水滴が全身を濡らし、垂れてきた水分を拳で拭う。
背後では白く煙った視界が爆発的な白煙を呼んだが、徐々に冷やされた廊下は視界を取り戻し始めた。
煤と埃だらけの汚水が全身を濡らしていく。
皆がのそりと起き上がった。
ライトを傾ける。
辺りは銀色に濡れて大気が浅葱色に煙っていた。
その時、もう一つ通路があることに気付く。
「此処は」
「確か・・・発電設備などの制御室に向かう連絡通路じゃ・・・」
「溶鉱炉なんかとは逆の方角か」
「脱硫装置とか蒸留装置があった方ですね・・・」
「逃げ込めそうですけど・・・行き止まりみたいだ」
それぞれが各々の記憶に頼った推量を口々に呟いた。
新城が廊下の奥にライトを向ける。
幾つか扉が見えた。
「住居棟にしては狭い」
「だが此処に居ても危険ですよ」
「人が取り残されているかもしれない、行くしかない」
3.
窓もなくなり、壁だけが続く墨色の世界を中野が先頭になって進む。
閉ざされた通路は外の熱気で蒸し風呂のように気温を上げ、茹だるような熱さへと変わった。
汗がジワリとシャツの下を滴っていく。
木目調の低い天井と梁がトンネルのように続き、天井にぶら下がる裸電球が外界の震動に時折揺らめいた。
外界から遮断されたそこは穴倉のように陰気で、くぐもった音が遠くに聞こえる。
扉は鍵が掛かっている場所もあり、人の姿はなさそうだった。
「ここら辺の部屋は倉庫にしてたみたいですね・・・」
室井がライトで指示した方向に新城も視線を送り、頷いた。
各々が手分けをして部屋をチェックし、誰か残っていないか声を掛ける。
一番奥の部屋は扉が細く開いていた。
光が入っているようだ。出口かもしれない。
そこの扉に最初に辿り着いた室井は行儀悪く足で扉を全開にした。
安全を確認した所で顔を覗かせ、途端、その全身に衝撃が走る。
目に飛び込んできた光景に目を見開く。
ベッドが一台、中央に鎮座しているだけの粗末な部屋だった。
棟と棟の連結部分を改築したようなその染み付いた部屋は、物もほとんどなく、窓もなかった。
小さな椅子と戸棚。
非常電源によって点いた照明が揺れる下に茶色の事務テーブル。
奥にもう一つ扉が付いている。
そのベッドの脇に人の足が見えた。
声を掛けようと走り寄った室井の足が直前で止まる。
その人間は全裸だった。
至る所に浮かぶ鈍い痣。
散りばめられる鬱血の痕。
全身にこびり付いた白い残渣。
焦げ臭い火災臭の中でも消えない体液の生臭さが部屋中を満たす。
この部屋で一体何が行われていたのか、成人した者なら誰でも容易に下衆な想像が出来た。
「・・・ッ」
だが、室井を真に驚かせたのはそのことではなかった。
この目が、誤魔化される筈がない。
先日何体もの遺体を検分し、その微小な誤差さえ見抜いた目である。
その肌。その髪。その骨格。その四肢の美しい長さ。
何度も目にしたことがある輪郭だ。顔などなくてもうつ伏せでも室井が見間違う筈がなかった。
当たって欲しくない思いと、この残酷な遭遇の怨嗟で、室井は身震に苛まれながらその人間の傍らに両膝を付く。
裸体はうつ伏せで床に転がり、両手には太い鎖が巻き付いていた。
逃げようとして、ベッドから転げ落ちたのだろう。
丸い桃尻が上を向き、そこから伸びる瀟洒な長い脚。玉肌に残る渇いたものからまだ水分を含む男の体液。
刃物のようなもので裂かれたシーツが頭部から肩の辺りに巻き付いていた。
嗚呼。
室井は一度硬く目を閉じると、歯で白手袋を脱ぐ。
震える指先を伸ばした。
触れるのが恐かった。
生きているのか、死んでいるのか。
「・・ッ、」
身体はまだ温かかった。
仰向けにする。だらんと力の抜けた身体が床へ転がった。
その顔を視界に映し、絶句する。
殴られたのであろう、前髪の張り付く陽気で愛らしい顔は痣で膨らみ、瞼が赤くなっていた。
全身の皮膚は所々紫に変色し、その全身に情痕と共にこびり付く白い精液。
「なんて・・・ことを・・・」
拉致をされた人間が暴行を受ける確率は高く、室井もそこは懸念していた。
覚悟と言っていい。
腫れ上がり原形を留めない顔。腐敗し飛び出た内臓。折れ曲がり変色した四肢。そういう遺体を何千と見て来た筈だ。
だがまさか、こんな性的暴行を加えられるとは予想外だった。
想定していなかった訳ではないのだと思う。でもまさかという思いの方が強い。
あってほしくなかった。
それは今までみたどんな惨劇より室井を鋭利に突き刺した。
憎しみなのか哀しみなのか怒りなのか、良く分からない激しい渦が室井の裡で濁り狂う。
恐々と頬に触れる。・・・・息はしていなかった。
怺るものも堪え切れず室井は息を途切らせる。
虚ろに空いた口の奥で奥歯を噛み、必死に息を継ぐ。
覚悟はしていた筈だ。淡い期待は頑強な意志に閉じ込めた。それでも。
何でこんな目に。
何で君が、こんな目に。
どうしてこんな仕打ちを・・・!
水没した者のように息を荒らげ、胸元の、御守りが入っている辺りを掻き毟る。
大事で大事で、どうしようもないくらい大切にしていた。
ようやく、ようやく、逢えたのに・・・!
間に合わなかった。また、俺は間に合わなかった。
「・・・ぁ、はッ、・・・あぁ・・・・」
少し滲んだ視界を閉じることも怖く、室井は必死に目を見開きながら、浅くなった息を殺し、その細髪に触れる。
柔らかい、知っている感触。
汗と精液でごわついている。
汚れた頬へ指を滑らせた。
耳から頸動脈に指を這わせ――そこで、室井の目が見開かれた。
トクントクンと波打つ僅かな脈動。
まだ生きているのか・・!!
どういう状況なのかは分からない。
だが室井の思考が目まぐるしく回転していく。
見たところ、目立った外傷は性的なものだけのようだった。
大量の出血の跡などもない。痣だらけの肉体にはそれらしい大きな裂傷も見当たらない。
辺りに視線を鋭く走らせる。
精液以外の目立った残痕は見受けられない。
薬や覚せい剤などの薬物を投与されている危険性はある。
だが心臓は微弱だがまだ動いている。
ならば煙を吸い込んで一時的に酸欠になっているだけの可能性の方が高い。
それも、ついさっきのタイミングで。
「・・ぁ、青島・・ッ、しっかりしろ、青島・・ッ」
ひたひたと頬を叩く。
反応はない。
「誰か・・!新城!来てくれ!早く!!」
大声を張り上げ、室井は青島に覆い被さり、鼻を摘まんで口唇を合わせた。
思い切り息を吹き込んだ。
ザッと片手でシーツを引き下ろし身体を包むと、今度は強めに頬を叩き、反応を確かめる。
「息をしてくれ・・!」
顎を持ち上げ、もう一度思い切り吹き込む。
反応はない。
「どうしまし――!」
扉から入ってきた新城が後ろで絶句し棒立ちになった。
細川と中野も後に続いてきて、同様に部屋の惨状に絶句した。
室井は振り向きもせず、檄を飛ばす。
「救急隊だ・・!急げ!」
「・・・は、はい・・ッ」
中野がケータイを取り出し外部と連絡を取り始める。
「目を開けてくれ・・ッ」
駄目だ。
何か、何か気付けになるもの・・・・。
瞬間室井の脳裏に一刻前一倉から渡されたものが閃いた。
「一倉、お手柄だ・・!」
室井は青島の肩の下から手を入れて、その胸に彼を抱きかかえた。
胸ポケットに手を入れ、渡された――押し込まれた小瓶を取り出すと、キャップを歯で噛み、食い千切るように開封する。
片手に持って煽る。
そのまま青島の口を塞いだ。
琥珀色の液体が飲みこみきれずに二人の密着した隙間から垂れていく。
「起きてくれ・・!」
ぽたぽたと琥珀の液体が呑み込まれずに口端から零れていく。
もう一口煽った。
頼む、という気持ちで再び口唇を押し付ける。
もう一度。
メキシコ発祥のテキーラは度数40%もある強い酒で、ショットで飲むにしても数杯が限度、注意が必要だ。
この強さなら。
室井は祈るように口唇を合わせた。
顎を捕え、何度も注ぎ込んでいく。
汗なのか水滴なのか、室井の額から筋を描き肌を濡らす。
その光景が背後の新城と細川を呆然と立ち尽くさせていた。
「青島ッ、目を覚ませッ、覚ますんだ・・・ッ」
必死で叫び、呼びかける。
俺はまた間に合わなかったのだろうか。
また、君を失うのか。
「まだ逝くなッ、傍にいてくれ!俺を残していくなって言ったろうッ」
酒を煽っては口唇を合わせた。
喉がアルコールの強さなのか、無理に押し殺しているためか、熱く燃えるように灼けつき、ヒリついている。
「青島・・ッ」
また煽り、顔を包んで酒を注ぎ込む。
ぐしゃぐしゃに乱れた髪に指を差し込み、引き寄せ、その頬を愛おしげに包んで。
「一体何が・・・誰が君をこんな目にあわせた・・・!」
囁くような掠れた男の声の間で琥珀色の液体が零れ落ちていく。
「・・ッ、ハァ・・ッ、頼むッ、目を開けてくれ・・・ッ、頼むから・・っ」
だんだんと涙声に変わる室井の叫びに、苛酷な現実が押し寄せていた。
無情で無慈悲な時間が悪戯に過ぎ、切々と哀願する室井の声と吐き出す息が煙に溶けて消えていく。
その悲痛な叫びに細川が見ていられなくて、口元を抑え後ろを向く。
まるでこの世の崩落を急かしたような焼け落ちる音が遠くで地鳴りのように響いていた。
救いの足音は何も届かない。
隠しもせず悲痛な声の室井の手は零れていく宝物を必死に掻き集めるように青島の身体に巻き付いていた。
無残な時の中でただ一つ手にした宝玉を、手加減を知らぬ子供のように、名だけを呼ぶ。
痛みすら愛おしいように、捧げられる恐怖も未来も拒絶する。
「まだやり残したことがあるだろうッ、俺はまだおまえの返事も聞いてないんだ・・・ッ」
背後の立ち合う男たちは自分たちの無力さと虚脱感を噛み締め、俯いた。
新城の拳が堅く握られる。
何一つ、自分たちは役に立たない。助けてやれることが出来ない。青島にも、室井にも。
人はこんなにも無力だった。
「救助はまだか!」
視界が滲むのは煙が目に滲みたからだ。
堪え切れず室井が青島を思い切り抱き締める。
「起きてくれぇ・・ッ」
ピクリと青島が震えた気がした。
「あ、ぁ、起きろ・・ッ、俺が分かるかッ」
ピタピタと意識を繋ぐように頬を叩く。
数度揺さぶっていると、青島の顔が歪んだ。
ゴポッと流し込んだ琥珀色の液体が青島の口から零れ落ち、咽るように咳き込んだ。
青紫となった口唇が戦慄き、大きく息を吸う。
「ぁ・・ぁ・・、分かるか・・!起きろ!目を開けるんだ・・!!」
大声で呼びかけ、咽る頬を赤くなるほど叩き、意識を呼び戻す。
やがて、咳き込んだ青島が、苦しそうに肩で息を繰り返し、顔を歪めた。
花が咲くように瞼が痙攣し、薄っすらと飴色をした瞳が宙を映す。
茫洋とした瞳は焦点を結んでおらず、弛緩した身体は動かなかったが、ぼんやりと室井が自分を抱える相手を瞳に映す。
青島の口唇が確かに室井の名を紡いだ。
「・・ああ・・ッ」
やや遅れ、応える室井の声も掠れ、震えた。
しっかりとその瞳を見つめ返す。
まだ朦朧としたまま、くたりと室井の腕に体重を預けてくる青島は、それでも確かに室井を認識しており、室井は泣きそうになるのをただ必死に堪えた。
喉の奥が熱く痛んでいた。
「よく頑張った」
かける言葉を見つけられず、室井の薄い口唇が痙攣したように震えた。
青島の半開きの口からは重く甘い吐息が漏れ、琥珀色の液体が芳しい薫りを放って顎を辿る。
うねる前髪の奥の目尻が気怠く緩み、シーツを纏った肉体は艶やかさを放って情事の名残に近いこの室内に相応しい余韻を見せる。
思わず肩を抱く手に男の意志を乗せ、室井は力を込めた。
「すぐ救急隊も来る。もう少し、頑張れ」
「ど・・して・・・ここ・・・」
「ッ、来るのが遅くなった。・・・すまなかった・・」
「・・ゆ、め・・・?」
「・・・いや・・・」
疲労したような動きで室井が無理に口角を上げ、目尻を緩めて見せた。
「・・っ・・ぁ・・・、」
青島が腕を持ち上げようとして、重力に負け、鎖に阻まれた。
それを外してやろうと室井が手を伸ばすと、青島がその指にするりと指先を絡ませ、包み込んだ。
「まっ・・・・て、」
「なんだ」
大きく息を吸い、青島が目を閉じる。
そのまま消えてしまいそうで、室井は必死に胸に抱き留めた。
「あおし――」
「だいば・・・かいひん、・・・はやく・・・」
「何だって?」
「ろっかー・・・・、くるから・・・あいつ、ぜったい・・・・」
息も絶え絶えの奥から青島が何かを訴える。
ガラガラの掠れ声は空気だけの音にしかならない。
「しょ・・こ、・・・、」
「――!」
朦朧とした意識が幻覚でも見せているのか。
この火急の場で〝台場〟などという馴染みの地名が上がるなど偶然にしては出来過ぎている。
室井の眉間が訝しげに潜められた。
「ふぁいる・・・しょう、こ・・・」
「この事件のかッ」
「ぎんぱつの・・・わかい・・・せェ、たかい・・・」
「!」
室井は奥歯を強く噛み締めた。
喉を痛いほど押し殺し、なんとか平静を保とうと大きく息を吸う。
青島の目を見据えたまま低く背後に告げた。
「新城・・!」
「分かってます・・!」
背後で聞いていた新城もまた低く応答する。
既にケータイのコール中だった。
「資料No.01-05を緊急手配、写真を湾岸署に送って周辺を張らせろ・・!」
「ハッ」
「見つけ次第職質、絶対逃がすな!」
「了解しました!」
繋がったらしいケータイを片手に新城が飛び出していく。
その後を細川が慌てて追った。
新城にもまた青島が云わんとしていることは容易に察せられていた。
資料No.01-05は正に今回の突入で接触しようとしていた若い男の顔写真で、今全員が携帯している。
防犯カメラに映っていた車を運転する男の姿の特徴は、身長190cmの銀髪。
腕の中でくたりと青島の力が抜けた。
「おい・・っ、しっかししろッ」
「・・ろぃさん・・・」
「ああ・・っ、ここにいるからッ」
「また・・・むちゃ・・・」
「・・・そんなのいいッ」
あの日の青島が腕の中に居る。
室井はその指先で確かめるように胸に抱き締めた。
黙って見つめ合えばどれだけ逢いたかったか、胸の飢餓を切々と思い知らされる。
震え、ままならない手を動かし、腫れた頬にそっと触れる。
「痛いか?」
「・・・、もぉ、あえない、・・・おもった・・・」
「そんなの、俺だってだ」
「じんせい・・・て、すげぇ・・・」
「よく頑張った。辛かったな」
青島の虹彩が限りなく繊細に揺れた。
室井が喉に力を込め、想いを零す。
「逢いたかった」
「・・・うん・・・」
喘ぐような息遣いは浅く荒く、まるで情事の最中のような色気を放ち、その気怠い四肢を室井に身体を預ける。
背後で見護っていた男たちは今いない。
世界は二人きりだった。
「ごめん、なさい・・・、いろいろ・・・」
「無事ならいい」
「・・おれ、さ、もう・・・」
云わんとしていることを察し、室井はその黒い瞳で先を制す。
意図が伝わったように、青島が儚く微笑んだ。
こめかみ、目尻、頬へと室井の静謐な指先がその輪郭を確かめる。
その清洒な長い指先は情けなくも震えが止められていなかった。
死んだものと思っていた。
生きて、まだ生きて、ここにいるなんて。
まだ信じられない。
「あんたに・・・ふさわしい、おとこに、なり、たかった・・・けど、あんたの、いうとおり、だったよ・・・」
「俺なんかいつも負けっぱなしだ」
「どう、せ、せーしき、な、そうさ、・・・じゃ、ないんでしょ・・・・」
「・・・・」
「かっこいいね・・・」
「・・・ばか・・・」
靱やかに青島の指先が伸びてきて、室井の煤だらけの垂れた前髪を擽った。
「あんた・・こそ・・・はら、くくれよ・・・」
「上等だ」
にやりと強がってみせる青島に、室井は胸が締め付けられた。
息をするのも覚束ないくらい、愛おしさと切なさが綯い交ぜとなって、ぐちゃぐちゃにする。
ここに辿り着くまでの長く様々な時間が室井の脳裏に巡った。
二人が再び巡り会うまで、長かった。
色んな苦しさと辛さと決断が過ぎった。
でもそれは、きっと青島も同じなんだろう。
黙ったまま額を突き合わせ、お互いの時を思い遣り、残酷な別れからの時間を祈るように胸に抱く。
起きてしまった過去は消せないけれど、もう一度向き合えた奇跡は、掛け替えない。
「あんた・・は、こどくな、ひとだけど・・・」
「おまえが居てくれるんだろ」
「・・・、いっぱい・・・なかま。・・へへ」
実に嬉しそうに青島が言葉を浮かべる。
ここまでの軌跡が一人の力じゃないことを、青島は悟っているのだろう。
いつしか結束の高まったチームとなって、室井の周りには以前にはない交流と共生関係が軌跡を描いていた。
そうやって仕事に向かっていくのだと未来を与えてくれた。
下卑た野心と歪んだ醜情に苛まれる躊躇いを、青島はそんな風に言ってくれる。
こんな事は何でもないよと慰められた気がした。
共に歩む男として認められた気がした。
何を語るわけではない。
ただそこにいるだけで、その直向きで一途な想いにいつだって参っていた。
堪らなくなって、室井は青島に頬を寄せる。
吐息を熱らせ、重たい嗚咽が青島の口から零れ落ちた。
どこからともなく漏れる残光が室井の垂れた前髪を通り、影となって青島の上に覆い被さる。
艶やかに染まりながら、退け逸らせた首筋にも鬱血の跡が浮かんでいた。
「桶永に、会ったか」
「・・・・」
「会ったんだな」
「ひなん・・・」
「大丈夫だ。みんな退去させている。あとは君くらいだ」
青島の甘い匂いに混ざる陰惨な体液臭。
腸が煮えくり返りそうな怒りを必死に制御する。
国家忠誠と大義名分を背負って組織の中でだけ動き弱者を切り捨てる自分と、無法地帯で自由を謳って欲望のままに生きる彼らと
一体何が違うのだろう。
何という言葉を使えば青島を傷つけずに済むのかすら分からずに、室井は懐の奥に隠している獣を諌め
淡泊を装う。
装うのは大人だからじゃない。
「・・は・・ぁ・・・っ・・・」
「どこか痛むのか」
「・・・へーき」
いつかと同じ返事に室井は目頭が熱くなった。
噛み締めた吐息が苦痛を滲ませ、室井の胸元を彷徨う丸い指先が、室井を確かめるようにスーツを手繰る。
救急隊は来ない。
溶けて消えて無くなりそうな錯覚に室井は儚く淡い躯を必死に掻き寄せる。
「ふく・・なくしちゃい、ました・・・」
「また買ってやる。何着でも何十着でも」
「こんど・・・くつ、も、つけてくださいね・・・」
「オーダーメイドで上から下まで揃えてやる」
物じゃないんだ、服は下着まで早々無くなるものじゃない。
なのに軽口で流す青島の身に起きた惨劇に同情を寄せる室井の眉間に皺が寄り、言葉が詰まる。
力の抜けおちた姿で、憎まれ口で誤魔化す彼らしい姿に、青島の強がりと信愛がある。
どうしてこいつはこんな時まで。
青島が室井を気遣ってくるそこに青島の優しさと思いやりが詰まっている。
それに包まれ、浅ましいまでの情愛はもう止まることを知らなかった。
「また・・しょくじ」
「幾らでも作ってやるッ」
被せるように応える。
室井の瞳は強く青島だけしか映さない。
その瞳を麗しい瞳で見つめ返す青島にも、室井しか見えていなかった。
「んな・・、すす、だらけで・・・かっこ、つけ、んのかよ・・・」
「おまえもだ」
シーツで身体に付いた泥や汚れを拭ってやる。
穏やかに抱き締められ、髪を室井の神経質な指先で梳かれ、青島も途切れ苦しみながらも室井を見上げてくる。
穏やかに流れる空間は、まるで時を今だけ止めているかのようだった。
透明で美麗な青島の瞳に映る者が自分であることに室井は傲慢なほどの満足を得て
その一方で留められぬ現実に絶望する。
甘えるように物柔らかい青島の身体が首筋に擦り寄って、慣れた温度を伝えた。
一緒に風呂に入った。
一緒に食事をして、一緒に言葉を交わした。
同じ布団で眠った。
二人で過ごした短命の時が全てだった。
ぎこちなかったが、掛け替えのない日々だった。
普段飄々として掴み所のない男が、室井と二人だけの時は誰にも見せない素の顔を見せる。
終わりが待っているだけの、幸せな幻想だった。
室井は無理にぎこちない笑みを作って、安心させるように見尻を細めてみせた。
ゆるりと悪戯気な瞳が揺れて、またふっと青島が意識を飛ばすように顎を逸らした。
「おいッ、しっかりしろ・・ッ」
「・・む・・ぃさん・・・」
「ああッ、ここにいる・・ッ」
「ごめん・・・」
「謝らなければならないのは・・ッ」
こちらなのに。
触れ合えた奇跡に、再び奪われそうな恐怖に、感情が止め処ない。
必死に身を寄せ合っても、より一つには決してなれない限界を知るだけで、それでも悪足掻きする指先が手が頬が、お互いを捜し合い。
壊れ物を扱うかのように室井の指先が顔の輪郭を触れて、撫ぜて、口唇を寄せて。顰めた頬を押し付けた。
「どして・・・もっと・・・」
言いたいことが何となく伝わり、込み上げてくるものを室井は喉元を震わせながら必死に飲み下した。
本当に、こんな事件さえなければ、俺たちは。
どんどん力を失くし、声が途切れて焦点も合わなくなる青島の声はか細く、耳を近付けなければならないほどだった。
弱弱しく朽ちていく姿に成す術はない。
頭部を胸に掻き寄せ、上向かせて。
室井の垂れた前髪から光の雫が伝い、青島の額に流れ落ちる。
「はぁ・・っ、どんな、に、がんばっても、・・・とどかなかった・・・なぁ・・・」
「もういいから・・ッ」
「こんなに・・・はぐれ、ちゃって・・・」
「喋らなくていいッ」
「あんたは・・・うえに、いってね・・・」
「・・・・」
「あとね・・・」
青島がなにやら耳打ちした言葉は室井だけに届けられた。
そうして青島の手が落ちる。
「ぁ・・青島ッ!・・・救急隊はまだか・・ッ」
室井の悲痛な声が最早鳴声を隠そうともせずに反響する。
背後で中野が駆け足で戻ってくる様子が伝わるが、無言で首を横に振っただけだった。
鎖の付いた手を三度持ち上げる力もなく、青島はその清洌な四肢をだらんと投げ出して、顎を逸らし苦しそうに目を閉じた。
どうすることもできなくて、室井はただ眉尻を下げる。
焦点が結ばぬ視線が室井だけを求めるから。
その淡く柔らかい髪を指に通して掻き寄せた。
「せ、っかく、ほんぶ、しょって・・・くれた、のに、しんじょ、さんの、しってん、なる・・・」
「おまえッ、それを言うために・・ッ」
必至で俺のところに戻ってきたのか。
「おね、がい、おな、じ、しったい、させ、たくない・・っ、そんなこと、させられない、から・・」
「・・ああ。ああ、そうだな」
室井が潤んだ視界で同意をすると、ようやく青島がほっとしたような笑みを見せた。
捜査段階で死傷者を出した管理官はそれだけで減点対象となる。
正に、三年前室井が青島と犯したミスと同じだった。
同じことを二度と繰り返させたくない。
組織の歪みを喰らうのは俺たちだけで充分だった。この事件で誰も人を死なせたくない。
青島の想いが痛いほど伝わった。
既に何人もの人間が死んでいる可能性があった事実を室井は強固に懐に仕舞う。
その罪を背負い、共に堕ちよう。
額を押し付け、お互いの口唇に熱が掛かる。
青島の甘い濡れた息に室井はゆったりと一度だけ、瞼を閉じた。
「俺を。・・・待てるな・・?」
「・・はぃ」
「一緒に、帰るぞ、俺たちの部屋に」
「・・・はは」
「あのままだから。おまえの服もあるから」
「・・・・うん」
「必ず待つと約束しろ」
「・・・うん」
「少しだけ、行ってくる」
室井は喉の奥が熱くなるのを堪え、青島をそっと床に横たえた。
投げ出していた自分のコートをかけ、身体を放す。
この痛みが全てだ。雑念は捨てる。
その口唇にそっとキスをする。
スッと立ち上がった時にはもう室井の目には迷いはなかった。
「ここを頼む」
「え、室井警視は」
「私にはまだやらなければならないことが出来た。青島の、最後の頼みだ」
「えっ、それって」
――あとね。三階にもう一人、監禁されている人がいる――
室井は一度だけ青島を見て、背を向けた。
その背中を薄れ始めた視界に青島は焼き付ける。
「・・・行っちゃった。で、最後の頼みって何だったんですか?」
中野が振り返ると、青島の目はもう閉ざされていた。
「・・あれ、眠っちゃったんですか?青島さん・・・?」
遠くでサイレンの音が近づいていた。
