東京変奏曲2season Ⅳ









第八章
1.
冬の朝はまだ暗い。
早朝日課である筋肉のパンプアップ・セットをこなしていると、遠くでケータイが鳴った。
室井は上半身だけ裸となっている身体を起こす。
スーツを脱げば彫り込まれ絞られた造形美を持つ室井の肉体は日々の鍛錬の賜物だ。
少しだけ上がった息はその薄い口唇を渇かせた。

一般人とは違い、如何なる事態にも瞬時対応できるよう備えるため、室井もまた筋力トレーニングは欠かさない。
マッチョを目指しているわけではない。見られる側の人間としての強化だ。
警察官は何も現場で市民を護るスキルだけではない。
身のこなし、身に付ける素材の品質、立ち振る舞い――上流階級に属する嗜みと頭脳戦の一環として、室井は努力を惜しまなかった。
キャリアなど皆そうだ。
精鋭されたエリートキャリアになるほど些細なデメリットが足元を掬う。


タオルで汗を拭いながら室井は着信元を確かめた。
新城だ。

「私だ。どうした」
「登庁前に寄って頂けますか。遺体確認の準備が整いました」
「そうか、分かった」


少ない言葉で通話を終えると室井は開け放した窓へ近寄った。
厚手のカーテンが朝風に揺れる。
スポーツドリンクを口に含み、目覚めつつある東京を見た。
生まれたての冬の大気は乾燥し凍え切っているがそれでも日の出が幾分早まっている空は藍白かった。
怖いくらいにビルの向こうが海老茶色に染まっている。
東京の冬は晴天が多いことも、東北育ちの室井にしては上京当時新鮮に思ったものだった。

季節は確実に動いている。


手早くシャワーを浴び、身支度を整え終えると、室井は胸元に手を充てる。
最近癖となったそれは室井の戦闘準備の合図だ。
胸ポケットには青島が遺した靖国神社の御守りが入っている。


僅かに伏せていた瞼を上げ、室井は表情を引き締めた。



***


「ここにあるのが可能性の高い検体です。数が数なので個人的に・・・私の主観で幾つか省かせました」
「例えば?」

新城が手元の書類をパラリと捲る。

霊安室の一角に設けられたそこには今、10体以上の遺体が並べられていた。
どれも不審死を遂げ、身許が判明していないものばかりで、しかも顔や身体の一部かが潰されるなどといった特殊症例だ。


「性別、国籍などは最初から省かせましたが、私の記憶より身長があまりに低かったり太り過ぎていたりといった特徴不一致のものは失踪期間から見て有り得な いだろう と」
「同感だな」
「結果、DNA検査が間に合わなかったものだけがここに残る、ということになる」


行方不明者届が受理された不明者は全国で年間8万人以上、そのうち身許が分からない遺体は年間1000体と言われている。
顔を潰されているなどの特殊な例は稀だが、失踪日時の適合で絞った検体でも
かなりの数に上っていた。

今の時点では、まさか青島の親族に事情を説明するわけにもいかず、室井宅に遺されていた青島のDNAサンプルで秘密裏に照合を行っている。
バレればこれも処分対象だろう。


室井は迷わぬ足取りでカツカツと近寄り、大胆にも、掛けられているシーツを放るように剥いだ。
仰ぐ風に白いシーツが天井にまで舞う。

表れた遺体を室井はじっと見る。
また一体。バサッと剥いで凝視する。
また一体。


その様子を新城は息を殺して見守っていた。
中には水死体となって発見されたために膨張したものや、薬物でも投与されたのか一部変色・腐敗を始めているものもあり
刑事として慣れた場面とはいえ、目を背けたくなる禍々しい光景が続く。
だが室井は一言も発せず、動揺一つ見せず、機械染みた靴音を一切乱れさせることもなく、ゆっくり奥へと進んだ。

優雅にダンスでも踊っているかのような手付きには無駄がなく、白いシーツがヴェールの如く過ぎ去った足元に落ちていく。
無機質な靴音の反響が妖異な凶事を心の隅まで浸してくる。


揺るがない室井の玲瓏な後ろ姿の方が、この陰惨な光景より一層の恐ろしさを新城に感じさせた。
怖くはないのだろうか。真実を知ることを。
目に映るその闇色の瞳には今何を捕えているのか。
迷いのない動きは先日まで慨嘆していた室井とは、まるで別人だった。

声一つ立てないその時間が、新城には果てしなく長く感じられた。


やがて、最後までやり遂げると室井は静かに立ち止まった。
声帯に緊張すら乗せず、滑らかで低音の声を発する。


「どれもこれも違う。肌の色、髪質。似せたつもりだろうが顔や腰を潰しただけの紛い物だ」
「え?」
「全部、偽物だ」
「一見しただけで分かるので?」
「この程度で私の目を誤魔化せるものか」


馬鹿馬鹿しい、とでも言うように室井は淡泊な顔で踵を返した。
遺体を振り返り、白手袋を外しながら視線を奥から彷徨わせる。


「腕や足の形・・長さが違う。これなんかは痩せすぎ る」
「・・・はぁ・・・」
「あっちのは、太腿や腰回りの肉付きが違う。向こうのは良く似ているが髪が剛毛だな。そっちのは腰の傷の形が違う」
「・・・・」
「それなんか、そもそも肌が粗すぎだ。年齢から外れているだろうな」
「どうしてそこまで言い切れるのですか」
「見たからだ」
「・・・・」


あっさりと事も無げに言い放つ室井に、新城はただ絶句した。
室井が指摘した箇所は必ずしも社会的な交遊の範疇では検分し得ない部分を含んでいた。
同居していたくらいだから見る機会はあったかもしれないが、それにしては具体的だ。

一体どこまで何をしていたんだこの二人は。
不毛な問いが新城の脳裏を巡る。
忘れていた。この二人を同じ空間に置くとろくなことにならないのだ。


「・・?」

天井を仰ぎ溜息を吐きたい気分を押さえ込む新城の横で、室井が瞳を複雑で強い光に変えた。
グラデーションのように変化させるその色を、新城は不意を突かれて訝しげに眉を潜める。
じっと並べられた遺体を見渡すようにして、室井がもう一度視線を送った。
ややして小さい声が聞こえる。


「妙だな」
「何がです?」
「確かに顔の判別不能な遺体が出ない訳ではないが、失踪直後という数週間に限っているのに数が多すぎやしないか」
「それは私も思いましたが――、しかしまさか意図的に用意されたと?」
「可能性は捨てきれない。ご丁寧に顔だけを潰し胴体を残しているところ見ると、似せたいんじゃないか?姫に」
「!・・・これ全部を、ですか?」
「腰の傷には気付いたらしいな・・・左側だけ執拗に潰されているのが逆にわざとらしい。我々にわざと発見させたのかもしれない」


どうやってこれだけの似通った遺体を用意出来たのか。
背景の空恐ろしさに二人の間に緊張が走った。
一瞬だけ視線を交差させる。


「だがDNA検査が出ればそんなのは誤魔化せない」
「時間稼ぎにはなる。それに警察関係者ならDNAを擦り替えることだって可能だろう。今の時点で一致したものが出て来ない方が不自然だった」
「ならば、むしろそっちが狙いだったのでは・・・」
「ああ。これらは全部奴らが見つけさせるために用意したものだ。・・・事件ごと、始末させるために」
「!」
「そして、奴らにはある程度まで時間稼ぎをしておけば逃げ通せるという勝算があるんだ。恐らくな」


彼らの目的は、早く青島を死んだことにして警察捜査を打ち切りにさせたいのだろうということが真っ先に浮かんだ。
それだけ切羽詰まっているということと、青島の存在価値の高さを推論付けさせる。
だが手を及ばせたくない理由は、こちらの捜査が近付いているという証拠でもある。


「こんな小手先で私の目を誤魔化せると思われているとは。舐められたものだ」

表情筋一つ動かさず、小さく呟いた室井の言葉は嘲笑というよりは狂気に堕ちた妖しい笑みに近く
新城は背筋をゾクリと栗立たせる。
そんな怯えを悟られたくなくて、恐々とした本音を隠すのに苦労した。


「我々が遺体確認を行うことまで予想してのことだろう。足元を見られているな」
「狙いは何だと考えますか?姫の遺体を隠したいのか、或いはまだ生かしていて返すつもりがないのか」
「殺してしまうという脅しの可能性もある。――遺体発見場所は」
「こちらに」


新城が持っていたレポートの一部を室井に差し出した。
サッと目を走らせれば、室井の眼差しが妖しく眇められる。

「やはりな。どれもこれも見つけれてくれといわんばかりの場所だ」


興味が失せたようにレポートを新城に突き返すと、用は済んだとばかりに室井は出口へと向かった。
その後を新城が慌てて追う。


「では、今後捜査はどう進めますか」
「遺体の残留物に一致するものがないか調べさせろ。遺棄した者を絞れるかもしれない。あとは・・・遺体発見現場の映像でも見るか・・・」
「全部ですか!?」
「失踪後に遺棄しているのは分かっている。となると日時も限定されてくる。そんなに手間もかからないとは思うが・・・まあ、無駄足だろうな」
「・・・、いえ、ここまで何処にも証拠を残さなかったのは恐れ入るが、今回はそうでもないかもしれませんよ」
「ん?」
「こんな後始末なんかは恐らく下っ端にやらせる。そうなるとミスも出やすくなる」
「合理主義の君らしい意見だが・・・賛成だ」


視線も向けずに先に階段を上がる室井の背中を新城はおずおずと観察した。

以前の室井ならばこんなことは言わなかっただろう。
青島を死んだと見なす中立的思考も意外でしかない。
何より階級社会の弊害を指摘するローカリズムを唱えている室井としては、末端主権の妨害は忌み嫌うところだ。
だが関わる人間が増えるほどにリスクが上がるのもまた事実である。


「なんか室井さん・・・変わりましたね」
「変わった?」
「少し、落ち付いたように見える。強くなった、というか」
「・・・・」
「何かをふっ切った印象を受ける」
「自分の功績だと言いたいのか」
「ッ」


思わず足が止まった新城を、室井が今度は階段途中で振り返った。

それは明らかに一度だけ交わしたあの口付けを匂わせていた。
あの冷たい夜、新城が無理矢理、室井に口付けたことはお互いの記憶にのみ仕舞われていた。
室井は何も言わなかったし、新城もまた、何かを告げることはなかった。

誰にも見られない、誰にも知られない、交わした熱は行き先もなく、まるで失われたように時の狭間に閉ざされている。
その爛れた記憶が、窓を鳴らす風音と共に今あでやかに新城の脳裏の蘇った。

あれはどういう衝動だったのか。
恋と性は男の中では一致しないこともある。
あの夜の新城もまたそうだった。
自分は室井を抱きたいのか。或いは抱かれ肌を暴かれたいのか。
恋情だけはやけに濃密で滾々と奥から甘い疼きを齎してくるのに、性的な欲情はまるで霧の中にあるように不透明なまま熱だけが先走らせる。
触りたい。触れたい。近付きたい。
恋情も情愛も欲さえ不確かな中、触れ合わせた柔肉だけが濡れた感触を憶えさせ
物理的な距離より遠い二人の間でも、お互いの裡まで暴くように不自然に近い距離まで踏み込んだのは確かだった。


「お怒りなのですか」
「そうは言っていない」
「後悔されていると?」
「そう言って欲しいのか?」


階段の上から見下ろす室井の虹彩には微塵も笑みを乗せない無機質な色が湛えられていた。
軽蔑も嘲笑もない、ただ宇宙のように広がるその闇に、だが純粋な恐怖を感じ、新城の背筋がゾクリと泡立つ。
むしろ口付けた確かな感触より強く、それは新城を雁字搦めにする。

暫し見降ろしていたが、特に返答はないと悟ると室井はまた階段を登りはじめた。
呪縛が解けたように、新城の足が動き出す。


「・・まッ、待ってくださいッ」
「なんだ」
「上役連中と取引したというのは本当ですか!」
「――」

突然の話の矛先にここまで鉄壁だった室井のリアクションが一瞬揺らいだ。

「本当のようですね・・・。それは記者会見延期と引き換えに上層部を抑えたと捉えていいですね?」
「・・・ああ、そうだ」
「ッ!・・・どうして、一体何を・・・!」


あの翌日、青島を犯人と仕立て上げる記者発表は、当日になって突然中止が発表された。
だから今もこの事件については世間には何も公表されていない。
新城もまた当日になって中止とだけ指示された。
理由を聞いても教えて貰えず、弾圧的に命じられ、引き下がった。
元よりその方が好都合だったから、それもポーズではあった。

言わば狸の化かし合いを演じさせられた新城としては、簡単に納得のいく状況ではない。

代わりにカモフラージュとして発表された事件は特に緊急性も重要性も見当たらない無関係の適当なもので
誤魔化されたと思いつつも、静観を貫いた。
マスコミも特に騒ぎ立てるようなことすら今のところ、ない。
どこかで強い政治圧力が掛かっているのは明白だった。

なのにその出処も理由も、噂レベルで煙に巻かれている。


「君には関係のないことだ」
「しかし!・・・いえ、政治取引ならば確かに私の口出しすることではありませんが――」
「そういうことだ」
「――」


それが、室井の変貌ぶりと関係がない筈はないだろうと新城は思う。
警察面子を優先したい筈の記者会見の中止、頓挫した筈の捜査の継続、そして室井のこの覚悟は、確かに一線上にある。
・・・だが切欠は何だったのだろう。
あの夜の室井は確かに隙だらけで、脆さと愚鈍さに溺れ、毒にも薬にもならない空っぽだった。
たかが恋した男を一人失ったくらいで、世界の終わりであるかのように空虚だった。
触れれば崩れそうだった手応えのなさは、新城が味方になるくらいでここまで強かに変貌するとは考え難かった。ましてや大の大人があんな子供騙しのキスくら い で。

――青島か

彼を犯罪者としないために自分を売ったのか。

そこに思考が至ると同時に新城の背筋に武者震いが走る。
今日はこれで、何度目だ。

恐らく売りこんだのだ、自ら。自己価値を最大限に利用させるメリットと共に。
やはりこの男を動かすには〝青島〟なのだ。
そして本人が気付いているかは知らないが、この男が動く時そこには必ず渦が起こる。

大方、青島に関する何かで吹っ切れてしまった。そう考えた方が余程自然だった。
しかし一晩で人はこうまで変わるものだろうか。
もう生死を諦めたとは思えない。死んでしまって、それでも構わないと思えるだけの覚悟が、新城には追い付かない。


「いいんですか・・・」

思わず口を出た新城のぼんやりとした声に、流石に室井も目尻を細め、壮絶な流し目を寄越した。


「君だって同じことをするだろう?」
「ッ」
「今更、出世後の立場など気にしない」

異様に干からびた喉に生唾を呑み込み新城は上擦った口を動かす。

「滅びるおつもりですか・・」
「そんなセンチメンタルに見えるか」
「・・・・」


ならば一体、室井の本音はどこなのだろう。
あの夜あんなに近付き手に触れたと思った男が酷く遠く感じる。
青島より一歩も二歩もリードしたつもりでもいたのに、もしかしてそれも、全く見込み違いだったのではないか。

だが今、キャリアとして室井の傍に一番近いのは確かに新城だった。
ハッと嘲りに息を吐き、くすりと小さな苦笑のような吐息に変えると、新城は横目にする。


「見返りに何を要求されたんですか。連中はえげつないことも平気で口にしますよ」
「信念に恥じたことはしないつもりだ」
「・・ったく。姫が聞いたら暴れそうですね」
「・・・かもな」


ようやく室井が少しだけ表情を崩した。








2.
「あのおてんば姫が暴れるのを箱の中の俺たちが止められるわけないだろ」


共犯者の笑みを交わす室井と新城に、突如頭上から声が降りかかる。
ハッと振り仰げば、薄暗い階段の踊り場に逆光となった影が揺れていた。
声で一倉だと分かる。


「こんなとこで密談か?誰が聞いてるかも分からねぇぜ」
「・・・大したことは話していない」


気配どころか足音もさせなかった。相変わらず喰えない男だと思いながらも室井の態度は素気ない。
興味無い素振りで階段を上がりきり、一倉の横を通り過ぎる。
背後で軽く息を吐いた新城も呆れた口調で話題を変えた。


「貴方こそ、そこで何をなさっているんです?」
「待ち伏せに決まってるだろ」
「・・・こんなところで待ち合わせする貴方も相当気が知れませんよ」
「待ってたのはお前らだよ!」


馬鹿野郎とでも言いそうな口ぶりで一倉が声を破裂させた。
閉鎖空間である踊り場に声が反響する。
扉を開けていた室井の手が少しだけ止まる。


「ふふん、ちょーっとな、面白い情報持ってきてやったぜ。お前ら、俺を崇め奉れ」


***

立ち話は危険だということで三人で新城の私室へと移動する。
即座に一倉が扉の施錠を確かめた。
仰々しい動作に先に部屋の奥手へと入った室井と新城はこっそりと視線を交わし合う。
やがて中央の事務テーブルに、一倉は胸ポケットから取り出した数枚の写真をばら撒いた。


「桶永の居所が分かった」
「「!!」」


目を剥き室井と新城が好奇に満ちた目でテーブルを囲んだ。
額を突き合わせる勢いのまま写真を覗き込む。
そこには遠方から隠し撮りされたようなアングルで車や家屋が映されていた。

細長い指先で室井が写真を鑑定しながら口を開く。

「確かなのか?・・・根拠は?」
「桶永を慕う取り巻きの一人にな、間に何人かを買収して、奴の居所を探らせていたんだ。姿を暗ましてやがるから突き止めるには苦労したぜ?」
「それ大丈夫なのか?」
「こっちの存在か?そこは口の堅いのを選んでいるさ」

一倉が写真の束の中から一枚を指差す。

「奴が行きそうな所を幾つか当たらせている内に行き着いたのが此処だ。・・・ほら、青のセダン。他人名義だが奴の愛車だ」
「他人名義?」
「流石に自分名義にすると足が付くと思ったんじゃないか?だが官舎でも度々見掛けられていたから確かだ」
「・・・!」
「最近この車が頻繁に此処に出入りしている。目撃証言も複数得られた」


室井は思わず息を呑んだ。

当日の足取りからの捜査は限界を迎え、また遺体捜査も難航が予想されていたため、予期せぬ予想外な所からのこの援護は朗報だった。
まさか桶永の方から足跡を辿れるとは。

他の写真を忙しなくチェックしていた新城も顔を上げる。


「此処はどこですか?・・・工場?」
「そうだ。すっかり落ち目だが、鉄工所らしいな」
「で、場所は何処なんです?」
「驚け、東京下町さ」
「ラストベルトか・・」


ラストベルト――都内にある寂びた工業地帯と言われている場所だった。
高度成長期に大企業の成長を支え繁栄していた下町の中小工場は、バブル崩壊後、景気の悪化や大手メーカーの生産拠点の海外移転の煽りを受け
最盛期から数を減らし続け 、今は朽ちたその姿を風雪に晒したままという状態も少なくない。
昨今、東京や大阪など新たなビジネスチャンスを掴んだごく一部が、細々と活動を続けている。


「ですが桶永本人が写ったものがない」
「そうなんだ。車も運転しているのは知らない奴でな。だがナンバーは一致してるぜ」
「本人の出入りは見ていないということですか」
「流石に用心深くてな・・。車は何度か見掛けるのに本人の姿は最後まで撮らせて貰えなかった。だが俺は可能性はあると思っている」
「しかしそれだけでは」

「いや――まず間違いないんじゃないか?」


突然室井が口を挟んだ。
一枚の写真を取り上げ、目を落とす。


「ゴルフバッグを追っていた時に会った女性も、頼んできた男は〝工場の社長〟だと名乗っていたと証言していた。それに覚えているか?姫が最初に拉致されて いた のも、都内の廃工場だ」
「工場を複数所有する人間が背後にいるというなら、有り得なくはないということですか・・」
「一倉、登記簿は」
「調べたが架空の人物だった。所有者の線で全部の工場を当たるのは無理だな」
「抜かりないな。でもこれで一気に怪しくもなる」
「ああ」


東京下町のラストベルトなら、多少の物音も不自然ではないし、トラックなどの運行や新顔の存在も業者を装えば人の出入りも然程怪しまれずに済む。
ましてや都内を活動拠点としているだろう彼らにとって、仕事を終え撤収するまで東京を離れるとは思い難かった。


「それに桶永の身許も調べなおしたんだがちょっと奇妙だったぞ」
「身許?警察官は採用の時に身辺は徹底的に調べられる。ましてや桶永はキャリアですが?」

新城が不審な口調で訂正を入れると、それは分かっているというように一倉も片手で制す。

「ああ、桶永本人はシロなんだが、彼の最近の交遊関係やら渡航歴なんかがちょっとグレーゾーンだ」
「まさかロシアに出入りしていたとか言い出おつもりじゃないでしょうね」
「そこまであからさまじゃねぇよ。ただ、シンガポールを経由して東南アジアの方に頻繁に〝研修〟に行っている。公費だぞ」
「何の研修だ?」


室井が聞き返すが一倉はおどけて両手を広げて見せた。
そこまでは調べられないというパフォーマンスである。
公費というからには現地でなんらかの仕事があったということになるが、そこから先は調べようがなかった。


しんと部屋が鎮まり返る。
恐らく考えていることは三人とも同じだろうと思えた。
空調のモーターがやけに唸りを上げて回転していた。

やがて先陣を切ったのは一倉だった。
顎を逸らし挑発するように室井を見る。


「どうする」
「こちらも時間がない。・・・殴り込みだろう・・・」
「令状もなしにか」
「そんなもの下りるの待っていたら一生解決させてくれないぞ。こっちは一人の命が掛かってる」

室井が低く地を這うような声で告げれば
一倉も飄々とした顔を崩さずに視線だけに鋭さを加える。

「まだ姫が生きていると思っているのか」
「こっちがどう思うかは重要じゃない。生きていると仮定して動くのが警察だ」
「令状なしに殴り込もうとしている男に理想論をされてもな」


熱が暴発するようなやり取りを続ける二人に、新城が大きく息を吸って中断させてくる。

「待ってくださいよ室井さん。踏み込んだ所で桶永は勿論、姫もいなかったら奴らに逃げる隙を与えるだけになりますよ」
「・・・確かにそれだけは避けたいが」
「直観に走ったら失敗しますよ」
「ビジネスに大事なのも直観だ」
「無駄だぜ、新城。室井は姫のことなると言い出したら聞かないから」


揶揄するような一倉の口ぶりは、だが焦る室井の緊張を少しだけ解した。
まさかそれが狙いだとは思いたくもないが、室井が不本意だとでも言いたげな視線を送れば、一倉も何でも無いように片眉を上げて見せた。


「情報が足りない。もう少し張ってもっと確実な証拠を持って来い」
「それが人に物を頼む態度かね。・・・まあ、こっちもそのつもりだ」
「新城、姫が前回脱出した時に送ってきたチップがあるだろう、あの時の写真と今回の写真に一致する人物がいないか確認してくれ」
「ああそうですね、分かりました」
「姫か桶永か。どっちでもいい。どちらかの確証が得られたら強行突入する」
「罪名は」
「何かそれも考えておけ」
「おいおい」


呆れたように一倉が肩を竦めておどけて見せた。
室井が申し訳ないと言う風に眉尻を少しだけ下げる。
同期であり長い付き合いとなった男の、こんな姿は初めて見た一倉の、探るような目が好奇に満ちる。
それは一倉を満足させるに充分だった。


「姫をよくそこまで信じ切れるな」
「どうかな・・・」
「隠さなくていい」
「正直、分からなくなった。だが、姫に軽蔑されるのだけは、回避したいんだ」


それは、自分では聞き出せなかった問いの答えの様な気がして、新城もまた写真から顔を上げる。
室井は俯き、指先で撒かれた写真を玩びつつ、瞼を落とした。
不透明な心の内を自分で手繰るようにゆっくりと噛み締めるように、言葉を探しているようだった。


「あいつにはいつも驚かされてばかりだった。一度も仕返し出来ないままだ」
「台風みたいな奴だったな」
「少しでも可能性を見つければ喰らい付いて離れない・・・意外性を意識して狙い所を逃がす我々捜査陣を姫は簡単に欺くんだ」
「・・・・」
「どこかで見限られるのが怖いだけかもしれないし、実は私も理想論だと思っているのかもしれない。ただ今は」


愛とか恋とか曖昧なものを信じさせてくれる。
今は、それに賭けたい。

言葉にはしなかった室井のその想いを、二人は微かには感じ取ったのだろうか。
一倉が室井の手に治まっている写真を取り上げた。


「高くつくぞ。これまでの人生を棒に振るような」
「上等だ」
「良いことを教えてやろう。以前姫とその話になった時な――〝たまたまですよ、たまたま〟・・・って。言ってたぞ」
「・・そうか」
「ほんと不器用だな、お前」

室井は小さく笑っただけだった。

「悪名は無名に勝るってな。よし、この線で俺は乗るぜ、お前は?新城」
「・・・もう今更ですよ」





***

本来の任務に戻っていく廊下を速足で進みながら室井は窓から見える東京をチラリと視界に入れた。
すっかりと陽の昇った街は朝陽の照らすビル群を白く光らせている。
この街のどこかに青島はいる。


きっと、罰が当たったんだ。あんなに全身で信頼を寄せてくれた青島を、一度は見捨てる様な真似をしたから。
あそこから進むべきではなかった。

いっぱい約束をした。
一緒に酒を飲もうと言った。二人きりで旅行に行こうとも言った。
全部、全部、言い逃げしやがって。

あの日言えなかった言葉を今空に向けて言うことに、なにか意味があるんだろうか。


たかが恋する人を失くしただけで何もかもが消えた。
自分は彼の人生に何を遺せただろうか。

過ぎ去った普通の日々が掛け替えなかった。
室井の人生を照らしてくれた。
もう一度君を抱き締めたかった。
子供みたいに走る君の背中をもう一度、追いかけたかった。

たぶん俺は幸せだった。
いつか、誰かと彼を振り返って、そんな奴もいたと偲ぶ未来であったらいい。



〝私があなたの妻だったら、あなたに毒を盛るでしょうね〟
〝僕があなたの夫だったら、喜んでその毒を飲むでしょうな〟

有名な台詞を思い起こし、室井は全くだと眉間を寄せる。

これが青島が遺した毒だというなら、喜んで飲み干してやろう。
それが青島の見せる壮大なファンタジーだとしても、悔いはない。
これは人生で最大の取引だ。


「俺たちに喧嘩を売ったことを骨の髄から後悔させてやる」


瞳の裏にそのシルエットを思い浮かべてから、室井は気持ちを切り替えた。










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次はぬるいエロがあるので本来ならば直接的な性描写が苦手な方のために回避鍵を設けるべきでしたが、今回に限りなしとなります。
大分緩やかな表現で軽くしてあるので大丈夫だとは思うのですが申し訳ありません。
物語の展開上、必要な会話を盛り込んだためです。