登
場人物は青島くんと室井さん、益本さん。第三者視点で三角関係。
トライアングル~益本編
本庁執務室は外部の喧騒を嫌う。
警察庁長官官房審議官となったあの男に宛がわれたのは、無駄に広々とした日当たり良好のワンフロアと、実に座り心地の良い椅子だった。
サラサラと紙面を捲る音が、流れ作業で続く。
手際良くナンバリングした資料を綴じていく益本の資料作りは順調だ。
目の前のデスクでは、老眼鏡の奥から険しい視線で捜査資料に目を走らせる、朴訥な男。
東大卒業者が圧倒的に多い警察庁キャリアの中では異色の東北大出身者だ。
札付き、黒歴史という惨めな過去の晒し者、凡そ出世レースから外れたと思われていた男だった。
それが、今やトップを脅かす位置にいる。
あまりに前例のない人事だったが、切欠となった警察不祥事の方がド派手だったから、そのインパクトも弱い。
どこまでも地味な、運もあるのかないのかわからない男である。
そんな室井を損得なく、人知れず影で支え続けた、もとい、ガソリンとなったのが――
「先程、青島刑事に会いましたよ」
益本が顔も上げずにそれだけ伝えると、無愛想な男の指先が少しだけ動いたのを感じた。
そうか、とだけ呟き、武骨な意識はまた捜査資料から動かない。
唐突な名にも顔色を変えないのは、流石だ。
が、余裕なのか腑抜けなのか、行動すら起こさない男に苛立ちを覚えるのは、何も自分だけではないと思う。
「行かないんですか?」
「用はない」
「用事?そんなもの、なんとでもなるでしょう?男なら」
室井がデスクから静かに益本を見据えた。
敢えて目は合わせず、益本もまた資料作りを続ける。
この男、まだ隠し通せているつもりだったのか。
男なら、と敢えて付け加えた。
憤慨とやっかみは、お堅いスーツの下に隠すのがキャリアの常識だ。
「いや――用はない」
無口だが芯は頑固。
地味な外見と面白くもない性格とは裏腹に、上昇指向と聡明な頭脳を持つことに慄いたのは、そう遠い話ではない。
そこに実行力が加わった今現在、室井に表立って歯向かう暴漢はいなくなった。ほぼ。
そう、表立っていないだけで、虎視眈々と時期を狙うキャリアは五万といる。
益本は何気ない様子を装い、言いつけられた資料をトントンと纏め終えると、手渡すために室井の前に立った。
差し出した手元を室井が手を伸ばしたタイミングで、ちょっと引く。
「待っているのでは?」
「――、どうだかな」
否定しない辺りが、図々しい。
エリートの癖に口下手な鼠輩は保身のつもりか、はたまた戒告なのか。いや、いっそ冗談のつもりなのかもしれない。
部屋角隅には大儀ななまはげが密かに哂う。
室井と青島と言えば、表向きの過去は誰もが知るところで、秘めやかにその関係は続いていた。
公にはできない警察庁の禁忌事項だ。
官房審議官である男にウィークポイントとなるブレーンがいるということは凡俗だと批判を受けるし
何より、彼らはアキレスとなる欠点を持っている。
そう、それはミスだと益本は思う。
本庁内では誰もが薄々勘付いている、或いは、見知っている奥深い急所だ。
「90年代までで該当分をプリントアウトしたものがこちらです。現場写真の一覧はこちらに」
「・・・ご苦労だった」
今度は集めた資料の束を素直に手渡すと、益本はそのまま室井の背後に回った。
窓辺に立ち、冬枯れの木立を見下ろす。
背後を取られたことで、恐らく室井の神経はこちらに向いた。
「あまり自惚れていると横から掻っ攫われますよ・・・そんな余裕、私だったらありませんが」
「余裕、か?」
皮肉たっぷりに付け加えてやれば、室井が生返事を返してくる。
窓の下では、青島が立ち話をしているのが見えていた。
「ほら、また。薬対の刑事に声を掛けられてます。ああ・・・彼は今年配属された中堅キャリアだ」
「・・・」
「彼は未だ恐ろしさを知らない・・、世間では何というんでしょうね?玉の輿なのか棚ボタなのか」
じわりと滲むように、益本の言葉が部屋の酸素を暗く奪う。
たまたまこうして渦中の男と二人きりとなり話す機会に恵まれた。折角のラッキーチャンスをみすみす見過ごすつもりはない。
誰もいない。二人だけ。黒い腹を探ってみたって、罰は当たらないだろう。
無論、こちらの進退に接触しない程度には、だ。
精々、この我慢強い男のひとひらでも摘まんでやれたらと、この億劫な雑務を引き受けたのだ。
「所轄のノンキャリなど、普通は顔すら覚えて貰えないというのに」
「物珍しいものは何処へ行っても注目の的だ」
「そういうことに、しておきたいのですか?」
「?」
天然か。
徒然に語る益本の雑談に、室井は興味が失せたように、神経質そうな手で資料を捲る。
この指で、啼かせる相手はどのくらいいたのだろう。そう多くはないと益本は踏んでいる。
それでも愛しい者に触れる甘い汁くらい知っている筈だろうに。
それを横目で盗み、益本は付け加える。
「私と話していた数分でも、数名のキャリアに取り囲まれてましてね」
自分もまた親し気に話した一人だと匂わせたが、室井は動じなかった。
余程の狸と見るか、大物と崇めるか。
挑発に簡単には乗ってこない手応えは、益本の嗜虐心を刺激する。
たかがアソビで身を滅ぼしたくないのなら、もっと上手く隠せよっていうのが、益本の理屈だ。
それとも本気で、あの美麗な男の価値が他者には分からないとでも思っているんだろうか。
「貴方だけじゃなくなりましたね、特別枠」
「・・・人懐こさは時に武器なんだろう」
「話してもらってないんですか?引き抜きの話だそうですよ、彼の。勿論個人的な」
ようやく室井がまっすぐに益本を見た。
探るようなキャリアらしい眼差しを送ってくる。
恐らく今室井のその堅い頭の中では、益本の言わんとしていることをあらゆる角度で計算していることだろう。
滑稽なことだ。
「どこに引き抜くというんだ」
「ご本人に聞いてみたらどうです?仲がよろしいのでしょう?」
尤も答えてくれるかは別問題という気はしますがと添えたが、やはり室井は言い返してはこなかった。
参考資料を取るためか、室井が席を外す。
書籍の並ぶ棚を指で辿る背中は、無関心を装う。が。
「ああいうタイプの使い道など、容易に想像できますけどね。私には」
遠回しの口ぶりに不穏な空気を感じ取ったのか、威風堂々としていた室井の気配が少しだけ陽炎のように揺らいだ。
それを認め、益本も殊の外ゆっくりと室井の方を向く。
逆光となって、恐らくこちらの表情は室井には読み取りにくいだろう。
「今日は、チョコレートの匂いが、強い」
「・・・」
不遜な笑みで窓から離れ、ゆっくりと席に戻るふりをして益本が室井に近づく。
室井もまた、横目で益本の動きを牽制した。
室井の横に立つと室井はその影となった。
「アンタの下で足を開かせているんだろう?」
誰も部屋にはいないのに、囁くような声で益本は室井に鋭く突き付けた。
一瞬の室井の表情の強張りに、口端を満足げに上げた益本は、打って変わって親し気な声に変え
通り過ぎることで、室井に陽光が戻る。
だが、眼光が強くなったことを益本は見逃さない。
「貴方はお立場上それに首肯することは出来ないのかもしれませんが、しかしそんなもの、ここ本庁では意味がない」
「――」
「ほら、そのだんまりだ。男もイケる相手だと分かっているのなら、貴方から奪おうと考える人間は山ほどいますよ」
「・・・」
知らぬふりを押し通すことを前提としながらも、二人の関係を全員が把握している。
だとするならば、そこに確かなものはなくとも、噂は事実となる。
それを、この男は未だ分かっていない。
ゆっくりと間を取ってから、室井の喉が上下した。
「まさか」
「まさか?警視総監の椅子が見えてきた上級キャリアに歯向かう愚者はいない?貴方にその価値がある?」
ギロリと室井の黒い目が益本を突き刺す。
強かで闇色の泥濘を持つ。
「或いは、同性に興味のある輩などいない?」
益本はゆっくりと息を吸った。
「貴方はまだ、トップではない」
「彼をどうするつもりだと聞いたつもりだ」
「それは、貴方が一番分かっているのでは?」
侮辱するような発言にも、室井は喰らい付いてはこなかった。
警視監という立場に相応しい清雅な背中で、無言を貫く。
不用意な発言を控えた官僚らしい選択だ。
確かに今動くのは得策ではなかった。色んな意味で。
室井自身、その立場の危うさに気付いているのだろう。先は長い。
こちらとしても、室井の地位が確固たるものでなく、いつ足元を崩されるかも見通せない先行き不透明の状況では、ヘタをしたらこっちのキャリアも危うくな
る。
誰に付くかは、じっくりと見極める必要がある。
そんな自己保身は誰でも考え得るものであるのに、室井と青島の関係は、どこか稀薄で別世界だ。
「キャリアの中にも、命知らずがいるようだ」
「・・・なるほど。青島さんとは、ずいぶんと厚い信頼関係で結ばれていらっしゃるようで」
皮肉とも受け取れる一言を擦り抜けるのは磨かれた黒い革靴で、室井が益本にしかと向き合った。
だが隠し続けるだけでは、青島は、護れない。
生温い火遊びをして、この椅子に座ろうとする図々しさが、益本は気に喰わない。だったら椅子くらい、こっちに譲れと思う。
快楽と出世はどこか紙一重だ。
「何が言いたいんだ君は」
「ご忠告ですよ。俺だって出世はほしい」
これまで何の付き合いも派閥の縁もない益本が何故突然世話を焼くのか、室井が訝しげに睨みつける。
そりゃそうだろう、こっちだってつい先日までは他人を装いたかった。
「例えば――そう、少しはサービスをして“点数”でも稼いみたらどうです?」
「サービス?」
「ああ、それとも腰砕けにするほどのテクニックをお持ちでしたか?」
才気があるのは室井じゃない。すべてはトラブルメーカーとなる青島の恩寵だ。
この一連の色恋沙汰はすべて、青島の価値から生じている偶然だ。
正直、益本の中で確信があったわけではなかった。だがもう焦れったい。
単刀直入に切り出した。それに室井は反応した。それが答えだと益本は思う。
ジッと睨み合った。
視線を反らすつもりは微塵もなかった。
一分の隙も見せない二人の間に走る緊張は、大器の素質を持つ男に歯向かうにはあまりに無防備だったか。
これが、室井の致命傷となるなら、充分だ。
引く気はない。
誰が引き下がってやるか。
トントンとノックする音が入る。
「入れ」
室井が視線も外さず、一言で応えた。
益本から外れない視線は、そのまま雄の独占欲だ。
「しっつれーしまぁす。あらら、お取込み中?」
のんびりとした、朗らかな声が降り注いだ。
渦中の人物の少し高めの声に、思わず室井も益本も目を見開いて振り返る。
「・・・どうした」
「んだよ、お邪魔なら帰りますけど」
「いや――いい。話は丁度・・・終わったところだ」
暗に退席を促す室井に、益本は敢えてその誘導に気付かぬふりをする。
腑抜けのくせに、彼の前だけイイ恰好してんじゃねーよ。
スッと青島に近づき、益本は室井の前でわざと青島の肩に手を置いてみせた。
「大荷物だな」
「あの後もまた貰っちゃって。ここくると、ヘンな勧誘受けるんですよねぇ。チョコ付きで」
「それが狙いだろ」
「ばれた」
「チョコレートはバロメーターになる」
「本命には勝てないっしょ」
益本がわざと親し気な距離を再現し、軽口を室井に見せ付ける。
先程までの反応から、室井は多分、益本と青島の仲について、何も知らされていない。
一歩詰め、気安くその肩に置いた手を滑らせ肩を抱き込んだ。
「チョコもくれない本命なんか捨てちまえよ」
抱き寄せられ、小さく苦笑いする青島の横で、益本の視線がチラッと室井へ向かう。
黙ったままの男は、近づくことも出来ずに窓際に立ち尽くしていた。
そうだろう、それが、室井の立場であり現実だ。
勝ち誇った顔で、益本も蔑んだ横目を走らせた後、何食わぬ顔で青島の紙袋を覗き込む。
わざと見えるようにその手に触れ、身体を寄せた。
「食いきれんのか?」
「うちには高級なものに目がない女の子がいるんで」
「あげちゃうんなら、俺だって付き合うぜ?」
「一緒に喰う?」
「俺を食わない?」
「ん?」
「今晩、酒でも呑みながらさ」
ん~・・と困ったように眉を下げて、青島がちらっと室井に小さく視線を投げる。
助け舟を求めているのか、許可を求めているのか。
それでも立場上大っぴらな行動には出れない室井に、冷めた瞳色を見た。
恐らく答えは青島の独断で良い。
益本は腕の中の青島に同情する。
痛みは乗せずとも、構って貰えない迷子の子供みたいな青島を、益本は不覚にも可愛いと思った。
「時間、あるんだろ?」
「今晩はコレ、届けないと」
眼前で、室井の視線が松本の全身に突き刺さる。益本の手の動き、足の位置。全てを凝視しているに違いない。
ざまあみろ。
青島もそれに気付いたのだろう、青島が室井を振り返った。
「じゃあ、行こっかなぁ・・、今日、暇だし」
「了解、後で連絡入れる」
連絡先交換済みであるアピールまでできた。上出来だ、俺。
「あ~・・室井さんも酒の席に出たりするんですか?」
「その人は来ないよ。誰も誘わない。酒が不味くなる」
そうだろう?と益本が室井を睨めば、先に会話を捕られた室井が大きな目玉を光らせた。
二人の間に漂う感情の棘のような空気に敏い青島が気付かぬはずがなく、心許なさそうに探っていた。
なんだこの可愛い生き物は。
いきなりの口説き文句も、聞き慣れているのか、青島が嫌悪を見せなかったことにも益本は心浮き立つ。
「その日とか行くのなら出世の味がする会談だよ」
「堅苦しいやつ」
「もっと楽しい酒、飲もうぜ。もう少し話したいんだ、ふたりだけで」
「ふたりで?」
室井の前で、益本が青島を弁えなく誘う。
途端、室井が場を断ち切るように、テーブルに資料を投げる音を立てた。
「キャリアの悪酒など、止めておけ青島。ろくなことがない」
室井のぼやきに、青島が心当たりがあるように、小さく吹き出し、同意の笑みを返した。
柔らかく、親し気な、その直向きの目線を至近距離で見つめることになり、益本は息を詰める。
今、一瞬にして、二人の空気が出来上がった。
室井と青島をセットで見たのは、そういえばこれが初めてだった。
そこには、一朝一夕では築けないものがある。
誰と話しても、青島にこんな無邪気な笑みを零させた者はいない。何より、室井の目が違う。
信頼と歴史は、時間でしか築けない。
たった一言、室井が語り掛けただけなのに。
嬉しいとか、喜んだとか、そんな単純な話じゃない。
もっと深い、もっと奥底から共鳴する、何か。
鮮やかな一瞬の変化に、益本は目を見張った。
だからこそ益本はムキになる。
「そ、んなの、試してみなきゃわからないよなぁ?俺、上手いよ」
だが青島は、そんな益本の一撃を鮮やかに交わして見せた。
「ま、考えときます。キャリアの財布に付き合える勇気もないし」
「奢るって」
「何要求されんの俺?」
笑いながら、提げる紙袋から青島がチョコを取り出す。
「じゃあ、これ、室井さんにあげます。あ、益本さんにも、ついでに」
「「・・・・」」
瞬時に二人の男を黙らせた青島は、とっておきの笑みで独り勝ちした。
「ぜんぶ、食べてね?」
「チョコより俺を――」
「キャリアに付け込まれたら、搾り取られるって聞いてます。・・・そこのしかめっ面のひとに」
クッと詰まった益本に、背後で室井もウっと詰まる。
青島は口端を持ち上げて艶めいた瞳でウィンクを零した。
「腰砕けになったらたいへん」
「高いんだな?」
「経費で落ちないんでしょ?」
もう先程みたいな近さがない。
室井の反応が、青島を捕り込んだのは明らかだ。
「室井を呼んだら、来る・・?」
青島は、ご丁寧に極上の笑みでダメ押しした。
「だぁめ。すみれさんに怒られちゃう。此処の戦利品はかなりコストがかかってるからって」
女か―ッ・・・。
それ、今一番出しちゃ駄目なヤツだ青島・・!
出鼻を挫かれた益本の手元が、宙ぶらりんに止まった。
湾岸署で二人で食べるんだ~と微笑む青島に、言葉もない。
無論、背後の室井も、渋面だ。いきなり話題に誘われたのに、意思表明もしないうちに、振られた。
「今夜はチョコでガマンしてくださいね、おふたりさん」
青島が投げキッスをして部屋を去っていく。
バタンと閉ざされた部屋に残された、置き去りの男二人。
冷たい風が吹き抜ける。
手元に残った小箱のラッピング・リボンが心許なく揺れた。
「まだ、口説いてもいなかったんですね・・」
「だったらなんだ」
「マジかよ信じらんねぇ、出会って何年?何してたんですか?プラトニックなんてキモイですよ」
指一本触れてない?ホントに?ありえないだろ?
「ツバ付けるタイミングなんて幾らでもあったでしょう?!」
半ば叫ぶ勢いで益本がやさぐれれば、室井もジト目を返してくる。
室井の獣のような瞳はあからさまに青島だけを捕え、青島だけを映していた。十年以上前から。
なのに、抱いていない。
つまりそれは、どれだけ大事なんだって話であって。
「ばかですか」
「お前こそ、ついでじゃないか」
「義理で偉そうに」
手も出せねぇのかよ、と益本。
今夜はってなんだ、と室井。
室井と青島が軽口をたたき合う様子を、益本は初めて見た。
ついでに今口調が崩れている様子もだ。
階級の高い室井にあそこまで親し気に話せる青島は、やはり特別扱いされていると見ていいだろう。
室井の前では、青島はあんな可愛い顔を見せるのか。
二人の視線が絡んだ時、一瞬にして益本など、蚊帳の外だった。
「勃たねぇの?」
「・・・それ、本当に知りたいか?」
先程までとは違い、あからさまにムッとしている室井と、ジト目で挑発めいた益本の視線が、苛烈な激しさを持ってぶつかり合った。
「好きなくせに」
「君こそ、いきなり出てきてなんだ。私と彼の仲に口を出すな」
「十年経って、もう他人だろ」
何だか色々混乱している。
その不確かな衝動のまま、益本が頭を搔き乱して、まくしたてた。
「貴方ご自身に隙はないかもしれない。でも彼は違う。正直、ノンキャリの立場でキャリアと渡り合えるほど、此処は甘くない」
「そんなのは分かっている」
「わかってない。弱みを握れば落とせるカードなど、ジョーカーですらないんですよ。ちゃんと護り切れるのか?」
「分かっている!」
「まさか護り切れないから手を出せない?腰抜けかよ!」
「私を焚き付けて何が目的だ?!」
砕けた物言いの室井も、雄の顔を晒して、向き合った。
その室井の、隠された情火が、今、ありありと透けている。
素の部分に近づけたその圧倒的な独占欲に、益本は足元が崩れる気がした。
これが、器の違いというやつか。それとも、愛の深さとでもいうつもりか?
冗談じゃない。
「男が狙う目的なんて、そのスーツの下の硬いモノぶっこんでみたいだけだろ」
「・・・渡せない」
はっきりと、室井は言い切った。
それが益本にも火を点ける。
「俺も欲しくなったって言ったら?」
「渡さない」
「隠されたままの関係性で?相手が全く疑問を持たないと?自分の価値も見えない間で尽くすことに、虚しさを感じないとでも?」
「それも納得した上での合意だ」
「納得?合意?馬鹿ですか貴方は。不安になるに決まっている。言葉でほしいに決まっている。あっちはノンキャリですよ。何も持ってないんだ貴方以外!」
室井にここまで独占欲を見せるつもりはなかった。
だが、さっき、室井と青島の間にひとたび流れた甘い視線が羨ましくて、妬ましくて、狂おしくて、それが欲しくて。
手も出さないで、直向きに想われるだけ想わせて。
止まらない。
「つまり、これは宣戦布告というわけか」
階級も遥か上となった、いわば上司にここまで言っちゃって、まさか恋ひとつで身を滅ぼすのか俺?!
密かに震える手元には、チョコレートの箱が一つ。
「俺が、貰います」
口が勝手に動いていた。
だって、青島にあんな顔をさせて、室井は指一本触れていないのだ。
あれだけ青島を待たせて、当然だって顔している。
だったら、俺だ。
はっきりと告げた言葉は、殊の外すんなりと益本の心根に落ち、交じり合った。
くっそ、俺もいつから本気だったんだろう?
「君は――アレを毛嫌いしてるんじゃなかったのか?」
「貴方がたみたいにいつまでも同じ感情でいられるほど、人間は簡単じゃない、室井さん、時に深い執着は恋にも通じる」
「――!」
「それに気持ちが移り変わるなら、あんただっていつまでも安泰じゃいられないんだぜ?」
火花が散るような視線がぶつかり合った。
荒げた息を整えるつもりもなく、益本も息巻いた。
今まで怖じ気づいていた気持ちが高まり、本気で室井から奪ってみたいと逸った。
だから、仕掛けた。
「キス、避けませんでしたよ、彼」
その言葉に、室井は少しだけ目を剥いた。
青島が現れて、室井は変わった。
まっすぐに前を見据え、再び、胸の炎が宿るようになった。
生涯ただ一人のひとと出逢うというのは、そういうことなのだ。
そういう奇跡の運命にあるこの男が、妬ましい。憎悪はいっそ、殺意、かもしれない。
そんな奇跡を俺だって味わってみたい。
俺だって変わった。
キスした後の、その先の顔を知ってみたいって思った。
しんと張り詰めた部屋は物音を拒んでいた。
室井がゆるりとチョコの箱を眺め、少しの間を長引かせ、指で愛おし気に撫ぜていく。
まるで愛撫のようなその仕草に、つい、彷徨わせた視線に、室井が動いた。
その、ガラリと変わった瞳色に、益本は慄く。
「残念だったな・・・。もうアレは、私にしか懐かない」
室井が乱暴に胸元のネクタイを緩めた。
「こちらが、じゃない。あいつが、私じゃなきゃ駄目なんだ」
室井が、ではない。
青島が、潰れる。
「・・んな、こ・・・とッ」
益本では無理だと、室井の目が言っている。
あの匂い立つような美しさと眩しさの前で、我慢を出来る男はいない。
どれだけ貪り尽くしても、満たされるのは男の欲望だけで、青島が悦ぶことはない。
「私から奪えるわけがない」
気迫に飲まれた益本を、室井が顎を上げて憐れんだ。
見たこともない、壮麗な男の咆哮が漲っている。
室井が、本気を見せたことが、伝わった。
それは凄まじく益本の足元をふらつかせる。
こんなのを相手にしていたのか俺?今まで隠していたのか?誰も、こんな室井を知らないんじゃないか?
青島は、知ってるのか?
「自惚れているうちに、掻っ攫われますよ・・」
益本の口は、先程と同じセリフを繰り返すしかなかった。
それを分かっていて、室井が緩やかに口端を持ち上げる。
その顔に、手を離さない室井の男の覚悟が、見えた気がした。
遥か遠い、抱える物の大きさと、背負うものの偉大さに戦い抜く王者の片鱗を見る。
だが益本には、室井が今までで一番近いと思った。
「君のことは、憶えておこう」
呼吸一つ乱さぬ冷徹な気配は、益本を完全に打ち負かしていた。
一歩リードしてても、それを青島に伝えて貰えない仲でも、室井と青島の、間に漂う時間に勝てない。
「宣戦布告と受け取った」
執務室を後にする室井の背中が、さっきよりも強硬に映る。
扉に手を掛けたまま振り向きもせず室井は言った。
この男のしぶとさも、並大抵じゃないなと益本は思った。
Happy end ?

これは書下ろし。
ウィキで、益本さんは青島が大嫌いと書いてあったので爆笑した。
益本さんの切欠話がコチラ
20210522