STRAWBERRY KISS 7









13.

初めて抱き締めた身体は、殊の外細身で、海の匂いがした。
強く抱いても泡のように消えなかった。


****

「おーい、いつまでそうしてるつもりだぁ?」

陸の方から和久の声がし、抱き合ってた室井と青島はパッとその身体を離した。
どちらの顔も赤く、目を合わせられない。
室井はどぎまぎした手を青島の両肩から外し、青島は破れたスラックスに手を突っ込んで、空に照れた視線を投げる。

「帰りましょ?」

何故だが、ストンと落ちた。

帰ろうと素直に思えた。
あんなに見限って飛び出した、陸の要塞でも。
すべて捨てた筈の住処でも。
自分が戦わなきゃならないフィールドでも。

救助隊らしき制服を着た男たちが小型ボートで近づいてきて、ロープを投げてくれる。
浮き輪を掴んで、青島に渡した。

「水浴びするにはチョット早い季節だったかな」

何か文句でも?と言わんばかりに青島が顎を上げて片手で濡れた髪を掻き揚げる。
熟した果実のような肌と、男くさい色気が香り立ち、張り付いたシャツから覗く割れた腹筋が室井の目のやりどころを失わせた。

――ホント、嫌味になるほど美しい男だ。

癇に障るまま、室井は眉間に皺を寄せる。
本当はまた手を繋いでエスコートしてやりたかったが、もう、その勇気は室井にはない。
浮き輪を掴んで誘導されるまま少しプカプカと浮いて行くと、直ぐに足先に砂利が混じる海岸擁壁まで辿り着くことが出来た。
浮力から解放された身体は、ズシリと重たく、地上の重力が変化のない日常を返してくる。

和久がタイミングを見計らって応援を要請していてくれたらしかった。
数台のパトカーの横には見覚えのあるワゴン車が止まっていて、和久が毛布を掲げ、誘導してくれているのが目に入った。
倉庫から複数の警察官に囲まれた男たちが連行され、悪態がこちらまで届く。
人数と顔ぶれを確認した青島が、隣で和久に親指を立てて見せた。

「よく、俺の話、信じましたね」
「一倉から、最近新種のクスリが出回っていると小耳に挟んでいた」
「・・・そうなんだ」
「本庁の情報網を甘く見るな。聞いた時は酒の席の戯言と思っていたんだがな・・・それを思いだして、な」
「思い出して、わざわざ?」
「・・・ついでだ」

恐らく彼らは不法占拠で一旦身柄を拘束され、後に薬物所持について追及されていくことだろう。
和久がこっそりとくすねたらしき、青島の銃を懐から覗かせ笑っている。
銃刀法違反は免れそうだ。

遠い日の記憶はただ思い出と色褪せ、いっそ取り戻せない未来を探し続ける愚かさに、打ちのめされる。
結局、人は自分のために周りの誰かを踏み躙って生きている。

「どやって人は、傷を癒して、過去を乗り越えていくんだろうな?」
「なんの話?」
「水面に溶けて消えてしまった女の話だ」
「・・・」
「いや――海に盗られた、ただの昔話かもしれない」

朝の潮風に晒された身体は、体温も急速に奪われる。
連行されていく若い男たちを、海に使ったまま漫然と見送る室井と青島の横で、和久が車を回してくれるよう事付け、その場を離れた。

倉庫の裏にあるコンテナの上で渡された二枚の毛布で、二人して冷えた身体を包んで待機する。
冒険の延長線上に、思いがけず両想いだと知った顛末は、誰よりも何よりも大切で愛しい男へした仕打ちに
室井を歪な気恥しさを持って、貶めた。
これまでの二人の間にはなかった拒めない空間がそこにはあった。
お互いに、逆さの空を見る。
背中合わせの恰好は、息遣いだけがリアルだ。

「あ。満月だ。変ないろだ」

青島が指差す方に目を向ければ、飛び降りるときにも見た大きな満月があった。

「ストロベリームーンか」
「ん?」

ぴちゃんと水飛沫を上げて髪に付いた水滴を振り払う青島が、張り付いた服を引っ張り不満げな顔を作っている。
室井は月をただ見上げ続けた。

東京の月は秋田の山麓で見るものよりも、儚く見える。
故郷の月はもっと、鬱蒼とした暗澹に不気味に冷血な仄暗を照らす悚然としたものだ。
丸い月は西の空に淡く浮かび、白く霞むクリーム色の朝靄が下りる元には、水平線が朝陽を受ける。
波音が遠く冴えた。

「・・・青島」
「はい?」

今はもう取り返せない過去に、消えない鎖を繋がれた未来は、何も応えない。
ただ室井を無力さに打ちのめし、限られた時間の中でお互いを飼い馴らすだけの術も与えない。
でも、青島が傍に居る。
それだけで生まれる安堵感は、墨色の海には決して存在しない生々しさで、正しくなくても愛でなくても、希望がなくても、構わないと知った。

室井は手だけを背中に回し、青島の手を毛布の下でしっかりと握った。
驚く気配を背後に感じつつ、室井は冷えた指先はしっかりと絡ませる。
この手を、永遠に失うところだった。
自分が海の記憶に溺れている間に、自分だけが傷ついた顔をして、今ある一番大切なものを、傷つけて、失うところだったのだ。

「おまえ、どこで気付いた?」
「・・・なにについて?」

この期に及んですっとぼける青島に、室井はこの日初めてようやく小さな苦笑を見せた。
自分は未だ、笑うことが出来ている。


聡い青島が室井の気持ちに気が付いていないはずもなかった。
室井がどんな覚悟であの海に飛び込んだかなんて、敏い青島は薄々感じ取っている。
室井の気持ちを受け入れる気があるなら、もっと素直に行動を起こせる男だった。
つまり青島は、約束を果たしたら去っていくということだ。
すべて知ってて、ずっと知らぬふりを通し、その上で、飛び込むことを選んでくれたのだ。

ばかだなぁと思う。
愛しいくらい、ばかだ。
――きっと俺は、誰かにおまえも必要だと、言って欲しかったんだ。

「傍に居ることを、ゆるしてくれないか」

まず、許されることから、始めたい。

「俺は、君と、いたい」

無意識だった。
何を考えたわけでもなく、ずっと長い間喉元に痞えていたものが外れ、飾り気のない想いが室井の口を出た。
ようやく出せた言葉に、室井は自分で少し口角を上げて歪ませる。
性質の悪い男のような微笑を閃かせ、雄の色気が宿った。
最後に願うのは、それだけだった。
幸せじゃなくていい。正解じゃなくていい。答えじゃなくていい。
それは、こんなにも単純なことだった。

差し出された恋一つ、護り抜けない、無能な男になりたくない。
大切な人間を失う怖さを知っている室井だからこそ、言葉に意味があった。

重たい口調に何かを察した青島の顔が小さく歪む。

「俺、さ・・・、どこまで、あんたと居て、いいのかな・・・・・・・?」

拗ねたように、何とも反論とも言えない単語を零した青島は、室井を心細げに振り返った。
青島の衣擦れに、室井もようやく月から目を戻す。
何か言おうとした青島が室井の瞳とかち合い、その色濃さに、そのまま言葉を失った。

それでも青島は、上目遣いで室井を窺いながらも、真っすぐに室井を見つめていた。
室井はそっと指を延ばし、その柔らかい頬に触れる。
愛撫するような動きに、切なそうでもあり、不安そうでもある、一歩手前の顔を見せ
見つめる先に、室井は悟る。


好きと言ったって、キスをしてみたって、青島にとっては同じなのだ。
それでもちょっとだけ、言ってみたかった、ちょっとだけ触れてみたかった、そんな健気な願いが、この海に溶けだした。
俺と、同じだ。
どうしたって始まらない仲に、掛ける言葉なんかないのだと知る。


室井は何を答えることもなく、黙って首を傾けた。
狡い男だとは解かっていた。

触れそうで触れない距離で、瞳に魅入れば、海の匂いが強くなる。
抗う術を瞳で封じ、室井は指をしっかりと絡ませたまま、反対の指先を青島の耳にかけた。
お互いの前髪が潮風を巻き込み、絡み合って擦れ合う。
室井の細長い指先が、青島の濡れた髪を絡ませれば、しっかりと二人の視線は重なっていた。
時が止まったかのような息遣いの中、瞳の奥に潜むものを暴き、青島が少しだけ瞼を伏せ、顎を持ち上げる。
それを合図に、室井は濡れそぼる青島の口唇を、塞いだ。

ずっと、いつも本音を隠して、消えるように擦り抜けていく青島の、本当の心が掴めなかった。
自分のことばかりで、周りが見えていなかったあの頃と違って、今は、他人の心が見えてくる。

柔らかく濡れて弾力の強い肉が、触れるたび熱に変わる。
その質感を味わい、まだ明確にはなっていない感覚を、室井は陶然となって追いかけた。
震えるように室井に委ねる青島から伝わる迷いが、ただ愛しい。
僅かに身動ぐ抵抗を塞ぎ、吸い上げるように何度も何度も擦り合わせた。
頬に添えた手を後頭部に回すと、より接触は深まり、ただ一つの確かな肉の弾力を伝えてくる。

「・・ん・・・っ・・」

次の瞬間、青島も動いた。
自ら顔を傾け、薄く歯列が開かれ、室井を求める。
望まれるまま、室井は分厚い舌を挿し込んで、唾液に塗れた震える舌を絡め取ってやった。
密着した口唇から、先程の血の味がして、それが室井をより一層掻き立てる。
濡れた髪から流れる光を拭う仕草が、その穏やかさと優しさを乗せ、室井の知らない室井を引き出した。

「・・っ・・、ろぃ、さん・・っ」
「青島ッ」

後頭部を鷲掴み、室井はより深く口付けた。
室井の濃密な口付けに、青島が切なげに眉を寄せ、合わせられない呼吸に断続的な息を零す。
深くじっくりと貪ってくる口接に、青島は目尻を歪ませ、室井を受け入れた。

海に染められたキスは、罪の味がして、お互いの温度さえ奪って、ただ哀しくさせた。
消えていく熱に、取り戻せない過去を追うように、溺れ、渇望するまま追いかけた。
何度重ねても足りない感覚は罪深く、哀しいキスは二人きりだということを確認させるものでしかない。
それでも、引き返せるくらいなら、最初から室井は青島を求めたりはしなかった。

「・・は・・っ、・・あ・・っ」

また一つ、取り返せない罪を重ねるところだった後ろめたさは、室井の中に潜む凶暴な情感に近い。
両手で青島の頬を囲い、額を突き合わせ、室井は溢れる想いを必死で飲み下す。
不安な蔭りを隠さず、じっと見つめてくる青島は、酷く幼く見えた。
焦点が合わないほどの距離の、その眼差しの透明さが、愛おしく、狂おしく、切ない。

「俺と、来てくれるな?」

どうしたって罪は消せない。
過去は変えられない。
何かを変えてしまうのか、何かを壊してしまうのか、何も分からない。
何もかも融合した幻想に、見るものは悪夢かもしれず、何も失って、今何を得たのか、今は未だ良く解からなかった。

ただ、古傷が室井の行く手を阻むなら、海に初恋の哀惜に陪従う生き方を、捜したい。
それはようやく口に出せた室井の結論だった。
どうせもう捕まっているのだ。身動きできないほどに。
あの海に共に飛び込んでくれた青島と共に溺れ、甘い肌を抱いて眠るのなら、求めすぎるこの慟哭を封じ込められる。
それしか、できない。

「あおしま」
「・・・そば。・・に居ると、甘えちゃいそうだから・・・」

薄っすらと青島の透明の瞳に水滴が張っていて、そこに朝陽が映り込んだ。
青島がどんな想いで待ち続け、慕い続け、愛してくれたか、その直向きさが、室井を掴む指先に震えとなって表れていた。
室井はもう一度青島の口唇を乱暴に塞ぐことで、聞きたい言葉じゃないことを伝えた。
消えていく恋を弔うように、過去を名残惜しむように、口付けは沢山の罰と罪を口移しで青島を染めていく。

繰り返された深い口付けの最中、呼吸のタイミングをずらされた青島が、睨むような泣き出すような顔で口唇を戦慄かせた。

「でも俺、もうあんな風にお別れすんのは、ヤです」

室井の傲慢さも、無神経さも、脆弱さも、すべて見抜いたような言葉だった。
室井が置き去りにしたことを言っているのか、それとも海で終わらせようとしたことを指しているのか。
室井は口付けを止め、焦点が合わないほどの距離で見つめ返した。

純粋さとは、汚れをじっと見つめ得る力である。
――完全に、こちらの負けだ。

室井の闇色の瞳が麗々しい色になる。

必死に海の記憶に抗い続けた室井の最後の一線が今、報われる。
室井が何に脅えているか知っててくれた。
室井が何を護りたかったか気付いてくれていた。
江里子の覚悟も、思いつめた愛情も、追い込んだ愛情も、他愛ない人生すべてが、室井が傷つくことで無駄にならない部分も確かにあって
室井が忘れるわけにはいかなかった。
憐れであることも、惨めであることも、室井を傷つける海が、同じように広がり。
ああ、もうぐちゃぐちゃで、溢れかえっていて、何も分からない。

室井は両手で肩を掻き込み、青島をグイっと引き寄せた。
顔を傾け、答えの代わりにもう一度青島の口唇に荒々しく重ねる。
誓いのキスは、やっぱり海の味がする。

「・・悪かった・・」

腕に掻き込み、耳に囁き、室井は青島の額を肩に押し付けた。
何年越しかも分からない、ようやく口に出来た謝罪は、逆に室井の瞼をじんわりと熱くさせた。

切欠一つで、危ういところに立っている俺たちは、もしかしたら最後の警告を、命令を、内から発する矜持を
裁かれていたのかもしれない。
ただ、もう、離れ離れは嫌だ。

「好きだった・・・ッ、君が、ずっと好きだったんだ・・ッ」

青島に回す腕に思いの丈を込め、力の限り室井は青島を抱き締める。

「傍に、居てほしい・・ッ」

君がそうやって、僅か残る室井も知らない、室井の媚びなかった欠片を掬い取ってくれるのなら。
明日を夢見る少年も、もう大人。人生の折り返し地点は過ぎた。
粋がってみても、苺は赤と決まっている。
実現させようと抱いていた壮大な夢は室井を作る要素から外れてしまったけれど
時のメリーゴーラウンドに囚われて、何も変われないと知って鎖に縛られ、溺れる海を振り返る夜が、いつか愛おしくなるその日まで。

青島のふわっとした体温は、久方忘れていたぬくもりで、室井を温めた。

「大切なものはあんたと一緒だから。だから、ゼッタイ、見失わないで」
貴方も。

「・・ああ」
「俺は、そんな貴方が・・・ずっと、好きでした」


美しいだけの政治思想を掲げて粋がった時代が一つ、幕を閉じる。
一番確かなことは、青島がここにいるということだ。
青島なら、海に沈んでいくことは、許してくれないかもしれない。
稚気な足掻きが、今は眩しい。

ようやく言えたと、小さくはにかむ青島の頬に海水が光り、その背後に海が広がる。
丸い月が朝焼けに桃色の形を残して、空を飾っていた。
遠くからは和久が幾人かの捜査員を連れて戻ってくる足音が聞こえてくる。

「室井さん、これってシゴトなの?」
「?」
「だったら二人でこのまま抜け出しませんか?」
「・・・いいな」















happy end

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苺月(ストロベリームーン)は6月の満月を指す俗称。別名「恋を叶えてくれる月」でも色はふつう。
続きはぬるいえろとなりますので、苦手な方はご注意ください。


★★ひとこと★★
一週間お付き合いくださりありがとうございました。当サイト初の連日連載でしたが、少しでも楽しめていただけたら嬉しいです。

世界が一変し、全て終わった後に続く時間はどんなものとなるのでしょうか。
リセットされた2020年は価値観から色々考え直させられた方も多かったのではないかと思います。
何もかもが変わってしまった世界で、柔軟に生きていくのは難しい。
大切で護りたいなら、それは生きていなきゃ出来ないことに気付いた室井さんは、理不尽に仕切り直しさせられても、まだその先は続いています。

まさか人生でパンデミックを経験することになるとは思いませんでした。踏ん張って踏ん張って、限界超えて、その先になにがあるの?
そんなとき、この物語をちらっと思い出してくれたらと思います。
タフな時代に生きる現代のみなさまが、どうかこの試練を乗り越え、幸せになれますように。
2021年3月2日 東京