STRAWBERRY KISS 1







1.
墨色の海は粉雪を吸い込んで、何度も何度も打ち返す。
銀の砂浜はただ一人の足跡を残して続くのだ。


*:*:*:*


「お前らも暇だね」

一倉が横から室井のスマホを覗き込み、肩を揺する。
メールをどう打とうか思案している厳めしい顔が、更に眉間を寄せた。

「笑われたくない。第一、一度も送ったことがないんだ」
「んなの、一言で充分だろ」

肩を揺すって大笑いに変わる一倉を、室井は苦い顔で睨むが、長年の仲が仇となって効果は薄い。
明後日、所轄に出向く所用を室井は言付かっていた。

広島から東京・警察庁へ戻ってきたのは先月のことだ。
六か月という特進に等しい形で昇進を遂げ、キャリアレースには戻れたが
今は池神の計らいで次の権力闘争を目論んだ戦略、もとい、雑用を命じられている。
所轄を回るのも、その一環だった。
無論その中には警視庁第一方面本部、つまり空き地署と呼ばれたあの地区も入っている。
ひょっとしたら顔を合わせるかもしれないと思う室井は、堅い顔の裏で、まるで修学旅行前の中学生のように、落ち着かない。
そこには取説、もとい、しおりもない。

「早いもんだね。時が流れるってぇのは。最近特に骨に沁みるよ」

あのセンセーショナルな事件から四年が過ぎていた。
恐らく青島は室井が広島へ異動したところから知らないままだろう。

「・・・・」

散々迷った末、室井はスマホを閉じた。
今更何を言っても言い訳にしか聞こえない気がした。
閑職をたらい回しにされ、ようやく古巣に戻ってきたと、どの口が言えるというのだ。
意地を張りたかったのは室井の方だ。
それを今更覆すことが出来ないキャリアの矜持が卑劣と思えない偏りに
気付ける者は此処にはいない。

「お?止めるのか?」
「そもそも当日、署にいるかも分からない」
「居てくれって言うだけだろ」
「・・・その言い方は少し・・・」
「愛情表現が捩じり曲がっている奴には出てこないフレーズだったか」
「変な言い回しをするな」
「事実だろ?」

そう言って室井を覗き込む一倉の眼差しは刑事の目だ。
無駄な抵抗だと分かりつつ、室井は視線を避け、瞼を斜に落とす。

「そういうつもりで呼び出そうと思ったわけじゃない」

出会って十年が過ぎていた。
一度手帳を捨てかけたミスと、それを同じキャリアに救われた結末は、室井にとっては手痛い負い目となって原罪を刻印する。
そもそも副総監誘拐事件で青島に怪我をさせ美幌に引き離されて以来、室井にとって青島はどこか古傷を引っ掻く相手となっている。
失いかけて初めて気付いた大切さに、失いかけなければ気付けない迂闊さも、何が何だか全部が後ろめたい。
もう会わない方がいいのだろう。
私はきっとまた青島を忘れる。
何かを壊してしまわないうちに。

「そんな顔してりゃバレバレだよお前。恐らく本人にも」

室井の顔が渋く歪んだ。
警察官として顔色から心境を伺わせるなど、素人以下だ。

青島が大切だと表現することは、室井に言わせれば、些か語弊があった。
執着、憎悪、憤怒、切望。
名付けることのできない荒々しい感情は、山奥に吹き荒れる嵐にも似た強さで、室井の咽喉に絡みついている。
だからこそ室井が望むのは健全な交友関係であり、少しだけ特別な優越感だった。
それが、青島に許されるのであれば、の話だ。
正直現時点に於いては、もう、どう距離を取ればいいのか分からなかった。

「・・・逢ってもいないのに」
「ま、邪推ってやつは刑事の基本だ」
「それにもう俺は」

探るというより痛みに近い困惑を乗せる声の室井の前で、一倉が緩やかに肩を小突く。
どれだけ直向きに室井が青島を想っているかは、傍で見ている方が痛々しく知っている。

「よぉし、俺がレクチャーしてやろう」

グッと固まってしまった室井の肩を引き寄せ、一倉が耳元に妖しい提案を囁いた。
昔から一倉に関わってはロクなことにならないと分かっている。
解かってはいるが、だが恨み節を向けても、そうやって後回しにしてきたからこその、この惨状である。

「・・・どうすればいい」
「食事に誘う」
「ベタ過ぎやしないか」
「ベタというのは実績があるってことだ。客観性を持て」
「だが」
「ならお前、指咥えて掻っ攫われるのを待つか?」
「!」
「おっまえ、一体、何ッ年放っておくつもりだよ?!」
「――!」

ハッハッハと高笑いをする一倉も、出会って数十年、札付きの室井を見限らないのだから、どっちもどっちである。
だが一倉の言うことは、尤もだった。
室井が幾ら行儀良い正論で身を引いたところで、室井と青島の奇妙な縁が再び重なることをごく一部の連中は秘密裏に懼れている。
迂闊に近づくことは許されない。

ほんの少しだけ勇気を出した気紛れを恥じるように、室井は瀟洒な顔を歪めた。
未練を残す指先が、スマホを弄ぶ。

行動に移さない現状は、何の変化もない。
変わらないということは忘れ去られるということだ。
青島の中ではかつて息を合わせた上司という約束の欠片が遺されるだけで、室井に進行形の痕跡は何一つない。
謝ることも、決意も、感謝も、まだ赦されていない。
多くは望まない。でも室井は、過去の人にはされたくなかった。まだ、この灰色の堅牢で戦う間くらいは。
それすらも、随分身勝手な願意であることは、室井自身理解している。
物静かな男に見えて、室井は時に、激しい感情を持つ人間だった。

「誘いに乗ってくれるだろうか・・・」
「乗せるんだよそこは!男見せろよ!」
「お前今レクチャーしてやると言わなかったか」
「大丈夫、青島はお前の誘いなら乗る気がする」
「根拠は」
「二人とも似た者同士だからだ」
「一倉、そこまで青島を知らないよな?」
「一度見りゃ充分だ」
「そういうのを主観と言うんだ」

額を突き合わせるほどに、煮え切らない応戦を繰り広げていた二人は、ただ生温く睨み合った。

「とっくに見限られている可能性だってある。四年も放ったらかし?そりゃ愛想も尽かされる。向こうから連絡ないんだろ」
「青島はこちらの連絡先を知らないだけだ・・!」
「おっまえ、その番号、不法入手したのか」
「たまたまだッ」
「それで良く“知っている”振りできたな?そういうの何て言うか、知ってるか?つ・ま・み・食・い」
「お前が今俺たちは似た者同士だって言ったんだぞ!」
「撤回するわ。とっくにお前のことなんか忘れてんよ!」
「青島はそんな男じゃない・・!」

まるで無益なやり取りを続ける二人に、一つの影が水を差した。

「あのぅ、センパイなら多分、明日すみれさんとデートですよ?来る前二人で店探しているの見ちゃったんで」
「「・・・・・」」

のほほんとした真下の声が頭上から投下され、何故お前がここにいるんだとか、どこから聞いていたんだとか、室井と一倉の色々あったツッコミ所を全て霧散さ せた。













2.
その後、意を決してというか一倉の挑発に負けて苦心して送信した室井のメールは、宛先不明で戻ってきた。
人生なんて、そんなものだ。いつだって。

「いやぁお疲れ様でした・・!あ、これつまらぬものですが、皆様でどうぞ~」
「ご苦労様です」

湾岸署のエントランスを出た所で室井は顔を上げる。
風の強い日だった。
鼠色に聳え立つ鉄筋コンクリート造の真新しい建物は、海風と陽の光を浴びて薄い春空に映え、室井は目を眇める。

青島は部下たちと聞き込みに出かけたということで、いなかった。
目の前でスリアミと呼称される引退組がヘラヘラと愛想笑いを浮かべながら手を擦り合わせる様子が、絵巻ように流れていた。
腹黒いトップクラスの老耄共とは対照的な、明け透けな態度はいっそ無毒だ。
渡された白い紙袋には何やら大きな菓子箱が見えた。
こんなことなら、手を回して彼らに青島を足止めさせてもらったって良かったとさえ、室井は苦々しく思う。

「失礼する」

肩で息を吸い、無言で手土産意を受け取ると、室井はキッチリカッチリと頭を下げる。
芽吹いたばかりの若葉が青空に揺れていた。
ここは海の匂いが強い。
海は、室井の奥底を搔き乱す。あの男も。

本庁御用達の黒塗りのドアを部下によって開けられ、室井は真新しい黒革靴で踏み出した。
メインディッシュのように最後に回していた湾岸署を終えれば、今日は本庁に戻って報告と会議が待っている。

「・・ぁ、れ、室井さん・・?」

瞬間、まるで、雷が走ったように室井の肌が逆立った。
少し高めの甘い独特の声。いつも自分を呼ぶ、時に悲痛な感情を乗せて向けて響く、直向きな透明感、凛と胸に広がる――。
壊れた機械のように顔を向ければ、そこには見慣れたモスグリーンのコートに肩から黄色の規制線テープを無造作に下げた、本物の青島が小首を傾げて立っていた。
隣からは和久がのそりと顔を出す。

「おやまあ、久しぶりじゃねぇか、本店のお偉いさん。何か此処に御用だったのかい?」

頷き応えながらも、室井の視線は青島に釘付けだった。
足も指も動かない。
まるで青島を視界から取り戻そうとするかのように室井は眉間を寄せた。
本物だ。本物だ。夢なのか?
ひりつくように奔る視線の電気が、これがリアルだと室井に告げていた。
それは青島も同じようで、共に笑顔はなく、室井をしかと睨みつける。
それすらも、室井の背筋をぞくりとさせる。

「こらこら青島くん、挨拶挨拶!」

袴田が横から小突く形で、その呪縛は解かれた。
フォローを入れるように、尚も見つめ合うだけの二人に、苦笑いした和久も背後から青島の背中をぽんっと押し出す。

「ほらよ、青島、積もる話もあるんじゃねぇのか?」
「・・・ないですよ」

憎まれ口しか返さない青島を、腰を擦りながら年老いた目は優しく見つめ返した。
何もかも乗り越えた、多くを悟ってきた年配のその眼差しは、室井の矮小さをまざまざと切り落とす。
室井は恥を覚え、ようやく青島へと向き合った。
確かに一度はきちんと話さなければならない。
和久も吉田元副総監も色々あったと聞いている。それでもこの歳まで友好を続けてこれたのは、くだらない意地などで大切なものを見失ったりはしなかったから だ。

「青島。時間、取れるか」
「!」

まだ腐れている青島は、和久と室井を見比べて、仏頂面のまま小さく頷いた。


*:*:*:*:*


てくてくと歩く後ろに続く。
海沿いの道は舗装も悪く、ひび割れたコンクリートから雑草が生える。
膝丈まで伸びた草が、ここが地区の者だけが知る抜け道であることを伝えた。
遠くの白いビル群が、この街が急速な開発を成し遂げたことを謳って見下ろす下を、室井と青島は並ばずに歩く。

青島のコートの裾が海風にひらひらと揺れ、浅い春の陽射しに淡い色に変わった。
久しぶりに見た青島は室井の記憶のままで、人好きのするベビーフェイスに、すらりとした長身の袖先から覗く丸っこい指先が、あの頃と変わらぬリズムを刻 む。
変わっていない。変わらない。
しっくりと馴染む室井の記憶がリアルと融合し、数年の時を超え、錆び付きもしない楔のように、室井を引き摺り込んだ。
それはいっそ舌打ちしたい濃度で室井を酩酊感と緊張感に誘ってくる。


海が遥か見渡せる白い防波堤まで来て、青島が細長い足でトントンと、ステップを踏むようにくるんと室井を振り返った。
ひと気はない。
じっと見つめられ、息が止まった。

「帰ってたんですね」

久しぶりだとか何で置いて行ったとか、挨拶も文句も飛び越えた青島の声に、室井ももう清々しい顔を向けた。

「いつ?」
「少し、前だ」

室井の目線が一瞬だけ青島の足元を指した。

「少し庇っているようにも見える」
「そーでもない、ですよ、もう。最近はね」
「・・・そうか」

少し老けて皺のよった室井と違い、青島は艶のある肌を潮風に紅潮させる。
探るようなその視線が心地好さと共に、ただひたすらこの男に秘めてきた記憶を室井にジワリと炙り出した。
清澄な空が少し陰ったように影が濃くなる。

「係長と聞いた」
「ええ、少し前に、ね」

似たような言葉を返して、青島の清冽な目が少しだけ懐かしそうに細められた。

波の音が聞こえていた。
それきり言葉を続けられない室井に、青島も口籠る。
悪戯っ気な顔が少し困ったような顔に変わり、明後日の方角へ視線を投げ、それからもう一度室井を見た青島の目は、今度は拗ねた子供のように変わった。

「それだけ?」

鮮やかに変化する豊かな表情と印象的な瞳に、室井の目は虜となって残像を焼き付ける。
男にしてはぷっくりとした紅い口唇がぷぅと突き出された。

「それだけなら、俺、帰りますけど。まだ仕事残ってるんで」

展開が急すぎて、明確に引き留める用事もなかったことに、室井は顔面を強張らせた。
室井の表情に、まじか、と察した青島が更に半眼となる。

「俺に何か、言うことも?」

少しだけ苛立ったような声で強請られ、室井の眉間が寄せられた。
思いつくままに、口を開く。

「・・・・東京へ帰ってきた。また上を目指す。それとは別に、今度は、私は君を食事に誘ったりするかもしれない。また会えないかと聞くかもしれない。いい か?」

ぽかんと口を開けて目を丸くしている青島の顔を見て、室井は何やら自分が変なことを口走ったことを悟った。
一倉が妙なことを吹き込むから・・!

飛び出した言葉は、室井の躊躇いも虚しく青島の耳に正確に届く。
気まずい沈黙に、どちらも動けない。

「・・・どうぞ・・・」

やがて零れるように落ちた青島の言葉に、今度は室井が固まった。
しばし見つめ合う二人に、潮風が海上の冷たい空気を運んでくる。
パタパタと舞うモスグリーンのコート、ふわふわと揺れる淡い髪。
つぶらな瞳がじっと室井を待っていて、室井は聞こえた言葉にさえ耳を疑った。
そんな味善い展開が早々あってたまるか。
仕事じゃないぞ?私用だぞ?!
だが、僅かの間をおいて、目の前の青島の方が、あれ?と髪をくしゃくしゃに掻き混ぜた。

「・・ぇ、ちょ、ちょっと、待って。待って、違う、ぇ、なに?俺今何言った?じゃない、その前に、今言うことって、そこ?」
「・・・・」
「ぇ、よねんぶりに会って、あれ以来の再会で、メシ?・・・まじか、あんた・・」
「多少、間違えた気はしている・・」

言うべき想いは幾らでもある。
言わなきゃいけない罪は、山ほどある。

自分たちがどういう別れをしたのか、忘れたわけではない。
色んなことがあり過ぎて、だからこそ、再びの接触にあれだけの悶々とした時間を要したのだ。

弁解だけではない、室井はまだ大切なことは何も告げていない。
その立場の確執から、室井もまた青島を危険な目に合わせてきた。
正義感の違いは時を隔てた今でさえ、室井を選んでくれなかった、ひいては信じてくれなかった青島へ
今尚燻り澱む、呪いのようなものもある。

秋の放火未遂逃走事件、恩田すみれの銃撃、決戦を分けた路上強盗殺人事件。
失ったものは多すぎた。置き去りにしたものは償いだけじゃない。
いつもいつも、青島の優しさに流されて、うやむやになったまま、彼の優しさに甘んじた。
いつも背を向けたのは自分からだった。
ろくに語り合えないまま東京を去った。二度も。
でも逆に、それで少し、室井はほっとした。
もう、巻き込まないで済む――

だが今、目の前の本物の青島の柔らかい態度を見ていたら、全部すっ飛んでいた。
不甲斐ない自分をいつも最後に奮い立たせてくれた彼に、感謝よりも哀惜が募った。

ほんの少し。
悪戯を仕掛ける怯えた子供のように、ほんの少しだけ、何か。
毒を含む荒んだ記憶に混じり、あの海が、室井の奥で喚いている。

別に、何を求めているわけじゃない。
最後に、ただ、君に。ほんの少し。

突飛なく仕掛けた願い出に、青島も特に怒っている風ではなさそうだった。
室井は拳を握り締め、仕切り直すために息を吸う。
その刹那、室井の目の前で青島がふわんと笑った。

「はは・・っ、なんか、やっぱ、室井さんって感じだなぁ~。なっつかしぃっつーか、親しみやすいっつーか。・・・俺、すきだな、やっぱ。ってか、好きでした」

花が咲き零れるような笑顔に魅せられ、同時に付け加えられた言葉に脳天を貫かれた室井はその場に硬直した。
春の海風は、思ったより凄まじかった。












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本作に於いては、和久さんは2009年まで湾岸署に関わっていた設定です。
OD3で辻褄を合 わせるとして、隠居後も青島くんに電話でちょくちょく駆り出されていたかんじで。
公式では容疑者までご存命ですので、室井さんにしてみれば広島に飛ばされている間にお別れになっちゃった?と思って。それはあんまりかなって。
和久さんを登場させたくて、本作の時間軸を2012ではなく2009にしました。