ショートショート~present
中国からとても可愛いお話を送ってくださいました!/管理人による意訳でよければどうぞ。
時間軸は不明。登場人物は室井さんと青島くん。付き合いたてでやられっぱなしの室井さんと天使青島くんのピュアラブストーリー。
しょ~もない室井さんのヘタレすぎる恋愛事情に微笑んでください。全1話










BUKIYOU -不器用-  (日本語ver.)
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1.

そもそも最初に頭に浮かんだのは、コイツもそろそろ髪を切ったほうがいいなということだった。

青島がベッドにもぐりこんできたとき、室井はそのうなじに赤い痕を見つけた。
丸一日疲れ果てた所轄刑事は、しばらくうつぶせに枕を抱えてうずくまっていたが、やがて横を向いて気持ちよさそうな寝息を洩らす。
室井は心持ち体を動かし、耳の下まで垂れている髪の毛をそっと手で掻き揚げた。
そして、その首筋にある痕跡を発見した。

「……ねむい」

青島の声は鼻にかかっていて、ひどく子供っぽく聞こえた。
室井がおずおずとそこに触れると、青島は寝返りを打ってこちらを向き、唇を尖らせる。

「くすぐったいってば」

長すぎる前髪が鼻梁からすべり落ちて頬に垂れる。
ベッドサイドの明かりに、まったく無防備なシルエットが浮かび上がっていた。
室井はそんな青島を煮え切らない気分でしばらく眺めていたが、やがて、意を決した。

「おまえ、首のところは」

青島は目も開けず、それに応えるかのような小さな吐息を漏らしただけだった。
室井はしばらく待っていたが、案の定、会話が終わっていないにもかかわらず、恋人は規則正しい寝息とともに胸が小さく波打つような眠りに落ちていった。


室 井だってここまで既に深い睡魔と戦っていた。
雑誌を持って青島が風呂に入ってベッドに戻るまでに、何度か眠落ちしそうになった。

各々の担当事件から解放されたばかりの今夜、午後十時に二十四時間営業の居酒屋で会って食事をし
家に辿り着いたときには針は新しい一日に向かっていた。
翌朝には会議を控えていることを知った青島がともかく先に風呂に入れと言い張るから、結局先に失礼をした室井は
自分も青島が終えるのを待ってから眠るとい うのが筋だと思った。
そこまで青島が気付いていたかどうかはわからない。室井にとっては条件反射のような自然な行動だ。
でも、逆の立場で、青島が同じことをするかどうかまでは、今の室井にはまだ読み取れない。


****

付き合ってから三カ月、逢っていた期間はかろうじて十日、一緒に泊まった回数は片手で数えられる。
しかし、泊まらない日でも、別れる時には必ずおやすみのキスがある。
それは、室井を安心させる数少ない儀式だった。
外にいれば、ひと気のない路地や人通りの少ない脇道を探すことになるし、駅のトイレみたいなところの時だってあった。
往々にして、青島のほうからだ。
初めての時も、青島からだった。 

それから室井は別れ際に目で合図するようになる。
繰り返すうちに、それは癖となった。

どこに行けばいいですかね…と、ちょっと恥ずかしそうに青島が頭を掻く。
そして俺たちはまるで間違ったことをしている子 供のように、世界中のすべての視線を避けながら
薄暗い場所、陰気な場所で、唇と唇でお互いを暖め合った。
壁に背をもたせかけた青島の膝から力が抜けたように見える頃には、室井は苦もなく彼の視線を受け止めることができた。
そういう状況では、青島の瞳はいつもの垢抜けた色をしていないからだ。
室井と同じように、うっすらと濡れた黒い瞳で見つめられ、その前髪が室井の額に擦りつけられる。

どうしたら本当に彼を手に入れたような気分になることができるのだろう。

それは、どれほどの人生だったのか、どういう恋愛をすれば手に入れられていたのか、という無言の自問でもある。
青島は間違いなく、室井にとって百点満点の自我を持った相手だった。
青島は一日の大半を、室井の傍ではなく青島の世界で輝いて過ごす。
彼は男だ。 二人とも男同士だ。
このような危うい糸のような関係に青島を縛りつけすぎると、お互いが奈落に墜ちていく結果になることは目に見えていた。
それでも、自分の気持ちをどう巧妙に、どう処理すればいいのか、室井にはわからなかった。

不器用だ――
青島にキスをするたびに、室井の心には電気で灼かれるような痛みが走る。
彼の笑顔を見て、彼の温度を感じ、彼が自分の名を呼ぶのを聞くたびに、その痛みはまるで、腐っていくように一段と強くなる。

こんなにも青島の一挙一動がこちらの全ての気持ちを弄んでくるのに
青島の中で室井がどの程度の存在なのか、想像もつかない。
一ミリも同じ気持ちをもたらすことができていないのではないか、ということにまで思い至ってしまう。

ど ちらがより夢中になっているかを比較するのは中学生のようなものだ。
最近の子どもたちも早熟になってきているので、こうしてみるともう小学生と変わらないかもしれない。
そもそも、相手が青島だからそう思うのかどうかから疑問だ。
彼は眩しすぎる。
生来の性格のせいか、あるいは営業マンという経歴のせいか、どこへ行っても非凡な存在感を発揮するのが青島であり
主観だけでなく、客観的に見ても、青島の魅力の一部になっ ている。
それをよく知っていた室井は、最初から今のように近づくつもりはなかった。
狂おしいほどの渇きを覚え、ここ数十年の人生にはなかった激情 に身を晒す行為だとはいえ
それよりも、やがて焼かれ灰になることを知りながら逃避行することを選んだのは
こちらの弱さだけのせいとはいえないだろう。

よ りによって青島が先に口を開いたのだ。
室井宅で飲みすぎたその日、そろそろ帰るのかと室井が言いかけたとき、腕時計に目を落とした青島が、「あ、終電逃した」と目を丸くした。
頬の紅潮は、酔いのせいかそれとも他の要因か。
室井は口籠り、この路線が実は最終を二十分延長したという事実を訂正しようかどうしようか迷った。
が、その時、理由もなく一つの可能性も思いついた。

もし、青島がその事実を知っていながらそんなことを口にしたとしたら……?

次に動いたのは青島では なかった。
囚われたように、こうして顔を紅潮させ、青島は上気して室井の隣で見つめ返してくるだけで、室井が近づいてくるまで無言のまま息を呑んでいて――
そして、先に唇に触れてきた。

このあからさま な行為を、笑って誤魔化すことも出来た。
青島は行動力のある実践家だ。 若しくは、恋愛マニュアルに長けたミニチュアマシンだ。 両者は矛盾していない。
だから室井は先に勝負に出た青島の戸惑いを見抜くだけでよかったし
あとはおとなしく腕の中に収まってくる大型犬を懐に入れることも、 難しいことではなかった。

だからこそ、その夜は一晩中、青島が室井の一時の気まぐれと思ったのではないかと不安になった。
朝になって青島が目を覚まし、ベッドから起き上がるのに合わせ、同じように起きだして様子を伺っていると
青島は、まず家に帰って着替えをしなきゃと言い捨て、風のように逃げていってしまった。
室井が言い訳する間も与えて貰えなかった。
ドアが閉まる音を聞いて、室井はやっと我に返ったのだ。

どうして残れと言わなかったんだ。

ベッドに叩きつけられるように崩れ、改めて自分の不器用さを痛感した。
たとえあの瞬間に、二人が「好き」という言葉を口にしていなかったとしても、だがキスだけじゃ本当に何にも始 まったことにはならない。

慌てて室井は仕事が終わり次第、青島に電話をかけた。
随分と長い間、呼び出し音が鳴っていた。
繋がったときも、向こうの様子が静かだったので、室井は青島が自分と話すことも嫌がっているのではないかとさえ思ってしまった。

仕事はどうだったか、忙しかったか、今帰ったのか、とだけ口にした。
それは、キスをする前にだってしてきたような決まり文句だ。
だが、青島は黙ったままだった。

それはまるで、自分と青島の性格が突然逆転したような錯覚のようですらあった。
やはり、自分は話を聞く方が似合っている。
やり場なく、室井の気持ちも沈んでいく。
二人揃って携帯電話を挟み、しばらく黙り込んでいたが、やがて室井は向こうで青島が小さく鼻をすする音を聞いた。

「泣いてるのか」
「……泣いてません」
「……泣いているだろう。何があった?」
「……室井さんだって分かってんだろ」
「……すまない」
「俺が聞きたいのはそんな謝罪じゃないよ!」

電話口で室井は戸惑う。
青島は今怒っていて、さっきは泣いていた。
何をすればいいのか、こっちだってわからない。
どこにいるのか、会いに行ってもいいのか、そこから問い質したかったが、今の自分にそんな権利があるのかどうかすらわからなかった。

青島は室井に泣くほど怒っている。そう思うと室井の心臓は痛んだ。
す まない、すまない、すまない。軽々しく謝罪することは好きではなかったが、それでもこんな青島に対して、本心からそんな嘘くさい言葉を吐こうとしたのは
1パーセントの確率でもいいから、青島の蟠りを楽にさせてやりたかったからだ。
しかしその言葉も、今、青島本人によって拒絶された。 
青島はこんな謝罪など望んでいない。 それ以外に室井に何が言えるのか、また何ができる?

やがて、青島が涙声で問い返してきた。

「室井さん、おれのこと、すき?」
「——青島?」
「……もちろん、気に入らないヤツとはやらないでしょう」
「……」
「でも、もし、俺だけが好きだったら……」
「違う!」

室井は思わず声を張り上げた。
青島がそこを気にしているのなら、室井はそれを訂正することが出来る。
好きだからしたのだが、もうそれだけではない。

「……そ、そう……?」
「青島。君が好きだ。だから、もしよかったら、私と付き合ってくれ」
「……室井さん…!」
「……私でよければ、なんだが」

もう、すべての懸念は忘れてしまっていた。
わずかに残っていた理性だって、青島が終電を逃したと言ったとき、そんな彼の唇に接吻したあとでは、とうに煙の如くどうでもいいものになっている。
キスの後は、歯が強張るほど緊張していた。
恋は永遠に終わりの見えないハードルのようなものだ。 最初の一線を越えると、さらに次の一線が圧し掛かる。
しかし、もし青島が「ノー」と言ったら、室井は自分が拒絶された痛みよりも
もう二度と彼とまともに会えなくなることの方が受け入れられないだろうと思 った。

一体コイツに出会ってどれだけペースを狂わされてきたか......

ふっと吹き出す声も可愛らしい。
室井が「イエス」の気持ちを口にしたとき、涙をこらえながら、うなずいている姿が目に浮かんだ。
青島の頬が今頃どんな色をしているか、昨夜のおかげで室井にはもうよくわかる。
次 の瞬間には本当に立ち上がり、このまま湾岸署に行こうと思った。

この夜、東京に初雪が降った。
一緒に官舎の窓から外を眺めながら、室井の手が青島の腕にかかり、折れ曲がるように引き寄せると、二つの影は隙間のないように密着した。
この瞬間から、室井は自分がもうこの男から離れられないのだということを自覚した。








2.
翌朝。
朝食のとき、青島 は眠そうに目を擦る。寝乱れた髪がいつもよりふわふわして見えた。
二週間ぶりのお泊りデートのせいで、キッチンのコーヒーメーカーの前で何秒かフリーズしている。
操作の仕 方を忘れてしまったようだ。
室井は苦笑して立ち上がり、コーヒーを淹れ、トーストと卵を煎りながら、「先に座っていてくれ」と振り向かずに促したが
青島は言うことを聞かず、背後にへばりつき続けた。

心 の中が微妙に緊張している。
一緒に朝食を食べるのは初めてではないし、自分で作って青島に食べさせるのも初めてではない。
しかし、青島が室井が作った料理を口に入れるのを見るたびに、緊張してしまう。

一緒に過ごす時間がまだ少ないからかもしれない。
これまで、室井宅で食事をしたことは二度しかなかった。
一度は付き合い始めて間もない心づくしの夕食で、もう一度は先月のある日の深夜、突然の鍋煮ラーメン だ。
確かあの夜は―

****

青島が官舎のドアをノックしたとき、室井は今しがたベッドに入ったばかりで、ノックの音に布団を捲ってからもしばらく躊躇った。
仕方なくドアの ところまで行った時、またしっかりしたノックがあったので、室井はコートを羽織って仕方なく玄関を開けた。
途端、見覚えのあるモスグリーンのコートが目に入り、入ってくるなり飛びかかられ、その重い大きな物体に危うく転びそうになった。
途切れ途切れの話から、室井が翌日も休日 であることを新城から聞いたので、必死になって十二時前に仕事を切り上げて駆けつけたらしかった。

「なぜ電話しなかった?」
「室井さんだって電話してこないじゃない」
「……新城はまだ湾岸署に缶詰だから、きみたちが忙しいのは察しがつく」
「ふうぅぅん。そりゃあ連絡入れておいたほうがいいかもしんないですけど。そうしたら、今みたいに室井さんを困らせることはなかったかもね」

室井はちょっと言葉を区切って、向かいに座っている青島を見る。

「困らない。きみが来てくれて、うれしい、だ」

青島はにやりとしながら手にしたカップを握り締め、少しだけ得意そうに眉を上げた。

「わーってます。冗談です。実はケータイの充電切れちゃってて。そうじゃなきゃ途中で室井さんに連絡してました」

室井は真っすぐな視線に少しだけ困惑を乗せた。

「もしおまえが来た時に俺が留守だったらどうしてた?」

青島はうつむいてホットミルクを一口飲んだ。
青島から飲むと言い出したのだが、子供っぽいなと室井は内心笑いつつ、すぐに牛乳を注いで温めてやった。
上唇のあたりが、うっすらと白く染まっている。

「ああぁ~……そうですね。 ここまで来てから室井さんがいないことに気づいたらどうすっかなぁ。 こういう場合、普通、どうしてんだろう……」

カップを両手で持ったまま、上目遣いに青島は室井を下から見上げた。
男が抵抗できない角度だ。
そして、いつもより犬っぽい。
室井はそのハニー色の瞳に見つめられ、何秒か経ってから、今の言葉の意味をぼんやりと長考した。

……もし自分の解釈が間違っていたとしたら、青島にしてみればそれはさすがにあまりに早い展開だと思うかもしれない。
しかし、もしそれが、いつもの自分の鈍感さの範疇だったとしたら……

青島がカップを少し下げて苦笑する。

「なに室井さんのそのカオ。 とんでもない難事件を抱えているようですよ。今の質問、そんなに答えにくいものでした?」

室井はテーブルに手を付いて立ち上った。
背中にかけてあった上着が椅子の上から滑り落ち、青島はちょっと意外そうに呆れて、目を見開いて呆然と室井の行動を見つめた。

室井は踵を返して部屋に行き、余分に用意していた合鍵を取り出した。
リビングに戻る頃には、縁の尖った金属の角で掌が痛い。
まだぼんやりとカップを持っている青島の傍まで行き、室井の動きに反射的に開いた青島の掌に、手の中のものを入れた。

青島は広げた手のひらを、数秒間、目の前に近づけて眺めた。
その唇についたミルクの跡がまだ消えていないのが、室井は妙に気になった。

「……これ、俺に?」

室井は心の中でドキンとする。
あと一歩でその場で鍵を取り戻し、間違えたとすら言いそうになった。

これは、期 待したほどには青島は笑わなかったが、室井の計画の中では突飛すぎる最悪のシナリオでもなかった。
青島が上目使いでじっと室井を探ってくる。
まるで世界中で自分と彼の二人だけが狭い道の両端に立っているかのように、青島は強風でも身動きできないほど硬直していた。
ある意味、武士映画のワンシーンだ。 
シーンは最後の直接対決のところまで進み、両者の生死をかけた対決となり、室井は自分が敗北することを漠然と感じていた。
やはり自分は脇役の運命だったらしい。
そして青島は何でもできる主人公で、彼が手を挙げると、室井は体が成すが儘に踊り出す。

青島が、キーを握りしめた。
小さく、室井の唇にキスをしてくる。
思わず室井は、自分がこのままミルク味に染まったと思った。

「言ってみようかなと思って聞いただけなのに、室井さんがここまで真剣だったとは思いませんでした」

室井はその瞳に宿るあらゆる感情を読み取るのに苦労した。
青島はびっくりしていた。 喜んでもいた。
しかし、幸せだろうか?
本庁席と最後尾で、目を合わせることすらなかった出会いからここまで来て、青島は果たして室井が今の動悸に酔いしれているくらい、幸せを感じてくれて いるだろうか?

私は口下手だ。 恋を打ち明けることすら苦しんだ。
私はきみのような駆け引きはできないし、相手をどんどん己に引き込むような技巧や会話術も知らない。
しかしきみを愛してる。
私はきみを愛しているが、きみに私を愛してもらえるような口説き文句も行動もすべてが苦手だ。
だから何も言えなかった。

室井の目の前で、青島に渡った官舎の鍵は、青島のキーホルダーにつながれた。
室井の一部が青島の世界と小さく触れ合い、細かな音を立てる。

「室井さん、俺、めっちゃ嬉しいですよ」

青島が顔を上げて満面の笑みを覗かせる。
青島は座ったままで、室井は立ったままだった。
いつもの身長差をなくした構図、そのあどけない笑顔に、室井は自分が実は無垢な子供を相手にしているのではないかとさえ錯覚した。

ゆっくりと感触を噛み締めてから、青島は続けた。

「幸せです。 室井さんにこんなに真剣に扱われてんだから」

いつもの、キスされるのを待っているかのような顔だった。
茶色の瞳がわずかに細められる。

「だから俺は幸せです」

室 井は身を乗り出してその唇を吸いあげた。
青島のキーホルダーを握ったままの指先が伸びてきて、室井のネクタイを掴み寄せる。
チャリンとした金属が触れ合う音に、室井は眩暈がしそうになった。
ゆっくりとキスが解け、青島が腹減っちゃったと笑う。
そして室井は、青島がまだ食べてもいなかったことに気づく。

青島はさっさと鍋煮ラーメンに夢中で、室井は青島に半眼を投げた。
今が実は心の中にある五文字の言葉を口にする最高のタイミングだった。
しかし、そのチャンスはまたしても逃げていった。








青島の出勤時刻になった。
出 がけには、それでもやはり「今夜はまた来るか」と聞かずにはいられなかった。
青島はちょっと困ったような顔で、できれば来たいけど夜には張り込みの予定があるから何時になるかわからないと応えた。
室井が黙って頷くと、青島は顔を見られないように靴を履くため身を屈めたが、立ち上がったときにはその視線はまっすぐに室井を見つめてきた。

「室井さん」
「なんだ」
「室井さんは俺に来てほしいの?」

二人が付き合っているという事実を吹っ飛ばすような、天真爛漫な笑みだ。

「…おまえ、来たくないか?」
「いぃえぇ?」

青島がちょっと悔しそうに口の端を下げた。

「ただ、室井さんの口から聞きたかっただけです」
「……」

室 井は虚を突かれた。
まだ出勤もしていないのにだらしなくゆるめたネクタイ。 寝不足のせいでうっすらと赤くなっている眦。青島が室井の前でしか見せない甘えた感情。
究極のハンサムでも美系でもないのに、よりによって室井のこの数十年の人生は、この男によってこれまでの硬派とは逆の方向に導かれてしまったようだ。

室井は小さくため息をつき、眉を寄せて青島の目をまっすぐに見た。

「青島」

今、青島の背後で、見えない尻尾が今、揺れているに違いない。
飼い主が頭を撫でてくれるのを待っていた大型犬は、期待の表情を浮かべた。

「室井さん」
「……」
「……」

大型犬の頭には、はっきりと疑問符が浮かんだ。
室井は喉元にこみ上げてくる言葉の一部を絞り出すのに必死に粘った。

「来てくれ」

う ちに来て欲しかったんだ――
言葉の前半はほとんど呑み込まれ、室井が自分の口の拙さを改めて悔やんでいる証拠となった。
わけがわからない青島はおとなしく黙り込み、次の瞬間、青島の気配が一気に近づいてきて、だが室井の体は逆に硬直した。
昨晩、ベッドで自分の隣で眠っていたあの姿を急にフラッシュバックさせられたからだ。

室井はわずかに身を捻り、青島の唇の端にキスを落とした。
青島は、室井に近づいた時には無意識のうちに目を閉じていたが、離れてから数秒後に瞼を開けた。

「……そろそろ行かないと遅刻するぞ」

明らかに未練がましい青島を無視し、室井は目の前の青島の肩を強引に押さえてドアの方に押しやった。
青島は「室井さんはずるい」と愚痴りながらドアの方へ押されていくが、室井も内心で悪態を吐く。
一体どこが「ずるい」のか。どっちが「ずるい」のか。

青島が壁に両手をつき、扉前でようやく観念した。
室井を振り仰ぎ、青島はぷっくりと頬を膨らませる。

「——室井さん」
「遅刻する」

改めて堂々と真っ当な理由を口にするが、室井は思い出した記憶の方が鮮明すぎて、ほとんどまっすぐ目を合わせることができなかった。
青島は苛められるままに室井の唇に強くキスを押し返す。
しつこく唇を押し付け合い、そしてそのキスが離れる頃には、青島がはっきりとした嬌声を洩らした。
予想していなかった反応に、青島は気まずそうに目を逸らし、その表情に室井はなぜか笑いたくなった。
そして、つい、笑みが零れる。
室井の苦笑に青島はますます恥ずかしくなったらしく、顔を真っ赤にして反抗する。

「室井さんのくせに……っ」

室井は懸命に口元を抑えた。

「……ああ、悪い、笑ってしまった」

青 島の、いらいらする子供のような表情が可愛すぎる。
こんな宝物のような大事なやつを家の中に隠し、誰にも見えないところに閉じ込めてしまいたい。
青島は知ってい るのだろうか。
こうして室井に甘え、自分からキスを強請ってくる青島は
間近にいるこの男が実は平静に見える表情の下で、自分に対しどのくらい灼け付くような欲心を秘めているかという ことを。
罪だ、と室井は思った。

しかしそれは室井を堕落させる罪でもある。 もう泥沼になっている。 もう抜け出すことは、できないのだ。
室井は罪を共有させる悪魔のように、青島に向かって囁いた。

「おまえを、行かせたくない」

青島は天使ではない。 青島は人間でしかない。 だから青島は悪魔の誘惑を断ち切ることができない。
その顔は、血が滴るように真っ赤になった。

「きききき来ますよっ」

青島からはさっきまでの勢いは失せ、室井がもっとも傷つけられることに耐えられず、同時にもっとも獣欲的にさせるような顔になった。

「仕事が終わるまでにどれだけ時間がかかろうと……来ます」

青島がドアを押し開け、ウィンクする。

「室井さん、愛してますよ」

青島がドアの外に消えるまでの時間は、ほんの一秒にも満たない。
室井はしばらく呆然としていたが、鼓動のような動悸から解放され、慌ててドアを開けて追いかけた時には、もう廊下に人影はなかった。

今、青島はなんと言った…… ?











4.
夜、室井が帰宅したとき、部屋の中はまだ真っ暗だった。
ネクタイを緩め、部屋着に着替え、冷蔵庫の中のいくつかの食材を見つつしばらく考えていたが、やはり室井は青島に先に電話をかけた。

出ない。
……湾岸署にかけるには、大袈裟すぎる。 それに恩田くんに出られでもしたら……

室 井は仕方なくキッチンに戻り、一番簡単な材料で夕食を作った。
皿を洗いながら、青島が帰ってくるかもしれない時間を予測しながら、片付けを終えてリビングに 戻ると、壁の時計は九時を指そうとしていた。
数分間、ドアの方を見たまま立ち尽くした。
これじゃ、どちらが犬に似ているのか、ほとんどわからない。

少しでも賑やかな雰囲気を作るためにテレビをつけ、室井はソファに腰を下ろす。
その時、横でくしゃくしゃになっている T シャツが青島のパジャマらしいことに気づいた。

どうしてこんなところに置いてあるんだ? いつもこんなふうに適当に放り投げて……
まさか昨夜のシャツもここに脱ぎっぱなしになっているし、朝もこんなふうに着替えたまま放っておくのか……

苦笑しながら T シャツを手元に持ってきて畳み、左右を内側に折りたたんで、胸元にある「WPS」という文字の入ったロゴを上に向ける。
室井の指が肩のラインと袖口の位置をなぞり、後襟に触れたところで、止まった。

待て。
……いつからあいつはこの服をパジャマ代わりに着ていた? 春先からか? それも、もうすぐ一ヶ月か……

室 井は、不意に昨夜見た青島の首筋の赤い痕を思い出した。
軽く触れると、「くすぐったい」という反応が返ってきた。
指先に触れるタグの刺繍が、間違いなく歪な感触を伝えてきていて、室井は青島の肌を紅くさせた原因が何であるかを一気に悟った。

あいつ、いくつになったんだ、どうしてこんな小さなことにも気づかないんだ……

四角く畳んである服の山にそれも重ねると、カ ラフルなネックマークはより目立って見えた。
青島が帰ってくるのを待ち、この証拠品を付き付け、これから身につけるものはすべてブランドタグを切ってくれと念を押しておこうと思ったが
あまり煩く言っても反発を買うかもしれない。

もっとも、朝も駄々こねられたばかりだが……

そう思うと、室井は脱力しそうになった。
ソファに仰向けとなる。
手元には青島がいつも素肌に着る服。
何秒か躊躇ったが、やがて手を上げると、まるで文芸小説の筋書きのように、室井はそのグレイのシャツを胸元に抱き寄せた。
なるほど、シャワーを浴びた後でも着続けているとアメリカンスピリットの匂いが移ってくる。
元々の生地や湾岸署の匂いもする。
それから無防備に柔らかい。
幽かな歯磨き粉、髭剃りのソープ、シャンプーと石鹸の香り。 いずれも共用しているものだ。
なぜか、自分が使う整髪料の香りまで混ざっている。
青島の匂い。

室井は手にしていた服を膝の上に戻しながら、これほどまでに青島を自分のものにしたような実感を味わったことはなかったと思った。
今も、どこかを走り回っているあいつは、自分の隣にはいない。
でもあいつは私を愛していると言った。 

愛。

胸が痛くなるような、酸楚となるような、嬉しいような、自覚できていないような、もどかしいような、どうしようもない感覚。
どうしたらきみを愛していると伝わるんだろう。
きみが私に告げてくれたように、簡単に口にする術は、私には永遠にない。
私がきみを愛していることを、きみには伝わっていると信じてもいいんだろうか。

愛してる。
俺に、その言葉をくれてありがとう。



ド アの鍵が回ったとき、室井はちょうど裁縫箱を引出しに戻したところだった。
玄関の方で靴を蹴り落とす音がしたが、二秒ほどしてまた足音が戻っていった。
靴をきちんと揃えているらしく、軽く地面に触れる音がする。
少し だらだらとした足取り。
どうやら疲れている。
少し早足になる。
あいつは……

青島はリビングのドアを勢いよく開けると、ソファに座っている室井に向かって。

「室井さぁぁ—―――んっっ」

どすん。
室井の腕の中に飛び込んでくると、より強烈な青島の匂いが、一瞬にして室井を取り巻いた。
室井は青島の下から青島によって潰されたリモコンを引き抜くと、その髪に手をやって。

「おかえり」

しばらくそのまま室井の胸に埋もれていたが、青島も嬉しそうに顔を上げた。

「ただいまっ」




end










作・翻訳:レナさま/意訳:みんと
20201005

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なんでしょうこのかわいさ。ふたりともかわいい・・・!!
無自覚に翻弄してる青島くんのかわいいことかわいいこと。じれったくて我慢できずに誘っちゃうこのいじらしさ。もうどうしよう。
これでは室井さんもひとたまりもありません。こういう子供っぽさを残しつつ、しっかりと恋にとっくに向き合ってた男前な青島くんがめっちゃ好きです。
また、室井さんがどう不器用なのかをとても丁寧に描かれていますよね。繊細なタッチに脱帽です。
愛されている青島くんと、それで幸せそうな室井さんに、もう感無量。

そして延々と自分の脳内妄想のドツボにはまっていく室井さんw 爆笑。室井さんの青島ばかっぷりが苦笑を誘う逸品ですv
可愛い作品をありがとうございました!