ショートショート~present
中国からとても可愛いお話を送ってくださいました!/管理人による意訳でよければどうぞ。
時間軸は室井さん管理官時代。登場人物は室井さんと青島くん。一倉さん。付き合っている室井さんと青島くんの愛が交錯する物語。
秋の夜長に、三角関係のようで波風立たせたい一倉さんの男の哀愁をどうぞ。全1話










KAORI -カオリ-  (日本語ver.)
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1.
青 島が本庁会議室の前を通りがかった時、扉が開けっ放しになっているから何気なく中を覗いただけなのに、よりによって部下と話をしていた一倉と目が合った。
軽く躊躇ったが、それでも立ち止まり、青島は中に向かって軽く敬礼をする。
しかし一倉は片眉を上げて鋭く青島の足をそこに留めた。
近くにいた数人の部下に指示を手短に言いつけ、スラックスのポケットに両手を突っ込んで近寄ってくる。
長身から、いつもの皮肉っぽい笑みを突き刺し、青島に向かって口を開いた。

「ああぁん、ついこないだも、うちの誰かが緑の影がこの本庁をうろついているのを見たと言ってたなぁ」

青島は半笑いを一瞬強張らせたが、それでも律儀に挨拶を返す。

「ご無沙汰してまぁす」
「ああ」

一倉はふんと鼻を鳴らし、小さく毒を含む。

「んで?どうして本庁に来たんだ?所轄の連中は本当に暇そうだな」
「それは、だからうちの課長の書類を届けに来ただけですぅ......。もう帰りますよ今は」

問題児のノンキャリじゃ、キャリアは気分を害すのがここの通例だ。
月並みな一倉の反応に、青島はもう一度愛想笑いを返して、さっさとズラかろうと思った。
失礼します、と言おうとしたその時、一倉がいきなり青島の腕を掴み、グッと身を乗り出してくる。

「......ちょっ、うぁ、 な、何すんですか!!」

好奇の目を持つ犬のような鼻息が肌に感じられるほど近くに迫り、一倉が青島の頬と首筋の当たりに鼻を埋めた。
青島は一瞬、きょとんとしたが、すぐに必死に抵抗する。
一倉はあっさりと青島を解放し、自分の手を振り払われるに任せ、ただ突っ立ったまま目を眇めた。
何か危険なものでも収穫したように横柄な態度で反り返る。

「まあ、そうくるか、やっぱりな。チッ」

もはや相手に近づくのも警戒した青島は、二メートルほど離れた位置まで後退し、不服な面持ちで周囲を見回した。
幸い廊下には誰もおらず、こちらの様子に気づいていない。

「ちっ、ちってなに?!こ、ここ本店ですよ、一倉さん!」

一倉は意地悪そうに顎を反らす。

「何を馬鹿なことを言ってるんだ。本店じゃなかったら何でも好き放題にヤらせてくれるのか?」
「...そ、そぉゆうつもりじゃないですけど」

青島が顔を赤らめ狼狽える。
一倉は口の端を吊り上げ、余裕を持ってスーツの襟を正した。

「本店だからこそ、こういうことは細心の注意を払っておかないといけねぇなぁ。折角、奴の最近の煙草の臭いが誰からのものかがわかったのに......
 こんな誤解であいつにあっさり殺されたら、俺は一文の得にもならないまま死んじまうことになる」
「あ、あいつ...?.........まさか......!」

うわ。
青島の心臓が一瞬止まりそうになった。
うあ。一倉さん。さすがに一倉さんだ。
待てよ、今はそんなこと嘆いている場合じゃない。ここ本庁じゃん。本庁。本庁。こんなこと誰かに聞かれたら.........!

青島はほとんど逃げるように、少し離れたところにあるエレベーターに向かって足を踏み出した。

「何を言っているのか、はは、よくわかりませんね......。と、とにかくもぉ帰りますんで、忙しいしさっさと帰らなきゃ——!」
「はぁ」

一倉は腕組みをしたまま、追ってこようとはしなかった。
ただ、その面白がっているような表情は、相変わらず不気味に揺らぐ。

「変な勘繰りすんな、こんなの確かにみんなに理解してもらいたいことじゃあねぇんだよ。まぁ…アイツは今度こそ本当に実績を上げてきている時期だ。
 それにしてもだ、室井がてめえのどこに目をつけたのか、俺にはまったくわかんねぇんだよな—」
「――あああぁもぉとにかく今日はこれで失礼します!とにかく!あとは仕事があるんで!ここで失礼しますよ—」

いくらなんでも、その言葉の次の部分を言わせるわけにはいかないだろう!
青島は辺り構わず大声で遮り、エレベーターを待つ余裕もなく、そのまま横手の階段ホールから一気に走り去った。
そのあまりの大袈裟な拒絶反応に、一倉はしばらく呆気に取られていた。
廊下の反対側からドアが開き、柳眉をしかめた沖田が優雅にドアに手をかけ声をかける。

「一倉課長? 誰とお話しですか?差し支えなければ、今はこちらの仕事が中断しているのですが」

一倉は青島の消えた方向へ鼻を鳴らした。
振り向き沖田を見据えると、苦笑いを引っ込める。

「悪かったな沖田。ただの、尻尾を踏まれた大きな野良犬だった」








2.
「......禁煙する、禁煙しない、禁煙する、禁煙しない、禁煙する.........」

二人の男が共同生活をしている空間には、当然のことながら花など存在しない。
青島は床に座り込み、昨夜食べ残した柿の種を持ってきて、それを代用した簡易占いをしていた。

突然、玄関の方でドアの開く音がする。

「ただいま」
「 ...あ、あっ、おっ、おっ帰んなさーい!」

身を乗り出して返事をしながら、床に散らばった柿の種を搔き集め、青島は立ち上がろうとして、傍のソファに膝をぶつけた。

「イッ、ッテェ!」

年のせいなの?
こんなちょっとぶつかっただけなのに、こんなに激痛が走るなんて......
いくら数え治したところで、もう中年に差し掛かったオジサンとしては認めざるを得ない。
目に浮かぶ生理的な涙をこらえ、青島は腰をかがめて地面にばら撒いた柿の種を集めようとしたが、結局、一足遅かった。

「...何をしている」

背後で室井の声がした。
すっくと立ち上がった青島は、入り口に立つ狼藉を自分の身体で遮ろうとするかのように、足で床を蹴飛ばし、後ろ手に後退する。

「へへ、あああああ、あの、なん、何でもないんですけど......。室井さん、今日は早かったんですね。夕食は済みました?」

脱いだコートとジャケットをハンガーにかけ、室井はネクタイをゆるめながら青島に近づいた。

「まだだ。それより......」

室井の目は床に散らばった柿の種を見つめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。

「.........何をしていた」

完全にバレちゃったかと開き直り、青島は隣のソファに腰を下ろして膝をさすった。

「占いしてたの!柿の種占い。家には花なんかないしね...」

室井は二秒ほど間を置いてから、そんな子供っぽい言い分に耐えられないというように苦笑した。

「おまえな——」

膝を抱えている青島に目をやり、顔を引き締める。

「今、痛いって言ったのは、ここか」

室井の口ぶりが少し剣呑な口調に変わった。
青島はちょっと怯えたように目を上げる。

「う、うん、ちょっとぶつかったけど......少ししたらもう大丈夫だと思うよ」

室井は大人びたため息を落とすと、手を伸ばして青島の髪を撫でた。

「子供みたいな真似をするな。で?何を占っていたんだ、そんなに大事なことなのか?」
「えっと......」

相変わらず、無敵の上目遣いを駆使し、青島が小さな声で狼狽える。

「ちょっと、その、何かで室井さんに迷惑をかけたかもしれないと思ったことがあって......」

曖昧で意味不明の、しかも先走った謝罪を口にするとき、青島の声はいつも、こんなふうに思わず甘えるような響きを帯びる。
室井の心がドキンとさざめいた。
身を屈め、青島の唇にキスをする態勢に入る。

「これ以上まだ何か迷惑があるか——」
「ぁ、だ、だめ!待ってくださいって!」

室井の行動に気づいた青島が、いち早く顔をそむけるようにして、ソファの反対側に身を捩った。
硬直した室井が驚いたように目を剥き、反射的に拳を握りしめる。

「...?」

ソファのコーナーで脚を曲げて縮こまってしまった青島は、重大な面持ちで更にガードを固めた。
硬直状態が三秒続いたところで、室井が再び青島の方へ一歩乗り出す。

「だから、一体——」
「ちょっ、ちょっと待てって!とりあえず来るなよ!」
「............ !?」

今度は青島がソファから立ち上がって飛び降りた。
堪えきれなくなった室井が、ソファの反対側から身を反転させて間を詰める。

「何を待てと言うんだ......ウッ、っと!」

......何か、踏んだ。
どうして自分の家の床に地雷があるかないかに気をつけなければならないんだ。

室井は足の裏から伝わってくる鋭い痛みに思わず声を漏らし、歪めた視線を落とせばそこには、孤軍奮闘の柿の種が一粒、ころんと張り付いていた。

「............... ........... ..」
「室井さん!?だ、だいじょーぶですか?」

状況に気付いた青島が、逃げるのを止め、駆け寄ってくる。
床に転がっている柿の種を見ると、照れくさそうに頭をかいて笑った。

「あれぇ、あはは~、これかぁ。ごめんなさい。さっき何個か転がって行っちゃったんだけど、こんなに遠くまで行くとは思わなかった.....、あ.」

だがその隙に、だらりと下がっていたもう一方の青島の手は、しっかりと室井に掴まれていた。
悟ったように目を伏せる室井の眉間の皺が、いつもより深くなる。

「どういうことなのか、答えろ」

その声には、捜査会議でしか聞けないような威厳が漲る。
いつもなら青島も、ちょっと感心したり、姿勢を正したりするところだが。

「......うっ...... 実は、っ、いえ、まあ、本当に、何んも.........」
「...............」

しゃかりきに踠きながら、青島はなんとかその場を凌げないかと必死で後退ろうとした。
しかし、それこそが明らかに失敗だった。
じっと青島を見据えてくる室井の黒い瞳には、はっきりと傷痍の色が浮かんでいる。

「どう見ても、きみは私を避けているだろう」
「......う.....」

強い視線に射抜かれ、青島は思わず喉の奥から小さな呻きを漏らした。
でも、だって!それには、それなりの理由があるんだから!
だって、俺のタバコの匂い......

室井は一歩も引かずに、青島にもう一度迫る。

「——あおしま」

諫めるような凛とした声。
その目の燃えるような強さが、いつも青島を素直にさせる。
あああもぉぉ。OK。降参する。タバコやめる。室井さんのためなら、タバコやめたっていいよ!
だから、今は————

青島はそのまま一歩だけ下がり、室井の体から距離を取った。
目を閉じ、振り切るかのように大声で宣言する。

「とにかく今日は!ついでにあと何日かもあるかもしれないけど!でも......!室井さんは俺と少しでも距離を置かないとだめなの!その理由 は......」

そっと目を開け、青島は室井の反応を慎重に窺う。
室井はまだ、そこにいた。
思ったよりも冷静な顔つきで、しばらく黙っていたが、やがて先を促した。

「その理由は?」

室井さんに話したら、今夜からシガレットケース没収されるかもしんない。
やめるって決めたけど、決めたんだけど、なんか室井さんに監視されてると思うとプレッシャーが......。
んんん~~~、えーっと、えーっと、じゃあ!

「......臨時秘密!」

青島はその四文字を苦労して吐き出した。そして、そのまま寝室に向かってダッシュする。

「夕飯抜きなら冷蔵庫にカレーあるし、それからお風呂ももう入れるし、先に寝てるから俺!おやすみなさーいっっ!」
「.........」

ソファの脇に立ち尽くしたまま、その後ろ姿をただじっと見送った室井が、どうしてその手のひらに血痕をつけそうになったのか。
そんなことは、部屋に入ってすぐに布団に潜り込んだ青島には、もちろん知る由もない。









3.
「———ふぅ......」
「ため息をつくのはこれで十五回目だぞ、室井」
「...おまえ、なぜ数えるんだ」

一倉は皮肉気な笑みを向け、肩を竦めた。

「仕事中にそんなプライベートな感情を見せまくるおまえは珍しいからな」
「必ずしも個人的な感情と言い切れないだろう。事件の複雑さに悩んでいると考えることもできる」

目の前の資料に意識を戻そうと努めながら、室井は力強く言い返すが
一倉は嘲笑を浮かべ、手にしたコーヒーを含んだ。

「いいとも、いいとも。他の野郎に訊かれたらそう言えばいいさ。此処に青島が来たら、それもまたそんな感じで説明すればいいんだな?」
「.........!」

室井は眉を寄せ言葉を切った。
資料を閉じると、背後のデスクに座っている一倉を振り返る。

「何が言いたいんだ、おまえは?」

一倉はちらりと室井を見たが、淡々としていた。

「俺の言いたいことが、この世で一番わかっているのはおまえだろう。しっかし、それにしても、あいつは驚くほど行動力があるな。昨日の今日で」
「......どういうことだ」

室井は身を乗り出し、一倉の襟首をつかんで振り向かせた。
弾みでネクタイが千切れる音が鳴る。

「昨日、青島に会ったのか?何を言ったんだ!」
「ああん?ああ、そうだよな。あいつに言わなきゃ、おまえもこんなところでため息をつくことはなかったのになぁ...」

室井のほうに引き寄せられた一倉は、両手を広げて無辜の仕草をした。
室井が奥歯を噛み締める。
長年の付き合いで、一倉は室井が本気で怒っていることを察した。

「...... 一倉......」
「おいおい、たまには俺がおまえの上司であることも思い出せよ」

本庁刑事部捜査一課長殿は、唇の端を吊り上げて冷笑した。
室井は顎を引いたまま二秒ほど一倉をねめつけていたが、やがてその襟首を払いのけるようにして振り解き、デスクに戻る。

「出来ない相談だ」

ブラインドの隙間から、午後の陽射しが斜めに差し込んでいた。
頬の半分に落ち、ほんのりと暖かみを齎す。
一倉は顔を上げ、目を閉じてその柔らかな光を感じた。

「そんなことは——」

陽光の先には小さな鋸の刃があるらしい、閉じた瞼の裏に痛みとも痒みともつかない微動が感じられた。

「......そんなことは、所詮、刀の切っ先の上で踊っていたということだ。おまえも分かっているだろう」
「............ああ」

背中越しで室井が、少し間を置いて返事を返してくる。
一倉は鼻腔から嘲笑とも憮然ともつかぬ嘆息を洩らした。

「それがクルドサックだと分かっていながら進むおまえが馬鹿なのか、それとも、意味がないと分かっていながら気紛れで仏心を出す俺が馬鹿なの か......」

一倉はさっき破れたネクタイを直しつつ、立ち上がった。

「室井」
「...?」

室井が少しだけ視線を向ける。
一倉は背を向けたままだった。

「何もなくなったら、俺のところに戻ってきてくれよ」

一瞬此処が、二人が入庁したときの、出会ったばかりの頃のような若々しい空気に戻ったような気配がした。

「全てが終わったら、都合の良い相手でもいいから、泣いて土下座してでもいいから、おまえはなんでもないでも、青島のやつを絶対に守ってくれって言ってく れてもいいから......」

心を抉られたように、室井が小さく身震いをする。

「...やってみよう。その時が来たら、今みたいに、おまえをどうにかできればいいのだが......」


ガチャン。
僅かの間の後、空気を切り裂き、一倉が手にしていた空のコーヒー缶が部屋の片隅のゴミ箱に正確に投げ込まれた。
背の高い男は、それから一度も振り向きもせず、静かに立ち去り、部屋には室井だけが残された。











4.
近頃の湾岸署は久しぶりにオフシーズンを迎えたようだ。
要は、室井が仕事から帰ってくると、部屋の電気が点いていた。
玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えながら、室井はコートを脱いだ。

「......ただいま」
「お帰りなさぁ.....ぃ」

キッチンのほうから、青島のくぐもった返事が聞こえてくる。
だが今日の声はいつもの声とは少し違っている。
いつもの元気がなく、むしろ弱々しい。
......当然だろう。
なにしろ昨日、喧嘩をしたばかりなのだ。
喧嘩と言ったって、言ってみれば、いつものスタンダードな喧嘩とも言えない意味不明の擦れ違いだ......

ドアを開け、リビングルームに入る。
目に飛び込んで来た光景に、室井は固まった。
室井の頭に最初に浮かんだのは、どうやらこの部屋に子供が来たらしいということだった。
テーブルの上には新しく買ってきたらしいロリポップの缶。
サイドテーブルの上にはグラス半分ほどのミルク。
床に置かれたコンビニ袋の中には、ピーナッツやチューインガムなどのスナック菓子がはみ出していて、取っ散らかっていた。

ふと、キッチンから唐辛子とキムチの匂いが漂ってくる。

「......青島?」

戸惑った室井は、部屋中の惨状を斜めに横切りながら、キッチンへと向かった。

「リビングのあれはどうなっているんだ——」

言いかけ、室井は目を剥いた。

———待て。
これは。
真っ赤だ。
沸騰する飛沫を上げながら、地獄のような強烈な衝撃が発生している。
見たこともないような煌々とした、濃い赤。

 「......これは?」

スプーンを口に咥えていた青島は、そこで初めて振り返り、室井を見た。
あやふやな言葉で説明してくる。

「見ての通りキムチ鍋ですけど。極辛バージョン。それにパプリカ入れてみた。面白かったんですよ室井さん、今日ね、スーパー行ったら、棚にこの在庫が山積 みになってたんですよ——」

......それは、辛すぎて誰も食べないからだろう!
室井は手を伸ばし、青島が咥えていたスプーンを取り上げ、恐ろしい赤色をした土鍋からスープを掬う。

「......ぅ」

この匂い......。
この舌触り......。
辛い。
激辛料理に慣れている自分にとっても辛い。
気が飛びそうなほどの、強烈な辛味だ。

濃厚料理をどちらかというと得意としている室井にとっても、それはかなりの激辛鍋だった。

ましてや、子供の頃から都会に住んでいるこいつには......
さっきからスプーンを咥えっぱなしなのに、なんで平気なんだ?!急に味覚が変化して、この辛さでも平気で食べられるのか......!?

室井はスプーンを掴んだまま驚愕した顔で青島を見た。
しかし青島は気づきもせず、残りのおかずについて首を捻る。

「鍋のほうは、そろそろこんなもんでいいですよね。じゃあ........そうか、買い置きのコーンの缶詰でもサラダ代わりに使うか...」
「―青島」

たまりかねた室井が、缶詰を探しに行こうとする青島の二の腕を引っ張り寄せ、青島が我に返るその前にそのまま体を捕え、肩を冷蔵庫に押しつけた。
有無を言わさず、その唇にキスをする。

......本当に辛味が残ってる。
こいつは本当にこんなに辛いスープを平気で食べたのか......?
いったい、どういうことだ。

縫いつけていた手をわずかに緩め、室井は間近で青島の目を覗き込む。
キスの衝撃で惚けている薄茶色の瞳が電灯に揺れた。

「......やられた......」

意味不明の言葉を唇に乗せた青島は、冷蔵庫に背中を押しつけられたまま、がっくりと体を弛緩させた。

「今日いちんち、頑張っていたのに、今......」
「......一日、頑張っていた?」

室井が青島の頬に掌を当て、少し力を込めてまだ動揺している目をこちらに向けさせた。
青島の目が室井の目と合った瞬間、ふらりと彷徨う。

「お、俺、今日一日タバコ吸ってないけど、完全に臭いが消えるまで、少なくともあと一週間はかかるんじゃないかって!
 室井さんがこんなことをするとは思わないでしょー?!今日一日の俺の努力無駄にして、また室井さんに移しちゃったじゃないですかぁ...... 」
「.........」

今にも泣き出しそうな顔の青島に、室井は慰めるように、加え、事実を述べるために、少し呆れた口を開いた。

「今は、どう嗅いでもキムチの匂いしかしないと思うが...」

......待ってくれ。
いわゆる、「たばこのにおい」......。
数日前、一倉とランチタイムで交わした雑談が脳裏に浮かんだ。


お皿を持って後ろを歩いていた一倉が、いきなり自分に近づいて匂いを嗅ぎ、室井は驚いて手にしていた蕎麦をその場でひっくり返しそうになったことがあっ た。
「何をする。おまえ、変態がエスカレートしたのかと思ったぞ」とやり返そうとしたところで、一倉のほうが先に口を開いた。

「また始めたのか?」
「......何をだ」
「煙草」

近くにテーブルを見つけて腰を下ろすと、一倉は室井の向かいに座るよう、顎をしゃくった。

「でもそれは、昔吸っていたマイルドセブンじゃないな。味覚も変わったか」

......この男はどうして俺が昔吸っていたものがマイルドセブンだったことまで覚えているのか。
室井は暗い顔で椅子を引いて腰を下ろすと、素っ気ない返事を返した。

「変わってもいないし、吸ってもいない」
「ああん.....?」

一倉はちょっと芝居がかった驚きを見せたが、室井の反応にすぐに表情を引き締め、ランチの蕎麦をかき混ぜ始めた。

「そうだったか?年取って嗅覚まで落ちたな」
「......たまたまだろ」

実はこの時から室井は既に少しナーバスにはなっていた。
たまに青島と事後に一服分け合うようになり、同棲生活を始めてもう二カ月になるが、自分から煙草の匂いがすることには気付いていなかった。
最初の頃は気が気ではなかった。でも今はそこまで神経を尖らせていなかった。
ただ、一倉がそう図星を指され、また疑心暗鬼になり、その日のうちに密かにスーツやコートを嗅いではみたものの、やはり気にはならなかった。
まさか一倉が直接青島を巻き込むとは思ってもいなかった。
確かに、自分から煙草の匂いがするとなれば、その出所は目の前の青島しかいないかもしれないが......。

室井は思わずため息を落とした。

「一倉の奴......」
「えぇっ?」

青島が目を見開く。

「室井さんはどうしてそこまで知っているんですか?まさか、もう一倉さんに脅された?!」
「...そんなことまだない」

冷蔵庫に縫いつけられたままの青島を解放し、室井はまだ横で煮えたぎっているキムチ鍋の火を止めた。

「だから、煙草の匂いが移るから、近づくなと言われたのか?」

青島は一瞬きょとんとしたが、すぐに横に手を振った。

「じゃなくて、一倉さんはただ......」

だが、歯切れ悪く青島は口籠る。
「実は一倉さんが俺をつかまえて匂いを嗅いだだけなんです」と言いたかったが
もしそんなこと言ったとしたら、室井のことだ、今この場から鍋ごと一倉の頭にぶちまけに行くのではないかと思う。
青島は困ったように髪を掻きむしって視線を外した。

「...たぶん、嗅覚が強すぎるだけかも?」

食器棚から碗を取り出していた室井の眉も、ぴくりと動いた。
——それは確かに事実である。
室井はあのとき、一倉のせっかくの挑発的な態度に、ほんの数秒ほど胸が衝かれた......。

「なら、どうして禁煙を決めたんだ」

室井が聞くと、青島はちょっと照れたように微苦笑する。

「ん?それはね、簡単に見当がつくじゃないですか。室井さんから俺の煙草の匂いがするって。一倉さんが言ってたなら、このままじゃ、いつか他の誰かにも嗅 がれたらさ......」
「............」

アメリカンスピリット。
青島と言えば、大抵の人間が想像するのは、この三つぐらいになるだろう。
モッズコート、タバコ、熱い正義の塊。

青島が煙草を咥えていないなど、ちっとも想像がつかない。
......キスの時、濡れた口腔の煙草の味にも、すっかり慣れてしまっていた。
以前にも冗談めかして「少しくらいは禁煙しろ」と窘めたことはあるが、代わりに青島から飛び出てきたのは、甘えたな表情の中に潜ませる、しっかりとした拒 絶だけだった。

でも、今は......。

室井は手を止め、青島を見た。
腕まで袖をまくりあげている格好のままの青島も、その視線の深い意味に気づいたのか、顔を紅潮させ横を向いた。
元々柔らかくふわふわしていた髪が一層乱れ、長すぎる前髪が目にかかる。
そして、見ているこちらの胸が痛くなるような愛らしさが全身にあらわれていた。

「......大丈夫だ」

声を出し、室井は自分の声がいかに掠れているかに気づいた。

「私のためにも、変えないでくれ」


そして。
こういうときにやりたいことはただ一つ。
手にしていた皿を放り出すと、室井はまだ隅に縮こまってしまっている男の傍まで行き、自分より少しだけ背の高い男の腕に手をかけて
小刻みに震えていた青島を、そっと抱きしめた。
一瞬の硬直。
緊張から少しずつ力を抜いた青島は、やがて溶かしたアイスクリームのように、柔らかく、室井の知る元来の甘い状態に戻り、室井の肩に額を乗せた。
彼の呼吸の一つ一つに、涙が滲んでいるようだった。

「俺も......室井さんのために何かしたいです」

ゆっくりと両腕を伸ばし、青島が室井が着ている白いシャツをきゅっと掴んでくる。

「本庁に行けない、キャリアの世界には行けない。俺には、室井さんが直面している所轄より百倍難しい問題の手助けができない......。
 でも、あんたが大変だということもわかってるから......」

自分の首筋を濡らす熱さを感じながら、室井も静かに目を閉じた。
その瞼の裏にも、何か熱いものが感じられた。

「だから、たまには.........」

青島が嗚咽のような声を出し、室井を抱きしめる指先に力を込める。

「たまには!俺にしかできないことをしたいと思うこともあるんですよ......」
「ばか」

室井は小さく苦笑し、伏せた青島の顔を持ち上げる。

「そんなこと、いつもいつもやってもらっている」
「ウウン? 何ですか?」

青島が赤らんだ目元に疑問を浮かべた。

本当に人を焦らせる天才だ......
室井は心の中でにんまりすると、すすり泣きで幽かに開いていた唇を、もう一度塞いだ。


自分が一人ではないことを知っているから、どんな困難や逆境にも立ち向かうことが進んでできる。
そして、キムチ鍋より、アメスピの方が、室井の好みだ。



*************


「うわあああ駄目だ駄目だ本当に辛いよこれ!どうしよ、一口食べただけでもう限界......」
「...だから、どうしてこんな料理を...」
「ふわわわわわ、だめだめ——そうだミルク、それそれ...。なんか、一日たばこ吸わなかったら、何の味もしなくなったような気がするから、夜はちょっと 刺激的なものを食べようと思って...」
「...それで。あのソファの横にあったお菓子も......か」
「うんうん、そうそう。禁煙を始めたら、妙にキャンディーとかお菓子とかが欲しくなったんだよね~。
 口に何か入れるのが癖になってるのか、ずっと何か入れておきたくなっちゃったのか...」
「......そう、か......」
「室井さん、なんで変な顔してるの」
「...いや、なんでもない」
「......あ!まさか、変なコト思いついたでしょ」
「——そんなことより、ほとんど手をつけていないこの鍋はどうするんだ」
「...話題を変えるのズルイ。でも、こっちは...本当にもう......」
「確か即席のうどんがあったはずだ。とりあえず今夜はそれを煮て食べればいい」
「でも、コレ、このまま捨てちゃうのはもったいない気がする...ごめんなさい......」
「謝る必要はない。無駄遣いにもしない。たださっき、味見をしてただろう?そのときは大丈夫だったのは......どうしてだ?」
「ん?あ、ああ、確かに......あん時は、スープもたっぷり飲んでた...」
「......たっぷり......?」
「あれ?そう考えると、室井さんにキスされてから、なんか急に普通の味覚に戻ったような気がする!
 キスすれば辛いものが食べられるスイッチが切り替えられるのかも......不思議だね~、室井さんにこんな能力があったなんて知らなかったですよ」
「...ずっとおまえが煙草吸っていなかったからだろう......」
「ええ?煙草のせいなのこれ?よくわかんないなぁ」

テーブルの向こうで、青島が目を輝かせて室井を見る。

「だから、もう一度キスすればまた辛い世界に戻れるんなら——室井さん、試してみません?」











5.
その日の夜遅く、官舎の某階の某室のドアがノックされた。
寝間着姿の一倉正和は、来人の手元にある強烈な匂いを放つ土鍋を見つめながら、言葉にならない複雑な表情を浮かべた。

「失礼だが、奥さんと有里香ちゃんは不在か?」
「この二、三日、実家に帰っているという話は前にしたよな?」
「そうか。逃げられたのか」
「実家に用事があるから帰ってるだけだって言っただろ。それより勝手に入ってくるなよ」

玄関で勝手に靴を脱ぎ、室井はリビングの扉の前で立ち止まった。

「ドアを開けてくれ、手が塞がっている」

一倉はチッと舌を鳴らし、ドアを開けた。

「......だから、これは何だ?」
「餞別だ」

室井は一倉の動作に合わせてリビングに入り、空いたダイニングテーブルに手の中の物資をそのまま置いた。

「ちょうど良かったな。奥方が帰ってくる日まで独り占めできるはずだ」
「な——!」

珍しく真剣に不覚を取られた顔をした一倉は、土鍋の蓋を取って中身を確かめようと手を伸ばしかけたが、ギリギリのところで手を引っ込めた。

「おい...」

一倉は室井に向き直ると、渋い顔で問いかける。

「だから、どうしていきなりこんなものを持ってきたんだ?」

ソファの上に脱ぎ捨てられたままの靴下を嫌そうに眺めていた室井が振り返り、一倉と目が合わせる。

「君が言ったんだろう。どうしようもない日が来たら、自分のところへ来てくれって。
 泣きついても、懇願しても、おまえが俺を諦めて、青島だけ助けるって言っても............おまえは同意してくれる」
「......そんなことを、殺し文句にしないでくれ......」

一倉は脱力して腰をおろし、頭を抱えた。

「だから、いっそのこと、今、お願いする。これを」

テーブルの上に置かれた土鍋を指すと、室井は少し間を置いて続けた。

「理由は一つだ。この道の結末がどうなろうと、俺はずっと歩いていくって決めている。青島と、一緒に」
「はっ、おまえら——、......、」

反射的に笑みを零し、一倉の掌が目元にかかった。
しかし、その後半の言葉は、最後までどうしても出てこなかった。

「おまえたち、が......... 」

目の前の男の、どこか皮肉っぽく、どこか苦しげな声が、静かな部屋に空しく響いた。



end













作・翻訳:レナさま/意訳:みんと
20201018

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キスで匂いが移っちゃって室井さんは蜜月だろうに、青島くんはやっべって思う。
青室でもこのネタは見かけますが、室井さんが覚悟を決めていないと成り立たないお話なので、室青に似合うな~と思います。

俺もなにかしたいっていう健気な青島くんがかわいすぎ。
部屋中散らかしちゃう青島くんがかわいすぎ。
普段はスタンドプレーな青島くんでも、こういう壊れ方は初めて読んだ。めちゃくちゃかわいい!キャラの描き方には毎回特徴的な可愛さがあって感嘆させられ ます。
また、室井さんに愛されてるな~って幸せオーラにはとことん癒される分、最後の余韻が沁みました。
可愛い作品をありがとうございました!