痴話喧嘩の末に拗れたものの、でもラブラブかよと砂吐くだけの、二人のお話のつづき。
うれしいことに新青に萌えたというお声を幾つか頂きちょっと長くなりました。
パンプキン・カノン 後編
5.
――陸橋騒動のその少し前――
「んもぉ!しつっこいなぁ!」
またしても掛かってきた電話に、青島は投げやりに応答する。
どうせ相手は同じで、文句も同じであることが解かり切っているのは、さっきから再三掛けられているからだ。
『だからね、青島くん、早く返事をださないと』
『だからッ、今ッ、俺ッ、仕事中っっ』
『返事ぐらい出来るでしょ。OKでしょ?OKでいいね?』
『なんでそうなるんですかっ』
『こんないい物件、他にないよ。二度とないよ』
したり顔をしているのだろう神田の声の後ろで、うひひと笑う秋山の声も電話は拾ってくる。
先日の縁談で、どういう冗談か、風の吹き回しか、相手の女性から前向きな回答が返ってきたらしい。
それを受け、神田は自分の手腕が評価されたと着想し、先程から返事を急かされていた。
『せっかくその気になってくださっているんだからさ、ね、今のうちにね、良い返事を返してあげるのが男だよ』
そりゃそうだけど。
見合いをしたからには、俺だってそうしてあげたいけど。
でも絶対断られると思ってたんだ。あんな馬鹿げた見合いの席だったのに。あんな嘘くさい茶番をぶちかましたのに。
どこをどうやったら俺なんかに興味持つんだ?
だってハタチだぞ?幾つ違うと思ってンだよ。
『若い女の子なんていいじゃな~い。羨ましいよ!女はね若ければ若い方がいいのよ』
『俺はその辺にこだわりはありませんけど?』
『経験値あげた女が君なんかに引っかかってくれるわけないでしょ!』
いっそ犯罪じゃないかという歳の差に、なんとも無情な答えが返ってきて、青島はただただ閉口した。
『青島くん、こういうのはね、引き延ばすと相手方にも失礼だから』
『わかってますよ、わかってますけど!今!仕事中なんで!』
ジャック・オ・ランタンがスマホしているという奇妙な光景が沿道脇で目立つ。
だが表通りを占領している煌びやかなパレードに誰もが夢中で、ごった返す人混みと、日没を早々に迎えた闇に紛れ、特に青島に注視する者はいなかった。
そもそも皆何かしらのキャラクターに扮した仮装集団である。
新城が用意したかぼちゃの衣装は、あまりに頭部が重いため、文句を言って、今は仮面に付け替えている。
それを軽く持ち上げ、青島はさんざめく光と音の共演に目を向けた。
楽し気なサウンドと、それに呼応するように盛り上がる群衆は、一夜の夢の世界を演出する。
こんな人混みじゃ、傍に誰がいたって、分からない。
青島の肩から流れる闇色のマントがイルミネーションを受けて幾重にもさざめいた。
着込んでいるひまわり色の袖口をきゅっと握りしめる小さな指先に、ささやかに落ちた溜息も歓声に掻き消される。
『とにかく!一旦切りますよ!』
『じゃあこっちで段取り決めちゃおうね?うん、そうしよう!』
『その件は保留でお願いしますっ』
『それにね、もうこっちでは乾杯ムードだから。前祝しようかってみんなが盛り上がっちゃってんのよ』
どうせ駄目だろうと神田らも踏んでいたらしく、この青天の霹靂の展開に、どうやら湾岸署は諸手を上げて盛り上がってしまっている様子が手に取るように伝
わった。
青島は、あっちゃあ、と額に手を当て項垂れる。
そんなに広めないで欲しい。大体それ、どう収集付けるんだよ。
サイアクだ。
『青島くん?青島くん?聞こえる?あのね』
電話口の向こう側の声が、神田から袴田に変わる。
『なんすか』
『その仕事今日まででしょ。だとしたらタイムリミットも今日までになるのは分かるよね?』
身体が空く明日からは、もう結納に向けて具体的な準備を進めていけるということだ。
『少なくともパレードが終わるころまでには、折り返し、出来る?』
『俺には荷が重すぎるって辞退することは・・』
『出来るわけないでしょ。それに、向こう側が乗り気なんだから』
『もっと適任がいると思うんですけど?』
『そこは同感だけどね。でも向こうさんが乗り気だから』
『どうすんのよ・・』
『どうもね、ご家庭の事情もあって早く嫁がせたいみたいなんだよね。孫の顔!見せてやんなよ』
袴田の労うような年配の気遣いが、青島の胸に何か重たいものをずしんと響かせる。
『親御さんもね、娘さんの意思を尊重するの一点張りでさ、こっちもどうしようもないのよ』
袴田は青島の躊躇を少なからず察しているようだった。
有り難く思うのと同時に、気付いてしまったことがある。
こんな人混みの沿道では、言葉を選ばなければならず、上手く気持ちが伝えられない。
青島は狂おしく瞼を硬く結び、歯を食いしばった。
『それとね、もう一点。・・・お嬢さんが君の勤務状態問い合わせてきたみたいで。真下くんが教えちゃったから、そっち、行くかもしれないから』
『・・・もう来てるよ・・・』
『え?』
『もぉ来てます!!』
どんどん自分が嫌になる。
青島は声高に叫んで通話を切った。
もうきっと、これ以上話したって事態は変わらない。
大きな渦に飲まれていくように、俺の力じゃもう、何も出来ないのだ。
スマホを尻に仕舞い、青島は改めて自分の袖を掴んでパレードに目を輝かせている女性に目を向けた。
ふわふわとした白のニットがイルミネーションの点滅を受けて七色に光る。
楽しそうな虹彩に映り込む無邪気さに、青島は自分の無力さを呪った。
室井の顔が浮かんだ。
何も分かっていなかったのは、俺の方だった。
室井と本気で別れる覚悟が、本当に自分にあるんだろうか。
彼女と結納を交わすということは、室井と別れるということだ。別れるということは、あの高貴な男を誰かに譲るという意味だ。
さっき、自分の知らないところで盛り上がっていく署の様子を伝えられた時、取り返しのつかない茶番が実体を持ち始めてきたことを、青島は悟った。
通話を終えた青島に、不安そうに意識を戻し見上げてくる彼女に、小さな愛想笑いを返す。
自分のことなど、それこそどうでも良かった。
盛り上がっていく仲間たちや、付き添ってくれた袴田に、なんて詫びればいい。
一人娘を幸せにしたいと願う親心を、どうやって救えばいい。
それでも愛してくれた室井には、何て償えばいい。
そしてなにより。
――あ、俺、この娘を傷つけるしか、できない――・・・
この娘は、ノンキャリに振られるのだ。
それは一体どれほどの波紋を描いて彼女に圧し掛かるのだろう。
ご両親は何て思うだろう。
親戚はどんな目をして彼女を見、差別的な偏見を持ち、彼女もまた、派閥や関係者にどんな顔をして見せればいいのだろう。
断るということは、ノンキャリアでも良いと縁談に頷いてくれたのに、恥をかかせることになる。
それは、警察関係という狭い世界の中で、どれだけの重荷を彼女に負担させることになるのか。
ノンキャリの負い目を理由に、いつかの夜、室井と言い合った。あの時のキャリアである意味を本当の意味で自分は分かっていなかった。
孫の顔が早く見たいという彼女の家族にも、事情があるようだった。
その純粋な期待と意思すら、俺は裏切るんだ。
他人の家族を巻き込んで、家庭に泥を塗って、そこまでして自分は抗う理由を、本当に持っているなんて、言えない気がした。
「ごめんね・・・」
「なにがですか?」
「あの、さ・・・」
時折色めき立つ街道に、二人の声が途切れ途切れになる。
喜びも悲しみも迸るカーニバルナイトに、今は現を忘れて踊れる彼らが、ひどく遠く思えた。
振り子のように、優しいだけじゃ、人は救えない。
「お仕事、大変そうですね」
「いや・・、うん、まあ」
「でもとても頼りにされてるんですね。私、頼りないですけど、ちゃんと俊作さんを支えらえるように精進致しますね」
「あ~・・でも俺、こんな仕事だし、いつ、その、危ないっていうか、危険と隣り合わせで、だから」
「そこは。――元より覚悟の上でございます」
「――!」
嗚呼。この娘もか。
胸を張って堂々と言い切る彼女に、誇らしさと誉と、そして己の未熟さを知る。
それは高貴な血筋なんかではない、人が元来持つ瑞々しいエナジーで、青島は眩しい気がして目を伏せた。
ただ室井を好きになっただけで、自分は何一つ出来ていない。
室井に胸を張らせることも、子を設けることも、室井の家族を安心させることも、俺には出来ない。
こんな細い足で懸命に立とうとしている女性を幸せにすることさえ、出来ないんだ。
笑みすら湛えてみせる彼女に、青島はただ優しい眼差しを向け、期せず見つめ合う形となった二人の間に、また硬質な音が水を差した。
「・・ぁ、ちょっと、ごめん」
片手で謝罪を示し、スマホを取り上げる。
行儀良く許しを乗せた彼女の顔を認め、青島は背を向けた。
*:*:*:*:*
ノイズ交じりの電波に乗せた青島の声は、思いの外うんざりしたような声となった。
『はぁいッ、こちら青島っ、今度は何!』
『今度とはなんだ』
『んん?・・・新城さん?』
『現状報告を』
『ああ、それどころじゃなくって・・あとでちゃんと連絡を――』
そういえば定時連絡の時間かと思い、青島は腕時計に目を落とす。
『異常なし、です。ごったがえしてますけど問題ありませんっ。連絡遅れてすいません』
『なにがあった?』
『なにっていうか――』
流石に誤魔化されてはくれない電話の向こうの男に、青島はどこか安堵する。
そういえば、新城はいつだって変わらなかった。
青島が派手にやらかした時も、室井が逮捕された時も。
見透かされていることも、今の青島には不調和な自身を取り戻させた。
それは、危うい均衡を保っているというより、崩れそうな危険を意識した瞬間だったのかもしれない。
冷たい目で嫌味を口にしながらも、距離を変えず、態度も変えない。
そんな男の真意を推し量るまでもなく、北風に晒され続け、冷え切った指先で青島はスマホを縋るように握り締めた。
上擦る声で、罪を懺悔するかのように白状する。
『ちょっとね。俺の方のモンダイ』
『誰かそこにいるのか』
『誰って・・・、この辺は大混雑ですよ・・・、みんなパレードに夢中で』
『お前の傍に、だ』
『それは・・・』
チラリと後ろの彼女に目線を送る。
小首を傾げ、不思議そうに彼女の淡い髪が揺れた。
『新城さん、俺、ほんとにケッコンするかもしんない』
『・・・』
『そしたら、新城さんより先越しちゃいますけど。そこは恨みっこなしでお願いします』
『縁談の相手がそこにいるわけか』
敏い指摘に、青島の口端が微かに歪む。
それを微かにノイズが拾った。
『いいのか?いや、出来るのか?』
『わっかんね。でも、これが一番いい。これしか、もう』
『結婚の理由など、人それぞれだ。お前らしい理由でいいかもな』
『・・はは、やっぱ、新城さんだ』
こんなにも騒がしい中にいて、青島には新城の息遣いすら聞こえた。
僅かな青島の片言で青島の状況の多くを察してみせた新城は、否定も肯定もしなかった。
それが今は、胸を締め付けるほど優しいと感じる。
懐の厚い大人の優しさだ。
瞬きをして青島は空を見上げた。
東京の空じゃ、星は見えない。
『新城さんは、・・その、溺れそうになったこと、ないんですか』
『私はヘタは踏まない。田舎の猿と一緒にするな』
『完敗でっす』
自分は寂しいんだろうか。それとも心細いんだろうか。
終ってしまう恋が喚いている。
どうしようなんて、今更言えた義理じゃない。
呑み込んで、痛みに気付かぬ大人になれれば、この強さと優しさを得られるのだとしたら、俺はそれを望んでいることになるんだろうか。
青島が殺した息を、新城は確かに嗅ぎ取ったようだった。
それを笑みに誤魔化す元気もなく、青島はただ沈黙を噛み締めた。
路地では熱いカップルが熱烈にキスをしているのが目に映る。
ああいう、普通の恋が、したかった。
平凡な恋で、良かったのに。
『青島、溺れるなら、俺にしておけ』
『・・・ぇ?』
聞いたこともない穏やかな新城の声が、突如青島の鼓膜を震わせた。
『お前がずっと願っていた同じものを、見せてやる。だから俺を選べ』
『・・・待って』
『待たせないって、言った筈だ』
『なに、言ってっか、判ってんの・・』
『今なら間に合う』
本気じゃないくせになんて、今は思えない。
青島の夜を映しこむ瞳に露が浮かび、色深く更ける季節に相応しい温度を吸い込んだ。
どうしてそんなことを言うんだろう。新城まで。
みんなを巻き込んで、たった一つの波紋が大きな渦となっていく。
いつから“そう”だった?新城はいつからそれを黙ってた?
もう滅茶苦茶だ。
ぐちゃぐちゃになって、何をどこからどうしたらいいのか、わからない。
青島の顔が泣きそうに歪む。
救ってくれるの?このめちゃめちゃな状態を何とかしてくれるのか?
『・・・もう一度・・・』
『二度は言わない。今夜、答えを出せとも言わない。でも、会いに来い。見えるだろ、この陸橋にいる。待ってやる』
ブツンと切れた通話に、青島の悴んだ指先が触れた。
どんどん話が大きくなっていく事態に、青島の愛くるしい顔が小さく歪む。
途方に立ち尽くすまま、青島は陸橋の方へと顔を向けた。
パレードの果てに、あの日の陸橋が金色に闇に浮かぶ。
この位置からは光の加減で良く見えない。
仮面を少し上げ、眩しそうに細める青島の目の端に、誰かが投げたテープカットのようなものが巻き上がり、紅葉を始めた街路樹に引っかかった。
裏切った男が彷徨うかぼちゃの物語を、ふと思い出した。
背中越しに、彼女が心配げに覗き込んでくる。
北風に流れる前髪の奥から、青島はしっとりとした目を向けた。
「俺、どんな顔してる?」
「消えちゃいそうな顔、してます」
「・・・送るよ」
「嫌です。まだお答えを貰ってません。それにそんなあなたを放っておけるほど私は薄情ではありません」
ならば、痛みも罪も障壁も、全て一人抱え込んでいた室井を放っておいた自分は相当薄情なんだろう。
ゆっくりと彼女の腕を誘い、青島が駅へと促そうとすると、彼女は踏ん張って抗った。
「帰りたくありません・・!」
「女の子をこんな寒さの中、晒しておくこと、できないから・・」
「返事を頂けるまで今日は帰らないと決めてまいりました。私と結婚してくださいませ・・!」
「返事なら――」
逆プロポーズまでさせて、自分は一体何から逃れたいのだろう。
力を抜き、青島は正面から彼女に向き合った。
長い足の後ろに仕舞ったスマホが幾度目かの震動をする。でも青島は、もう出なかった。
派手さの裏で、どんどんゴミが溢れていく街が目の片隅に入る。
ぴったりとした黒のスキニーを履いた青島のすらりとした影が、彼女に近づく。
向き合い、彼女の瞳をまっすぐに見下ろせば、潤んだ瞳が期待を込めた色で青島を見つめ返した。
現実はいつだって、待ったなしだ。
――と、青島が口を開いた、その刹那。
突如真後ろから二の腕を強く引かれた。
「うぁ・・ッ、な・・っ、」
よろけ、足元からけつまづく。
背後の腕はお構いなしに力を込め、後ろから回された玲瓏な指先が青島の頭に回り、そのまま頬から引き寄せられた。
バランスを崩したその隙に、公衆の面前で、派手に口唇を奪われる。
「~~っっっ、/////」
その相手が誰かということよりも、人垣の真ん中で突然ラブシーンを始めた二人に周囲の視線が徐々に集まり
青島は狼狽えた。
慌てて外そうとするが、室井の指先が後髪をしっかりと鷲掴み、振り解けない。
仮面を半分被っているし、仮装しているから男か女かは分からないかもしれない。いや無理か。
こんなガタイの良い女なんて、そうそういないよな。
ってか、彼女にはばればれだ。
男同士のキスだと観衆は気付いているのかいないのか、きゃあという黄色い喚声がつんざき、辺りは騒然となった。
外国人らしき二人組の男性が、口笛を吹いて囃し立てる。
室井の伏せた長い睫毛に街灯が光り、未だ濃厚なキスを解く気のない男に青島は思わず目を瞑った。
公然わいせつ罪って、成立すんのか・・・
青島の顔が徐々に熱ってくる。
それを見越したかのように、室井がうっすらと睫毛を震わせ、青島を認めると
艶めかしく口付けを解いた。
「・・行くぞ」
至近距離で低く命令され、青島は返答できずに息を呑んだ。
室井は立ち尽くす青島の腕をとり、青島の背後で目を丸くしている女性へと顔を向けた。
そのまま室井の視線は通り過ぎ、数百メートル後ろの陸橋へと注がれる。
「――・・・、」
呆気にとられる彼女と青島を置き去りに、室井は颯爽と風を切り、青島の腕を取ったまま、背を向けた。
黒々としたウールのコートが観衆を圧倒し、黙らせる。
波が引くように人垣が裂ける合間を、覚束ない足取りで引き摺られる青島が、彼女を一度、振り返る。
憎悪とも仇恨ともとれる強い虹彩を持つ彼女を、黙って見つめた。彼女もまた目を反らさなかった。
こんな顔も、するんだ。
徐々に小さくなる影に、掛ける言葉は見つからなかった。
室井に手を引かれ、人垣を抜けていく青島が、最後に一度だけ、陸橋へと視線を送った。
6.
夜が茂る裏道は、音まで吸い込まれる。
「ちょ・・っ、はな、離してください・・っ、俺、今、室井さん断ちしようと頑張ってんですから・・!」
「――」
「ぃやだって・・!もっ、俺は・・っ」
室井の足が止まる気配はなかった。
街道から外れ、中心からも外れた裏町へと連れ込まれ、ふたつの影は連れ立ち伴走する。
東京都心とはいえ人口密度も高いこの街は、一歩外れれば野末と軒を連ねる住宅街に囲まれた。
「大体あんた、いつ東京に・・・っ、なんで、なんで、ここにいんだよ・・っ、今更・・ッ」
「・・・」
「だから・・ッ、なんでッ、こんなときばっかり、来る・・!みっともないとこ、見に来たの・・っ」
ぷっくりとしたひまわり色のシャツの上から、離さないとばかりに青島の手首を握り締めた室井が、一旦横目で背後を探った。
そこには闇色のマントを纏わりつかせ、憎まれ口を叩く声とは裏腹に、むくれたような困ったような顔でついてくる青島がいる。
仮面が都合良く青島の目元を隠し、赤らむその表情は今、夜を味方につけていた。
辺りは鎮まり返っていて、ひと気もない。
「俺は・・っ、まだあんたを許したわけじゃないですからね・・っ」
戯れを思わせる青島の口ぶりの裏にあるものは、今宵は隠しておきたい現実だ。
それを嗅ぎ取らせぬ生意気な瞳が、仮面の奥から室井を睨みつけていて、ようやく室井は足を止めた。
ビロードの黒いマントが北風に誘われ、すらりとした長い足を強調するような刺繍のボトムスが青島の美しい輪郭を夜光に浮かび上がらせる。
それは夜に映え、まるでここが仮想現実の舞台上であるかような錯覚を室井に植え付ける。
コツンと、覚束ない青島の黒革のロングブーツが不規則な音を住宅街に響かせた。
青島が掴まれた腕を上げることで、解放を要求する。
しかし室井は、力だけ入れ直した。
腕を捩じるようにして、たゆむ視線で青島が伺えば、室井は高圧的な面持ちで腕を引く。
青島が手首を捩じる。だがそれも封じられる。
頑是なく首を打ち振り、青島が本格的に抵抗をするが、厳かに、力だけで青島を制してみせた室井は、視線を反らさない。
「そろそろ、離してくれませんかね・・?」
「・・・」
反抗も反論も許されない時間は、覚えのある苦しさだけを青島に突き刺した。
薄い室井の口唇は開かれることはなく、掴んだままの手に視線を落とし、仕方ないとでも言いたげな溜息だけが落とされた。
それが少し、青島を非難したようにもとれる。
だから青島は小さく吐き捨て、後退る。
「なんで来たの・・?このタイミングで・・!放っときゃいいじゃん、いつもみたいにさ・・っ」
軒を並べるスタイリッシュな家屋とは裏腹の、まるで、自らの欲望で身を落とした伝説のジャックが彷徨った小径のように、後も先も知らせない裏路地で
行き先を闇に閉ざす街道は、青島にあのかぼちゃの物語を憑依させた。
「それは、俺に対する非難か?」
漸く発せられた室井の声は淡然だった。
地獄からの道先案内のようなランタンを思わせる青島のビロードのマントが、心情を反映するまでもなく心許なく揺れる。
頼りない人工的な灯の反射に、青島のか細い声が込み上げた。
あれ、なんで泣きそうになってんだ俺。
別れ話なら、蒸し返してほしくない。せめてそれは自分から言わせてほしい。
「・・違う、こんなことが言いたいわけじゃない、でも、もう、」
「じゃ、何が言いたい」
「あれは間違いだった・・っ」
不意に叫び、室井の掴む両手を外そうと暴れる青島を、これまで静観を選んでいた室井が力づくで引き寄せた。
突然の行動と、痛いほど力任せに込められた意思に、青島の身体がふるりと震える。
黒い陽炎が揺らぐように、室井は強張ったままの顔を向けていた。それでも強かに封じ込めた指先は、離さない。
本気の力では室井には敵わない。
仮面の奥に潜み、濡れて不安げに揺れる青島の瞳を、捕らえるように室井が額を寄せ
一歩、縫い留めた。
直接肌に触れられる手の先から、室井の飢えの深さが青島を犯し、闇に光る双眼が青島の時間を制止させる。
こんな目を向けられたのは、久しぶりだ。
「最初の約束を、覚えているか」
「・・さいしょ・・」
「俺たちが、恋を始めると決めた、最初の夜の契約だ」
その言葉に、青島の噛み締めた紅い口唇がわなわなと震えた。
殺した息が誰もいない路地に浮かび、どこまでも続く小洒落た街灯に色付く銀杏並木を審美的なまでに燃ゆらせた一本道が
二人しか知らない隠微な問いを響かせる。
青島の頬を両手で掴み、反らさない室井の瞳に囚われたまま、青島もまた呼吸も止めて立ち尽くした。
涼やかな秋の終わりの風が、身も心も冷やして凍らす季節を予感させる。
やがて、室井の高雅な指先に導かれるように、青島の上擦った口唇が、開かれる。
「連絡はしない」
「口出しはしない」
漸く発せられた青島の言葉は、呻きに近い。
「会えなくても文句は言わない」
「証拠は残さない」
あれは、ベッドの中で互いの体温を知り合いながら、誓い合った遥か彼方の、はじまりの夜だった。
「いつも一緒を求めない」
「いざとなったら自分を護る」
震え、拒む青島の口唇が、その夜を馳せて、今再びの秋に召喚し
ゴーストタウンのように眠りにつく高級住宅街へと続く裏通りに、青島の声だけを拾い上げる。
「相手の領分に深入りしない」
「外では他人を通す」
複雑で強い色を乗せた室井に促されるまま、徐々に涙声となる青島に、まるで深淵のように並み居る全ての感情を抑制した男の瞳に、嘘はなく。
「相手を一番にしない」
青島の夜を溶かす虹彩に滴が浮かび。
「その代わり、」
初めて室井の薄い口唇が動いた。
「「生涯の愛を誓う」」
涙声は、重なった。
そのまま室井が口唇も重ねる。
頬を引き寄せられ、塞がれた熱に灼けるような痛みを与えられ、閉じた青島の眦から、堪え切れぬ滴が一筋の線を描いた。
垢抜けた街灯が点々と奥まで続き、両手で青島の両頬を囲うように添えられたままの、その指先を握り返すことも出来ず
深い秋の闇に溶け込んで、影は一つとなって、また一つの熱を共有する。
重みももたない契約も盟約も、全部、室井のためだった。
くだらない我慢も、全部、室井に捧げた。
陳腐な固守も、沢山の時間と心も、室井に准えた。
あれもこれもそれもどれも、全部、ぜんぶ、ぜんぶ、室井のためだけに。
一つ一つ脱ぎ捨てて、剥ぎ取られた俺はもう、これ以上捧げるものがない。
濡れた軟体が口唇に強く押し当てられ、青島の嗚咽ごと室井は吸い取った。
咽ぶように、縋りつき、戦慄く青島に、室井は何度も何度も口付けを与える。
穏やかな声も、緩やかな眼差しも、およそ青島の知るものではない。
青島の知る室井は、もっと激しくて、もっと熱くて、もっと狡猾で、もっと、もっと。
たまらなくなって青島が眦を歪めれば、室井は口付けを解き、その下唇を親指で拭い取る。
「決心、できたか」
「・・・できるわけ、・・・ないでしょ・・・」
わなわなと慄く青島の口唇に街灯が反射し、妖しく濡れ光ったふくらみに、室井の視線が一瞬落ちる。
何もかもを噛み締めた青島の瞳が夜光に溶けた。
「ごめんなさい・・・観念する。俺の方が、すき、だった。あざとくても汚くても、傍に居られたらそれでいいって、思えた、恋だった」
室井が強く、青島を引き寄せる。
抱き締められた青島は、抵抗もなくしな垂れかかり、室井に任せた。
慣れた匂いに包み込まれ青島は甘い疼きに息を止める。その後頭部を室井がくしゃりと鷲掴む。
今だから分かる気がした。
自分たちが間違えたものを、そして、自分たちがやり零してきたことも。
それでも残るものは、寂しい。淋しい。何かが足りない。
「一番に傍にいられなくて、ごめん。一番に応援してやれなくて、ごめん。虫がいいけど、俺のことは、きらいにならないで・・好きでいていいって・・・言っ
て・・」
涙声は、祭のヴェールに溶かされる。
室井が腕を解き、そっと青島の頭部に半分引っかかったままの仮面を持ち上げれば、あどけない素顔が顔を出す。
泣き出しそうな、ほぼ半泣きのその顔に、室井は眉尻を下げて悄然と気抜けする。
「俺が、余裕だと思ったか」
「・・・、そんな急に強気になるのは、ずるいよ」
青島は顔をくしゃくしゃに歪めて、室井に両手を上げた。
その腕が室井の首に巻き付くと同時に、室井が青島の腰に手を回し、どちらからともなく引き合った口唇がまた重なり合った。
口唇から蕩けさせられ、青島の嗚咽が甘い喘ぎを含む。
青島の揺れる髪が誘うように流れ、室井が青島を片手で腰から引き寄せた。
反動で仮面が落とされ、青島の背後でカツンと小さな音を立てる。
何だか冗談のような闇色のマントが舞って、口付けはより深いものへと変わった。
男のキスの味を覚えさせたのも、この男だった。
窮屈だった二人の時間が、今になって愛おしく尊いもののように思えてくる。
屋根の奥から顔を出した白い満月が二人を照らし、銀色に浮かぶ街が、今尚続くパレードの囃子に上っ面の味付けをする。
好き勝手に言い様に口腔を舐め回す男になすがまま、青島は指先一つ動かせず、室井の首にしがみ付いていた。
室井の手が、口唇が、この冷たさの中にあって、青島に伝わるただ一つの温もりとなり、至近距離で重なるふたりの視線はお互いだけを映す。
その先の行為を仄めかす室井の足が青島の股に挿し込まれ、より密着した身体に捕り込まれた。
思わず視界を閉じ、口腔を明け渡せば、青島は眩暈のような錯覚を感じた。
絡まる舌が、灼けるように痺れさせる。
「・・ッ、‥ン、・・・んんぅ・・・」
このままこの場で犯されそうな淫靡なキスに、酔わされ、晒され、全てを放棄した気持ちにさせられた青島を
どこまでも品位の高い室井は、寸前でねっとりとした口唇を引き離した。
だが焦点がぼやけるほどの距離で射貫く瞳は、雄の焔が宿り、手も足も、青島を放さない。
「腰、くだけそう・・・」
黙ったまま、青島しか映さない瞳で室井が青島の朱をはたく頬を撫ぜる。
うねった前髪を梳き上げ、愛おしそうに指先に絡め、耳朶を触り、溢れた唾液を口唇で掬い取った。
「俺に、もう一度口説かせたいか」
「室井さん、なんにも言ってくれないから」
「だっておまえ。そんな急に・・・言えるか」
不貞腐れたように吐く室井の口元が尖る。
しかしまるで青島の実体を確かめるような指先の愛撫に、青島の無垢な瞳が夜に溶け込んだ。
「あんたに、あんなことさせた」
「明日になるまでどうせバレやしない」
「また騒がれる・・」
「瑣事じゃない。ハロウィンはそもそも奪い合う祭だろ」
「そうでしたっけ・・?」
「・・・自分勝手になりたい夜もある。今夜は聞き分けよくなんか、なれそうにないな」
室井の眦が成熟した雄の色を浮かべ、自棄に歪んだ。
身勝手な言い訳を押し付け、こんなふうに泣かせて、護ると決めた相手に、自分は何をしていたのか。
こいつが期待してるっていうから、俺は夢を見れた。上を見て走れた。青島が室井に魔法をかけたのだ。
青島が大丈夫と言えば、どこまででも走れる気がした。
大人になるほど、雁字搦めとなって、大切なものの護り方が分からなくなる。
なにをすればいい。どれを選んだら正解なんだろう。
後悔させたくない。
もし俺が今回のことのように、戦線離脱することになったら?今度は降格じゃ済まないかもしれない。今度は青島まで巻き込むかもしれない。
青島一人を戦場に残すくらいなら、最期まで共に在り、命を落とさせてほしかった。
従順に仕え、波風立たせぬ中で時期を待つのが好ましいと思った。
だが大人しく室井の告白を待っているような奴じゃない。
もう一度顔を傾けた室井が、口唇を重ねる。
うわっと目を閉じた時にはもう嵐のようなキスに巻き込まれていて、青島は呼吸を忘れるほどの勢いに呑み込まれた。
外の空気の温度差すら忘れ、舐め回す熱い舌の動きに追いつけず、意図せず漏れる自分の声を閉ざしたくて、青島は身体を竦める。
背が反り返るほど引き寄せられ、青島の髪が銀色に靡いた。
「離れても・・・誰かのものになっても・・・ずっと、」
キスの合間に言いかけた青島の口を遮り、室井が叱るように強く口唇を塞いだ。
雄々しい腕は、青島だけが知る室井の真の姿だ。
覚束ないその輪郭が、一夜の幻と消えそうで、確かめるように青島は自ら室井を誘い込む。
「・・ろぃ、さ・・っ」
急く青島をリードし、室井は緩く激しく翻弄する。
想いをそのまま注ぎ込む。
真面目に働き、優等生に生き、横から何でも掻っ攫われる人生で、ただひとつ、室井に残されたもの。
「おまえを受け入れた夜から、命尽きるまで添い遂げようというつもりだった。そう思っていたのは、勘違いか」
「・・・・かんちがい、ではない、ですけど」
「言えなかったのは覚悟がなかったからじゃない。君をまだ泣かせることしかできないからだ」
キスが解かれ、息を荒げさせられた青島の潤んだ瞳に射す桔梗の光に、昂然と魅入る室井が自白する。
青島の指先が持ち上がり、叱るように、今度は室井の深い眉間に人差し指が添えられた。
「ヨユーぶちかましすぎなんだよ」
室井の手が、自分の目元を流離う青島の手を攫み、指を絡めて握り締めた。
今二人きりの世界は誰も邪魔をする者はいない。
手を取られ、不満げに首を傾げた青島が、喘ぐ息の奥からぷっくりと膨れて眉を曲げる。
「あんたは、俺がいなくてもへーきなんだなって」
「んなわけあるか」
敵わないなというように、室井の眉間に皺が寄った。
「おまえは、決めたことは絶対譲らないだろ。俺のことだって、きっと譲らない」
「けど」
「そこに甘えた、こちらの怠慢だ」
「・・・あんたは俺が離れても大丈夫なんだなって・・思うよふつう。俺が離れてくって心配じゃないのかよ」
「それは、離さない自信は、あったから」
その官僚的な言葉に、青島の顔が歪み、俯いた。
仮面に隠れていた青島の本音が、仮想現実の中で零れ出る。
「ぎゅってして・・・もっと」
室井の両手がぎこちなく青島の背に回され、引き寄せた。
甘えるように青島が室井の首筋に顔を埋める。
「あっちが駄目ならこっち、とか、・・・そんな扱い、おれ、もういやです」
「・・・」
「も、あんたの見合い、笑って流すこと、できません」
室井がしっとりと深く青島を抱き締めた。
息を殺した室井の口唇が青島の耳に宛がわれ、消え入りそうな掠れた男の声で囁かれる。
「俺に見向きもしなかったおまえも、俺を置いていこうとするおまえも、好きだ」
「!」
「好き、だ、青島。どうしても、どうしようもなく、俺にはおまえなんだ」
「・・・遅っそいんだよ」
「おまえだけは、離さないつもりだったから」
――ああ、本当だ。新城さんの言う通り、このひとの、度が過ぎた不器用さと情愛に、応える術を持たぬままに囚われたのが運の尽きだった。
「破天荒なところも、俺より少し背が高くてカッコつけなところも、俺より才気がありそうなところも、誰にでも好かれやがるところも、全部腹立たしいほど俺
には眩しい」
「・・ばかじゃないの」
「狂ってしまうのなら、俺は、おまえがいい」
込み上げる嗚咽を飲み込み、青島が息を整える。
連なり色付く銀杏の葉は、かぼちゃと同じ色で夜空に揺れていた。
今、仮初めの一夜が、終わろうとしていた。遠くでパレードの終了を告げる花火が打ちあがる。
「男のプライドってめんどくさいね・・・」
観念し、ようやく重い口を開いた男の声は、それだけで重い。
「俺、本気で好きになっても、い?」
「本気じゃなかったのか」
「あんたは俺のものだよって、思って、い・・?」
室井の逞しい腕の中に力強く抱き締められ、呻いた青島が息継ぎをするように宙を見上げた。
囲われた空は、透き通るほどに瑠璃色だ。
「俺から二度と離れられないように・・・愛してやる」
「~~っっ」
「おまえが飽きるまで、もう無理って泣くまで滅茶苦茶におまえのこと、愛すから」
室井の喉を締め付けるような声が、無防備に青島を震わせた。
「だから、間違いだったなんて、言わないでくれ」
息を殺した青島が、室井に抱き付いた。
きつく抱き締め合う恋人たちに、月明かりが囁かな祝福をする。
せり上がる感情をぐっと噛み殺した室井は、ただ指先に思いの丈を込めた。
見つめ合い、もう一度交わされたキスは、はじまりの夜のように恥じらいを浮かべ、触れるだけの柔らかいものとなる。
両手を室井の肩に置いたまま身を起こした青島が、泣きべそをかいた顔で勝ち気に笑んで見せる。
「しょうがない!こうなったら日本全国どこでも付き合ってあげますよっ」
「また左遷させる前提か」
だってそうでしょ、と悪びれない瞳が弾む。
その青島に不敵な笑みを返した室井が、青島の腕をしっかりと取り、もう一度顔を寄せた。
「昇進した。辞令が降りて、来月から東京へ戻る」
「!!・・ぇ、えっ??」
どうだとばかりにニヤリと口角を上げた室井に、その瞳を唖然と覗き込んでいた青島が次の瞬間、口を大きく開けた。
「ぃやっったああぁぁぁっっ!!!」
両足を跳ね上げ、青島が室井に飛びついてくる。
両手を室井の首ったまに回し、押しつぶさん勢いで抱き締めた。
「夢!?ほんと・・っ!?どっち・・ッ!」
「おッ、おい、こらッ」
「うそじゃないよね?!マジで!!!まじですか!!!やっっったあっっ、よかったぁぁ・・っ」
よろつきながら、覆い被さるように足ごと絡めてきた青島を室井は必死に受け止めた。
こんなに喜んでくれるなら。
こんなに喜んで、くれるから。
だから室井は青島を手放さない。
ぽんぽんと、赤子を宥めるように掌で室井は優しく触った。
力いっぱい飛びつき、室井の肩口に顔を埋める青島は、ただ息を殺す。
嬉しさに武者震いする青島の気が済むまで室井は付き合った。
どれだけ待たせたかも、どんな想いで待っててくれたかも、この歳月が自分たちに齎したものは、丸い月だけが知っている。
「俺・・っ、もっ、室井さんがいない東京なんて、我慢の限界で・・っ!溜まりに溜まって・・っ」
「っ」
「・・・・ストレスがね」
「今更そんな言い訳が通用すると思うか?」
青島の形良い顎を指先で捕え、視線を奪った室井が青島を淫靡に抱き込めば、青島が全身で誘惑する。
「んじゃ、なだれこみますか・・・?」
青島の眼差しが艶美に色付いた。
*:*:*:*:*
「乗れ」
「どっから車なんか用意してきたんですか?」
「広島だ」
「乗ってきたの!?十時間!?」
本気で仰け反った青島が、駐車場の瑠璃色の車体を二度見する。
「・・うぁ、ほんとだ、ナンバーが同じだ」
本当は飛行機で来ているし、車は後から送ってもらったものだが、室井は黙る。
だからコッチ方面に向かってたんだ~と、今更ながらに納得した様子の青島が、懐かし気に車内を覗き込んだ。
「こんな住宅街に連れ込まれて、俺、なにされんのかと思っちゃった」
「・・・」
「カーセックスか~。ひっさしぶりだな~」
「誰もここでするとは言っていない」
「ふぅん?しないの?」
車の向こう側から組んだ腕をルーフに掲げ、そこに顎を乗せて挑発的な眼差しを送る青島を、室井が一瞥する。
ここで思う存分蹂躙するのもやぶさかではないが、我に返った室井が乗れる筈もない。
そんな室井を青島が楽しんでいるのは、いつものことだ。
「・・ぁ、俺運転しましょうか」
「君にハンドルを握らせたらまた逃げられる。そう簡単に主導権は渡せないな」
コートを肩から脱ぎ捨て、室井が言うと、降参したとお道化た両手を挙げた青島は、ロックが外れたと同時に長い足を滑らせ助手席に滑り込んだ。
ほぼ同じタイミングで、室井もシートを占拠する。
エンジンを掛ければ車は滑り出すように発車した。
「ほんとに東京に戻ってくるんだ」
「引継ぎ次第だから、もう少し先になるかもしれない。これからちょくちょく東京へは来る」
「懐かしいでしょ」
「住み慣れた街だ」
「花の都・東京、ってね」
青島が伸びをしてシートに沈んだ。
この街が俺たちを引き合わせ、決戦の火種も未来の判決も詰め込み、捜し求める何もかもを持ち得て統帥権を統べる。決して優しくはない玉手箱だ。
それでも群れと成す営みの熱狂的な歓声は、今も冷め止まない。
車はパレードの混雑を避け、裏通りを抜けた後、首都高に入った。
秋が更けた都会の夜は空気が澄み、ブルーに染まった世界の中で、散りばめられたイルミネーションがこの街のさざ波を描くように幾重にも重なり合う。
そして、遠くに東京湾が控えるあの街が、待っている。
「また、始まるんですね」
騒がしい日常が。
目まぐるしく動く経済の中心地で、キラキラした時間が手の中に零れ落ちてくる。
誰かを傷つけ、誰かと乱れ、噛み合う潮流が、毎日の隙間を埋めていく日常は、まだこの街で生きていて良い承諾だ。
窓の外を流れる景色はやがて、あの橋を視界に入れた。
「ワルイコト、しちゃったなぁ・・・」
ハンドルを切りながら、室井が横目で盗み見た。
思わず呟いてしまったのだろう、気を抜いた身体をシートに収め、ぼんやりと外を眺める青島は、酷く虚ろだった。
だらしなく胸元を開けたかぼちゃ色のシャツを着ていて、そこからすらりと伸びる長い足にはぴったりとした黒のスキニーパンツ、ヴェールを描くように纏うの
はベルベットのマントだ。
絢爛な刺繍が施されたロングブーツが、狭苦しそうに車内で折り曲げられる。
視線をくれない青島の心は今、ここにはない。
沈黙が重いのではなく、青島のために室井はカーラジオを点けた。
遠くにはブルーに染まるあの橋が見えてくる。
そんな風に思える青島に、室井はいつも何も言えなくなる。
優しさで溢れていて、ギスギスした毎日に尖っていく室井を、簡単に救ってみせる。憎らしいほどの華麗さで、鮮やかに、魔法を見せつけてきた。
その裏で彼が何を思うか、吟味する者は少ない。
だからこそ、そんな夜に傍に居られる幸運に感謝するし、先程のことは相当堪えただろうと室井は思えた。
窓の外に投げられた青島の視線は、誰を想うのか、悟らせない蠱惑的な色で流れる夜景に漫然と同化していた。
長い足も、窓に頬杖を付くすんなりとした腕も、車内の影を纏って、ただただ麗しい。
「その格好、まるで仮面舞踏会かオペラ座の怪人だ」
「・・・似合ってる?」
「攫いたくなる色男だ。誰の趣味だ」
「・・・さぁね」
気にするなと言ってもきっと青島は自分のことのように苦しむんだろう。
決して口を割らない恋人に室井の出来ることは、それに寄り添うだけの、茶話にもならないお粗末な身だ。
室井は硬い表情のまま、穏やかな気配を保ち、正面を向いて運転を続けた。
「縁談については気にしなくていい。私の方で話を付けておく」
「誰に何言って話付ける気だよあんた」
窓の外を向いたままの青島の浅い吐息が嘲笑を含む。
少しだけ空けた窓から入る夜風が青島の髪を誘うように揺らしていた。
断続的に車内を照らす街灯に、彫深く青島の横顔がチラチラと照らし出され、それはまるで別人のように見せた。
「キャリアにとって縁談は政治取引だ。まあ見てろ」
「つまり何か仕組まれたんですか俺?」
シートに凭れかかっていた力の抜けた身体を投げ出したまま、青島が顔だけ起こして室井を見る。
渋滞しているのか、室井は静かにブレーキを踏む。
滑らかなテクニックは室井らしく、車は転がるように減速した。
ギアを引き、室井が暗い車内で妖美に囁いた。
「それも分からないようじゃ、まだまだだ」
わざと煽るような言い方をしたことに青島が即座に反応してくる。
こういうところが気持ち良く、人好きのする所以だ。
室井の端正な顔が嬲るような色を乗せ、双眼が青島を真っすぐに映せば、青島の悪戯気な瞳が夜光を取った。
「言ってくれますね」
「誰彼構わず惚れられるおまえよりマシだ」
「あんたこそ。帰ってくる時は全部清算してきてくださいね。あっちのもん、こっちに持ち込まないよーに」
「君じゃあるまいし」
「足は付かないって意味?」
凄艶で、薄い笑みの背後に潜む、室井を甘やかすような下心に、室井はいつも泣きたくなった。勿論今もだ。
「修羅場は勘弁してね」
「付き合わせるさ。覚悟は出来ているんだろうな」
「上等」
「ショータイムのはじまりだ」
あの日の電話を彷彿とさせる話題にも、青島は扇情的に笑ってみせた。
あの時にはない穏やかな空気が二人を包み、室井はまた前を向き、アクセルを踏む。
隣で気持ち良くもう一度伸びをする青島は、もう室井の良く知る青島だった。
滑るように発進した車は、連なるテールランプの後に付き、緩やかなスピードで都会の夜景に埋もれていく。
「・・ん?あんたも金を払うクチ?」
「金?何の話だ?」
「だって、新城さんが」
「新城のいうことをいちいち真に受けるな」
「ぁ、そういえば俺、新城さんにキスされちゃった」
「なんだって?」
「だから、キス?」
まるで大したことないかのような軽口で青島が首を傾げた。
次々と出てくる青島の言葉は、室井にはいつも魔法か呪のようだ。
今宵も秘文が飛び交う車内で、ハンドルを握る室井の眉間が疑問符を乗せて曲げられる。
長い沈黙のあと、室井は念のため、あらゆる可能性を吟味し、努めて冷静に問い返した。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どこに」
「どこだと思います?」
「・・・手?」
「それどんな状況?」
「あ、あしとか」
「だからそれ、どんな設定なの」
「・・・・・」
「くち、ですよ、くち」
「・・・・人口呼吸か」
「どんな状況?」
「おまえこそ、どんな状況作ったんだ」
「やだなー、ムード作りはオンナ限定ですって。いっきなりだったんで」
キャリアってみんなそうなの?とぼやく青島の言葉に閉口し、室井は数日前の新城との電話を想起した。
自分が不在の間に掠め取るようにして部下に手を出しやがってとは思うが、室井にそれを咎める資格はない。
「念のため聞くが、新城と何があった」
「何って――、あんたこそ、新城さんに何ぺらぺら喋ってんの?」
「俺は何も言ってない」
「うそ」
「・・・愚痴をこぼしたくらいだ」
「俺に言えばいいのに?」
「本人に話してどうする」
「つまり俺のワルクチなんだぁ、へぇ~」
「・・・ちがう」
「何チクったの」
「ちょっと待て。今聴取したいのはこっちだ」
室井の指先がウィンカーに掛かると同時に、青島が跳ね起きる。
「ちょっと!どこ行く気!」
「次のサービスエリアで降りる。その話、じっくりと聞かせてもらうぞ」
「つまり、やきもち」
「新城の言っていたことは本当だったのか。あの都会崩れが・・!」
「えぇ?何言われてきたんだよあんた・・!」
室井の豹変に、いっそ爆笑しだしそうな青島が朗らかに声を立てて横で身体を揺すった。
その毒気のない顔に、室井は顔を作れず困ったように視線を彷徨わせ、肩を落とした。
言いたい文句も上手い言葉も出てこないのは今に始まったことではないが、青島が笑っているなら、それでいいと思えてしまう自分が恨めしい。
楽し気な青島とは対照的に、室井の気分は凹んだ。
「おまえ、どこまで俺を謀った」
「まさか。結果論です」
首都高を降りた車は国道に出る。
喰えないと思わせるのは、恐らくこの愛嬌たっぷりの愛くるしい瞳の輝きだろう。友好的な色を乗せ乍ら、誰にも捕り込ませないプリズムを湛えるくせに
蠱惑的で濃艶なセックスアピールで男を誘惑する。
無垢な可愛さは最強で、犯罪だ。
「君を寝取ったようなことを言っていた」
「おおぅ、ダイタンですね~」
「信じてないな?」
「信じる方がどうかしてますよ?」
「・・・、そ、そうは言うがな、付き合いの長い間柄で、キャリア同士で、早々吹っ掛けられる工作ではないんだ」
「半分は本当だからじゃない?」
「半分!?半分とはやはり、つまり、具体的にどこまでだ」
んもぉ、と青島が眉尻を下げ、呆れた溜息を頭上に乗せる。
なんとなく新城は室井を焚き付けたかったのかもしれないと青島は思った。
それがどういう意図であれ、新城の詐術は実に明利な仮想敵を仕立て上げ、室井を唆せている。
もやもやしているままだけど、俺たちの人生で大切なことは、ふたりでいることじゃん?って、教えて貰えた気がする。
車は丁度赤信号に引っかかり、青島の隣ではまだ納得のいかない室井が憤慨していた。
こんな風に恋情をあからさまにする室井を見たのも、ベッドの中以外ではなく
珍しいものを見させてもらえた青島は楽し気にその様子を観察する。
「なんでそんな顔なんだ」
「そりゃ、あんたのそんな顔見られりゃね」
「・・・揺れたか?」
「さぁね」
「誤魔化すな」
「だから。・・やいたんでしょ?」
「妬いて何が悪い・・!」
「!」
「今回は肝を冷やされた。少しはいい格好をさせてくれ」
頼むからと、ハンドルに両手を掲げ、そこに額を押し当て、消え入るような声で室井が懺悔する。
青島の視線が一度落とされ、口唇を軽く震わせた。
貴族風の仮想をしていることで、青島の纏う雰囲気はそれだけで妖艶に映し出される。
縁談の話を最初に室井にしたとき、室井は嫉妬はしないと言い張ったし、事実室井の口から出る杞憂は縁談の相互作用ばかりだった。
電話では認めなかった男が、焦らされ、翻弄され、最後に残された札は、ジェラシーだ。
浮かされるような青島の指先が、そっと室井の硬質な黒髪に触れ、軽く離れる。
室井が視線だけを青島に向け、それは情けなく戸惑った表情ではあったが、漆黒の双眼は、際限などなくおまえが欲しいんだと叫ぶ色を持っていた。
「あんたの恋人は俺なの」
「――」
「これからは、もう少しそこに自覚をもってクダサイね」
間抜け面と呟き、青島が微かに笑いを零した。
「おまえこそ、室井慎次の恋人という自覚が少し足りないんじゃないか」
そ?
青島が小首を傾げ、室井をただ夜色の蒼い瞳に映しこむ。
吸い込まれるままに、室井も身を起こした。
「おまえ・・・、」
おいかけて、また置いていかれて、また追いかける。
進化する東京と同じ速度で、俺たちも互いを見失うわけにはいかず、取り合う手の心許なさに気付かぬ振りをして、この街で互いの狂気を抵当にしてきた。
忘れさせてはくれない秋が、また試すようにこの肩に覆い被さっていて、フロントガラスから染み込む冷えた大気が車内を満たしてくる。
室井は深い色に血塗られたコートの色も匂いも、この身体の裡が忘れていないことを確かめる。
問いかける無意味さを知り尽くした大人となって、室井は託された言葉も失っていた。
「もう・・・黙って・・・」
まだ何か問い質したい室井のスーツを青島はちょこんと引っ張り、室井の口唇に人差し指を押し当て制止させ、愛し気な目を向けた。
青島が今も昔も惚れたのは誰なのか。
その心を射止めた男はただ一人で、それは今栗色の髪の奥の瞳に映る。
打ちひしがれた室井もまた、溜息に名残惜しさを流し、青島を見つめ返した。
「誠意。見たい」
「誠意って・・・これか?」
軽く室井が身体を傾け、顔を近づけた所で止まる。
触れず、じっと美しい虹彩を覗き込んだ。
問い詰め奪われたものを知ったところで、残るのは悔しさと不甲斐なさだけで、青島は今、室井を選んでここにいた。
それが室井の真実だ。
夜に絡み合う視線に浮かび上がるのは共通の不戦敗だ。
「思わせ振りな言い方しやがって、あのタヌキ」
「ま。新城さんだから」
「それで許せる気分にはなれないな」
「新城さんがどんな言い方をしたのか知らないですけど、室井さんの早とちりでしょ。新城さんが俺と寝るはずがない」
「まあな、あの仕事とキャリアしか興味のないデッカチが、おまえの誘いに乗るわけがなかった」
「そっち!?俺、そんなことしませんっ」
もぉっ、と、焦れた青島が室井のネクタイを思い切り引き寄せる。
「今度置いて行ったら、許さない・・・・ッ」
青島からは熱烈なキスが降ってきた。
7.
「新城さんっ」
本庁の前で覚えのある朗らかな声で呼び止められ、新城は首だけ振り返った。
柱の奥からぴょこんと青島が半身を見せ、邪気のない笑顔が人懐こさを咲き薫らせる。
「先に行け」
ゾロゾロと自分の後に続く部下たちに短く言いつけると、新城は独りその場に残った。
枯葉が一枚足元を抜ける。
辺りの様子を伺いながら、両手をいつものミリタリーコートに仕舞い込んだ青島が、ペコリと一度お辞儀をした。
柔和な装いが計算なのか天然なのか、時に上層部を煙に巻く没論理な絡繰りを仕掛けるくせに、普段は無害な顔をするから性質が悪い。
人目を見計らう髪が風に煽られ、ひょこひょこと近づいてきて、青島はぽんっと新城の手前にエンジニアブーツを揃えて舞い降りた。
何となく目を細め、新城は身体を向き合わせる。
「あのままバックレるのは・・、卑怯かなっと思いまして」
「それが所轄のやり方だろう」
人目を避けるため、新城が表通りに沿う花壇まで移動すると、青島も大人しく付いてくる。
十字路の交差点を待つように、二人して並んだ。
真昼の陽射しは、ほろ苦い。
「さあ・・・どうかな」
「とことんお人よしに出来ているんだな、貴様の脳味噌は」
「紳士的って言ってくださいよ」
恐らくその通りなのだろう。
青島の根っこは、どこまで行ってもジェントルマンで、出会った最初の新城の意識の端を引っ掻いたのも、そういうところだった。
新城は隣に立ち、肩を竦めて見せるしなやかな風采を目に収める。
改めて、あの一夜のまやかしで、ガソリンに火が点けられたように現れた激昂は、深い情愛の色彩で、今も同じ温度で胸の底に沈んでいることを
身体の奥底が、本能的な部分が、熱く疼き、肯定する。
間違いではなかった。勘違いではなかった。
酔いしれた夜に、欲しがって啼き喚いた心はまだここにある。
新城の視線に気付き、青島が伺うように頼りない視線をちらりと向けた。
不安そうでもあり、申し訳なさそうでもあり、どこか含羞さえ感じさせるその顔に、隠そうとはしていない素顔の青島を見る。
ばぁか、と心の中で詰りながら、新城は醒めた顔で突き放した。
「馬鹿騒ぎの謝罪にでも来たか」
「・・まぁ」
「暴れても良いとは言ったが、限度ってものを知れ」
「あ~・・、所轄に限度って言葉はなかった。・・・です」
室井が仕掛けたことでも、騒動を誰のせいにもしない青島に、新城は潔さと切なさを見る。
きっと、そこに室井も触れたから、室井は逞しくも正義であれるのだ。
どうしようもなく理不尽な青島の言い訳に、徒労感と脱力を感じながらも、新城は馴染んでいくその感覚を悪いとは思わなかった。
「捜査の一環ということになっている。口裏は合わせろ」
「・・・まじで」
「捜査権はこちらにあったということもだ」
「はい」
口元に拳を充て、新城の心内を見透かしたように青島が微苦笑する。
生意気だなと思いつつも、新城は平素と変わらぬ素っ気なさを貫いた。
あの日、路上で派手なパフォーマンスをした室井と青島について、観客が面白がり盗撮やタレコミ等、情報共有したことで
それは週刊誌の片隅に乗るちょっとした騒ぎにはなっていた。
しかしネットで拡散された男同士のラブシーンは、片方の面が割れていないことと、あれは警視庁の囮捜査の一環だと公表したことで、事なきを得た。
その現場を同じく目撃していた新城が先手を打ち、あの方法を選んだ理由は定かではないが人目を引くようにと命令したのは確かだと口添えしたのだ。
現場での臨機応変な対応に、本庁が寛大な処置を見せた形となった顛末であった。
マスコミは今、行為の当事者よりも、行為そのものの是非を論じている。
「手際良いですね」
「そんな誉め言葉はいらん」
「はは・・、ありがとうございましたっ」
それに、また室井と青島か、という一種の冷めた論調が強かに上層部を諦観させたのも事実だ。
それだけ、この二人が築き上げた軌跡は不可逆的に世界を侵食している。
軽やかに礼を言う青島の言葉は、秋の空に鈴なりのように澄み渡った。
そのまま話は途絶え、時折強くビルを煽る風の音が、耳障りに届いた。
信号が青に変わる。
しかしどちらも動こうとはしなかった。
影法師が澱みない形で伸び、混乱とか情動とか、そういう俗世なものをひた隠す。
描線だけは季節もなく、二人を縁どるのは無常だ。
灼熱のままに熱狂した一夜は、嘘のように平穏で無味乾燥な日常に押し殺されていた。
遠く、健全で事務的な関係だけが下達される。
遠いのに、胸に残る火傷の痕のようなものが、反抗してじわりと新城を奥底から爛れさせる。
点滅を始めた歩行者信号は、やがて赤に変わった。
車の行き交う音が色褪せた都会の雑踏にざわめきを与え始めれば、騒音は逆に二人きりの世界だった。
肌が触れ合う近さに入るからだろうか、何も言わない青島の思いが新城には理解でき、貴重で神秘ながら、奇妙な敗北感が新城の全身を気怠くさせる。
声まで隠されることを承知で、新城は口を開いた。
「あれは、ハロウィンが惑わせた気紛れだと言って欲しいか。それともくだらん放蕩に腑抜けて欲しいか」
それに応えることはせず、青島は柔らかく口許を綻ばせるだけだった。
印象的な瞳が、都合よく吹いてくる北風に、あの日のように隠される。
「私なら自分の隙間を埋め合わせするような愛し方はしない」
「・・・」
「自分の感情と心中してしまいそうな男とは、違う」
甘ったるい青島の溜息に、めまいがしたような気がして、新城は目を閉じた。
秋の終わりが近い北風は、冷たすぎて、澄みきっていて、何もかも包み隠すことは出来ずに曝け出されてしまう。
息苦しく、胸が熱く、飢餓感が強く強く訴える。
それが怖くて、新城は奥歯も噛み締めた。
「奪い去っても、いいか」
「・・俺が、誰を好きでも?」
「その時は、ここに来たことが答えなんだと」
押し殺した声は、まるで自分のものじゃないみたいだ。
車の走行音が無粋に掻き消すせいで、より一層、不埒な耳が青島の声を拾い上げる。
並んで立つ二人の距離は僅か10cmほどなのに、その温度が届かない。
どちらかがほんの少しでも動かせば触れ合えそうなのに、でも決して触れることを可能としない結界がそこにはあり、変わらぬ隙間をまた乾いた北風が擦り抜け
た。
「俺、は――」
「答えは要らないと言った。だから、逃げるな青島。こんなところで、逃げるなよ」
「新城さん、は・・?」
「それだけが、今の私の望みだ」
信号が、また青に変わる。
動き出す人波とは対照的に、青島もまた動かなかった。
立ち止まったまま、交差点を行き交う車と人波から外れ、一夜の魔法が解かれた都会の退廃的な街並みを、二人で見送った。
小さな木漏れ日が煌めきとなって、残秋の恋しさを、人恋しさと勘違いさせる。
黙ったままアスファルトに視線を落とす青島は、口を一文字に引き結び、大きめのコートから僅か覗く拳を、ひたすら握り締めていた。
あの日一度だけ味わった口唇が、濡れて陽の光に艶めき、新城の視線を誘う。
焦燥を孕み、浮かされるままに新城が零したものは、どこにも行けず冷えた秋の空が奪っていく。
消えていく。
それでも、こんなところで青島には正気に返り、逃げ出してほしくはなかった。
恋をした瑞々しい感情のまま、貫いていてほしかった。
そんな青島が、新城には眩しい。
置き去りにされた二人の横を自転車が駆け抜け、誰もいなくなった歩道に、煌めく秋の木漏れ日が一筋射す。
「・・・行け」
「・・・・」
真意を探るように顔を上げて青島が向けた瞳は、寂しさと痛みが乗っていて、酷く危うかった。
思わず掴みそうになる手を、衝動に任せたあの時とは違い、真昼の太陽が理性を選ばせる。
新城は拳を作ることで誰にともなく叱咤した。
「もう一度キスされたいか」
「っ」
「そんな目をするな。私を本気にさせたいか」
「新城さんて・・・意外と、口達者だ」
「二枚舌の人種だからな」
「そんなの、新城さんには・・・似合わないですよ」
室井には似合うというわけではないだろうが、新城を選べない青島の精いっぱいの答えの気がした。
青島の中で、新城という男の偶像は歪み澱んだものでは、ないらしい。
強がりはどちらだったのか、新城が勝ち気に口端を持ち上げて見せれば、青島も無理矢理笑みを作り上げる。
「俺だってね、たっかいんですよーだ」
「言ってろ」
促すように新城が顎をしゃくれば、合わせたように歩行者信号が点滅を始めた。
視覚から焦らせる現実が、青島に縋る目を向けさせる。
見つめ合ったのは一瞬だった。
静かに小さく頷いて見せれば、青島は大きく息を吸って、一歩前へと踏み出した。
駆け出すモスグリーンのコートに風が靡き、青島が背を向けたまま片手を上げる。
餞別は、青島らしい気障さだ。
点滅する信号を追いかけ、青島の影が徐々に小さくなるのを、新城はじっと目に映していた。
じゃあね、という微かな言葉が、聞こえた気がした。
また信号が変わり、走行する幾つもの車体が、遠くなり人混みに紛れる青島を見つからなくさせる。
スキャンダラスに奪い去っていった男に、新城に口を挟む余地はなかった。
あそこまで、強かにも残酷にもなれなければ、風のような掴みどころのないあの男は手に入らないのだ。
欲しいと思ったものが手に入らなかったのは、初めてだ。
でも、あの時、あの騒ぎの中で、青島は一度だけ、陸橋を振り返った。
室井に口付けられ、攫われていきながらも、新城を忘れてはいなかった。
振り返ってくれた――無駄ではなかったのだ。出会ったことも、恋に突然気付かされたことも、我武者羅に口説いたことも、この取り留めのない呻吟も。
新城でも、青島の中に何か一つ刻むことができた。
それでいい。今はまだ。
穏やかで、時に熱く、深々と、心の奥を搔き乱す。
まるでこれから来る冬を告げる北風のように、それは厳しく色濃く、深い雪の中に新城を閉ざしてくる。
悔しかった。何でもっと早く気付けなかったんだ。何で室井じゃなきゃ駄目なのか。何故俺じゃ駄目なんだ。
よくある話、なんて平易な言葉で抑えられない。
室井を、強かに、高雅に、しなやかに躍進させるあの眩しさが、自分も欲しかった。室井は決してあの暖かな手を離すことはないだろう。
忘れたくない。忘れてなんかやらない。
忘れることが怖いだなんて思ったのも、初めてだ。
胸を圧迫するように襲い掛かる息苦しさの行き場を見い出せず、滾った感情がそのまま新城の拳を花壇の幹に叩きつけさせた。
震動で銀杏の葉が新城の上から無数に降り注ぐ。
手は樹皮で血が滲んだが、新城は気にも留めなかった。
「・・クソ・・ッ」
あの二人に関われば、こうなることは分かっていたのに。
全てが凍るその中で、哀しむことも悔やむこともせず、祈るように捧げるように、彼を想う。
今は憶えていたかった。
静かに静かに、冷たく肥えた土の上で酒が奥底から醸造されていくように、滴る雫をすべて受け止め、自分は生きるだろう。
その一滴すら惜しんで、飢えて干乾びた身体を潤すことで、初心な純情を愛すだろう。
遅すぎた恋情は、それでも確かに新城の中にも存在する、一滴の赦しだった。
いつか時が満ち、忘れるべきか、奪いにいくべきか、また迫られる日が来る、その日まで。
「あの、大丈夫ですか」
「・・・」
「お時間です。お急ぎください」
「今行く」
流され溺れていく意識と疼く心の痛みを飲み干して、新城は晩秋の空を見上げた。
記憶にあるどの映像よりも、透明だった。
happy end ?

当サイト初、ハロウィンのお話でした。
通常ハロウィンと言えば「悪戯するぞ」なんて言わせるモチーフが多いですが、読むことは大好きなんですが、私がそういうジョークネタを書くのが苦手なもの
で、こんなお話となりました。
青島くんの衣装は仮面舞踏会をイメージしてます。かっこよくね!
20181209