付き合っている恋人な二人が痴話喧嘩して、でもラブラブかよと砂吐くだけの、二人のお話で す。
時間軸は室井氏広島赴任時代。遠恋中の二人で。
登場人物は室井さんと青島くん。新城さん。他にも色々出てきますが、大したものじゃないです。










パンプキン・カノン 前編








1.
『君は何も分かってない!』
『分かってないのはあんたの方じゃん!』

些細なことで意見が合わなくなるのはいつものことだ。
長い付き合いとなったが何処か似た者同士で、聞くか聞かないかは別にして、息が合うしウマも合う。あっちの相性も想像通りだった。
だが、基本的資質に於いて二人は真逆なので狙い通りにいかないことも多い。
結果を重視する徹底した実学主義者である室井とは対照的に、青島は夢想家で人情派だ。
どこまでも甘く、どこまでもストレートだ。
それは室井を苛立たせる一方、胸奥の際どいところを、いつもいつもざわめかせる。

『イマサラ一体何がそんなに不満なわけ?そんな遠ッくに籠ってるひとが・・!』
『君の欠点を忠告しているだけだ』

単なる近況報告でまたもやバトルに突入しそうになる流れに、室井は大きな溜息を落とした。
それがまた青島の癇に障ったらしい。

『いっつもそうやって上から目線。あんたは俺の親かっての』
『心配の何が悪い』
『心配?じゃなくて干渉だろ。要は俺を信用してないってハナシじゃんか』
『信用問題にしてほしいなら礼儀を知れ』
『はっ、礼儀。礼儀ですか』

どの口が言うのと、心底呆れたような青島の口調が室井の耳奥に厭な余韻を残して残響した。

『とにかく。この件は一旦持ち帰れ。先に進めさせるな』
『知りませんよ。言ったデショ、最初っから俺の範疇じゃないのっ』
『ほらみろ、だから言っている。現場で引けなくなってもまた同じ言い訳を使うつもりか』
『言い訳、しないかもしれませんねっ』

苛立った声で怒鳴りつけられ、そのまま通話は切断された。
電波の状況などではない。正真正銘、青島が通話を切ったのだ。
はぁ、と、何度目かも忘れた盛大な溜息を落とすと、室井はスマホを手放した。
恐らく今夜は何度掛け直したって、あのへそ曲がりは出やしない。

「なんにも・・・わかっていない」

誰もいない部屋で呟く言葉に応えるものは当然なかった。
室井はベッドに身を横たえ、足を投げ出した。
酷く疲れ切っている気がした。なのに胸の奥のチリチリとした厭な胸騒ぎが血を逸らせる。
分かっていない態度を取っているのは、多分自分の方なのだ。
それでも青島に傷ついて欲しくないと願うのは、身勝手な要求なんだろう。

片腕で目元を覆い、室井はスーツが撚れるのも構わず、そのまま目を閉じた。
広島は、とても遠い地だった。


****

電話はいつもの業務連絡という名の愛の語らいだった。
滅多に合えない距離だからこそ、毎日ではないが暇を見つけては青島は連絡をしてきた。
世の中には「長続きするカップルのベストな電話の頻度」というものがあるらしいが
自分たちには関係がなかった。

くだらないプライドと、砕かれた自尊心の、俗悪な淪落は六年の歳月と言う罪状を室井へと命じ
この遠く離れた地に足止めさせている。
自惚れた自分を晒した過去は、今も室井に青島への負い目を感じさせ
唯一室井の僅かな正義を理解してくれた相棒を手放す勇気もなく、かといって惚れ抜いた相手を傍で護れる甲斐性も持たず
一体男として、相方として、自分に何の価値があるというのか分からなくさせてくる。

それでも青島はそんな素振りも気配も微塵も悟らせず、気軽な声で時をみては機嫌を伺ってきた。
健康や日々の出来事など、その日あったことを話すことさえ億劫だった室井から
巧みに聞き出し、リズム良く笑う。
軽やかな青島の笑い声は、つっけんどんにライバル意識していたあの頃とは明らかに違う、慣れ親しんだ恋人の声だ。
その一回30分にも満たない東京の気配に、そして半年に一度ほどこの部屋を占領する彼を思う存分貫けば啼いてくれる甘い声に
どれだけ室井が救われてきたかは、それこそ口では語れるような平易なものではなかった。

そんな青島から、昇進して係長になったと聞いたのは先月のことだった。
頼もしくも嬉しくも思うと同時に、煽られる競争心に、室井もまた身の引き締まる気負いを感じていた矢先
時待たずして、今度は見合いの席を薦められたと聞かされた。

“どうしていきなりそんな話になるんだ”
“ん~、なーんか、頼りないからとか、拍が付くからとか。昇進させるからには身を固めろって意味みたい。・・です”
“受けたのか”
“受けるも何も、勝手に席決められちゃいましたよ”
“君はそれがどんな意味か本当に分かっているのか・・!”
“分かってますよぅ。でもちょっと面白そうだし。一回くらいはいいかなって。何事も経験?”
“今すぐ断りの電話を入れろ”
“なんでだよ?いいじゃん。どうせ破談に終わるんだろうし、オイシイ飯でも食って楽しんできますよ”
“見合いはそんな簡単なものじゃないんだ!”
“そりゃ室井さんは何度もやっているから状況分かってるとは思いますけどぉ、”
“そういうことじゃない・・!”


何度もリプレイした記憶に、またもや滅入りながら、室井は重たい瞼を持ち上げた。
広島の夜は閑寂だ。
耳鳴りがしそうな秋の夜長と、古ぼけた電灯に一匹のカナブンが飛ぶ。
秋田の故郷と同じ、光さえ吸い込む闇に覆われ、この地は日没と共に息苦しいほどの黒の世界を作り出す。
都会とは違い、思考を遮るものは存在しない。


“なんでそこまでウルサク言うの?”
“嫌がっているわけではなくて、君には無理だと言っているんだ”
“無理ってなんだよ?!見合いに向き不向きでもあるって言いたいわけ?それともノンキャリの分際でとか言いだすつもりですか”

全く違う。
最早どこから説明したいのかも分からなくなり、その意味では青島の剣幕に押された室井は、恋人の名前を口にするのが精一杯だった。
どうすればこの危機感を青島に伝えられるのか、室井には分からなかった。
その時の電話はそれで打ち止めとなり、その後何度か電話を繰り返し、同じ話題で揉めた。

“君には向かない。やめておいた方が賢明だ”
“なんで?”
“君が思っているより――”
“・・・嫉妬?”
“今更そんな少女趣味な理由で済むのなら事は簡単だ”
“じゃ、何。まさか俺が揺れるかもって?”
“・・美人なのか”

つい見当違いの質問をしてしまっていることに、室井は気付かない。

“・・まあね!羨ましいってこと!”
“違う!・・いいか、見合いというのは当事者だけの問題じゃなくなるんだ”
“お似合いですね~って固められたら、俺もその気になるかもね!オンナ抱けるんだし!”
“抱きたいのか”

またもや見当違いの質問をしてしまい、これが決定打だったような気もする。

“そんーっなに俺って浮気性なんだ?室井さんの中で!”
“見合いは恋愛とは違うんだ”
“だから?・・俺はいつもいつもいつも、あんたの見合いを黙って受け入れてましたよ。文句ひとつも言わずにね!”
“それは――”
“なんだよ、そっちには口を挟ませない、でも、自分は邪魔するんだ?!”

青島の気持ちが誰にあるかなど、痛いほど伝わっていた。
それに感謝していることも、痛いほど感情のひとひらまで独り占めしていることも。
なんとなくこの関係となって久しい年月は、それさえも朧に化す。

“俺のこの六年って、あんたにとって何だったわけ?”
“・・頼んだわけじゃない”

ああ、違う。きっと彼は今、泣きそうな顔をしている。

“東京にいる時からあんた、俺を抱きながら見合いしてさ、そりゃ俺は正式な相手じゃないだろうけど、”
“青島、今はそんな話ではなく君の”
“過去何十回ってあったあんたの見合い、俺がどんな気持ちで見送ってきたか分かってんの・・?”
“・・・・”
“今度こそ捕られるのかもとか、今度こそ終わりかもとか”
“・・・仕方ないだろう”
“だから!全部呑み込んでましたよ、俺わね!”

確かに青島が室井の見合いに対して何か言ってきたことは一度もなかった。
何か言いたげな甘やかな口唇は音を乗せることはなく、ただやんわりと持ち上げられ、そ、と一言添えられた。

“振られるのかなとか、失恋したら忘れられるのかなとか、一人でいっぱい考えて、でもそんなのあんたに言ったって仕方ないし”
“悪かったとは思っている”
“悪かった?・・・まるで浮気した男の言い訳みたいなこと言うんですね。男の情事なんてこんなもの?”


「だったらどうすりゃ良かったんだ・・・」

頭が冴え、身体は疲れているのに寝付けない。
室井は重たい身体をのろのろとベッドから起こした。反動でスマホが落下するが、放置する。
腰掛けた膝に手を当て、項垂れた。

――見合いは、キャリアに於いては政略結婚だ。
家柄が結び付き、支持基盤を確保したり派閥に加入したりする。
ノンキャリに於いてそういう側面は薄いだろうが、警察関係者からの相談である限り、ある程度の利権や腹案は存在していない訳がない。

見合いは成就するのも大変だが、同時に破談にするのも厄介な代物である。
受ける場合ですら、相手の顔を立てたり、仲介人の面子を護ったり
そこから傘下となるバックボーンのメリット・デメリットまで、それこそ連帯保証人のように請け負うことになる。
破談となる場合の波及効果などそれこそ甚大であり、仲介人に断りを入れれば後は始末してくれる一般の見合いとは訳が違う。
狭き階級社会だからこそ根付いた、保守層による旧弊の陋習だった。
一介のノンキャリが口を挟める代物ではなく、細部まで吟味・覚悟が求められ、想像を超えた気苦労が続くのだ。

青島は優しいからきっと断れなくなる。
元々人好きのする愛嬌ある幼顔で、陽気で親しみやすい人柄と、それを裏切る煌めきを持つ瞳に、多くの人間が虜となるのだ。
もし相手が気に入ってしまって、乗り気だった場合は更に事は煩雑となり、強引に事を進めてくる可能性も高く
そうなった場合、板挟みとなった青島が苦しむ結果となる。
それ以上に、青島は断れなくなった場合、簡単に身売り出来る男だ。

見合いを繰り返してきたからこそ、室井は青島にはあんな思いをしてほしくなかった。
そんな理由で身固めをしてほしくもなかった。
ましてやあの愛しい男を誰かに盗られるだなんて。
上手い飯が食えるからなんて稚拙な理由で安易に試していい代物じゃない。
否、相手側が警察関係者でないというのなら、もう少し気楽でいられた。


「今の俺に、何を言えってんだ――」

皺がれた手が、とっくに崩れ額にはり付く硬い前髪を掻き毟る。

こんなにも遠い地で、待たせるしか出来ず、行き先も見えない男に、いっときの勢いで道連れに出来るほど室井の恋情は未熟じゃない。
気持ちが擦れ違った今なら、青島は見合いを前向きに検討してしまう気がした。
元々、行き先も告げずに気紛れに消えてしまいそうな男だった。

攫いに行くには広島は遠すぎた。
今夜は酔わねば寝付けない。












2.
レモンイエローの光が降り注ぐ室内に、モーツァルトのピアノソナタが控えめに花を添える。
秋特有の冷えた風が隙間を抜けて首筋を撫で上げた気がして、青島は少し身を竦めた。
身に余る礼装に縮こまる姿勢は崩さずに、声すら憚るように耳打ちで囁く。

「あの、これは一体なんの真似ですか・・」
「なにって?」

ぼやくような声とは対照的なすっとぼけた返答に肩を落とし、青島は自分を改めて見下ろした。

「いいねいいね、青島くん、似合ってるよ」
「そうそう、警察官なんだから普通だよ」
「うん、これが正装と思っていればいいんじゃない」

好き勝手に言うスリアミの言葉に、青島は苦みを潰した顔になる。

「ってゆーか・・なんでリタイアしたあんたらが来んですか」
「リタイアって失礼だね、可愛い部下の見合いの席なんだから、君ね、光栄に思わなきゃ」
「魚住さんはー?」
「彼?ああ、魚住くんはほら、今の正式な課長だからね、仕事が忙しいの」

だからってなんであんたらなんだ。
言い分は青島にもあったが、もう何を言っても無駄だと思い、力なく薄ら笑う。

見合いの席として設けられたホテルは絢爛豪華な一室だった。
晴海埠頭を一望できる、一応そこそこ名の知れた正統派ホテルである。
所轄といえども、ある程度のグレードを持たせてきているのが分かる。

そしてその最上階に、警服着用を命じられた青島が、スリアミこと神田・秋山・袴田と共に参列し控えていた。
窮屈そうに首元を緩め、青島はネクタイの位置を調節し直す。
この歳でもう一度これを着るなんて、ちょっとしたコスプレのようで気恥しい。
だったらブランドスーツでも用意してくれた方がなんぼかマシだったのだが
苦情を申し立てた青島を待っていたのは、かつてのスリアミが仲介人という、なんとも冗談のような舞台だった。

「要は老人のお守りを押し付けられたってことね」
「君、ツイてるよ!我々は縁談参加回数だけは自慢でしたからね」

秋山が満面の笑みで神田を突けば、神田もしたり顔で頷き返す。

「これでもね、結構な数まとめてきたんだよ青島くん。まさか君まで受け持つとは思わなかったけどねぇ」
「入ってきたひよっこ時代が昨日のことのようですなぁ署長。あ、元署長」

袴田がちょっと懐かしそうに見上げるのを、青島は複雑な思いで半眼になった。
その意味では青島だって久しい年月に哀愁を感じていないわけじゃない。彼らと共にここまで来た道のりを愛おしくないわけもない。
でも。

「そもそも紹介してきたのは真下じゃんか。なぁんであいつ来ないんですかっ」

噛みつけば、横にすり寄る袴田がシィッと人差し指を立て口許に宛がった。

「言葉、言葉!」
「だってっ!この面子でお見合いなんて、絶対、おかしいでしょ・・!なんか企んでるでしょ・・!」
「失敬だね君は。別にね、ウマい飯に誘われてきたわけじゃないんだよ」

耳聡く聞きとがめた神田が目をぎょろりとさせた。
どこか聞き覚えのある言い訳に青島の口が情けなく閉口し、反乱も空中分解してしまう。
腹を出してウシシと笑う神田と秋山両人の前で、呆れた溜息を落とす青島に、袴田が事情を説明してくれた。

「昨日の夜、ほら、大きな事件、あったでしょ管内で。アレ」
「痴情の縺れの果てに」
「言い方。――しかも今週末はハロウィンでしょ。分かってるよね?諸々の準備で今人手が足りないの」
「人手の問題なの、俺の一生?」
「特捜立つなんて話になったらどうするの」
「けど」
「うちだって来年春には引越するんだよ、やることいっぱいあるんだから。引越の本部長!任せるよ!」
「分かってますけどぉ~」

最早状況改善の期待は薄く、青島のぼやきはシャンデリアが爛々と光る天井に向かって頼りなく投げ出された。

所轄が縁談を所望しているという御触書が本店にまで伝わったのは数週間前だった。
それを耳にしたとある中堅キャリアがその話を上に通達し、丁度良い人材がいると紹介が下されたらしい。
本店では連綿と縁談話には事欠かない。
むしろそれが本業であるかのように、日々人脈と派閥が構築されている。
まさかそれが湾岸署だとは思っていなかったようだが、その相手方の同期が、既に隠居となっていた真下の父親ということもあり
息子の顔を立てるべく口添えを加えたことで話は重くなり
その同期の遠縁という女性と設定された今回の縁談は、そこそこ当ても外れることがなく
トントン拍子に話は進んだ。

秋のお日柄も良い大安吉日のことであった。

「俺だってね!俺の一生に一度の門出なんですよぅ、もっと大事にしてくださいよ・・っ」

神田がポンと青島の肩に手を乗せて目をギョロつかせる。

「ああ、君ね、そんなこと言ってる歳でも状況じゃないでしょ、それにね、結婚って勢いだからね」
「そうそう、結婚って気の迷いですからね、署長。あ、元署長」
「いちいち言い直さなくていいんだよ」

泣きついた青島の言葉はいつものようにスリアミの漫談に煙に巻かれていく。

こんな調子で、室井の場合も周りが好き放題騒ぎ、厚顔無恥な上層部に囲まれ、テンションに温度差を感じながらあの何もかも背負った気難しい顔で参列してい たんだろう か。
いつも周りに全てを委ね、流れを黙々と推し量り、無駄口は一切口にしない男だった。
青島から見ればそれは、もどかしさを感じる一方、戦いを放棄しているようにさえ見受けられる。
必要なことすら、口にしない。
結果が全てである主義主張は、営業畑で人と交わることで何かを生み出すことに意味を持たせた青島の世界観とは、根底から違った。
いわば室井は研究職堅気の男だった。

こんな堅苦しい制服を着せられて、分厚い教科書のようなルールに縛られて、あのひとは一体そこで何を感じていたんだろう。

身の丈に合わない高級ブランドスーツを着せられても、青島には同じことだったかもしれない。
口の中に苦いものを感じ、青島は密かにちょっと眉を顰める。
悩ましい顔に添うように、腰回りまでラインに沿ってぴっちりと誂えてある制服は、その豊かな肉感を惜しげもなく描く一方、動きやすさも兼ね備え
青島のすらりとした長身を美しく仕上げていた。
見映えが良い水準は、確かにこちらも黙っていればハイランク・クラスだ。

「君だってほら、出世、したいでしょお?キャリアにパイプ作んのも、悪くないよ」
「・・・いりませんよ」

本店キャリアとの連携を、今もって疎ましいとは本気で思ってはいない。
そう思わせてくれた男は、今は遠い。

室井は、ベッドの中でも多くを語らない男だった。
強かに熱い楔で青島を揺さぶりながらも、隅々まで知り尽くした繊細な指先だけが洞察力の高さを示し
怜悧な眼差しに、心の奥まで射抜かれた。

そんな男を、軽視していたわけじゃない。
むしろ、語るべくして語られる言葉の重さに魅せられ、跪いても倒れない強く熱い信念に、畏敬の念を抱いた。
支えたいとか護りたいだなんて、傲慢なことは思わない。
理解者でありたかったわけでもない。
時折見上げるように俺の存在を確かめるあのひとの、生き様のすべてを隣で見ることを赦されるような
そんな、必要とされる相棒になりたかった。

――そう、きっと、必要なのは、きっと俺の方だ。


豪華な絨毯に射し込む光が天上からの斜光に変化する。
束の間の太陽の和らぎに安息を覚える間もなく、秋は日が短い。
長い闇が覆う変化の季節は、束の間だからこそ貴重に思えるあのひとに似ていて
青島は不意にまた、隙間風を感じた。
冷たい風の気配と匂いがこの空調まで完備された部屋に於いてやけに、強い。

秋は冷たく擦れ違ったあの季節だからだろうか。いつも少し古傷を疼かせる。
冷たい静謐の中に孤独を潜ませ、失ってはいけないものを得てしまったような憐みを抱かせ、言葉を失わせた。
まだ明けぬ夜の闇が恒久に続いていたことに気付かせるのだ。

何を惜しむわけでもなかった。
奪われるのなら本望で、与えられるものがあるというのなら教えて欲しかった。
室井の弱さや脆さを見ようとはしなかった。否、意識する必要はなかった、これまでは。
燻ったまま埋もれて終わる男じゃない。天高く高雅に、はためく。
青島にとって室井は、そういう男だった。

「ああそうそう、青島くん。君ね、担当管内で人脈を駆使し、じっくり捜査していくタイプの敏腕刑事ってことになっているから。その線で」
「~~ちょっとッ!」
「そう言って売り込んだんだよ、ちゃんと演技してね」
「待ってくださいよ!シナリオあるならちゃんと――」

センチメンタルな思考は、袴田の爆弾発言にあっさりと霧散した。
無茶振りされ、青島の顔が情けなく歪んで泣きに入る。
振り返った袴田の言葉とキランと光る眼差しに押され、それは青島の心の隙間に鋭利に入り込む。

「大丈夫。君、そーゆーの得意でしょ」

そうでもないよ。
先制され、大きく口を開けた青島が、声も出せずに固まった。
精気を削がれ、まだ振り回す気である元気な老人たちに、言おうとしていた苦情もどこかへ飛んだ。

「ぁ、あのですねぇ・・っ!・・・、」

――その時、奥の重厚な扉がノックされる。
はいはいと気楽に返事を返す神田の声に、青島も拳を握ったまま振り向いた。

「失礼いたします。ご到着されました」

儀礼的な黒の礼服を来た無表情の男にエスコートされ、真珠色の和装の女性が続いて見えた。
扉が閉まると同時に結った髪がそよぐ。
一目見て、素直に綺麗だと思った。












3.
「で?どうしたんだ」
「どうしたもこうしたも。・・・ちゃんと任務はこなしましたよ」

両手を広げ、お道化た仕草で青島が肩を竦ませた。
愛嬌を残すその顔に幾ばくかの不満が紛れているのを見て取り、新城は内心ほくそ笑む。

「不本意な命令か」
「俺は和久さんじゃないっての。そんな美辞麗句、逆に嘘くさくって。ぜってー笑われてましたよ内心!」
「いいじゃないか、目指すところなんだろ」
「公開羞恥プレイが?」

和久という昭和時代を象るような古風な刑事が湾岸署にいたことは、新城も知っている。
何度か顔を合わせもしたが、個人的に話す機会はほとんどなかった。
だが風の便りで聞くところは、今も忘れ得ぬ。
警察官だけでなく市民からも多大な敬恭をされ、偉ぶらず、名誉を求めず、兵隊で終わった。
加え、吉田元副総監と懇意であることは、当時を知る本庁の一部の人間には受け継がれる処世訓だ。
青島の最初の指導者であり、この破天荒の根幹を築いた逸材でもある。

「和久さんにはね、敵いませんよ」
「ふん・・、昇進したと聞いて、貴様のことだ、天狗にでもなっているのかと思ったが、意外に動揺はしていないようだな。刑事らしくなったじゃないか」
「・・・、・・・誉め言葉?」

一瞬惚けた顔が、次の瞬間こてんと小首を傾げて見せる。
新城はその顔を泥臭く見納め、冷めた目を作った。

瞳は小悪魔的に新城を巻き込み、揶揄したような色を湛えつつ、今尚失っていないわんぱくぶりを覗かせる。
出会った頃見知ったあのままの色を残す男に、流動化する社会で変わらずにあれることへの強さと賛辞を同時に抱かせ
心外なまま、億尾にも出さないが割と信頼をおいてしまっていることを新城に気付かせた。
同時に青島もまた、風来坊なところがありながらも、他キャリア連中とは一線を画す喜色を新城には手向けてくる。
恐らく、彼もまた絶対口にはしないだろうが、一定の評価と信頼は抱いている筈だ。

褒めて褒めてと無防備に強請るだけの今の若い部下たちとは違い、僅かな隙を見せれば逆に喉仏に噛みつかれそうな敬遠傾向と
そのくせ幼さを残す危うさが、彼の魅力であり、意識させるのだろうと新城は分析する。

未だ、こちらの答えを無邪気に待つ男に、虐めてやりたい衝動が勝った。
不敵に笑みで流すと、新城は高架下の人垣を視線を投げた。

「賛辞が欲しければ私の部下に入れ」
「その気もない癖に」
「ふん」

やはり一筋縄ではいかないが、勘が良く洞察力も高い。
人懐こいくせに誰にでも尻を振らない公平に、苛立ちこそ最高のエッセンスだとこちらに植え付けるのが青島の得意分野だ。
従順ではない、こんなところが室井も扇情されるのかもしれない。
妙に満足した気持ちになり、新城は両手をスーツのポケットに突っ込んだまま、顎をしゃくった。
王者の如く俯瞰する視線の先には、群衆が祭りを今か今かと待ちわびる。

青島の視線が瞬時にそれに准え、同じく階下をそぞろに見下ろした。

「すっげ人。よくぶつかんないな~」
「あと一時間もすれば更に悪化する。三日後は戦場だ」

ここは原宿表参道の中心地であり、渋谷のスクランブル交差点に続くウォールストリートだ。
今日からハロウィンの祭事イベントが各店で開催され、100万人近い来場者が予想されている。
そもそも渋谷の一日の利用客数は一日50万人超とも言われているから、そう不思議な数字ではない。

「最近日本でもハロウィンって騒がれてますよね~」
「その起源も史実も知らぬ底辺層が」
「うっわ、上から目線」

うへぇと肩を竦める青島に、新城は一瞥しただけで黙殺した。

「お前も混ざりたいクチか」
「楽しまなくてどうすんのって聞き返したいですね」
「室井さんと?」
「――!」

予想外の攻撃だったらしい。
青島の軽口が止まる。新城には妙に清々しい気分が芽生えた。
だが、あからさまに否定するでもなく戸惑いを悟らせてくる辺り、青島の新城への特別意識が感じ取れた。
新城はそれに乗っかってやることにする。

「室井さんと喧嘩したそうだな」

すると青島はあからさまに嫌そうな顔をしてみせた。

「ヤなこと聞く~。それどこ情報?」
「本人情報だ」
「白々しい」
「室井さんに喧嘩売れるなんて、見直した」
「まさか。あのひととケンカなんて、恐れ多くてできませんよ」

まだ信じ切れてもいないのだろう、青島が話を反らすかのように伸びをして背を向けた。
長い足先で欄干を弄ぶ。
警戒心の強さは室井への懸念に他ならない。
よく躾けられているのか、或いは、それほどまでに愛に溺れたいのか。

「喧嘩の原因は?」
「ケンカ前提なの」
「昨日電話をした」
「・・・連絡取ってんですか」
「お前もだろう?」
「・・・・」
「そもそも広島に送り込んだのは私だ」
「・・・でしたね」

急に歯切れの悪くなった青島は、毛を逆立てている猫のようだった。
秋の陽射しを受けるミリタリーコートが、昔と同じ時を告げる。
思わず新城の口端に滲んだ緩みを見逃さず、伺う青島の眉がへの字に曲がる。
何?と訝しんでいることが伝わった。

「そう警戒するな。こっちは貴様らのくだらん仲に興味などない」
「室井さんに何言われたか知りませんけど、俺は」
「興味はないと言った。二人揃ってかつて上層部を引っ掻き回したことだけが忌々しい事実だ」
「・・はは」
「その後その二人がどうなろうと私の知ったところではない。無論、噂好き連中の恰好の餌食になっていることも今に始まったことではない」
「新城さん、おもしろい」

新城の口ぶりに嫌味以外の何かが紛れていないことを感じ取った青島が、ささやかな警戒心を解いて柔らかく笑んだ。

「出身派閥の色目は引退まで付きまとうこちらの悪夢だ。その上、冗談も聞かない男だ」
「わっかるな~。かったいっていうか、じじぃっていうかね」
「そんなつまらん男と良く長年歩調を合わす気になる」
「あれでも可愛いとこ、あんですよ~」

新城が流し目をさっと送る。
仕掛けた誘導尋問に乗ったつもりはないだろうが、そう言う青島の顔は柔らかく緩んでいて、無意識にその内面に隠す感情の欠片を滲ませていた。
こんな顔もするのかと思う一方、恐らくそれ以外の顔をさせるのも一人だけなのだろう。

「プライベートも窮屈そうな男だった」
「冷蔵庫の中までロジカル、とか?」
「風呂は右足からだ」
「ははっ、腐ったチーズなんか見たこともないかんじ」
「女を連れ込むには牛舎の方が向いている」
「初体験が馬小屋ってやつ?ひっでぇの」
「仲間を蹴落とせるかどうかがこの世界の采配だ」
「評価、してるんでしょ」

しばらくじっと見ていると、その視線に気付いた青島が表情を変える。
気付かれたことを察し、しまったというような顔をしてみせた。
その初心な反応が可笑しくて、新城は敢えて気付かぬふりを装い、また前方に視線を戻す。

「喧嘩の原因はこの間の縁談か」
「どうして?」
「引き止められたか」
「・・・ノンキャリには向かないお遊びのようですよ」
「お前を捕られたくないだけだろ」

まだ少し警戒を残す青島の視線が一度新城に向けられるが、同じく眼下に視線を投げられ、新城は動かぬことで誠意を伝えた。
青島が欄干に登って肘を付く。

「どうだかね」
「あの人のお前への執着を分かっていない訳ではあるまい」
「いずれ飽きるでしょ」
「見くびっていると痛い目をみるぞ」
「じゃ、そう言やぁいいじゃん、素直に」
「そこを言いだせないのが、室井さんなんだろ」
「めんっどくさい人だよな」
「あの人の度が過ぎた不器用さと情に囚われたのが運の尽きだ」

組んだ腕に額を宛がい、その奥から青島が煌びやかな視線を送ってくる。
秋の冷えた風に当てられた前髪が数本束になって、その隙間から覗く年下らしい笑みに、新城は青島の素顔とムジナを見た。
無言のまま、二人の視線が交錯し、そうして同時に笑みを残す。

「俺よくグレないなぁ・・・」
「負け犬の遠吠えか」
「うっさいよ」

むくれて頬杖のままそっぽを向く青島のてっぺんで、冷えた秋風に細髪がそよいで揺れる。
色付いた枯葉がどこからか舞って、透明な空へと消えた。

何もかも呑み込んで、それでも手を取り合うことを決意した二人の行き先に、新城は苦言を述べたいと思ったことはなかった。
確かに幼く未熟な勢いのみで燃え上がった熱情を、どこか履き違えた過ちのように嘲謔していたのも事実だ。
しかしあれからもう五年以上が経過する。
時離れても硬く結ばれたままの絆は、それだけで真実の条件を満たしていると思えた。

そしてまた、秋が来る。

「本気で――室井さんが難癖付けてきたとは思っていないんだろ」
「・・・きっとね、俺の気付かない苦労とか痛みとか、あると思うんですよ。でもそれは、そこまでは、俺のものじゃない」
「貴方の苦しみまで分けてってか」
「言ってくれなきゃ、何もないのと一緒なんだって思いました」
「引き留められて、何が不満だ」
「かっこいいこと言ったってさ、行動が伴わなきゃやっぱり嘘と同じですよ。別の人間なんだもん、分からなくなる時がある」
「この歳になって、何もかもを分かち合ってとまではいかないだろう」
「そおいう男気、判ってやれてたつもりだったんですけどね。でも」

そこでまた、青島の口が止まる。
視線は眼下を見ているようで、何も映してはいなそうだった。
少し寂し気な色に染まったそれを、長く見つめることは危険だと告げる本能に従い、新城は先を促す。

「でも、なんだ」
「俺はもしかしたら大きな勘違いをしているだけなんじゃないかって、気付いちゃった」
「勘違い?」
「あのひとの気持ちが俺にあって、俺も同じ気持ちでいられているっていう、壮大なカンチガイ」

衝動、と言えば確かにそうなのだろう。
恋を認めたつもりはなくても、曖昧な境界線を放棄するように、青島が狡さを忍ばせ語りだす。
飄々とした彼にしては珍しい誤算で、――誤算であるならば、それは一体どんな気の迷いだったのか
問い質す隙まで浮かばせた危ういまま、青島は破裂しそうな衝動を押し殺せず、新城に全権を委ねていた。

「どこで間違えちゃったのかな。最初からだったのかなぁ」
「気付きたくないのなら、近づきすぎるな。・・・隠しておきたいことまで、バレる」

理不尽さに膝を折らぬ強さは、今はそこにない。
変わらぬ印象的な瞳だけが秋の陽射しに陰るまま、青島が肩を竦めた。

「もぉ手遅れ」
「離れていると、いなくても平気な時間が長すぎてって奴か。遠恋の毒素に殺られるとはお前も普通の人間だったんだな」
「悪かったですね」
「くだらん」
「新城さん、目の前にごちそうあっても喰らい付かないの?オトコの風上にも置けないな~」
「キャリアは孤独な戦いだ。そんな立場に生きる男が腹に入れるということは、双刃ということだ」
「分かってるつもりですよ、だから――」

言い負けても構わないというように、ギラつかない素の青島は、愛くるしい顔立ちがより一層の幼さを思わせる。
知らず噛み締めた奥歯のせいで、零れたその声は僅か、掠れていた。

崩れ落ちる砂の城の中でもがいているように、末路を知っていてそれでも留まる彼を、酷く憐れだと思う一方で
理屈ではなく何かに囚われるほど執着することに、忌々しさも覚える。
それはどこか羨ましさにも似た愛おしさにも通じていて、熱中症のように浮かされたあの時代を蘇らせた。
でも、季節はいつか移り変わる。

「離してやれるタイミングってものが、もしあるのだとしたら、それ、今でしょ」
「室井さんがそれを望むとは思えないがな」
「俺の方も、それが出来るとは思えなくてね」
「なんだ、結局惚気を聞かされただけか」
「げっぷでる?」

するりと、交わされた。
今の今まで全権を委ねているように思えたのに、寸での所でそれは擦り抜けられていた。
目の前では無邪気な笑みを綻ばせ、青島が親し気に覗き込んでくる。
心臓の片隅に冷や水を浴びせられたような鋭利な痛みと共に、掴みどころのない男のくるくると変わる魔性に
新城は憑りつかれているのは、こちらだったことに思い至った。
呆れ、それでも、らしいなと納得してしまう。
全く、忌々しい男だ。

「後悔なんて、してもいないんだろ?」
「できるもんならさせてみろってとこですかね」

ぐぅんと伸びをした青島のスラリと伸びた背筋が気持ちの良い輪郭を見せる。
年月を重ねても、つい放っておけなくさせる、綺麗な男だ。
背も高く、色男な部類で、分かりやすい配慮と情を持つ面持ちは女が放っておかないことは、目に見えて分かった。
色鮮やかな刻印を残しながらも、取り留めのない儚さと脆さで逃げられる。
室井の気苦労もなんとなく察しもつくというものだ。

「ああぁぁ~誰か俺を慰めて包み込んでくれる優しいひと、どっかいないかな~」
「誰でもいいのかお前は」
「いっそ、そうかもしんない~」
「だったら俺とキスでもしてみるか」
「俺は別に男が好きなわけじゃないですよ」
「つまり室井さんが好きだと?」

ハッキリと告げてやったら、青島は嫌そうな顔をした。

「俺たちの仲にキョーミはないんじゃなかったでしたっけ?」
「仲に興味はないだけで、お前にないとは言っていない」
「うっわ、これだからキャリアの口車は」
「その口車に乗せられて、のこのこ六年捧げたわけか」
「ろくねん・・・、だと思います?」
「・・悪かった」

ぷっと吹き出す青島の顔に、少しの気休めでも与えられたかと、新城は嘆息を落とす。
それでもにこやかな作り笑顔を、最早見抜けぬ新城ではない。
強がっているのは、丸分かりだった。
そして多くを語ることで生まれるものは、青島が抱く重荷を新城にまで背負わせてしまう無益な末路だ。
私にまで気遣うか。生意気にも。

冷徹な顔をしながらもその裡に熱いものを秘める室井という男の全ての情熱を、その細身の身体に一心に受ける青島は
多分、絡んで来た運命の糸に、窒息するようなものなのだろう。
良い流れで口実が生まれた。
そのチャンスを、手を延ばせば容易く手に入れられる位置で、持て余している。

「室井さんはお前を道連れにしたくはないだけなんだと思うがな」
「今更でしょ、そぉいうの。それって食い逃げっていうんですよ」
「支払いをすれば済む」
「あ~、金のモンダイ」
「あの武骨な男を振り向かせただけで大したもんだ」
「それ、俺のせいなの?」
「あの人はお前だから乗ったんだ」
「責任の所在を追求するなら同罪でしょ」
「貴様らの仕掛けた戦場にただ一人残されるのは、自分の方にしたいだけだろ」
「だから、ね」
「ん?」
「そろそろ俺、疲れてきちゃった、かも」
「――」
「君が疲れたなら、いつでも逃げていいんだぞって、言われそうで」

俺はそれが怖いと、静かに白状した青島の声は、北風に巻き上げられた途切れ途切れの風に乗って届いた。
他愛ない軽口の中で、それだけが妙に新城の心の襞を抉る。
きっと、それが今の青島の本音の全てを言い表したものなのだということは、その顔を見れば察せられた。

「世の中には知らないでいた方がいいこともある」
「そこ突っ込むか。新城さん、コワイこと言う」
「刑事だからな」
「優しいだけの男って、どうなんでしょうね」
「室井さんの態度を優しいとか誠実だと評価する世間の根本が間違っている」
「テキビシー」
「客観事実を述べただけだ」
「・・・・・・・・・、やさしいですよ、あのひとは」
「何も言わないことが?」
「・・・・」
「付き合わせるだけ付き合わされて、ボロ雑巾のように捨てられる女の常套句だな」

青島の微苦笑が光の加減で大気に透けるように錯覚する。

確かに室井の熱情は、そのくらい圧倒的なまでに成熟していた。
傍から見ても分かるくらいだ。
だが同時に、本人すら持て余す際限の見えない妄執は狭隘で、室井が青島を手放せるとは到底思えなかった。
手放したところで、室井が成功者となれる希望も見えなかったし、それを本人が分かっていないとも思えない。
詰まるところ、どちらも貴方のために、だ。

「相性、良かったんで」
「カラダの?」
「それセクハラ」
「中毒性があるものは皆そうだ。それで泣かされてたら世話がない」
「新城さん、カノジョは?」
「女なんてすぐ裏切る」
「どんな女と付き合ってきたんすか」

小さく笑って、青島が空を仰ぐ。
透明な大気に透け込んで、蒼い造形に染まったそれに、新城は無意識に触れてしまいたい気にさせられた。
伸びやかな姿態は、思わず人の手を延ばさせるだけの魔力に溢れる。

「じゃ、話聞いて慰める?一緒に泣けばよかった?そんな男にして、俺、自分をいつか殺しそうになる・・・」
「煮詰まってンな」
「それでも付き合うって決めた。俺が選んだことだ」
「付き合いたかった、の間違いだろ」
「それは――、そうとも言いますね」

階級を上げ、上げただけの階級権力を身につけ、どれだけ周りを陥れられるかで、己の身分が決まる。
そこに潜む常識的な人情や多感は、むしろ邪悪なもので、だからこそ、その置き処というものを、キャリアは求めるのだ。
それは酒だったり、娯楽だったり、家庭だったりするわけだが、室井の場合、ライバルで相棒で、仕掛けた同志でもある青島に、その役割を重ねて担った。
青島もそれを望んだ。
そこに創造と共鳴があり、強さの代わりに代償もまた大きい。逃げ場がないからだ。
だからこそ相手をより多角的に必要とする。
それは、月日を重ねれば重ねるだけ、切ない程、実感出来ていくのだろう。

「貴様はもっと楽観的な男だと思っていた」
「この歳で楽観的なんてキモチワルイだけっしょ」

煙草を吸ってもいいかと指先で聞かれ、周りに関係者がいないことを確認してから、新城は軽く視線で頷いた。

「相手の女は?」
「それがまたイイ女で!こう、楚々としていて。和服姿ってそそるんですよ~」
「それで?ついに尻尾撒いて逃げ出してみるか」
「待ってるだけって、性に合わなくてね」

背中からの景色じゃなくて、隣で歩幅を合わせて生きたかった。でもそれを室井自身が望んではくれない。自分もその技量に追いつけない。
青島の寂寥感は新城にも痛いほど理解できた。
室井に認められ、支えられる男になりたいと思うのと、傍で力になれることは、天と地ほど意味が違う。
そしてまた、二人が紡いだ約束もそうなることを求めていない。
酔狂にも、室井と青島が願った約束とやらは、所轄と本庁の対等な存在意義であって、階級社会ではない。
むしろ、二度と顔を合わせることすらないことを実現する夢幻空間だ。
それでも室井がこの男を手放すことを本気で由とするかは、新城には今もって疑問だった。

「浮気してみたらいい。丁度良い機会だ」
「うわき。中途半端ってのも、相性悪くて」
「なら全力で行けばいい」
「寝てみろってこと」
「手始めにここでキスでもするか」
「してくれるんですか?オトコに?」
「浮気など俺はさせないがな。それに、俺なら待たせることもしない」
「~~ッ、やっべ、今チョット揺れました」

腑抜けた答えに自分で脱力した青島の二の腕を、新城が力任せに引き寄せる。
うわっと発する叫び声が弾けたと同時に、新城はその頬に口唇を押し当てた。

「ななななにするんですか・・っ」
「口唇にしてほしければ、返答次第だ」
「ふざけ・・ッ」

慌て、憤慨した青島の後頭部に片手を回し、引き寄せると同時に今度は五月蠅い口唇を直接塞ぐ。
青島の背後でモスグリーンのコートが秋空に舞い、北風が枯葉を幾つも掬い上げた。
もう返答もなにも無しだ。
分からせてやりたかったのは、起爆剤を持っている男が出し惜しみしている似合わぬ悔しさだ。

小ぶりな後頭部を押さえ込み、青島の指先で揺れる紫煙が目に染みたせいにして、新城は瞼を半分伏せた。
無音となった世界は、二人きりの世界から無粋なものを排除する。
残像のように脳裏に焼き付いた青島の煌びやかな瞳が、泣きたいほど胸に堕ちていた。
今だけ、ここだけと願う熱だけが確かな印となるのは、僅かでも残る慕情だったのかもしれない。

吸い上げるように煙草の味のする膨らみを堪能して、新城はゆっくりと青島を解放してやる。
甘ったるい余韻をそそのかす吐息の間で、二人の視線が再び相まみえる。
間近で初めてみた青島の虹彩に、新城が映り込む。
濡れた口唇に北風はやけに冷たく通り過ぎた。

「男同士のキスなんて、こんな風に所詮アクシデントのようなものだ。そんなものに、いつまで縋る気だ」

焦点さえ合わない距離で、熱から冷めたような低い声で貫けば、青島の瞳が挑発的な怒りを湛えた。
新城の目が男の色をしてスッと眇められる。

「勝ちたいか。それとも潰されてみるか」
「あんたらの勢力競争に俺を巻き込むなよ」
「そんな簡単に奪われるから、不甲斐ないと思われる」
「っ」
「同じ言葉を返す。貴様らのくだらん色恋騒動などに私を巻き込むな。さっさとケリをつけろ」
「!」

くっそぉ、と悔し紛れの減らず口を零す青島の視線は地面を向き、新城を直視できないでいた。
こんなだから、室井も苦労する。


「――で?何で今日俺が呼ばれたんですかっ」

青島が拳で口元を覆ったまま、むくれた声で聞いてくる。
その頬が少し赤らんでいることに微かに目を眇め、ここへ呼び立てた理由を改めて求める青島に、新城は素っ気なく説明を避けた。

「今日から三日間、ここの警備に参加しろ」
「なんで」
「区の方から要請が来た」

十月の末日はハロウィンだった。
数年前からのディズニーランド・イベントが火付け役とも言われているが
ハロウィンは、いずれクリスマス商戦を凌ぐ経済効果を齎すと指摘され、それは同時に災害や事件・事故件数の増加を意味している。

「ここの所轄は?他にいないの」
「動ける者には全員指令が出ている。内情をばらすと、信頼の於ける部下を一人リーダーとして送り込んでいたんだが別件に引き抜かれた。その補充人員を探し ている」
「まだそんな仕事なの」
「今マスコミを騒がせている収賄疑惑。あれがこの区だ。私も駆り出された身だ」
「どこも人手不足か」
「足並みを乱すことさえしなければ、多少の荒療治は目を瞑ってやる」
「へぇ、アンタも出世しましたね」
「ただし、所轄の抜擢を快く思わない者もいる」
「そこまで根回ししといてくださいね、どうせなら」
「だから――あれを被れ。それが条件だ」

ん?と振り向いた青島が、そのまま絶句し、煙草を吐き出すままに固まった。
そこには誰でも一度は見たことのある、馴染みあるひまわり色の布が陽だまりの中でテカテカと存在を主張していた。

「ちょ、ちょっと待ってください、あれ?あれなの?」
「それとも警視庁の着ぐるみの方が良かったか。本庁の倉庫にあったと思うが」
「ヤですよ!あ、だからってあれもどうかと思うけど!」

慌てふためく青島に、新城は後ろでほくそ笑む。
青島に指定したのは、ハロウィンでは定番の南瓜をくりぬいた行燈、ジャック・オ・ランタンだった。
指で指し示し、青島が憤慨する。

「あんなの被ったら動けない・・!」
「動く必要はない。ただ街を彷徨い、見回っていけ。アレにぴったりだろ」
「まじか・・・」

確かに日本のハロウィンは、大規模な仮想パーティだ。
この格好であれば、警察官だと疑う人間はいないし、他の警備員との差も付けられる。
新城が用意した衣装は、南瓜型の被り物と、同色のシャツ、ベストやズボン、そして闇色のマントだ。

「確保は緊急性を求める場合のみ。あとはここの所轄に花を持たせてやれ」

未だ、項垂れた指先を宙に留め、何やら算段をぶつくさ口にする青島の後頭部を、新城は漫然と目に映す。

「――青島。ジャック・オ・ランタンの歴史を教えてやろうか」
「んぁ?」
「ジャックはな、二度も悪魔を騙し魂を取らないと約束させた。そのせいで死後、生前の素行の悪さから当然天国にも行けず、地獄では魂を取らないと約束した からと突っぱねられ
 どこにも行けなくなったジャックは、ランタンを持って真っ暗なあの世とこの世の境を今も彷徨う羽目になる。――どうだ、お前にぴったりだと思わないか」
「・・・・・」

苦みを潰したような情けない顔で、青島が目で訴える。
それを認め、新城は革靴を鳴らして風を切った。

「ハロウィンは悪魔最大の祝祭だ。思う存分楽しんで来い」




****

陸橋を降りたところで新城のスマホが鳴った。
見れば、偶然にも月一度の定期連絡が習慣となった常連の名が提示されていた。

「まったく、貴方がたの痴話喧嘩に巻き込まれるとは、今日は何て日だ」

秋らしくなった北風がまた一つ、落ち葉を拾い上げた。















4.
ハロウィンの最終日は、当日ということもあって混雑も興奮も最高潮に達していた。
マスコミが挙って中継車を出し、規制線すら張られた向こう側は、真っ赤な夕陽が本日最後の残光を発する。
午後七時から始まるパレードに誰もが関心を向けていた。
その背後から、ひと際派手に罵声が飛ぶ。

「新城!貴様、一体青島に何をした!」
「挨拶も無しにいきなり何を吠えていらっしゃるのですか」

襲いかからん勢いで突然怒鳴られたことに、ニヒルな笑みを返した新城が事務的に振り返った。
遠くから近づく靴音に気付いていたから、無論用意していた生返事である。

「一昨日の電話のことだ!」
「それでわざわざここまで。広島から。遠路遥々ご苦労なことです」
「嫌味はいい」

手元のボードに指示とサインを印し、流れる動作で控える部下に新城は手渡した。
一礼と了承の言葉が走り去れば、後には旋毛風が残される。
コートを靡かせ、新城は改めて姿勢を向けた。

黒のコートに上質のダークスーツを合わせた面白味もない男が、久方ぶりの、相変わらずの深い眉間と渋い顔で、陸橋の上に立つ。
暫し視線を交わし合った。
その顔色に、お互い見抜けぬ物は少ない。

「無事、部長にはお会いになられたようですね」
「――ああ」

抑揚の薄い声で確認を伝えれば、室井もまた小さく首肯した。

「納得されたお顔だ」
「色々と世話になった」
「ならば用事はお済みでしょう」
「青島がどこにいるか教えてくれ」
「口を開けばそればかり。進歩がないですね。もういい加減ご卒業なされたらいかがですか」
「私が決めることだ」
「電話をなさったらいい」
「さっきから掛けているのだが、通じない」

お前になら連絡手段があるだろうという強かな狙いに気付かぬふりをして、新城は敢えて視線を外してみせた。
眼下には最終日を迎えた群衆が、実りの季節宛らに色とりどりに秋の街道を彩り謳う。

「着信拒否されておられるのでは?」
「呼び出し音は鳴っている」
「緊急ならば警察無線で応答させますが」

無論それは了承するつもりのない提案だ。

「――電話で言っていたことだ。青島に何を言った?先に聞きたい」
「少しここで立ち話をした、その程度のことですよ」
「そのくらいのことで、君が私に情報を入れてくるはずがない」

食い下がる室井に変わらぬ粘着気質を見ながらも、新城は両手をスーツのポケットへと押し込める。
容易には流されぬ言葉遊びに、慣れた楽しみと共に湧き出るのは、そう易々と口を割ってやるつもりはない共通の目論見だ。

「挨拶がてらの近況報告に何がご不満ですか。こちらも旧知の仲だ。不思議はない」
「近況とは」
「上げ連ねるほどのことではありませんよ」
「やましいことでも?」

ふん、と鼻を鳴らして新城は風を切った。
胸を反るように両手を腰に収めた威容は横柄なまでの気位の高さを誇り、前を開けた高級ブランドコートがそこに靡き立つ。
最後の西日に頬が紅く染められ、二人の影は灰色のコンクリートに融合した。
日没までのカウントダウンは目前だった。
紫色の大気の中で橙色にライトアップされた街道は、まるで幻想に浮き上がる洪水のようだ。
終電が出るくらいまで、この盛況は熱を保ったまま蔓延する。

業務外であるにも関わらず、移動中、様子見という目算で新城も便乗したのは、別に室井が来ると踏んでいた訳ではなかった。
時折二人の切迫を切り裂くように、新城の胸元から機械的な無線音が各地点の経緯を告げてくる。

「あの電話が、そんなに気になりましたか」
「・・・」
「ここへ足を運ばせるくらいには」
「ついでだ。だが、気にさせるように言っただろう?私を嗾けた、狙いは何だ」

新城が抑揚を乗せずに視線だけ送れば、室井の青白い頬がピクリと痙攣する。
新城は浅く溜息を残し、少し付け足した。

「ここの警備について説明する手間を省きたかった。そのため僅かばかり足止めをした。ほんの数分の立ち話でしたよ」
「他には」
「さあ?」
「隠すということは後ろ暗いことがあるということで、良いのか」
「キャリアの世界では、それが慣例ですよ室井さん」
「――」

先日、室井から掛かってきた電話に、新城は敢えて青島との一件を匂わせた。
別にキューピットになろうとか、同情したわけではなかった。
今更この二人のことで新城がどう騒ごうと、結末は見えている。
合わせ、この二人に係るとろくなことにならないことも、経験済みだ。

ただあの日の行為を、自分の言葉通りアクシデントとして葬ってやれるほど、新城はお人よしにはなれなかった。
遅ればせ、瑞々しい激情に囚われたなんて思いたくはないが、確かに胸の奥にあったのに掴み損ねた熱を、行儀良く手懐けてやるほど無垢じゃない。
説明のつかないことなど、世の中腐るほどある。
あれは、いっそさっさと潰れてしまえという毒すら内蔵した、自分でも不確かな衝動だった。

もしかしたらそれと同じ衝動、情動をもっと前、数年前に貫かれたかもしれない男に、消えない幻想と蜜を見せて欲しかったのかもしれない。
それを悪夢と呼ぶか希望と呼ぶかは、また別問題だ。
答えを求めるように、新城はややトーンを落とした声をやや早口で繋ぐ。

「後ろ暗いだなんて。青島と結託して貴方を破滅させようというミッションでも企てるとでもお思いですか」
「――」
「ふん・・、嗾けて貴方がたを別れさせたとして、私にどういうメリットが?」
「そういうことを憂慮したつもりはない。君のことにも、だ」
「甘いですね相変わらず。そんなだから捕まえ損ねる」
「身の程知らずと言いたいのか」
「例の口喧嘩において、確かに少々のディスカッションをしました。それだけです。そもそもそれを最初に私にリークしたのは、貴方だ」
「――青島の耳に入れて欲しかったわけではない」

肩を竦め、新城は冷めた目で一瞥を送った。
耳に入ることを嫌うなら、室井ほどの男がそもそもそんなことを軽々と口にしない。
仮に、本当に滅入っていて思わず旧知の新城に零してしまったという類ならば、信頼という意味では満悦だが信用という意味では劣る。
お互い長らくキャリアを務めている身だ。
状況打破のために何かしらの呼び水になればと、室井が目算していたことは、明白だった。
自分はそれに乗っかってやったまでだ。

案の定、新城が黙っていると、室井は闇色の視線を向け、新城を捕り込んできた。
瞳で重力を狂わせることも可能なくせに、今は温度も記憶も乗せぬ漆黒が一切の営みを放棄し、ただドライに口唇を開く。

「何か、言っていたか」
「どうして。喧嘩の原因は貴方でしょう?」
「――、」
「特には何も。言ったとしてもバラす義務はありませんよ」
「新城」
「直接、お聞きなったらどうです」
「どうせ、口を割らない」

身体は向けぬまま、新城の鋭い視線が一瞬だけ室井を刺す。
具体的に恋人なのだろうと指摘してみても、室井はただ北風に打たれるだけだった。
賢明に口を閉ざした室井に焦れたわけではないが、新城がもう一つ、口火を切る。

「貴方のことで少々疲れたと」
「青島が自分から喋ったのか?」

そんなことある筈がないという顔で、室井が片眉を上げて見せた。
そういう所が、新城の癪に障る。

「貴方がそんなだから青島が息切れする」
「どういう意味だ」
「支配的な男は嫌われますよ」

これまでの秘めた威勢まで鎮め、室井が瞼を伏せた。
地方に染まり、一つ坂を越えたように新城には見受けらた。だが闇と同化しそうな存在感は、恐怖よりも淡泊さを意識させる。
面長の美麗な顔は、より高貴さを植え付けた。
大きな溜息と共に、室井から憂さを晴らすように吐き出された言葉は、思いの外、低く掠れていた。

「あいつに・・・、支配的になれるくらいなら、こっちだって苦労しない」
「随分と気弱なご発言だ」
「どうせ面白味もない男だ」

そこには激しく同感だったが、新城は敢えて言葉を挟まなかった。
冷えた風に乗り、警察無線が断続的に届けられる。
混乱しているパレードがタイムリミットを待ち侘び、こちらの脆弱な均衡をも揺さぶっていた。

「青島の口を割らせるなんて、貴方には朝飯前でしょうに」
「出来るからと言って、それが正解だとは限らない」

今度は青島の憂患に思いを馳せ、新城は胸うちで落胆した。
肝心なところを暈すのは、キャリアではよくあることだ。
だがそれを密なる関係に於いて、有体に言えば恋人という関係性に於いてやられたら、つまらぬ疑惑を増大させる。
これが有効なのは、長期にわたる堅実な信頼関係が構築されている時のみだ。
つまり室井は青島に対し、有り余る信用と過大な信望という幻想に甘ったれて、自堕落に胡坐を掻いているだけだ。
青島が誰を心に入れているか、良く知っている。
それを独り善がりだと気付いた青島とは対照的に、室井が未だ過去と記憶と虚構に怠けるつもりならば
動き出した現実の速さに、最後の勝者となれるのは、室井じゃない。

だとしたならば、あの日の新城の衝動も罪悪感が目減りする。
優位な気分で新城もまた、黙秘を選んだ。
二人の間で乾いた風が頬を切る。

「本当は俺じゃなくてもいいんだろう。何度もそう思った」

雑踏に漫然とした視線を向け、浮かされたような口ぶりで室井が呟く。

「何度も、何度もだ」
「なら何故手放さないのです」
「・・・離せるか・・・」

ごった返す人波が、眼下で幾重も行き来していた。

意外だった。
電話での愚痴も今も、計算高い雄弁術ではなく、どうやら多少は友人としての協調と酌量を求められているらしい。
新城もまた拍子抜けしたまま、漠たる目を流す。

そもそも、こうやって室井が新城に本音と思しき言葉を吐くこと自体、鵜呑みに出来なかった。
それほどまでに今回の件は室井にとっても“切欠”と成り得るもので、相当参っているということなのか。
それを含めても、こうして室井を吐露させているのは、目の前の新城自身ではなく、青島故なのだ。
忌々しい気分は、一体何に向けられたものなのか、新城自身すら煙に巻く。

“青島が・・・・やさぐれた・・・”
“・・・・・・・・は?”
“大人しい時は素直なやつなんだ。本当に。・・見た目より”
“何を反抗期の息子を持つ親みたいなことを仰っているのです”
“・・・・・反抗期。それだ”
“だから何を仰っているのです”

細い顔を横に向けたまま、室井はまだ眼下に視線を落としてた。
そこに先日の青島の、似ても似つかぬ輪郭を見る。

「貴方がはっきりなさらない理由は、私ですか」
「?」
「六年前、余計なことをしたのかと」
「繋ぎ止めてくれたことは、礼を言う。今となっては、な」

媚びるでもなく、謙遜するでもなく、室井はゆったりと新城の杞憂に報いた。

「当時は不本意だったと?」
「いや――」

ぴっちりと撫で上げた黒髪は一糸乱れず、常に変わらぬ高貴な男の高い香りを纏わせるが
よく見れば、六年の歳月を縁どっていた。
老いた分、人は何を失い、何を得るのだろう。

もし、新城があの時室井を引き留めなかったら、つまりはあの辞表を受理させていたら
警察は大きな痛手を背負うと同時に、あの事件を闇へと葬っただろう。
歳月を経れば誰一人当時を思い返すことのないような、ただの失態事件として、埋もれていったはずだ。
そして、警察という枷を外された室井が、そのまま青島を本当の意味で手に入れられた可能性は、議論の余地がない愚問である。

「借りにしていい」

堂々と負けを認められる男に、新城は少しだけ助け舟を出してやることにする。
こんな風に甘くなってしまったのは、この二人に関わるようになってからだとは分かっている。
やるせない溜息は誰のためのものなのか、良く分からぬまま吐いた新城の息もまた、白く大気に霞んだ。

「青島がらしくもなく従順に大人しくしているのは、貴方の言葉を待っているからだと、気付いていないわけじゃないんでしょう?」
「何を言えってんだ・・失うばかりで、近くにもいない男に」
「ご自身の気持ちに自信がなくなった?」
「馬鹿言え・・・」

室井も准えて両手を差し込み、新城の隣に立つ。
陸橋は、丁度交差点を一望できる立地で、多くの混乱と賑わいが一望できる。
多くのキャラクターに扮した民衆の群れは、まるでここが異次元である錯覚を生み出し、熱を孕み蠢いていた。
対照的に剥き出しのコンクリートで舗装されただけの古い陸橋は、秋の夜と共に足元から冷え込ませる。

「甘い言葉など、幾らでも言ってやれる。でも、何もしてやれない」
「――、かつて堅牢でクーデターを仕掛けた男の言葉とは思えない」
「人聞きの悪い言い方をするな・・」
「ではもう理想郷は諦めるのですか」
「経済学の観点から考慮し、市場主導型を念頭に置くのなら、内閣や関係省庁は積極的に規制緩和を推進する。それと同じだ」
「・・・そんなつまらない話に付き合ってくれるだけで、ありがたいと思いますがね」

まるで不良少年になったかのように、悪ガキのような気配で室井が口の中で微苦笑を噛み殺した。
先程とは違う、羨ましいかと言われたような室井の態度に、それは自分にだけ与えられた特権だと主張する雄の征服欲も感じ取り
新城はありもしないジェラシーを想起する。
険しい顔を浮かべ、煮え切らない灼けた重苦しさに、見せつけられるのはいつもこちらだ。
新城の知る青島は、もっと快活で、もっと自由だった。それを、あんな顔にしやがって。
でも、何も知らない男はそれだけでピエロだ。

「騙せるか?惚れた女一人も救えなかった男だ。繰り返させる気か」

疲れた目元に漂う哀愁は、室井をひどく老成した存在のようにすら見させてくる。
零れた言葉の尻際は、室井の口の中で発することさえ拒み、噛み砕かれた。
軽く伏せた室井の瞼の陰りを払い、ふと新城の口を突いて出た言葉に室井の視線が合わせられる。
新城の眼は一筋も笑っていない。

「この先もまだ、青島に護らせるおつもりですか」
「・・・君がそういう言い方をするとは、意外だな」
「数年前、双子のようだった二人が、どうやったらそんな捩れた関係性になれるのか、そちらの方が私は意外ですよ」
「大人なんだ、いつまでも同じじゃいられない」

室井の態度はあくまで成熟し、正気だった。

「これからどうするおもつもりで?」
「決まっている。やらなきゃいけないことが残されている」
「青島の遺した形見ですか」
「勝手に殺すな。・・・まだ別れていない」

ニヒルに新城が薄暮の中で笑んだ。

「壊すんですか。――我々警察を」
「新制度の導入と実現のためには、古来の慣習を一旦は破壊する必要がある。全ては白紙の状態から内容を拡充すべきだ」

テキスト通りの、実につまらない答えだ。
だが妙にそれは新城を満足させる。
必死に縋る男に渇仰する態様は、今度は自分に重なった。

「目の前にあるご馳走に手を出さないのは男として失格のようですよ」
「君の自論か?」
「いいえ、青島の偏見です」

小さく口端を滲ませ、今度は室井が鼻で息を吸う。
その目尻に深い愛おしさを感じさせ、新城は室井に憐憫の情を抱いた。

僅か三日前の正にこの場所で、室井が今心に描いているに違いない、その想い人の口唇を奪った。
微かに喘いだ吐息の熱を、憶えている。
誰より大事にしているその相手を、知らない人間に攫われ、知らないところで凌辱されて、穢れていく。
歳を取るということは、そういうことで、簡単に“変わっていく”なんて言葉で、純潔に表せない。
そんなことも知らないで、そんな幸せそうに情を抱き締める。

青島も同じだった。行き場を失って、後から後から増えていく情をただ持て余している。
淡い初恋を未だに捨てきれない少年のような二人に、ただ相手を想い合うだけの平たい慈しみを見る。
愛情のおぞましさも冷酷さも知らないわけでもあるまいに、奪い去ることも出来ない愛情は、どこかで、破損する。

くださいなんて、言うまでもない。

「貴方は引き留めるタイミングを間違えた」
「あの気障な男に、駆け引きなんか、通用するか」
「・・・そんなところが可愛くって仕方がないってお顔だ」
「大人しくこちらの告白を待っているような奴じゃないんでな」
「分かっている癖に動かないから青島が焦れる」
「あれは、じゃじゃ馬だから」
「手を焼きますね」
「もう慣れた」

右手の黒鞄を持ち直した室井は、特に有効な情報は出てこないと踏み、そのまま新城に背を向けた。
その背中に、新城の声が追う。

「縁談、前向きに検討するつもりでしたよ」
「・・・そうか」
「追いかけないので?」
「黙って渡してやれるほど、こちらもまだ太っ腹ではない」

新城の口が気位高く持ち上がる。

「目印はジャック・オ・ランタンです。本人は嫌がってましたが」
「恩にきる」

そのまま去ると思っていたが、室井はふと足を止めた。

「それとな、新城」
「はい?」
「あいつに近づくな」
「!」
「こちらは犯罪者になるのも厭わないが、あいつがそれは望まないんでな」

目を剥いて新城は肩越しのその目線に絶句した。
息を凍らせる北風も遠く、まさかの先制に思わず反論すら逃す。

一体いつ気がついたのか。どこで察していたのか。

「二度はない」

不本意にも室井に先手を打たれた新城は、その場に立ち尽くしていた。
そのまま室井は肩越しにその顔を歪め、高慢に去っていく。

室井は勘づいている。
知らないところで愛しい男を辱められたことも、奪われたことも、それがどういう形かまでは分からなくても、新城の気持ちを確実に理解していた。
会話は確かに新城の掌だった。
流れも仕組んだ通りだ。
なのに、室井を誑かすまでにはいかなかった。
ゾクリとさせられた新城の背筋に冷や汗が走る。
そして新城には思わぬところから答えも降ってきた。

――青島に関われば、本気にさせられる。人生も恋もだ。

あの日の衝動の答えを、やはり室井は持っていた。その上で地獄の道を歩むと覚悟した。
望んで堕ちた男は、心底幸せな顔をして、満ち足りる。

自分を見て、幸せそうに噛みしめる男を、一体青島はどんな気持ちで眺めていたのだろう。

背筋を伸ばし早足で陸橋を去っていく室井を目で追い、新城はその背中に更に剛腹が加わった狡猾な男の背中を見る。
何年経っても変わらない。無害な顔をして一筋縄ではいかない男だ。
多くの連中は、特に上層部は、その巧みな策略に、みな騙されている。
室井を育てているのは、この与えられた苦境でも経歴でもなく、出会ってしまった宿命の摂理なのかもしれない。
青島の存在そのものなのだと、妙に納得した。

「言ってくれましたね・・・」

犯罪者になんて、なるつもりもない癖に。
今更後戻りできないことは、室井こそが分かっていることである。
知りたかった蜜の味をたっぷりと堪能した男は、その舌鼓を毒を持って新城にチラつかせた。

背中合わせで、同じものを欲しがって、同じ夢を見た。
限界の中で互いを見つけてきたんだろう。
その共鳴が本物だったとめでたい頭脳が抗議するなら、だったら地獄の果てまで道連れにしてしまえばいいものを。
自身の傷と自尊心に理由を付けて共鳴を拒む室井は、やはり結局自分のことしか見えていない。
それが出来ないと今更正気に返るつもりの室井に、新城からも遠慮するつもりが失せる。

出会った時から、触れてしまった時から、自分もまたその運命の輪の一部なのだ。
壊れそうな感覚の中で踊り続けるような、苛烈な電気が身体に走ったようだった。
刹那な生き様には、甘い毒がある。


あの日の青島を真似て、新城は欄干に足を掛けた。
遠くまで広がるクリーム色の光の渦は、燦々と紫苑の空に反射する。
さんざめく音の洪水が、くだらない現実さえ掻き消した。

手に入れてみせたら、能面男は今度はどんな顔で折り合いをつけるだろう。
勝ち目のないゲームと分かっていても、恋敵になるのは、悪くない。
正々堂々とだなんて蒼いことなども言うつもりはない。

追いかけて、追いかけられて、追い越され。繰り返し苛む運命にも折れず、せめぎ合う闘争心と情熱が溺れるまでに融合し、新城にも数多の喧騒が満ちていた。
繋ぐ頼りない手だけが確かな証で、同じものを同じ場所で見れる運命は、一夜の祭りに近い。
それでもそれは、確かな証だ。
ただそれを、知ってみたかった。
それだけでまた明日を走る勇気になる。
その優しさに気付けるようになるだけで、自分はきっとまたひとつ、何か変われていく。

「嫉妬丸出しの顔しやがって・・」

それでも運命はあの二人を引き寄せたがる。
何故なのだろう。

変わらずにあれる強さと、変わっていく勇気を、忘れた大人がハロウィンの夜に踊り狂う。
太陽が沈んだ道の終点に、ひまわり色の印が中心で波紋を描くのが見えた。

青島に晒させた蕩けるような顔は、新城の心の奥だけに閉じ込めた。
仏の顔も三度までと言う。
今度こそ新城は青島に同情した。










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新城さんはどちらかというと室井さん狙いなイメージが強いひとですが、ここでは青島くん狙い です。