25周年お祝いシリーズ
お祝い記念作品なので室青ベースとかじゃなくてがっつり室すみです。登場人物は室井 さん、すみれさん、青島くん。
何となく20周年記念の続編っぽくしました。でもあっちを読んでなくても大丈夫。
室すみでお初もの。すみれさん視点。









11.カプチーノ・ロマンス
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1.
リッチなエスプレッソに一気にフォーム・ミルクを注ぐことで、一口飲んだときから豊かな泡の中で珈琲の甘味が香り立つ。
カプチーノは、イタリアで好まれているコーヒーの飲み方の1つだ。


*:*:*:*:*


カウチで彼が資料に目を通す。
ダークブラウンのチェック・シャツに、ジーンズ。眼鏡。まるでキャリアを匂わせないくせに、どこか気品を損なわない男は
少し前からすみれの彼氏となった。
こんな姿を見られる日が来るなんて想像もしてなかったあの頃は、恋に臆し、過去に脅え、竦んでいた少女だった。
世界は暗く、冷たく乾いていて、驚かすばかりで優しくもない。
ほんの少しの期待に気付かせてくれたのは、彼と、その相棒ですみれの同僚。

「室井さん、珈琲」
「ああ、言ってくれれば私が淹れた」
「だから今日は一人で淹れてみたかったの。どうかな?」

柔らかい目をして室井がすみれを眼鏡の奥から覗き込む。
ありがとうと小さく付け加え、室井がカップを受け取り、一口啜った。

「美味い」

ふふ、と二人で微笑み合う。
こんな時間が、何より愛おしくて、久しくて、すみれの胸の奥をきゅっとさせた。

「君は?この豆は好みに合うだろうか」
「毎日酸化したコーヒーメーカーの味しか口に入らないの」
「・・・」

すみれは少し迷った後、思い切って室井の脇に腰を下ろしてみた。
少し驚いたような顔を見せた室井も、資料を閉じてすみれに向き合ってくれる。
眉間に皺を寄せて怒ったような顔に混じるぎこちなさは、始まったばかりの恋の初々しさ、そしてほんの僅かの跼蹐だ。
官僚として、キツイことも非道なことも無表情で裁定できる、冷酷な一面も、また、彼だ。
それを受け入れられない時、自分がどうすればいいのか、すみれには未だ分からない。

「眼鏡かけているとこ、初めてみたわ」
「最近買ったんだ」
「そうなの・・」

どうして?とか、どこで?とか。
続けて聞くこともあるだろうに、すみれはその先を次げない。
青島相手ならばポンポン飛び出てくる言葉も、室井の前だと静かに、穏やかに、言葉を選び取らねばならぬ猶予が存在した。
それは緊張であると同時に、人見知りであり、気負いとも言える。
ガサツなあたしがこんなになっちゃうんだから、恋とは全く奇怪なものである。

「なんだ?」
「眼鏡かけると、少し、印象が変わるね」

あんまりすみれが見つめ続けていたせいか、室井が困惑した微苦笑を見せた。
皺になる目尻、寄せられた眉間。
すみれは不思議そうに首を傾げ、別人のようにも見える室井をじっと見つめ返す。
さらりと結びもしないすみれの黒髪が流れた。

沢山の室井を知ることは、すみれにとっては新鮮で、必然で、目まぐるしいものである。
色々な室井を知ってみたい。欲張りで、我侭で、飽き足らない心がわんさかと騒いでる。
そんな風に、数多の気持ちが後から後から溢れ、狂騒するままに始まった恋は、実に手に余る無知で無防備な、危険な香りがして
室井が与えてくれる穏やかで静謐な時間とは、どこか色調の異なるものだった。

「そんなに見ないでくれ。慣れてないんだ」

すみれの指先が無意識に伸ばされた。が、室井の顔の手前、宙で止まった。
室井の目がすみれを真っすぐに映している。

「恩田くん?」

名を呼ばれ、ハッとする。
伸ばした手は室井の手によってやんわりと外され、握り締められた。

やだ。あたし、何しようとした?!

「あ・・、ご、ごめん」

自分から室井の手を振り解こうと、力を入れた。
だがそれは赦されず、引き戻される。
室井の端正な顔が、音もなくスッと近づいた。
息を殺したすみれの前で、薄い口唇は息を止め、伏目がちに室井の動作は縫い留められる。

身体が、動かない。
すみれの瞳が室井を映し、室井の瞳がすみれを映す。至近距離で絡み合う。
漆黒の瞳はすみれの身体の裡まで浸蝕するようにしっとりとねめつけ、やがて、その手が憚られるような動きですみれの肩をそっと摩った。

「今日はもう送っていこう」
「怒った・・?」
「クマが出来ている。もしかして今日のために少し、無理をさせたか?」

頬を赤らめ、すみれは俯いた。
化粧で誤魔化してもバレちゃうって、これだから警察官ってヤだわ。

「会い・・たかったから」

口唇を尖らせ、不貞腐れたようにすみれが言う。
好きって気持ちが溢れちゃってる。蒼くて歯止めを知らない生まれたての恋が、止められなくなってる。
貴方に触れてみたくて、近づいてみたくて。こんなあたし、今まであたしも知らなかった。
青臭い子供みたいだ。

室井の武骨な手が肩口で揺れる今どき珍しい緑色に光る黒髪をさらりと撫ぜ、そのまますみれの小作りな頬を包む。
さり気なく耳朶を掠める小指の動き。
大人の男の仕草にすみれの頬がほんのりと染まる頃、室井の手はすみれを離れ、コートを掴み立ち上がった。

「まだ居ちゃだめ?」

恥を忍んで、なんとかすみれが言葉を絞り出す。
色を持たない室井の漆黒が、しっとりとすみれを認め、ややして、彼から漏れた言葉は。

「駄々っ子め」

やんわりと引き寄せられた頭は室井の腕に包まれた。
そこに男の熱はまるでなく、あやす背中にごつごつした手が腰を抱いて、すみれを立ち上がらせてくれた。

「今日も仕事片手間で、すまない。もう少し君に合わせられるといいんだが」

あ。今、あたし、避けられたんだ。

「心配?」
「当たり前だろう」

確かに室井の週休二日に合わせたくて、今週は予定を調整し直した。途中通報が入って徹夜になった。
でもそんなの、あたしがやりたかったからやっただけだし。そうまでして要は会いたかったわけだし。夜までいるつもりだったし。

「今日はありがとう。来てくれて嬉しく思っている」

ほらこんなとき、もう何を言っていいか分からなくなる。
もしかしたら室井さんも仕事が忙しくて本当に時間切れなのかもしれない。デートに仕事持ち込まれて怒っていいのかも分からない。
謝られたら許すのが大人?警察官の恋の定義ってどれ?室井さんの当たり前って、どこまでが当たり前?

沢山逡巡し、ようやく絞り出せたすみれの言葉はとてもシンプルなものだった。

「・・私もよ」
「無理はしないでほしい。身体には充分気を付けてくれ」

室井が玄関口へと先に向かう。当然付いてくるものと思っている振り返らない背中。
すみれの手は、室井ではなく腕の傷を鷲掴む。

「うん・・わかってる」

暖房が効いている筈の部屋は、それでも寒かった。









2.
医務室のカーテンを開けるとそこには仏頂面がいる。

「青島くーん、具合どう?」
「さいあく」
「ちょっとお腹に入れた方が良いと思って補助食品とスポーツ飲料。差し入れ」
「泣けてくるよ」
「弱ってるのね」
「気が利くねって言ったの」
「まあね、これでも一応子供相手にも仕事してるの」
「・・子供扱いか・・」

青島の開けた胸元から体温計を抜いてみる。38度もあった。
それを目の前に翳してやる。

「げぇ、見るんじゃなかった・・」

枕に突っ伏した青島がくぐもった声で零す背後で
我が物顔で医務室に入ってきた座った真下がニヤニヤと顔を青島に寄せた。

「さっきびっくりしちゃいましたよ」
「貴方も見てたんですか、真下署長」
「そりゃもう、バッチリ!あんなシーン見せられたら」
「あんなシーンって何だよ」
「だから」
「あああああ言わなくていい」

布団を頭から被る青島の隣に、すみれは腰を下ろし、潜り込んだまんまるな背中をぽんぽんする。
今は穴があったら入りたい気分だろう。
すみれの体重でベッドのスプリングがふわりとバウンドした。

管内で傷害事件が発生し、署には特捜が立っていた。
その管理官は別の人物だが、監督指導者として室井も同行している。
かつては捜査の陣頭指揮を任されていたお飾りの椅子は中堅キャリアに譲られ、室井はそれをテーブルの端から
或いは円卓から眺めるまでになった。

「こんなとこいていいんですか、署長」
「部下の見舞いです」

しかし、案の定顔を合わせれば火花の散る二人には、そこは関係ないらしい。
話だけは聞く耳があった青島が、今日は珍しく会議の途中から衝突した。
捜査官ではなく、室井に捜査方針の異論を唱え、その最中、室井に壇上で口負けし、体調不良まで見抜かれ
青島は完全ノックダウンとなって、医務室に立てこもっている。

「青島くんって、学習機能ないよね」
「・・昭和製なんで」
「自己管理くらい自分でして」
「ですよねぇ」

突如、真下のスマホが鳴る。呼び出しだ。

「あ、じゃ僕、先に戻りますね。すみれさんも戻って合流してください」
「どうせ所轄は待機って言うんでしょ。あたしは指示があるまでここで青島くん揶揄ってるわ」

軽く手を上げ、真下が跳ねるように出ていった。媚び入れるのも楽じゃないようだ。
頭まで被った布団から顔だけ出した青島が、べっと舌を出してくる。

「行っちゃった?」
「うん」

途端鎮まり返った部屋で、すみれは青島に背を向けたまま、足をブラブラとさせた。
青島と二人きりになるのは久しぶりでも、やはり馴染んだ空気は違和感なく背中を預けられる。
言葉を吟味することはないし、気を抜ける。
それは敏い青島のお人よし過ぎる気遣いであることを、多くの人は知らない。
そうしてこの八方美人は今や署の人気者になってしまった。

「もぉぉ~まいったなぁ・・・・」
「たまの休息と思ったら?」
「じゃなくて・・・・・室井さん」
「ああ、また迷惑かけちゃったね」
「失敗したぁぁ・・・」

くしゃくしゃと前髪を掻き回すので、青島の顔はより一層幼顔となる。

「別に室井さんにしてみれば、慣れたことじゃない?青島くん尻拭いなんて」
「頼りないこと言わないでよ・・・これでも相棒気分なんだからさ」
「青島くん、身の程知らずって言葉知ってる?」
「ううぅ~」

布団を掴み、毛布の隙間から唸る目は愛嬌に満ち、すみれは小さく笑った。

「今日は珍しく引かなかったのは何で?熱あるから?」
「係長だからっ」

部下を率いる立場であることを、普段の青島はあまり口にしない。
それでも、最後の砦となり、正しいと思う方向を示さなければ、それこそ、あのお飾りの椅子に座るキャリアと同じになるということを
どこかで戒めているのだろう。
すみれには正直に白状する男に、すみれが抱くのもまた降参だ。

「室井さんも・・もっと言い方を選んでくれても良いのになぁって思った」

ぷらぷらと足を揺らすすみれに、青島がちらっと視線を投げる。

「カノジョ目線?」
「所轄目線」
「悪くはないよ。若い時ならともかくさ、今は、まっすぐな人だなぁって・・・思うよ俺は」
「そうなの?」
「んだってさ、そこまで真っすぐでいるってのも体力いると思うわけよ」
「ナルホド」

熱が高く怠いのだろう、青島が重たい吐息を乗せて、腕で目許を隠す。
苦しそうな姿に、すみれはアイスノンを冷凍庫から取り出してやった。

「でも良く室井さん、気付いたわね、青島くんの体調。傍にいるあたしたちだって誰も気付いていなかったのに」
「ううぅ~、それを言うなって」

カーテンが小さく揺れる。
窓から吹き込む風とは違う動きと、微かな人の気配に、青島とすみれが振り向けば、黒い影が姿を見せた。

「青島、どうだ?」
「なにしに来たの。笑いに来たの」
「それだけ言えるなら知恵熱だな」
「つまり、喧嘩売りに来たんですね」

コンと室井が青島の額を小突き、すみれが差し出した椅子に腰かけてくる。
いーだと子供みたいに応酬する青島も、それを厭わない。
二人の他愛ないやりとりに、すみれの頬がむくれた。
この二人は出会ってから変わらない。憎み合っても罵り合っても、激しく裏切っても、遠く離れても、お互いがその手を離さない。
そこには安寧と未来が見える。

「あれ、眼鏡なんてかけるんですね」
「ああ、最近老眼っぽくてな」

ひょい。
ベッドから肩肘を付き身を起こした青島が、室井に手を伸ばし、眼鏡を取り上げる。
余りに簡単に、余りにさりげなくやってみせた青島に、すみれの目は丸く見開かれた。

「こら、青島」

ああああ~~・・・!!青島くんっ、それ、あたしがやりたかったやつ・・・!
すみれの空いた口が塞がらない。
しおしおと、背後ですみれが膝を崩すが、気付いてすらもらえない。

「老眼ってことは、別に今は必要ないでしょ?」
「捜査資料をチェックしてたんだ。そこに真下くんが来たから」

青島が不思議そうにも楽しそうにも室井の眼鏡を翳して眺める。

「返せ、もう」

何でじゃれ合ってる二人をあたしが隅で眺めなきゃならないの。
分かってるけど、なんか、違う。
だが、その次に室井が投下した言葉に、すみれの全身が竦んだ。

「恩田くんに用があるんだ。ここにいると聞いたから」

取り返した眼鏡を胸元に仕舞いつつ、室井がすみれに身体を向けた。

「時間、取れないだろうか」
「そ、そんなついでみたいなこと言って、ほんとは青島くんが心配で来たんでしょ?」
「反抗期の相手をしに来たわけじゃない」
「よく見てるんだね・・」
あたしよりも。

その言葉は辛うじて飲み込んだ。
ベッドでは何か言いたげな目をした青島が室井とすみれを窺う。
反抗期って何だよと応戦しようとしたその口は、すみれの顔を見て、賢明に閉ざされた。

「ごめんなさい・・、多分、あたしももう行かなくちゃならないから」
「そうか」

室井も気まずそうに言葉を濁す。
単なる傷害事件が連続殺傷の様相を呈してきたのは、すみれにとっては幸いだった。
あの夜から、すみれは室井との連絡を取れずにいる。
事件を言い訳にすることは、表面的な辻褄を合わせられた。

「事件が片付いたら、食事でもしよう」

すみれが小さく首肯すると、室井は立ちあがり様、すみれの頭をそっと撫ぜ、寛容的な声で付け加えた。

「元気そうで安心した」

それから青島に、寝てろともう一度言い、室井は医務室を後にする。
その背中を、すみれは目だけでじっと追った。
威厳のある、スッと伸びた高潔な背中は、もう高級官僚だ。

「すーみーれーさ~ん。なんか俺に言うことあるでしょ」
「ねぇ、青島くん・・」
「んん~?」
「好きな人の事考えて泣いた事ってある?」

崩れた前髪で半分隠された青島の瞳は、真意を読み取らせない。
扉を未だ見つめ、とうに消えた背中を探し、ぼんやりと呟くすみれの虚ろな目に、青島は顔を顰めた。
わしゃわしゃと髪を掻き混ぜた後、青島は仕方ないなという顔で体勢を変えた。
身を屈め、ベッド脇に座ったままのすみれの頬を両手で掴み、自分の方に振り向かせる。
いつになく無防備なすみれは、されるままとなった。
普段は道義的な距離を固守しながら、こんな時だけ躊躇いもなく触れてくるなんて、青島くんって、やっぱり反則だわ。

「いじめられたの?」
「しないわよ、青島くんじゃあるまいし」
「順調なんでしょ」
「どうなんだろ。・・・わかんなくなっちゃった」

今の室井とのやり取りでは、敏い青島には簡単すぎる計算問題で、そもそも今更取り繕う気力もなかったすみれは
白のブラウスの胸元をきゅっと握り締めた。
いつの間にか視界が滲んでいて、息が乱れ、みっともなくてすみれは口唇を噛む。

たった、あれだけ。
たった一言、優しい言葉を残しても、室井はあっさりとすみれを断ち切っていく。
澱んでいるのは、あたしだけだと知らしめる。

すみれの赤らんだ眼が、青島を見上げた。
青島はすみれと室井の交際を知っている唯一の人物だ。
室井からも関係の告知は口留めされている。
室井の立場に関わることだからだ。

「青島くん・・」
「うん」
「つらいよ」

誰にも言えない。誰にも理解されない。あたしの人生はそんなのばっかりだ。
震える身体を両手で自分で抱き締めると、すみれは観念した。


***


「ぇ、まったく?」
「そう、まったく」
「キスも?」
「それこそ最初にされたきり」
「うわぁ・・・あのムッツリ」

事の次第をすみれから聞き出した青島は、アイスノンを充てた額に手を翳して天井を向いた。

「じゃあ、すみれさんから誘っちゃえよ」
「やったわ。七時に送り届けられたわ、自宅に」

赤裸々に白状してしまったことで、何処か振り切れてしまったすみれが、明け透けに先日のデートを打ち明ける。

「もっと露骨に」
「そこまではできるわけないでしょう」
「どうして。俺に言うみたいにずけずけ言っちゃえばいいじゃん」
「青島くんには言えるの!でもだめ。室井さんには」
「顰め面だから?」
「ちょっと、真面目に聞いてる?」
「きーてるよ、でも惚気にしか聞こえなくて」
「この話のどこが惚気なの?」

青島に額が付くほど顔を近づけ、すみれが眉を顰めれば、青島も揃って面持ちを険しくした。

「色っぽい話とかしないの?」
「彼、あたしと居る時だって敬語だし、一人称は“私”が多いし、仕事の話もしてくれないし、口を開けば心配ばかり!もう、あんたはあたしの父親か!」

後ろ手に手を付いて青島が爆笑する。

「笑い事じゃないっ」
「そっか、そっか。プライベートでも室井さん、あんなんなんだ」
「正直、青島くんと話しているのを傍で見ている方がよっぽど親し気で憎らしい!」

すかさず、青島の目が悪戯に光った。
長い足を膝で折り曲げ、そこに肘を付き、婉然と意味深な口端を滲ませる。

「ふぅん、俺に妬いてるんだ、すみれさん」
「だったらなによ」
「可愛いなぁと思って。室井さんち、泊まらないの?」
「週末ごとに、呼んでくれたわ」
「いいじゃん。チャンスじゃん」
「色んなものを見るわよ。一緒にごはんを作るの。髭生やした室井さんとか、青島くんのパンツとか。何であたし彼氏の家に行ってまで青島くんの下着畳んでる のかなッ?!」
「あはは~、投げといて~」
「青島くんは泊まったの?」
「とっきどきね。酒入れすぎた時とか。女の気配がないときとか」

だから、何であたしがここでも青島くんに負けてるのって思うわけよ。
目尻を羞恥に染めつつ、すみれが零した溜息は、思った以上に気怠いものとなった。
僅か開いた白いブラウスの華奢な胸元がゆっくりと上下する。

「怖いの」

甘えるのも、弱音を吐くのも、苦手なのに。
室井がそれを許してくれない。

「なんか、婚約が破棄になって道端に崩れて泣いたこと、思い出しちゃった」

室井がすみれに求めているものはなんなのだろう。そもそもあたしはきちんと求められているんだろうか。
後ろを向くすみれと前を向いている室井が重なるわけがない。
あの時は室井はすみれを選んでくれた。
でも、室井の相手としては、同じキャリアの官僚や、それに見劣りしない経歴や家格のある女が、相応しい。

「いい歳した所轄の女がエリートキャリアを摑まえるってどうなのって色々考えちゃって」
「すみれさん」
「傷痕とか、忘れようと思って・・抱かれたら忘れられるかなとか、やっぱり、嫌だよねそんな女。男のひとに背負わせちゃうのも、ほら、あたしも嫌だしさ」
「すみれさんっ」

すみれの目が再び赤らみ、それを見られたくなくて、なけなしの意地を張る。
青島が人差し指ですみれの手をちょんちょんと突き、すみれの意識を向けると、背を向けて自分の肩をぽんっと叩いた。
寄りかかれって言っているのが分かる。
背中預けていいよって言っているのが伝わる。

すみれはくしゃりと泣き顔になって、それから身体の向きを変え、青島の背に寄りかかった。

「あたしの色気が足りないのかな」
「それはないと思うけど」
「押し倒したくなるようなイイ女?」
「室井さんの理性がお化けなだけ」

泣き顔を見ない心遣いも、他人の女を抱き締めない心意気も、今は全てがすみれを泣かしてしまう。

「ほんとは後悔してるんじゃないかなって」
「それもないと思うけど」
「どうして言い切れるの」
「あのひとが一度自分の意思で決めたこと、そう簡単に覆すような男には見えない」
「・・・・・・青島くん、意外とちゃんと見てるのね」
「馬鹿にしてる?」

この恋を、沢山頑張ったつもりだった。
エリートキャリアの伴侶に相応しい女であれるように、室井に誇れる彼女であれるように。
たくさん、呑み込んで理解してきたつもりだった。

「この人だって、思ったんでしょ?」
「・・っ」

ずっと心に秘めてた想いは、すみれの喉を上擦らせた。
微かな嗚咽を洩らすすみれに、青島がその強い瞳で、肩越しにそれは違うよと訴える。

二人でチョコを渡した。
ようやく掴めた筈のこの恋が、どれだけ掛け替えのないものだったか。
だから失くしたくなかったのに。
あの冬が今は酷く遠い。あんなに幸せを感じた恋は、今はこんなにも冷たく朽ちて、淀んで濁ってる。

息遣いが伝わるほどの距離、少し熱のある青島の高めの体温を感じ、青島とすみれはただ見交わした。
湧き上がる衝動が治まるまですみれは青島の目を見つめ、それからゆっくりと瞼を落とした。
柔らかな息と共に、濡れた睫毛からすみれの頬に滴が落ちる。

「じゃあもしかして、変なえっちするひとなのかな?」
「えええ?ふっつーのセックスしそうだけどなぁ。聞いてる限り」
「やだ、何聞いてるの?」
「男の会話ってやつです」

すみれの頬を、滴がまた一つ、伝う。
それは哀しくて、寂しい涙だった。

「いいな・・」

くすりと、無理して笑んだすみれに、青島も心なしかほっと頬を緩めた。
あ~あ。なんか、ほんと、全然青島くんに敵わないじゃない、あたし。
青島くん相手じゃ一生かけても二番目の女って気がしてきた。

「ね、そこで提案なんだけど」
「なぁに?」
「あの仏頂面、崩れるとこ、みたいでしょ」
「生涯崩れない気がしたわ」
「いい方法がある」

青島がすみれの耳に口唇を寄せる。

「エ・ロ・イ・下着」
「!」
「それ着けて、脱いでみな。そこまでは出来るっしょ」
「ででできるわけッ」

すみれが真っ赤になって振り仰ぐ。

「正直こういう展開を待ってましたって言うと思うよ」
「それは青島くん限定ッ」

初心なすみれの反応に苦笑しつつ、青島は諭すようにすみれの手首を掴んでグイっと引き寄せた。
男の力に、すみれが小さく叫んで倒れ込む。

「捕られちゃうぞ!」
「でもだって!」
「分かってる?すみれさん、俺たちの仕事は!いつか消えちゃうかもしれない仕事だ。現場もだけど、矢面に立つ、室井さんも」
「!」
「だったら迷わず誘惑する!これ、確実。これで落ちなきゃ、逆に別れた方が良いよ」
「~~~/////」

目尻を染め、青島を見上げ、すみれは必死に逡巡する。
上手く乗せられている気がしないでもない。でも今他に方法はなくて。

「は、はしたない女だって思われないかな」
「太陽が西から上っても有り得なさそうだけど」
「だって室井さんって地方のしきたりで育った人でしょ」
「一般市民でしょ」

うう~とすみれが小さく唸って、口唇を引き結ぶ。
青島もどうする?って顔で、今度ばかりはすみれに委ね、じっと見つめ返してきた。
その瞳はすみれがよく知っている、昔から変わらない、大好きで温かくて頼りになる、ただ一人のあたしの背中合わせの同僚。
ピリピリとした緊張感が肌を刺した。時間の感覚も薄れていく。
ベッドの上で、黙りこくって、挑んでるんだか意地張ってるんだか、青島とすみれはひたすら負けられない戦いに挑んでいた。

「シャツの間からチラッと見せるだけじゃだめ?」

青島が親指を立てた。












3.
軽くノックの音で、室井は報告書から意識を戻す。
顔を向ければ、室井に宛がわれている本庁執務室の扉がちょっとだけ開いた。
ここでは見慣れない、よく見知った男が顔を出す。

「どうした」
「用事でこっち来たから。ちょっと寄ったんですけど――今、マズイ?」
「大丈夫だ。入れ」

ピエロがお道化るように、青島がひょこひょこっと身軽に室内に入ってくる。
きょろきょろと物珍しそうに部屋を見渡す様子は、まるで子供のように幼く無邪気だ。

「なんで、なまはげがいるの」
「いいだろう別に」
「なんで襲わないんですか」
「・・・言葉を慎め」

唐突に本題に入った男に、室井はいっそ清々しさを覚える。
ここキャリアの世界では誰もが根回し・言い回しに頭を悩まし、回りくどい。

「なにか、聞いたのか」
「言葉のまんまです」

室井はふぅと肩を落とし、眼鏡を外す。
ゆっくりと立ち上がり、窓辺へと向かった。

先日、湾岸署で恋人を訪ねた時、青島も同席していた。
勘の良い青島なら、あの数分で、恐らく室井とすみれの間に横たわる現状に、何か勘付いただろう。

「つまり、そこが原因なんだな?」
「それも気付いてなかったわけ?」
「彼女は・・・私には何も言わない」
「その理由は分かってます?」
「君には話したのか」

陽光を背に、室井が憮然と振り返る。
鋭い眼光は高級官僚のそれであり、漆黒の瞳が薄っすらと光を奪った。

端正で質朴とした室井の風貌は、歳を重ね、より一層の清廉さと気高さを身に付けた。
それは血統や派閥などではなく、室井を鍛えた時間と経験に裏打ちさせる高雅さであり
元来の淡泊さと冷淡さを合わせ、室井は多くの人間をたじろぎ畏怖させるまでになった。
だが、青島はそれでは引かない。
付焼刃の肩書など、はりぼてだと看破する。

「泣いている彼女を抱き締めました」
「泣かせたのかッ」
「あんたがね!」

室井が思わず青島の胸倉を掴む。
負けじと青島も室井のネクタイを引き寄せる。

「勃たないの」

妖しくも嬌艶に、青島が婀娜っぽく瞳を煌めかせた。
ほんのりと漂う色香と臈長けた仕草に、ただそれだけで相手を扇情させられる素材を、まざまざと見せ付ける。
室井はギロリと睨みつけ、青島に鼻先を突き付けることで、苛立つ感情を逆撫でした男に行き場のない憤慨を露わにした。
こんなの、ただの負け惜しみだ。
くそっと吐き捨て、室井が先に青島から手を離した。

「腕を緩めたらすり抜けていってしまいそうで、一度、触れたら・・、止まれるか」
「すみれさんはあんたの立場を慮って遠慮してるわけだけど、あんたはすみれさんの立ち位置って考えたことあります?」
「?」

すんません、と、青島が申し訳なさそうに顔を歪ませ、室井のネクタイから手を離した。
こういうところに、青島の素性を見る。
恐らく今のだって、室井をわざと焚き付けた。

「何故君には話すんだ」
「そりゃやっぱ、人徳じゃない?」
「何故俺には話せない・・っ」

テーブルにドンっと両手を付き、室井は俯いた。
日頃は着映えのする室井の背中が、しおれて愁然となっている。
この歳になって始めた恋は、苦くて甘くて、蕩けそうで溶けなくて、届かない。
室井にしてみれば、歯に衣着せぬ物言いをする女は初めてだった。
遠慮せずに素直な自分でいられると思った。
なのに、現実はまるで違う。

「部屋に呼んだって」
「外では逢えない。それが官僚と付き合うということだ」
「カレシの部屋なんだよ。すみれさん、お洒落してたんじゃないの?そーゆうの、ちゃんと気付いてあげた?」
「――・・、誰もが君みたいになれるわけじゃない」

狂おしそうに室井もまた白状する。

「恰好付けてるくせにと馬鹿にするんだろう?」
「・・・しないよ」

大切なものを護りたくて、でもそれが裏目に出る。いつも、いつだってだ。
青島から薫る海の匂いが不意に強くなって、室井の中で奥深く爛れて、膿んだ。
脳髄の奥で、愛だけを置き去りにしたあの季節がザザンと鳴く。
砂を消して波は何度も打ち寄せる。

室井が黙ったことで訪れた不完全な沈黙が、遠くの騒めきに乗せて室井を懐郷へと捕り込んだ。
海に消えた恋を知っている青島は、ただ柳眉を下げる。

「あんたさ、バレンタインに沖田さんにもチョコ貰ったってほんと?」
「それが?」
「つまりさ、すみれさんからしてみたら、自分よりも立場も分かる、身分もある、そういう相手の方が相応しいって思っちゃうよね」
「俺と付き合っているんじゃなかったのか」

だぁから。
青島が室井の目の前で小さく指を振る。

「分かってないなぁ。まあ、そんなところが室井さんなんでしょうけど」
「まどろっこしい」
「手ぇ出してこない男に、カノジョ面出来ます?」
「・・・」
「室井さんがすみれさんにメロメロ~ってとこ、もっと見せないと、俺だって同情なのかなって思うし」
「・・・傷痕か」

呆然とした室井の脳味噌が一つの言葉を導き出す。
こくんと青島が頷いた。

「気にする方?」
「気にさせたつもりは・・」
「でも、すみれさんは女の子だよ」

青島がこてんと首を傾げ、コートに手を突っ込み、室井を覗き込む。
室井の困惑した顔を認めると、小さく笑み、執務室の漆塗りテーブルに堂々と腰掛けた。
だが今は、その行儀悪さが室井の高慢さを炙り出し、罪の共有を以って慰撫してくる。
だから室井は青島に敵わない。

「貴方の態度が、所轄にいる以上、何の力にもなれない、出世の手助けにもならない、身分違いだって思わせてんですよ」
「だからおまえは嫌なんだ」
「ん?」
「嫉妬してるって言ったんだッ」

はははっと、ようやく声を出して青島が笑った。


***


室井と青島が一人の女を巡り口論しているその頃。
渦中の女は真剣な眼差しでブラジャーを選んでいた。














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