シー
ズン企画
毎年恒例クリスマスストーリー2020のつづき。
スパンコール・ナイト!~後編

3.
擦れ違う切欠なんて、ビー玉の入ったガラス瓶を蹴飛ばすようなものだった。
「次、いつにしますか?」
「・・・都合がついたら連絡する」
身繕いを済ませ、コートに袖を通しながら聞いてくる青島に、ベッドの上から室井は言葉少なに答えた。
その優美な背中をじっと見る。
振り返ったら多分、その眼が語るものに惑わされてしまうのが分かる室井は、やがて目を伏せた。
「また、会うのか」
情事の名残など微塵も感じさせない男の背中に向かって、ベッドから出ることなく室井が問いかけた。
下半身だけ包まれた室井の裸体は朝の清涼な空気に鋼の胸板を惜しげもなく晒す。
「しょっちゅう会ったって仕方ないでしょ」
相手を固定しない言い方に、青島もまた少しの逡巡の後そう答えると、振り返ることなく片手を上げて部屋を後にした。
室井の視線がこちらを向いていることを知っている上での駆け引きだ。
しょっちゅう会ったって仕方ない――それはまるで自分のことも含めて言われたようで、室井は額を抑えつけた。
「躊躇いくらい、見せろ・・・」
独り語り落ちる言葉は誰に届くこともなく、知らず重い溜め息が口を吐いた。
ただ虚しさを増していた。
情事の相手に痕跡を残すことすらしない男は、事後、驚くほどに素っ気なくなる。
ベッドマナーとして、背中に爪痕すら付けることを青島は初めから拒んだ。
その意味は、分かってやれてる筈だった。
連れない仕草と裏腹に逸る躰が必死にシーツを乱す嬌態に、ますますのめり込んでいく室井を、更に振り切るように怺る熱が男を煽る。
堪らずに、室井は青島の躰には不必要なほど華を散らせた。
まるで、見えない誰かに所有権を主張しているようだ。
崩れた黒髪が煩わしく、ぐしゃりと握る。
気だるい身体を引き摺るようにして室井はベッドから起き上がると、情痕の気配だけが残る白じむ部屋を漫然と目を向けた。
先程までの青島の甘ったるい残り香と生々しい精液が室井の胸をきつく締め付けた。
“ァ、あぁ・・っ、・・・は・・っ、あ・・っ”
“感じているのか?”
“・・ッ、かんじ、てるよ・・・っ、あんた、に・・抱かれてんだから・・・っ、”
室井が大きく腰をグラインドすれば、少し高めの掠れた声が、喘ぎを混ぜた荒い息遣いの奥で、夜も深い大気に熱を孕ませる。
晒された喉仏が芸術的で、室井は何度もしゃぶりついた。
“あぁっ・・そこ・・ッ、そこ、もっと弄って、ください・・・”
忘我の態で、淫らに男に向かって両脚を裂けるほど広げ、背中には縋らないくせに、蕩けるような貌を晒し、潤んだ瞳で室井だけを見上げてきて
束の間の愛を囁く。
“む、・・ろぃ、さん・・・っ、ああ・・っ、・・むろい、さん・・っ”
室井の男根がうねる媚肉でぎゅうっと締め付けられた。
どんなに烈しく責め立てても決して痕を残さない男が、嬲る強さに涙目になって悦楽にうち震える。
不規則な室井の腰の動きに合わせて青島が妖艶に腰を振った。
自分を呼ぶ、甘い声音に眩暈がする。
恋のアフターケアじゃなく、この時間ごと、痕跡を室井に与えないことが目的なのかもしれない。
シーツの上で乱れ、愛し気に指先で肌を辿るあんな姿を、他の男にも晒しているのかと思うと、これ以上ないくらい搔き乱された。
大人な余裕で放埓な恋人を待てるだけの余裕なんか、今の室井にはない。
嫉妬なんて、馬鹿げた幻覚だ。
今更、いい歳して、何故自分はこんなにも幼稚で未熟な恋しかできないのだろう。
子供みたいに束縛して、自由を認められず、違いに拗ねて、縛り付けて。
言葉にならない声を聞いて欲しかった。
どんどん遠ざかっていく彼の背中に、届く筈もない悲鳴を叫び続けた。
「どうすればよかったんだ。引き留めて、愛でも囁けば、君は」
熾烈な勇気がいるそれは、自嘲のようにも困惑のようにも室井の口から零れ出て、それは紛れもなく心細さでしかなかった。
辞職を申し出た時も、東京を長く離れた時も、上にくだらない目で見られようと、室井は脅威など全く感じていなかった。
戦うだけの意地があった。青島と同じ信念に生きていると思うだけで、胸は打ち震えていた。
馬鹿みたいに浮かれてただ嬉しくて、どうにもならないほど、大切だと思った。
だから、最後の灯を自らの手で消すことだけはどうしても出来なかった。
青島さえいれば、室井に恐れるものなど、存在しない。
なのに、今、青島はとても遠い。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
それとも、拗れてもいないのか。すれ違ってもいないのか。それすら室井には分からない。
「こんな恋がしたかったわけじゃない・・・」
過去の恋など、室井にとっては爪痕を残した痛みでしかない。
恋とはどういうものだったか、今となってはもう思い出せなかった。
青島との関係は恋などと浮かれた言葉一つで説明なんか付けられないのだ。
どうせ分が悪いのはこちらなのだ。
冷めた男の情事なんて繋ぎ止める意味がない。でも、手放したくない。失いたくない。
相手を思い遣る恋など、どうすればいいのかわからないくせに、貪欲に心がただ一人を求めている。
厳格な父が言っていた。〈ひとつの家族さえ守れない男は、必ず次もだめにする〉
護り切れなかった恋が、腐敗して、悪臭が肺の奥まで侵食してくる。
いっそ恋じゃなくたっていい。もっと近くて、もっと熱くて、もっと痺れるようで、もっと、ギリギリの導火線を持ち合うような、そんな躍動感があった。
恋という枷が、青島に何かしらの制限を与えているのだとしたら、俺たちは間違えたのかもしれない。
青島はこの日の約束を覚えているだろうか。
4.
室井が帝国ホテルの一階ラウンジに到着した時、既に待ち合わせ時刻からは40分が経過していた。
日没が早く、曇天の空模様のせいで空はとうに閉ざされ、シャンパンゴールドの館内が目に眩しい。
師走、忘年会シーズン真っ只中だった。
恋人三大イベントのフィナーレを飾るざわめき、年を締めくくる喧騒と新年を迎える期待に、街が冴えわたる。
格調高い同色の支柱が幾本も並ぶ奥手メインロビーには、金色の花びらをイメージしたシャンデリアに照らされた銀のロビー装花がこの季節だけの特別な空間を演出し
優雅に客を迎えてくれていた。
大きな荷物を抱えた室井に気付き、ドアマンが丁寧なお辞儀をする。
「いらっしゃいませ。お荷物をお持ち致しましょうか」
「待ち合わせです」
「かしこまりました」
優雅に促され、ガラス張りの正面ゲートを潜る。
海外のエグゼクティブが行き交う中を横切り、深いブラウンの丸型クッションが並ぶ一角に近づくと
両手に抱えた手荷物を置き、室井はスマホを取り出した。
時刻を目にし、少し止まる。
凡そ自己満足だと知りながら、室井は念のため左右に視線を走らせた。
何度も通い詰めた思い出の場所に想い人の姿はなく、あの男を室井が見つけられない筈もなく、この場に青島がいないことが分かる。
待っていてくれると思っていた。
待っていて欲しかった。
館内に幽かに薫るフレグランスの馴染んだ匂い。
華やかな赤とゴールドをメインカラーに添えた吹き抜けの空間が開放的なラウンジで、英字新聞を広げる英国紳士が珈琲を楽しんで寛ぐ。
現実なんてこんなものだ。
二人の絆はもっと特別なもので、歪んでしまったとしても、青島だってきっと切れない何かを感じている筈だと、信じていたいだけだ。
スマホをタップし、短縮0番、使い慣れた番号を押す。
室井はポケットに片手を差し込み、ガーデンテラスの方を向いた。
今日のために誂えたスリーピースのスーツが、括れた曲線で室井の格式の高さを見せつける。
冷ややかで単調なコール音はしばらく鳴り続け、やがてそれは、静かに断ち切られた。
デジタル音声が、電波の届かないところに・・・とお決まりの文句を告げてくる。
「くそ・・ッ・・」
室井にしては乱暴にスマホを切る。
やはり青島にはもう会う気はないのだろう。傷つけあうくらいならば、確かに二人の絆を穢さないためにも、適切な距離というものがある。
クッションに重ねた愛用の黒鞄と共に、今日持ち込んだ手荷物をじっと見下ろした。
100本を超える真紅の薔薇の花束。
白いレースとリボンで包んでもらった。
らしくないことをしたのは分かっている。
工藤に背中を押されたのもある。
でもそれだけじゃない。
青島を大切にしたかったから、ちゃんと向き合いたかった。青島が好きだと言ってくれた気持ちに恥じないように、出来ることをしたかった。
それすら、させてもらえない。
立ち尽くす室井は、途方に暮れた気分で天を仰いだ。
いつだったかも、冷たい雨に打たれて絶望を感じた。
あの頃と今は、何も変わっていない。
ガーデンテラスを老夫婦が寄り添うようにして一つの傘を差して歩いている。
外は本当に小雨が降りだしてきたらしい。
東京は、雪にはならない。
この季節、故郷ならば必ず街ごと埋め尽くす深い雪となるが、東京は大気の冷え込みが弱く、降雪にまでは至らない。
その分、芯まで冷やす雨となる。
凍えた大気に吐く息が白く重なり、傘からビーズのような粒が落ちた。
急速に、何かが突き動かされた。目の奥がカッと熱くなった。
今までどんな目にあっても一滴も出なかった雫が、零れ落ちはしないが室井の視界を滲ませた。
感情が胸の空白を埋めようとしていた。
「・・ッ・・」
ただ、会いたかった。
ただそばにいてくれたら、それだけでよかった。
本気の恋をして、独り占めしたい幼い恋を、今なら素直に認められた。
今君はどこにいるんだ。
ようやく、青島はもういないのだと現実を受け入れられた。
手に入らないと泣くよりも、失ってしまうと怯える方が、よほど心が痛むと知った。
もう一度、青島のあの甘い声を聞きたい。
エリートらしい余裕などどこにもなかった。キャリアとしても年上としても余裕があったことなど一度もなかった。
青島が来るはずがないことは、分かっていた。
きっと、終わらせてやった方が、青島が楽になれる。
分かってて、でも、それだけが、どうしてもできない。
幽かなステレオタイプの雑音が、館内を流れる典雅なクラッシックに混じっていた。
それが自分の手元だと気付いたのは数秒後で、室井は意識を戻した。
握り締めたままだった室井のスマホがバイブしている。
ぼんやりと画面を上げてみると、青島の名前が表示されていた。
目を見開き、一度息を呑む。
慌てて、強張った指先を延ばす。
ようやく繋がった回線はホワイトノイズに転じて向こうのクラクションに掻き消された。
『今、君は――』
『室井さん?』
甘い、舌ったらずな青島の声。
あれだけ聞きたかった凛と透きとおるような張りのある声。
室井の息が止まる。
『えと・・・すいません、ちょっと遅れた。あ、だいぶ、です』
電波が悪く、声がかなり途切れがちだ。
雨の音が混じる。
『今から行く、そこから動くな』
『あっ、さっき電話・・っ、電車の中で出れなくって・・』
『いい』
邪魔をするノイズが心の襞まで急き立てる。
切れたら消えてしまうかのように思えて、室井は逆の手でスマホを持ち直し、耳に強く宛がった。
『ちょっとね、じゅんび、手間取っちゃって・・・思ったより時間かかっちゃうんだもん・・』
走っているのか、青島の声は息が切れていて、途切れ途切れに室井の耳をざわめかせる。
『・・・もう、今日は来ないのかと』
『・・ああ・・』
青島も関係の歪さを感じ取っていたのか、肯定も否定もない生返事が聞こえた。
『ちゃんと会って話したい。・・・今の俺たちは、このままじゃいけないと思った』
『今更、』
『今更なのは分かっている』
強く遮ると、電話の向こうで青島が押し黙った。
『分かっているが、チャンスが欲しい』
一点を見つめ、直立して審判を待つ室井の心臓は、早鐘を打っていた。
信号に差し掛かったらしい。随分と急いでいるのだろう、息を整えている様子が伝わる。
しばらく青島も押し黙ったままだったが、やがて、ひとつ息を吸った。
『室井さんさ、今日が何の日か知っててそう言ってるわけ?』
堅く目を閉じ、長すぎる間合いを取ってから、室井は低く答えた。
『ああ、そうだ。だから、今夜こそ君の時間を全部、貰いたい』
また断られるだろうか。
そうしたらどうしたらいいのだろう。
しばらく沈黙が続いた電話口は、やがて、三度目となるやるせない溜息をひとつ、届けた。
『もう、着くから』
長い沈黙はそれこそ、こんな日じゃ別れ話しかないと青島は言いたかったのかもしれない。
いざとなって、怖じ気づいてしまう優しさが、付き合い始めて知った青島の一面である。
室井のために言わなかったのか、それとも、まだ未練を残していてくれているのか。
始まりはこんなふうではなかった。
出会った頃はもっと近く、もっと感じ合えていた。
出会いが違えばきっと、こんな風には分かち合えなかった。
付き合うほどに分からなくなっていく、遠くなる欲望の形に、今はその原型さえ留めない。
いずれにしてもさっさとお断りされなかったことに、室井は少しほっとした。
『迎えに行く。どこだ』
選択権を与えたら青島が逃げてしまう気がして、室井は矢継ぎ早に候補を上げ連ねる。
鞄を取り、花束を抱え、行く先も分からず飛び出そうとして。
だが。
『エントランス、見て』
聞こえてきた甘い声に促され正面ゲートの方を振り返ると、磨かれ抜いたガラスの扉が開き、そこを割り込むように青島が走って入ってくるのが見えた。
その姿に室井は絶句した。
*:*:*:*:*:*
その姿に驚いたのか、待ち人が現れたことに驚いたのか、室井はもうただ目を丸くしてその場から動くことが出来なかった。
降りだした小雨がビーズのように青島のコートを散らす。
人目を引くスタイルの良さと質の高さ、すらりと伸びた四肢、室井が買い与えた少し大人びたシルバーのネクタイが無造作に結ばれ
ブランドスーツもその足の長さを何より美しく象った。
いつものショルダーバッグを肩にかけ、いつものコートなのに、それは多くの人の目を奪う。
注目されているのは、それだけではなかった。
両手に抱えきれないほどの真紅の薔薇の花束が、無造作に抱えられて雨に濡れた光をビーズのように弾いた。
翻すモスグリーンのコートの裾がまるでチュールのように彩りを添える。
雨に濡れて艶めく青島の姿は、正に、水も滴る好い男だった。
時間が止まり、空間がそこだけ切り取られた錯覚を起こさせる。
これは、夢なのか。
想像以上の香気な青島がまっすぐ室井の方へと向かってくる。
高鳴る鼓動に呼吸を乗せて、室井の目は青島に釘付けだった。
嫌味なるほど絵になる男だ。
カツカツという靴音が絨毯の上で途切れた時、青島もまた室井の前に立ち、足を止めた。
「なんて恰好してんですか・・」
「・・・・・・・・・・・人のことが言えるのか」
まだ少し息が荒く、頬を紅潮させた青島は、今まで見た中で一番蠱惑的だった。
濡れた髪の奥から照れ臭そうに、先に文句を言ってくる。
遅刻したとか、傘はどうしたとか、言いたいことはこっちだってあるのに、全部持っていかれた。
これが運命かとか夢だとかもうどうでもいい。
イブに、来ない筈の男がここにいる。
ぽうっとなる視界で、香を纏う空気はいつだって媚薬のように甘くて、痺れるほど愛おしい。
「なに・・・・・それ」
「・・・・君こそ」
黒ずくめの男が真紅の薔薇を抱える。
その隣で、美青年が真紅の薔薇を抱える。
「君のは、その、」
「同じこと考えた?」
しどろもどろとなる室井の顔が、どんどん険しくなり眉間が深くなる。
期待してもいいのだろうか。これは、勘違いしてもいいんだろうか。
時間を押したというのはこのことなのか。
それとも誰かにもらったのか?こんなものを贈る男なんてそれこそ――
困っていると、不機嫌そうだった青島がふるっと髪を振って水滴を散らし、棒立ちのままの室井に首を傾げた。
見つめられ、じんわりと頬が熱くなる。
こんな男に見られて、平気でなんかいられない。
もう何もかもがわからない。
館内の装飾を背負い、光を反射する瞳があまりにあえかで、室井は軽い酩酊感を覚えた。
「じゃあ、一緒に言いましょうか」
青島が小さく笑って軽く膝を曲げ、ふわりと室井を覗き込んだ。
目と目があって、視線が絡み合って、息が止まって、他には何も見えない。
その瞳の中に同じものを見る。
「・・・どうして・・・・おまえ・・・」
思考が追い付かない。
意味が分からない。
青島は室井を見限っていたのではないのか。
恋を後悔していたのではないのか。
「いくよ?・・・せーのっ」
同時に息を吸って。
同時に薔薇を差し出して。
「一緒に暮らそう」「結婚してくださいっ」
「・・・・」
「・・・・」
お互いの目が丸くなった。青島が首をこてんと傾げる。
――最後の最後で、なんか、ズレた。
なんか異なる言葉が聞こえた気がする。
「え、ぇ、今なんて言いました?暮らす?・・ぇ?」
「・・・法律婚は無理だ・・・」
「んなの分かってますよっ、ってか、何ソッコー断ってんすかっ!じゃなくって!薔薇の花束っつったらプロポーズでしょうがっ」
なんだろう。なんだかまた青島を怒らせてしまった気がする。
「だから・・・一緒に暮らしたい・・・・おまえ、新木場引き払ってこい」
「何どさくさに紛れて命令してくれてんですか・・っ」
早口で苦情をまくし立てる青島の顔が赤い。
照れているのだと分かり、釣られるかのように室井の頬も赤くなる。
「んもぉ、笑っちゃうくらいロマンチストのくせになんで大事なとこハズすかなぁぁぁ?!」
もし、青島が今日来てくれたら、もう一度、初めから始めて見ようと思った。
それが赦されるのだとしたら、今度こそ、離さないと誓えた。
「俺を、選んでくれるのか・・」
「最初からあんたを選んだつもりでしたけど」
「そうは見えなかった」
「あんたが勝手に誤解して、勝手に拗ねて、勝手に煮詰まっちゃってるだけでしょーがっ」
訂正すんのもめんどくさいと、青島が小言を雨に零した。
濡れて色濃く見える青島の柔髪がうねり、館内の照明を受けて幾つもビーズを散りばめたような光を放つ。
見慣れているようで見慣れていない姿に、室井はしっとりとした黒目で青島を捉えた。
急速に館内の騒めきが戻ってくる。
ようやく室井に現実が戻ってくる。
あまりにまじまじと室井が見つめ返すので、今度は青島が困ってしまったかのように、赤い口唇を噛んで、俯いてしまった。
「さっき。でんわ。今更、って、なに?」
「今更、仕切り直させてくれるのだろうかと」
「イマサラ、止めたいってイミ?」
視線だけ上目遣いで向けてくる。
無防備な表情、無造作に投げ出された、すんなりと伸びた手足が室井の視界を覆った。
いつの間にかこんなに惚れこまされて、どうしたらいいんだ。
青島はスタイルがいい。システマティックに鍛えた室井とは違い、青島の肢体はどこか品がある。
きちんと鍛えたことなど一度もない躰は、伸びやかで危うい色香を孕み、ヘタな女性より色っぽい。
そのくせ、そこらへんの男よりもずっと見栄えのする資質を持つ。
こんなものが室井のものであるなんて、それこそ夢物語だったんだ。初めから。
「イマサラ、俺たちに話し合わなきゃならないよーなことなんか、なかったでしょ」
もう完全に室井を揶揄っているようにしか聞こえない仕草で、楽しんでいるかのような声で、青島が二ッと笑う。
なんて甘美な誘惑なのだろう。
室井はもう何の迷いもなく、思い当たった言葉を口にした。口にしてみて、それはずっと言いたかった言葉な気もした。
「おまえ、一人で突っ走ったな?」
「ああ、まぁ、そりゃ、そう思われても仕方ないか・・」
二人で捜査本部を抜け出したあの時から、室井の腹は決まっている。
工藤は、青島を救えるのは室井しかいないと言ったが、勿論それは間違ってはいないのだが、むしろそれよりも一緒でありたいのだ。
湾岸署の専属情報屋には当時から嫉妬した。
青島が室井のキャリアを慮ろうとしてくれているのも知っている。
背中合わせで、それぞれの役目を持ち、目的を共有する、俺たちは相棒であり戦友なのだ。
でも、室井が傷ついたのは、青島が一人で抱えようとしているからだ。
それを見抜けず嫉妬に狂った。
感じ合って何も見えなくなったまま、大人の余裕も失った、自分の未熟さが情けない。
室井は黙ったまま、ぶっきらぼうに真紅の薔薇の花束を差し出した。
まだ悲しみに浸りたくない。
青島に赦されるのであれば、室井はどこまでも走り続けられた。今も昔も。
夢から覚めて、未知なる世界に引き摺り込まれても、もう振り返らない。
眩しすぎる君の、差し出されたこの手を握れるのなら、求めるままに、悪ふざけの、その先へ。
戻れないと知っている。堕ちていくだけだと分かってる。
高級ブランドスーツに身を包んだ男が差し出すゴージャスな真紅の薔薇は、それだけで荘厳な責務と厳格な覚悟に満ちている。
ほんのり色香をただよわせて、青島が瞳を揺らした。
拳で赤くなった頬を隠す。
「俺の気持ちなんかムシしていいって、言ってんのに。自分でも持て余してんのに」
「電話ひとつ寄越さない君が?」
「・・・声聞けば、きっと抑えが効かなくなる」
手に入れたのに、不安は消えない。
近づけば近づくほど、欲深になって、自分が分からなくなる。
切ない恋でいい。駆け引きなんて出来なくていい。ただ青島が傍にいてくれればそれでいい。
「死ぬまで俺といてくれ。・・・君をずっと幸せにする」
父はその昔、言った。〈ひとつの家族さえ守れない男は、必ず次もだめにする〉
だがこうも言った。〈運命の相手が配偶者とは限らない〉
今度こそ恋を貫かせてほしい。
「格好良いな、くそ・・」
いつもなら憎まれ口のひとつも零す青島が何も言えなくなって、視線を彷徨わせた。
コテンと首を傾げて、そっぽを向いて、青島もぶっきらぼうに花束を差し出す。
これが青島の答えなのか。
室井のより一回り小さい。それは、きっと、恐らく。
「引き分けにしてくれます?」
少し震えたその声は、ようやく言葉に出せた室井の重みとシンクロした。
何年も前、当時の彼とは馬鹿みたいに小さな喧嘩を繰り広げていた。昔のことだ。なのに、鮮やかで、酸っぱくて、刺激が強い。
胸の奥がじゃりっとした毎日は、今となっては砂糖をかけたみたいに甘ったるい。
「いいや、俺の勝ちだ。ほら」
室井は片手を胸ポケットに忍ばせ、クリスマスジュエリーのラッピングをされた小さな四角い箱を手の平に乗せてみせた。
青島が目をぱちくりとさせる。
「・・・さ、さいず・・・」
「惚れた相手のサイズも知らない男に見えるか」
もし、もう一度青島が自分を選んでくれたら、もう二度と手放せそうにない。
「んなっ・・、お、お、俺だってですねっ、ほ、ほらっ、クリスマスディナーの予約券!」
「そんな抽選でもらったもので」
「一緒に行きたかったのに・・・」
「・・・・・行かないとは言っていない」
しゅんとなって、パッと花が咲く。
太陽みたいに眩しい。
青島は室井にどこか潔癖な理想を見る。
これ以上キャリアの闇に巻き込むわけにはいかない室井は一人で抱え込む。
どちらもお互いの負の部分を抱え込もうとする似た者同士の擦れ違いは、恋のギャップとなって、交じり合い
暗闇の中を手探りで落とし物を捜すように、頼りない心許なさに怯えながら、ただひとつの熱を掻き抱く。
常に付き纏う実態の無い悪夢と共に、葛藤も罪悪も中央で鬩ぎ合うのだ、これからも。
青島が薔薇を受け取ってくれたので、室井も青島からの花束を取り上げ、交換した。
「っわ、おっも!」
「重さ約2.4kgだそうだ」
「何本?でっか・・・」
「108本」
「108?!煩悩の数?」
「・・ばか、煩悩贈るならこんな方法取るか。まどろっこしい」
「なに?」
「調べてみればいい」
手元の花束を見下ろす。
雨に濡れたそれはキラキラと輝いて、恐らく室井の歳の数だけ束ねてくれた。
ライム色のベルベットのリボンが青島らしい清涼な愛を伝えてくる。
室井の選んだ花種とは違って中程度のダマスク香は一生忘れられない香りとなるだろう。
「口唇、塞いでいいよな?」
むくれた顔のまま室井のネクタイを掴むと、青島の方から、少々乱暴に目の前の恋人の口唇を塞いだ。
優美に傾く首筋の妖しさに、室井の肌がざわっと、そそけ立つ。
至近距離で危険な香りで光る瞳を魅入りながら、室井は青島の頬に片手を添えて、熱に掠れた声で告げた。
「上に部屋を取ってある」
窓際とはいえ、真紅の花束なんか抱えた男二人は、人目を集める。
こっくりした色の瞳が、苦しいほど愛おしいものを見るように室井を見つめていた。
「チェックインを」
「・・はい」
5.
華やかだったエントランスフロアとは異なり、7階から上の客室フロアはオルゴールが控えめに流れる深閑エリアとなる。
触り心地の違う絨毯と、クラシックモダンをコンセプトにデザインされた高級感ある装飾が、世界をもてなす一流の存在感で慎ましく出迎えていた。
ベルボーイの案内はフロントで辞退した。
チェックインから青島は黙ったままで、室井もまた寡黙な口を閉ざす。
なんとなくお互い左右に向き、時折探るように交差する視線に、慌てて目を落とす。
幾人かの宿泊者と擦れ違ったが、二つの大きな真紅の薔薇に視線と笑みが集まった。
室井がカードキーを差し込むと扉を大きく開ける。
背後から青島が腕を伸ばして扉を支え、室井に先に入るよう指差した。
こういう所が青島である。
自分の意思を優先させないし、人の立場を先に選ぶ。
改めて一流ホテルの品格にマッチしているスーツや容姿にこの上ない優越感を抱きながら
室井はエスコートに軽く頷いて先に足を踏み出した。
微かなデジタル音でロック音がかかれば、上層階特有の張り詰めた空気が、二人だけの密室に包み込む。
「今日、ほんとにかなり待たせちゃってすみません。室井さん、覚えててくれたのに」
「ッ・・!」
衝動的に室井は背後から青島を抱きしめていた。
放り投げた花束が幾重の花びらを散らして背後でベッドに舞い落ちる。
「忘れるものか」
青島の肩に、後ろから額を押し付け、室井が押し殺した声で呻いた。
ラウンジでは抱き締めたい衝動を必死に抑えていた拳が、今は荒々しく青島を取り囲む。
近づけば近づくほど欲深になる。
いつでも手放してしまえる距離感を保って、大人びた顔をし始めたのはいつからか。
窓には雨が打たれ、まるで幾つものビースを転がしたように七色に光っていた。
急に抱き締められ驚いた様子の青島も、特に室井を振りほどくこともなく、ぽんぽんと、回してくる男の腕を触り
まるで慰めるようなその手付きは、泣きたいくらい慈しみに満ちている。
室井は再び込み上げる感情をゆっくりと飲み下す。
同時に思った。
こうやっていつも、飲み下して言葉にしないから、何も伝わらないのだろう。
焦燥も、葛藤も、罪も恋も。覚悟も意地も、嫉妬に憎悪、切望。独占欲、狡猾さ。
どれもが名付けることのできない渦の中で、曖昧でありながら烈しいエネルギーを秘め、常に室井に言い尽くせない激情を与え、迫り出している。
ある意味室井を構成する原始なのかもしれなかった。
だが、今、口を開いたら。
「・・ッ・・」
覚えていてくれたという青島の今の言葉に、忘れられていく覚悟の本音を知る。
そう思わせているのも、室井なんだろう。
「すまなかった」
「今度はなに?」
やっぱり答えられず、片言だけで強く抱き締める腕に力を込めるだけの室井に、青島も甘えるように室井の髪に頬を寄せてくる。
心細さを隠すように寄りそう二人は、確かにふたりぼっちなのだ。
「すまない」
青島を失うかもしれないという恐怖が室井の声を震わせた。
謝るしか出来なくなっている壊れた室井に、ただ青島はしたいようにさせてくれる。
一緒でありたかった。
戦うのなら、一緒がよかった。
そのためにここまで頑張ってきたのだ。ずっと、踏ん張ってきたのだ。
それを台無しにしたのは、室井の方だ。
自分が何を手に入れて、何を失ったのかも知ることもないままに。
青島は最初から室井に全てを捧げていたし、根っこの部分を青島が裏切る筈はなかった。
もっと貪欲に欲しくなった室井のマナー違反が、二人の関係を変えた。
分かっている筈だったのに。
「あんたが俺を本命に出来なくても、俺はあんたに何か残したいんだよ」
恋をして、誰かを喜ばせたいと思った自分自身が、室井にとっては新鮮だった。
そうやって青島を一番に想っているつもりでも、工藤の言うように、二番手の扱いにしかしてやれないから、歯痒い思いをしている。
それが分かっているから、青島の洩らした僅かな笑みが空気を震わせ、室井の胸を更に締め付けた。
「あんたにそんなカオさせることが出来るなんて、きっと俺くらい?」
「すっぽかせばよかったんだ」
「あんたが来いって言ったんだろ」
こんな不甲斐ない男、青島にはもったいない。
「今日の恰好、心臓が止まるかと思った」
「いいでしょ?」
「似合ってる。すごく似合っている。ドキドキした」
後から羽交い締めにされたままの青島が、顔だけ向けて、室井の頭上に頭をこつんと押し付けて、悪戯気に笑う。
絡み合う髪にさえドキリとして、室井は腕の力を強めた。
二か月に一度、帝国ホテルの1階ラウンジで待ち合わせを決めた。
盗聴器も隠しカメラも仕掛けられない場所として、ランダムに選ぶ部屋は好都合だった。
第四週の真ん中。平日の折り返し地点。見つからないように誰にもバレないように。青島の出勤が重なった時は翌日に。
人目を忍んでは躰を重ねた。
今月がクリスマスイブに当たっているのは。
「いつまでぎゅってしてんだよ?」
「・・・・」
「・・・夜が終わっちゃうよ?」
腕の力だけで応える室井に、青島が柔らかく苦笑を零す。
いつまで経っても動けない男が、これが駄々を捏ねていることを気付ける者はいない。
限界を超えた心が悲鳴をあげていて、ただただ青島から与えられる声や匂い、体温、息遣い、馴染んだ煙草や海の欠片に、失くしたピースを探し出す。
「むーろいさんっ」
「・・・・」
「いつまでも手ぇ出してくんないと、他のひとんとこ行っちゃうよ~」
「・・・・」
「あ。じゃあ俺が襲っちゃう?」
「・・・・」
余りに動けなくなってしまっている室井に、青島が適当なことをつらつらと口にしてふわふわ笑う。
室井の筋張った首元に額を擦り付ける仕草とは真逆のつれない言葉が、刺激となって
徐々に、埋めた室井の眉間が深くなっていっていることには気付かない。
「それもいいか。腰砕けにするって言っちゃったしなー」
「・・・・」
「たっかそーなスーツ乱すって、ちょっと、やべ。そそる・・」
「・・・・」
「でもせっかく俺も滅多にしないカッコしたんだし、誰かに見せたいな~。室井さんだけに見せてもな~」
声の甘えに顔を歪め、ようやく少しだけ腕の力を緩めた室井に、青島の軽口も止まる。
おずおずと視線が合って、めちゃめちゃ顰め面の室井に青島がぷはっと笑った。
室井の手が、遠慮がちに青島に触れ、その上から青島も手を重ねる。
どうする?という挑発的な視線と、こてんと首を傾げる無邪気な仕草に、室井は毎回絆される。
「ちょっとは目ぇ覚めました?」
くるりと青島の躰を回転させ、室井がホテルの壁に背中を縫い付けた。
手加減のない男の力に、まだ濡れたままの青島の髪がふわっと流れる。
室井は青島の手からまだ持ったままだった2.4kgの薔薇を取り上げると、さっきと同じくベッドの上に放り投げた。
幾つも紅い花びらが舞ってベッドに落ちていくのが目の端に入る。
続け、重ねられていた青島の手をクルリと手首を回すことで握り直し、そのまま顔横に縫い付ける。
ポンっと、青島の両足の間に室井は膝頭を挿れた。
ようやく動いた室井に、青島が楽しそうに顔をほころばせる。
「勝手に拗ねて怒ったくせにね?」
「今も疑っている」
「じゃあ、譲るの?」
この夜の濃密な気配と記憶が、降りしきる雨の中で、いつか引き連れてくる結末を思い知るだろう。
行先不明の二度目の恋は、歯痒くて、もどかしくて、照れくさくて、危険で、やっぱり海色だ。
「その生意気な口をいつかどうにかしてやりたい」
「俺もウカツでした。真面目なひとほどストーカーってこと」
「どうしてみたらいい」
「いっそ、もうすこし、俺んこと、束縛してくれてもいいんですよ」
「・・・」
「っていうか――」
束縛、されたい・・・
一拍置いて、天と地ほど、がらりと変えて囁かれた青島の声色の婀娜っぽさに、室井の脳天からズシンと衝撃が落ちた。
指一つ動かせず、ただじっと見つめ合う。
音も気配も届かない世界は、滾々と冷えていく夜気さえ届かない。
「室井さん・・、貴方が、好きだ」
うって変わって真剣な面差しとなった青島は、酷く原初的でありながら神聖だった。
室井がゆっくりと顔を近づけた。
影となる青島の瞳の光なかで、夜が瞬きする。
至近距離で感じる青島の気配は極上の酩酊感を持ち、室井を惑わして、欲に狂わせる。
昔から小憎らしいほどに青島は相手の感情を煽るのが上手かった。
両手を縫い付けられたままの青島の紅い口唇が薄く開いた。
微かな息遣い。
蠱惑的な視線。
青島の熱に掠れた告白が、まだ耳に残って爛れている。
斜めになるほど顔を傾け、室井は瞼を伏せる。
青島の瞼が半分伏せられ、少し顎を持ち上げたのを認め、室井は濡れて誘う紅い口唇に、そっと自分の口を重ねた。
強烈な甘い痺れが室井の全身を支配する。
柔らかく重ね、吐息を吸い上げ、肉の弾力に口唇で応えていく。
触れているのは口唇だけなのに、強い歓喜と酩酊感が室井を襲った。
何度も何度も繰り返すそれは、やがて熱を孕み、ひどく貪欲な願いを抱きながら、戸惑いすら覚えさせる。
生きた熱をもっと強く感じたくて、すべてに触れたくて、全てを奪いたくて、肉が与えてくる確かな手応えを頼りに、室井は頻りに追った。
少しだけ外せば、青島が薄っすらと瞼を持ち上げ、室井を透明な瞳で見つめ返してくれる。
「俺も、・・・好きだ」
「じゃ、もっかい・・・する?」
目をうっとりさせながら行うキスは、柔らかい口唇の感触がダイレクトに伝わる。
誰に寝取られようと、必ず青島を奪い返すだけの強い恋をもって応えるのが先決だった。
こうしているだけで、誠実で真摯な情に見合うだけの自分のなれていないことを室井は深く思い知る。
ただ触れるだけのキスは、何もかも浄化して、室井に贖罪を与える。
もっともっと解けてしまえばいい。
「今度嘘ついたら張っ倒す」
逸る鼓動に口唇を重ねて、熱を孕む声で青島が囁く。
「こっちも言い過ぎた」
口唇を触れ合わせたまま室井も囁き、また深く肉を押し当てる。
「もしかして拗ねてます?」
「・・・・拗ねてない」
「やべーと思ったんならね、突き放せばいいんですよ」
それが室井には出来ないと知ってての挑発に、室井がキスの速度を速めた。
甘すぎる惑乱に酸素が不足するのも忘れ、眉を顰めて口を割る。
青島も顎を上げてそれを受け止め、舌で誘ってくる。
忙しなく擦り合わせるキスに呼吸を早め、濡れた音を立て、奪い合うようなものに変わった。
必然的に深く合わせる口端から、お互いの息が断続的に漏れ、肉の熱さに陶然となる。
もどかしくなってきた頃、タイミングを見計らって室井が口接の角度を変えて強引に吸い上げる。
青島の膝がガクンと崩れたところで、室井は両脇に手を差し込み、その躰を支えた。
壁に押し付けると、ようやく口付けから解放してやる。
額を押し付けて見つめ合う先には、二人の荒げた息だけが聞こえていた。
「やっぱり誰にも渡したくない」
生理的に濡れた青島の眦が、蠱惑的な正装の清潔さと相まって、まるで知らない相手のように思わせた。
理性など微塵も残さぬほど、煽られる。
「だって、どうしたって君に勝てない」
切羽詰まった室井の指先が青島を再び押さえ付けた。
「おまえのいない人生など、俺には何の価値も無い」
息が整いつつある青島が、色香を孕んで微笑んだ。
「もしかして、俺、また室井さんに口説かれてんの?」
「もう、なんか、だから、どうにも止まれそうにない」
顔を近づけ、再び口唇を奪えそうな距離で、室井が哀願した。
室井にしては正直な、だた素朴で、室井らしい真っすぐな言葉に青島は軽く目を見開き、何故か視線が外される。
室井が細長い指先でその顎を捕えて、固定しもう一度口付けしそうな距離を残し、留まる。
「青島、」
少しでも触れたら破裂しそうな情動を張り詰め、室井の声は熱に微かな奮えを帯びていた。
「貴方の手で、脱がせてください」
「・・・利口な解釈だ」
我慢ならず、そのまま室井は青島の口唇を奪った。
シュルっとした音がシルクタイを外したことを耳に伝えてくる。
室井が青島のタイを引き抜けば、青島が室井のコートを肩から落とした。
青島のコートも肩から剥ぎ落とすと、ジャケットのボタンも外し、同時に落とす。
青島の手が室井のネクタイにかかる。
口唇を外したくなくて、室井は口付けたまま、自分のコートも脱ぎ捨てた。
ジャケットも室井が自分で脱ぎ捨てると、ベストを着込んだ室井の逞しいボディラインが露わとなる。
足元に二つのコートが転がり、そこにジャケットが落とされ、更にはネクタイが降ってくる。
シャツのボタンだけ外しでしまうと、室井はバックルに手を掛けた。
青島の手が室井の腰を回って、尻を撫であげ、彷徨い、ベルトにかかる。
忙しなく舌を絡ませ、肉を与え、ぬめった感覚から解放させずに奥深くを侵略する水音が更に手を逸らせた。
外はあまりの純白の雨がスパンコールのように窓に叩きつけられ、舞う数に、音さえ奪われていく。
少しだけ器用な室井の指が施す愛撫と着脱に追い詰められ、青島はスラックスもトランクスも剥ぎ取られる頃には
バランスを保つため室井の首に両手を回した。
室井の手が青島のボディラインを両側から辿っていく。
程よく筋肉のついた腹部と背中、キュッと上がった丸みある桃尻。メリハリがあるのに滑らかさと柔らかさを感じさせるそれを
青島のシャツの中に指先を忍ばせながら、確かめるように室井の指が辿る。
清廉で、清潔そうな手は形良く、そのくせ淫らに動く器用な指先を駆使して難なく青島の躰を開いていくのを知っているから
青島の躰は室井の指先に震え、口から甘い喘ぎを洩らした。
その声に煽られ、室井が青島の腰をぐいっと引き寄せる。
肩に担ぐようにして抱きかかえ、ベッドへと向かった。
二人して雪崩れ込むように、押し倒せば、ベッドに散らばっていた薔薇の花びらが綿毛のように舞って
青島の素肌の上に舞い落ちる。
健康的で年の割には瑞々しい青島の裸体に舞う紅い花びら。
白いシャツだけが肩にかかり、抜き出しの乳首や臍、陰毛を飾るダマスク香――
絶する光景に、室井は圧し掛かったまま息を呑んだ。
片膝を立てた脚のラインが芸術的でありながら淫靡な曲線をベッドに描く。
四つん這いの姿勢で青島を魅入って息を止める室井に、青島が無自覚に先を強請る指先で室井の身体をなぞってくる。
ベルトは青島によって外されたが、室井は未だベストもスラックスも身に着けたままで、その曲線美がベッドの上で刺激に震えた。
「このまま・・・どうにかなってしまいそうだ」
「形勢逆転ってやつ?」
「まいった」
幸せそうに青島がまた笑うから、室井は腹が立つ。
青島が室井の頬を指先で愛おし気に愛撫し、キスをすると、室井が親指で青島の下唇をくいっと撫ぜた。
その少しの仕種に熟した色香を感じてドキリとした青島が、思わず手を退こうとした。
その手を室井が引き留める。
軽く乗せた手の甲に優しく口唇が押しつけられ、その気障な仕草がはまる男の品格に青島は流石に真っ赤になった。
「愛している」
「!」
「君だけを、一生愛している」
「・・・」
「こんなつまらない言葉しか出てこないが、嘘はない」
シャンパンみたいな恋は、空からレモンが降ってきた時から始まった。
「俊作」
「い、いきなり呼び捨て・・」
「もういい。もう負けでいい。どうせ敵わない」
絶句する青島の顔はまだ赤く、室井は愛おし気に手にキスを繰り返し、そのまま額に、瞼に、頬に、キスを降らせる。
顔を押さえ付け、眉を歪める青島の、鼻に、口に、耳に、髪に。
派閥には属さず、本人の意向は二の次状態で、地方大学出身の負い目が学部派閥を嫌い、はぐれ者として周りが敵となった。
階級社会で属せぬ者は、上層部に弾丸ひとつでも打ち込めればいいと考える。
元々青島との暴走行為で異分子とされた室井だったが、本来組織の異種であったのは、元来の冒険主義に因るところが大きい。
なのに、天からレモンが落ちてきた。
「忘れていたことを、思い出した」
「?」
「昔のことだ」
「・・・む、室井さんのほうがさ~、ヘンに秘密主義ってーか、突っ走ってますよね・・・」
「君ほどじゃない」
室井は精悍な顔を傾けた。
柔らかく口唇を塞いで、愛情のすべてを注ぎ、行為の続きを再開する。
嬉しそうな青島の声も、欲しがるキスに溶け込んで、室井が吐息ごと吞み込んでしまう。
手元に残った酸っぱい恋に、零れ落ちた過去の恋に、ほんのわずかな憎しみも、雨が流して、ダマスク香に酔って、聖なる夜が浄化する。
最後のゴールテープを切るまでは、絶対跪いてなんか、やらない。
始められる。ここからまだ始められる。まだ運は尽きていない。
腕の中に収まる愛しい男の、少し高めの体温、石鹸の香り、それから少しの煙草の残り香。海の匂い。
「ぁ、あ、でも、今日ずいぶん目立っちゃったけど、だいじょーぶ、ですかねぇ?」
「男二人が薔薇を抱えていたんだ。逆にパーティかなにかの参列者だと思われただろう」
「あ~そっかも」
豊かさと気高さをそなえた薔薇の芳香は、自信と幸福を与え、抑鬱を緩和する。
あ、写真撮るの忘れてた
撮ってどうする
俺、証拠写真送らなきゃならないひとがいて
誰だ
クドウさんってひと
・・・・
あんたが死に損なってるって言いに来た
・・・・
6.
朝の清涼な空気なんてものは、ここ新宿には縁がない。
警察署というのは夜も眠ることはなく、日の出前から所轄は街の大掃除に追われる。
バタバタと慌ただしい足音が聞こえれば、そこは怒号も飛び交う昨夜からの澱んだ空気の掃き溜めだ。
「どうしたんすか工藤さん・・!」
「ああ、いや、ちょっとな~」
「なに、ヤバイ仕事?」
「そうだったら良かったんだけどね~。テテ」
口の中まで切れてやがる。
工藤は顔を顰めて頬を抑えた。
聞き込みから戻ってきた新宿北署の新米刑事が、通りがかりに大きく目を見開いて工藤を覗き込んだ。
「うっわ~、顔崩れてますよ?」
「元からだッ」
「オンナっすか」
「馬鹿言え、潜入捜査だ」
「痴情の縺れは今恐いですよ。刺されたりするし。ネットに晒されたりするし。兄さんも気を付けないと」
「人の話聞けよッ」
昨夜、室井に呼び出された。
その後の報告とやらをしたいというから、のこのこ井戸端会議に出向いていったら
出会いがしらに、殴られた。拳で。
“二度はないぞ”
“いきなり何すんだよアンチャン!”
“身に覚えがないとは言わせない。全部、聞いた”
“あ・・・”
キスか!喋りやがったのか青島め!
だが、凛々しさを取り戻した男の顔を見れば、結果など聞かなくても分かった。
“何でそう思う。青島が嘘を吐いている可能性だってあんだろぉ?そもそもアイツがぺらぺら喋るとも思えなかったぜ?”
“ほう、よくアレを知っているとでも言いたげだな”
“誤解だアンチャン!”
“よくも青島に触ったな”
“ったくよぉ、そんな大事ならちゃんと囲っとけよぅ”
“覚えておこう”
殴ったくせに、やっぱり手を差し伸べて室井は工藤を引き起こしてくれる。
“やっぱ敵わねぇな、長年の仲ってやつか。よく聞き出せたもんだ。あれはそこそこの小悪魔と見立てたぜ?違うかい?”
“そんなもの。ベッドに連れ込めばいいだけの話と教えてくれたのは君だぞ”
“!!”
ここで初めて工藤は青島に同情した。
自業自得とはいえ、ベッドでどれだけ啜り啼かされたか。全部を吐くまで相当嬲られたに違いない。
ちょっと想像して可哀想に思う。
呆気に取られてぽかんとしている工藤に向かって、室井は大人びた目元を少しだけ緩めた。
一見すると、冷静沈着。見た目は冷徹で、大胆な感情の起伏を嫌う理性の糸を一本ピンと張りつめ
だがその内側には、決して折れることのない強靭な意地を秘め、誰より熱く、なにより強い信念を燃やしている。
凛とし、物事に動じぬ姿を見せ、綺麗な印象を与える瞳が流す視線は鋭い。
問題児と噂される青島が惚れただけあって、あれはなかなか剛胆な男だ。
ただ、趣味はいい。
「レモンねぇ」
随分と妙な言い回しだ。
青島は、“あの人は背負っているものが大きいから・・”なんて、室井を取り巻く環境に同情したりはしなかった。
そんなことをしたら、組織と渡り合うだけの意地、そして日本のために任務を全うするという強い矜持も、消え去る。
共に戦うに相応しい、見事な相棒だ。
恐らく室井の見立てでは、甘えたり癒され合ったりといった、正気を失くす半歩手前のような、なまっちょろい恋愛ごっこではないということだ。
「青島、か・・」
あれが室井のキーパーソンだ。
漆黒のコートの隅に、海色のシアン・ブルーの小瓶を持っている。
その潜ませた小瓶が、本物のシアンカリか、ただのソーダ水になるかは、青島次第だ。
いや、むしろ。
「国家機密になる・・・」
二人の仲は、室井の今の立場ではかなりのスキャンダルなのは事実だ。
ここまで来てしまったからには、キャリアとノンキャリの危険な恋なんてリスクは越えている。
一国の警備情報を引き出そうとガードの弱いノンキャリにちょっかいを出してくる諜報員には格好のターゲットだ。
彼らは大抵、平凡な装いをしていて、末端から有益な人間関係を築く。
諜報員が大袈裟でも、出世レースの足枷として情報戦に利用価値が高い。
工藤は改めて室井を取り巻くキャリアの複雑さと抗いきれない黒いものへの恐怖を思った。
だが、平然と、それを受け止め、血なまぐさを一切感じさせない凛然とした器こそが、一番恐ろしいと感じたことも、思い出す。
ここからだぞアンチャン。
青島を護り切れるかどうかは、アンチャン次第だ。
この新宿では日常を壊さぬまま誠淑やかに消されるのが常で、それは大袈裟でもなんでもない。
だから北署では基本、上のお偉いさんは信用に値しない。
平和ボケした現実の、交差点の向こう側というものを、肌で知っている。
ましてやそこまで要職に就いた人間が男の恋人を持つなんて事実、あの頭の固い古株の連中が受け入れられるわけがない。
となると、これは本人たち以上にヤバイ秘密を握っているということになっていく。
「えッ?兄さん、何処に潜入してきたんすか?!」
ったく、なんて刺激的な朝なんだ。
レモンイエローのネオンが、摺りガラスの窓からいつもと同じように射し込んでいた。
happy end

毎年この時期になるとクリスマス室青
を描きたくなる衝動が止められません。こんな時でも!
薔薇108本=プロポーズ。
室井さんはヘタレにして、青島くんは恋多きイケメンに妄想してみました。新宿が舞台ですから危険な恋がテーマ。
少しでも幸せな元気を感じていただけたらなと思います。MerryChristmas!!
踊るって、官僚の室井さんが所轄の青島くんに囚われていく物語であって、逆じゃないですよね。青島くんにとっては割とどうでもいい話ってところが基本で
す。
自分の運命を青島くん(天使)に導いて貰って、勝ち上がれた男の物語だと思う。勿論出世できなくてもよかったんだけど、戦い続けられたって
ところが大事なサラリーマン謳歌。
20201230