20周年お祝いシリーズ
二十周年記念作品第三弾。お祝いなのでがっつり鳥青です。登場人物は主に鳥飼さんと青島くんと室井さん。時間軸はODF直前。
秋設定です。鳥飼さんの恋物語。









03. 初雪―前編
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1.
彼岸花はヒガンバナ科の多年草である。
球根にアルカロイド系を含む有毒植物で、葉は線形。秋の開花後、初冬に伸び、春に枯れる。
通常の草花とは逆の生態と、葉と花を一緒に見ることがないことから
昔人は恐れをなし、死人花や地獄花などと呼び、恐怖や災害、危機を連想させる別名がたくさん植え付けられた。

花言葉は、悲しき思い出・あきらめ・独立

***

参りもしない墓石の周りには鮮やかな赤をした彼岸花が埋め尽くすように咲き乱れていた。
葉のない首だけの姿が鮮麗な赤だけを抽出する。

夕陽が真正面から当たるなだらかな丘陵はオレンジの大気に包まれ、日没を無言で見送っていた。
ここに通い始めてもう六年になる。
この場所がいいと言ったのは姉だったか。

さわさわと乾いた風が陵を柔らかく撫でていく。
風の音以外は何も聞こえない。

暫く見降ろすように立ち尽くしていた鳥飼は花も手向けず、そのまま墓石に背を向けた。
黒のスーツが真っ赤な彼岸花の中に埋もれていく。
どんよりとした藍紺の雲が隠すように空を覆った。

真紅は瞼の裏に焼きついて消えない。










2.
「――以上、散会」

ホワイトノイズのマイク音声が夕日で黄ばんだ室内に反響し、黒い雄渾が一斉に蠢き始めた。
ざわざわとした地を這うような男たちの喧噪が後方扉から縺れるように掃けていく。

湾岸署のこの大会議室は新築とあって、本庁のような黴臭さはまるでなく
昭和の叩き上げ刑事が染み付かせてきた歴代の手垢も煙草臭も、時の傷も、零した珈琲の染みさえ何も無い薄っぺらい空間だ。
陽射しが傾き、室内の奥まで日足が長く射し込んでいた。
鳥飼がこの署に関わるのはこれで二度目だ。

突如、上座の扉が勢い良く開き、二人の若い男が勇み足で入ってきた。
捜査本部長の横に座る鳥飼に耳打ちしてくるそれを無表情のままに聞き入れる。
そのまま上座中央を位置取る中年の男――この捜査本部の本部長である――の耳に囁くと
本部長は一度切ったマイクのスイッチをもう一度入れた。

「所轄、青島刑事、ちょっと前へ」

ボワンと反響したノイズで呼ばれ、丁度扉を出掛けていた青島の足が条件反射的にぴくんと止まった。
面倒くさそうな予感、いや、確信を含ませた声が、はぁいと届く。

「なぁんでしょーか」

身分を仕切るような矩形の、白の長テーブルには本事件の本部長ら役員が数名、横一列に並んで座る。
その前に慣れた様子で視線を天井に向けた青島が後ろ手に指を組んで直立した。
本部長は散らばる資料をスライドさせると一枚の写真を見せ、テーブルの上で両肘を付き
組んだ指先の上に顎を乗せ、勿体ぶった動作で口を開いた。

「店に接触したというのは本当か」
「・・・えぇ、まあ」
「何故勝手なことをした。容疑から外れたという報告を聞いてなかったのか」
「いぃえぇ?いつもの見回りですよ~ぅ、地域安全の」
「強引な聞き込みを行われたという報告だ。店主から苦情も来ている。何をやっているんだ」

チッ、あのおっさん・・・と青島が舌打ちして横を向く。

「所轄が捜査の足を引っ張らないよう、本庁の指示に尽力させるのが君の仕事だ」
「じゃあ言わせてもらいますけどねっ、大体っ、店主の娘が容疑者の娘と同じ大学出身って情報、何でこっちに下ろしてくんなかったんです かっ」
「なんだと?それは本当か」
「知らなかったの?!」
「必要ない情報まで下ろすことでチームの混乱をさせないためだ」
「娘は対象外って決めつけんの早いですっっ」

バンと両手をテーブルに付いて青島が上から威圧するように本部長に顔を近付けた。

「この聞き込み、所轄にやらせてください。今、娘の方は安心している。父親はシロかもしれない、だからこそ、使えます」
「判断はこちらがする。生意気な口を聞くな!」

今度は青島の顔がむっとした仏頂面に変わる。
ぷぅと膨らませた頬に不満があからさまに零れている。
本当にころころと万華鏡のように雰囲気を変える男だ。

おい、撤退させろと本部長が後ろに控える男に囁き声で指示を向ける様子を耳聡く聞き咎めた青島が慌てたように身を乗り出した。

「ま、待ってっっ」
「その捜査は本部が引き継ぐ」
「店と事件はもう無関係って切ったのはそっちじゃないですかっ」
「屁理屈を言うな」
「屁理屈はどっちですかっ」

何だかいつかもどこかで繰り返したような益体ない押し問答だと、青島が天井を仰いだ。
本部長は無視をして指示を続けていく。
青島の視線が戸惑ったまま宙を彷徨い、空を切り、頭を掻き、そして不意に、隣で静観していた鳥飼の上で止まった。

「いきなり知らない本店の人間が乗り込んだら、前みたいに警戒されるだけだ・・・!」
「・・・事件の核となる部分は一課が行いますので」
「その主導権が及ばないって今言ったじゃん、もう一度オヤジにコンタクト取ったら今度こそ臍曲げられますよっ」

今度は困ったように青島の眉尻が下がった。
強気なままの閃光は失わない飴色の瞳が鳥飼を映し、哀願するように佇む。

綺麗な宝玉だと場違いにも思う。
この荒漠とした場にそぐわない、この世ならざる艶美さは、いっそ鳥飼の苦笑を呼ぶほどだ。
汚世を見てきた筈の瞳がこんなにも穢れないままあるわけがない、ブレない彼の意志はどこか鳥飼には空疎に映る。
それならこれは何と言う名の芸術なのか。
それともこれすら彼の見せるまやかしか。

そんな愚にも付かないことを巡らせていると、まだ諦めていない青島の顔がぐいっと近寄った。

「あそこのオヤジ、俺たちみんなそれなりに面識もあるんです、みんな古い顔見知りなんですよ」
「でも今、彼にも見限られましたよね?」
「ぅ、た、多分、何か理由があってのことだと」
「その戯言に巻き込まれて我々本庁に失墜しろと仰る?」

くぅんと鳴きそうな顔で項垂れる姿はとても中年男には見えない。
鳥飼は玲瓏な面持ちを僅かに伏せた。
それは少し漏れた苦笑を隠すためであったが、青島には冷遇に見えただろう。
鳥飼の、背が高く顔も甘いマスクで整っているのに滅多に笑みを乗せないクールな顔は
不愛想というよりは謹厳な印象を与え、その鳥飼の変化に、青島が敏く察して気配を変えたのが伝わった。

五感の鋭い男だ。
だが官僚的な態度に保護主義な態度を見せる人間が大多数な中、青島は敵意なく瞳を瞬かせる。

「補佐官だってこの間現場入りしたじゃない、なんとかなりません?」

初顔合わせとなった前の事件で、色々関わりを持ったことで少し気心が知れた親密性を匂わす青島に
調子の良い男だと呆れさせる一方、その馴れ馴れしさが彼の武器なのだろう、スマートでバラエティに富む混淆に嫌味は感じない。
今更キャリアの肥やしにもならない所轄との交流など興味なかったが
鳥飼は青島の見せる世界には少しだけ興味があった。

興味――そんな他愛ない人間的な感情を自分が未だに持ち得ていたことこそが、鳥飼を落ち付かなくさせる。

所轄になんて危なくて任せられないぞと隣で本部長が口を挟んでくる。
青島はそれでも諦めずに詰め寄ろうとする。あっちにこっちに忙しい男だ。
視線が離れたことを少し忌々しく感じた口が、勝手に言葉を紡いだ。

「その情報が正しいという証拠もないのでしょう?同じ大学というだけでは警察は動けませんよ、青島さん」
「確かに、そこは――、でも!本店が乗り込んだらそれこそ終わりだ!」
「キャリアを愚弄する気か!」
「そうじゃなくってっっ」

頭痛がしてきたとでも言いたげに、青島が額を抑え、埒の明かない文言に閉口する。
ちょくちょく口を挟んでくる本部長を、鳥飼もまた煩わしく思った。

確か、この壮年期に差し掛かろうかという本部長は今度の成績が特進の成績に直結するとの噂だ。
ラストチャンスだろう。だから冒険も戦略も出来ないのだ。
くだらない、と心の中で鳥飼は吐き捨てる。

一方、目の前の男――下心ひとつ持たずに本庁一課にここまで突っ掛かってくる所轄は滅多にない。
大抵キャリアに媚び得るノンキャリは出世か、お零れ狙いの欲に駆られた亡者ばかりだ。
その他は生気を奪われた腰抜けか。

部長クラスや本庁キャリアを前にすれば、大概の者は瞳の奥に畏怖や畏敬、不安が出てくるものである。
従順な、と言えば聞こえは良いが、多くの末端捜査員の手応えの無さは、鳥飼にとって、かつて自分たちを否定した未来の偶像そのものだった。
階級社会のルールと現実を叩きこまれたあの悲劇。
それは同族嫌悪でもあり、鳥飼の吐き気を呼ぶ。

青島の自分の立場も成績も顧みない姿はあの日の自分たちを彷彿とさせながら、あの日の時間に閉じ込められている自分たちとは異なり
青島が一心不乱になっているのは事件の本質だった。
それは被害者への過剰な感傷であることは見ての通りだが、青臭い使命や意地でもある。
組織に囚われない。その反発が小利口に従順に生きた自分たちをあざ笑うのだ。
この歳まで今この瞬間に爛々としていることが少し不思議でさえある。

「ほんとに口ばかり良く回るな!」
「昔それでメシ食ってたもんでして!」
「リクルートしたらどうだ」
「その際には天下り、紹介してくれるんでしょうねぇっ」

本部長と青島の無益なやりとりが鳥飼の耳を抜けていく。

「所轄は邪魔なんだよッ」
「使える部下を見分けられないんだ?」
「少なくとも貴様じゃないッ」

純潔だけではない、慣れた眼差しを合意と見た鳥飼は青島の中に宿る闇に目を細めた。
キャリアを挑発する啖呵も、取引にも臆しない度胸も、痩せた議論に見えるのに
何故彼はどっちにも染まらないのだろう。
時限発火装置のような緊張感とスリルを兼ね備える逞しさに、どこまでも浸ってみたくなる。

「反体制的なノンキャリアにはろくな紹介はできませんよ青島さん」
「補佐官もそのクチ?」
「不本意という逃げ道ですか。大人としては懸命な選択ですが」
「ソッチの理屈に所轄を巻き込まないでくださいよ」

それにしても少々理屈を持ち始めた青島の信念との衝突は、不思議と鳥飼を昂揚させた。
いつまでもこうして話していたいと思う。
この無益な言い争いが心底楽しいと鳥飼は思った。
面白い男だとは思う。――警察官としては虚けだが。

「とにかく!アンタらが追っている男は犯人じゃない可能性が高いんだ!」
「庇う理由がないでしょう?」
「きっと彼らにしか分からない事情があるんだ」

ああ、もう、どうしてこの子供のまま大きくなったような少年のような青年は、鳥飼の捨てた筈の過去の琴線にこうも簡単に触れ掻き乱すのだろう。

彼にはあの日の鳥飼が辿り着けず見えなかった光まで見えてしまうんじゃないだろうか。
そんな幼稚な理屈が長く続かないことは鳥飼自身が身を持って経験させられたことなのに
青島にならその綻びさえ飛び越えてしまうように夢想してしまう。
彼が我々の計画を知ったら、どんな顔を見せるのだろう。
知って、驚愕に歪む顔を見てみたい衝動に駆られる。
それはどんな狂気かと、鳥飼は薄ら笑いを乗せた。

「ね!鳥飼さんっ、賭ける価値、ありますから!俺たちをでしゃばらせたくないなら本店の誰かを!」
「今度はあなた方にしか分からない事情とやらにこちらをシフトさせる狙いですか」
「話が早いね、鳥飼さんっ」
「その根拠は本当に正しいのですか?」
「不安?」

前髪の奥から挑発的な煌めきが鳥飼を甘やかに誘ってくる。

もっと、知ってみたいと不意に思った。
もっと、近付いて、もっと交わって、彼の魂から触れてみたい。もっと色んな顔が見たい。
もっと晒して、もっと傷ついて、もっと穢れさせてみたら、どうなるんだろう。

以前よりずっと彼に奥深く入り込まれている。
いつのまにか、麻薬のようにそれは骨髄から鳥飼の何かを腐食させてくる。
その先で、それでもまだ光を失わないのであれば、それこそが鳥飼が一番見たかったものかもしれない。

やりとりを味わいつつ物静かに続けていた鳥飼は、不意にその視線を後ろに投げた。

「ならばこの判断は後ろの男性に託してみましょうか」

それは、ほんの気紛れだった。
青島を更に挑発するためのスパイスでも良かったし、青島を限界まで追い込む銃でも良かった。
彼を取り囲む心の扉に傷でも付けられれば、さぞ満足だろうと思えた。

「あぁん?うしろぉ?」

突如方向性が変わった流れにさも胡散臭そうに振り返った青島の眼が見開かれる。
途端、しまったという顔に変わる。

そこに室井が立っていた。
背後を盗られているのに、室井が居たことにも初めて気付いたようだった。

「――」

室井は微動だにしない。
高級スーツに身を包み、左手に重そうな黒鞄を下げ、凛然と立ち尽くす。
視線は合わない。
眉間に皺を寄せている表情からは、怒っているのか拒絶しているのかも、分からなかった。

「・・・、私の用件は預かってきた資料ファイルを届けることだけだ」
「まだそんな雑務を押し掛けられているのですか?」

鳥飼の挑発に室井は視線すら向けてこない。
儀礼だけの無機質な言葉だ。

室井は今、捜査一課からは離れ、更に上の要職に付き、最も警察暗部に近い場所に足を踏み入れている。
云わば悪巣の中枢に属する人間になった。
会議が始まる前、その姿を鳥飼は一旦見掛けていたが、そのまま未だここに留まっている所を見ると用は済んでいないのだろう。
会議終了を見計らったように後ろの扉から入って来、玲冽な顔で床を見据えるように青島と管理官の押し問答に耳を傾けていた。

嫌味にも平然とした顔で、心の内を闇にすら葬りそうな漆黒の瞳を伏せ、室井は黒鞄からA4ファイルを取り出し本部長に差し出した。
役職が遥か上の男からの雑務に、本部長も慌てて立ち上がり恭しく受け取る。

「たまたま近くを通りがかる用事があったから請け負った」

低いバリトンボイスが抑揚もなく披瀝する。
ふいに鳥飼の視線が気付かぬ動きで視点を変え、すっかりと口を閉ざしてしまっている青島に向かった。
室井の隣に所在なさそうに立ち、上目遣いで探るような視線を青島が向けている。
蛍光灯を反射する少し潤んだ泣きそうな目、噛み締めた紅い口唇。握りしめられた拳。

予想外のその反応に鳥飼は虚を突かれた。
先ほどの明るさはなりを潜め、真剣だがどこか不安定な揺らぎをもつ宝石が室井を一心に映している。
勝ち気で負けん気の強い勇敢な輝きとは一線を画し、触れたら折れんばかりの危うく情感的な脆さだ。
こんな目もするのか。
それを引き出させるのがこの男なのか。

室井が涼しい顔で本部長にだけ一礼をする。
去っていく気だと分かり、鳥飼は動揺を乗せないゆったりとした口調で引き留める言葉を探した。

「それだけですか?」
「まだ何か」
「話は聞いていたでしょう?」
「多少耳に入っただけだ。詳細は知らない。何も」
「大差ないですよ。捜査対象から外れた商店に未だ所轄が張り付いていた。証拠はないが、容疑者との接点を主張している――室 井さんも同じ考えですか」

引き留めたことに動揺したのは、青島の方だった。

「ちょ・・っ、室井さんは関係ないでしょ・・!」
「所轄と室井さんのだらしない関係は今も知れたものですよ、青島さん」

この間もそうだったでしょう?と口端を持ち上げれば、何故か青島の視線が僅かに揺らぐ。

詭弁と分かって喰ってかかっていた先程までの心意気がまるで消失していた。
室井を足止めしていることで落ち付きを失くさせているのは明白だ。
傍目には誰にも悟らせていないが、その頭脳の中では今必死にこの事態を打破する策略が巡らされているのだろう。
あれほど大胆に本庁捜査員を勇躍させるかと思えば、この弱気はなんなのか。

もっと友人のふりをして、味方につけようとここぞとばかりに鼻息を荒くすると思っていた。
もっと親密度に仲を見せ付け、自分の正しさを主張してくると思った。
愚かにも、官僚との関係性がすべてであるかのように。
何故。どうして。
鳥飼の脳髄にじめっとした思考が滴る。

「室井さん、お時間がおありならご指示を拝聴したいのですが」

無論それは誘導尋問で、室井が今、こことは別件で何らかの足止めを食らっていることを見越した上での挑発だった。
反面、室井に意識を奪われた青島の関心を逆撫で、取り戻せれば御の字だ。
それを悟られたことを室井もまた分かっているのだろう、動揺も見せずに一度だけ薄い口唇の奥に微かな息を詰めた。

「担当でない私が指し図するほど、このチームが無能には見えないが?」
「上の意見を拝聴するのが組織ですから」
「そこまででしゃばらせたいか」
「心外ですね。我々は聞く耳を持たない犬ではない」
「――、私は管理官として高度な成績を収めてきた人間ではない」
「いえ。ここの所轄と過去から接点がお有りの室井さんなら、何かこの――飼い馴らす代案もご存じなのではと」

敢えて名を伏せ思わせぶりな言い方を鳥飼が選ぶ。

「待ってよ!」

再び慌てたのも青島の方で、それも鳥飼が望んだものではない。

「室井さんに何か分かる訳ないでしょ!いきなり撒き込むなよ!」
「躾け方をお聞きしているだけですから」
「変な言い方すんなっ、始末は俺が付ける!」

静観していた本部長が口を挟む。

「ご自身が責任取れるだけの立場だとでも?青島刑事」

我々の責任問題になるんだという本部長の低い横槍に、流石に青島の顔色が少しだけ変わった。
それでもまだ何かを言おうと一歩前へ出る。
この勝ち気なところが鳥飼には堪らない。のに。

もう青島の瞳には室井しか映っていない。先程まであの瞳に熱く映っていたのはこの自分だった。
よほど室井を関わらせたくないのだと思えた。

浮かばれない胸中を抱え、嘆息染みた吐息の中、ふと手前で未だ静観を貫く室井の顔色を窺った瞬間、鳥飼は我が目を疑う。

背後で。
何が楽しいのか、室井が口角を上げていた。
切れ長の瞼を伏せ、眉間に皺を深めながらも、誰にも悟られないよう俯き、微かに口角を湛えている。
気配も変えずに佇んでいる男は確かに笑んでいる。
驚いた。
この男はこんな顔もできるのか。
即座に察する。
室井は青島の反論にも動揺にも気が付いていて、何もかも承知の上でこの茶番に付き合っている。

「とにかく早急に所轄を撤退させろ!まだ出来ないのか!」
「ちょっとっっ、その間に接触してきたらどうすんですかっ」

室井にこの事態を見られたことで上層部に筒抜けとなることを恐れた本部長が、あからさまに始末をつけようと躍起に叫び始めた。
合いの手のように青島が突っ込みを入れるから、事態は迷走の様相を見せる。
暫く事の成り行きを静観していた室井が視線を上げ、青島に向けた。
それは直ぐに逸らされ、管理官に向き合う姿勢を取りながら、窘めるように顔も見ず、一度だけ、静かに青島の名を呼んだ。

「――!」

パブロフの犬の如く、青島の中で何かがグッと堪えられたのが傍目にも分かる。
舌打ちしたい衝動を抑えた顔で、青島があからさまに室井に背を向けたまま、固まった。

事件の本質に関わるとあらば、室井にだって食って掛かる男が配慮を見せる。
青島は室井には立場を悪くするような指し水はしたくないのだ。
この忠誠はなんなのだろう。
この忠誠が鼻に付く。

事態の収拾を懸念した室井がようやく悠然と口を開いた。

「発言をしても?」
「どうぞ」

困っているんですよ、という如何にもな言い訳を用意して鳥飼は極上に微笑んで見せた。

幾ら室井がしゃしゃり出てきた所で、青島と共に事件を捜査出来るのも、こうやって意見と本質をぶつかり合わせるのも
今は自分の方である。
それはどうやったってもう室井には出来ないことだ。
それを見せ付けるために、鳥飼は悠然と所有権を主張した。

「現時点での本部方針に同意する。そのまま継続させろ。所轄には引き続き周辺警備に当たらせるのが妥当だろう」
「ならばそこの所轄の英断とやらは無視してよろしいと」
「・・・その点については、きちんと裏を取りに行かせろ。多分――出るぞ」
「ヒーローごっこに無実かもしれない一般人を撒きこめと?」

室井の視線が今度ははっきりと青島に向かった。
叱られた子供のように青島がしゅんとして不安げな色を乗せ、室井に上目遣いで伺いを立てている。

レンズが照合するように本日初めて二人に視線が真正面から交差した。
あからさまに交錯させた二人の視線がしばし中央で絡み合い、凛冽な波紋が輪唱し、辺りの雑音も急速に成りを潜める。
なにやら口を挟めないその独特の空気に当てられ、フロア中の意識が集中する。

鳥飼もまた、噂や態度で見聞しただけで、そう言えば、この二人が揃うところを間近で見たのはこれが初めてだったことに気が付いた。
何なんだこの空気は?
極致で重厚感のある侵し難い空気に無意識のまま気押されていく。

室井が先に意識を外した。残っている背後の捜査員に向けて張声を発する。

「青島をチームから外せ。抜けた分を速やかに補充」
「室井さんっ」

驚き、詰め寄ろうとする青島を視線も向けず軽く片手で往なすと、室井は更に論陣を張る。

「新たな担当割り振りを早急に結成。一課より数名を選出、当該店舗の監視再開、所轄は詳細報告と引き継ぎを」

艶のある低いバリトンボイスがフロアを凛と走った。
残っていた数名の捜査員が一斉に返事をし、扉から続々と出ていった。後に所轄が続く。
貫禄を見せ付けられ、部屋は感嘆のざわめきが残響した。

流れが去った後、室井がもう一度静かに照準を青島に合わせた。
昂揚した声を一変、今度は室井にして性質の悪い薄ら笑みを浮かべ、だが凪のような冷静な声ではっきりと諌める。

「出るんだろ」
「・・・は、はいっ」
「なら、あとは部下に伝達しておけ」
「ぁ、・・う、了解ですっ、・・でも、あの・・っ」

向き合う二人に、残された本部長以下役員もまた口を挟めず空気が止まっていた。
かなり上のキャリアとなった室井に、タメ口にも近い反論を述べられる人間はそういない。
大胆な青島の態度は昔話を知らない現捜査員や若手キャリアには、奇っ怪なマナー違反にしか見えない。
別な意味で空気が凍り付いている。
やがて声のトーンをもう一つ変えて室井が堅く告げる。

「青島警部補。君は今後二日間、一切の捜査参加を禁ずる。待機任務に入れ」
「そん――!」
「異論が?」
「ぁ、ありますよっっ」
「捜査はきちんと引き継ぐ。代理の係長を宛がう。これで文句はないだろう」
「・・・っ、けどっ」

詰め寄る青島に、室井は素っ気ない。

この二人が作る空気は実に奇妙だった。
二人の世界を作る室井と青島に、鳥飼の焦燥が煽られる。
あれほど室井には行儀良く繕っていた青島が、その強迫に近い本性を表わさないことが不満であったのに、これも少々勝手が違う。
室井によって引き出されたのは、苛烈ながらも年下の甘えを乗せた可愛い気の置けない間柄だ。
まるで室井に因って二人の仲を目の前で見せ付けられたようなものだ。
それに何故、室井は青島を外す様な事をこんな大衆の前で告げるのか。

「捜査はチーム戦だ。一丸となって行わなければタイムロスが致命傷になる。統率を乱す者は必要ない」
「分かってますよっ」
「分かってない・・・君は自分の立場がどれほどのものか、何が出来て何が出来ないのか。もういい加減考えろ。本能で動くな」
「ッ」

粘る青島と険しい表情を崩さない室井を、周りが怖々と見つめていた。
空気はピンと張り詰めたままだ。

「勝手に群れを粗末にする人間は規律を乱す。常識だ。いいな?・・・・いいですね、本部長」

突然話を振られ、挙動不審気味に本部長も承諾を示した。

室井の深い闇色の瞳がじっと見定めるような強さで未だ青島を見据えていた。
何故か微動だにしない室井に鳥飼は疑問を向ける。
それは青島も同じだったらしい。
室井の視線に青島がたじろいで、不貞腐れた顔のまま少し後退する。

「な、な、なん、ですか・・」

怖気づいて少し後退さる青島に、逆に室井が間合いを詰める。
一歩。

次の瞬間、パシッと肌を打つ音が聞こえるくらいの強さで室井が青島の手首を掴み、ぐいと手を引いた。
不意を突かれた青島の身体がひょいと傾き、室井の方へ倒れ込む。
室井がその動作に合わせ、衆人環視の中、身体を近付ける。

「!!」

突然の室井の無言の暴動に上座に着席していた管理官や指揮官全員が唖然と口を開けて固まった。
室井はそのまま何の躊躇いもなく青島の額と額を触れ合わせる。
周囲にいた捜査員全員の視線が針のむしろの様に刺さり、青島の顔がほんのりと赤らんだ。

「な、な・・・、・・っ」
「――」

フロアの上座で、鼻と鼻が触れ合って、異常な距離で二人が接近している。
注目の的となった二人を中心に、事態に付いていけない会議室は一転、一斉に鎮まり返り、呆然と見入っていた。
唖然とした捜査員たちは誰も言葉を発せない。
皆の視線が此処一点に集中していた。
巨大な注目を浴びた青島は、堪え切れずにうろたえ、彷徨い、最後にやはり哀願するように見開いた目を向け指示を委ねたのは室井へだった。
黒目がちの漆黒の瞳が、間近で青島を映すことで、青島に金縛りを起こす。

「ぇ・・・えっと、・・ッッ・・、ぁ、の・・っ・・」

哀願するように青島がむろいさん、と名を漏らした。
衣擦れの音もなく、室井がまるでキスをするかのように頬を寄せた。
思わず青島がうひゃあと目を瞑る。

しっかりと捉えられた二の腕まで室井の長い指先ががっしりと掴み、力で引き寄せられていて青島は振り解けない。
いや、仮にそうでなくとも、青島には振りほどくことなど出来ない。

誰もが我に返る頃、ようやく、大きく息を吸い室井が心底呆れたように黒眼を向けた。
時間にして数秒。
しかし青島には、そしてここにいる室井以外の人間全員には、果てしなく長く感じられた時間だった。

「君は自分で自分の体調も把握できないのか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・へ?」

状況が上手く把握出来ない。
室井一人が飄々として、熱があるぞと小さく呟く。
青島を見据えたまま室井はあんぐりと口を開けている本部長に告げた。

「コレは私が引き取る。君たちは捜査の継続を」
「は、はぁ・・・」
「それと、君もだ」

青島の二の腕を持ち上げるように引き摺り、室井は鳥飼の横を通り過ぎ様。

「あまりコイツを挑発するな。宥めるのに苦労する」
「!」

突然の話の矛先に、鳥飼は反論も浮かばず奥歯を噛んだ。
付いていけないでいるのも無視し、室井はさっさと檀上を通り過ぎていく。

「恩田刑事!」

既に周りに所轄の姿はない。
誰しもが疑惑の視線を彷徨わせて怪訝な雰囲気が漂う中、室井は視線だけ上方扉に向け、慣れた様子でもう一度口を開いた。

「そこにいるんだろう、恩田くん」
「・・・気付いてたの」
「すまないがコレを医務室でも仮眠室でも放り込んでおけ」
「了解」

スッと壁から姿を見せた恩田すみれが、組んでいた腕を外し、青島に近付いてきて、室井から青島を引き取った。
そのまますみれが腕を引いて部屋を後にする。

「む、むろいさんっ」
「――」
「・・、あの、俺・・・・!」
「体調管理も出来ない人間の吠えごとは聞かない。言い分は治してから言うんだな。自己管理のなっていない証拠だ。少し反省しろ」

すみれに引き摺られながら、青島が室井を縋るように振り仰ぐ。

「いつから・・・・」
「最初っからだ」
「・・・っ、」

室井が振り返りもせずに答える。

「捜査の邪魔だ。早く行け」

青島が縋るような瞳でぺこりと頭を下げると、室井が一度だけ視線を流した。
そのままずるずるとすみれに引き摺られていく。
呆気にとられた本店捜査員たちも、ただ黙って事の成り行きを見送った。
やがてパタンと扉が閉ざされて、フロアは通常を取り戻した。


***


こんなに悔しいと思ったのは初めてだった。
鳥飼は凛とした姿で何事もなかったかのように後ろの扉から退席していく室井の背中を睨みつけるように見返していた。

目の前で奪い去られた。
こんなにも鮮やかに取り戻してみせた。
青島の気持ちなど知らない。
だがあんな風に我が物と独占欲をあからさまに見せ付けられ、室井に言い逃げされたも同然だった。
それも、たった一言、名を口遊んだだけで。

青島は扉が閉まるまで室井を見ていた。
政治の場に身を置く男が、早々感情を悟らせるようなことをする筈がない。
ということは、今の一連のパフォーマンスは、全てわざとなのだ。
恐らく室井は鳥飼の狙いと気持ちに気付いた。

先制された。
油断していた。室井はもっと淡泊で世間知らずだと舐めていた。
想像よりもっと強かでもっと手際の良い男だった。
ブランドスーツが室井を理性の塊に見せているだけで、本当は精密に泥臭い、算盤高い男だ。
そうだ、彼もまた、この警察組織でトップを目指す選ばれたエリートキャリアなのだ。

精魂削る出世レースを勝ち抜ける、強靭な逸材であることを改めて突き付けられ、鳥飼は無意識に白テーブルの上できつくペンを握っていた。
届きそうだったものが目の前で奪われて、気付かなかった鳥飼の心の中までを暴かれる。

あんなにも蠱惑的なものを室井は独り占めしているのが、悔しい。
青島もだ。
不意の笑顔と、真っ直ぐな瞳と、無邪気な嘘で誤魔化すから悪いんだ。
こちらを見ない彼が憎い。彼を奪い去る男が憎い。憎い分だけ心が本質を恋しがる。

鳥飼に火を点けたのは室井だ。
単なる同僚で済ませておけば煽ることもなかったのに、あれでは雄としてのあからさまな独占欲を認めたようなものだ。
人の業と見苦しい愚盲な世界に足を入れながら、それでも綺麗なものを欲しがる、その強かさが苛ついた。
苛つくだけの熱量が自分の中にあることを、室井によって自覚させられた。

「やって・・・くれましたね」

知らなければ良かった。
彼の甘い声も、美しい瞳も、無邪気な笑みも。
こんな淡い気持ちも、そんなものが未だに自分の中に巣食うという残酷な事実も。

決して望んではいけない救済の先がそこにある。
あの光を抱いて死ねたら、さぞかし幸せな夢が見られるだろうと思えた。

チラチラと炎が揺れるように、鳥飼の脳髄の中で何か赤いものが途切れずに散っていた。









3.
薄暗いままの医務室に入る。
豆電球だけの中で青島が寝息を立てていた。
本当に、帰らなかったのか。

他には誰もいない。
安らかな呼吸音は彼が深い眠りに誘われていることを証明していた。
見た目から病人になどにはとても見えない。のに、室井は一瞬で青島の異常に気が付いた。

「・・・・」

鳥飼はスッと指を伸ばし、うねった前髪が張り付く額に触れる。・・・・熱い。

二人の噂は上層部に上がるほど忌み話として有名だった。そして、先程の会議室でのやりとり。
鳥飼の分かりきった挑発にも乗らず、室井はただ青島の出方を信頼していた。
何よりあれほど噛みついていた青島が室井の視線一つで巧みに制御された。

押し隠してしまい、演技で周りを煙に巻くのが得意の彼の体調に、室井は一体どこで気付いたのか。
つまり鳥飼が見せられていた青島は、表面だけの薄っぺらい仮面だと見せつけた。

分からない。その繋がりも態度も。時の長さも。
これまでの職場でそんな関係を見たことが無い。

規則正しい寝息のリズムが狭い部屋を穏やかに漂う。
鳥飼は屈むように身を寄せ、その頬に恐る恐る掌を翳してみた。
ぷにっとした弾力を返す肌理の細かい肌。
薄く開いた口唇から寝苦しそうな湿った息が漏れる。

更に身を屈め顔を近づけた。
生きている、その生命力の瑞々しさが、鳥飼に何とも言えない味わいを齎した。
吸い寄せられるままに鳥飼は吐息に近づける。


「そこからどうするつもりだ」


鳥飼の身体に緊張が走る。
屈んだまま鋭い視線を背後に滑らせれば、扉に手を掛けた室井が凛然と立っていた。
――全く気配に気付かなかった。

「離れろ」
「具合を見ただけですよ」
「とてもそうは見えなかったが」
「貴方こそ、帰ったのでは?」

扉に片手を掛け、大きく影を背負った室井が闇と同色の漆黒で鳥飼の動きを制した。

「本日の仕事は終了している」
「まさか看病しにここへ戻ったとか?」
「君には関係ないことだ」

室井は表情を硬くしたまま、つかつかと近寄り、サイドテーブルに荷物を置く。
コンビニの袋を掲げていることからも、明らかに此処へ舞い戻った理由は一つだった。

鳥飼はゆっくりと身を起こし、佇まいを治した。
室井の影を静かに視線が追うが室井は視線も交わさずコートを椅子に掛けながら問いかける。

「ここで何をしている?」
「指示を出した後の指揮官にやれることは限られていますよ」
「まだ捜査は続いている。他にすることがあるだろう。事件は終わっていないんだ」
「ですから、こうして」
「言っている意味が分からない」
「関係を作ろうと思いまして」
「だったら起きている時にやれ。意識の無い人間にすることじゃない」
「――」
「慣れぬことはするな、手が震えているぞ」
「では貴方は慣れている?」

くすりと音が聞こえそうな口端で、鳥飼は室井の前に立った。

「武者震いですよ。男なら分かるはずだ」

見つかった緊張からか、或いは咄嗟に出た誠か、鳥飼の手は薄っすら小刻みな奮えを持っていた。
触れられると思った衝撃は、脳髄から滴らせる。
恐らくそう長くは抑制の利かないその情動を、身勝手に終わらせられ、鳥飼は理解も出来ずに舌打ちした。
話を反らすため、敢えて口調も変える。

「まさかここで一晩看病するおつもりですか」
「君には関係ないと言った」
「貴方が彼にそこまでするメリットが見えませんが」
「君にはないだろうが、少なくとも――」

そこで室井が言葉を途切れさせる。

「なんですか?」
「いや、腐れ縁だ」
「なんで彼なんですか」
「その質問に応える義理はない」
「彼が欲しいと言っても?」
「・・・・男だぞ」
「同じ台詞を返します」

返答を間違えたことを、お互いに気付いた。

「・・・・いいだろう、ちょっと席を外そう」

室井が一度だけ青島の方に視線を投げた。
彼には聞かれたくない、つまりはまだ彼には告げていないものがあるということだ。


****


扉を閉ざした薄暗い通路で向き合うではなく横に並ぶ。

「その眼。青島に付き合わされた時に負ったと聞いた。すまなかった」
「貴方に謝られることではありません」
「凝りたらあいつには手を出すなという意味だ」
「・・・、何故、彼なんですか」
「・・・」
「貴方なら他にいっぱい相手はいるでしょう?それこそ身分もしっかりとしたご婦人方が」

口にして、今、鳥飼ははっきりと自覚する。
自分はこの男に嫉妬しているらしい。
何も持っていないくせに、一番分不相応なものを手に入れている。

「貴方ほどの者がなぜそこまで彼に拘るのですか?」
「私を評価してくれるのは有り難いが、買い被ってもらっては困る」

同時に、室井と自分は似ているのだと理解する。

「君こそ何故彼を」
「そうまで仰るのであれば、青島さんを妄執して差し上げれば宜しかったのに」
「そんなことは望んでいない。私も彼も」
「きれいごとを言っていたら、人の心は遠ざかる」
「私達の絆は揺るがない」
「言い切れるのですか」
「ああ――残念ながらな」

元々長話をするつもりもなかったらしい。
室井は壁にもたれていた背を起こすと、きっぱりと鳥飼の方を向き、闇色の瞳を灯らせた。

「青島にこれ以上深入りしない方が良い。忠告したぞ」
「可笑しなことを言っているのは貴方だ、彼は男ですよ、それではまるで私達が恋のライバルのようだ」

しんとした廊下は冷たく、声が奥まで吸い込まれる。

「誰になんと言われようと私はあいつを手放す気はない」
「はっきり仰いますね。彼を怪我させたのも、貴方なのに」

用は済んだとばかりに、室井は返事を避け医務室の扉に手を掛けた。
その背中に鳥飼は声で追った。

「ならば奪うまでです」
「何だと?」
「必死で護ることです。それが出来ないのなら、身の丈に合わないものということだ。奪われても文句は言えない」

室井は片眉を上げるだけで返事を避けた。

「貴様、何者だ?」

室井が不釣り合いな言葉を以って、いぶかしげに眉を顰める。

「ただの補佐官ですよ」
「面白いことを仰る」











4.
三日後。青島の姿は再び捜査本部にあった。
廊下の片隅で少し照れ臭そうに鳥飼を見上げ、復帰と謝罪を告げてきた。

「反省。・・・なんてしてないんでしょう?」
「そんなこと――ないですよ」

分かっちゃいます?と悪びれない顔に、くるくるとよく動く愛らしい瞳で鳥飼を映す。

「えっと・・・これから本庁ですか?」
「ええ、一旦引き上げようかと」
「送りましょうか」
「・・・・・」
「あ、送迎の方がいる?」
「居ませんが」

何となくお互いが次の言葉を待って沈黙が出来る。
少し言葉に詰まって、それから青島が髪をくしゃりと握った。

「うちの上司、しょっちゅうお偉いさんの運転させようとするから。昔から。・・・クセになっちゃったかな」

照れくさそうに、すいませんと頭を下げる青島を鳥飼はただ観察した。
ネクタイをだらしなく下げている首元は肌を覗かせ、緩く着こなすコートが覆う丸い指先で柔らかそうな細髪を乱す。
無警戒に笑う顔には、あの日見た焦燥のような熱は欠片も探せなかった。

本庁の人間の送迎ならば、きっとそれは室井のことを指しているのだと思えた。
こんなところでも、室井の影がある。

「いいえ。気にすることじゃありません」

室井の警告は、恫喝だ。
鳥飼の挑発にも乗らず、奪えるわけがないと彼は言っているのだ。

「青島さん、今日はこれで上がりですか」
「そうなりますね。病み上がりだから迷惑って追い出されちゃった」
「だったら一つ、頼まれて貰えませんか」















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