箱庭6
16.月曜日
小さく名を呼ばれた声にすみれが振り返ると、所在なく俯いた状態の青鈍色の布地が視界に入った。
水柿色のネクタイと同系色のタイピンが蛍光灯をクロスに反射する。
いつもよりちょっぴりリッチな格好の青島が、いつもよりちょっぴり難しい顔をして、ぬぼーっと立っている。
「うわ、びっくりした」
とりあえず、リアクションしてみる。
むっとしているようだけど、でも、なんか反応が悪い。
今朝からずっとこんな調子だが、とりあえず、無視をする。
「下。・・・待ってて。あたしももう上がれそうだから」
人差し指を下に向けて告げれば、軽く頷いて、すごすごとその場を去っていった。
何となく重たい彼の足取りを、ボールペンを持ったままの手で頬杖をついて、ぼんやりと見送る。
金曜日には襟足まで掛かっていた長めの髪が、今日は梳いたように短くなっている。
エアリーな軽さで空気を含み、動く度にてっぺんの朽葉色の髪がふわふわ揺れていた。
ワイシャツの下に珍しく着ているタートルに微かに遊ばせている遅れ毛が、少し寝ぐせのように跳ねる。
今日ってそこまで寒かったかな?
今日は、事件さえ入らなければ、これから二人で食事に行く予定なのだ。
・・・・付き合う何年も前から、この時期に入ると青島が毎年、年甲斐もなく、自分で騒いでいるから、否でも覚えている。
いつもなら、ワンランク上のカップラーメンだの、おやつ付きだの、何かしらの褒美で一人悦に入っている青島を見てきた。
今日は、青島の誕生日だ。
-青島くんって、本人が思う以上に、見た目が割と人並み外れだから、ちゃんとした格好をさせると、かなり見栄えが出るのよね
何でも一昨日は、卒業以来の大学同窓会があるとの話だった。
そのために着ていく服がないってぼやくから、それを口実に、先週末、初デートなるものをして
そこで、二人で紳士服売り場巡りをした。
どうせなんだからって言って、高級ブランドの一式を上から下まで次々用意させて、盛り上がったことを何となく思い出す。
いつものスーツではなく、かなりの値が張るブランドスーツを着ている今日の彼は、一段と洗練されていた。
元々高身長でスタイルも悪くない分、童顔で整った顔立ちもあって、それなりの格好をさせると、オーラが変わる。
朝、ギリギリで飛び込んで来た姿を見た時には、誰もが息を呑んでいた。
――勿論、そのあと、いつものコートはどうしたんだとか、職場にそんな恰好をするなとか、税金泥棒って言われたらどうすんだとか
散々もみくちゃにされてたけど。
目が合って、ばかね、帰り際に着替えれば良かったのに、って言ったら
照れ臭そうに、眼で笑っていた。
-やっぱり署内では浮いてるわ
心の中で失礼な感想を浮かべたすみれは、本日の仕事をさっさと終わらせるべく、目の前の書類に取りかかった。
*:*:*:*:*:
通用口を出ると、北風がビル風を生みだして、コンクリートから旋風を巻き上げる。
思わず目を閉じた。
乾燥した冬の匂いが、とっぷりと暮れた夜空に舞って、この街特有の潮の匂いも、今日は薄い。
背後の署内からは、クリスマスムードというよりは歳末モードで今日も多忙な剣呑とした声が、引っ切り無しに飛び交っている。
多分、こんな早く上がれるのは、今日くらいで
明日から年明けまでは、仕事に忙殺されるのだろう。毎年の恒例だ。
また風が褐色の枯葉を宙へと持ち上げる。
色々変わっていくものは多いけど、変わらないものもある。
来年は、どんな未来が待っているのだろう。
すみれは白いコートの上に撒いた、赤と紫のタータンチェックのストールを口元まで引き上げた。
形の良い卵型の細い顎に、黒髪と赤のコントラストが映える。
門番に戻った森下くんから、お疲れ様ですという声が掛かる。
その声に首だけ振り向けば、Aラインの裾がくるりと舞った。
〝そういえばその同窓会終わったら、すぐ誕生日じゃない?〟
〝あ~、また一つ歳取るねぇ〟
〝嬉しいの?〟
〝嬉しくないの?!〟
ガコッ
〝イテッ〟
〝女の子に歳、聞かない!〟
〝だって自分で自分慰めなくて、誰が慰めてくれるのさ!〟
〝それで毎年ささやかな贅沢してんの?呆れた~〟
〝今年はねぇ、プレミア〟
〝あ、分かった!あそこの仕出し弁当でしょ〟
〝ついに挑戦する日がやってきたよ・・・!〟
〝・・・ねえ、それで、終わり?〟
〝まあ、あんまり贅沢も出来ないですからねぇ。今日の出費も痛いし〟
〝何で無謀なことしちゃったのよ〟
〝ん~、折角すみれさん、選んでくれたし〟
〝ばかね・・・〟
〝ありがとね、すみれさん〟
〝もう、満足・・・?〟
〝そうですねぇ・・・当分、贅沢はいいかなぁ〟
〝そうじゃなくて・・・〟
〝ん?何?〟
〝だから・・・・・〟
〝・・・すみれさん?〟
〝だからっ、誕生日・・・!あたし、が、祝ってあげよか?〟
〝・・・・・・・・・・・え〟
ぽんぽんと、軽いステップで、沿道へと向かう。
黒の少しヒールの高めのパンプスが、軽快な音を響かせた。
パンツスーツの多いすみれだが、先程着替えた膝上スカートが、その細い足をコートが揺れる度に隙間から覗かせる。
正門の『湾岸署』と白くライトアップされている看板の横に、背中を丸めて手を口元に翳している黒い影が目に入った。
短めに切り揃えられた後ろ髪から背中が、ライトを浴びて淡く光っている。
いつものモスグリーンのミリタリーコートではなく、鳩羽鼠色のトレンチコートの襟を立て、東京の寒空を見上げているその姿に、ドキリとする。
少し短めのトレンチは、青島の足の長さを程良く強調していて、スタイルを良く見せ、外で見ると、本当に少し別人に見えた。
タイトすぎない絶妙なスリムシルエットは、オーダーメイドではない筈なのに、ボディラインに沿った仕立てスーツとなっていて
そのラインと印象を、垢抜けて高貴にも見せている。
レザーのハイカットブーツを合わせている足のラインまで、すごく、インプレッシブだ。
初デートで、色気も無く紳士服専門店を幾つか回ったが、その度に、店員さんから勧められるスーツを器用に着こなす体型に、嘆息していた。
それは、すみれの想像以上で、姿見の前に立つ彼に、心臓が跳ね上がっていたのは、嘘じゃない。
テンションが上がっている女子店員さんと共に、はしゃいで着せ替えごっこをした。
一通り遊んだ後、面倒くさくなったのか、すみれに気を使ったのか、青島がまるまる一式買うと言い出した時は
流石に店員さんと共に、フリーズした。
慌てて、本来の仕事を思い出したかのように、頭を下げてマニュアル応対する店員さんを見ながら
すみれは小声で、大丈夫?って袖を引っ張った。
でも、青島は、優雅にウィンクして。
これで同期の奴らを驚かしてやるって、悪戯っ子な瞳を煌めかせていた。
それ以上は止めなかった。
・・・・・カノジョ面したかったのかもしれない。
男が女に服を贈るのはそれを脱がせたい欲望だっていうけれど、女が男を飾るのは、所有権の主張なのかなって思う。
「お待たせ。行こっか」
「あ・・・・・うん」
二人並んでテレポート駅へと歩き出す。
まだ、この同僚ではない間柄に、少し慣れない。だからこそ、暗い夜道だが、歩道の狭さは今はちょっと都合が良い。
二の腕が触れるか触れないかの距離で、並んで靴音を立てる。
「あ・・・のさ、すみれさん」
「・・ん?」
「話・・・、あるんだ」
「うん。何?」
「ん、・・・・と。」
話があると青島の方から振ったくせに、歯切れが悪い。
今日は一日中、青島がこんな顔をしていたのを、すみれは気付いている。
その話を聞くのは自分だろうとも、直感していた。
朝、彼が出勤してきた瞬間に、先週までとは明らかに違う瞳の色を見た瞬間に。
青島の中で何かが変わっているのを、肌で感じていた。
少し陰りの残る、淡い瞳の光の強さは、ずっと待ち焦がれていたものの筈なのに、それはどこか不穏な予感を残す。
「何?はっきりしないわね」
「大事な・・・話、で・・・だから・・・その」
「食べながらにする?」
「ん・・・でも、食事になんか行ったらそれこそ・・・」
「・・・・」
青島が俯いたまま、立ち止まってしまった。
開けた川沿いから連なる遠くのビル群の赤いランプが漆黒の夜空に点滅している。
欄干の上は、河川を吹き抜ける凍えた風が、キリキリと鼓膜を鳴らした。
突き刺す様な海風に、何が痛いのかも分からなくなる。
等間隔に並ぶ電灯の白色ライトまで、冷たく見えた。
青島が言葉を濁すのは、いつだって、自分のためじゃない。
彼はいつだって、自分より周りを優先させてしまう人間だ。
だったら、言い難いのは、すみれに気を使っているから。
すみれに気を使うようなこと。
それは、きっと。
朝から感じていた嫌な予感が頂点に達する。
女が男を飾るのは、所有権の主張――
だとするならば、すみれの中に、主張したい何かがずっと渦巻いているということになるのだろう。
「お願い。せめて、風除け出来るとこ行きたい」
*:*:*:*:*:
駅前の改札までを誘うアーケードの下に着いてから、改めて向き合う。
青島を促すように、すみれがじっと見つめる。
「同窓会は、楽しかった?」
「あ・・うん、久しぶりに・・・・・はしゃいできたよ」
「そこで元カノにでも再会した?」
「・・・、すみれさん・・・ごめん、俺・・・」
「言わなくていい。顔みれば分かる」
「・・ぁ・・・」
今の第一声の音色で、すみれには分かってしまった。
くしゃりと前髪を指に通し、青島が言い辛そうに、視線を外す。
「勝手、すぎるよな、俺・・・」
「そうね」
「でも、大事な人には嘘、吐きたくないんだ・・・」
「残酷ね」
「・・・どうして――」
「ここで理由を聞くのは、あまりにずるいわ」
「・・・・・ごめん」
歯を食いしばって、青島が横を向いてしまった。
どうして分かったのか。そんな疑問、聞きたくない。
その頬に、短く切りそろえたばかりの朽葉色の横髪が、風になびく。
すみれは両手を後ろで組んで、くるりと後ろを向いた。
「泣いて縋って欲しい?それとも、引っ叩いて欲しい?」
「すみれさん・・・」
「それとも、あらゆる決め台詞を吐いて、罵れば良いのかな・・・」
相手が青島だから、すみれはもう一度恋をしてみようと思えた。
同じ傷を知っていて、同じ場所で痛んだ羽を休めていた二人だから、一緒に歩きだせると思えたのだ。
この先を、理解し合え、支え合っていけると思っていた。
「心変わりする時って、随分簡単なのね」
「一つだけ、誤解を解かせて・・・?」
「何?」
「確かに同窓会に元カノも居たけど、別に復縁した訳じゃない。とっくに終わってるし。向こうも結婚してたし」
「・・・・」
「仮に元サヤ迫られたって、俺はそんな簡単に揺れたりしない」
なら、何が青島を変えたのだろう。
確かに、同窓会に出席したぐらいで浮気されるなど、短絡的なのもいいとこだが
たった週末の二日で、他に変わる要因が思い至らなかった。
同窓会で昔の恋が再燃して、という話は良く聞く。
「俺、真剣にすみれさんのこと、考えてたよ」
「過去形なのね」
「今もだよ!すみれさんのこと、大事だし、俺で恋を始められるなら、その手助けがしたいと思った」
「馬鹿にしないで!子供じゃないのよ!」
「・・・・ごめん」
湧き上がるのは、悔しさなのか哀しさなのか分からない。渦を巻く感情は、切なく胸を締め付け息苦しくだけさせる。
それを吐きだすように、すみれは息を吸って向き合った。
「なによ、青島くんにとって、あたしって自分でオシメも変えられない赤ちゃんなの・・?」
「ごめん、そういうつもりで言ったんじゃない」
「じゃ、どういうつもりだったのよ。あたしのこと・・・っ、好きじゃないんでしょ・・・っ?」
「・・・・好きだよ」
「同情はよしてッ」
少し声が感情的になってしまった瞬間、これではまるでヒステリックな茶番だと思い、羞恥が惨めな痛みに変わる。
袖口で赤らんだ顔を覆って、視線を伏せた。
気付いたばかりの青く瑞々しい若恋は、まだ制御が効かなくて。
別れる時に、こんなみっともない姿を見せるようなこと、したくはなかったのに。
・・・・したこともなかった。
まさか自分が別れ話でこんな品位の無い醜態を晒すなんて。
恋は、知らないあたしを連れてくる。
その、初めての衝動に、自分でうろたえた。
青島の丸い指先が伸びてきて、あの日のよう幾度か躊躇いを見せた後、思い余ったように口唇に掛かった横髪を梳かれる。
いつものじゃれ合うような強さではなく、しっとりと、壊れ物を扱うかのように、添えられた。
指先が動く度に、いつもの煙草の匂いも揺れる。
「・・・っ、やめて、よっ」
付き合うことになったって、一度も触れようとしなかったその指の呪縛が強まり、すみれは顔を背けた。
すみれの視界が白く滲み始める。
「ごめん。虫が良いこと、分かってる。殴っていいよ。でも俺、すみれさんには傷ついて欲しくない・・・」
「勝手なこと言わないでッ」
「すみれさんの望む様に、して良いから」
「なら、ずっと、あたしの傍に居てくれる・・・?」
「・・・・、居るよ、ずっと居る」
「あたしだけのものでいて。あたしだけを見つめていて。あたしに触れて!」
「・・・ごめん」
「・・・・」
「すみれさんとこには、もう・・・・・戻れない」
「どう、して?」
理由を問う言葉に、青島の指先の力がふっと緩んだ。
その反応に、背けていた視線を戻す。
青島も、少しだけ身体を外した位置から、すみれの数多の星を散りばめたような薄く膜を張る漆黒の瞳を、真っ直ぐに見降ろしていた。
背後に電灯を背負った青島は、すみれの滲む視界の中で、その短い毛先を辛子色に光らせ、総身を金色に纏う。
まるで、天から降りてきた使者のように、それは敬虔で、儚く。
酷く、美しいと、思えた。
こんな顔、見たことない・・・。
ふわりと旋風がすみれの黒髪を巻き上げ、青島を髪を揺らしていく。
じっと、見つめ上げれば、青島の視線も外すことなく絡め取られ、二人の視線は北風の中に、静かに行き交い合った。
その瞳の輝きは、知っている。
ずっと傍で見てきたもの。
ここまで導かれてきたもの。
最近失って、消えていたもの。
ずっと、戻って欲しいと待ち焦がれていたもの。
何かがすみれの中で合致していった。
「まさか・・・・室井さん・・・・・なの・・・・?」
それには応えず、青島が瞳色だけで柔らかく微笑む。
だが、すみれの心に湧いた砂粒ほどの疑惑は確信に変わる。
「逢ったの?・・・来たのね?」
「・・・・うん」
「仲直り、出来たのね・・・?」
「その件については――YES、かな」
「・・・ッ」
事情は良くは分からない。
でも、取り戻しに来たのだろう、あの男が。
室井の青島への執着は、傍から見てても良く分かっていた。
あの静かな中に激情を滾らす男が、そう簡単に青島を手放すようなことをするとも思えなかった。
すみれ目線で見れば、この繋がりを必要としているのは、青島の方ではなく室井の方だ。
肝要という意味では、室井とすみれは、謂わば、同罪者であり同胞者だった。
だから、彼の視線の意味も価値も、良く分かる。
同じように、同じ場所で、同じ人間を、同じ時間、見つめてきたのだ。
だが、何らかの力が青島を頑なにし、室井を引き離し、二人を無残にも離別させた。
その件については、残すは室井の手腕に掛かっていると思っていたから、ようやくか、と思う。遅すぎるくらいだ。
そして、この件上では、すみれには何の力も及ばないことを、口惜しくも分かっていた。
否、だからこそ自分たちは、現状を憂えるのではなく、傷ついた心を受けとめる形で、同じ痛みを共有し、そこから支え合い、現実を生きる力を得られると考え
た。
誰かに理解してもらえるって、それだけで強い力になる。
そこを切欠に、ようやく二人の足並みが揃い
今、ここから二人で歩けていけそうだったのに。
何でこのタイミングなのだろう。
何てタイミングなのだろう。
やっぱり神様は意地悪なままだ。
「あんな青島くんを置いて行っちゃうような奴の、何がいいの?」
「置いて行かれないように、必死に走っていきたいんだよ」
「いずれは用済みになるんだよ?」
「うん・・・俺が、そうしたいんだ」
二人の繋がりの強さは知っている。
別に、その頑固な繋がりを、否定するつもりはない。男なら、仕事に掛ける思いの深さも、あるだろう。
だが、どうして室井と共に生きることが、すみれとの別れに繋がるのか。
恋と仕事は全くの別物だろうに。
またあの男なのか。
青島に隙を作るのも、青島に輝きを取り戻すのも、あの男だけ。
自在に操りながら、それで、青島がどんなに苦しみ、傷つき、手折れたかを、あの男は知らない。
それを傍で見守って一緒に一番胸を痛めてきたのは、すみれなのに。
「ねえ、どうして?どうして室井さんと居ることがあたしと別れることになるの?あたしは別に仕事のことまで口出しするような女じゃないわよ」
「分かっているよ」
「じゃあ、どうして?」
「俺・・・はね、すみれさん。二人の手を、両方取ることは、俺にはできない」
ぞわりとした鳥肌が背筋を走った。
それまはるで、室井を恋の相手として、二人が恋し合っているかのように、聞こえた。
それを確かめようとして、寸前ですみれは口を閉ざす。
今なら、多分、聞いたら青島は正直に応えてくれるだろう。
だが、それで、真実肯定されてしまったら?
「だから、行かせて・・・?あのひとの元へ・・・」
聞いてどうするの?
青島と室井が性的マイノリティである事実を、自分は受けとめられるのか。
いや、本質はそこではない。
もし、それが事実だとしたら、すみれの恋敵が室井ということになり、恋のライバルに勝つということは、青島の中で室井以上の存在になるということだ。
そのあまりの途方も無さに、愕然と打ちのめされる。
「・・・ッ」
-違うわ。恋と夢は別物でしょう?あたしは女で室井さんは男なのよ。この勝負は勝負にもならない筈なのよ
認めたくない。
でも、何を?
あたしが認めたくないのは、何?
思考は混乱する。
じゃあ、何で今日の青島くんはこんなに凛としているの?
じゃあ、何で今日の青島くんはワイシャツの下にタートルを着ているの?
何で、土曜日に着た筈の服を、また着ているの?
「でも――でも、じゃあ、青島くんはどうなるの・・・・?」
「どうって・・・・?」
哀しく揺らぐような微笑は、それで死ぬことすら構わないという、犠牲的な愛情を映し出した。
青島はいつだって、こんな風に自分のことを置き去りにして、博愛を捧げてしまう。
室井の立場では、それに対し、何も捨てられないし、何もあげられない。
その裏の献身的な存在を知っててあげるのは、物理的に傍にいる、すみれの役割だ。
あまりに、そんな情熱に賭けようとする男の愛し方が哀しくて、すみれは喉を詰まらせた。
「何も捨てられない男にために、全てを失うつもり?」
「いいんだよ、それで」
「それを分かってて、あたしにも見過ごさせるつもり?」
「・・・・出来れば」
「ねぇ、あたしだったら、青島くんの傷が分かるよ、あの人には分からないじゃない・・・!また置いて行かれて、また泣かされるのよ!?」
「うん、それでも――」
「ねぇ、止めなよ、もう次へ進みなよっ、あたしに言ったように!」
「それは・・・・」
「あたしと居よう?青島くんの傷ついた怪我を癒せるのは、あたしだけじゃない・・・っ」
「すみれさん・・・・」
「一緒に居て・・・!あたしの傍に居て・・・・!あたしが痛みも辛さも寄り添うから・・・っ」
その瞬間、すみれは、言葉を間違えたことを知った。
淡い光の中で、青島が小さく微笑む。
アーケードに吹き込む風が二人のコートの裾をパタパタと音を立てて翻し、足元から身体を、そして二人の温度を、冷やしていく。
ひと気のない通路に風音が木霊して、人声の失われた空間を無機質に寂れさせる。
儚く、慈しむように笑う青島が、ゆっくりとすみれの肩に手を置いた。
少し寂しげで、少し切なげな、遠い表情。
-ああ、違うんだ・・・・。
青島が求めているのは、癒しではない。
彼が求めているものは、傷を知って憂える憩いの場ではない。
すみれは心の底から安心でき、安穏を得られる場所を、彼の隣に見つけられた。それは青島にとっても同じ筈だった。・・・きっとそれは今も。
だが、彼が欲しがっているのは、傷を癒してくれる場所でも、傷を舐め合う場所でもないのだ。
一緒に痛みを抱え合い、明日を生きていく相手ではなく、多分、傷痕よりも強く躍動する情熱。
共に生き残る術を探す相手ではなく、共に打ち倒れてくれる相手。
子供の戯れの延長のような、その破滅的な生き方が、青島の心を結果的に満たす故に
最後の一線を捨てられずに、傷痕に怯えているようなすみれでは、駄目なのだ。
それを、青島は護ろうとはしてくれるだろう。
でも、すみれでは、青島を護れない。
どちらも包み込まれることを望んでいる二人には、この先も、痛みを舐め合うことしか、出来ないだろう。
つまりは、そういうことなのだ。
恋は、対等でなければ成立しないから。
ゆっくりと、肩に置かれた青島の指先に力が籠もって、そっと額に熱を感じた。
「イイ女だね、すみれさん・・・ちょっと、惜しい」
「・・・ばか・・・」
恥ずかしさよりも、浮かんだ涙を知られたくなくて、視線を伏せた。
その時、青島の手首に、先週まではウェンガーと共に掛かっていたお揃いのブレスが、今は無いことを知る。
ああ、もう青島の中では終わっているんだ。
〝ねえ、本当にいいからっ〟
〝何で?今日のお礼だし〟
〝だって・・・っ、一日で幾ら使う気よぅ〟
〝ぶっちゃけ、ヤケ?・・・ま、いいじゃんいいじゃん〟
〝カップラーメンのお裾分けなんか、してあげないからねっ〟
〝えー〟
〝え~、じゃないっ〟
〝ほら。今日の記念に貰って?〟
〝~~っ、じゃあ、お揃いがいい〟
〝え?〟
〝あたしが青島くんの分を買うから、一緒に着けて〟
〝――、すみれさん、意外とオトメなんだ・・・〟
〝だめ?〟
〝・・・・・署内で?〟
〝・・・・・〟
〝揄われるよ?〟
〝・・・・・〟
〝わーった!いいですよ!こうなりゃやってやるっ〟
〝よっ!おっとこまえ!〟
〝おうよ!〟
あの日、お揃いで買ったスワロフスキーのテニスブレスが、今もまだすみれの肌には飾られている。
涙を呑み込んで、もう一度すみれは青島を上目遣いで見上げた。
困ったような、優しい蒼色の瞳が、すみれを映し、夜の闇に浮かんでいる。
「おでこじゃ・・・・やだ」
「・・え・・?」
「ちゃんと、口唇にして」
「・・ッ」
あの日の哀しい記憶を、哀しいままで終わらせるような、青島はそんな薄情な男ではなかった。
乱暴なキスをした翌日、直ぐにこんな風に呼び出されて、照れた視線を伏せながら、「付き合ってみよっか」って、言ってくれた。
始めてみようって言う優しい気遣いが、満ち溢れていた。
好きとか愛しているとか、甘い言葉の似合う間柄ではなかったけど
哀しいキスを哀しいままにしておかせたくないという青島の優しさが、何より心に沁みた。
その日から約一ヶ月弱。
他愛のないカレカノごっこは、思いの外、温かい時間と空間をくれた。
「これで終わりにするのなら、あのキスを上書きして・・・。せめて、青島くんからの思い出にしてよ」
「でも・・・・それは・・・」
「少しは、あたしのこと好きだったのなら、青島くんから、して」
怖かった。
指先が悴んでいるのか、それとも別の意味なのか、小さく震えている。
それは多分、青島にも伝わっていると思えた。
暫くじっと見下ろしていた飴色の瞳が、哀しげに揺れる。
次の瞬間、肩に乗せられていた手が腰に周り、グッと引き寄せられた。
鼓動が跳ね上がる。
大きな温もりに包まれて、いつもの煙草の匂いがして、同時に、青島っぽくないフレグランスのボディソープの微かな香りに包まれて。
熱い息が掛かって、直ぐに、顎を上向かされるように口唇を塞がれた。
瞬間、心臓が締め付けられるように痛む。
「・・・っ」
呼吸も忘れ、目を閉じる。
フレンチキスのようなリップキスだけだと思っていたそれは、後頭部に指を刺し入れられ、固定された所から、男のキスへと変わった。
強く抱き寄せられた腰が、青島の腰と密着しているのも、身体を火照らせる。
触れ合う柔肉が、直に奪われていることを幻惑の中で認識させる。
何度も擦り合わされる肉感に、甘い吐息が自然と漏れて、途端に空気を妖艶なものに変えた。
態勢の悪さと、漏れる吃音への羞恥で、思わずその腕に縋る様に指を掛ける。
―ずっとずっと、こうして欲しかった。この腕に抱かれたかった。その熱い抱擁が、こんな形で叶うなんて。
合わさったままの口唇が、すごく、熱い。
重なり合った躯が、すごく、熱い。
塞がれて、息すらさせてもらえない情交に、青島の想いが伝わってきた。
ちゃんと、好きだっていう気持ちの変わらなさが。
職場の同僚としてではなく、一人の女として、扱ってくれているのだという直向きさが。
―本当に、これが最後なんだ・・・
繰り返される想いを注がれるようなキスは、角度を変えて更に続けられる。
ほぼ仰け反るような格好で押し当てられる口唇の熱さに、眩暈すら覚え、すみれはとうとう躊躇っていた指先をほぼ無意識にその背中へと回した。
それを認識した青島の腕に、更に強く折れんばかりに抱き締められる。
濡れて滑らかな口唇の動きは、手慣れた男のそれだった。
こうして、彼は幾つのキスをしてきたのだろう。
この腕に治まった数多の女に嫉妬する。
青島の吐息が肌にかかって、肌が栗立つ。
密着する口唇が、痺れるように震える。
切羽詰まった感情が誘導されるように、心の襞から破片が零れ落ち、それは、透明の雫となって、すみれの眦から光の軌跡を描いていった。
最後に舌で口唇の合わせ目を辿る様に舐められると、思わず浅ましく喉を鳴らした。
薄っすらと開かれる花唇に、青島はもう一度唾液を吸い取るように重ね、ようやくそっと解放した。
息を乱して潤んだ瞳で青島を見上げるすみれとは対照的に、青島は息一つ乱さず、雄の瞳が悪戯っコに輝く。
「あんまりオトコを誘発するような真似は危険だよ、ワイルドキャットのすみれさん?」
「~っ、ここまでしろなんて言ってないっ」
「そりゃ失敬」
ぽんっとすみれが胸を両手で突き放すと、それを合図に、簡単に青島が腕を解き、一歩下がって笑った。
軽快に片足を軸に付き、移ってしまったグロスを、紅い舌を覗かせて無邪気にペロリと舐め上げる顔が、逆光で野性的に光る。
それも、全部、すみれのためだと、分かった。
これだけ今、情熱的なキスをされてしまえば、確かに青島とのキスで思い出すのは
自分が仕掛けたあの子供の戯れのような哀しいキスではなく、こっちの濃厚な口付けだ。
でも、舌を入れようとはしなかったところに、青島の冷静さと、男の優しさが見えた。
本来は哀しくなるだけの筈の、一方的な男女のキスは、何故か愛情に満ちる。
*:*:*:*:*:
プラットーホームに電車の到着アナウンスが流れる。
二人並んで、終焉を告げる列車を待つ。
もう、言葉はなかった。
ただ、隣に今もこうしていることが、これからも変わらず続いていくのだと、思えた。
動かせば指先すら触れそうな距離に、胸が軋む愛しさが溢れる。
もう、その矛先は、届かない。
走り抜ける列車の風に煽られたストレートの黒髪を、耳に掛けながら、すみれは目を閉じる。
暗がりだった白じんだホームに、電車の黄色のライトと暖房が、人の気配を感じさせる。
足元を吹き抜ける生温い風が、悴んだ指先を解していく。
乗客の最後の波に乗って、すみれは電車のドア前に立った。
ホームに立ったままの青島をようやく瞳に映す。
青島もまた、すみれをじっと見つめ返した。短い前髪が、電車から巻き上がる温風にハラハラと揺れている。
言葉が何も、出て来ない。
「気を付けろよ」
「明日も逢えるよね?」
「逢えるよ、あの場所で」
「これからも・・・・よろしく?」
「うん、よろしく」
発車のベルが鳴る。
「・・ぁ・・、すみれさんっ、何かあったら、俺を呼べよ・・・!」
「うん」
「・・・っと、ぁ、今日、は!ケータイないんだけど・・・っ」
「ばぁか」
「・・・っ」
「頼りにしてるぞ」
「・・・・・そか」
他愛ない文句に言葉が零れ、想いが零れる。
これで男女として向き合うのは最後かと、思わず胸を詰まらせ、すみれは紅い口唇を引き結んだ。
「でもあたしっ、諦めないから・・っ!」
「え?」
「言ったでしょ。未練タラタラの男は嫌なの。これで心置きなく立ち向かえるわ」
「立ち向かうって・・・・」
「あら、青島くんが言ったのよ。もう恋に遠慮はすることないって」
ドアが閉まるアナウンスが聞こえる。
「言った・・・言ったけど、俺――」
「あのムッツリと青島くんの絆は良く知ってる。だけど、男に負けたらすみれさんが廃るわ」
「ムッツリって・・・・」
強がりの微笑を精一杯造る。
ドアがスライドして閉ざされた。
ホームで北風を受ける青島の髪が、揺れている。
何かを言いたげな口元。
戸惑いの瞳。
滑りだす電車に合わせて、一歩踏み出す青島に、心底満足な気持ちを得て、すみれは指鉄砲を差し向けた。
青島が一歩遅れて、苦笑しながら、追いかけてくる。
どんどん遠ざかっていくその影を、見えなくなるまで窓に張り付いて見つめていた。
誘うのは、すみれからばかりの恋だった。
貰うばかりの、恋だった。
あの強い眼差しが好き。
あの優しい瞳が好き。
あたしを柔らかく撫でる指。ちょっと強く抱きしめた腕。
たった二回触れた、熱い口唇。
みんな大好き。
恋をすることで知る、胸の痛みと切なさを、久々に去来させる。
女の子は、女扱いされることで、女の細胞が蘇る。
甘い疼きは、久しく憶えのないものだ。
この気持ちがあるのなら、すみれはまだ、女になれる。まだ、充分、オンナノコだ。
子供染みていた、堅く蒼いだけだった恋心が、花咲くように、女の香りを放ち始める。
青島の手で、すみれの女が目覚めていく。
―ああ、ちゃんと背中を押して貰えてたんだ。身を引く、あの優しい大きな手の平で
流れる湾岸地域の灯は、滲んだ視界には映らない。
大丈夫。大丈夫。頑張れあたし。
踏ん張れ女の子。
恋する乙女は強い筈。
だって今日は火曜日じゃ、ない。
17.覚悟
雪乃がすみれにその話を聞いたのは、週末にもなった、ランチタイムだった。
珍しく定時にランチを取れたすみれが廊下に出ると、丁度外回りから帰ってきた雪乃と、遭遇する。
そのまま、階段下で、立ち話となった。
「振られちゃった」
「嘘でしょ!?」
「ほんと。・・・でも青島くんのことだから、多分、自分が振られたことにしていると思う」
雪乃は続ける言葉が見つからなくて、ただ、視線を刑事課の方へと向ける。
そこには、いつものスーツで、最近何故かワイシャツの下にタートルを着こむのがブームの青島が、硝子扉の向こう側で請求書と格闘している。
「どうして・・・・って聞いても良いですか・・・?」
「んー、まだ恋まで行けなかったのよ、あたしたちは。それだけ」
「そんな、意味分からないですよ、すみれさん・・・・っ」
僅か一ヶ月程前だ。
ここで、二人が淡い恋を成就させたと、すみれの口から聞いたのは。
湾岸署の、この同じ階段下の、木漏れ日の指し込む角際で、すみれが、はにかむように、付き合うんだって教えてくれた。
自分がセッティングした女子会の帰りが切欠となり、青島から告白をされたらしい。
そうなれば良いなと思っていたから、雪乃は温かい気持ちでそれを祝福をした。
揄わないでよ、と頬を少し朱に染めるすみれは、それでも嬉しそうだった。
「ちょっと、流石に早すぎませんか」
「まあ、付き合ってるかどうかも微妙だったし」
「ちょっと酷過ぎますよね?」
「そうでもない。酷いことしちゃったのは、あたしも同じだから」
「でも、青島さんから、言ってくれたんでしょう?付き合おうって・・・」
「そこは――、ん、そうだけど・・・」
「どうして別れちゃうんですか?引き留めれば間に合うんじゃ・・・」
雪乃の目線から見ても、青島とすみれには同調した空気感があった。
誰にも入り込めない独特の間が合って
それが、恋の色をしているかどうかはともかく
青島がすみれを見る目は確かに慈愛に満ちていたし、すみれの方は随分と前から心理的な信任を置いていることが透けていた。
そんな二人が恋人になるのなら、上手くいくと思えた。思いやり合える微笑ましいカップルになったと思っていた。
ましてや、青島がすみれを嫌いになったなんて思えなかった。
すみれの方は、尚更だ。
好き合っているのに別れるって、そんな恋をもうすみれには経験させたくなかったのに。
「二人共、やること極端すぎますよ。なんでそう次から次へと驚かせてくれちゃうんですか・・・っ、もう少し――」
「あたしたちらしいじゃない」
何故だか、自分のことのように困り果ててしまった雪乃は、縋るようにすみれの袖を掴んだ。
すみれは少しだけ考え込む様に小首を傾げ、人差し指を顎に当てる。
小悪魔風の黒目がちな瞳がキラリと光り、顎のラインに掛かるストレートの黒髪が、さらさらと流れる。
「ムッツリが迎えに来たみたいよ」
「え・・・むっつりって・・・・、ぇ、あ、室井さん・・・?」
雪乃が声を潜めて、すみれの耳元に囁くと、すみれもその黒目がちの瞳をくるっと回して大きく頷いた。
途端に、雪乃の中で猛スピードで脳が事態の計算を始める。
――そうだ、確かに今週に入ってからの青島は、憑きものが取れたように落ち着いていた。
元気いっぱいに走りまわっている姿からは、もう迷いが見えないし
何より顔色が随分と良くなっている。
少し痩せたなと思える精悍な頬のラインは、短めに切り揃えた髪のせいで余計に少年のようなあどけなさが出しているが
若く見えるのは、その風貌だけではない肌艶の瑞々しさと、人を惹きつけて止まない、その魂。
何より瞳の輝きが違う。
「そう、ですか・・・。そうか、来たんだ・・・・」
ぼんやりと言葉が雪乃の口から零れ落ちた。
本店のキャリアの出世レースのことは、正直、良く分からない。政治内紛に巻き込まれたらしき彼らが、その後どういう決断を下したのかも分からない。
真下からは、何だかこの世の終末期のような声で、もう駄目かもしれないなんて聞かされていて
手厳しい男社会を骨身に浸みさせていた。
無力なままに無益な想いを捧げる青島の直向きさは、どこか哀調を帯びていて、雪乃を切なくさせた。
自分に何の力もないから強くは出れない青島のもどかしさは、まるで自分ごとのように雪乃の身を切り刻み
未来の凄惨な一面を見せ付けた。
いつだったか、青島が寂しそうに雪乃に打ち明けてくれたあの顔を思い出す。
〝好きだって言って貰えるだけ、幸せなことだと思うよ〟
それでも、手を取る決意をしたんだ。
それでも、青島は、一緒に歩む決意をしたんだ・・・!
力が無くても、何が出来なくても、傍で一緒に受け容れていくことを、選んだんだ。
ひゅっと、雪乃の息が詰まる。
背筋がぐんと伸びる。
瑞々しい覚悟に、胸が熱くなる。
室井は、何を言ったのだろうか。
ちゃんと、青島の欲しい言葉を与えたのだろうか。
連れ戻すだけの決意を、どこに齎したのだろうか。
・・・きっと、朴念仁が何を語らずとも、青島は室井に付いていくのだろう。
真実など、きっと二人にしか分からない。
でも、室井の傍に青島が。青島の傍に室井が居てくれることは、素直に喜ばしいことだと思った。
怯えていたって、始まらない。
伸ばされている手がある内は、傲慢でも、横柄になってでも、いいんだ。
欲しい物を、私だって掴みたい。
私も、一緒に戦いたい。
覚悟を決めた男の決意の顔は、眩しく見えた。
こんな秀抜で素敵な先輩たちがいるのなら、この先、何を恐れることがあるだろう。
自分の境遇と彼らの境遇は同種かもしれないが、厳しさは格段に違う。
自分も見習いたい。
彼らみたいに、カッコ良くなりたい。
「青島さんも、覚悟決めたんだ」
「〝も〟・・って?」
「あ、いえ、こっちの話です。でも、それって例の拉致騒ぎのアレが決着付いたってことでいいんですよね?」
「あの顔見てから言って」
すみれが親指を刑事課へ向ける。
雪乃も肩を竦めてくすりと笑った。
「ちょっと・・・安心しました。青島さん、憔悴してたしやつれてくるし、干からびちゃうんじゃないかって思ってたので」
「言うわね・・・。ま、その件については、一安心ってところじゃない?」
「やっぱ室井さんなんですねぇ・・・。でも、何言ったんだろう。傍に居てくれで戻れるような案件じゃないですよね?」
「さあね?とりあえず本店のことは本店内でケリ着けて置いてほしいわ。迷惑よ」
「確かに。いっつも所轄のことは無視するくせに、こんなときだけ巻き込まないでほしいです。こっちだって暇じゃないのに」
好き勝手な戯言で悪口を言い合う二人は意気投合させて、笑い合う。
「これから・・・どうするんだろ」
「あの二人?そこは努力でどうにかなる域じゃないからねぇ・・・。ただ、室井さんが青島くんを手放すとは思えないのよね」
「身の危険を感じて遠ざけることはあるんじゃないですか」
「青島くんの?」
「そう」
「でも、もう、青島くんが離れないんじゃないかなぁ・・・・」
「そう、ですね・・・・」
何となく室井と青島が抱える世界の重さを感じて、二人の軽口が不意に途絶える。
二人の気持ちがどうであろうと、ここから先は政治の問題で
それは、理念と理念のぶつかり合いであり、どちらが勝つかは、正義ではない。
重い空気になった不穏なものを消し去ろうと、気を取り直すように雪乃が肩に吹っ掛けていた黒のショルダーバッグを担ぎ直した。
「警察の未来を担うトップリーダーになるなら、室井さんにはしっかりしてもらわないと!」
「そうよ~。警察の未来はあの頼りない肩に掛かっているんだから」
あの、と言って、すみれが青島を指差す。
すみれの想いも感じ取って、雪乃も気張った力を抜いた。
昼下がりの蒲公英色の陽光が、階段に降り注いでいた。
冬独特の凍えた空気は、大量の酸素を含み、暖房を効かせて乾燥した室内よりも、呼吸を幾分か楽にさせる。
冷たくも透明感に満ちた、冬の匂いは、確かに今年の終わりを告げていた。
何かあったのだろうか、階下が俄かに騒がしくなってくる。
「さって!オシゴトするか!」
「あれ、でも、すみれさん。それがどうして別れる別れないの話にまで発展するんですか?」
「そこが恋の摩訶不思議なのよ」
キョトンとして、雪乃が視線をすみれに投げれば、先に歩きだしていたすみれが、くるりと身体ごと回して振り返る。
合わせてストレートの黒髪がさらりと風に乗る。
「なんていうか・・・これじゃまるで室井さんに恋人取られちゃったみたいですね」
「だとしたら、あたしにもまだチャンスはあるってことよ」
「室井さん相手に?」
「上等。ライバルとして申し分ないわ」
「すみれさん、つよーい!」
「あのね。恋の奇跡が都合良く降ってくるって魔法はないの」
今年のクリスマスの奇跡を、すみれは微かな痛みと共に胸の裡に仕舞う。
きっと、生涯忘れない。
「恋する乙女を甘く見ているあのトウヘンボクに、鉄槌を喰らわせてやるわ」
二人して、入口に並び立つ。
二つの影に気付かず、細髪に指を差し込んで、必死に電卓を叩いている青島が、二人の瞳に映る。
恋をひとつ失う度、女は輝きを強めていく。
でも、それでも、雪乃が切欠を作らなければ、すみれの傷痕は無くて済んだ物かもしれない。
なんとなく、責任を感じて雪乃はそっと隣に立つすみれを窺った。
「すみれさん・・・・・平気?」
「平気、じゃないけど・・・。もう、大丈夫」
そう告げたすみれの黒い瞳も、澄んでいて透明だった。
18.三者
「で、結局、連れ戻したので?」
「まあ、そういうことになる」
「・・・・確かに現状それが一番得策だとは思いますが」
歯切れの悪い新城に、室井も眉間の皺を深めた。
瑞々しい朝日の射光は陰影の濃さを強め、新鮮な空気と冬の匂いが室内に充満している。
古臭い砂色の部屋を、寂びた空調が軋んだ音を立ててモーターの回転を一定速度で繰り返していた。
「今はしらばっくれる方が白々しい。目の届く所に置いておき、こちらの統治下に布いておいた方が融通がきく」
「戒厳令ということですか。・・・・珍しいですね、地方分権が公約の貴方が支配権を誇示するなんて、貴方らしくもない」
「また身勝手に動かれては、こちらに飛び火するリスクが上がる。そうなることを避けたいだけだ」
「一時凌ぎですよ」
「分かっている」
「・・・、良くあの跳ねっ返りが素直に戻りましたね」
「まあ、そこは――、かなり、ごねては居たが・・・・」
室井は紙コップの珈琲を手に取りながら、低く答えた。
本庁の一角にあるサロンで、新城が、小声で近況を問い正してきたのは、やはり週末の騒動についてだった。
窓を背にし、お互い視線は交わさない。
幸運にも逆光で、誰の顔も煤のように染まり、その表情すら、よく見えない。
新城も、持っていたA4サイズのファイルを手元で捲り、一定の距離を取る。
「これからどうするおつもりで」
「今は目立って動かない方がいいだろう・・・」
室井はゆっくりと珈琲を啜った。
あれだけ、週末に都心で大暴れしたというのに、週明けに登庁してみれば、何事も無かったかのように日常が回っていた。
パーティを中座したことについても言及されなかったし、女性をすっぽかしたことについても、何を噂されることもなく、御咎め一つない。
それはつまり、この計画を企て、その後の追跡をした者の存在が、隠密裏な任務であることを、何より示しているとも言えた。
同時に、その追跡が失敗したことも暗示している。
その幸運に、のうのうと安泰する気はないが、今は相手の次の出方を見たかった。
「そんな逃げ戦法で納得するんですか?・・・・彼が」
「表向きは、な。でも・・・・根本的な部分では内心むずがっているだろうな」
「自分が伏竜に祭り上げられたことについては」
「信じてはいなそうだったが」
サロンには数名の人影があるが、誰もこちらに注視している者はいない。
休憩ラウンジでもある此処は、本庁に来ている捜査員らが意見を交わし合ったり、外来者と食事をしたりするのに利用されている。
今朝は皆、現場に出払ってでもいるのか、酷く閑散としていた。
窓の外は雲一つない真っ青な空だった。
隣接するビルに建物が反射して映り込んでいる。
堅牢なそれは、まるで屋内の騒々しさも禍々しさも無関係に、ただ静かに陽光の中に佇んで浮かび上がる。
今日も良い天気になりそうだった。
左隅で立ち話をしていた一倉が、片手を相手の肩に乗せ、話を切り上げると、カップ式自販機に向かうのが見える。
ホットの珈琲を購入し、そのままこちらに近づいてくる。
室井を中央にして、新城と同じだけの間隔を開け、同じように窓辺に寄りかかり、足を交差させた。
「じゃじゃ馬はどうしてる」
「・・・そこまで私の管轄じゃない」
「フッ・・・、あの後、派手にやらかしたらしいな」
「――・・・」
「一部では、有名だ。だが、奇妙なことに、それについてかなり厳然に徹底された箝口令が布かれているらしい。これはどういう意味だろうな?」
「・・・・・」
室井は黙って珈琲を啜る。
その眉一つ動かさない横顔を感じながらも、一倉も表情を崩さず動かない。
ふざけた声の調子をスッと強張らせ、低い声を発する。
「聞いたんだろ。それとも俺の推理でほぼ正解か?」
「知らないな」
「今更とぼけるな。今回の件に関わった面子、首謀者・・・その目的・・・。誰だ。奴らは何のために青島に接触した」
「それを知ってどうする」
「暗躍している動きがあるなら手を打たねぇと俺らまで呑まれるんだぞ」
「何処に何の手を打つつもりだ・・・・」
ぼやくように零れた室井の台詞に、一倉が不意に吐息に苦笑を含ませ、少しだけ肩の力を落とす。
一倉のこういう外交能力は、独特のリズムとスパイスがあって、それがポーズだと分かっていても、その手腕の潜在的高さを思わせる。
此方の腹を探っているようで、一倉は真に引き出したい意図を、まだ明確にはしていない。
それが分かっているから、別に隠すようなことではないが、室井は無闇に口を開くことはしなかった。
喰えない男は、だが一方で、室井の喰えなさも認めている。
だからこそ、一倉も、室井の言葉を正確に引き出すために、真意はまだ見せない。
それを、どこかお互い愉しんでいるような節さえあった。
そして、そんなゲームのようなやり取りを通じ、室井がここ数カ月の精神的不調を克服し、すっかり調子を取り戻していることを
未だ視線を合わせぬままに、一倉は肌で密かに確認する。
「情報が戦況を左右するんだよ」
「・・・土俵にも上がれてないうちにか」
「今回みたいにまた所轄でも使われたら、何でもアリって意識が上で高まる。それこそキャリアの勢力図も変わっていくって分かってんのか・・・?」
「そんなことにはさせない」
「・・・・へえ、どっちを、だよ?」
視線は向けないまま、潜めた一倉の声に冷笑が混じる。
「お前が便宜図ってくれんのは、青島か?それとも俺たちか?」
「・・・・・」
「聞いたんだろ」
言え、と、ついに時を得て断定するような一倉の口ぶりに、室井もようやく瞼を伏せ、大きく肩から息を吐いた。
「・・・聞いてはいない。話を聞いた限り、奴らは青島にも計画の多くを語ってはいない。仲間に引き込もうとしたという素振りも感じなかった」
「ふん」
「後はお前の推論通りで確かだと思う」
「キャリアを差し置いた訳ではないんだな」
「だろう」
「つまり、ターゲットはお前一人だと?」
「正確には、私も捨て駒として、だろうな。・・・・接触してきた連中も、全ての魂胆を知っていない。多分指示されたことをやっただけだ」
「――・・・・」
ただ、その主旨が、土壇場で少し色を変えた。
引き込むつもりはなかったのに、いざ、ターゲットを前にしたら惜しくなった。そんな意思の温さが伺えた。
或いは、青島が言葉巧みに彼らの加虐心を刺激したか。
そもそも上の命令に色を付けたがる忠実でない部下は、自我が強く、野心家が多い。
そういう男は手強くはあるが、恐れる敵ではない。
本当に警戒すべきは、感情を表に出さず、淡々と任務だけを遂行していくことの出来る人間だ。
「他に何か言ってなかったか?」
「・・・・ああ」
危険情報ではあるが、あまり人には知られなくないだろうから、襲われた事実は伏せておく。
その二人の静かに滾る辛酸さを含む廃れたやり取りを、黙って聞いている新城が、隣でパラリとファイルを捲る音がする。
室井も、静かに珈琲の残りを啜った。
「これからどう出るつもりだ」
一倉がグイッと最後まで珈琲を飲み干すと、クシャリと紙コップを握り潰した。
「おい、それ、リサイクルするんじゃないか」
「固いこと言うなよ」
「税金なんだ」
「お前の意思を聞きたい」
「・・・、私は別に何もしない。これまでもこれからもだ」
「・・・青島を取り戻したからか?」
「関係ない、とは言わないが」
ふん、と、鼻でせせら笑うと、一倉は組んでいた足を組み替える。
律義にも、ペリペリと撚れた紙コップを再生している。
「お前が無粋な真似をする気がねぇなら、それでいい。俺は当初の予定通り、安住側に付く」
「・・・そうか」
「今更出世は興味ないが、安定した暮らしはしたいんでね」
「・・・・・」
「緘口令が布かれたことで、均衡は今も安住が大勢だ。一度うねり出した渦は、そう簡単にはもう揺るがない。・・・皮肉なもんだ」
「それもお前の狙いだったろう?」
「勝った者が正義というルールは実にシンプルだな」
「・・・・」
「お前がそのカードを使わない限り、大局はこっちだ・・・・だから」
そこで一旦言葉を打ち切り、一倉はもう一度、声色を変えて口を開いた。
「こっちに来ないか。今日はそれを誘いに来た」
「・・・・」
室井はチロリと視線だけを向けるが、逆光になった影にやはり表情は良く見えない。
弄ぶように手元の紙コップを少しクルクルと回した。
「今は・・・・断る」
「〝今は〟?・・・最初からお前の心は決まっているくせに。考える振りも下手だな」
「・・・・なら、どうして聞いた」
「邪魔をするものは敵とみなすからだ」
外周りから帰ってきたらしき若い捜査員が数名、ガヤガヤと入ってきて、空気が俄かに浮足立つ。
「興味ないな」
「俺たちはこの小さな箱の中でしか生きられない魚だってこと、分かってるのか?」
「一倉・・・、お前のやり方に口出しはしないが・・・、だが少し政治に僻見しすぎじゃないか?」
「それがここの任務だろ」
「本来の警察官としての役目を疎かにするなと言っているんだ」
「だからそのための努力、だろ。力がなきゃ護りてぇもんも護れねぇ。お前だってそれを今回痛感した筈だ」
ゆっくりと窓辺から身を起こし、一倉はそのまま一歩前へと出る。
影になったシルエットが、寂びた空気と溶け込み、目を眩ませ、存在の輪郭が良く見えない。
視線は向けられない。
「新城。お前はどうするんだ。出向組ではなくとも、今後風向きは確実に変わるぞ」
「それが、青島が仕掛けた一手、だとするなら、本当に皮肉ですね」
「全くだ」
どうするんだ、という答えを問うように、此処に来てようやく一倉が肩越しに振り返り、新城と一倉の視線が絡み合う。
探る様にその瞳を見つめ返した新城は、やがて穏やかに口を開いた。
「私はどちらの意見にも賛同しませんよ。政治も仕事も臨機応変に対応するべきだ」
「静観か、お前らしいな」
「然るべき時が来たら、その時に判断させて頂きます」
「フッ・・・」
こう言い切ったからには、新城の意思は、まだ説得はされないことを示していた。
新城の抱えるバックボーンもまた、重く広く、それが今の彼の地位の安泰を保証している以上、迂闊な行動は取れないだろう。
しかしそれは、崩壊する時は道連れであることのリスクも、孕んでいる。
そんな警察縦社会を冷めた目線で見て、然るべき時には判断すると言い切る新城の喰えなさぶりもまた、高圧的だ。
そんな新城に、一倉はニヤリとした笑みを口の端に乗せる。
「ただ、僭越ながら。・・・戦況を変えることなど、この先幾らでも可能ですよ、一倉さん」
「――、誰かが失脚したり、誰か失態を犯したり、か」
「それこそ、何でもあり、ですよ」
「アクシデントを待てってか」
「どちらかに傾いていると、答えが逆だった場合、次の一歩が出遅れる」
「・・・・・肝に命じておくよ」
強い視線を走らせ、一倉はそのまま室井を見た。
今度は室井も顔を上げる。
今日初めて、ここで二人の視線が真正面からかち合った。
「今回は、やり方は確かに気に食わない。青島を取り戻せて良かったな、とだけは言っておくよ」
目を剥いた室井を満足気に見降ろした後、一倉は、しっかり捕まえておけよ、と言い残し、片手を大きく上げながら、その場を去っていった。
警察の抱えるさまざまな内部矛盾は、長いキャリア人生の中で、一倉ならずとも、室井だって肌身に感じている。
悟りきった顔をしている新城だって、その辺のことを割り切っている訳ではないことを、知っている。
特に、警察組織の厳格な官僚主義の問題、縦割り行政の弊害は、キャリアの階段を上る程に、大きなテーマとなっていくのだろう。
それを、教科書的に論破しようとしたところで、現実社会の歪みの方が大きく、弾き返されるのがオチだ。
いずれ、体力を削られ、こちらが潰される。
声なき少数派の意見が通らないのは、何も警察組織に限った話ではない。
一倉の最大多数の最大幸福という選択もまた、この世界のルールに乗っ取った正しい選択だと思えた。
何が正しいかは、結果が出て、それで決まるものなのだろうか。
「あの人らしいですね」
「一倉の考えが一番堅実なのかもしれないな」
「だったら付き合って差し上げれば宜しかったのに」
室井がチロリと視線を向ける。
新城もA4ファイルを手元に掲げたまま、目線だけで室井を見ていた。
逆光のせいで、お互いの顔は影となっている。・・・が。
その視線が、分かってて言っているのだという揄いを帯びたものであることに、気付く。
一瞬だけ絡ませた視線は直ぐに外され、二つの視線は再び正面を向いた。
「私は真っ直ぐに進む」
「その要領の悪さは身を滅ぼしますよ」
「こうするしか、まだ方法が分からない。・・・・愚かだと思うか」
「・・・・、何故それを私に」
「もし、私に何か合った時――、今後のことを、頼みたい」
「・・・・」
一拍、二人の間に空白が流れ。
その意味を察した新城が大きく息を吐いた。
「・・・・・お断りですよ、あんなじゃじゃ馬のお守なんぞ」
新城が小さく呟いた言葉に、俯いたままの室井の口の端が少しだけ持ちあがる。
もう、今は他に話すこともなくなったという意思表示であるかのように、新城が持っていたファイルをパタンと閉じた。
そのまま、音も立てずにスッと立ち上がる。
退席するのだということが分かる。
「貴方が青島に拘る理由は、間近で見てきた私には分かります。でも多くの人間にとって、それは理解の範疇を越えていることを自覚した方がいい」
「・・・ああ」
「彼を護るために道を変えるという選択肢は?」
「方法論で事が済むなら、単純なゲームだ」
「警察は縦社会ですよ。その方法論とやらで、回っている」
「奴らが次にどうでるか、分からない」
「今度は貴方自身を狙いに来るかもしれないことを、貴方ほどの人間が想定していない筈がない」
「・・・・・」
室井は再び密かに笑みを零した。
気配が揺らいだことに、新城も首だけ振り返る。
「まさか、それも狙いですか」
「・・・・」
「呆れた。貴方って人は、どこまで不器用なんだか」
平然と、なんてことは無いという顔をしている室井に、新城は鼻を鳴らして溜息を吐く。
「今後、私を駒にし損ねた誰かが、私の失脚を望んでくるかもしれない」
「・・・だから青島への意識が逸れると?」
「潰しやすい対戦者の条件を知っているか。相手の嗜虐心を満足させられる人間だ」
「貴方自身、後見に瑕疵を抱えていることを自覚されてますか?そうなったら簡単に潰されますよ。もっと小利口に立ち廻ったほうがいい」
「・・・それに、あいつが泣くからな」
「泣く?」
―月曜日。
新しいケータイを渡そうと湾岸署に向かった室井の眼に、プラットホームで声も無く滂沱している青島の後姿があった。
余りに痛々しくて、声が掛けられなかった。
誰かの痛みを感じて、心を震動させることの出来る人間だ。
きっと、自分と別れた時も、こうやって一人になってから、もっと烈しく泣いたのだろう。
たった一人で、誰にも気付かれないようにして。
室井も立ち上がり、新城の隣に立つ。
「あいつはああ見えて、情に脆い」
「・・・・・」
「私が信念を曲げずに、穢れずに、ゴールに行き着けると思っているんだ」
「とんだ妄想癖だ」
そう吐き捨てた新城の声は、少し、いつもより高めだった。
19.一矢
昼下がりの向日葵色の射光が射しこむ長廊下に、硬質な二つの音が鳴る。
本庁の渡り廊下で、東西から二つの黒い影が、同じ速度で近付いていた。
視線はぶつかり合うようで重ならない。
黒系のスーツに、ぴっちり固めた頭髪からは、幾分かの人の温度も感じさせず、お互い、前だけを向いて、近付いていく。
丁度、中央に差しかかった時、二つの影は交差した。
音も無く、スッと擦れ違う。
室井は、瞼を伏せ、目線だけで軽く目礼した。
視線一つ返されない。
――が、過ぎ去った影が、ふと歩みを止める。
「・・・・・・数ヶ月前、だったかな?お宅のペットと遊ばせて頂いたんですよ。いや、実に楽しい時間でした」
室井も足を止める。
「良い毛並みをしている・・・雑種であの色艶は相当お手入れをなさっていると見る。仕事の合間で甲斐甲斐しいですね」
「・・・・」
男は立ち止まったまま、肩越しに視線を投げているが、室井は背中を向けたまま、しかし微動だにしない。
「触るとね、毛を逆立てながら威嚇してきて・・・でも最後は可愛い声で鳴いて縋ってきましたよ・・・・。そんな所がお気に入りなのかな?」
くるりと男が振り返る。
その気配を感じ、室井も身体を向き合わせた。
「あの反応の初心さが良かった。あれも仕込みですか?」
「それを聞いてどうするおつもりで」
「また今度、遊ぶ時には私も加えて頂きたい」
「すまないが、人見知りをする。大勢で押し掛けるのはご遠慮願いたい」
「それは知らなかった。なら、個人的に一晩お借りしよう。なんなら引き取っても良いですよ。高値が付きそうだ」
「お断りします」
男が音も無く間合いを詰める。
「・・・どうせ一度は捨てたペットだろ?」
「・・・ッ!」
身を寄せ、胸板が重なる程の近くで、威嚇し、室井の耳に囁くように、男が低く告げた。
激情に光る鋭い視線が鋭さを増し衝突する。
「あんな毛並みのペットを捨てるなんて、どうかしている・・・・」
ゆっくりと男が身を起こし、窓の外を眺めるかのような遠い目をした。
言葉を返さず、室井はただ視線に怒りを込める。
暫し、無言のままの空気だけが、暴発の瞬間を知っているかのように震動した。
感情を漆黒の瞳の奥に焔としてありありと灼きつけながらも、抑えた静かな態度の室井に
男はそっと、その肩に片手を乗せた。
「そんなに大事なら、しっかり繋いで置けよ。足枷でも、首輪でも、手錠でも・・・・。我々には入手する手段が幾らでもあるだろう」
「・・・・」
「そういうプレイはやってみれば癖になる。特に君のような執着心の強い男には」
「御冗談を」
「自由を封じ、ベッドにでも括りつけて置いたらいい。啜り啼き、従順に躾けられる。みんなそうしている・・・」
「経験則で?」
「おや、可愛いペットにはリードを付けておかないと。日本の法律ですよ。民法718条・動物占有者の責任をご存じない?」
「・・・・・」
「室井くんともあろうものが法律違反を冒すなんて。私も痛く噛みつかれましてね。放し飼いは色々と危険も多い」
室井の拳が下で、骨を軋まんばかりに堅く握られる。
そんな屈辱に震える室井の反応を、男は愉快そうに眺め、顎を上げて下卑た笑い声を上げた。
「何故そこまで御助言を」
「手に負えなくなった暁には貰って差し上げようかと。それまでに役所に処分されたら、私だって心が痛む」
「貴方になら扱えるとでも?」
「囲い者にならないかと既に打診したんですよ。聞いてるでしょう?」
「――」
ニヤニヤとした歪んだ笑みを絶やさない男に、室井の視線がここにきて挑発的な色に変わる。
「――咬傷の損害請求には不法行為が立証されないと成立しないのは御存じで?」
「・・・?」
「飼い主の故意又は過失によって他人に何らかの損害を与えた 場合の損害賠償を補償するのが718条です」
「・・・・・・」
「民事でも刑事でも、相手のテリトリーに不法侵入した場合はそちらの自己過失が問われますよ」
「なッ」
「咬傷だけなら、確かに非があるのはこちらだった。だが今回、相手の敷地に淫らに侵入したのはそちらだ」
「――ッ!」
「709条も頭に入れておいた方が良い」
怒りで目が血走り、顔を真っ赤にしている男は、わなわなと震え、言葉を失っている。
まさか、蔑んだ比喩で罵るつもりが、大人しく理性的な室井に、反論を返されるとは思わなかったのだろう。
「下衆が――ッ」
「社会的に不埒なのはどちらか」
眼光だけ強めて唾を吐き捨てる男に、室井は不敵な笑みを送る。
「そもそも、義務付けられている首輪の付いていないペットに無闇に近付くのは危険行為です。止めた方が良い」
「お前、そこまで言って、覚悟出来てんだろうな」
「そちらこそ。御自分が何をなさったのか、分かってらっしゃるのか」
「首を飛ばされても良いのか・・・ッ」
「何を根拠に飛ばすつもりだ?」
「・・・ッ」
押し殺した低い声で続いた攻防は、室井の威圧感に男が気圧らされ、ぱたりと途絶える。
押し黙る男に、室井は最早向き合うことも止め、踵を返す。
「次はない。今度ちょっかいだしたら、噛みつかれるどころでは済まないでしょう」
暗に噛みつかれるのはそちらだろうと宣戦布告する。
これで、コイツはコイツのプライドから、切り札の写真すら、使えなくなった筈だ。・・・いや、逆に返って紐を緩めさせたか。
だとするなら、早々に膿は出てくる。
物証が出て来ない限り、こちらも手の打ちようがない。
また、彼の怒りの矛先も、男色などという浮いたものではなく、これで、真っ向から室井への対抗心へと変わった筈だ。
それよりも、こんなにも上下関係を無視して煽ったのに、この男の口からは、写真という言葉すら出て来なかった。
やはり、写真そのものは使える代物ではないということか。それとも、写真の所有権がそもそも彼の支配下にないのか。
いずれにしても、早々に足を引っ張る材料に使われることは、なさそうだと室井は分析する。
譲る気も手放す気もない。
「アレは、私にしか懐かない。――失礼」
背中で、男が悔しそうに息を殺しているのが、微かに耳に届いた。
20.略歴
翌週。この年のクリスマス・イブに、真下は地下鉄乗っ取り事件を担当直後に雪乃にプロポーズをし、雪乃は勢い良く承諾。
翌年3月無事結婚。
時同じくして、当時管理官として室井が担当していた新宿北署の路上強盗殺人事件は、翌年2月13日被疑者死亡という最悪のミスを冒し収束する。
それは安住に出し抜かれてしまった池神にとって、願ってもない安住側(警視庁)が起こした不祥事となった。
そこから事態は、警察庁と警視庁のピラミッド組織の頂点を目指す露骨な利権争いへと激化し、その白羽の矢は当然、責任者たる室井の逮捕・起訴を事由とする
警視庁側の不祥事隠蔽を目論む、室井の更迭騒ぎへと展開。
室井のプライベートまで世間に晒す騒ぎにまで発展した。
この一連の騒ぎの中で、不本意にも
安住を筆頭とする安住の部下一同は、池神派に対抗するため、時間稼ぎとして、室井のバックアップに尽力することになったのは、皮肉としか言いようがなかっ
た。
また、アクシデントを嘲笑していた一倉にとっても、この不本意な潮流は、煮え湯を飲まされるようなものとなった。
辞表を迫られる事態にまで発展したこの裁判騒ぎは、結末としては、新城の計らいで、室井の広島異動という結末で幕を閉ざされる。
警視庁と警察庁の利権争いは、池神に借りを作った形で喧嘩両成敗となり
時期選挙の動向は、再び不透明なものとなった。
あの日、ホテルのピロートークで残した、室井が用意したマンションは、青島が事件後間もなく引き払った。
既に仮契約までしていたことについては、青島を多いに驚かせた。
事件の最中、接触する時間を取れなかった二人は、室井が広島に立つ前夜、ようやく再会を果たし、拳を突き合わせる。
そして、約4年に渡る長い遠距離恋愛が始まった。
happy end

これにて完結です。
容疑者に繋げるためには、新城さんと一倉さんのあの車の中のシーンは外せない~!と思って辻褄を合わせたつもりなのですが、どうでしょうか。なーんちゃっ
て描写ですが。
遠恋エンドですが、恋としては今この二人は(主に室井さんが)ラブラブ最高潮なので、一応ハッピーエンドです。
~みなさまにも奇跡の夜が訪れますように。メリークリスマス!聖なる夜を!,。゚+。。゚,。,゚+。 。
20151206