どろっぷ行進曲 DOUBLE!後編
5.
◆4例め
通過点だというので、二人は小高い山林の中腹でバイクを止める。
「放火殺人事件。未だこの家に住んでいた女性が消息不明。うへぇ不気味・・」
「この辺りは一気に都市開発が進み、道路も建設され、現場も景観も失われている」
バイクに跨ったまま、二人で周遊道路から見晴らしの聞く新興住宅地を見下ろした。
同じ屋根が続く一帯は、もう資料にあるような当時の面影はない。
「現場保存しようって動きは出なかったんですか?」
「探したが資料にはなかった。当時の社説では女性は社会的なつながりが薄い人物だったのではないかと指摘されているのがあった」
メットを外した青島の髪を、新緑の春風がそよいで、通り過ぎていく。
「親族とか友人とか。関係者くらい、いるでしょー」
「資料の下の方を見てみろ」
「うええ?女性の長男はその一カ月前にイジメを苦に自殺・・?」
「きな臭いだろ?」
「なんか・・葬られたってかんじがしてきちゃったんですけど・・」
「色々とな」
証拠はない。
どれもが空想で、どれもが偶然かもしれない。
そして、天も加害者に味方した。
誰もが自分を傷つける人生に、彼女は何を見ただろう。
一つだけ確かなのは、もう、彼女がここに生きていた証はどこにもなく、誰の記憶にも残っていないということだ。
「未婚の子だったとしても、こんなのあんまりだ」
「・・・」
「ん、あのあたりですかね、丁度公園っぽい広場が見えるとこ」
「そうだな」
「いいトコなのに」
青島のぼやきが、規則的なエンジン音に混じる。
山の息吹は恐いくらい無関心な表情で、長閑だ。景色は緩やかに時に埋もれていく。
「被害者に感情移入しすぎない方がいい。引き摺り込まれるぞ」
室井が革ジャンの前を少しはだけ、首筋を緩めた。
エンジン音以外、ここには何も音がない。
午後になっても雲一つない陽射しは、新緑の木々を銀色に照らした。
「結局俺たちの仕事って、当然やってくると思っていた未来がこなかったことに、向き合わなければならない時間なんですかね」
助けてくれる人間がいるとは限らない。
助けてあげられるばかりじゃない。
弁えているつもりだ。けど、このひとだって人のこと言えないじゃんか。
室井自身こそ、キャリアの闇に引き摺り込まれていたくせに。
「もしかして、これを狙ったの」
「そこまで深読みしてくれるとは思っていなかったが。そうだな、君の思考や発想の柔軟性を鑑みれば、期待してもいいのかもしれない」
なんだそれ?と青島が振り向く。
新緑の萌黄の中で、室井が青島を見つめていた。
このまま時が止まってくれたらいいのにと思う甘い隙間も、永遠に抜け出せない悲しみの渦にいる闇も、ゆっくりと時は流れ、やがて変化していく。
危険と隣り合わせである仕事も、何の確約も持たない関係性も、同じだった。奇跡的に永遠に続く保証がない。
そうして人は、出会いと別れを繰り返していくものだ。
「あんただって、結婚は考えたんだろ?」
室井が、家庭や家族などという生温い逃げ場所を望むかは多少疑問だった。
キャリアの頭脳戦は時に冷酷無比で、あるとしたら、駆け引きの手段か。出世の手土産か。
そんな室井が恋などというあからさまなものをチラつかせてくるから、青島は室井が掴めないのだ。
室井は即座には答えなかった。
中堅キャリアとはいえ、室井の結婚は日本の株価や警察イメージにまで影響する。
そのためトップシークレットとなり、発表に当たっても戦略が練られるし、その相手に至っては綿密な調査が行われる。
そんなことはノンキャリの身分だって想像が付く。
「童貞で終わるのは癪だったからな」
あ。このひと、まだ引き摺ってたよ。
「で、一回ヤったら、満足?」
「たかが一回と、切り捨てて欲しかったのか?」
「あんたにはたかが一回でも、俺にとっては、大事な一夜になりますけど」
身動きはせず、青島は視線だけ室井の後頭部に向けていた。
背を向けたまま、室井は振り返らない。
「煽るな。・・運転に支障が出る」
思わず青島は口元を押さえた。
室井の背中のジャケットを掴めば、室井がバイザーを下げる。
断りもなくハンドルが切られ、バイクはボディを地面に大きく傾けて走り出した。
◆休憩
「疲れたか?」
「いぃええ~?運転、変わってもいいんですよ?」
ぽんっと投げるのは缶コーヒー。
俺たちには何かと付き纏うアイテムだ。それを室井も気付いている。
「俺のテク、見せてあげるのに」
「俺のステディは君と違ってシャイだ。ヘソを曲げられる」
「下民で悪かったですね」
閑散とした駐車場は広々としていて、コンクリートが太陽を照り返していた。
春風は冷たさを残し直射日光を浴び続けた身体を冷やしてくれる。
「ね。ちょっと気付いたんですけど、さっきの案件さぁ。朝一の女子高生のやつと似てません?」
「君は時々、突拍子もないことを言う」
「んん~気のせいかぁ」
「決めつけるのは早い。君の発想は我々のような邪念が入っていないからこそ、稀に的を射る」
「褒めてる?」
「褒めてない」
室井がベンチに座ったのを見届けてから、青島も一つ分開けて座り、足を投げ出した。
なんだ?という顔をする室井に、青島は自分の足を指差し、足が長いからね~と得意気に顎を上げる。
逆に室井は革ジャンを着ていても背筋を伸ばし会議室のような畏まった姿勢で珈琲を含んでいる。
ほんと、アウトドアが似合わないひとだ。
太陽を照り返すボディスーツが決まってて、こうも明るいところで見ると、殊更ワイルドに室井を仕立て上げる。
なんとなく目を離して青島は前を向く。
目の前に広がるのは、広い畑と古い民家。蒼い稜線は大分遠くなった。
「はい、あーん」
「・・それ、俺ならやらないと思っているだろう」
売店で買ったソフトクリームは青島のリクエストだ。
「半分こ、しましょうよぅ、デートでしょ」
「~~~くそッ」
室井が身体を倒し、青島の手首を掴んでソフトクリームを口に入れる。
勝ったという青島の顔に、室井はつっけんどんに青島の手を押し戻した。
「おいし?」
「甘いッ」
「抹茶、イケるな~」
「君は朝もアイスを食べただろう」
「だって今日暑いんですもん」
また一口、ソフトクリームを舐める青島は冷たさと格闘中だ。
コーンまでカリカリ齧って、木漏れ日に青島の髪が柔らかく揺れて、青島のシャツから透ける肌が淡香に染まる。
花壇で満開の菜の花が眩しい。
「たまにはこーんな休日も悪くないもんですねぇ」
「俺はこのとおり面白味の無い男だから。君を呆れさせたり、退屈させたりしていないか、色々考える」
「そこはほら、俺の気遣いが上等なんで。洒落た喫茶店で一服させてくれた上に2500円クラスのケーキセット(珈琲付)が欲しいとか、思ってませんから」
隣で室井がムッとしたのが伝わった。
「だから場数をこなす男は嫌なんだ」
「またお褒めいただいて」
「いつでもどこでも気が利くわけじゃない。君の無茶難題に振り回されるのはこっちだ」
「相手をわがままにするか、カワイイおねだりにしてやるかは、甲斐性の問題ですよ」
「・・今すぐ連れてってやる」
「こんななんもないとこですよ!」
室井がガバリと立ち上がった。
「田舎町を馬鹿にするな。駅前まで出ればホテルの一つや二つある。カフェぐらい入っている。そもそもここは東京だ」
「そーですけど・・」
挑発にあっさり乗ってくる男に、唖然として見上げれば、逆光となって室井の流麗なシルエットが瞼の裏に焼きついた。
背後は真っ青な空。
剥き出しの感情は、室井が普段見せない素の姿であり、青島にしか出せない本音であって、室井が青島に気を許していることを伝えてくるものだ。
ニヤリと笑って、引かれた腕に任せて青島も立ち上がれば、室井がバイクを停めた場所まで連れ立っていく。
少し砕けた雰囲気で室井が俯きがちに黙るのは、きっと、乗せられたことを今更ながらに照れているからだ。
小難しい顔してても、やっぱりこれはデートなんだ。
手繋ぎにも抵抗が薄れて、慣れって、怖ぇな。
スッピンを見せることに慣れていない朴訥な男の背中が太陽に照らされていた。
6.
陽も暮れかける頃には、二人はかなり都心部に近いところまで戻った。
新宿高層ビル群が灯り始めるトワイライト・タイムだ。
「タイムスケジュールに狂いがないのがもう逆にこわいよ室井さん」
「君の大雑把な思い付きと一緒にしないでくれ」
「えぇ?デートって密度濃くしてもっと時間を押すものでしょうに」
「それで」
「その先を聞くの?野暮だなぁ」
室井がじろりと睨む横で、素知らぬ顔で青島が川に指を向ける。
下心が読めない男は、今までどうやって女を口説いていたのか、気になるところだ。
でもきっと、すごく誠実で、すごく優しい。
「あそこかな?」
「川岸に立つメゾネットタイプのアパート横だ。」
「えーっと?連続殺人?うわあ・・、住宅の床下から次々と遺体が発見。周辺にトラブルはなく、怨恨の線は消える」
「当時、大がかりな本部が立ち上がって、私もかなり詰めていた」
「担当ではなかった?」
「掛け持ちだった」
夕闇に沈む薄紫の大気に青島の瞳が透ける。
河川敷の土手にバイクを置き、腰に手を当て都心部の灯りを見つめる室井を、バイクに寄りかかった青島が背後で資料を読み上げる。
「その後、容疑者が特定され、所有車の座席から被害者の血痕もしくはハンカチなどの所持品が見つかったが、殺害の有力な情報とは言えず不起訴。さいあく
だ」
「警察捜査が法廷にまで及べなかったケースだ。厳しい判断だった」
「抜かりなくピックアップしてくるところにも、あんたの性格が見えます」
勉強会みたいだと青島が肩を竦めれば、満更でもない顔で室井も青島を見た。
目の前を流れる河川から清涼な音が絶えず響き、雑草がさわさわと鳴いていて
奏でる自治体の鐘が夕暮れを告げてくる。
「俺はシミュレーションせずに終電を逃させ連れ込む姑息な手は使いたくないのでな」
「引き摺りますねぇ」
テヘペロな青島がはにかむ邪気の無さに、室井は鼻息荒く反論してくる。
こういうムキになるトコ、意外と器、ちっちゃ。たぶん、俺に対して。
「で?室井さんの見解は?気になってるから俺に見せたんでしょ?」
「鑑識捜査を重要視されなかった最大の要因は何だと思う」
「え~?容疑者にアリバイがあった?正当防衛とか?もしくは――あ、他に物証はなくって、血痕が殺人と結びつかなかった!」
「その辺りだろうな」
素人でも言いそうな推理を人差し指を立て意気揚々に言い放った青島とは対照的に、室井は素っ気ない返事で目を離す。
急速に明度を落とす河川は、さざ波立つ流音だけを宵に沈ませ、広陵に続く土手を春旋風が巻き上がった。
川上から吹く風に煽られ、資料が青島の手元でパタパタと鳴く。
「俺ら下っ端は逮捕するまでが全力だけど、あんたらは起訴されるまで気を抜けないわけか」
「起訴されても有罪判決が下らないものなど幾らでもある」
「もしかして未解決事件、全部覚えてんすか?」
「自分が担当した事件は皆覚えている。無論、君と捜査した事件も例外じゃない」
うへぇと肩をすくませる青島の頭の中では、このひとの頭ン中こそどうなってんの、だ。
メンタルの強靭さも含めて、鍛えられているのは身体だけじゃない。
そんな時、遠い世界で戦うひとなのだと、青島は置かれた世界の違いを思い知る。
「犯人あっても迷宮入り、かぁ」
「悔しいか?」
あんたが、でしょと、眉尻を下げる青島が煙草を吸う仕草で許しを請う。
本日初めてシガレットケースを取り出した。
ホテルのカフェではケーキセットにあり付けたが、全館禁煙だった。
顰め面で口籠る室井と、隣で綻ぶ青島との男二人連れに、ホテルスタッフは怪訝そうな顔をしていた。
室井の目に否定は浮かんでいないので、勝手に火を点ける。
「転職初日にさ、すみれさんに“警察はアパッチ砦じゃない”ってパンチ食らいました」
「彼女らしいな・・」
室井が吐息を含み、その顔が柔らかく、室井もまたすみれに親近感を持っていることを伝えてくる。
胸の奥がざわりと揺れた。
この二人は個人的に話したこともあるとお互い認めていた。青島との時間よりも圧倒的に長い。
すみれが告白したら、室井はなんて答えるのだろうか。
単なるフリ言葉ではないことが、容易に想像できた。
「室井さんて・・すみれさんのこと、割と気に入ってますよね・・?」
「あの映画は確か、失策で降格左遷された将軍が主人公だったな・・。彼女にしてみれば映画みたいに戦わない我々への最大の皮肉だったんじゃないか?」
「あ、ああ、護ってくれなかったわけですからね・・」
傍にいる者に親しみを覚えるのは普通だし、室井はすみれをよく見ている。すみれもまた室井をよく理解していた。
すみれの心の傷は、今はどうなっているのだろう。
そして、すみれにとって恋愛は、どういう形を持っているのだろう。
最近あまりそういう話をしていなかった。
一人戦っている彼女に、同僚の俺がしてやれることって、本当に少ない。
海にまで馬で来る王子様を信じている彼女が、本当に待っているのは。
ちっくしょ、と心の中で悪態をついて、青島は前髪をくしゃりと握り潰した。
どっちに心がざわついているのか、自分で判然としなかった。その程度のことに乱されることも青島を苛つかせる。
自分ですみれの名前を出したくせに、それを後悔した。
落とした視界に室井の手が伸び、青島の手から煙草を取り上げていく。
アメスピ独特の紫煙が波形を描き、室井がそれを一度、口に含んだ。
「君が俺を救ってくれたように・・とは思うが。そう考えると、君はすごいな」
人を救うのは簡単じゃない。
そんなことないよと青島が歪んだ笑みで緩く首を振った。
「あんた、“お兄ちゃん”でしょ。全部自分が被ってあげて、そこで待ってろ!ってかんじ。妹か弟、ぜったいいる」
「どこでそう思った」
「俺、観察眼は自信あるの」
人間を聴取することと、人を知ることは、全く別物だ。あたり?と首をかしげると、室井は思った通りに首を縦に振った。
見たこともない室井の弟妹が、寄り添う姿が見えるようだ。
「価値ある恋愛ってなんなんでしょうね」
「君と共に生きれれば、それでいい」
一般論を言ったのに、室井は君と、と返してきた。
室井にとっての恋愛というのは青島相手でしか考えていないのだ。
なんだか負けた気になる。
なんでこう、いきなり核心ぶった切る真似してくっかな。
気付けば急速に明度を落とす日暮れが、辺りをぼんやりと霞ませていた。
室井の顔も影となっていて、どんな表情をしているのかは、はっきりと確認できない。
河川敷の向こうの街の灯りが、またひとつ、灯っていく。
「へ・・ぇ、おっとな・・。割り切ってンですね。俺にゃ出来ない」
紫煙が覆う至近距離で視線が絡み合って、言葉が途切れた。
黒目がちな瞳が闇のように青島を捕える。
少し見つめ、青島は視線を落とした。
判然としていない自分の意のまま、室井の視線から探ることは出来なかった。
このひとの真黒い眼差しは、時々、心の奥の奥まで暴くように、鋭く突き刺さる。
なんで室井さんとすみれさんのことでこんなに動揺してるんだ。
―どっちもすきだからだ―
子供みたいに無邪気に懐いて慕っている。欲しがれないくせに安寧も選べない。
こんなん、恋愛以前の問題だ。
フッと視界が陰った。と同時に口唇を生暖かいもので塞がれていた。
目を伏せることも忘れ、ぼやけた視界に時間が止まって、青島は息を詰める。
奪い合い、滾るだけの生硬とは違う、熟した接触に初めて青島の目尻が歪んだ。
乱暴にキスされた時より、胸が痛い。
「デートの最後はキスだと、君が言ったので。でも」
言葉を区切り、室井が青島の耳に口を寄せる。
「次は、もっと先まで」
満点の夜空でも映えるような黒水晶が、青島を映し込んでいた。
全部を見透かしているようなキレイさが、壮絶で、こわい。
「俺、すきじゃないって言いましたよね」
「この気持ちが一回否定されたぐらいで覆されるものなら、最初からこんな勝負は仕掛けない」
「・・うーわー・・」
「君も、吐くなら気のきいた嘘にしろ。俺を騙せるくらいの」
また、くしゃりと髪を掻き回され、室井の指先から伝わる生暖かいものに、苛立ちが募った。
タイミングを見計らったような接触は、室井の策略通りに青島の思考を室井で埋め尽くした。
甘いキャンディみたいなデートが台無しになる。ギリギリで綱引きをしている均衡が、バランスを失う。
風が青島の柔髪を崩し視界を遮っていく。
「計算外だ」
「そんなの、こっちもだ」
「俺がなに」
「君といると、ぐちゃぐちゃになるって、言ったろう?」
心の奥底までを値踏みするように交わすそれは、痛いほど熱くて、狂おしいほど切なくて、覚束ない断片まで搔き集めて、新たな熱を孕み
室井に見つめられることは酷く心の襞をざわつかせると思った。
苦しさに息が詰まる。
恋とか愛とかそういうんじゃなくて、室井と向き合う時だけ沸き立つ、あからさまな――瞋恚。
殺意にも似たそれは、何の前触れもなく晒されて、そこに奇妙な安堵感すら覚えさせた。
昼間まで、あんなに強気で、陽気だった気分は、この薄暮れの大気のように曖昧に澱んでいた。
室井の言葉はいつも容赦ない。
でも、黒い瞳に射抜かれて、悪い気はしない。
このひとに見つめられる度、掻き立てられる自分が確かにいる。
青島は瞼を伏せ、少しだけ口端を歪めた。
「なんで笑っている」
「だって室井さん、妬いたんだなって思って」
俺とすみれさんの仲に。
俺がもやもやしているのと同じように。
なんだかもぉ、色々とくすぐったい。
さっきまで冷酷非道に淡々と事件概要を説諭していたくせに、ぴっちりとしたボディスーツと仮面の下で、一体この男は何を考えていたんだか。
俺もだ。
険しい表情で室井が顔を横に避けた。
「君たちを見ていると頭が真っ白になることがある。苛々して、心が乱される。俺が俺じゃいられなくなる」
早口に言葉を吐き捨て、室井は再び青島に向き合った。
観念して本音を肯定する男の成熟した匂いは甘美に爛れ、より危険な香りを放つものにじわりと浸蝕する。
「可愛すぎて他の人間には見せたくない」
室井が間合いを詰め、バイクに凭れたままの青島に手を伸ばした。
青島は釣られるままに見上げる。
細長く美麗な指先はひんやりとしていて、思った以上に大きな掌で青島の頬を焦れるように触れてきた。
もどかしい情愛を注ぎ込むように、指先に全てを懸ける男に、先日とは違う本音を見て、戸惑いだけが置き去りにされている。
「渡せない」
「そんなに、俺が欲しい?」
「ああ・・物凄く」
情けなくも、声は掠れた。
だが、室井の声も低く熱を帯びている。
「エゴイストだと言われても、おまえに飢えている自分を止められない。みっともないが、余裕もない」
「そんなこと、俺がさせるとでも?」
苛烈な眼差しが、ギリギリの臨界点を突きつけてくる。
機械的で凛とした瞳が深い。黒水晶の深さと涼やかな頬のライン、柳のようにしなやかな眉が、雄の香を放つ威力は絶大で
無防備なままの青島を捕り込んだ。
このまま喰われちゃいそうだ。
「君に、この賭けをする度胸があるのかどうか――」
官僚の世界で原罪に堕ちていくだけの価値がある相棒かどうか。
そもそも室井に与えられる何かが己に存在しているかも分からず、青島の眉に困惑が湧いた。
手をそっと払おうとすると、その手ごと遮られ、室井の右手が青島の顎に添えられた。
軽く持ち上げられると、親指がぞろりと下唇をなぞっていく。
それだけで背筋が震えた。
「君にとっては探りを入れる時間だっただろうが、俺にとっては俺を分からせてやる時間だった」
室井の目は、獲物を得た飢えた獣のようだった。
「おまえの負けだ。もう認めろ」
「認めたら・・どうなんの・・」
「君を本気で捕まえる」
冷たい夜気に晒された漆黒は、冴え冴えとしていて、短い言葉は強迫だった。
既に張り巡らされていた罠に、青島はそもそも答えを断たれていたことを知る。
だからキャリアってヤなんだよ。計算高くて高飛車で。
室井に選ばれる蜜の味に身体が震えている。
でもそう簡単に負けてやる気はなかった。
室井の余裕のありそうでない表情を崩してやりたくて、追い込みたくて、青島は少しリスクを取る。
「あんたに俺の嘘見抜けるの?酒の力がないとホテルの一つも誘えないの?・・慎次さん?」
これでどうだ、と言うように口許をニヤリと吊り上げ、青島がクリクリとした丸い目で目の前の上司を見上げる。
余裕を見せていた相手を観察するようにじっと室井を見詰めると、余裕が崩れるどころか一層笑みを深くされてしまった。
なんだこの状況。
「身体だけ与えて思い出にさせるつもりか」
「最初で最後の一夜もあげられない相手にはなりたくないね」
その耳に殊更に甘く響かせるために、喉元に刃を突きつけるよりも挑発的な声を作る。
「君は、どれだけ俺をおかしくさせれば気が済むんだ」
顎も持ち上げられた体勢では、青島の方が完全に劣勢なのに、その目は光彩を失わない。
勝ち気な光彩に、室井の漆黒もまた喜悦を隠さず共鳴してくる。
「欲しいのは、口先だけ・・?」
――本当は、俺じゃなくてもいいんでしょう?
このひとの運命の相手は俺じゃない。
でも、今んとこ、この争奪戦は俺の一人勝ちだ。
「無理だな。どこまで持つか賭けようか」
額を付くほど寄せ、ぼそぼそとした低い声で会話を交わして、目を合わせて。
「のった」
気持ちに名前は付かない。でもこの瞬間は、誰にも譲れない。
「何をしたらいい」
「俺はあんたを手に入れたいわけじゃない」
それに、俺が本当に望むのは、そこじゃない。
「あんたが望む未来に迷いなく進んでって、偉くなって、夢叶えるとこ。さいっこーにゾクゾクする。極上のエクスタシーだ。
そこに俺はいなくていい。俺が要らないんなら俺は」
振り絞るように、ギリギリの想いを一気に言葉に乗せる。
室井の願う恋の形が妬ましくて憎しみとなって澱んでいく。
辛くて、哀しく、弔う恋に、魂の奥底から溢れるような渇望を、押し殺して封印した。
「いつか、待たせたなって迎えに来てくれたら、俺は世界一幸せな男になれる」
女だったら付け込む隙だって与えないけど。
「だから、応えない」
憎しみはまるで執着した情熱のようで、焦燥感を持って愛咬の痕を残すように追い詰め合った。
剥き出しの感情が重なるそれは、圧倒的な支配で、物理的な重力に息苦しくなる。
草を奏でて河原を風が吹き抜けた。
生々しくて鮮烈で、手管も駆け引きも忘れて途方に暮れた子供のままに青島は室井と向き合う。
錯綜する感情を制御しきれぬまま、何かを言いかけた室井の口唇が、一度、薄く開かれそのまま閉じられる。
揺れる前髪が隠す薄闇の視界の黒い輪郭は、闇の中にありながら一層確かなものとして
青島の前に存在していた。
黙って青島の言い分を聞いていた室井が、やがて、は、と大袈裟な溜息を天に吐くと、頭上を仰いだ。
「そんなしょうもないことで俺は・・」
「しょうもない?真剣ですけど!?」
「君は案外嘘がヘタだ。気付けなかった俺も相当な鈍感だ。そうだな、前回のデートで君が置いていくなと泣いた時までは」
「・・・」
「俺を騙したいならそんな上っ面の言葉じゃなく、本気でかかってこい」
武士じゃないんだから。
このひとの言葉はどうも杓子定規で体育会系だ。でも、優しい嘘なんかいらないと、願ったあの夜を思い出す。
だからこそ、中途半端でかわされるのが腹立つんだよ。
眉を顰める青島に、室井が臆せず青島の胸倉を引き寄せた。
「今日一日、俺がどれだけ我慢しているかなんて、君には分からないだろう」
不意に強くなる眼差しは、怒っているようでもあり、呆れているようでもある。
青島の演じたプランに呑まれなかった男は、それだけ修羅場も知っている手練れで
底の見えない深く暗い漆黒の射るような目が、青島を骨まで痺れさせる。
「だったら一夜でも手ェ出したら?さっさと自分のものにすればいい。聖人君子気取って結局思春期より腰抜けじゃん」
「君の彼氏になれるのなら何とでも」
抱いた所で青島が手に入らないことは、室井が一番良く見抜いているのだろう。
ちょっと油断すると一気に踏み込まれるギリギリの攻防戦に、本気で強いのは室井の方だった。
「出会ってから何年だ?その間どれだけ君を抱きたいと思っていたか、俺の覚悟を舐めないでくれ」
青島の息が彷徨うように漏れる。
抗えないなら、力を込めて、捕まれた室井の手を払い除ける。
室井の影となったその顔から視線を外さず、一歩下がれば、踵が何かに当たった。
とん・・と、背中が脇のブロック塀にぶつかる。
追い込まれた、と気付いた時にはもう、室井に両腕で囲まれていた。
壁ドンってー!!
「関係ない。恋人の形とか、定義とか。俺には意味がない。今も昔も俺は君の虜というだけだ」
前を少し開けたままの黒の革ジャンから室井の喉仏が上下する。
睨み上げるが、室井はたじろがない。
室井の目は燻火のような激情に濡れていた。
「何で君はそういつもいつも先に一人で突っ走るんだ」
「あんたに言われたくは」
「青島」
名を呼ぶことだけで、青島は制される。
一触即発の駆け引きに、心臓が破裂しそうで、息が持たない。
「一度しか、言わない」
心臓が、破けそうだ。
「他の人間では厭だ。君がいい」
ぽ・ぽ・ぽと、青島の顔が赤くなっていく。
ストレートで引き下がらない単純な告白は、青島にはてきめんだった。
今まで聞いてきたどの告白よりも照れ臭い。室井は確かに青島に最初からその一言だけを告げていた。
結局どんな手の込んだ仕掛けよりも直訴が一番痛烈で確実なのだ。
室井が訳知り顔で口端を持ち上げる。
やられた。こんなあからさまに赤面してちゃ、バレバレだった。
どうしてこのひとは真顔でそういうこと言っちゃうんだ。確かに今仕掛けたの俺だけど、でも。
とんだCrackingCandyだ。
くっそー、先越された。
なんか、いろいろと。
繕うことを忘れた顔を見られるのが癪で、青島は片手で顔を覆い、身体ごと背けた。
心なしか喜色な雰囲気を持つ室井が腕を掴み、振り向かせようと肩を捕える。
顔なんか、見れるか。
「離してくださいよっ」
振り解こうとした腕をそのまま強く引かれ、バランスを崩した身体が室井の胸に凭れ
男らしい厚い胸板に、腕力なら室井さんがぜってぇ上だと最初に思ったことを思い出す。
思い出した時にはもう、押さえ込むように深く口付けられ抱き込まれていた。
「・・っ、・・っ・・」
ズルズルと青島の身体が地面に落ちても、室井はまだ拘束したままだ。
強い力は青島の肌に痕が付くほどで、加減なく縫い留められる。
「・・ふ・・っ、・・ッ」
室井が舌を絡め取り、柔らかく噛んできて、まるで飲み込まれる動きに、青島が眉根を顰めた。
身体に電気が走るみたいに痺れを感じ、青島は室井を押し退けようとするが腕が上手く動かない。
殺意なら、もしかしたら室井の方が上、なのかもしれない。
「むろ・・ッ、さ・・ッ」
まだ然程熱を帯びていない動きなのに、圧倒的な情熱に溺れ、抗う指先も封じられ、支配され、何もかもが熱く、爛れて痺れていく。
「こん・・な、のッ、ちが・・っ、んっ」
巧みなキスに自然と喉が鳴り、声を上げさせられる。
恥ずかしくて背けようとする顎を抑えつけられ、口いっぱいに男の舌と熱を注ぎ込まれ、制圧された。
なんでこんな主導権握られてんだ。
「・・んも・・っ、待っ・・」
届かない。追いつけない。焦がれて灼けついて、雁字搦めとなる。
「いい、って、言ってっ、ない・・っ」
「まだ言うか」
室井が圧し掛かるように青島を身体で押さえ付け、頬を両手で挟まれ、口唇で苦情を封じてくる。
咬み付くように欲しがられて、抗えない。
青島の顎が反り、その目尻が歪んで、覚束ない指先は宙を掻いた。
室井は口唇を離さない。深く貪り、意のままに掻き混ぜ、額を押し付けられたまま、全ての動きを受け止めさせられる。
みっちりとしたボディスーツは熱く、どこに触れても肉体の雄偉を伝えるだけで、青島は狼狽えた。
最初のデートの時より巧みで卓越した技巧に、身体が先に言いなりとなり、熱に掠れて上擦る声に、強烈な眩暈すら起こされて
ただ従わされる。
この高飛車な男を跪かせたい。降参させて平伏せたい。
このひとが欲望に狂った姿を見たい。
「・・っ、抱けよもう・・!」
室井がまた見たことない顔する。
こんな室井は知らない。こんなキスは知らない。こういうキスをするひとだったっけ・・?一回しかしたことないけど。
息苦しくて顎を反らせば追いかけられ、何度も塞がれ治された。
首を頑是なく振り、力の抜けた手で室井を叩き、中止を促すために主導権を取ろうと咬み付く度、それ以上の深さで返された。
視界が滲む向こうで室井の険しい眉が寄せられ、色香は烈しい。
霞む視界に映る男の屈強なシルエット、それは、失えないものを得てしまった目で、そんな風に扱われたいわけではなかった。
だけど胸の奥から絆される。
戸惑いも羞恥も蕩けさせられ、耐えきれず漏れた嗚咽も怯まぬ薄い口唇に吸い込まれ、爛れた甘さにたっぷりと濡らされ
ぐずぐずに崩れていく。
口の中いっぱいに広がる肉と熱に噎せ返り、室井の重すぎる愛に窒息する。
くらくらする。
青島の手が重そうに室井の首に回された。
掻き寄せられる腕に陶然となって、執拗に与えられるだけの熱に浮かされていく。
重なり合った影がゆっくりと夜の闇に覆われて、草が奏でる音と水の流れる音に混じり、青島の目尻に雫が光る。
荒い息遣いと淫靡な音の狭間に、煽られ、あやされ、満たされて、なだめられて、奪われた。
何分経ったのか。存分に楽しんで、室井はやっと口唇を解放してくれた。
「・・愛、を囁くくらい、したら・・?」
「君が一言認めたら、幾らだって言ってやる」
室井さんの見知ったばかりの匂い、熟した体温が俺を包囲する。
俺をぶっ壊すには充分な夜だった。
7.
バイクは朝、青島を迎えに来たところまで来て停車した。
メットを外して青島はふるふると首を捻る。柔らかい髪はすぐに解け、青島は車体を揺らして飛び降りた。
えーっと、さり気なく、部屋上がっていきますかって誘うべき?仮にも上司だし。
二度目のデートで家に誘うってちょっと早すぎか。
でも、このまま別れるのはまだちょっと名残惜しい。
時刻は深夜11時。
ぐるぐると悩み、青島は乱れた髪を手でぐしゃぐしゃすることで時間稼ぎをした。
こういうのは得意だった筈なんだけどなぁ。
室井相手だと調子狂う。ましてや欲望抱えたことを公言している人をあげるって、襲ってくださいって感じ?
「寄ってく?」
「俺の理性を試すようなことはやめてくれ」
あっさりと覆す室井も、ぶっきらぼうだ。
それもそうかと、青島はショルダーバッグの中からレポートを差し出した。
あーんなキスした後だし、オアヅケさせておくか。
「数ページ、残っちゃいましたね」
「全部は回れないだろうと思っていた」
「どれも行きたかったんですよね」
「次に繋げられる良い口実が出来た」
「・・それも、最初から狙ってた?」
ポケットに手を突っ込み、天を見てから青島が室井に問う。
室井はそれには答えず、精悍で大人びた笑みを、青島に向ける。
新木場の工場地帯のここは一歩入ると一気に住宅地の顔を失い、潮の匂いが、馴染みの街に戻ってきたことを気付かせた。
春の夜は冷え込むのが早く、青島の首元でシルバーのネックレスが冷たそうに光を取った。
もうデートも終わりだ。
一抹の名残惜しさは離れがたさに変わり、先程までの熱が、燻って抜けない。
朧げな視界に浮かぶ、夜光の中で光る獣のような漆黒が、ただ美しいと思った。
「サッカー行こうって言ってたのに」
「チケットが取れ次第、都合を付ける」
「グイグイ来るタイプなんですね。ちょっと意外デス」
「点数稼ぎだ」
んだよそれ。
撫でられた頭がくすぐったい。
オンナノコ扱いされているわけじゃないけど、これは、子供扱いだな。
何だか一歩も二歩も先を行く室井は、青島をあれだけ翻弄したくせに更に強靭となっていて、青島は毒気がすっかりと抜けた気分だった。
無垢に不貞腐れる顔を晒す青島に、室井は大きな手の平で青島の頭をくしゃりと一度掻き回して、離れていく。
青島は乱れた髪を梳く様に、室井が撫でた頭部に手を翳した。
会話がすぐに途切れる。どちらも動かない。ぎこちない間が、烈しいキスの余韻を二人の間に致命傷を残している。
つまらない男だと思っていた。
出会った当初は仏頂面で、怒っているのかと思っていた。
微妙に会話が成り立たないのも、煩わしかった。
今日の顔だって、その頃と大差はなく、でも今の青島には、室井の僅かな、確かな感情を嗅ぎ取れる。
「ホントは、わかってんでしょ?」
「・・君に敵うとは思っていない」
言う割に、室井は楽しそうでもあった。甘ったるい空気はなんだかもう耐え難い。
「だが、降ろさせやしない」
それはもう、脅迫ではなく誘いのように聞こえた。
「いずれ君の方から強請らせてやる」
このひとヤバイ妄想しちゃってるよー!
そのねちっこい執念に勝てる気がしない。きっと次もその次も、離してはもらえない。動き出してしまったこの恋愛バトルから降ろさせてはもらえない。
なにしても勝ち目ないなら、このままなし崩し?それって、どーなの?
「あんたってそういうとこあるよね」
「手放す選択肢はなくなってしまったと言っただろう」
「室井さんって実はけっこー図々しいんだ」
捕り込まれることを恐れ、少しだけ挑発するように瞳を煌めかせたが、今度はあっさりと引き下がられた。
雑談を打ち切った室井は革ジャンのジッパーを閉じる。
「首の皮一枚繋がっただけの男だ」
「手も出さない男が?」
「出したら負けだ」
どんな理屈?そもそも俺らは何を競っているんだ?
「そもそもベッドじゃ自分が上だって暗黙に決めてるでしょ」
「・・どうしてそう思う」
「なんとなく」
室井が薄らと笑んでいる。
「そんなに俺がすき?」
もういっそ、何でも出て来いという気分で青島が室井を覗き込み、投げやりに問いかけた。
バイクの横でちょこんと首をかしげる青島を、室井は軽く眇めた眼差しで一瞥した。
それは冷たい静謐の中で無防備にすら見せた。
「それ、似合っている」
え?ああ、今日の服装のこと?それともアクセか?
唐突に言うから青島は虚を突かれる。しかも今更だし。
「どーも」
「今のところ、俺の読みは8-2で俺が負ける。それでも俺はやってみるしかない」
「懲りないとこ、実はソンケーしてます」
エンジンを一つ吹かす間の、僅か作り出す絶妙な沈黙に、青島は冷たい予感を本能的に感じ取り、震えた。
「相棒も友情もと、泣いた君を、俺は覚えていていいんだな?」
一言で制され、青島の軽口が止まった。
思考も、心も、身体も、釘付けになる。
瞳の奥底に沈む、爛れた想いまで暴くつもりで、お互いただじっと見つめ合った。
泣いたつもりはないけど、室井には泣き出しそうな顔に見えたんだろうか。
風のようにふわりと腕を引かれ、室井の顔が近付いた。
キスを掠め取っていく仕草に、時間を置いて理解する。
何も告げず、室井は片手を上げてメットを被ると、そのままアクセルを回した。
小さくなる黒い後ろ姿をただ見つめる。
「あなどれん・・」
・・そういや、あのひと、どこで俺の本音に気付いたんだ?
寂しい。傍にいたい。終わらせたくない。失くしたくない。折角意気投合して、一緒にいれば底なしにワクワクする未来が広がっていく相手。
恋は、これからの俺たちに、どんな影響をもたらしてくるのだろう。
認めたら、怒涛のように押し寄せてくる熱の波に窒息してしまう予感がした。
この不確かな関係をもっと知ってみたくて、向き合った。でも一緒に居ればいるほど、大事なひとだったことを思い知らされただけだった。
好きだし、信じているし、尊敬している。そんなことは最初に言った。だったら後は何と言って彼を繋ぎ止めればいいのか、分からない。
「あのひとと俺のこの先が、重なる可能性、か・・」
それは、昼間青島が自分で言った台詞であり、室井を責めた台詞だった。
こんな薄紫の隙間に呟くことは、酷く途方もないことのように響いた。
もしかしたらそれは、俺こそが考えなきゃならない宿題だったのだろうか?
聡明で清冽な瞳に俺だけが映る覚悟が出来ていなかった。
堪らない欺瞞と満足感を得るために踏み入れていい恋じゃない。
室井の姿が見えなくなるまで見送って、青島はアパートに戻った。
長い、一日だった。
確実に何かを変えられた背中に、春浅い潮風が強く押し返される。
二度も奪われちゃった。
前から思ってたけど、あのひとのキスって結構強引だ。
見失ってはいけないものを、指の隙間から零れ落ちないように必死に繋ぎ止めるように息をする。
春霞の月夜は冴え冴えとしていて、残酷なほど清冽に見えた。静謐の中にあのひとの面影を感じさせるから、肌寒くなる。
全てを差し出して、甘さと引き換えに得るものは、今は未だありふれた日常の中に埋もれていて、それを掬い出す術など、今は見つけたくもなかった。
「・・次はゼッタイ襲わせてやる」
記憶の中の鮮烈な彼と、二人だけの時間の爪痕に、立ち竦んでいる。
甘酸っぱいデートは甘ったるい余韻と蠱惑的な毒を残して、また最後に弾けていった。
happy end?

すいません、またくっつきませんでした。
この物語はむしろくっつかないまま攻守を繰り広げる方が可愛いと思うのですが、流石にじれったいですね。
この青島くんなら丸々襲い受けw 室井さんは理性と欲望の間で悩んでください。
劇中、ドラマの台詞を使わせてもらいました。分かった人だけスルーしてください。
20230418