どろっぷ行進曲 後編






8.
「今日は急に・・・すまなかった」

石垣に腰を下ろした青島が長い足を投げ出し、胸ポケットから煙草を探る。
吸ってもいいかと片手に掲げて了承を得ると、少し手を止めた。
室井の前では気が引けたが箱を翳してみる。隣で立ったままだった室井も寸暇遅れ手を伸ばしてきた。
二人でジッポに額を寄せる。
影掛かる中で、ゆっくりと吸い込んで、じっと味わう風に、室井の匂いが交じった。
紫煙を溜息と共に闇空に消していく。

「なんかここんとこ忙しくて・・・・毎日署に行って、帰ってきては寝てばっかで。だからすごい気分転換になりました」
「・・・そうか」

夢の時間は醒め、二人は海岸沿いのプロムナードにいた。
送ると強情に言い張る室井に言い負け、駅までの道中、桟橋から広場へと繋がる公園を酔い冷ましに遊歩する。
離れ難いのは、きっと今日がそこそこ楽しかったからだ。

「君が厚意を受け取ってくれないと思っていたわけじゃないが、今日は私も楽しめた」

だからありがとうと繰り返されて、青島ははにかんで地面を見た。

―なんだよ。やっぱり今日は大事なことだったんじゃん。室井さんにとっても。
本当に分かりづらいひとだ。

なんとなく、室井も今日という一日を、を最初で最後の一日と決めていた気がした。
室井が落とした一滴は確かに青島の中に波紋を残していて、それはたった一日でじわじわと青島の奥底まで痺れを持たせ刻印を彫る。
もう知らなかった頃になんか戻れない。
気付かなかった昔には戻れない。
それでも今夜のことは、この先何度も何度も思い出すだろう。

「室井さんはさ・・・・俺とどうなりたいの?」
「・・・今更それを聞くか?」

二人の煙草の火が蛍のように闇に光って、消えていく。

「そうだな、この繋がりを大切に出来るような・・・一緒に酒を飲んだり、腹を据えて喧嘩したり、傍で笑っていられる、そんな関係を望む」
「好き――・・・って、そういうこと?」
「・・・・いや」

室井の作り出す静かな沈黙は、多情を闇に凍らせ、恐喝される現実に歪曲する。

「俺が俺であれるのは君の前だけだ。失うのが恐いと思った」
「俺が、欲しい?」
「その質問は、惚れていると告白した男に聞くには適当ではないな」
「抱きたい?」
「その質問も――」
「答えてよ」

食い入るように黒曜石の深い黒が、青島を闇の奥からしっとりと見つめていた。

「・・・ああ」

バリトンのように艶やかに響く声で、室井が観念したように肯定した。
告げられた事実が突き刺さり、青島は思わず目を瞑る。

煙草をもみ消して、室井が海の方を見た。
ベイエリアが赤いランプを先端に持つ鉄骨のアームを夜空に突き上げ、水平線は金色の光の粒が散りばめられていた。
観覧車が恐々と凝立する広場の奥手では不規則なリズムで噴水が上がる。
春先の夜気に酔って、海風が馴染みの匂いで辛うじて平静を保たせた。

「この街が、君と、生きようと思った証だ」

動悸が速まるのを感じた。
なんでか息苦しい。

「ずるいよね。ホント・・・。ずるいよ、室井さんは・・・」

室井の告白からどんどん変わっていく自分の周りが恐い。
自分の裁量を越えて押し流される勢いに、追い付かない。
切ない男の決断が、忍びない。

失われた領域が足元から竦ませていた。
室井が振り向き、一歩間合いを詰め、青島の前に立つ。
青島が縋るように室井を見上げた。
躊躇いがちに青島のこめかみにかかる髪に室井の指先をが伸びてくる。
神経質そうな長い指先が、ニット帽に触れ、感触を確かめるように青島の丸みある目元の髪を摘む。
弄ばれた先から甘い疼きが青島の胸に去来し、息苦しくさせた。

冷めきった街が二人の顛末を煽りたて、嘲笑うかのように風が鳴いていた。
どうしてこんな形になっちゃったのか。

微かに甘い花の香りがするような潮風の中、会話は途切れて。

室井の手がゆっくりと下がり、バングルの着いた青島の手首を浚って男の手の内に治める。
室井の指先は冷たく、乾燥して節ばった男のものだった。

「青島」
「・・はい」
「いつか・・・・いつかでいい、返事をくれないか」

振りほどこうと思えば出来たのに、何故か指先は一本も動かなかった。
自分を心的に凌辱する男の背中から湾岸まで見通せる海にライトアップされた噴水が天上高く吹き上がる。
見慣れた筈の海が、全く違って見えていた。

「前向きな返事が、欲しい」
「それ、・・・俺に道を踏み外せって・・・言ってる?」

真に大事な相手ならそんなリスクを冒せないだろうと暗に追求すると、室井は心得ていたように情熱が滴る深い瞳を纏いつかせてみせた。
ゾッとするような艶治さすら湛え、するりと滑らせた指先で青島の指先を絡め取る。

「君を、もっと知りたい」

覆い被さる態勢で、秀麗な顔を向けられて告げられた言葉は、確かに青島の深い部分をゾクリと貫いた。
夜空に溶け込むような黒い眼差しは深く濃く、多情ながら懇情で、青島への憐憫と温情に満ちている。
好きというだけでは最早足りなくなった恋情と、熱を持て余した男の強い執念がそこにある。
もう取り返しがつかないことを、室井こそが知っているのだと悟った。

淫らながら、理知的なままの漆黒を青島は息を殺して見つめ上げる。

「約束以外まで、俺に縛られる必要ないよ・・」

泣きそうな声で、青島はやっとの思いで口を動かした。
それはどこか自分自身に言い聞かせるように響き、そんなことを伝えたいわけでもないことに気付かされる。

男同士であるマイノリティをデート前はあんなに気にしていたのに今はそんなことは問題じゃなかった。
こんなにも室井とは稀有な共通項で共振し、有益な部分も多いのに、自分は何もあげられない。
恋心さえ。この身ひとつさえ。
それが儚くて。
それが惨めで。

一番には成れないセカンドの立場で、相手を尊重して思いやって、分別のある遊びで・・・・って、それ、なんか誤魔化してないか?

「ドロップアウトさせるわけに・・・・いかないでしょ」

それでもただこのひとを失いたくない。強く強く、そう思う。
シンプルに願うことは、つまりは室井のためではなく、青島が室井を失いたくないということだ。
最後に思い出を得られたのは、青島の方だ。
来年も再来年も、今日を忘れない。一人で今日のケーキと酒を持て余すくらい買って、室井を思いながら懸命に食べるのだ。

月灯りに浮かんでいた、これが最初で最後の夜だとしても、もう苦情はなかった。



室井が喉仏に力を入れ、そっと青島の手を解放した。
悲しみなのか苦しみなのか。その闇色に浮かぶものを室井は悟らせはしなかった。
言葉もなく佇む男に、青島もまた言葉が見つからなくて、ただPコートの裾を指先で掴んだ。

「缶コーヒー、いるか?」

何となくのその言葉に、数多の記憶と感情が入り乱れる。
青島の返事は上擦るような声となった。

「・・・ください」

広場の反対側にある自販機に室井が歩いていく。
青島は座ったままその背中を見つめた。

鍛えられた品の良い背中、締まった首筋から伸びるうなじも男のもので、この均等の取れた姿態に魅せられ、重なり合った時は甘く熱かった。
付いていくと決めたのも、春には早いこんな季節だった。
だから青島は、二人を決定付けたこの季節が少し嫌いだった。

室井が遠ざかっていく。
全てを背負い、全てを呑み込み、そうしてまた歩き出す男の背中が、遠くなる。

「室井さーん」

小さな甘えに少しの苦味を混ぜ、青島が室井を呼んだ。
ゆっくりと間を取って、室井が肩越しに振り返る。

「?」
「楽しかった。・・・です。今日いちんち」

遠く離れた場所から、室井も小さく呟いた。
闇に邪魔をされる輪郭の危うさが、今は丁度良い。

「もう一度。・・・誘い出すことは可能なくらいにか?」
「――ええ、まあ」

どうせ俺たちの関係は何も始まらない。
友達にも恋人にも戻れない。
微妙で、心地よくて、壊せない距離。
心の友か、戦場の盟友か。
俺はどちらになりたかったのだろう。

答えを持たぬままの焦燥だけが青島の中で鮮やかだった。

そんな繋がりを断つような賭けに、勝手に出られたことが寂しい。
情動に負けてそんな賭けに出てしまった室井が悔しい。
生みだすものがないんだったら、生産性のない未来は罪を過重することもない。

「あんたは俺の憧れだ。振り返るなよ・・・!」
「―・・・君は、普段そういう事を言わないから」
「かっこいいよ。かっこよすぎて、・・・困っちゃう」
「困っちゃうのか」

室井は仄かに目尻に皺を寄せたようだった。
胸が締めつけられるようで動けなくなる。
ちゃんと俺は笑えているかな。

「サッカー、行きましょうね」

自販機に向かう背中に宣言する。
室井は振り返らなかったが、少し笑ったようだった。








9.
戻ってきた時、室井はいつも通りの顔だった。
正面に立ち、仏頂面で細長い指先から缶コーヒーを差し出してくる。
あと三十分。

「そ言えば。なんで今日・・・いきなりデートだったんですか?」
「?」
「まずは口説くとか、場所を変えて理由を話すとか、段取りってあるでしょ?」
「ああ・・、言ってしまったからには戻せないと思った。せめて最後に一度くらい、君と普通の恋人 みたいなことをしたかったんだ」
「・・・俺なんかの何処が良かったワケ?」

温い缶をくるくる回し、問いただす声は男同士の雑談だ。

「どこなんだろうな」
「んだよそれ?」

室井は隣には座らず、そこに立ったままだった。
一日が終わりを告げてくる。室井の造り出した幻想が消えていく。

「例の飴玉・・・、弾けているうちに癖になっちゃった?」
「かもな」
「俺に欲情すんだ?」
「・・・愚弄したいわけじゃない」
「あんたのいう普通の恋人って?」
「君を幸せに出来る男であることだ」

澱みなく答える室井の言葉は、恐らく何十回何千回と室井の中で繰り返された禅問答なのだろう。
自己完結されているそれが、さっき自己完結させた青島の胸に寂寥感を募らせる。

「達成した?」

青島の言葉の端に零れる小悪魔な惹句に室井の虹彩が呼応するように深まる。

「――まだだ」
「ふぅん?」

少し意地悪に婀娜めいてみせても、室井は気配を崩さない。
空を見上げて口唇を尖らせて愚痴めいた言葉で付き合ってくる。

「せめて格好良く決めたかった。・・・今までで一番緊張させられた」
「緊張してたんですか?」
「当たり前だろ」
「キスくらいしてみる?」
「――」

軽い気持ちで判別の付かない苛立ちを紛らす様に口にしたが、室井の気配はやはり厳粛なままだった。

「デートの最後はキスだけどね」
「そんなデートが君のやり方か」
「ま、ね」
「君とは違う」
「大人の付き合いって息苦しそう」
「どうせ、君はたくさんの女性と浮名を流してきたんだろう?」
「ま、ね」

お互い海だけを見ていて、視線は交わらない。

「君みたいな男に私の気持ちがわかってたまるか」
「俺みたいな?ああ、今日既に嫉妬してたもんね。キスのひとつもね」
「おまえ、俺には出来ないと思って言っているだろう」


刹那、スッと風も起こさず目の前が陰った。
腕を引かれ、後頭部に手を回されていて。
夜空から室井の顔が振ってきて、口唇を熱いもので塞がれていた。


「!!!」

~~・・ッッ!
今日一日紳士的な態度を取ってたくせに。性愛なんて興味無いって顔で一度も触れなかったくせに。スプーンで揄った時は躊躇ってたくせに。

身に迫る肉体の感触と月灯りを覆い尽くす寸暇の闇。
いきなり塞がれたせいではなく詰まった息を殺しながら、青島は夜空を背負う男の端正な顔をただ見上げる。
室井の黒々とした睫毛が頬に影を造り、雄の貌だった。
尖ったフェイスラインが精悍な輪郭を銀色に縁取る。
自分で煽ってしまったことに気付いてもいない青島はただ目を見開き初めての男の口付けを甘受するしかできない。

動けずにいると、いきなり灼けるような舌が侵入してきた。

「ん・・っ」

えええーッッ!!なにそれ!嘘だろッ?
酔っているせいなのか、開き直ったのか、やけに熱い舌の感触に青島はカッと頬を染める。
青島が舌を怯ませたその時、室井がすかさず口の中へと引き込んだ。

「・・ッ・・」

ここまでする?
煽ったの、俺?
男に淫戯されていることがとてつもない恥辱を煽った。
しかも相手がこの室井だなんて。

反射的に仰け反り、顔を捩じるが、噛みつくように口唇を押し付けられる。
避けようと伸ばした手をいなされ、同時に覚束なく震わせ後退る躯を引き留められ、身動きを封じられて深く奪われ
そのままねっとりとした肉厚の男の舌に口腔の隅々まで制圧された。

―これは、さすがにまずいだろっ。

そう思いながら、思うのに、抵抗しようにも頬を室井に押さえられ、身体を逃そうにも圧迫する胸板は屈強な男のものだ。
室井だって男なのだ。
室井の清潔そうな匂いが咽返るように巻き上がって、青島は室井を性的に圧する欲情を持つ雄なのだと強く理解する。
今更理解したところで遅いのだが、軽く身じろいだ仕草はより室井の劣情を煽った。

「ふ・・っ、ぅ・・・」

角度を変えて、室井が深く口付けてくる。
男相手の違和感よりも、室井が仕掛けるいやらしさに、青島は睫毛を震わせた。

どう考えても正統なラブシーンに、抵抗も出来ない。
被っていた白のニット帽がふわりと地面に舞い落ちて、青島の細髪がふわふわと風に踊った。

どう考えてもお試しとか挨拶の域を越え、友人の域も燃えている口付けの甘さに、くらりとした酩酊感が青島を襲う。
細い喉から、声にならない声が漏れる。
いいように貪られ、エリート官僚の技巧に眩暈がし、室井がこんな淫戯をしてくる流れに、ただ怖じ気づく。
自然と漏れるお互いの息遣いも春の宵を色付かせ、耳から爛れるように犯される。
深く肉厚の舌に歯列や舌の裏側をなぞられ、妄りに開けさせられた口からはしたない吐息が掠れて溢れ出るのは
室井の巧みなキスの技巧のせいだ。
舌でも噛んでやれば良いのだろうが、こんな時だというのに室井の舌を噛むことは躊躇われた。

初めて知る室井の味。初めて知る男の情欲。

「・・っ、ふ・・・っ」

こ・・っ、こっ、ここまでするかぁぁ!?

もごもごと、まだ悪足掻きする口唇を唾液で濡れた肉でぴったりと塞がれ、探る舌戯にも身震する羽目になる。
緊張して強張った躯にも気付かれているんだろう。
際限などないかのように注がれてくる熱情に浮かされ、甘く夜に溶ける自分の吐息を殺そうと、口を動かすことで
よりキスの密度が高まった。

信じられない気持ちと、重なる気持ちと。
息苦しさに視界が白く霞んでいて、触れる口唇が灼けるようで。
呑みこまれる。

「・・・ぁ・・っ、ろぃ、さ・・・っ、まっ・・・」

呼吸のために僅かに離れた隙に名を呼べば、それはまるで強請るように夜空に溶けた。
酸素を欲しがる間も与えず、追い掛けられ、何度も塞がれ直す。
勢いに少し仰け反る間合いも詰められ、執拗な舌から逃れようと緩く首を振るが聞き入れては貰えず、青島は覚束ない指先で室井のシャツを引っ張る。
室井の口角が笑む様に釣り上がったのが合わさった口唇から伝わった。

胸が悲鳴を上げていた。
室井の底なしの独占欲や情欲が余すところなく伝わってくる。
二人が歩く道の融合を尊重する青島と、何もかもを欲しがる室井の我慾が衝突し、その結果何を齎すかも分からない不鮮明なままの恐怖に
躯と心が暴走する。
室井が注いでくる、乱暴さとひたむきさと生々しさが、青島の心に追い付かない。
逃げることも抵抗することも出来ず、呻きさえも室井の口に吸い込まれた。
女性味を一切持たなかったくせに、手慣れた仕草に、煽られる。

「・・ん・・・」

咽ぶような口付けに次第に青島の抵抗は力が抜けていった。
白濁していく視界を青島はゆっくりと閉じる。

シンプルな想いが室井の薄い口唇に灼けつくように暴かれていく。

散々迷って、青島は室井の筋肉の張った背中に黙って手を回した。
初めて男の肉に回した指先は情けなくも震えていた。
男の熱と腕に強淫されたまま、心まで涙色の愛執が沁みてくる。

応えるように室井の手が青島の背中と後頭部に周り、クッと引き寄せられる。
半ば立ち上がらんばかりに、良く知る匂いと厚い男の胸板にしっかりと抱きすくめられ、青島は室井の背中にしっかりとしがみ付いた。
顔を傾け、青島を仰け反らせるように口唇を深く塞がれ、ふたつの影はひとつに重なった。

***

薄っすらと情熱を湛えた闇色の瞳で、室井が青島を苛烈な焔に映し込む。
視界もぼやける距離で二人はお互いの瞳を覗き込んだ。

荒げられた息のまま薄く誘うように濡れる青島の口唇が開く。
誘惑の色香を仄めかしたそれに、室井の手が頬に充てられたまま、そっと力が加わった。
青島の口から音にもならない微かな息が溢れ、口唇を歪める。
離れた体温を惜しいとも思わせず、羞恥を誤魔化すこともさせてくれず上向かされて、青島は星空に光る双眼を泣きそうになって見つめた。

「まったくおまえは・・・・」

潤んだ青島の夜空に染まる瞳に、室井が甘い吐息を漏らす。
良く知っている本当の、当たり前の室井がそこに居る気がした。

「あまり、男を無闇に挑発するんじゃない」

兇悪な室井の瞳が荘厳な閃光を湛える。
室井の息はほとんど乱れていない。代わりに、潮風のせいか行為のせいか、前髪が少し垂れていて
強気で獲物を逃がさない雄の瞳に、青島はゾクリと背筋を這い上がるものを意識した。
名残り惜しむかのように、熱を孕んだ青島の潤んだ瞳と濡れた口唇がまだ室井の視線を無意識に誘い込む。

「恐いか」
「・・・わく、・・なんか、ない・・」

ムキになって言う青島に、室井は見つめて黙らせる。
熱い息を塞ぐように、室井はもう一度喘ぐ口唇を塞いできた。
今度は深く奪うことはせず、誘うような技巧で室井は青島の性感を玩弄する。
濡れた音を立てて掻き回され、肉厚の舌に咽返る。
下唇を甘く噛んで、すぐに室井は解放した。

「君を見てるとイライラする。止まらなくなる。自制が効かなくなる。・・くそ」
「・・・」
「これ以上痛い目を見たくなかったら、次からは少し自重することだ」

互いの嘘が暴かれる距離まで入り込んだ熱は、狡猾な大人の意識を嘲笑うかのように夜風に流れていく。
挑発され、青島の息が熱っぽく途切れた。

「行こう・・・送るから」

毅然とした高潔な官僚の顔をした室井が、有無を言わさぬ気配で青島を組伏せた。
スッとその身を離してしまう。

渡された缶コーヒーは、いつかの湾岸署で青島が渡したものと同じものだった。
それをじっと手の平に乗せ、青島はまだぼんやりとする目を落とす。

どうしてこういうことをするんだ?どうして。

ぎゅっと缶を押し潰すほどに青島の指先が白くなる。
口唇に残された熱がじんじんと名残りを伝えていた。
手の甲で口元を覆い、赤らんだ顔を片手で隠した。

あんなキスまでして遠ざかる質感とは逆に、暴かれた心が目覚めたばかりの熱に、翻弄される。

歩いていく室井の背中を滲む視線で追った。
駅へ向かうその背中に青島はようやく我に返って立ち上がった。

「ま・・っ、待てよっ、待てってば!」

どうしていいか、明確な答えを与えられない青島では、顔は上げられなかった。
でも、なんか違う。なんか悔しい。こんなの、はいそうですかって受け入れらんない。

「なんだ」
「一方的に自分だけ言いたいコト言って終わりかよ!」

青島のその言葉に室井は足を止め振り返る。

「随分とお行儀のイイ恋愛ですこと!それがエリートさんのやり方なわけ?」
「何が言いたい」
「――・・・返事とか・・・ほ、本当に要らないのかよ、ほんとにこれで帰んの」
「聞かなくても分かっている。それに今はこれでいい」
「で、俺が断ったら引き下がんの」
「・・・」

くっと青島が顔を上げる。
手の平の缶コーヒーをただぎゅっと握り締めた。
不敵に言い放つ青島の鮮やかな眼光に、室井が喉を詰まらせ黙過した。

青島の中にあるのは、罪悪感だった。大体デートに来たことも室井を期待させてしまった気がした。
だからそこに付け込まれるのだが、今はそんなことより一言言ってやりたかった。

「大体、いきなりすぎるんだよ。今まで、そんな風に考えた事こととか無かったし。あんたもそんな素振りみせないし!」
「――そもそも言うつもりは無かったんだ俺は。それを君が、あんな真似をするから」
「あんな真似?」
「空から降ってきたり。無防備な顔で笑ったり」
「・・ッ」
「無邪気に懐かれ、今日だってそんな格好で。無防備に挑発されてみろ。俺にだって理性の限界というものがある」

思い当たる節を切々と指摘され、頬を染めながら青島がしまったという顔をする。

「で、でも!あ、ありえないでしょ、そんなの!俺オトコだし!あんたも男だし!」
「分かってる」
「普通考えないじゃん・・・っ」
「ああ」

室井の気持ちには応えられなくても、だからと言って室井が決別まで覚悟して告白してきたわけじゃないことは伝わった。
なのに全部を拒んだ形にしてしまったことに、罪悪感が拭えない。
更には行儀良く終わらせようとする室井に腹が立つ。
利口な顔をする自分にも腹が立つ。
もっとそんな鋳型よりもいうべきことがあるんじゃないか。
室井にも。青島にも。

「だが、俺のことを何とも思っていない奴に、これ以上つけこめない」

〝何とも思っていない〟――その言葉に青島の何かがカッとなる。

「ああぁぁ~もぉぉやめやめ!」

イイコにしているのはここまでだ。

「俺はキャリアのこととか、何も分からないですよ、あんたの面子よりも大事なことあるし!でもッ」

言葉も気持ちも何も定まらないまま、何かが違うと発する本能が勢いだけで捲し立てる。
それを室井が2mほど先から怪訝な顔で見ていた。

「好きなのは口先だけかよ」
「どう抗ったって無駄なことは幾らでもある」
「抱きたいならそう言えばいい」
「・・・言ってどうなる」
「つまり俺はあんたが貢ぎたくなるような男じゃないですか」
「・・・・」
「どうして肝心な時に黙るんですかあんたは。いつも」

ぴくりと室井の片眉が跳ね上がる。

「どうすんだよ、その胸ン中で仕舞いこんでいるもの!」
「・・・」

『リーダーが優秀なら、組織も悪くない』
風の強い夜の揺れる橋の上で叫んだ言葉は、嘘じゃない。
なのにこんなところで、こんな風に引き下がられちゃ、あったまくる。

「一人で処理出来る恋なんてマスターベーションと一緒ですよ。随分お手軽な恋愛事情ですね、俺にゃ出来ない」
「どうせ俺たちは何がどうなってもいずれ現場で巡り合う。それでいいんじゃないのか」
「それでいいんだったらこれからも行儀よく上の連中に媚びっていればいい」
「俺の立場を馬鹿にするのか」
「恋に狂うってこと、ないんでしょうね」
「その時はおまえが引導を渡せ」

ぬらりくらりと室井がはぐらかす。それがまた青島を苛立たせる。
警戒心も自制心も飛んでいた。
目立つということが叩かれると同義であることは青島の方が熟知している。
敵の多い室井がこの先堅実な道を歩むのに必要なものは、きっともっと別にあることは明確だ。
でも、本当に欲しいものはきっと、青島も室井も、同じものだ。きっと。・・たぶん。

「これ以上痛い目をみたいのか」

さきほどの淫猥なキスが蘇り、青島が赤くなる。だがその爛々と煌めく瞳は一心に室井を突き刺す。
恐い。俺壊されるかも。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。

「さ、散々一日人のこと引っ掻き回してお終いですか」
「そんなの、俺が言いたい台詞だ」

見つめ合う青島の目尻が更に朱をはたく。
青島の口走った言葉に、室井が眉間を顰めた。

「でも・・ッ、だけど・・・ッ、ああもぉ、分かんないよ・・・っっ」
「おまえさっきから何が言いたい」
「約束したじゃん!決めたからには俺を地獄の底まで連れて行けよ・・・!道連れって選択肢はないの!?」
「ッ」
「こんな中途半端で投げ出されたくないっ」

必死に言葉を並べて、何かを伝えようとする青島を、室井は唖然と聞いていた。
交遊にも交際にも手慣れているだろう青島が見せる不意の動揺に、室井は驚愕したまま目が離せない。
普段強気の男が見せる隙は、支配欲と劣情に往々に火を点ける。

泣き笑いのように青島が顔をくしゃくしゃにした。

「恋がなきゃだめ?男だからだめ?女だったら許されたの?だったら――どうなったの?」
「・・・」
「抗うって無駄なこと?上等じゃん。背負うものもない男なんかこっちから願い下げですよ」
「・・おまえ・・」
「何でも一人で悟った顔してんじゃねーよっ、一人で全部決めんな・・・ッ」

恐がっているのが自分だけだと思うな。欲しがっているのも自分だけだと思うな。

「俺を置いていくなよ・・・っ、・・・・・一緒にいけるって・・・俺、嬉しかったのに・・・・!」

きれいに仕舞いになる筈のデートを、きれいなままで終わらせることは、偽りだと思った。
優しい嘘なんか、いらない。
取り繕った気持ちなんか、俺はいらない。


一陣の北風が吹き抜けた後を、小さな渦が砂埃を舞い上げて取り過ぎていく。


「――・・・考えて、くれるのか」

青島の中に室井に向かう気持ちは確かにある。しかしそれが何なのか今は分からない。
確かなものは、室井の闇に浮かぶ双眼に今青島が映っているということだ。

「さぁね」
「言ったからには引き返せないぞ。俺は狙った獲物は必ず手に入れる主義だ」
「それがあんたに出来んの」
「――・・・いいんだな?」

室井の目が、もう引き返せない未来を警告していた。
その室井の深い瞳孔に、相手を捕獲する野生の焔がチリチリと揺れている。
それに心が共鳴している。

「後悔しないな?」
「出来るもんならさせてみろ」

印象的で、どこか悪戯っぽい青島の淡い瞳が強気に閃めく。
この男の心を揺らすだけでは嫌だった。
夢中にさせて、全ての柵を断ち切らせて、舞い込んできたターゲットに、おまえだけだと跪かせたかった。
ケータイ番号ひとつであれだけ嬉しそうな顔をしたくせに、あんなキスをしたくせに、あっさり引き下がろうとするその行儀の良さが癪に障る。
自分たちの絆は、そんな半煮えのような関係ではなかった筈だ。
最初から、この恋を無視するなんて出来やしないのだ。



ようやく、ようやく、一番言いたかったことが言葉となって零れ落ちて、青島は身体の力が抜けるようだった。
台無しにしたデートも悲しかった。
室井の想いを冷遇したことも悲しかった。
折角のデートの仕舞いをこんな形にすることしか、できないなんて、締まりが悪かった。

泣き出しそうな心を堪え、室井から視線を外し、青島はその場に、ぱふりと座り込んだ。
ピンと張りつめていた二人の間の空気がプツンと切れる。
落ちていたニット帽を深く被って足を投げ出し、青島はそっぽを向きながら胸を掻き毟った。

「・・くそ・・っ」

心底、かっこ悪い。
子供みたいな自分に焦れながら、でもこうするしかなかった。
自分に呆れる。こんな恋、走り出させてどうすんの?
手が震えていた。
それが全身で訴えたせいか、キスの余韻かはもう分からなかった。
必死で叫んだ言葉は細胞まで満ちていて、室井を自分から切り離すなんて、もう絶対出来ないんだと、ただ、思い知った。

落とした視界の端に室井の磨かれた黒い靴が目に入る。
ゆっくりと顔を上げると、室井がそこまで近づいていた。
じっと視線を交わす。

「君は・・・、そうやって直ぐ人を惹き付けては手のひらを反す。人を良い気にさせてサッと引くんだ」
「イイ気に、されられたんだ?」
「俺を好きか?」
「どうでもいいじゃん」

憎まれ口は、情けなくも、震えている。
それでも、小悪魔な笑みで翻弄する青島に、室井が悔し紛れのままにその腕を強く引いて思い切り胸に閉じ込められた。
遠慮ない男の力で筋肉質の胸板にしかと抱き込まれた中で、どこか安心している自分がいる。
縋るように抱く男に、同じ男の性を見た。

「もう放せないぞ」
「ふぅん?」
「必ず、好きって言わせてやる」
「大っきらい」

そこにはこれまでの不満顔とはうって変わって、悪戯気に目をキラキラと輝かせる青島がいる。
二つの影は一つになって、それは十二時になっても終電の時間になっても、放しては貰えなかった。


室井の恋はまだまだ前途多難だ。












happy end?

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無邪気に懐いてデートに付き合っていたら奪われちゃいましたな青島くん。無自覚に室井さんを 翻弄している小悪魔・青島くんでした。この青島くんだと室井さんはこの先 も苦労しそうです。
まあそれが公式というか、一番しっくりくる感じですよね。
青島くんは室井さんじゃなくても良さそうなところがまた堪らない。室井さんは恋心以前に青島くんに夢中なので惚れない心配は欠片もしていない。公式でも室 井さんの一方通行な愛着がツボでした。

20170213