も しも青島くんが室井さんを好きじゃなかったら?登場人物はふたりだけ。時間軸は決めてませんがOD2後設定。
小悪魔青島くんと、手を焼く室井さんのお話。室井さん視点から始まりますがほぼ青島くんの観察日記。青島くん視点だけにしたら随分と可愛いデート話が出来上がりま した。







どろっぷ行進曲 前編





1.
「わあぁぁ~ッッ!どいてどいてぇぇ~ッッ!」

聞き慣れた声がしたなと思って振り仰いだら、空から青島が降ってきた。

***

太陽に雲が掛かったように暗くなった視界の隅で、室井は咄嗟に落者の腰に手を回し、受け止めつつ受け身を取る。
胸に飛び込んできた成人の重みと匂いに咽返りながら、衝撃を避けるものを手探った。
折り重なるように縺れ込む。
落下速度でどささっと背後に流れ、手摺りに背を預けることで二人は停止した。

室井が小脇に抱えていた書類と、青島が掲げていた段ボールがスライドし、無残な衝突音を立て、身代わりに階段から落ちていく。
昭和を色濃く残す青鈍色の本庁階段の中央が瞬時のざわめきを逆立て、寸暇の後、辺りはまた静けさに戻った。
室井は手摺りを片手で握り締めながら、小さく安堵する。
何とか二人して階段から転げ落ちることは避けられたが、被害は背後の踊り場に散在した。

「ッッぶねえぇ~~~ッッ」
「それはこっちの台詞だ」
「うわぁ・・っ??むむむろいさ・・・・っ、すいませ・・・っ」

胸に凭れたままだった青島が慌てて手摺りに手を添え室井の腕の中から起き上がる。
手摺りの上で指先が触れ合い、それにもビクついて、青島が動揺した。
離れる拍子に青島の髪が室井のうなじを擽り、少し煙草の匂いの残る息が頬に掛かって、不自然に近い距離でいることを認識させる。
うらぶれた照明が接続不良を起こしジジ・・と音を奏でる中、二人の視線が重なった。

「・・・ぇ・・・・っと・・・」

異常なのに異常と認識させない距離感は、何も今始まったことではないのに二人揃って相手の虹彩を探り合った。
乱れうねった前髪に秘める瞳がやけに艶めき室井は僅かに惑う。
変な間が漂った。

「無事か」

こんな所で無闇に見つめ合ってても埒が明かないことに逸早く冷静になった室井が先に青島の態勢を立て直してやる。
軽く首を振りながらまだ気負う様子に、ついでにワザとらしく大きな呆れた息を吐いて見せた。

「足元くらい見ろ」
「見てた・・・んですけど、段ボールがね、先に勝手に滑ったんですよ」
「二つも欲張って持つからだ」
「あはは~」
「何故此処に居る」
「おそうじ?」
「本庁で?」
「頼まれちゃった」

乱れたスーツを指先でピッと整え直し、室井が笑いもせず横を向く。
その表情に困り果てたように青島が機嫌を窺う瞳を寄せた。
肩越しに覗き込んでくる。

「あのぅ、ありがとうございました。すいません、室井さんは無事でした?」
「今更聞くか」
「だってキャリアに怪我させたら、俺、大目玉」
「そんな柔ではない」
「ですよね~」

へらっと他人事のように緩んでみせる青島に、室井は険しい顔で眉間を深めた。
途端にしゅんとなる気紛れな顔に何だか説教をする気も失せ、瞼を伏せ、ばら撒いた資料をしゃがんで拾い始める。

スッと音もなく座り、長い指先でつまむ姿勢は優美である。
端麗さが指先まで行き渡る、宮廷的であるとも言えるその一挙一動は長い官僚社会で訓練されたものだ。
公人として振る舞う義務を課せられ、それは慣例のまま、礼儀、素行査定に至るまで、公人は常に目線を意識しなければならない。
たとえ女とのデート中でもそこに例外はなかった。
手慣れ、落ち付いたそれは一つの完成された美学として誇称になる。

一方、隣では慌てて真似てしゃがみ込んだ青島の、性格そのままの大雑把な荒探しが始まった。
チラシだの小冊子だのを音を立てて掻き集めていく。
屈みこんだことで無造作に開かれた襟元から首筋が覗き、普段は見えない秘所まで柔肌が覗く格好はだらしなく
その姿は四つん這いで、手足を駆使して、どたばたと煩い。

「うわっ、あんなとこまで飛んじゃった・・・・げ、折れてる・・・」
「・・・」
「あれ、一冊足りないぞ?あ、こっちだ」
「・・・・」
「いち、にぃ、さん、しぃ・・・、合わない・・・どこだ?」
「・・・・足の下」
「ああっ!靴の跡が!」

丁寧に集め終え、青島の分も手伝った室井が静かに最後の本を段ボールの一番上に乗せた。

「気を付けろ」
「・・・、・・どぉも」

返事はしない。
だが行き掛けた足を止め、室井はちゃんと振り返る。
つぶらでくりくりとした色素の薄い瞳が室井を探るように見ていた。
この冷たい建物の中で、こんな風に室井を見る人間はおらず、何だか不思議な気がした。
目線で言う陳謝を受け止め、背を向ける。
瞼を伏せたその顔に微苦笑が浮かんでいることには青島は気付かない。

「室井さん」

その高貴な背中に直ぐに青島の迷わない声が掛かった。
凛と響く高めの声が青鈍色の廊下を押し退ける。

「室井さんも!何かあったら俺に言ってもいいですよ。・・・なんでもやりますよ、また運転手でも」
「・・・コーナーで一時停止もしなかった男の運転に乗れと」
「やだなぁ、ちょっとぶつかっただけじゃない」
「車だったら大惨事だ」
「・・・ですよねぇ」

言い負かされて青島が頬をぎこちなく強張らせながらも、返事を強請って首を傾げる。
それを漆黒の瞳に惜しげもなく映していた時、室井の中で気紛れな思いがふと胸中をざわめかせた。
薄い口唇が静かに開く。

「何時までだ?」
「・・ぇ?・・ぁ、これ?運んだら終わりです、けど」
「直帰か」
「なんかあります?」
「法定速度を護る条件だ」

薄暗い踊り場の真ん中で、太陽のように青島の笑顔が弾けた。








2.
外はまだ明るい。
太陽が燦々と降り注ぐ夕刻の陽射しを細髪に散らし、青島が室井の半歩後ろをひょこひょこ歩く。

小柄だが逞しく美しい背中がぎこちなさを残す距離で目の前にある。
室井のコートは相変わらず仕立ての良いウールで、光さえも吸い込む闇だ。この距離で皺ひとつ、見えなかった。
瞳色と同じ髪も一糸乱れぬ整髪剤でぴたりと撫で上げ、隙を残さない。
清廉な中に合わせ持つ毒気は社会的地位の高さと気位を朴訥な性格の変わりに示してくる。

鉄壁で掴ませない禍々しさと神秘さを具えている男は、いつ見ても変わらず朴訥としていて
表情が硬いところまでも変わらなかった。
大概の人間は畏怖と威厳にたじろぐ気質だ。が、ここ本店では皆がそんな感じである。
息苦しいし、むさくるしい。
ただ、室井が本当に嫌悪していないことは脳の何処かが察知しているし、人を判断する材料の秘伝は営業時代に培った。

「運転、俺で良かったですか?送迎の人とかいたんでしょ?」
「いつも頼む人間が急用だ」
「じゃ、俺がいなかったら?」
「タクシーで充分だ」
「ああ、やっぱり本店でもパトカー乗れないのね・・・」

何を言っているんだと言わんばかりの仏頂面に突き刺され、青島が苦虫を潰したような顔を向ける。
室井が運転手を依頼してくれたことが素直に嬉しかった。
二人揃えば楽しいことを本能が知っているからかもしれない。

逸る気持ちを表すように青島の足取りが自然とリズムを刻んだ。
その半歩先で、規則正しいリズムの室井が先導する。
春も早い陽射しが零れ、合わせてモスグリーンのコートの裾も歌うように早春の風に揺れていく。

ウマが合うというか、大人になれば見放す理解しあえる領域というものが、室井との間では、広い。
どこまで色を深め、どこまで心理的摩擦を融合させられるのか、探究心は尽きない。
不思議な男だと思う。
激しくぶつかり合った過去は今も鮮やかで、公人として着実な実績を積んでいる室井の風の噂は海の街にも届いていた。

駐車場まで来ると青島が先にぴょこんと駆け出した。

「今度は安全運転で行きますからね~」
「・・“今度は”?」
「また助手席乗ってもいいんですよ?」
「・・・・」

青島が挑発するように言って光るルーフに頬づえを付き、反応を待つ。
ただはしゃぐだけの無垢な瞳に太陽が射し込み、青島は目を細めた。
予想通りに、後部座席の扉に手を掛けていた室井は一旦止まり、一瞬だけ視線を向け
助手席の扉を開けた。

――このひと、負けず嫌いだよな・・・・

気難しい顔をしてるくせに単純な男に、青島は自分の感性をまた確信する。
内心ほくそ笑み、青島も運転席に滑り込んだ。
シートベルトを敷くタイミングは同時で、カチッと鳴るダブルロックの音を合図にエンジンを掛ける。

「えっと、どこまで」
「勝どき署だ」
「ええぇ~、あそことは未だに犬猿の仲なのに」
「早く出せ」
「オーライ、発車」

青島がアクセルを勢い良く踏んだ。
小さな車は滑るようにロータリーを飛び出していく。
真っ青な空にぽっかり白い雲が浮かんでいた。
長閑な昼下がりはドライブ日和だ。

***

国道を真っ直ぐに南へ。
春の陽射しが降り注ぎ車内は心地良く温まって梔子色に反射していた。

「最近ちょっとあったかい日が続きましたねぇ」
「・・・・」
「また大型の低気圧が来てるって言ってますけど冷えるんですかね?歳取ると冷えつらくないですか」
「何の世間話だ」
「あれぇ?だって久しぶりに会ったらご機嫌伺いは基本でしょ。大事ですよ、空見上げるのも」
「天候は気象庁が発表したものを時系列で頭に入れている。充分だ」
「それ、楽しいの?」
「捜査情報だ」
「ええ?じゃあ・・・忙しそうですね?」

疑問形で返したら、不機嫌そうな声色が堅くなり、反対側の車窓へ向いてしまった。
あれ?と思っているとぼそりとした低い声が返される。

「今は九時五時だ」
「あ~・・・それは――理想的な勤務形態で」
「嫌味か」
「被害妄想強いっすね~相っ変わらず」
「・・・・」
「あ、それとも俺への僻み?」
「・・・・」

あ。黙っちゃった。

「俺も謹慎って言われてデスクワークしてた時は我慢大会してましたね。座ってっと眠くなりません?」
「君のしょうもない処分と私の降格を一緒にするな」
「えぇえ?そこは同じでいいじゃない」
「・・・・・・・全然違う」
「規則正しいサラリーマンの時なんかさ、昼飯食った後とかやばくて」
「・・・・営業じゃなかったか」
「外回りしてる時はいいんですよ、でも内勤作業だってあります」

国道はそこそこ混んでいて渋滞はしていないが進みは悪い。
何かあったかもしれない。

「何時までに着けばいいですか?」
「別にいい。任せる」
「勝どき署に連絡行ってんでしょ?」
「急用じゃないんだ。待たしておけ」

そう言って室井はシートに真っ直ぐな背中を預けた。
それを横目で伺い、また前を向く。

「もし遅刻したら俺のせいにしちゃって――」
「・・・、君こそ。そうやって気を回すのも営業名残りか」
「どうだろ。ま、営業成績は伊達じゃないってことで。褒めてくれてもいいんですよ」
「刑事は処罰ばかりなのにな」
「それ今言いますか」

困った顔で嬌笑する青島に、室井の瞼がゆっくりと伏せられた。
悪びれず沈黙を造る室井に、だから青島は憧憬を抱く。
遠く、聡明なひとなのに、今は隣。
あんなガチガチの本店の中の顔とは少し違う。少しだけ頬が緩んだ気がするのは、きっと青島の気のせいじゃない。

「俺、話さないほうがい?」

疲れてるんなら、黙ってた方がいいかなー?

「君のおしゃべりは今に始まったことじゃない」
「他のキャリア送った時、ウルサイって言われました」
「トップ営業も大したことないな」
「室井さんだって、ばってん付いてる仲じゃない」
「君のお陰で」
「俺のせいぃ?」
「違ったか?」

とぼける室井にハンドルに顎を付けて笑って、青島はこうやって長い年月の末に居られる片割れをすごく身近に感じ取った。
室井だってこの腐れ縁を満更じゃないと思っている。ゼッタイ。
そう確信するのはこういう時だ。

目を見れば大概の事は伝わったし、人を頼らない男だから少しは自分に心砕いてくれているのかもしれないという憶測もある。
時々少しだけ崩れる目尻の柔らかさに、室井の控え目でありながら熟練した大人の懐中と深い器量を見た。
不器用だけど、情は激しい。

「俺たちって~な~んか符号がありましたよね~」
「一緒にするな」
「自慢の処罰ですよ、胸張っていきましょう~」
「胸を張れる処分があるか馬鹿」

変に気兼ねして遠慮されるより、こうして我儘をぶつけてもらった方が気が楽だった。
元々誰かに必要とされるのが好きだからかもしれない。
慣れ合う訳じゃないけど、この腹の内を探り合う独特の空気が青島は心地が良い。

査問委員会も総監賞も一緒に貰って来た仲だった。
懐かしい情景は古傷もあるが概ね感慨深いものとなっている。室井にとってもそうであったら良いなと思うが、きっとこの男は違うのだろう。
キャリアであるということは出世レースを受けて立つ身分だ。
誰より潔癖で気高いこのひとは、本当は一点の染みもないキャリアを望んでいたのだと思う。
非道な捜査を強要して尚、ルール信仰に絶対の真理を持っていた。
それを乱したのが青島だとするなら、そのことは一つの賛仰の崩壊だったかもしれない。

「で、今何やってんすか」
「それも地味って言うんだろ」
「違いますよぅ、勝どき署に何しに行くのかなって」

ダラダラと世間話をしたがる青島に流石に可笑しくなったのか、室井が吐息だけ漏らした。
それを横目でチラッと確認して、青島も前を向く。

一方的な雑談でも青島の言葉を、それでも室井は目線を下げた堅い表情で一句漏らさず耳に入れているのを、青島はちゃんと知っている。
上司だからと言って敬語を使う訳じゃないのに、謙った感情はちゃんと伝わっているようだし、室井もそこは気にしていないようだった。
隠れていた優しさに触れた時、このひとの苦しみまで見えた。

窓の外を流れる見慣れた景色を漆黒の虹彩に映り込ませながら、室井の気配が和らげられたことを肌で察した。

「また雑用?」
「君もだろ」
「そうでした・・・」
「企画書の説明だからな・・・」
「ふぅん、説明。演説みたいなのすんの」
「署長に説明するだけだ。講義に行くわけじゃない」
「ああ、な~る」
「今、私にはそういうリーダーシップはないと思っただろう」
「バレてんの」

あの時刺されたのが自分でなかったら。
もし他の人間だったとしたら、この男は抱える罪悪も後悔も一人隠し持ち、勘付かせることすらしないのだろう。
青島の腰の傷のことも、口にはしないままにまるで烙印のようにこのひとは十字架として背負っている。
気遣いの仕方というのは、自分たちは真逆だ。

ノンキャリだから分からないことも重ならないことも多々あるけれど、この男はもう突き放したり諦めたりはしなくなった。
室井なりのケジメだったのかもと青島は思っている。

「あ、ね、懐かしくないですか?この道」
「昨日も通った」
「分かってて言ってるでしょ、あんた」
「――」
「んもぉ、浪漫を分からない男はモテないんですよ」

拗ねたように紅い口唇を尖らせると、困ったように室井の眉間が深まった。

「・・・君と脱走した道か」
「脱走かよ」
「似たようなもんだ」
「あんたが連れだしたんでしょ」
「君が乗ってきたんだ」
「ノリノリだったくせに」
「挑発される方が悪い」

室井にしては不本意な過去の失態なのか、ムキになって言い返してくるのが可笑しくて、青島は声を上げて笑ってしまった。

懐かしい回想はノスタルジックな空気を造り出し、タンポポ色の車内を甘ったるく充満させた。
この微かで幻惑のような繋がりが、だが確かに室井のピースを組み替え、何かを本気にさせたようだった。
そこからこの男は変わった。

泥が付いたって、階段で転んだって、この男はもう、堪え忍び立ち上がるのだろう。どこまでも。
かっこいい。
立ち向かうその気品ある背中に、生涯敵わない気分にさせられる。
これが警察キャリアなんだ。

「あんなにハラハラさせられたのはあれっきりだと思った。あの時もあの後も君と関わると肝が冷やされる」
「はは」
「笑うところじゃない」

同じ記憶を共有している数奇さが擽ったい。
念願の刑事になって舞台に上がったそこにはいつも室井の影があった。
人生の覚悟を決めた時、そこにいたのが室井だった。
思えば一番最初に見た本店キャリアでもあった。
あの瞬間のぞわりとする感覚は、今も胸に万感の想いを過ぎらせる。

チロっと室井が視線を初めて向ける。
敏感に察した青島も一瞬見て頬を緩ませた。

甘えるわけじゃないし寄りかかる訳じゃないけど、背中を預け合う同志。
湾岸署のメンバーの様な同じ場所でローカルに戦うのとは違う、遠い場所で違う疎通をする同志。
青島を同志として認め、名コンビとして歓迎してくれる開き直りに強かな男であると敬服する。
願わくば、室井もそうであったらいいなと思っているのは、生涯内緒だ。

また赤信号で車が一旦停止した。
サイドブレーキを引く青島の丸っこい手を何となく室井の視線が向いているのが分かる。
指先まで丸くて子供みたいな手は、実は少しだけコンプレックスだ。子供みたいだから。
だぼだぼのコートの袖口から小さく覗いているその指先を、何となく隠した。

「今ねぇ、うちに特捜立ってんですよ」
「聞いている」
「今度来た管理官は知らない人でしたけど、また色々言い合ってぶつかって・・・怒鳴られて」
「少しは手加減してやれ」
「何の。まだまだ」
「頑張っているんだな、変わらず」

少しだけ間を置いてそう呟いた室井を、驚き、青島はじっと見つめた。
ぼんやりと独り言のように呟かれたそれは、室井の率直な感想だと伝えた。
過去を懐かしんだのかもしれないし、当事者となる管理官に同情したのかもしれない。
それでも。

ハンドルに両手を乗せたまま、そこに顎を乗せて青島は目を細める。

「上に文句言うことを、あんたはそんな風に言ってくれるんですね」

室井が造り出そうとしている所轄と本店の関係も、これから描いていく未来予想図も、どれも青島には眩しく映った。
変わらないものはいつまで経っても色褪せないで、確かにここにあるのだ。
このひとと目指す未来はきっと――。

「・・・文句じゃないんだろ」
「俺、あんたと捜査している時が一番楽しかったよ」
「・・・」
「あ、これ過去形で言ってますけど、更新中なんで」

信号が変わる。
身体を起こしてゆっくりと発進させた。

勝どき署までは、あと少し。

***

ロータリーには入らず手前で停めた。

「はい到着ですよ、お客さん」
「ありがとう」

室井がシートベルトを外し鞄を持ち上げる。
ハザードが発する規則正しい機械音はまるで晴れやかな舞台の幕切れのように耳をざわつかせた。

「またいつでも呼んでくださいね、どこへでも付き合いますから俺」
「随分と都合の良い雑用係だな」
「ま、ね。あんたのね」

青島が肩を竦める。
それを漆黒の瞳に真っ直ぐ映した室井が、ほんの少しだけ眦を緩めた。
その僅かな変化に青島も釣られるように口元を持ち上げた。
片眉を上げて、なんだ?と理由を問う室井に青島は甘く吐息を漏らして、素直に白状する。

「だって、あんたが笑ってる」
「そんなことが嬉しいのか」

ハンドルの上に両手を組んでへへと笑いを零して室井を真っ直ぐに見た。

「あんた、あんまり人に対して警戒心緩めないから・・・、懐に入れない。壁がある。・・・俺でいいのかなって時々思う」
「遠慮のない君にしては控え目な発言だ」
「今更ですけどね。気にしてないって言ったら嘘になる。色々と」

車内は閉ざされていて、外の風音も何も聞こえなかった。

「でも、俺でいいんだったら、利用して。もっと」
「・・・・」
「付き合いたいんだ。あんたの土台になれるんだったら、俺、何でも出来る気がする。・・・・あんただって決めたから」

ずっと思ってたことを気恥ずかしさもあったが青島はたどたどしい言葉でも口にした。
一度くらいはきちんと伝えておきたかった。
こんなこと、こんな時じゃなきゃ、きっともう言えないだろうから。
刑事をしている以上、どこで突然の別れが来るかも分からないから。
きっと今日は偶然がくれたチャンスだ。

目を閉じて、青島は車内に薫るこの男の残り香を惜しむように味わう。

「憶えてて・・・」

黙って青島の言い分を聞いていた室井は、妖艶なまでの緩やかさでをゆっくりと瞳を深めた。
瞼を伏せた青島にそれは見えなかったが衣擦れの音で室井が前を向いたことを感じ取る。
鼻から息を吸い、室井はフロントガラスを漫然と見ていた。

「きっと君は遠慮して呑み込むんだろうが。私を騙すにはまだ早い」
「うん?」
「悪いが私は人を選ぶ」
「・・・・あ、そう」
「こんな関係は君だけだ」
「・・・・殺し文句」

室井が音もなく顔だけを青島に向けた。
何故だか室井の瞳が少し鋭く色付いた気がした。
何だろうと思って笑みのまま首を捻るが、今度は室井もその視線を逸らさなかった。
清潔感がありながら猛る、強い焔に絡め取られる。
それはいつだって甘い痺れを生みだして、青島の息を殺すのだ。

沈黙のまま、目の前で室井の気配がふっと陰りを帯び変わる。

「青島」
「・・はい?」
「私は、君がすきだ」

固まった青島を余所に、そんな青島をしっかりと認めてから、室井は颯爽と車を降りた。
バタンとドアが閉ざされる。

戻ってくる静寂の空間。
残った微かな無臭の筈の室井の残り香と、入ってきた新鮮な冬の大気。
リアガラスの向こうで遠ざかっていく黒い背中。
いつもの真っ直ぐで凛々しい高潔な男の後ろ姿。

「ぇ、えぇぇ・・・・?・・・なんだって・・?・・・うそぉ・・・・?」

なにそれ。
春もまだ浅い陽射しの中で黒いコートがどんどん遠ざかっていくのを、青島は車の窓からただ見送っていた。








3.
勝どき署の次は湾岸署だったらしい。
室井が署に来ているという噂が刑事課まで聞こえてきた。
先日まで発っていた捜査本部も解散となり、通報もないこんな日は、ただ報告書と清算書に埋もれるデスクワークになるわけで
噂が頭上を上滑りしていくのに合わせ、青島は思わず書いていた文書を書き損じた。

「また書き直しだ・・・」
「なに動揺してんのよ」
「してない」

背後から覗き込んでくるすみれにいーだをして新しい紙を用意する。

「相変わらずぶっとんだ文字ね。象形文字みたい」
「今どき手書きってのが時代遅れなんだよ・・・市民を護る警察こそ前衛的であるべきだと思わない?」
「愛しい室井さんに会いたいのなら先に会ってくれば?帰っちゃうよ?」
「愛しいって・・・」
「久しぶりなんでしょ、それともプライベートでも会ってんの?」
「会ってない」
「だったらあたしと同じよね。何ヶ月ぶりになる?・・半年?一年ぶりくらい?そう考えると本店って遠い国よね」
「そのうちパスポート求められんじゃない」

元々本庁と所轄はそう密に連携する機関ではない。
組織存続の役割は別にあり、だからこそ相容れぬ思想に時に真逆の唯心史観を持ち得たりする。
同じ警察官とは言っても企業とは違い、別会社と言って差し支えなかった。

「積もる話もあるんでしょー?」
「別に用ないし」

くだらないやり取りをしながら、青島の指先でペン回しが始まる。

「用なくたって挨拶くらい普通でしょ?男同士のくっだらないヒーロー談義とか」
「すみれさん、男のロマン、馬鹿にしてる?」
「してない、子供っぽいと思うだけで」
「それ、馬鹿にしてるのとどう違うの」
「気持ちのモンダイ?」

何とも言えない顔をして青島が睨みつけると、傍に立っていたすみれが両手を広げてくすりと笑った。
見れば指先には湯気の立つカップが二つ掲げられている。
いる?と目線で問われ、青島はペン回ししていた手を止め、片手を伸ばした。

「みんなそっち行っちゃったよ?」

刑事課は閑疎だった。
出払っているわけではないことがデスクの上に山積みとなったコートや鞄などの私物の散乱で見受けられる。
多分、時間をずらした昼飯か、他課の応援に駆り出されているのだ。
すみれと二人きりであったことに青島も今更ながらに気が付いた。

「行ってくればいいじゃない、こないだの特捜の愚痴とか、何とかしてくださいよ~とか」
「すみれさん、いつから選挙活動員になったの」
「近況報告って大事よ。いざって時にミッションのリスクを高めるのも大抵そういう些細な行き違いからだわ」
「昨日九時の洋画劇場観たのね」
「だってさ、知らない間に室井さんが何やってるかなって。ちゃんと点数稼ぎしてんのかなとか、本店に宗旨替えしてないかなとか」
「室井さんは元々本店です」

飲みかけの珈琲を青島のデスクに置き、すみれが縁に両手で後ろ手を付く。
視線は青島の方まで下りて来ず、誰もいない刑事課を漫然と映していた。
キャスターの付いた椅子をゴロゴロやりながら青島も何となくすみれを見上げる。
寄りかかる格好は、ブラウスを持ち上げる女性特有の胸の膨らみが強調され、流されるままにS字を描くカーブに目が泳いだ。
パンツスーツの彼女の胸元を白のレースが覆い、その谷間には小さなネックレスが掛かっていて彼女の肌をスリリングに薫らせる。
何となく会話が途絶えて、視線も定まらない空間を持て余し、青島から同じ話題が口を滑る。

「気になるんなら、すみれさんが行ってくればいいじゃない」
「青島くんは気にならないの?」
「・・・べっつに・・・」
「この間の特捜。後付け捜査もやらせて貰えなかったって、深夜までぼやいていたの誰」
「愚痴ったってしょうがないでしょ」
「その言葉を先日の青島くんに聞かせたいわね」

すみれの言葉は手厳しい。

「いんじゃない?そのくらい。仲良くしてたらオトモダチくらいには昇格しそうじゃない」
「トモダチになってどうすんだよ?」
「パイプ?」
「露骨」
「だったら青島くんは純粋な交遊関係を温めれば?得意でしょ?」
「なんか言い方に棘あるよ」
「ご不満?」
「不満じゃないけど・・・」

ずず・・と誤魔化すように珈琲を啜った。

先日の良く分からない告白がまだ青島の脳裏をぐるぐると回っていた。
一体どういうつもりだったんだろうかとか、そもそもどういう意味なんだろうかとか。
普段の室井からは懸け離れた世界の言葉を聞いてしまったようで、いっそこちらが悪いことをした気分にすらなってくる。

指摘されて思弁すれば、具体的に自分はこの先室井とどうなりたいと考えているのか全く判然としていなかった。
室井もまた、どうしたいとか明言していなかった。
突然突き付けられた現実に、明確なプランも答えもお互い持ち得ていなかったことに思い至る。
漠然とした方向性が示唆している未来を、二人で話し合ったことすらない。

あれから室井は何も言ってこないし、連絡もない。
当然だ、具体的に返事を請求された訳でもなかったし、何かを脅迫された訳でもなかった。
何かを求めた告白ではなさそうだったし、知っててくれというだけの一方的な宣言だった気もする。
そうなると、そもそもあれはちゃんとした告白だったかすら怪しくなってくる。

でもなんか。
言うだけ言って放置する無粋な男の顔を思い浮かべ、同じように青島の眉間が深く寄せられた。

「あのひとには愚痴りたくない」
「あ~、いいとこ見せたいんだぁ。男のちっぽけな見栄よねぇ」
「・・・ちがうもん」
「じゃ、虚栄?要は負けたくないんでしょ」
「すみれさん・・・きつい・・・」
「ああ、ごめん、不思議だなと思って」
「何が」

デスクにだらしなく弛緩した身体を投げ出した青島に、すみれが苦笑する。
ん~、と少し宙に思い馳せるような眼差しをし、すみれがストレートの黒髪をさらさらと揺らした。
白いブラウスに映える黒髪は今どき珍しい天然素材だ。
青島のデスクに散らばるキャンディをひとつ取り上げ、すみれは端を持って手の中で弄ぶ。

「ほら、青島くんが来る前からあたし、室井さんを見てきた訳じゃない?人の感情なんかおよそない人だと思ってた」
「・・そんなかんじ」
「青島くんに接するみたいな、あ~んな――なんていうのかな、本性晒す様なカオ、見せたことなんかなかったし」
「・・・・」
「何で青島くんはあんな本店に懐くのかなって思ったり」
「・・・」
「何で室井さんはあんなムキになるのかった訝しんだり」
「堅物の官僚?」
「ちょっと違うかな・・・、話せば室井さんってぽつぽつと応えてはくれるんだけど、あそこまで熱くないっていうか。冷酷で無慈悲な官僚って感じ」
「ふーん」

言われてみれば、すみれから室井の話を聞くのは初めてだった。
青島が〝中途入社〟した際、既にすみれや他のメンバーは室井や新城などの本店官僚と交流を持ち、軋轢を生みだしていた。
その途中でどんな諍いや衝突があったかは知らないが
青島の知らない長い年月を共に知り合う間柄であることには間違いない。
それはどんなに頑張っても敵わない悠久の時間格差であって、青島は今更ながらにそのことに気が付いた。

「もしかして、個人的に話したりしてた・・・?」
「うん?・・・ん~、まぁそりゃ休憩室とかでかち合った時にとかにはね。・・・あたしは挨拶くらいしますんで」

おちゃらけた言い方で口を濁すすみれの黒髪が肩先で揺れる。
微かに襲来する疎外感はそれまで青島の中に住みついている室井の輪郭を不完全な偶像に変え、遠く陽炎のように歪ませた。
だからこそより一層自分に執着を見せる室井の告白に不可思議な感触を植え付ける。

なんとなく気詰まりとなって、青島はそっと重たい息を吐いた。

室井にしてみれば青島もすみれも自身の責任下で銃弾に倒れた戦士ってところなんだろうと思っていた。
俺の時には見舞いにすら来てくれなかったくせに。すみれの時にはどうだったんだろう。

手の中で弄んでいたキャンディの包み紙を指先できゅっと引き、許可を願うようにすみれが青島を伺った。
開いてから聞く確信犯なやり方がすみれの可愛さだ。
ちょっと笑って頷き、それから両手を頭上で組んで伸びをする。

すみれがまあるい飴玉をぽんと口の中へ転がせた。
ころころと飴玉がすみれの口の中で転がる音がする。
何となく耳で追いながら、青島は誰も帰って来ない刑事課を瞳に映し入れた。

「きっとさ、今もそんなに変わっていないのよ、室井さんの中では。だけど青島くんがいると引き出されちゃうのね」
「そうかな・・・」

だとしたら、アレは青島が言わせたんだろうか。
冗談じゃない、そんなところまで責任持てるかと、珈琲をヤケ飲みする。

室井ならばと賭けられたこれまでの熱意が急速に矛先を失い空洞化していくようだった。
このひとだと思ったんだ。
それはずっと普遍で続くのだと思っていたのに。
そこに別の意味合いが入る余地はなかったし、それで全部だとすら思っていた。
なのに室井本人が大胆に壊そうとするから。

まるでこれまでの結びつきも共犯も、未成熟で価値がないと思っていたみたいに。
純粋だった筈の想いを、室井に因ってこちらまで変色させられてしまった気がした。

馴染む温度はどこまでも際限がない分、恐ろしい。

「あたしじゃそんな姿見せてもくれなかったわ」
「そうして欲しかった?」
「どうだろ。仕事に憔れた男を慰める趣味はないけど」
「たまに甘えられるのが女の子の特権」
「なによぅ、あたしに媚びろって言ってんのぉ?」

――あれ、もしかしてすみれさんって室井さんが好きだったりしたのかな?

今になって気付く同僚の心の機微を、衝撃と共に探るように青島はすみれの愛くるしい瞳を見つめた。
室井に似た黒目がちの水晶だ。
髪色も癖のない黒髪で、スレンダーなところまでどこか似ている。
お似合いかもしれない。

ふと、知らない間の膨大な時間の帯が、空恐ろしく思えた。
もしかして知った気になって満足していたのは自分ばかりで実の所、何も分かっていなかったのでは。
そんな気がしてくる。
すみれのことも、室井のことも、押し付けた理想で一人勘違いしている可能性は?
だから室井はあっさりと二人の仲を壊す様なことが言えたんじゃないか?

そもそもすみれが妙に室井に会いに行けと推してくる素振りもらしくなかった。
このダラダラした会話の主導権を握られ、意図せず引き出されそうになった巧みさに、青島はここで我に返る。
自分で打開しそうな清新な女だと思っていたし、恐がりなとこあるけど、室井にだけは青島に連れられ高い要求を抱いているような真の強さを感じていた。

見え隠れする女の本音はどこにあるのか。

「ホントはすみれさんが室井さんに会いたいんじゃないの?」
「どうかしらね?」
「ちゃんと・・・ストレートに口にしないと、あのひと他人の情緒になんか気付いてくれなそうだよ。すみれさんの気遣いとか」
「それは認める」

聞いた所で何をしたいのかも分かっていないから返事を望みはしなかった。
なのにあっさり肯定した女に、青島は思わず振り仰ぐ。

「ここにひとり、真に受けた男がいるわね」

すみれも顔を向け、洒落のめす視線が交差した。
青島の瞳を揄うような悪戯な瞳で覗き込み、すみれが翻弄するように口角を持ち上げる。

「え。ぇ・・・、すみれさんって・・・」

その先の言葉が出ないでいると、すみれが妖しく笑った。
狡い。女ってみんな魔性だ。

「嘘でしょ?」
「男って単純」

一瞬の波風を遮るようにすみれが指を差し出し、青島のデスクの奥に押しやられている菓子の袋を強請ってくる。
そう言えばもうお昼だ。お腹も空いている。
逆立った気配は一気に霧散し、青島はそっと息を吐いてすみれが望むものに手を伸ばした。
交代で昼休憩に入るから、早く誰か帰って来ないかなとか考えつつポテトチップスの袋を開封した。
中を二人で額を突き合わせて覗き込む。
のりしお味だ。

「青島くんはさ、いいじゃない。何で意地張ってるの?」
「意地張ってることは前提なの」

指先をぺろりと舐めあげて、青島が紅い舌を覗かせる。
その子供の様な仕草に、すみれはほんの少し自嘲気味に口許を緩めた。

「あんまり意地張ってると・・・子供扱いされるわよ」
「もうされてるよ」
「それで良く関係が成り立つわね」
「あっちだって、相当だよ」

べえっと舌を出して見せる青島は幼い。
ジッと見て、すみれがポテトチップスを掴めるだけ掴み取る。

「あー!」

運命には逆らえないと。人生を背負い粉骨する男の重荷は女とは違うみたいだ。
組織の柵の中で戦う室井と対等に向き合えるのが、青島の目標だった。
支え合うのではなく、戦い合いたい。
目指す未来を支え合う無二の相手となりたいから、異なる感性を大事にしている。
あのひとに護られるだけの下っ端じゃない男になりたい。

「人が人を労わる気持ちに色々理由付ける必要ないと思うけどな。俺を出しに使うなよ」
「気遣いには下心がいっぱい」
「恐いよ、すみれさん」
「・・イシキしてる時点で負けでしょ」

あまりにあっけらかんと言うすみれの言い分は気さくで、青島は頬杖付いて微苦笑を返した。
身勝手な探究心を誤魔化すことなく甘受し尚且つ目的を遂行しようとする強かなムスメ心が可愛いと思う。
すみれのそういう甘えは青島にしか見せないし、すみれのそんな強がりに青島は特別感を持つ。
笑ったことで少し引き攣っていた青島の肩の力が抜けた。

意識。確かに仕事をする上で常に意識し触発される存在だった。
初めて会った日のことを思い出す。あの一瞬の邂逅が全ての始まりだった。

――かっこいいと思ったんだ・・・そうありたいと。

高潔な背中は背負うものが甚大で、あのひとは常に内部矛盾に苦しんでいた。
本店の汚いやり方も卑怯な思考も全部知っててその中で同じように手を汚す選択を厭わないくせに、心の中でそうせざるを得ない自分自身に葛藤を捨てきれな い。
そういう男だから、青島は惹かれた。
潔癖すぎて何も出来ないと腐るだけの男だったら見捨てていたと思う。

「何かあった?」
「ぅ・・・ん?なんで?」
「何か――泣きそうだから?」

言われて、青島は驚いた。
目を丸くしてすみれを見上げると、チラッと視線を投げただけですみれは大人の遠慮を見せる。

「そんなこと――」
「ない?」

単純に尊敬しててちょっと仲良すぎな上司。無防備で安心しきっていた内に、何かが変えられてしまった。

なんか恨みごとの様な怒りの様な、沸々としたメランコリックが青島の奥底から湧きあがっていた。
痛みの様な息詰まるそれは壊れていくものを怖がる子供と同じだ。
全く。なんてことしてくれたんだよ。

くるりんと、ワイルドキャットの瞳が息を吹き返す。

「突っぱねられちゃうのが怖いんだぁ」
「突っぱねられないのもコワイ・・・」
「ええぇ?なんでよ?」

観念して、少しだけすみれの優しさに甘えてみる。
口にしたら、結構煮詰まっていた自分自身の心の圧迫に気付く。

「どこまでもずるずる行っちゃいそうで。共有するものの境目が見えないのって結構ブキミ」
「そういうもん?」
「あのひとに何を求めていたか忘れちゃいそうなんだよ」
「会って、向こうも認識してくれるうちは心配ないんじゃない?」
「会えないことの方が多いじゃん」
「一人ヤラシイ妄想が暴発するってこと?」

あまりな言われ様に、青島はがっくりと肘が落ちる。

「俺のこと、夢見る青少年と間違えてない?」
「ロマンって厄介よね」
「すみれさん、やっぱり男のロマンをばかにしてるでしょ」
「してない」

額を突き合わせてぶーたれる。

きっと、こうして冗談言い合っていられるうちが一番温かくて、幸せな時間の結晶なんだ。
人は何処かで出会った意味とか運命を託したくなる。そんなの本当はただの偶然で、運勢の気紛れだ。
無理に変色させようとすれば濁り破損する。
あのひととも。俺と、すみれさんも。

「タイムリミット、青島くん」
「んぁ?」
「ロマンは一方通行じゃなかったみたいよ?」

顔を上げ、すみれが顎で指した背後を振り返って青島は目を見開く。
刑事課の入り口に用事を済ませた室井が仏頂面で立っていた。










4.
連れ出された屋上に二人向かい合う。
あの日とおんなじ、麗らかな早春の陽射しが剥き出しのコンクリートに白く反射していた。
風が足元を吹き抜けて、ボタンもろくに留めていなかったフロントカットから青島の海色のネクタイが空に巻き上がった。

「なぁんでしょーかぁ・・・?」
「何でも用事を言い付けろと言った割には横柄な態度だな」
「ああ、運転手?」
「――いや」

室井が折り目正しい堂々とした立ち姿のままに、青島を真正面に捕えた。
貫く不屈さを肌で察し、ゆっくりと何か言いかけた室井の言葉を、何故か聞いちゃいけない気がして咄嗟に被せる。

「あぁ~っと!勝どき署の次はうちもだったんですね。まさか全所轄を回るんですか」
「関係する地区だけだ」
「それって幾つあんの」
「・・・君は例えば品川区だけで所轄が幾つ現在するか知っているのか」
「・・・・・・・・・いいえ」
「・・・・」

告白してきた男は、妙に冷静なままに仏頂面で淡々とした言葉を返していた。
それはまるで浮足立っている青島とは対照的に悄然としているようにさえ見える。
そんなことは大したことがなく、おまえにも期待はしていないし、興味無いと諦められているかのように映った。
なんか意識しているこっちが馬鹿みたいだ。

ふいにまた重たい空気が二人の間を流れた。

「何変な顔してるんだ」
「別に」

会話が続かないのは室井も戸惑っているからだろうか。違うか、このひとは昔から無口だった。
無口で、俺に関心がない――
まさか口を滑らせたことに後悔を抱いていたら。
ゾクリとしたものが青島の背筋を伝い、気温が下がった気がする。
一体何をしにきたんだろう。

「ご機嫌ナナメだな」

誰のせいだよ。
用件が、この間の続きでも撤回でも、自分にはどちらの用意もできていないことを知る。
青島が何とか話題を反らそうとした、その時。

「話はこの間のことだ」
「この間って・・・・」

やはり告白には続きがあるらしい。

「青島」
「・・ぁ、ま、まさか、ホンキだったなんて言いませんよね、分かってますし」
「私は冗談であんなことは言わない」
「冗談にしてくれてもいいんですけど・・・」
「つまり伝わったと解釈していいんだな?」
「――う」

確かにそうだ。
しくじった。
またまたぁ、とか、嬉しいです~、なんて端から笑い飛ばしてしまえばかわせただろう事態だった。
動揺見せている時点で真に受けましたと証明しているようなものだ。
いつもなら出来た。
そういう恋愛に関する第六感に長けていて、友人を続けたい相手との取り持つべき距離感などは肌で計算できたし
恋情にも敏感に察せて事前に手を打ち告白に 至らせない態度の取り方も心得ていた。

何故だろう、室井の言葉には鉛のようなものが入っていて、青島の耳に届く全てのものは真実だと思わせられる。

じっと上目遣いで青島は目の前に佇む一人の男を見つめ直す。

だが、男同士だ。本気だって言うのなら、未来なんかないし、マイノリティすぎる。
お互い警察官であり法を遵守する職業だ。そんなリスキーな世界に踏み出すことなど考えたこともなかった。
また、そんな世界に室井を引き込む訳にはいかないだろうくらいの尊敬はある。
さっさとお断りした方が二人のためだ。
長年の恋愛遍歴からして、こういうタイプは長引かせると厄介だということも本能が告げていた。

青島が自分の足元に視線を落とす。
気まずい空気に、室井も口を挟まなかった。

断る。
そうしたら俺が傷つけることになるなるのかな。
 不思議と、自分のせいで室井に悲しい思いをさせたくなんかなかった。
でも断らないと。応えるわけにはいかない。

・・・・室井さんを、俺が傷つけるなんて。

「あ~のぅ・・・・、えっと、・・・その、すいません、俺、」
「返事はいらない」
「・・・・」

にべもなく返され、青島は絶句する。

「君の答えが欲しくて告げたわけじゃない」
「・・・・・・・・あ、そう」
「自分の身分も分かっているつもりだ。君に尻拭いさせることもない。心配しなくても無理強いなんかする趣味も無い」
「・・・・」
「・・・、気持ちだけ。知っていてくれたらいい。・・・・好きなことには変わりはない」

まるでやっぱり青島の意志など室井の恋情には無関係のような口ぶりだった。
恋はこちらの意志などお構いなく自己完結していて、なのにこんな風に目の前に現れたりする。

「なんなの、あんた・・・」

少し潮風で凍えてしまった拳で、青島はスーツの裾を握り潰した。

自分は怒っていた筈だ。
突然言い逃げした男に振りまわされて、散々悶々とさせられて。
勝手にこっちの情熱まで色を変えて、良からぬ波風立てるだけ立てておいて、それで平然として放置して。
なのにこの清々しい男はなんなんだ。

「なんでそんな普通なの」
「君だからな・・・」

最上級の殺し文句が投下され、青島は額を押さえて天を仰いだ。

淡々と語る口調は青島の良く知る室井で、その静謐さにいつも届かない大人の男を感じている。
意外な気がしたが、よく考えればいざという時の激しさは室井にもあった。
覚悟を定めた室井は、情熱も残虐性も持ち合わせている。

そんなことを考えていると、背筋が震えるような感覚に支配された。
室井にとって自分が特別であるというこの事実に。

「ぁ、あのねぇ、・・・、」
「頼みがある」

髪を掻き混ぜ、言い掛けた言葉を珍しく室井が抑止する。
そうだ、だったら別の用事があるわけか。

「・・・なんすか」
「一日でいい、近いうちに都合が付かないか。少し私に付き合ってほしい」
「どこに」
「場所はある程度考慮しよう」

言われて〝付き合う〟の意味が所謂プライベートのお誘いであることに思い至る。

「話がしたい」
「そういうことだったら・・・」
「酒でも飲みながら一度くらいゆっくり話してみる気はないか」
「別に・・・酒飲むくらい、幾らでも・・・」

なんだ、そういうこと?単なる飲み友達ってことだったのかな?

「下心はある」
「なんでそういうこと言うんですか」
「言っておかないと君は・・・なかったことにしそうだからだ」

つまりこのお誘いはなかったことにされそうな状況に釘を刺しに来たってことなのね。
流されても困るし、あわよくば手に入れたいと。
ようやく今日の室井の行動が理解出来、青島は項垂れた。

なんて勝手な男の言い分なんだ。
男の言い分って、聞く側に回ると随分と虫がいいんだな。
考えたこともなかった。
室井と恋愛できるかなんて。
その上でこの誘いを受けるということは相手に期待を持たせることになるのだろうか。
この場合、上司との接待という理屈は都合の良い言い訳なんだろうか。

室井が社会通念を逸脱することも意外だった。そうさせるのも嫌だ。
二人の間に、それもやむなしと考えたのだろうか。
・・・・それを促したのも、俺なんだろうか。

口の端にやや苦い笑みを浮かべ、青島は見つめてくる室井を無言のままに見つめ返す。
風の中に佇む男は、いつもの見慣れた男だった。
忠義や忠誠といった堅苦しいものは、その性質上、無骨さの裏でどこか愛情に似た執着を持っている。
黒曜石のような黒い瞳は、動揺も悲観も持ち得ていなかった。

「受けて立たなかったら」
「別の手段を」
「勝手だなぁ」

後始末を付けるだけの、情はあるだろう?

「開いている日は」
「別に通報入らなきゃいつだって――」
「出来れば休日を合わせてほしい」

ってことは、本格的なデートコースだ。

「え・・・っと、」

〝上司と仕事上がりに一杯〟の域を大幅に超えている勧誘に、流石に戸惑った。
そもそも相手は上司で官僚だ。
そんなに簡単に頷いてしまって良いとは思えない。
同時に、そんなに簡単に断れるものでもない気がする。

「特に予定がないなら進めさせてもらうぞ」
「あ、ぇ、は、はい」
「詳細は追って連絡する」

逡巡する青島に焦れたのか、口実を作られるのを避けたのか、畳みかけるように室井がさっさと会話を終わらせる。
まるで会議や捜査の段取りを企画しているみたいだ。

先日と同様、言うだけ言って、室井はスタスタと去っていく。
思わず頷かされた勢いに、青島の開いた口は開いたままだ。

え、何?
もう決まっちゃったの?
俺、室井さんとデートすんの?

半ば呆れ、半ば呆気にとられ、見送った。
何あのひと。すっごいすっごい強引だ。








5.
クローゼットを開いた手前で胡坐を掻き、青島は悩んでいた。

あれから数日。室井から本当に連絡が来た。
明日、室井とデートをする。
酔狂にも室井はこの流言が本気のようだ。

告白されたら、恋は嬉しいものばかりじゃなくなった。
室井の恋情は逆に、突き放されたような疎外感を青島に残した。
打ち砕かれた親近感はいっそこれまでの絆も幻のように見せてくる。

悔しいのは、そんな決意をあっさりとしてのけた、その度胸なのかもしれない。
変化を恐れることは弱虫なのだろうか。

「・・・どうせ俺は餓鬼だよ。・・・だからっっ!もぉぉどれ着ていこう・・・」

キッとクローゼットを睨み上げ、青島はぶら下がっている服を端からチェックする。

女性とのデートではファッションに事欠かなかった。
相手の容姿や背景、趣味などから最適なマッチングを簡単に予想出来たし、合わせつつ喜ばせるスキルも得意だった。
一緒に歩いて相殺しない色や柄、女性を惹き立てる似合いのセンス。
気軽に大体想像できた。
のに。

室井相手だと全く分からない。
どうすれば室井に恥をかかせず、そこそこのクオリティを保てるのか。

まさかいつものコートを着ていくのは室井の告白を馬鹿にしているようで流石に失礼な気がするし、スーツでいいのかどうか。
気合い入っているって思われるのもヤだし、誠意がないって幻滅されるのもヤだ。
っていうか、俺、室井さんに気に入られたいのか?
青島の問題はそこからだ。

「そもそもあのひと何着て来る・・?まさかスーツのまんま・・・・?」

そんなとこまでリサーチしていない。
官僚デートって定番はどこにあるんだ。
向こうがスーツで来ているのに、こっちがカジュアルダウンさせていたら尚更失礼だろう。
だからといって、室井がラフに合わせてくれているのに、まるで仕事ですと言わんばかりにこっちがスーツで決めてたら
申し訳ない気がするし、一緒に歩いていて変だろう。

スタイルを強調した方が喜ぶ女か、或いは着崩した隙を見せた方が落ちてくる女か。
大体の目的と狙いは外したことがなかったのに、今回はまるで定まらない。
そもそも室井にどう見られたいのかという根本原理を問われてくる。
しかも相手は男だ。自分よりも年上の。

「ああ、もう、何にすりゃいいんだよ・・・」

何着かハンガ―ごと取り出し、青島は鏡の前で合わせてみる。
それがまるで初デートに浮かれる少女と同じであることに、真剣な青島は気付いてもいない。

「派手すぎるのもな・・・」

わざわざ休日を指定して来たのは室井だ。
壮年期の男とはいえ、休日というからには仕事とは完全にケジメを付けるだろう。

スーツで肩凝ることをしないか。
いや待て、室井にしてみれば恋する相手と初デートだ。見合いもしてきたと聞く。そっち方面で気合いを入れてくる可能性はある。

「仕方ない、そこそこカッチリ系で行くか・・・」

軽く頷き、青島の中で大凡のプランが計算されていく。
次に考えるのは当日の内容に合わせたチョイスだ。

室井は日付と時間を指定しただけで、デートプランも明示してこなかった。
だか室井が遊園地などではしゃぐというのはそれこそ有り得ないし、アウトドアに出ることも想像し難い。
むしろ高級レストランなどに予約を入れてくるような男だ。

ジーパンを仕舞い、Pコートを取り出してみる。

「・・・うん。よし、これでいこう。となると中には・・・」

だけど男同士の初デートで、いきなり本格デートプランは恥ずかしくてしてこないと思う。
だったら、どっちにでも取れるように、小物で差を付けて・・。

「帽子とか、どうだろ」

室井に見合いたいと思っている気持ちに嘘偽りはない。
告白されても、そこは青島の中で変わってはいなかった。
室井に釣り合う男になりたかった。
いつか、室井の横に堂々と立って向き合える男になって――

少し大人っぽい組み合わせを意識する。

「モノトーン+キャメルでいくか。・・・・いや待て、あのひとこそモノトーンコーデだろうな。だったらこっちは暗くなりすぎないように・・・」

デートとは相手に何を期待させているか。相手にどう思われたいかがベースである。
そこの土台が曖昧なまま先に進んでいくから迷走する。
まさかこの年になって男と出歩くのに服装を気にするはめになるとは思わなかった。
室井が連れ歩いて、恥ずかしくない程度のクオリティか。

「んん~、ったく、何で俺がこんなことで悩まなきゃならないんだか」

ごそごそとシャツを何枚か出して鏡の前でボトムと組み合わせを試してみる。
赤の大型チェックとチノパン。・・・少し子供っぽい。
オフタートルでテラコッタのパンツ。・・・なんか違う。

「あぁぁもぉぉ、どうすりゃいいんだよぉ~・・・・」

何で俺なんかを好きなんて言うんだろう。
あの男には明確な未来が用意され、気高いレールが待っている。
その扉を開ける前の一遊びってことなんだろうか。

だけど室井の目に邪悪なものは浮かんでいなかった。
室井の目は、青島だけを見つめていた。
好きか嫌いかと問われれば、勿論青島だって室井が好きだった。大好きだった。
こんなところでこんな形で手を放したくはなかった。

「ばっかだよなぁ・・・。ああぁあもう!・・わっかんねぇなぁ・・・」

クローゼットに顔を突っ込み、辺りは服が散乱し、それでも必死に当日を夢想する。

「これなんかどうだろう。・・・ん、いいかも」

ぽいっとまた一つ服を放り出して。

「ああぁ、もういいや、こんなあたりで。じゃぁ~・・・うっし!これ!決めたっ」

出来ればこの先もずっと一緒に――それは、青島を好きだという室井には苛酷な要求になるんだろう。

濃い目のブルーでストライプシャツ、Vネックのリブニット。これならある程度オフィスカジュアルかもしれない。
少しオーバーサイズな着こなしになるように買った黒のPコート。
合わせるパンツは細身にしてレザーブーツ。軍服起源であるPコートと相性が良い。
ボトムにスキニーパンツでベージュをチョイス。
そこにニット帽被っちゃえ。


何かを変えるにはいつだって一石投じる勇気が起爆剤となる。
告白で失ったもの。変わる二人に与えられるもの。

気合い入っていると思われるのは癪だが、折角の室井のお誘いに、少しは感謝の意志を示したい。
きっとどう転ぶにしろこれが最初で最後の一日になる。
普段はあまり付けないシルバーのアクセサリーをじゃらじゃら並べてみた。

ネックレス、バングル。腕時計は一番気に入っているモデル。


青島の夜は更けていく。
同じ頃、都心ガイドブックとネットを室井が睨みつけていたことは、知る由もない。









6.
有楽町・大時計下に十時。

本日は晴天だ。
予定時刻よりも二十分ほど前に現着した青島は、少し離れた所から辺りを見回した。
相手を待たせない。青島のデート・ポリシーであったが今日は別の目的もある。

有楽町の大時計は待ち合わせの定番スポットである。
昭和の頃はここが憧れデートコースのスタート地点だった。世代のチョイスにほくそ笑む。
平日であっても多くの人間が時間を持て余しているかのようにごった返しているが比較的見通しが利くので対象者を探し易い。
どんな顔で室井が待ち合わせにやってくるのか先に来て眺めてやりたかったのに
それは向こうも同じだったらしい。
それとも几帳面な性格ゆえか。

既に室井が来ていた。
出足を挫かれ青島はポケットに両手を突っ込んで苦笑いした。


人混みの奥でひっそりと立つ男は、派手な目鼻立ちをしている訳ではないのに青島には凛々しく精悍に見える。
本庁内でなくたって、スーツではなくたって、室井には潜在する威厳があった。
背筋をピンと伸ばし、凛とした冷たく落ち付いた黒い瞳で、表通りを見つめている。
ネクタイは締めず、襟元を崩し、仄かに光沢感を放つシャツ、少し飾りの付いたワイルドなコートを羽織りつつ、ラフに落とさないカッチリとした着こなし。
周囲の浮かれた人混みとは一味違い、眉間を深める顔や屈強な肉体に熟した男の色気が宿っていた。
青島とは、ルックスも得意市場も違うタイプの男だ。

清潔で高潔な感じは勿論、モノトーンコーデ。
ほぼ青島の想定通りだ。
これなら隣に歩いても然程違和感はないだろう。


可笑しくなって青島の苦笑いが更に大きくなる。
笑いを堪えるために視線をズラしたら、ふと、室井を注視する妙な男が目に映った。
左と右。・・・二人いる。
何だろう。

室井の視線が青島を捕えた。
あまりに立ち尽くしていたので気付かれてしまったみたいだ。
その場から外れ、青島の方に歩み寄ってくる。

「・・・来ていたんなら声をかけろ」
「おはようございます」
「おはよう。・・・来てくれてありがとう」
「いぃえ~?」

ポケットに手を入れたまま、ぴょこんと跳ねて、室井の前に着地した。

「結構強引なんですね」

青島を映す室井の瞳が眩しそうに眇められた。
その顔に何だかどうでも良くなって青島も口端を軽く持ち上げる。
あの屋上での弁舌もそうだったが、連絡方法も一方的なメールのみだった。
室井は青島に断る隙を与えない。

「待ち合わせ場所もベタだし。女なら呆れられますよ」
「会えればいい」
「有楽町なんて・・・バブル時代の人間かっての」
「ブーメランだぞ、それ」

待ち合わせの場所と店のセレクトで相手の要領と情熱が推し量れる。
あとは誘ってきた男のエスコートや流れに身を任せてみようと考えていた。

「今日は一日開けてくれているんだな?」
「ハイ、署から呼び出しがなければ」

室井が軽く頷いた。
自分で口にした言葉で、青島はさっきの男たちを連想する。
親指を曲げて指を指した。

「ね、あれ。何すか?」
「――ああ、私の見張りだ。気にするな」
「見張り!?キャリアって見張られてんの!?」
「心配しなくてもそのうち消えるから放っておけ」
「あーびっくりした。まさかいちんち着けられながらデートすんのかと思っちゃった」
「見られて困るようなことをしたいのか?」

切り返され、青島がぐっと詰まる。

「どんな放置プレイさせられるのかと思ったんですよ」
「・・・君の中のキャリア像はどうなっているんだ・・・」

少し緊張の取れた顔をする室井を青島はくりくりっとした色素の薄い瞳で覗き込む。

室井の世界は青島にとって異次元だ。
親しげに見せる無防備な隙は、委ねながらも互いの息遣いが暴かれてしまうまでの距離は入り込まない。
狡猾な男の計算された品行に、距離ほど近くない自分たちの関係を思い知る。

こんな男が今日一日どんなことしてくれるのか俄然興味が湧いた。

「んで?どこ連れてってくれるんですか?」
「希望があるなら優先してもいい――折角ここで待ち合わせたんだ、まず映画でもどうだ?」
「またベタなとこを突きましたね。俺とあんたで趣味合うと思ってんの」
「苦情は後で承る」
「へえ」
「十二時にこの近くでランチを予約してある。だから昼飯は私に任せてくれ。代わりに夕食は君の希望を聞こう」
「了解でっす」
「何が良いか考えておけ」
「ん~、美味いものが食べたい」

初デートの鉄則は、幾らこちらが手慣れていても仕切ってはいけない。
だから青島は曖昧な雰囲気だけをリクエストする。
男に勝負させる隙を残し、甘えた言い方をする青島に室井が少しだけ顔を綻ばせた。

大胆に開かれた青島の胸元のシルバーネックレスが太陽に光る。
一瞬だけ目をやった室井はエスコートするように身を開いた。

「じゃあ行くぞ。今日は奢らせてくれ」
「ポップコーンは当然オプションだよね?」
「昼飯前に入れるのか?」
「二人でひとつ」

室井が吐息だけで笑みを表わす。
その微笑を見て青島が空を仰いだ。
白い毛糸の帽子が太陽の光に透けるように映える。

「一つだけお願いがあります」
「言ってみろ」
「今日一日堅苦しい一人称を使う男に付き合うのはちょっと。俺は上司と映画を観る倒錯趣味はないです」

室井が軽く驚きを見せた後、戸惑いを乗せた視線を向こう側に反らしてしまった。
なんなんだ、このこちょばゆい空気は。








7.
映画の後は予約していた店に向かう。

初デートで〝どこ行きましょうか〟なんて一見融通の効く振りを取る男は計画性がないのと同義である。
ホスピタリティと意欲のなさを示すだけだ。
その辺のリードは確実に弁えている男に、女慣れはしていなくても、女性を扱うことには慣れているんだなと青島に直に感じさせた。
室井にとってこれはやはりデートでありエスコートを看破する官僚なのだ。

少し俯き加減で歩く室井の横で青島がひょこひょこ弾むような足取りで付いていく。

「あれがスクリーンで観られるとは思わなかった!感激でしたっ」
「そこまで喜んでくれたなら本望だ」
「よくここでやってるって知ってましたねぇ」
「白黒だが時代を感じさせなかったな」

しみじみと言う口ぶりから、室井も楽しめた様子が伺える。
映画は封切りになったばかりの流行のものではなく、路地を入った奥手の古色蒼然とした映画館でやっていたリバイバル上映を観た。
古い映画はどこかノスタルジックだ。

「あの雨とか!すっごいリアル感あるのが衝撃で。好きでした」
「蒸し蒸しするような画だ」
「そう!ああゆう情感に訴える撮り方をする監督って少なくて!」
「換気扇とか窓の挿入が効いているんだろう」
「うんうん、こっちの感性が引き摺られるんですよね」
「ただ全体的には少し尺に間を持たせすぎじゃないか?主張が散漫になっていく嫌いがある」
「行間を読めってことでしょ」
「役者の表情がいいんだから問題ない。貴族の道楽に思える」
「室井さんって実は結構せっかち・・・?」

意外なリアクションに感心していると、室井を車道際を歩かせていたことに気付く。
気付かれない何気なさで、庇うように左右を入れ替えようと青島が身体を一歩ずらした。途端、室井が青島の腕を瞬時に堰き止める。
手首を掴まれ、びっくりしていると、渋い顔を向けてくる。

「いいんだ」
「――でも」
「今日くらいは目を瞑ってくれ」
「女扱いされるのは嫌ですよ」
「仕事でいる訳じゃない」
「・・・ずっるいなぁ・・・」

目線で礼を言い引き下がる。
そう言われてしまえば大人しく男に花を持たせるのがマナーだろう。
でもやはり、室井も気付いていたのか。
エリートキャリアにエスコートさせる俺って何様なのか。何だか良く分からなくなってくる。

「これで花束でも出てきたら俺マジで叫びますよ」
「心配するな。そこまで用意していない。刑事は外では両手を開けておくのが基本だ」

外デートじゃなかったら持ってきてたのかよ。

「えーっと!思いっきり楽しんだら腹減っちゃった。何喰わしてくれるんですか?」
「フレンチだ」
「またあんた、ベタなとこを・・・」
「腐るな。安価でびっくりするくらい美味い。驚かせてやる」
「ハードル上げましたよ今。こういう街で食べる雰囲気に酔ってんじゃない?」
「行けば分かる」

***

「う・・・っまぁぁぁい・・・ッッ!」

ナイフとフォークを握り締めたまま、青島は無心に唸った。

「これ・・っ、このスープが!激うまッッ」
「だろう?」

大した驚きもない顔で室井が同意する横で、ウェイターが残ったスープに自家製のフランスパンを浸して食べるといいと薦めてくる。
焼き立ての香ばしい香りを放つパンを千切り、スープを付けて頂く。
オードブルで出てきた温野菜サラダに既に舌鼓が止まらない。まだメインが出ていないのにこのクオリティだ。

「これ、すみれさんが知ったら飛んできそう」
「・・・二人で来たらいい。時間があるなら」
「・・・へえ、いいの?」
「気に入ったのなら」

大通りから外れた住宅街らしき小道に入ってすぐの隠れ家風のレストランだった。
ランチタイムに突入していたため行列が出来ていて、だから予約してあったのかと納得する。

「そこは二人の秘密にしようくらい言えよ」
「君は本当に口の達つ・・・」

客層は若い女性から年配者まで幅広く、定年後らしき老夫婦などもいて、和やかに賑わっていた。
白と黒を基調とした静かで品の良さを保つ店内で、青島は感動に咽ぶ声を押さえて味を噛み締める。
男二人であることはほとんど気にならなかった。
同性愛者の生活など身近にないマイノリティさは、もっと肩身の狭い羞恥や恥晒しの視線を浴びるのかと思っていた。
勿論社会にそういう偏見も確かにあるのだろう。
食事を楽しむ場所で、他の客層など、刑事でなければ気にも留めないのが現実だ。

まさかそんなハードルを下げるために室井が青島をわざわざ外へ連れ出したとまでは思いたくないが
素直に楽しめている自分がいる。
料理も旨いし、なんか懐柔されている気がする。

「この店良く来んの?」
「何度か」
「ふーん・・・こういうとこ知っていることもだけど、こういう場所に来られる時間あんのかよ?ってとこも意外」

誰と来たんだろうとか、そんなこと以前に、室井にプライベートの時間があるということの方が青島には意外に思えた。
閑職に回されたと本人がぼやいても、エリートキャリアに時間外は早々与えられるものではない。
室井にはこんな風に、努力は惜しまない男のくせに、頑張っている自分に手一杯にならない余裕がある。
仕事に追われて私生活もガサツに成りがちな自分の部屋の有り様を振り返って、青島は強い力の差を感じた。

「場所なんか付添してれば嫌でもカウントされていく」
「官官接待?」

室井にはどうやったって届かない。
なのに、恐らく今それをリアルに感じているのは室井の方なのだろう。

「プライベートで利用するのはみんな悪友たちだ」
「あんたトモダチいたんだ」

メインは選べて、仔牛フィレ肉のポワレかキンメ鯛のソテーだ。

「そういや刑事になってから外食と言ったら達磨だよ・・・」
「所轄は時間が取り辛いから足が遠のくんだろう。だが一流の空気は肌で知っておけ。捜査の時に役に立つ」
「ふーん、ナルホド」
「・・と、少し説教臭かったな、気にしないでくれ」
「室井さんは?」
「え?」
「一流を拝みに誰とくんの?」
「接待・会議・研修・付き合い」
「うへぇ・・・」

悔し紛れにちぇ~っと負け惜しみに近い視線を向けると、室井も青島を見ていた。
射抜くような視線ではないが、その視線に今は別の意味が付くことに思い至り、少しだけ青島の視線が潤んだように光る。
誤魔化すように、何?と首を傾げることで疑問を乗せた。

「君は・・・いつも少しデザイン性の高い時計をしているんだな」
「お?流石室井さん、見る目ありますね?」

青島が自慢げに腕を手前に掲げて見せる。

「これ。俺の一番のお気に入り」
「そうなのか」
「同じモデルは幾つか出ているけど、ここ!・・・この文字盤のカットが違うんですよ」
「好きなんだな。知らなかった」
「俺にミリタリーと時計語らせたら止まりませんよ。あとモデルガン」
「それ大丈夫なのか」
「やだなぁ、和久さんと同じようなこと言わないでくださいよ」
「だからいつもあのコートなのか」
「ええ、あれはオジサンが特別安くしてくれて――」

懐かしい顔をして嬉々と回想録を綴る青島を室井が穏やかに聞き役に回る。

同性愛に限らず不倫や略奪など、障害アリ欠損アリの恋愛に於いて勝ち残ってきた共通項は堂々としていることである。
それは逆に言うと、恥じていない情と、今を楽しむ損得勘定だ。
ここにきて、青島は今日という日を素直に楽しむことに決めた。

――せっかくの室井さんがくれた休暇だ。たまにはのんびり楽しもう

「Pコートも確か軍発祥だろう」
「そう!ダブルで襟立てて着るタイプのとか!かーっこいいよなぁ・・・!」
「似合いそうだな君に」
「そう思う!?」

全面ガラス張りの店内は天井も高く、キラキラした陽射しが爽やかに空気を照らす。

「君は派手な色合いも似合いそうだから冒険できそうだ」
「スーツに大金掛けている人に言われたくないですね」
「官僚は公人として人に見られる職業だから仕方ない」
「値踏みすんの」
「言葉以外のある程度の威嚇が必要ってことだ。被害者・加害者に対しても一定の圧力は求められる」
「まあ、俺も営業やってた時ある程度羽振り良いとこ見せなきゃならなかったから分からなくもないですけど」
「今日の格好も似合ってる」
「・・・っ、と、突然さらっと何言うの」

真っ向から室井に褒められ、青島の目が戸惑いを乗せて睨んだ。
不意打ちだ。
そんな台詞は言われ慣れていた筈なのに何故か頬が熱い。

「意外だな。君でもそんな顔をするのか」

室井が瞼を伏せ品の良い笑みを悠然と滲ませる。

性的魅力や期待感を相手に持たせるのは、デートマナーだ。
ベッドマナーではそれがもう少し露骨になる。
青島だって華と色気を意識してなかったと言ったら嘘になる。
でも室井に直にそう見られていると思うと、なんだか細胞が沸騰するようだった。

少し目線を落としたことで、室井のいつもはしっかりと閉じられた襟元がボタン一個、開けられていることに気付く。
見られることには慣れていた青島も、室井の黒曜石に映ると途端、座りが悪くなった。

室井の目だけではない。
元々スタイルが良い上に顔立ちが整っているから、この店に入った時から青島は目立っている。
胸元を外したシャツの隙間からのぞくシルバーのアクセサリーが光を吸い、青島の小麦色の艶肌を熟れた果実のように薫らせ
惜しみなく細長い手足を強調した青島の姿は店内でも視線を集め、それは気分の良いものだった。
だが今、それは同時に室井の目も楽しませている。

「そういうこと言っちゃうんだもん・・・」
「本当のことを言っただけだ」

誘ってきたのは室井の方なのに、すごく落ち付いて見えて、どぎまぎしている自分の方が意識させられ術中に踊らされている気がしてくる。
相手の身形や宝石を褒めるのもまた、社交術やマナーの一環だろうと察しは付くものの
あまりに平然と口にする男に、その瞬間だけ艶めいた顔は無意識に色気を発し、だが次の瞬間には何度か開きかけた口を閉ざして
結局青島はゆっくりと視線を窓の外へ流した。

「なんか・・・余裕ですよね室井さんって」
「余裕なんてあるか」
「ほんとにぃ?」

窓の外の銀座の街は長閑な陽だまりで、普段の騒がしいギスギスとした日常とはあまりに違った。
今日が都合の良い夢だったとして、それはどちらにとっての夢なのだろう。

明後日の方角に投げていた視線を戻し、白いクロスが掛けられているテーブルに青島は両肘を付く。

「ふうん、で、俺のどこがいいの?」

コテンと首を傾げて真っ直ぐに見つめる。
日頃冷然とした堅い印象を決して崩さない室井の賢明な表情が、うろたえたように、ここにきて初めて蹌踉めいた。

「今聞くかそれを・・・」
「だってなんかすっごい強引だったし。そのくせ、ぶちかますその余裕。あの室井さんが俺の前にいるってだけですんげぇ不思議なんですよ」
「・・・・」
「いつからだったのかなとか。ほ、本気・・・なのかなとか。動揺してんの俺だけ?」
「こっちだって動揺している」
「本気?」
「本気じゃなきゃ誘わない」
「そうかな?」
「・・・俄かには信じては貰えないか」

室井が酷く老成したような笑みを乗せる。

「そういう顔は狡いですよ」

まるで幾つもの寄せては返す波を越えてきた深さと時を刻んだ顔だった。
経験は青島の方が多いだろうが、恐らく青島への情愛は、常軌や常識上の問題から、幾度も堕ちては染まってきたのだろう。
覚悟と決意を持った秀麗さに今更動揺などないことが伺える。

陽の光の元で見る室井は、私服のせいもあって、少し別人に見えた。
前髪も撫でつけていない小ざっぱりとした粋な雰囲気で、いつもの畏まった堅苦しさからは遠く、近付けそうで近付けない隙に男臭さを充填する。

フロマージュやデセールはなく、テーブルはラストのカフェに入っていた。
湯気の立つ珈琲を音もなく啜り、室井が瞼を落とす。
黙って沈黙を享受する。

「言ってしまったからには引き返せないだろう」
「引き返せないからケジメ付けに来た?」

じぃっと凝視したまま、一欠片の隙も見逃さない視線で青島は室井を見る。
愛など語りそうもない薄い口唇も、カップを持つ清潔そうな長い指先も、エリートの世界で生きていく高尚な男の世界のものだ。
いつもの室井と同一人物とは思えない艶美な男の品格に、青島は初めて室井の雄の部分を意識する。
官僚ならではの隙のなさで、きっと的確に意中の相手を奪う雄の性がそこにある。

――どうして、こんな人が俺を好きなんて言うんだ

「・・・、いや。どこかで絆されてくれないかなとは思っている」

厳かにゆっくりと語られた言葉はしっとりと青島に浸みこんだ。
室井が少しだけ目線を上げる。

「なんて顔してるんだ」
「・・ハニートラップに引っ掛かった気分なんですよ」
「ハニートラップ?」

黒い瞳が不思議そうに青島を見ている。

昔の恋や群がる女と比べるつもりはないが、シンプルで無骨な室井の愛情は純粋に見えた。
良識とインテリジェンスに完成された思考は、この恋に命掛けていると思わせるだけの誠意がある。
初デートで心理的に相手を追い詰めちゃダメなのに、その辺の加減も分からない室井に
不器用な愛と、どこか二人の間にこれまであった距離感と、同じ匂いを青島に感じさせた。

恨めし気な青島の視線を急かしているように感じ取ったのか、降参だとでも言うように室井が軽く両手を上げ、眉間を深める。

「あとでだ。後で全部告げてやる。昼間からそんなことを聞くな。こんな店内で何をおッぴろげるつもりだ」
「そっちこそ後で何するつもりだよ」

コケティッシュな子猫の様な青島の動きに合わせ、少し癖のついた柔らかい髪が額に流れる。
二人して混じり合わせた視線を綻ばせる。

「で?今日はこの後何処へ連れてって貰えるんですか?」
「腹ごなしに少しぶらつくか?一応街は出る予定だが時間はある。希望は聞くって言ったろ」
「例えばゲーセンではしゃぎたいとか、カラオケでデュエットとか言ったら叶えてくれんの」
「・・・・・・・・・・・善処する」

ポップコーンが弾けるように青島が笑った。

***

昼下がり。広尾の喫茶店でお茶をする。
室井が席を外している間に、青島は先にテラスの方に席を取った。
外にしたのは天気がいいからではなくて、そろそろ煙草が吸いたかったからだ。

煙たそうに目を細めジッポで火を点ける頬を冬の風が撫ぜていく。
ぽっかりと浮かぶ雲を眺めながら紫煙をまあるく吐き出した。

映画の解釈の違いについての議論は思いのほか白熱して、そんなことを大真面目に語れる相手など初めてだった。
逢えば融合する。
分かっていた筈だった。
室井とは不思議な感覚があって、強く見据えていれば共鳴していく何かがある。

「だから恐いのに」

そんな基本的なことを今更拒む青島に、室井は言葉ではなく見せ付けてきたように思う。
現実の本当の苛酷さを。
どうせ逃れられやしない宿命を。

本質を探しだそうと警察中枢に切り込む対価は、残酷な祈りを孕んだ存在理由だ。
茹だった情熱に凌駕されても、結局のところ怯え狼狽し抵抗する無益さも、結局のところ二人だけの言い訳にしかならない短絡さを秘めている。
ふと泣き出したい衝動に駆られた身の裡が、青島の指先を冬風に凍えさせた。



「あのぅ、すいませぇ~ん」

甘ったるく高い声が頭上から落とされ青島は沈みこんでいた自分の思惟から浮上した。
顔を上げれば二人組の女性が立っていて笑みを零している。
しまった、気配にも気付かなかった。

「お一人ですかぁ?」
「・・ん~、いや・・・」
「良かったら私達とご一緒しませんかぁ・・?」

ナンパだと直ぐにピンと来た。
普段だったらお茶くらいは許せるガードの低さだが、今日は流石に不味い。
逡巡でリアクションが遅れ口籠る青島の怯みに、女性たちが畳みかけるように媚を売る。

「あのぅ、お幾つなんですかぁ?」
「っと・・・」
「隣、座ったら駄目なのぉ?」
「ぁ、んと、連れがいるから・・・」

「お仕事ってぇ、何されているんですかぁ?」
「えと・・・、タイホしちゃうやつ?」
「やだぁもぉ!おもしろーい」

「ね、ね、カノジョとかいます?」
「ぇ・・?ゃ、いない、けど・・・でも」
「今度どっかに遊びに行きましょうよ。ねぇ?」

女の子二人のパワーって凄い。
迫力に呑み込まれ、断るタイミングを完全に失っていると、ますますヒートアップした女性たちはのめり込む様にはしゃぎ出し、ボディタッチをしてくる。
フローラルの香水の匂いが鼻を吐いた。
歳は青島より若く見えたが、そこそこのOLさんという感じだ。今日は平日だし、この近辺で働いている人かもしれない。

困ったなと思って両手を手前に出し、困惑を乗せるが、女性たちは気付いてくれない。
狙いを定め一向に引く気配はない様子に、たじろいだまま勢いに押された青島の背中が後ろに反っていく。
断るのは簡単なのだが、なんだこのマシンガントークは。
さて、どうするか。

元来フェミニストで女の子は嫌いじゃないから、あしらいに困る。
青島が参ったように苦笑し相槌を返していると、その女性の肩越しにトレイを持って立ち尽くしている室井のしかめっ面が見えた。
思わず破顔する。

「・・ごめんね。今日はちょっと時間ないんだ」
「えぇぇ?そうなんですかぁ?」

明らかに不満そうな顔をする彼女たちの向こうの室井に軽く合図をする。
室井が黙したままトレイを置いて席に着いた。
憮然とした無表情な室井に女性たちは仕事か何かと勘違いしてくれたようだ。
すいませんとお辞儀をし辺りが急に静かになる。

綺麗な顔で凄む室井には確かに他者を圧倒し威圧するオーラがある。
だからこそ無口でも不器用でもエリートキャリアという座に付いていられるのだ。

ごめんねと青島が特上スマイルを振り撒けば、彼女たちも笑みを戻して、また今度と去って行った。

「・・・助かりました。ナイスタイミング」
「・・・いい」

片肘を付いてウインクして見せるが、室井の表情は硬い。
トレイの上には注文したカプチーノとエスプレッソ、他にプレートも乗っていた。パンケーキだ。
甘いものなんて女の子じゃないのに。
因習的な配慮とはいえ、室井が青島を想って用意してくれたものだ。青島の目が柔らかく細められる。

「妬いた?」
「!」

はっきりと指摘したら室井の眉間が深まった。
逆に青島の顔がはっきりとした笑みに変わる。
好きな相手に対してジェラシーや独占欲が止まらなくなることは青島にだって経験がある。
嫉妬は恋の劇薬だ。

スチームミルクがたっぷりと乗っかっている方のカップを取った。青島が注文したカプチーノだ。
青島の長い手首に巻き付いたバングルがソーサーに当たり、小さくしゃらんと音を上げる。
口元に運び、軽く掲げて見せる。

「ありがとうございます」
「ここのケーキは事務員が贈答品に買ってくる御用達だから、・・・美味しいと思う」
「それもまた、ありがとうございます」

上目遣いで覗き込んでみれば、室井がふいと視線を逸らした。
一瞬目を丸くし、それからけらけらと笑いだす青島に、室井の顔が更に複雑になる。
やがて肩で大きく息を吐いて何かしらの体裁を整えたらしい男は、黙ってエスプレッソに手を伸ばした。

「あ~うまーい・・・豆が違う・・」
「ああいうこと、よくあるんだろうな」
「ナンパ?」
「・・・、」
「あるけど三回に一回は失敗します」
「なんだそれは」
「今日は室井さんがいるんだから行く訳ないでしょ」

頬づえを付いてふふんと笑ってみせれば、室井がしょうもないという顔をした。
なんだこのこちょばゆい空気。

プレートには一口大にカットされたパンケーキが中央に盛られ粉砂糖が降りかかり、周りにバニラアイスやティラミスが添えられていた。
トップを飾るミントのグリーンが彩りもお洒落に映えている。
青島がフォークを取り、パンケーキを大胆に突き刺す。
ざくり。がぶり。
大口を開けてクリームに塗れて咀嚼すれば、品の良いラズベリーシロップが口に広がった。

「んまぁーい。レインボー最中とはわけが違うよ・・・」

もう一度青島がぼやくように感想を漏らせば、室井が少し気配を和らげた。

「妬いた、と言ったら?」

まさか口にするとは思っていなかった台詞を耳にし青島はフォークを口に指したまま固まる。
室井が色濃い独占欲を湛え伺う瞳で静かにジィっと凝視していた。
一瞬だけ閃いた艶治さは、だが伏せられることで消滅する。

外の風は午後に入って少し冷えてきた。
青島のニット帽が白く青空に溶け、陽だまりが仄かな温もりを残す。

「一人占めしたくなる心境なんて、君には分からないんだろうな」
「んなこと・・・・ないよ」

室井が自分を欲しがる熱を孕んだ情動が、しっとりとした熱と色を帯びて確かにそこにあることが、すとんと青島の中に落ちてきた気がした。
一人で決めて、一人で抱え込む男の恋情は、青島を見ない。
でも確かに室井は青島に恋をしているのだ。

――どうしてそんな風に青島を恋するのだろう。

吐く息に合わせて溜息を落とせば、青島の胸元の銀色のネックレスが合わせて小さくしゃらんと鳴いた。
狂気染みた夏の昂揚がない静寂の季節は、それだけで足りない何かを告げてくる。

風がかさかさと木立をそよがせていた。
冷たい冬風が頬だけを凍えさせるのが心地良かった。

「えー・・っと。いい天気ですねぇ」

舐めるようにティラミスを舌で掬い取る。
室井の意識と視界に自分が囚われていることはもう承知の上だ。

「CrackingCandyって・・・昔あったの覚えているか?」
「・・・くら・・・?」
「小さな粒の飴で、口に入れると弾けるんだ」
「ああ!パチパチと!」

それが?という目線を送ると、室井の瞼が伏せられエスプレッソを啜る。

「まるで君みたいだ。小さくて、凡庸で。大したことないと油断していると、痛めに合う」
「刺激的。いいじゃない」

ぶはっと笑ってそう言えば、室井も満更じゃない顔をした。

涼しい顔をして恋を謳う男の顔は、いつもと変わらない気がするのに、もう何かが決定的に違ってしまっていることを青島に悟らせた。
戻れやしないのだ。人の気持ちなんていうものは。
吐息を染めながら考える。
違ってしまっても、それでも変わらない心の内を考える。
それは焦燥を持ち、この場から逃げ出したい気持ちに良く似ていた。

「君といると気が楽になるな」
「そ?」
「凝り固まって足が竦んで。いつ行き先を見失うか石橋を叩いて確かめていた自分が馬鹿みたいに思える」
「室井さんは考えすぎなんですよ~」
「・・・、でもその分、誰が君を救うんだろうな」

室井はそれだけを呟いてエスプレッソを口に運んだ。
ティラミスのココアパウダーを紅い舌をチラリとのぞかせ親指で舐め取りながら、青島も黙ってそれを聞く。

何だか胸が痛かった。

奥手のテーブルでは若いカップルが額を寄せ合い、食べさせ合いっこをしていた。
それを何となく目に映した。
ひそひそとはしゃぐ声が微笑ましい。

堕ちた人間こそ、一番高貴なのかもしれない。
室井が見せてくれた休日はなだらかで長閑な一方、青島には無いしぶとさと男気があって
官僚主義的と言ってしまえばそれまでだが、男と交際する腰構えを圧していた。

限界を知って、だからこそ食いしばる室井の未来はいつしか青島のものとなっていて、それを見てみたかった。
出来ればずっと見ていたかった。堂々と。腐れ縁ですなんて隣ではにかみながら。
あんな風に睦み合うことは一生ない。
室井を決断させてしまう鍵を作動させるだけの勇気は、青島にない。

室井は現実を見ているつもりなのかもしれないけど、青島の目には限界だけがふるい分けられる。
室井の目もまたそのカップルを映していた。

「何、ああいうのやりたいんですか?」
「んなわけあるか」
「やったことは?」
「公衆の面前で求められる節度というものがある」
「ふーん。・・・・ほら。あーん」

面白半分、やけくそ半分。
青島はプレートに残ったティラミスを掬いスプーンを差し出した。
呆然と目を見開く室井の顔が崩れ絶句している。

「ほら早く」
「――、それで本当に俺がしたらどうするんだ?」
「・・・、デートっぽい?」

青島がコテンと首を傾げて無垢に見上げる。
その無邪気な悪戯は艶治さを持ち得ながらも愛らしさを湛え、小悪魔の様な性質の悪さがあった。
色濃い深みを湛え、本心を読み取らせない甘い瞳で傾げる様は、ダイレクトに男の性感を刺激する。
男の心を掻き乱すのに長けた魔性という言葉がぴったりな男に、室井は全てを平伏したくなる。

室井の眉間が深い皺を刻んで硬直した。
奥歯を縛り力む男に、青島は陶然な笑みを湛えて待つ。

が。時間は動き出す。
アイスが溶けてスプーンから零れそうになり、青島は諦めて自分の口元に運んだ。
舌を出して舐め取り、そのまま目線を下げた。

「気にしてます?さっきの。・・・ナンパ」
「改めて良くモテるんだろうなと思っただけだ」
「意地っ張り」

青島が空を仰ぐ。
真似して、室井もちらっと一度だけ空に視線を向けた。
ぽっかりと白い雲が浮かんでいて、ゆっくりと流れていた。

「・・・君はカノジョがいるのか?」
「なんで?」
「知らなかったままに誘ったから聞いた」
「ご想像におまかせしま~す」
「意地っ張りはどっちだ」

少し室井らしくない砕けた物言いに思わず視線を戻す。
室井が両肘を付いた額に両手を翳した状態で、その隙間から黒目がちな瞳で青島を射抜いていた。
悪戯気な虹彩が瞬いて。
どこか男の色気というものを熱らせ、相手を絡め取る引力に満ちている。
口角を上げ、楽しそうな、何かを見透かしたような目に今度は青島がうっと金縛りに合った。
狡い。なんでそんな顔。

今の言葉遊びが反撃だったことに気付く頃には、慈しむその視線に、二人は見つめ合う。
鼓動が逸り青島の頬が少し赤色ばんでいた。

「ケータイの番号、聞いてもいいか」
「聞いてどうすんの」
「・・・」
「嘘。いいですよ。適当に連絡してください、仕事でも愚痴でも・・・無駄話でも」

ポケットからケータイを取り出し、プライベート用の番号とアドレスを交換した。
青島はすぐにポケットに仕舞ったが、室井はケータイ画面を撫でるように指先を滑らせ、静かに目を落としていた。
喜びを噛み締めていることが感じ取れ、青島は横を向いて小さく舌打ちをした。

やっぱり何だか胸が痛かった。

「ありがとう」
「いぃえ~?」

言葉を探しあぐね、だが何も持たない自分に溜息を付き、行き場を失った瞼を伏せる。
やっぱり、なんか懐柔されている気がする。

「親切と下心は確かに紙一重だ」

***

夕食は〝小皿で色々頼める場所〟という青島のリクエストでダイニングバーに入った。
店内は顔も見えないほど照明が落とされ、テーブルごとにライトが灯される。
向かい合いの座席ではなく、半円の斜めに寄り添う席に並んで座った。

「一日お疲れさまでしたっ」
「結構歩かせてしまったな」
「刑事に何言ってんの」
「楽しんでくれただろうか」
「室井さんは?楽しかった?」
「一度くらい職業とまるで関係ない普通の関係でいたかった」
「だからこんなベッタベタなプランだったの」

取り皿に分けることもなく、直接突きながら酒を飲む。

「どうすれば君を喜ばせられるのか。俺はあまり気の効く人間じゃないから」
「室井さんが俺といて楽しかったんならそれで正解」
「君を楽しませたかったんだ」
「大人のデートだといってホテル連れ込まれない分、充分紳士的で」
「・・・」
「今日誘われたら俺、脱げるのかなとか考えちゃった」
「どうして君はそう・・・」

酒は日本酒。宛ては摘まみ。小皿が色とりどりに目を愉しませる。

「趣味なんかも聞いたことなかったな・・・長い付き合いなのに」
「あんたは?」
「時間がないで済ませてしまっているな。でも昔は本をよく読んでいた」
「読書。まさかの地味ネタ。ファンタジーとか読んじゃうの」
「挑戦するのはやぶさかではない」
「うっそ」

頬づえを付いて青島が横目で笑う。それに室井がまっすぐな視線を返す。

「食わず嫌いかと思っていたよ」
「そうかもしれない」

世知辛い現実社会で恋の相手との会話くらい甘くて浮世を忘れるものの方がいいんだろう。
もうすぐ今日が終わる。

「もっと室井さんの話をしてくださいよ。デートの基本でしょ」
「俺の話は何も面白くはないだろう・・・」
「俺、室井さんのこと、なまはげの里から出てきたきりたんぽ好きってことしか知りませんよ」
「・・・・」

あんまりな青島の言い分にも室井は目尻に柔らかい笑みを湛え
小さなカットグラスを傾けながら、言い難そうに口を無闇に動かしては困ったような顔をする。

「中・高・大学。全部東北にいた」
「生い立ちからかよ」
「東京に出てきたのは卒業してからだ」
「秋田ってどんなところ?」
「雪ばかりで、深い山が続く。この季節はどこもかしこも音さえ聞こえなくなるほど真っ白になる」
「・・・・」
「冷え込んだ朝、海上には霧のように湧き立つけあらしが見れた」
「すごいな・・・見てみたい」
「日没は真っ赤だ。陽が暮れるまで野原を駈けずりまわってな」

室井の瞳が悪戯盛りだった少年期の頃のように光っていた。
田舎で育った自分自身を室井が久しぶり思い出しているのだと思った。
相槌を打つ青島に、室井は愛しいものを見るような目つきをする。

「やんちゃ坊主なんだ」
「夜は対称的に光さえなくなる。それが子供の頃恐かったんだが、でもな、朝になったら山の稜線から赤く染まって・・・それは凄絶なんだ」
「すごい!それで?」
「こんな話が楽しいか」
「楽しいよ、そりゃ」

想定通りの会話。スマートな話術。
青島の方がはしゃいでいるテンポで、口数の少ない室井も静かながら最低限の社交術で応対してくる。
スムーズなのに何処か悲しいのは何故だろう。
この胸に残る虚しさは。

「君はいつも楽しそうだ。笑っているから幸せなのだろうと、そう考えていた」
「・・・・」
「君が嬉しそうにしているのを見ているのが楽しい。我儘を言わせてみたくなる。もっと」
「それ、俺がとんでもない要求しはじめたらどーすんの」
「挑戦しがいがある」

どうしてだろう。これまでの室井との幾千もの時間が鮮やかに蘇る。

「今日さ、俺が映画もヤですって言ってたらどんなプランになってた?」
「今日は午後から国立でサッカーの親善試合がある。マイナーリーグだからまだチケットが余っていると聞いた。・・・興味無いか?」
「サッカー・・・!いいですね。ラグビーとかアメフトとか俺、生で観たことないよ。ある?」
「飛ばされていた時、チケットを譲って貰って」
「何その良い身分!」

粗方食べ終わったらボトルで酒を頼み、飲みの姿勢に入る。

「・・・この間のことを、謝らせてくれ。事を急ぎ過ぎた。君の気持ちも考えなかった。怯えさせてすまない」

そんな風に謝られたら、返って居心地が悪い。
女の子じゃないのに。
返盃する青島の澱みない言葉は掠れるように魂消える。

「やめてくださいよ、びっくりしたけど、今日楽しかったんだから。・・・忘れて良いですから」
「無理強いするつもりはなかったんだ。もっときちんと話し合うべきだった、その前の車でのこともだ。どうもおまえと絡むと俺は自制が飛ぶ・・・」

視線はかわさない。
グラスだけを見つめて青島は室井の息遣いだけを肌で感じ取る。

「どうして俺なのか、それだけ、聞いてもいいですか」
「――、それは、男だからという意味か?それとも」

じっと距離と沈黙を保てば、口が滑ったとばかりに言い訳がましかった口を室井が自分で閉ざす。
ゆるく首を振り、室井は薄い口唇を引き締めた。
カランと氷が鳴って、水たまりは頭上のライトを多重に映り込ませていた。

「これから上のポストに行くほど下世話な犯罪とは無関係になる。その意味する所は警察官であり続けられるかという資質を問われるのだと思う」
「・・・・」
「君と出会った時、真っ直ぐだった筈の何かが歪んでいることに気付いたんだ。それが悔しくてな。必死に抗ってもがいて。まるで少年期にあの野山を駆け回っ た時みたいだ」
「はは」
「君を知って、世界が自由に広がった。戦っていける」

仕事モードを匂わす男は、変わらず青島の胸を震わせ、言葉を選んで告げる室井の低い言葉は鼓膜を震わせた。
今日で一番近い距離にいると思った。
光る透明のグラスだけを見つめて繋げる言葉はまるでお別れの儀式のようだ。

「君以外の人間と、俺は恋など出来ないと思う」

そして平然と赤面するようなことを言う。

「楽しかったと君は言ったが――そうだな、確かに楽しかったな」

初めて会ったときから、孤高な人だった。
どうして俺なんかを選ぶんだろう。
これから始まる幾千の時間がきっと同じ共有を室井に齎して行くだろう。けれども室井の一歩はここから――青島から始まるのだ。

愛情や憧れがない混ぜになって、青島の心を締め付ける。

険しい眉間の表情はそれが怒っている訳ではないことをいつしか青島に伝えるようになっていた。
元々室井のことは嫌いではないのだ。

実学理論は背中合わせでも、行動原理や汎心論は野生的な本能の部分で盟友の素質があると嗅ぎ分けた。
経済原理に伴う哲学距離もまた不調和でなく、果ては同類社会でいずれ合間見えることを、きっとお互い悟っている。
恐らく室井の中では恋も情熱も同じ顔をしていて、何も変わっていないのだ。
それでも踏み出す現実に付随する責任から逃れられる訳じゃない。

俺はどうしたかったんだろう。このひとと、どうなっていれば――こんな夜を過ごさずに済んだのだろう。

もし、すみれが室井を好きだったら自分は応援できるだろうか。
室井を取られるのも、すみれを取られるのも、嫌だった。この曖昧で輪郭もぼやけたポジションもまた大切で、誰にも譲られたくないし、誰にも壊されたくな い。
大概自分も子供だ。

「俺もだよ」
「――そっか」

俯いていたせいで、前髪が表情を隠してくれた。
今日は特別に許される日だった。
正確には、後数時間程、特別な日のままだ。

―もしかしたら、コレが思い出に残るのかな。
室井と空を眺めたこと。
室井と恋人ごっこをしたこと。


そうして特別だった一日は終わるのだ。












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無邪気に懐いて妄想に浸っていたら告られちゃいましたな青島くん。デート以前にこの二人は意気投合しやすいので二人きりにしたら会話は弾むと思っている。