Heaven







「よう。整理はついたか」
 軽い口調に、顔を上げた。
 ドアベルも鳴らさずに、勝手に部屋に入ってくるのは、今やこの男だけだ。
 室井は腕まくりしていたセーターを戻しながら、ああ、と短く答えた。
 一倉は、すっかり片づいた居間のフローリングにあぐらをかいた。
「茶くらい出るだろ?」
「出るわけない」
 先ほど、業者がすべての荷物をトラックに詰めた。後は鞄一つになったこの状態で、よくそんなことが言えるものだ。
「北海道か…寒いだろうなぁ」
 顔を顰め、カーテンのない窓を見遣る。
「そうかな。秋田と似たようなものじゃないか」
 業者にふるまった缶コーヒーのあまりを渡しながら、一倉の隣にあぐらをかいた。
 プルトップを開け、一倉はにやりと笑った。
「蟹送ってくれ」
「お前は恩田すみれか」
「やっぱ言われたのか」
「内示が出たとたん電話がかかってきた」
「さすがすみれちゃんだ」
 ひひ、と品のない笑いを漏らす。…東京に戻って、いっそう立場を孤立させた室井を慰めるためだろう。一倉は、湾岸署の面々を呼んでは室井を交えて酒を飲 んだ。歯に衣着せぬものの言い方をするすみれは、すっかり一倉のお気に入りだ。
 …彼らと会うたび。
 青島を思い出す。
 そしてそのたびに、口には出さなくても、忘れずにいてもよいと伝えてくれる温かさに包まれる。でなければ…この半年、ふとした弾みに現れる緑色のコート の幻で気が狂ってしまったかもしれない。胸をかきむしりたくなるほどの苦しい思いで、つぶれていたかもしれない…。
「室井、これ」
 ぼんやりとしはじめた室井に、一倉が封筒を差し出した。
「なんだ」
「餞別」
「いらん」
 邪険に払おうとした腕を掴んで、一倉は封筒を握らせた。
「そう言うな。受け取れ。…ただし、開けるのはむこうについてからだ」
「…気味が悪いな」
「泣きながら俺に礼を言うだろうさ」
 顔を顰めながらも封筒を受け取った室井に、一倉は得意げに胸を張った。
「おまえがあっちに行っちまったら、つまんねえなあ。早く帰ってこい」
「さあ、どうだろうな…」
 3週間の「休暇」のつけの、北海道への異動。明らかな左遷だ。一度は捨てたつもりになった将来だから、これくらいはなんでもない。いつ戻れるかもわから ないが…どこで過ごしても、青島がいないのには変わりはない…。
「どこも、同じさ」
 …それでも、上に行かなければ。
 せめて、約束くらい守って…そうでなければ、未だ行方のわからない青島に、申し訳が立たなかった。
 あのときから…青島に置き去りにされたときから、十分整理はついたつもりだった。
 青島が、何を見つめていたのか。
 青島が、何故室井を置いて、姿を消したのか。
 …すべては、自分の愚かさが招いたことだ。
 青島が望んでいたのは、二人きりで生きていくことではなかったのだ。
 室井が上を目指し、青島が現場を走る。
 全く別の方向を向いているような二人の線が交わったときに、愛しあうようになった。…愛情だけがあったのではなかった。すべてを忘れて、二人だけで過ご したいなどと…逃げ以外の何者でもない。
 青島は、逃げたのではないのだ。室井の甘えを切り捨てて、室井を現実に立ち向かわせるために…姿を消した。すべては、この愚かな男のために。
 だとしたら…
「どこにいっても、やることは一つだ」
 そうだな、と、一倉が返した。
 やることは、たった一つなのだ。
 上に行く。行って、警察を変える。どれだけ回り道をしても、時間がかかっても、これだけは必ずやり通す。そして…胸を張って、青島を迎えてみせる。
 未だ疼き続ける胸の傷を癒しながら出した答えだ。
 すっきりとした顔を見遣り、一倉は、早く帰ってこい、ともう一度言った。








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