見てはいけないものを見てしまった。
横に立つ男を見上げ、嬉しそうに笑う彼女。
男も彼女と同じものを指さして、微笑み返す。
そして二人並んで、店に入っていく。
私は馬鹿みたいに立ちつくして、それを見送った。
ポケットの中には、彼女に似合うと思って買い求めたイヤリング。
鈍い痛みを訴える胸には、笑う彼女がいる幸せな思い出。
いつだって彼女に白旗を揚げ続ける私は、ただの愚かなピエロだったのだ…。
それでも私は、約束した喫茶店に来ていた。
今日の午後、彼女から電話をもらった。
「今日は早く、お仕事終わりますか?」
可愛らしい問いに、私の答えは素っ気なかっただろう。
「わからないな」
いつも、こうだ。
彼女に、どんな言葉を返して良いのかわからない。
彼女を軽んじているわけではないのだ。
この年にして、こんなにも離したくないと思った相手は、彼女だけだ。
明るい声や、表情がすぐに見て取れる瞳や、危なっかしい行動まで、すべてが可愛らしいと思う。あんなにもガードの堅い父上さえいなければ、すぐにかっさ らってしまうのにと、律儀に門限を守って彼女を家まで送るときにはいつも思う。
すべて、この性格がいけないのだ。
思ったことを、すぐに口に出すことができない。
彼女を愛おしいと思う思いはあふれるほどあるのに、言葉になって出てこない。
…こんな自分に、彼女が愛想を尽かすのも無理はない。
手を着けずに冷めかけたコーヒーに目を落とす。
素っ気ない「わからない」に、明るい声で「今日は絶対会いたいから、必ず来て下さいね」と言ってくれた彼女に背中を押されたように、今日は自分でも猛然 と仕事を片づけた。約束の時間に余裕を持って署を出て、顔を見るのは久しぶりの彼女にプレゼントを贈るために街に出た。満足して店を出て、そしてあのシー ンを見てしまった。
彼女の笑みを受けていたのは、青島俊作だ。
仕事の上では、扱いにくいことこの上ない男だ。
しかし、ひとたび仕事を離れれば、魅力的な男なのだろう。
会話も上手いし、顔もいい。背も高い。事実、彼女は青島にあこがれていると言っていた。
私なんかといるより、青島といた方が楽しいに決まっているのだ。
もしかして、彼女の「絶対会いたい」は、別れ話なのだろうか。
私よりも、青島の方が…。
いいに決まっている。
いつも思っていたじゃないか。
私は彼女に相応しくない。彼女が私を好きだと言ってくれるのは、なにかの間違いに違いない。彼女の心を奪う男が現れたなら、私など…。
自嘲しながら外を見ると、彼女が青島を伴って歩いてくるのが見えた。
やはり別れ話か、とため息をつく。
冷静に行こう。
私は彼女よりも、青島よりも年長者なのだから。
彼女を愛している気持ちに偽りはない。
それだけは誓って言える。
彼女を愛してるから、彼女の幸せを願うのだ。
しかし、そんな誓いは、店に入った彼女が私を見つけた表情を見たら、あっけなく崩れ去ってしまった。
「賢ちゃん!」
後ろから、どーもー、と片手をあげる青島など、私の視界には入ってこなかった。
花が咲くような、というのは彼女の笑顔を形容するためにあるのだろう。
「よかった、お仕事早く終わったのね!」
そういって、私の前の椅子に座る。
「あ、ああ…」
ああ、まただ。なんと言っていいのかわからない。
私が苦悩している間に、青島が私の隣に座る。
「ご一緒させてもらいまーす」
…こいつの笑顔は、「にやにや」だ。
「あのね、青島さんも待ち合わせなんですって」
待ち合わせ…?
と、隣を伺うと、青島は頭を掻いていた。
「や、夏美ちゃんがね、新城さんとここで会うって言うからね。俺もこっちに…あ、来た」
青島の視線につられて店のドアを見ると、不機嫌そうな見知った顔がこちらを見ていた。
「こっちっすよ、室井さん」
青島が手をあげて室井を呼ぶ。
「新城が、一緒なのか?…篠原くんも」
不審そうに言いながらも、夏美の隣にちゃっかりと座っている。
だんだん訳が分からなくなってきた。
夏美は、私との別れ話のために青島を連れてきたのではないのか…?
しかしそんな私に、夏美はにこやかに話しかけてくる。
「あのね、賢ちゃん。プレゼントがあるの。青島さんも、ね」
「ねー!」
…いい年した男が、首傾げて「ねー」とはなんだ…。
青島を冷ややかな視線で見ていたのだが、夏美がバックから取り出したものに目を奪われる。
夏美が、青島とともに入っていった店のロゴが入った、紙包み…。
「ハイ、俺からも、室井さんにね」
なに、と青島の手元を見ると、そこにも同じような紙包みがある。
「夏美、これは…?」
夏美は照れたように笑う。
「あのね、賢ちゃんデートのたびにプレゼントくれるでしょ?だから、たまにはね、私からもあげようと思って。でもね、私よくわからないから、青島さんにつ きあってもらっちゃったの」
ね、と青島に向かって小首を傾げる。
「そ。で、こっちはついで」
青島はぽい、と紙包みを室井に放り投げる。
ついでとはなんだ、と顔をしかめる室井に、青島は
「あんた、こういうとこまめじゃないからね。ちょっとは新城さん見習って下さいね」
と、室井を睨み付ける。
室井は苦笑して包みを受け取った。
「考慮しよう」
「是非」
室井はさっさと包みを開けて箱を開けた。
中に入っていたのは、シンプルなデザインのカフスボタン。
ちょいちょい、と腕を引かれて見ると、夏美が顔をのぞき込んでいた。
「あけないの?」
「あ、ああ」
言われて包みに手を伸ばす。
入っていたのは、やはりカフスボタンだった。
「室井さんとおそろいなんだよ」
と夏美は嬉しそうに言うが…
「嫌がらせです、いちお」
青島は室井の顔を見てにやつきながら言った。
…おそらく、私も室井と同じような顔をしているだろう。
店を出たところで青島たちと別れ、夏美と二人で歩き始めた。
まだ熱気を孕んだ夜の街は、華やかな人の群が行き来している。
その中をかき分けるように歩くのは私はあまり好きではないのだが、夏美はどこか楽しげだ。
「それでね、青島さんてやっぱセンスいいの。私なんて、どれがいいんだかさっぱりわかんないんだけど、すぐにアレ選んでくれて。きっと新城さんに似合う よって。けっこ、賢ちゃんのこと見てるのよ、青島さん」
…しかし、話が青島に向くのはどうにも気分が悪い。
やはり、一言言っておきたい。
「あのな、夏美」
「なあに?」
立ち止まって、私の顔をのぞき込んでくる、あどけない笑顔。
…これに、弱いんだ…。
「なんでもな…」
「ちゃんと言って?」
…この押しにも、弱いんだ…。
覚悟を決めて、すう、と息を吸った。
「…こんなことを言うと、君は私を器量の狭い男だと呆れるかもしれない」
「そんなこと絶対ないと思うんだけどな」
「…今日、君が青島と歩いているのを見たんだ」
「あら」
「正直に言う。…嫉妬したんだ。君に別れようと言われると思った」
「えー?」
「私はこの通りずっと年上で、若い君には不満がたくさんあるだろうと思っているし、上手い話し方もできない。君にいつ愛想を尽かされても仕方がないと思っ てる。きっと君は、私と別れて青島の方がいいんだと…」
「もう…」
てっきり夏美は呆れていると思った。
しかし夏美は、人通りの激しい道の真ん中で、私の首に抱きついた。
「な、夏美!」
「賢ちゃんたら、ばかなんだから」
「こら、人が見てるだろ」
「私はね、賢ちゃんが大好きなの。何度も言ってるでしょ?」
体を少し離して、夏美がまじめな顔で言う。
「青島さんもかっこいいけど。青島さんには、室井さんがちゃんといるでしょ。私もおんなじに、賢ちゃんが好き。賢ちゃんの方がステキ。…もっと言って欲し い?」
「いい。いいから夏美…」
あわてて言う私に満足したのか、夏美はにっこり笑ってようやく抱きついていた腕を離し、歩き始めた。
「あー、なんだか嬉しい!」
私もあわてて夏美の隣を歩き始める。
「…なにがだ」
こっちは恥ずかしくて仕方がない。
道の真ん中で包容しあっていたカップルがどんな眼で見られているか、夏美は気にしないのだろうか。
「賢ちゃんがやきもち焼いてくれて、とっても嬉しい!」
「…あんなのは、もうごめんだ」
「そう?」
あっけらかんという夏美が少々恨めしい。
こっちは、別れることまで覚悟したんだ。
「あのな、夏美」
「なーにー?」
「もう、男と一緒に街を歩くな。心臓に悪い」
「…了解!」
すこしおどけたように夏美は敬礼して見せた。
ああ、まったく。
君の言う通り、私はばかなのだろう。
こんなにも君が愛おしくてたまらないのに、どうして別れても仕方ないなんて思ったりしたのか。
離せるわけがないではないか、この娘を。
不意に夏美の手を握って歩き出した私を、すこし驚いたように見た夏美は、今日一番の笑顔を私に見せてくれた。