室井が湾岸署に来た。
なにか、書類を探しに来たようで、刑事課によってすぐに帰った。
管理官時代にはよくあったこんなことも、室井が参事官になってからは珍しいことで、青島は少し驚いた。
顔を合わせたのは、一瞬。
絡み合う視線が、声にならない会話を助けてくれる。
なんか、あったんすか?
なんでもない。
なんでもないって顔じゃないじゃんか。
いいから、仕事してろ。
一言も声を交わさぬまま、室井は青島の横を通り過ぎた。
そのとき、室井の黒いコートの袖から、不似合いなものがちらりと見えた。
…数珠?
青島が顔を上げたとき。
…室井はすでに、刑事課の扉をくぐっていた。
なんだったんだろう、あれ。
誰かの、お葬式とか、法事とか?
…でも、喪服じゃなかったし。
気になり始めると、どうにも思考が止められなくなってくる。
いらいらと時計を見上げる青島に、すみれがからかうような声をかけてきた。
「あおしま~、睨んでたって、時計は進まないぞ~?」
「…あ~のねえ、すみれさん!」
くるりと振り返ると、すみれが人差し指を眉間に当てて、にやにやしていた。
「コレ。来てたからって、不謹慎だぞ?」
「…そんなんじゃないよ…」
少なからず脱力してしまう。
まったくこのおねェさんは、自分をからかうことについては命を懸けているとしか思えない。
小さいことでもおおっきくして、青島と…それから室井をからかってくれる。
さすがに最近は室井をからかうことはやめたようだが、その分こちらにくるのだ。
「さ。お仕事お仕事」
わざとらしく腕をまくると、呆れたような声が追いかけてきた。
「あらら、珍しいこと」
「あのね…」
「ハイ、5時ジャスト」
「え?」
言われてつい時計を見る。
…たしかに、5時ジャスト。
「電話、しないの?」
「え?」
振り返ると、腕組みをしたすみれがにっこりと笑っていた。
「なんか、気になってたんでしょ?」
「…え?」
「気になることあるなら。動かないのは、青島くんじゃない」
そう言ったすみれの瞳は、笑ってはいなかった。
…ああ、まったく大したおねェさんだよ。
青島は苦笑を返した。
立ち上がって、コートを持って。
見上げるすみれに、こっそり言った。
「課長には、あと1時間くらいごまかしといてね?」
「明日のランチは、おごりよね?」
マカセナサイ、と懐をぽんと叩いて走り去る青島の背中に、コンビニ弁当じゃやーよ、とすみれの大声が追いかけてきた。
六本木に向かう電車の中で、流れていく景色をぼんやりと見ていた。
寡黙なあのひとは…ときに冷たい印象を接する人に与えてしまう。
きっと、言葉を選びすぎるのだろうと思う。
人によく思われたいから言葉を選ぶのではなく…どうしたら、自分の思いを正確に伝えられるのか、考えに考えてしまうのだ。
それだけ、胸の裡には熱くてたくさんの思いがある。
それに気づくことができるのは…あの人の、胸深く抱かれる者だけで、きっとこの東京には自分しかいないだろうと自負している。
今日のあのひとは、すこしだけ、いつもと違った。
腕に隠されるようにあった数珠だけでなく、雰囲気が、尖っていた。
きっと誰も気づかない、些細な変化が、このごろはわかる。
気になるなら…動かなくちゃ、俺じゃない。
すみれの言葉が背中を押す。
へんだと思ったら、聞かなくちゃ。
俺にだけは話してくれって、言わないと。
だって俺は…あの人を受け止めるって決めたんだから。
あのひとが、俺を受け止めてくれるように、暖かく、包み込む。
それが、俺にできること。
あのひとのために、できること。
…壮大な決心を抱えて、青島は、室井のもとに急ぐ。
「…なんだ、どうした」
「あんたこそ」
どうせ帰宅していないだろう恋人の家に先に押し掛けて、帰ってきたら驚かせてやろう、との青島の野望は、もろくもうち砕かれた。
こんな時間にこのひとが家にいるなんて、いつもだったら考えられないことだった。
目を丸くしながらも、まあ入れという室井の言葉に従って、リビングのソファに腰掛ける。
室井がいれてくれたコーヒーを受け取るとき、霜降りのトレーナーの袖から、やはりあの数珠が見えた。
「室井さん、これ…」
「ああ、これか?」
なんでもないことのように言って、床に座り込む。
「…一昨日、じいさんが死んでな。葬式にも行けないから、まあ、気休めだが」
「お祖父さんが、亡くなったんですか!?」
慌てて室井の正面に座り直す。
しかし室井はそんな青島の慌てぶりを気にもとめないで、コーヒーをすすった。
「まあな、90越えてたから、大往生だ」
「…って…」
なんでもないような振りして、そう言っているけれど。
でも…
「いいんですか?」
「なにが」
「葬式」
「行けるわけないだろ、明日も明後日も会議が入ってる。秋田まで行って帰って、日帰りなんてできるわけがない」
「でも」
「親父には不義理をすると言ってある。…もともと、勘当同然の身だ、あっちも気にしてない」
「…でも」
言い寄る青島に、室井は苦笑を返した。
「なんでお前がそんなに気にする」
「だってさ…」
抱き寄せる腕に逆らわず、室井の胸に顔を埋める。
「行きたい、って顔、してるよ…」
「してない。…お前が気にすることじゃないんだ」
「それって、俺には関係ないってことすか?」
上目遣いで睨みあげると、室井は困ったような顔をした。
「そうじゃない。…そうじゃなくて…」
そしてまた、言葉を選ぶ。
胸の中の整理のつかない感情を、ひとつひとつ選んで、ちゃんと伝わるように。
それが手に取るようにわかるから、青島は待つ。
…ちゃんと話して。俺は、全部受け止めるから。
やがて室井が、抱き寄せていた青島の体をひっくり返して、背中から抱きしめた。
「…なに」
「いいから」
背中から回した両腕が、青島の腰を抱いて、肩に顎を乗せてくる。
「くすぐったいよ」
「我慢しろ」
「なんだよ、もう…」
口ではそんな風に言いながらも、青島も室井も笑っている。
青島が背中を室井に預けてくると、室井は静かに話し出した。
「…じいさんはな、そりゃもううるさいじじいで」
「…へえ」
室井の腕を撫でながら、先を促す。
「俺はちびの頃からじいさんには叱りとばされてばかりだった」
「室井さんでも、叱られるんだ」
「とにかくうるさかったんだ。たまに遊びに行ってやると、柔道はうまくなったかってそればっかりだ。じいさんの家には小さい道場があって、そこに連れ込ま れては投げ飛ばされてた。小学生にも容赦しない、とんでもないじじいだった」
「へえ」
くすりと、笑いがこぼれる。
雄弁な室井。
じじいだなんて、珍しく乱暴な言葉を使う。
『とんでもない』などと言いながら、そのじいさんが好きでたまらなかったのだろう。
…そして、そのぶん、悲しみも…
「俺はちびの頃から、こんなでな。…お前もよく言うだろ、もっと話せって。嬉しかったら笑って見ろって。でも、じいさんは、言わなかった。自分でも、そん ながきはかわいくないと思うんだが、お年玉もらったってにこりともしないんだ。おやじもかあさんも、煙たがってた。けど、じいさんは、なんにも言わなかっ た。…きっと、似てたんだ」
「そっか…」
「ときどき、『お前はみどころがあるぞ』って頭を撫でてくれてな。とんでもないじじいだと思ってたが、でも、誉められると嬉しくなる。俺は、じいさんが誉 めてくれるから、それが嬉しくて柔道もがんばったし…じいさんの家にも遊びに行ってたんだと思う」
「おじいさんのこと、好きだったんだね」
「…そうなるかな」
照れ隠しか、抱き寄せる腕の力が強くなった。
「じいさんのことを思うと思い出すのは…ぼろのくせにいつもぴかぴかだった、畳だ。俺が掃除したんだ。…笑うな。掃除しないと、じいさんが殴るんだ。水が 冷たくたって、いつだって水拭きだ。じいさんは手伝いもしないで俺を見てる。仕方ないから、ぴかぴかにした。そうすると、いつもは笑ったりしないじいさん が、がんばったなって言う。…それから、夜だ。田舎のぼろ家だから、すきま風が入って寒いんだ。けど、冬は、雪が降る音がする気がした。じいさんと、ばあ ちゃんの間の布団で、真っ暗な障子の向こうで、雪が…なんて言ったらいいかな…音が、するんだ…」
室井は、遠くを見ていた。
リビングのカーテンの向こうに、遙か遠くの、雪国を見ていた。
暖かい布団、隣には静かな寝息。
息を詰めて、雪が降る音を聞く少年。
愛情にくるまれて、夜の向こうを見つめる…。
「…なんで、お前が泣くんだ」
室井が、青島の目元を拭った。
「泣いてなんかないよ」
「嘘つけ」
「泣いてないって」
俺は、泣いてない。
この涙は、室井のものだ。
頑固なこの男は、きっと子供の頃から頑固者で。
きっと周囲の理解など求められなくて。
…でも、そんなかわいげのない子供に、無骨な愛を注いでくれた存在が、今は亡く…。
大人になっても泣くことなど己に許しはしない頑固な男のために、この涙を流す。
ぴんと張った空気。
ひんやりした畳を裸足の足で確かめて、かかっていく。
何度投げ飛ばされてもかかっていくと、大好きなじいちゃんが笑ってくれる。
雪の音を確かめたくて、いつしか眠ってしまっても、朝になるとちゃんと布団がかかっている。
目をこすりながら起きあがると、聞こえたか、と低く秘密を聞き出すように尋ねてくる、暖かい声。
もうすべて、遠い過去に埋もれた…暖かい思い出。
「まったく、お前は訳がわからないな」
あやすように、腕をぽんと叩かれて、頬に口づけられる。
「じいさんは、わかってるからいいんだ。俺がこっちでがんばってる。ちゃんと知ってる。葬式なんかはいいってきっと言う。…だから、いいんだ」
頷いて、室井の手を握った。
「時間ができたら、お墓参り行きましょう。…俺も、連れてってくれますよね?」
「…田舎だぞ?」
「行きたい」
「すごいぼろ家だぞ」
「見たい」
「…きっともう来たくないって言うと思うぞ?」
「雪の降る音、聞いてみたいんです。…あんたと」
もういちど、室井が涙を拭ってくれた。
その手に導かれるまま顔を上げて、キスを受け止める。
亡くしてしまった思い出に、涙を流さないで泣くあなたを、受け止め、包み込む。
それが…俺だけが、あなたのために、できること…。
え~、根っから静岡県民の
朋、雪が降る音なんか、聞いたこともありません。っつーか、するの?(笑)
ですからこれはフィクションです。今更か。
ただ、雪(…静岡では、風花を雪だと言い張る:笑)が降るととっても嬉しいです…って、雪国の方が聞いたら怒るわね。
さあ、寒くなって参りました。雄弁な室井さんで、寒くなりましょう(笑)
…って、こんなこと書くから怒られるんだよ…←だったらヤメロ